W 慟哭の黄昏

 恐らく疲れたことで落ち着いた志摩子さんを抱えるようにして、保健室へと連れて行った。つとめて人目を避けて保健室を目指したつもりだったが、誰かの目にはついただろう。出来ればこれ以上波風は立ってほしくない。
 速やかに保健室に到着し、在室していた保健医に極力事情を話さぬようにして、気分がすぐれないようだからと手当てを頼んだ。学園の保健室に鎮静剤などというものは無く、恐らくはビタミン剤か何かなんだろうが、保健医から処方された錠剤を飲み、志摩子さんはベッドに横になった。
 眠れるなら眠って欲しかったし、その間乃梨子は志摩子さんのもとを離れるつもりはなかったが、しばらく一人にして欲しいと懇願されてしまえば席を離れるしかない。私がついているからと保健医にもさとされ、乃梨子は志摩子さんを置いて保健室を後にした。
 しかし非の打ち所のない選挙の結果に落胆した面々の詰めているであろう薔薇の館にのこのこと出向く気にもなれず、結局乃梨子は一年椿組の教室へと戻り、自分の席でただぼんやりと頬杖をつき物思いにふけることしかする事がなかった。
 これからどうすればいいのだろう。
 志摩子さんは選挙に落選したが、今すぐに何かが変わるというわけではない。三学期いっぱいは白薔薇さまとして残された任期を過ごすのだ。志摩子さんとしては入り乱れる心境だろうが、選挙の如何は乃梨子との姉妹関係に何ら影響は及ぼさない。今までどおりに──いや、今まで以上に志摩子さんのそばで過ごすことを心がけ、励ましていくしかない。
 自分は白薔薇さまという肩書きに惹かれたのか? いや違う。藤堂志摩子という一人の人間にこそ惹かれたのだ。そして、それは何も乃梨子に限ったことではない。友人である祐巳さまや由乃さま、その他の人たちも同じはずだ。特に祐巳さまは肩書きで人を差別するような人か? それは断じて否だ。
 ならば何も変わることはない。いっそ乃梨子自身も山百合会を抜け出したって──。
「……焦りすぎだ」
 これから先のことは、これから考えていけばいい。
 志摩子さんと一緒に。
 取り合えず選挙管理委員会のところに顔を出して、迷惑を掛けてすまなかったと挨拶して──。
 薔薇の館に顔を出して、みんなに謝り、伝えるべきことを伝えて──。
 そして保健室にいる志摩子さんに会いに行こう──と。
 そんなことを考えながら席を立ち、教室から出ようとした時のことだ。
 無造作に引いた扉の向こうに、よく見知った顔を見つけ、乃梨子は立ち尽くしそして言葉を忘れた。
 知り合いだから遠慮や萎縮する必要はないのだが、その人物と顔を合わすことを全く想定していなかったため、取るべき行動、言うべき事が全く頭に浮かばなかったのだ。
 その人物も扉一枚開けた直後に出会い頭になるとは予想していなかったのか、驚いたように肩をひとつ震わせ、同時に左右の特徴的な縦ロールがぷるんと揺れた。
「あ」
「と、瞳子……」
 松平瞳子。
 同じ一年椿組のクラスメイトで、友人。そこまではいい。
「せ、選挙が」
 乃梨子はつい口走ってしまったが、その先を考えての言葉ではない。
「落ち着いて。選挙がどうかしたの?」
 今回の山百合会役員選挙に出馬し、予想外に多くの票数を集め、そして規定の三枠のひとつを勝ち取ったのが、この松平瞳子。恐らくリリアン女学園の歴史に残りそうなほどとてつもない偉業であるが、暴挙と偉業は紙一重だ。
 だというのに、どうして瞳子はこんなに落ち着いている?
 乃梨子の中に突如生まれたせめぎ合うような葛藤などどこ吹く風で、瞳子は小首をかしげてきょとんとしている。
 志摩子さんのことばかり考えていたのを恥じるつもりも、また間違っていたとも思わない。だが、瞳子がそれを全く考えずにこうして呑気にしている事もまた、間違ったことではない。
 なら私はどうすればいい。友人が偉業を成し遂げたことは素直に祝福してやりたいが、その気持ちにせめぐ別の気持ちが乃梨子の中に確かに、それ以上の明確さをもって根付いているのだ。
「私、選挙に勝った。それを乃梨子に報告しに来たの」
「うん……おめでとう、瞳子」
 そう言えたのはむしろ奇跡に近かった。自分の本音から何光年も離れた場所にある何かが自分にそう言わせたのだ。同じように今の乃梨子はもしかして笑っていたのかも知れない。さも友を祝福する理解あるような振りをして。
 だが、それが瞳子の中の何かを揺り動かしたのかも知れない。瞳子は大きな瞳を何度もぱちぱちと瞬かせると、なんと飛び込むようにして抱きついてきた。
「乃梨子!!」
「わッ」
 体格がほぼ同じくらいの相手に飛び込まれれば、それに抗うすべはない。二歩三歩と瞳子を受け止めたまま後退し、近くにあった机の上に上体を乗せるような格好になってようやく勢いが止まった。瞳子は乃梨子の胸の辺りに顔をうずめるようにしていた。
「……私、ずっと一人で頑張ってたの。選挙に勝って当選するために。誰の協力も必要なかった。どうしても私一人の力で成し遂げたかった」
「ど、どうしてさ」
「乃梨子に認めてもらいたかったから。山百合会の仲間として、一緒に肩を並べたかったから。友達なのに立場が違うのが厭だったから。だから、それだけを目標に一人で頑張ったの! 寂しかったし辛かった。乃梨子にもひどい事を言っちゃたけど、あなたの為なのにあなたの力は借りられないもの。それに力を貸してもらって落選したらみっともないし……。だから私、一人でがんばった」
 抱き付いてくる瞳子が冗談を言ってるようにはとても見えない。なにしろ選挙に出馬してそして当選したのだ。冗談であるはずがない。
 私のためだって?
 そんなのヘンだよ、瞳子!
 私はずっと瞳子のことを認めていたし、友達だと思っていた。瞳子が言うような立場の違いなんか気にしたこともないし、考えたこともなかった。
 ……だが、本当に気にしていなかったか? 山百合会に関わる話ではない。もっと以前の話、それこそ乃梨子がリリアン女学園の高等部に編入したばかりの頃の話だ。何故か矢鱈と親身に話しかけてくる瞳子のことをどう思っていただろうか。普通の公立校から編入してきた自分はいわゆる雑草のようなもので、リリアンに数多生息している箱庭育ちのお嬢様たちとは立場が違うと、頻繁に話しかけてくる松平瞳子という少女も所詮自分とは身分と立場の異なる人間なのだと、壁を作って接していた……はずだ。もう何年も昔のことのように感じるが、ほんの十ヶ月前のことだ。
 山百合会主催の一年生歓迎会を境にその認識は改められた。箱庭育ちのお嬢様と侮っていた自分の慢心は、痛快に裏切られた。
 志摩子さんからロザリオを貰ったのはそれから少し後のことだが、瞳子という人間の印象が少しずつ代わり始めたのは、その頃からだったように思う。親しくなるにつれて主観的な印象は変わっていくものだが、それだけだと言い切れる自信はない。
 乃梨子が山百合会の人間になったことが、瞳子に影響を及ぼしたのか? 確かに瞳子は、山百合会という組織に憧れている素振りを見せていた……いや違う。瞳子自身、それが素振りだと思い込んでいたとしたら? 
 良い友人だと思っていた。きっと瞳子もそう思ってくれていただろうが、瞳子にとっては恐らくそれだけではなかったのだ。
 唇がからからに乾いて何も言えない。瞳子が選挙に出たのが乃梨子のためだと言うなら、志摩子さんが落選したのは間接的に乃梨子が原因といえる。いや、ほぼ直接的だと言って良い。
 そんな、そんな馬鹿な!?
 愕然とする乃梨子の顎の下の方から、掠れたような声が聞こえてきて乃梨子は我に帰った。
「喜んで……くれないの?」
 三十センチ程離れた所に、信じられないものを見るように瞳を大きく見開いた瞳子の顔があった。
 表沙汰にしたくない事実のためなら嘘もつける。だが自分の驚きを隠すために嘘をつけるほど乃梨子は芸達者ではなかった。それで瞳子は全てを理解してしまったのだろう。乃梨子が彼女が思うほどに喜んでいるわけではないと。志摩子さんが落選したことを憂きこそすれ、瞳子が当選したことなど、全く気にも掛けていなかったということを。
 瞳子の表情が、驚きから絶望と失望、そして怒りから侮蔑の表情にまで変化していく様を、乃梨子はこの目ではっきりと目視した。
 まるで引き剥がすように瞳子は体をもぎ離した。同じくらいの身長のはずなのに、見下ろすように瞳子はこちらを睥睨する。さっきまでの素振りが飼い馴らされた躾の良い犬だとしたら、今の瞳子はまるで牙をむいた狼だった。孤独で、孤高。誰かが入り込む隙間などどこにも無いように見えた。
「そうね、乃梨子さんにはその程度がお似合いね」
「……なんだよ、それ」
 突きつけられたのは明確な敵意。乃梨子の中でも反骨心のようなものがちくりと刺激され、つい少し声を荒げてしまう。呼ばれた名が、”乃梨子”ではなく、”乃梨子さん”だったことは、後になって気付いたことだ。
「大好きなお姉さまにいつまでもべったりで気持ち悪いったらないわ。落選した白薔薇さまにくっついて貴女も山百合会辞めるつもりじゃないでしょうね? まあ別にそれでも構わないけど? だって来年度から私が白薔薇さまなんだもの。どうせなら白薔薇に名を連ねる人間を一新するのも悪くないわ」
「……」
 落ち着け、落ち着け。
 瞳子が白薔薇という名を引き合いに出すのは、その方が効果的だと分かってるからだ。自分に向けられる罵詈なら幾らでも耐えられるが、志摩子さんの名を出されれば平静でいられまいと知ってるから。だから、耐えるしかない。瞳子が一人でがんばって当選したのは紛れも無い事実なのだから、それを成し遂げた瞳子に罪は無い。むしろ大らかな気持ちで褒めてやるべきなのだ。
「まあでも、志摩子さまがどうしても山百合会に残りたいというなら考えてあげなくもないけど? その場合彼女は白薔薇のつぼみね。乃梨子さんはつぼみの妹ということになるわね」
「……」
「当然よね。なんてったって選挙に落選しちゃったんだから!」
「ッ!」
 落選、という二文字をことさら強調した瞳子の勝ち誇ったような顔がどうしても許せなく、これ以上瞳子に何かを喋らせたくない、と思った。気がつけば、掴みかかるようにして瞳子に詰め寄っていた。抱き付かれていた時の距離よりももっと近い、10センチくらいの鼻先に瞳子の顔があった。少し驚いたような瞳子だったが、それでも勝ち誇り、見下したような顔は変わらなかった。
「……殴りたければ殴れば? 蹴りたいなら蹴ればいい。どうぞお好きなように。何されたって私は平気。だって選挙の結果は絶対に覆らないもの!」
「黙れ!」
 瞳子の小柄な体をガムシャラに押しつける。背後に並んでいた机の幾つかを巻き込み、盛大な音を立てて瞳子は床に尻餅をつく格好になった。机がクッションになって勢いは弱められたはずだが、酷い仕打ちだと自分でも思う。しかし我慢できなかった。
 少しは瞳子だって痛かったはずだが、瞳子は相変わらず見下したような表情を崩さない。罪悪感は勿論あった。だが、掛けるべき言葉も、差し伸べるべき手も、全てを拒否するような瞳子の態度を目の前にし、それらは怒りと畏怖で塗りつぶされてしまう。
 結局その場にいることに耐えかね、逃げるように乃梨子は一年椿組の教室を後にした。床に座り込んだ瞳子を置き去りにして。
 だが、肩を怒らせて教室を出、一歩また一歩と教室から遠ざかるにつれ、胸が締め付けられるような焦燥に囚われる。
 瞳子をあのままにして良いのか?
 形はどうあれ、選挙に出馬してそして当選したのが瞳子なりの好意の表現なのだとすれば、乃梨子がしたことはそれを完全に拒否し、あまつさえ彼女を力任せに床に叩き伏せたことだけだ。あの教室で起きた事実はそれだけだ。
 気がつけば乃梨子は来た道を引き返していた。掛けるべき言葉の整理も済んでいないし、そもそも気持ちの整理も済んでいない。ただ、このままではいけないという気持ちだけが乃梨子の足を動かしていた。
 一年椿組の教室の扉は、先程乃梨子が飛び出したときと同じように、半開きのままにされている。その隙間から、教室内を静かに覗き見た。
 黄昏時の夕日に赤い空の色が、教室内を赤く照らし出している。机は先程のように乱雑のまま放置されており、その中心で彼女は──瞳子は、さっきと同じ格好で床に座り込んでいた。ただ一つ違うのは、その表情だけ。
「瞳子……」
 彼女は泣いていた。悔しげに、そして悲しげに顔を歪めたまま。硬く握り締めた拳が何度も力なく床を叩く音と、瞳子の洩らす嗚咽のような声が、静かに響いていた。
「なんでよ、乃梨子……」
 血を吐くようなその問いに答えられる者は乃梨子しかおらず、そしてすでに乃梨子は答えを提示してしまった。瞳子が当選したことを祝福することが出来ないと、態度で示してしまった。
 例えどれほど上辺で瞳子を気遣ってやったとしても、その答えはきっと揺るがない。どうしようもないほど揺るがないのだ。
 そして上辺だけの気遣いなど、瞳子は直ぐに見抜くだろう。彼女はそんな茶番に合わせてくれるかも知れ無いが、それは彼女の持つどんな仮面よりも怜悧で、そして冷酷な仮面であるはずだ。
 瞳子は仮面を上手に使いこなすだろう。さっきの勝ち誇り見下したような表情ですらひとつの仮面であるはずなのだから。
 だが、そんな関係には耐えられない。想像もしたくない。そんなのは真っ平だ。
 だから乃梨子は彼女のそばには寄ってやれず、たった壁一枚を隔てたところにいるしかない。廊下の壁に背をもたれ、瞳子と同じように床に崩れたまま。自分の口から出てくるのは、嗚咽のような謝罪の言葉だった。
「ごめん、瞳子。ごめんよ……」





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