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X 希望への帰路

 選挙管理委員会が事務所として使用していたとある特別教室へ向かうと、例の負けん気の強い二年生の管理委員の生徒が一人で残っていた。おそらく彼女が管理委員の代表者なのだろう。
 特別教室内はきちんと整頓されており、分厚いファイルが何冊か収められた段ボールがひとつ、机の上に置いてあるだけだった。彼女たちの仕事は、今日をもって終わったのだ。
「……乃梨子さん。今日は大変だったわね」
 もっと険悪にされるとばかり踏んでいたが、その二年生の先輩の態度は、思った以上に好意的なものだった。もちろんその先輩とは初対面なのだが、心身ともに疲れきっている今、誰とでも事情を共有できるものならしたかった。正直に乃梨子は頷いた。
「正直だね。私も今日はちょっと疲れた。まさかああいう結果になるとは、思っていなかったから」
「みんな、そう思っているはずです。けれど……」
 乃梨子は机の上の段ボールを見やった。恐らく今回の選挙に関する資料が全て収められているのだろう。
「さっき山百合会の人たちが、全部ひっくり返して見て行ったよ。山百合会の人たちは凄いね。確認も、片付けの手際も冗談みたいに良かった。きっと毎日こういう仕事してるのよね」
「あはは……毎日そんなのばっかりです」
 柊と名乗る先輩は、妙なところで感心していて、少し可笑しかった。
「でも、結果は覆らなかった」
「そうですね……」
 結果は結果でしかないが、絶対に揺るがないのが結果だ。
「瞳子さんはとても熱心に選挙活動を行っていたわ。たった一人でね。誤解しないで聞いて欲しいのだけど、こういう立場さえなければ、私は手を貸していたかも知れない。それくらい熱心だった」
「ええ」
「純粋に彼女を支持する生徒はいたはず。彼女でなくとも、『新しい誰か』を支持する生徒もいたと思うし、気まぐれで彼女に投票した人も、たぶんいたと思うの。そして私も実は、瞳子さんに投票したわ」
 ごめんなさい、と先輩は付け加えた。
 管理委員の一人である彼女も、もちろん一票を持つ有権者である。乃梨子が志摩子さんに投票したことと、彼女が瞳子に投票したことの価値は同じだ。つまり、そういうことだと思う。
「いいえ、それは全然いいんです。すると、そういう人たちの票数が、たまたま偶然、最大値で安定したと」
「そうでなければ説明がつかないけど、実は私もああいう結果に対して、自分たちの作業に間違いがなかったかと自信の無い部分はあったし、どこかで何かの間違いがあることを期待していたの」
「そうなんですか? 紅薔薇さまと話していた時は、そんな風には見えませんでした」
「ごめんね。言われると言い返したくなる性分なの。それに仲間の手前、あそこで私が折れるわけにはいかなかったから。組織には面子というものもあるからね」
「面子って、そんなに重要ですか?」
「体裁の問題ね。選挙管理委員会が山百合会の傀儡だなんて思われるのは、あまり良い話ではないから。個人的にもね」
 柊先輩はそう言って微笑んだ。強い人だな、と乃梨子は思った。
 だが志摩子さんだって強い人のはずだ。それがああもあっさりと崩れてしまうのもだろうか。
「……柊先輩は、もし仮に選挙に参加し、そして自分が落選しちゃったらどう思います? 潔く身を引けますか?」
「志摩子さんの立場で考えるなら、ショックは大きいと思うわ。しかも新人に敗れたとあってはね。潔く身を引くしかないと理解していても、納得するためには暫くかかると思う」
「もし、その……もしですよ?」
「ええ」
 柊先輩はにこやかに付き合ってくれる。
「もし先輩が山百合会の薔薇さまだったとして、けれど選挙で落選してしまったとしたら……ああ先輩には妹さんもおられたとして、その妹が一緒になって山百合会を辞めるとか言い出したら……どうします?」
「ふふ。そうね、「そんな軟弱な妹に育てた覚えは無い」って叱るかしら」
「嬉しさは、ありませんか?」
「あるけど、でも惨めさの方が勝る。その時は嬉しくとも、徐々に後悔がつのるでしょうね。妹もそうだと思う」
 考えるべきは今のこと。そして今から繋がる先のこと。柊先輩はおそらく、自分が後悔しないよう、そして妹に後悔させないようにという基準で考えている。後悔は先に立たないものだから、今ひとときだけ嬉しくとも、将来的に”後悔しなかった自分と妹”の方がなにより大事だと教えてくれたのだ。
 そのとき、教室の扉が小さなノックと共に開かれた。先輩も乃梨子も返事をしていないのだが、まさか教室内で誰かが話し込んでいるとは想像しなかったのだろう。
「悠、選挙の件は……って、すまない。まだ取り込み中だったか」
「ごめん亜衣ちゃん。もう少し待ってて」
「図書室にいるよ」
「ごめんねー。後で呼びに行くよ」
「ゆっくりでいい」
 そんなやり取りの後、扉は閉められた。
「すいません長居してしまって。そろそろおいとまします」
「構わないよ。友達だから」
 とは言ってもらえたが、いつまでも好意に甘えているばかりではいけないし、薔薇の館に顔を出して、志摩子さんを迎えにも行かねばならない。乃梨子が席を立つと、先輩も段ボールを持って立ち上がった。
「あ、持ちます」
「何言ってるの。お客さんの手を煩わせたりしないよ」
 先輩はそう言って笑った。自分には薔薇の館での振る舞いが身に染み込んでいるようだ。
 二人で廊下に出て、先輩が教室の鍵を掛ける。今年の選挙は終わったのだ。先輩は段ボールを置いて、こんなことを切り出した。
「こういうの、老婆心って言うのかも知れないけど」
「なんでも教えてください」
「志摩子さんは、多分今でもまだショックから抜け出せてない。それは無理のない事なんだけど、もし仮に抜け出せてるように見えたとしても、それは正しい志摩子さんじゃないの」
 先輩の言わんとすることは分かるが、抜け出せてるように見えても、という所が奇妙に引っ掛かった。
「志摩子さんを気遣ってやれって事ですよね。それはもちろん」
「それもあるけど、今の彼女の言うことを何でも鵜呑みにするのは良くないよ。気遣うのと甘やかすのは違うから」
「……分かりました。肝に銘じます」
「うん。じゃあ、頑張ってね」
「はい。ありがとうございました」
 乃梨子はぺこりと頭を下げ、最後にごきげんようと挨拶を交わして柊先輩とは別れた。先輩は重そうな段ボールを両手で抱えて、どこかへ歩いていった。
「鵜呑みにしない、か」
 先輩の後ろ姿を見送りながら、そのフレーズが妙に頭から離れなかった。


   ◇


 すでに辺りは夕暮れを通り越し、宵闇に近く薄暗かった。
 乃梨子は急ぎ薔薇の館へ向かうと、誰の姿もなかった。気抜けしたように会議室で立ち尽くしていると、テーブルの上に一枚の書き置きを見つけた。非常に丁寧な達筆である。おそらく祥子さまのものだろう。

   遅くなったので私たちは帰宅します。
   志摩子もすでに帰宅した、とのことです。
   (保健医の先生より)

 乃梨子は何度も書き置きを読み返したが、それ以上の情報はどうしても読み取れない。志摩子さんがすでに帰宅した? 気がかりなのはその一点だ。確認するために保健室へと全力疾走する。保健室にはまだ明かりが点いており、保健医の先生も在室していた。
「あら二条さん。まだ残っていたの? 藤堂さんは随分前に帰ったわよ」
「ほ、本当ですか!?」
「本当よ」
 息も絶え絶えの乃梨子を見て、先生は少し可笑しげにした。
「てっきり二条さんと帰るのとばかり思っていたのだけど……」
「そのつもり、だったんですけど」
「約束していたの?」
「いえ……ちゃんとはしていませんでしたが」
「大丈夫? 少し疲れた顔をしているわ」
 大丈夫ですと答え、挨拶して乃梨子は保健室を出た。
 すでに校舎に人影はなく、ひっそりと乃梨子の足音が響くのみだ。どうしようかと悩むが、もはや今日はどうすることも出来そうに無い。とぼとぼと昇降口に行くと、そこで見知った人影を発見して乃梨子は駆け寄った。
「可南子さん!」
 そう呼びかけると、長身の人影が振り返った。ようやく見つけた”味方”だと安堵しつつ駆け寄ったが、味方は意外というかやはりというか、辛辣だった。
「あなたね。こんな日に呑気に何してたのよ」
「いやそれは、色々と」
 不本意ながらそうとしか言いようもなく。可南子さんは盛大に溜め息をついた。
「瞳子さんにも志摩子さまにも無視されるし、これは乃梨子さんに八つ当たりせよとの天啓かしらね」
「いやそれは勘弁……って、志摩子さんと会ったの? いつ!?」
「随分前よ」
 素っ気無くそう答えると、可南子さんは靴を履き替え、さっさと帰ろうとする。乃梨子も慌ててついていく。駅までの道のりは同じだ。何故か無言の可南子さんの隣を歩いていき、学園前のバス亭にたどり着く。時刻表を確認したが、バスが来るまでもう数分かかりそうである。こんな時間であるから、バス待ちの生徒は乃梨子たちしかいない。色々と相談したいところだが、どうもそういう雰囲気でもない。だが無言でいても焦燥がつのるばかりだ。思い切って乃梨子は聞いてみた。
「志摩子さん、大丈夫そうだった?」
 せめて何か答えてくれるだろうと期待していたが、返ってきたのは長身から下ろされる侮蔑の視線だった。
「なに、怒ってるの」
「別に。ただ口を開けば志摩子さん、志摩子さんのあなたに呆れただけ」
 少しカチンと来た。疲れている所為もあったのだろうが、何も知らないくせにという身勝手な気持ちばかりが先行した。
「それの何か問題があるの?」
「無いわ。でも疑問なのは、どうして志摩子さまを気遣う十分の一程度でも、瞳子さんを気遣ってやらないのかというところだけね」
「別に……気遣ってないわけじゃない」
 瞳子のことだって随分色々と考えた。その全てを可南子さんに伝えることは出来ないし、またしたくもない。それに、瞳子だって随分と悩んでいるのだろうが、それは自分だって同じだ。何もかもを気遣ってやる余裕の持ち合わせなんて、無いんだ。
「自分のしたことを考えればいいのよ。今日志摩子さまに乃梨子さんは何をしたの?」
「別に……結果発表に付き添って、保健室に連れて行って」
「じゃあ瞳子さんには何をしたの?」
「……」
 ぱっと思い浮かんだのは、黄昏時の赤く染まった教室。散らばった机。そして──泣きながら床に座り込む、瞳子の姿。
 思い出そうとすれば幾らでもありありとその光景を思い出せる。だというのに、志摩子さんのことを考えるとその光景はスイッチを切るようにぱっと消えてしまう。なんだ、これ……。
「バスが来たわ」
 可南子さんの声で我に帰った。さっさと乗り込んでしまう可南子さんを追いかけるようにバスに乗る。時間帯が遅いために空いている車内を、可南子さんはつかつかと歩き、最後尾の席に座った。乃梨子もそれに習う。
 バスが発進し、見慣れた風景が徐々に遠ざかっていくのをぼんやりと眺めながら、瞳子はあれからどうしたのだろう、と取りとめもなく考える。可南子さんは瞳子のことももっと気遣えと言った。よく考えたこともないが、そもそも気遣うとはどういう行為を言うのだろう……。
 結局、よく分からなかった。だから乃梨子は率直に気になったことを聞いてみた。
「可南子さん、瞳子に会ったんだ?」
 また怒られるだろうかと危惧したが、可南子さんは至って穏やかに答えてくれた。
「うん。部活終わってから教室に行ったらばったり会った。見ない振りの出来る状況でもなかったから、しょうがないから手伝ったけど」
「何を?」
「机を並べるのを」
「……」
 瞳子、お前って奴は……。制服を埃で乱し、目を赤く腫らした瞳子が、一人で机の並びを直している様を想像し、涙の出る思いだった。同時に自分のとんでもない愚かさにも気付かされる。
 本音だとか仮面だとか、そんなの関係なかった。ごめんと謝って一緒に机を直して、汚れた制服も綺麗に払ってやれば良かったんだ。プライドの高い瞳子はきっと初めは拒絶するだろうが、そうだ可南子さんが朝のホームルームの前に言っていたじゃないか。
 ──瞳子さんは、これから起こる事に対してあれこれ文句をつけることは多いけど、すでに起こってしまった事に対しては意外に寛容で、協力的よ──と。
 そう、それが松平瞳子なのだ。瞳子が誰かのほどこしを受けることを極端に嫌う性格だということを可南子さんは熟知していたが、乃梨子だって知らないわけじゃなかった。だが、手を差しのべられて嬉しく思わない人間など、この世に存在するだろうか?
 答えはノーだ、そんな奴はいない。瞳子だってもちろん例外じゃない。
 いつも仮面で素顔を覆っている瞳子は、仲違いをした相手に対して本音はどうあれ絶対に媚びたり弱みを見せたりはしない。あのあと乃梨子がのこのこと出向いたところで、きっと会話の一つも成立させないか、あるいは勝ち誇って見下したような態度を崩さないだろう。乃梨子はきっとそれを恐れていた。
 だが、それがどうした? それが松平瞳子じゃないか。今更何かを恐れる必要があっただろうか?
「何してるのって聞いても無視の一徹だったから、取り合えず机並べるのを手伝っただけよ。最後はごきげんようって言って勝手に帰ってったわ。制服埃だらけにしたまま」
 瞳子のことばかりがぐるぐると頭を巡る。彼女がいなければ今の乃梨子はなかった。志摩子さんと出会ったのは偶然だったが、山百合会という組織に身を寄せることになったのは偶然ではない。瞳子の力添えがあったからとも言えるのだ。それなのに……。
「ごめん。本当に」
「おいおい、私に謝ってどうするのよ。それとも本当に乃梨子さんが何かしたの?」
 可南子さんは目を丸くするが、さっき確かにこう言っていた。じゃあ瞳子さんには何をしたの? と。
「ああ、あれ?」
 さも可笑しげに可南子さんは笑った。
「選挙期間中の瞳子さんを快く思ってなかった人間は幾らでもいたわ。そういう連中に締め上げられでもしたか、或いはもしかして乃梨子さんと喧嘩でもしたか。漠然とそう思ってただけよ。だから適当に言ってみただけ」
 おいおいおーい、どこの名探偵だよこいつは!?
 驚き、そして盛大に脱力した。張り詰めた上にもつれていた糸が一気にほどけてしまったように気抜けする。バスの座席からずり落ちそうになったくらいだ。きっと今日は朝から緊張していた乃梨子だったが、ようやく緊張の二文字から解放された気分だった。
「ほんと、可南子さんがいてくれて助かったよ」
「あんまり甘えられても困るけどね」
 冗談めかして可南子さんの肩に寄りかかるが、諌める可南子さんもまんざらでもないみたいだった。
「……明日、瞳子に会ったらどうしよう」
「明日は日曜だけどね。まあそうね、月曜日かしら。乃梨子さんが瞳子さんに何をしたのか、詳しくは聞かないけど、乃梨子さんとしては正しいことをしたという自覚はある?」
「うん。全く無い」
「無いなら簡単よ。先ずは謝ればいいんだから。全てはそれからよ」
 先ずは謝る。たった数文字の日本語が、これほど胸に染み込んでくることも中々ない。
「瞳子、許してくれるかなぁ」
「許してもらえたらウルトララッキーね。でもそれはかなりの希望的観測よ」
「駄目だったらどうしよう」
「……あのね、少しくらい自分で考えなさいよ」
 可南子さんは呆れるが、一度人に頼ることを覚えると、自分の頭がなかなか働かなくなる。今の乃梨子はその見本だった。
「でもそうね。だったら、「一緒に山百合会を盛り上げよう」とでも誘ってみたら?」
「一緒に、山百合会を……」
「だってそうでしょ? 志摩子さまは確かに落選してしまったけど、乃梨子さんは山百合会に残るわけだから。だったら瞳子さんとはとても近い仲間になるわけだもの……まさか乃梨子さん?」
 山百合会に残りたくないわけじゃなかった。
 だが、山百合会を辞めたくないわけでもなかった。
 辞めるか、残るか。ここに至るまで棚上げにしていた問題であるが、乃梨子自身の生徒会役員としての任期が終わる二ヵ月後になれば、厭でも直面せねばならない問題だ。そして、今決められないことはおそらく、二ヶ月後にも決められない。ならば今、決めるしかないのだ。
「乃梨子さん」
「うん」
「もしかしてさ、山百合会を辞める辞めないの二元論で考えてたりしない?」
「うん。だって、そのどちらかしか無いじゃん」
 当たり前のようにそう答えると、可南子さんはさも困ったものだというように眉を押さえた。
「まあ気持ちは分かるけどね。それは正しくない考え方よ」
「なんで」
「だってそうでしょう。確かに辞めることに理由は必要だけど、それは”辞める”ということを選ぶか選ばないかという選択でしかないわ」
「別に同じじゃん。結局辞める辞めないの話なんだから」
「だから、辞めることに理由は必要だけど、辞めない事に理由は要らないの。辞めないことにそもそも理由はないんだから、辞める辞めないを天秤にかけるのはおかしいわ。色々あって惑わされているなら教えてあげる。乃梨子さんが山百合会に所属していることは当然のことで、正しいあるべき姿なの。誰にも文句を言われる筋合いの無い事なの。同時に、果たさなければならない義務や責任がある。乃梨子さんの立ち位置はそれよ。わかる?」
「……うん、分かる」
「そういう正しい立ち位置にいることを踏まえて、乃梨子さんは、志摩子さまのために山百合会を辞めることを選ぶか選ばないか、という自由はあるわ。私の言いたいこと、分かってくれる?」
 乃梨子は頷いた。ぼんやりとだが見えてくるものがあった。困難な事態の中を歩くすべすら知らなかった乃梨子に、可南子さんはその方法を教えてくれている。
 ふわふわと宙に浮きながら、立ち位置すら見極められずに悩むことに対して悩み、不安に対して不安を感じていた一時間前とは違い、両の足が地面にちゃんとついているような安心感があった。
「二元論や比較って、簡単だから疲れてるときはついやっちゃうのよね。私も経験あるもの。だから、先ず頭の中から安っぽい天秤を取り払って、そして目の前の悩むべき事柄をいろんな角度から検証して、それから悩むべきだと思うわ」
「すっごい時間かかりそうだね」
「かもね。でも、悩む段になれば、答えとそれに対する自分の行動はもう得てるも同然だから。気持ちは固まってるはずよ」
「うん。明日いろいろ考えてみる」
 志摩子さんに対しては、先ず気遣うこと。けれど過剰に甘やかさないこと。柊先輩が教えてくれたことだ。
 そして瞳子に対しては、先ず謝ること。可南子さんが教えてくれた。そして可南子さんは、これから先のことも教えてくれた。
 色々あって脳みそがウニになりそうな一日だったが、それだけのことを得られたなら充分すぎるとも言える収穫だった。
「……明日、会いに行ってみようかな」
 志摩子さんに? それとも瞳子に?
 いきなりの悩みどころだったが、可南子さんは見透かしたように笑った。
「羨ましい悩みね。迷ったら両方に会いに行けばいいじゃない」
「あ、そうか。凄いね可南子さん」
「何が凄いのか分からないけど。私はただ、あなたたちの味方だっていうだけよ。降りましょ」
 バスはいつの間にか、終点である駅前までたどり着いていた。


   ◇


 駅前で可南子さんと別れ、電車に乗り乃梨子は帰宅した。
 乃梨子の帰宅が遅いことを菫子さんは随分心配していたようだが、いつも以上に夕食をよく食べる乃梨子を見て、心配は杞憂だと理解してくれたようだ。
 夕食の後、直ぐにお風呂に入った。熱いお湯に耳まで浸かっていると、このまま何もかも溶けて無くなってしまいそうな感覚に襲われた。疲れているという自覚はあったが、自覚以上の疲労があったようだ。だが、自覚できる疲労はまだ良い。たくさん食べて熱い湯に浸かれば回復するのだから。忘れてはいけないのは、今この瞬間も、回復の見込めない疲労に苛まれている人がいるということだ。
「……自覚しろ」
 わざわざ呟いて湯船を出る。明日のことは明日のこと。しかし今日のことは今日のことだ。今日と言う日はまだ終わっていない。ほぼ眠るしか余地はないが、何か残すべきものがあるのではないか。
「……日記でも書くか?」
 三日坊主が目に浮かぶが、それならそれでいい。今日と言う日を忘れたくないだけなのだから。自室に戻り、新品の大学ノートの1ページ目を開いたまま、机に向かってぼんやりとしていると、電話が鳴った。菫子さんが直ぐに取ったらしく、コール音が直ぐに止んだが、それから少しして廊下から菫子さんに呼ばれた。
 ──志摩子さんからの電話だという。
 白紙の大学ノートを放り出して、乃梨子は電話の子機を受け取った。
 ひとつ深呼吸をして、乃梨子は口を開いた。
「もしもし。志摩子さん?」
『ごめんなさい。こんな夜分に。どうしても話したいことがあって』
「い、いいよいいよ。うん。どうしたの?」
『その……今日はごめんなさい。選挙の結果発表の後、私、乃梨子に随分酷いことを言ってしまったわ。本当に、ごめんなさい」
「ああ、うん。いやそれは大丈夫だよ。全然気にして無いから」
 志摩子さんを気遣ってのことではなく、それは乃梨子の本音だった。むしろあの程度で落ち着いてくれたことが嬉しかった。
『……姉として失格だと、とても恥ずかしかった。妹に当たるなんて』
「それも、大丈夫だよ。たくさん当たってくれていいよ」
『ありがとう、乃梨子』
「いやいや」
 それもまた偽らざるところだ。姉が妹を導く、というリリアンの風潮を、実は乃梨子はそれほど信じていない。むしろ助け合い補い合う関係なのだと解釈している。だから、こういう時に助け合わずに何が姉妹なのかという思いである。
『それでね、乃梨子。今日私、あれからずっと考えたのだけど』
「うん」
『ロザリオをね、返して欲しいの』
「うん……うん?」
 は?
 なんだって?
 今、電話口で志摩子さんは何と言った?
 古い型のコードレスフォンに致命的な故障が発生したか、あるいは疲れている乃梨子の耳が異常をきたしたのかと疑った。だから、そんなことはあるはずが無いと乃梨子は聞き返した。今、何と言ったのかと。
 志摩子さんは、嫌がらずにもう一度、今度は丁寧に、かつ分かりやすく答えてくれた。
 私たちの姉妹関係を解消しましょう、と──。





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