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Y 絶望への決意

 ──ロザリオを返して欲しい。
 志摩子さんは確かにそう言った。焦りや苛立ち、悲しみなどは電話の向こうからは伝わって来ず、むしろ乃梨子の方が焦り、コードレスフォンの子機を落としそうになったくらいだ。
 何故? どうしてそんな重大かつ重篤なことを、明日の天気でも話すようにして言える? 
 志摩子さんは常に柔和で温厚な態度を崩さない人だが、こんな時にまで穏やかに話されると、聞いてるこちら側としてはむしろ薄気味悪い。確かに志摩子さんの口ぶりは落ち着いている。だがそれは、穏やかな水面のように見えるが恐らく酸の海なのだ。
 そう、柊先輩が言っていたではないか。ショックから抜け出しているように見えても、それは正しい藤堂志摩子ではない。だから甘やかしては駄目だと。ならばそれに迎合することは出来ない。
「ど、どうして? どうして急にそんな事を言うの? わけ分かんないよ!」
『落ち着いて、乃梨子』
 あんたに言われたくないよ、と乃梨子は率直に思った。
『……私、あれから考えたの。私はあなたの姉として相応しくないと。選挙に落選したということは、全校の生徒が私に対して不信任だということ。それは、私が自分自身の立場に甘え、戒めを怠ったということの結果だと思うの。そんな姉を持つことは、あなたにとってマイナスでしかないわ』
 志摩子さんは当然のように粛々と語るが、どうしてそのような結論を迎えてしまったのか、乃梨子としてはさっぱり理解不能だった。
 柊先輩は言っていた。お馴染みの顔ぶれよりも、新しい人物を迎え、風通しを良くするべきと考える者も、有権者たる一般生徒たちの中には存在するだろうと。加えて、松平瞳子は生徒会役員として相応しいと、そう考える生徒もまた、存在するだろう。そういった生徒たちに加え、藤堂志摩子が継続して役員を務めることを支持する大多数の生徒たちの中にも、”気まぐれ”で松平瞳子に一票を投じる者もいるのではないかと。つまり選挙とは、時の運にも大きく左右されるのだ。
 それらの要素の全てが、瞳子にとって有利に、そして志摩子さんにとって不利な方向に作用したと考えれば、今回の選挙の結果には納得できる。むしろそれ以外のどんな理由でも納得は出来ないと。
 当事者たる志摩子さんだって、落ち着いて考えれば分かるはずなのだ。なのにどうして、全校生徒が自分に対して不信任だなどど錯覚する?
「志摩子さん。そんなことないよ。全校生徒が志摩子さんに対して不信任だなんて、そんなことはありえない」
『ありがとう。でも結果としてあのようになったわ。信任か不信任か。私に下された判断は、不信任だったのだから。今更言い逃れは出来ないの』
「それは……」
 それは違う。違うよ志摩子さん。
 帰り道、バスの中で可南子さんに言われたことだ。簡単な二元論に陥ってはいけないと。可南子さんのお陰で乃梨子は早々にまやかしから醒めたが、志摩子さんの場合、選挙の結果というものがあるから始末が悪い。
 集計結果だけを見て判断すれば、確かにその通りだ。不信任という結果であるが、生徒たちに聞いて回れば瞭然のはずだ。藤堂志摩子は白薔薇さまという立場に相応しくないか、と質問し、イエスと答える生徒など恐らく一人として居ないということを。
 確かに志摩子さんは選挙に落選した。だが、それはそれだ。乃梨子との関係とは切り離して考えるのが当然だし……いや、違う。可南子さんならきっとこう言う。
 ”切り離す”のではなく、”そもそも離れているのだから、無理矢理くっつける必要はどこにもない”と!
「……」
 だが、言えなかった。そんなことは、直接の当事者には言えない。そんなこと言える奴は空気の読めない困った奴だ。
 可南子さんだって、乃梨子にだから言えたのだろう。志摩子さん相手には、例え機会があったって言えなかっただろう。それは乃梨子が直接の当事者ではないから。当事者でない人間ならば、襟首を掴んででも事態から一歩退かせて、少し離れた目線を持たせることも出来る。だが、当事者にそういう強引なことをしてはダメだ。だから、意を決して乃梨子は言った。
「……志摩子さん。明日遊びに行ってもいい?」
 甘やかすのは良くないと柊先輩は言った。それってきっと、こういう事だ。電話でなら幾らでも物を言えるだろう。だが面と向かって言えるものなら言ってみろと、そういう気持ちだ。甘やかさないというのは、きっとこういう事を言うんだ。
『……』
 志摩子さんは沈黙した。答えを決めかねているというより、決めることを恐れているという感じがした。
「私にとって志摩子さんは志摩子さんだよ。そして、志摩子さんにとって、私は私だよね」
『……ええ、そうね』
「でも、本当にそれだけなのかな? 違う。それだけだとは思わない。他にもきっと何か大切なことがあると思うんだ」
『……何が、あるというの?』
「分かんない。でもそれは、分からないんじゃなくて、きっと考えていなかっただけだと思う。そういう機会が無かったといえば無かったんだけど、それって凄く勿体無いことだよ。だからさ、先ずは一緒に考えてみようよ。姉妹を解消するしないを考える前に、私たちが考えること、沢山あるよ。きっと」
 我ながら上手く話せたと自負するが、今度こそ過信でないと実感できる。間違いなく志摩子さんの心の奥底にあるものを揺り動かせたという手ごたえがあった。
 志摩子さんが、あれから一人でずっと考えていたのだとすれば、視野の狭い考えに陥ってしまうのも納得できる。実際乃梨子だってそうだったのだから。けれど偶然にも柊先輩と話す機会を得、そして可南子さんとも話すことが出来た。彼女等に救ってもらえたのだ。だから今度は乃梨子が志摩子さんを救う番だ。
 長い、長い沈黙があった。ゆっくりと考え抜いているような気配が、電話越しにも伝わってきた。志摩子さんは心の耳を乃梨子の話に傾けてくれた。なら大丈夫だ。立ち直るのを手助けするのは幾らでも出来るが、立ち直ることを決意するのは本人にしか出来ないのだから。
『……そんなこと言われるなんて、夢にも思わなかった』
「ごめん。でしゃばりだったかな」
『ううん、全然。夢から醒めたような気分よ』
 きっと志摩子さんは、”正しい藤堂志摩子”に戻ってくれた。落選のショックが薄れたわけではないだろうが、一度でもあるべき自分を思い出せたなら、きっと二度と忘れたりしない。
『……正直に話すわね。私、きっと誤魔化していたの。信任とか不信任とかにかこつけて、本当に自分が恐れていることから目を背けていた。いいえ、今、気付いたの』
「うん」
『私はね……私自身が怖いの。このままでは、いつかあなたを憎んでしまいそうな私自身が、たまらなく怖い……』
「……」
 志摩子さんはようやく語ってくれた。
 そして乃梨子は、ようやく藤堂志摩子という人間の深奥に触れることになったのだ──。


   ◇


 リリアン女学園の高等部に進学し、三度目の春を迎えた。
 今日は一学期の始業式。私はいつもと同じように、リリアン女学園の校門をくぐる。空気はまだ少し冷たいが、うららかな春の日差しがそれを忘れさせてくれる。少し緊張気味の面持ちで歩いていくのは、この春から高等部の一年生となった生徒たちだ。真新しい制服がまだ身体に馴染んでなくて、でもそれが逆に誇らしげで。ああいう時期が自分にもあったのだと淡いノスタルジィを感じるのは、上級生として特有のものだろう。
 そんな後輩の背を見守るにつれ、自分が何か大きな忘れ物をしているような錯覚に陥る。比較的ゆるやかなカリキュラムの組まれているリリアンでは、始業式の日に授業が行われたりはしない。鞄の中はペンケースなど最低限のものしか収められていないが、これといって何が必要という日でもない。
「……? 気のせいかしら」
 少し小首を傾げ、私は今日から新しく過ごすことになる教室、三年藤組の教室へと向かう。二年生から三年生に進級する際にクラス替えは行われない。新たな人間関係を築くことは大事だが、進路の問題に集中するのは同じくらい大事なことだからだ。
 だが私の足は、私の意志から離れたところで、三年藤組の教室とは別の場所を目指していた。始業式といえば大事な催しのひとつである。やるべきこと、やらなければならないことが沢山あるはずなのだ。それを思い出せないままに私は歩く。目的の定まらない足取りは、傍目に夢遊病者のように見えたかも知れない。
 私の名前は藤堂志摩子。リリアン女学園の三年生だ。一年生の頃に、佐藤聖という名の先輩からロザリオを頂き、私は佐藤聖の妹となった。そういう性格だからと割り切っていた私だが、それからの日々はこれまでにないほど忙しく、賑やかで、とても楽しいものだった。新たな友達や仲間を得、毎日を人並みに充実して過ごしていた。学校という場所を楽しいと思える感覚は、私にとってこれまでにない感情だった。
 だというのに、この胸のざわめきは何だろう。不安に感じることなど何一つ無いはずなのに……。
 私の足は、とある古びた建物を前にぴたりと止まった。無意識に求めた目的地がその場所なら、迷わず足を進めればいい。だが足を止めざるを得ない何かが、心臓が早鐘を打つように私を苛むのだ。
 わざわざ棒立ちで尽くすくらいなら早々に立ち去ればいい。なのに私の両足は、地面に釘で打ち付けられたみたいに動かない。
 そのとき、古びた建物の入り口の扉が開いた。そして中から出てきたのは、どうしようもなく見覚えのある顔ぶれだった。
 友達がいた。仲間がいた。後輩がいた。そして──妹がいた。
 最愛の妹は、左右に下げた縦のロールの髪形が特徴的な後輩と楽しげに話していたが、馬鹿みたいに立ち尽くす私の姿を認めると、ぱっと表情を輝かせて駆け寄ってきた。友達も仲間も、後輩も皆、笑顔だった。
 そして私は思い出す。あの和気藹々とした一団の中こそ私がいるべき場所であること。そして、今となってはいることが出来なくなってしまった、永遠に失ってしまった場所なのだと。
 ここは薔薇の館。あそこにいるのは山百合会と呼ばれる組織のメンバーたちだ。
 私は前年度中に行われた山百合会役員選挙で充分な票数を獲得することが出来ず、落選した。代わりに当選したのが、今さっきまで妹と楽しげに話していた後輩である。
 無邪気に駆け寄ってくる妹と、遠くで笑顔を浮かべる皆の姿を見るにつれ、胸に重苦しさがまとわりついてくるのを実感する。私はこうしてはなれた場所で立ち尽くすしか出来ないのに、どうして私の妹はあんなにも楽しそうなのだろう、と。
 戸惑いはやがて明確な苦痛となり、それに耐えようと気をしっかり持とうとするにつれ、どうしても押さえ込みたかった気持ちが、まるでこの時を待っていたかのように静かに目を覚ます。
 ──それは、憎しみだった。
 私を蹴落とした後輩が憎い。他人事のように笑う友人たちが憎い。そして、私の気持ちも知らずに、私の居るべき場所で楽しげに振る舞う妹が、憎い。
 頭を押さえ、必死にその呪詛じみた気持ちを振り払おうとするが、一度知ってしまった気持ちはべったりと張り付いたまま、離れようとしない。
「志摩子さん! 来てくれたんだ! 志摩子さんだったらいつだって大歓迎だよ!」
「……ええ。ありがとう、乃梨子」
 私はすさまじい忍耐で笑顔を浮かべ罪の無い妹に答えるが、おそらく今の私は蝋人形のような顔をしていることだろう。蝋人形は単なる人形だが、作り手が笑顔を与えたなら、同時に楽しさや嬉しさという感情も与えられた事になる。そして、その感情はいつまでも不変であり、人形の笑顔が崩れるまでは決して崩れないものだ。
 高等部を離れるまで、あと一年。私の笑顔はそれまで崩れずにいられるだろうか。一度覚えてしまった憎しみを抑えることが出来るだろうか。
 春の陽気はうららかで暖かかったが、私は氷の彫像のように動けなかった。
 
 
   ◇


 ……ぼんやりと自室の天井を見上げていた。
 ベッドに仰向けに寝転がったまま、何もする気が起きなかった。日記など、とうに書く気は失せていた。
 乃梨子はつい今しがた、志摩子さんと電話で話した事をずっと考えていた。
 志摩子さんは言った。いつか私は、あなたを憎んでしまうかも知れない、と。そんなばかなと一笑に伏したい気持ちはあったが、それこそ宙に浮いたような気休めで、まやかしでしかなかった。
 それはきっと、真実だ。誰かに対する好意や親近感はゆっくりと編み上げられていくものだが、それは憎しみもまた同じである。それが分かるからこそ、志摩子さんが語ったことが紛れも無い真実だと理解できるのだ。
 立場なんて関係ない。二人の気持ちさえあればいい。流行りの恋愛ものの映画に出てきそうなフレーズだが、そんなものは安っぽい綺麗事だ。立場の違いはそのまま思考の相違となり、立場の距離はそのまま二人の距離となる。
 一緒に薔薇の館に行くことが出来なくなる。一緒に帰ることが出来なくなる。学年が違うのだから、学校内で会える機会などそうそうなく、それこそ薔薇の館で顔を合わせるのが唯一にして無二の機会だったのだ。
 学園内で会えなければ会話も減り、学園外で会う約束を取り付けるのも難しくなる。
 やがて乃梨子にとっては、会わない事が当たり前のように感じるようになるだろう。苦しい日々だろうが、人間は苦しさには慣れるもの。だが志摩子さんが言うように、憎しみは徐々に根深く、そして色濃くなっていくものなのだ。十年後には笑い話になるかも知れないが、大切なのはこれからの一年間なのだから。
 天井を睨むのにも嫌気が差し、乃梨子は目を閉じた。すると瞼の裏側に、長く伸びた一本の道が浮かんでくる。しばらくその道を歩くと、道は途中で何本かに枝分かれしていた。乃梨子は足を止める。
 ある道の先には、瞳子がいた。彼女は乃梨子が来るのが遅いと怒っていた。ごめんごめんと謝ると、しぶしぶといった感じで瞳子は許してくれた。彼女とはこれから、薔薇の館の同輩として苦楽を共にしていくのだ。大切な何かを失ってしまった空虚な喪失感を胸に抱えながら。
 別の道の先には、志摩子さんがいた。彼女はいつだって優しく、慈しみを持って乃梨子に接してくれる。ゆりかごの中で眠るように穏やかな日々は心安らぐものだったが、私たちの関係は一体何なんだろう、彼女の優しさの正体は何なのだろうという、気が狂いそうな命題を片時も拭い去れない。
 またある道には、何と自分自身が待ち構えていた。様々な事に板挟みにあう乃梨子に対し、常に悪魔のように囁いてくる。お前は馬鹿だ。サーカスのピエロだと。自分自身を欺き続ける日々は、それだけで乃梨子の心も体もヤスリをかけたように削り取っていく極上の責め苦だった。
「……死にたい」
 乃梨子は目を開ける。いっそ目の前に死神でもいてくれればどれほど嬉しかっただろう。だが目を開けた先には見飽きた自室の天井しかなかった。
 これは悪夢だ。
 選ぶべき道にはもれなく絶望が付きまとう。断頭台を越えた先にあるものは電気椅子であり、更にその先には絞首場やガス室などが待ち受けているが、墓穴らしきものは見えない。そう、死ねないから絶望と言うのだ。
 明日になったら──そう、明日になったら私ははどうすれば良いのだろう。
 分からない。たった数時間先のことですら分からない。
 選び取らねばならない絶望は、刻一刻と迫ってくる。
 逃げるように私は目を閉じる。
 あとはただ、真っ暗闇に落ちていくように意識が遠のいていくばかりだった。





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