V 惑乱の放課後

「……ふざけんじゃないわよ」
 投票結果の掲示を目前にし、全員が言葉を失った。その中で第一声をあげたのは、祐巳さまと共に当選を確定した、島津由乃さまだった。
 彼女の声は、選挙管理委員の生徒たちに向けられたものだ。
「おかしいじゃない。どうして今まで薔薇さまやってた人間が落選するのよ。どうせアンタたち、示し合わせて細工したんでしょ」
 由乃さまの怒気に血色を失っていた管理委員の生徒たちであるが、さすがにこれには反論した。
「そ、そんな! 不正などあるはずがありません!」
「山百合会の人間だって、言っていいことと悪いことがあります!」
「私が落ちないでどうして志摩子さんが落ちるのよ!? そんなことはね、ありえないのよっ」
「ありえなくても、現にそういう結果が出たんです!」
 彼女たちは彼女たちできっと、責任ある職務であると自覚して、高い意識を持って今回の選挙管理に携わったに違いない。なのにあからさまに不当な糾弾を受けては業腹だろう。彼女たちは口々に由乃さまを、ひいては山百合会を批難した。当然のリアクションだと思う。
「由乃、落ち着いて」
 今にも管理委員の生徒につかみかからんばかりの由乃さまを、彼女の姉である支倉令さまがおさえる。それで由乃さまの動きは抑えられたが、当然彼女の怒りや理不尽は収まっていない。
「……私も、納得できないな」
 ぼそりと呟いたのは、同じく当選を確定させた祐巳さまだ。
「祐巳さんまでそんな事を言うの? 私たちが職務を怠ったと? あまつさえ組織ぐるみで不正を行ったと?」
 面と向かって祐巳さまに反論するのは、二年生の選挙管理委員だ。しかし祐巳さまは奇妙に怜悧な口調で、あくまでも静かに自分の意見を述べる。
「そこまでは言わないけど、私は納得していない。だから『納得のいく説明』が欲しいだけ。その説明に納得が出来なければ、あるいは説明がもらえないんだったら、その上で、選挙管理委員会の作業方法や活動体制を批判することも、あるかも知れない」
「あいにく。選挙の管理と遂行は、私たち選挙管理委員会に一任されているわ。あなたたち立候補者に渡した説明書きにも、それは明記してあるの。立候補届けに自分の名を書くことは、つまりその説明に同意するのと同義だ、という説明もしたはずよね?」
「なにそれ、詐欺みたい」
「なんですって?」
 祐巳さまと二年生の管理委員との間で空気が張り詰める。
「祐巳、落ち着きなさい」
「お姉さま。しかし」
 祐巳さまと管理委員の二年生の間を割るような形で仲裁に入ったのは、しばらくは傍観を決め込んでいた、祐巳さまの姉である小笠原祥子さまだ。
「選挙の結果に対して『納得のいく説明』を求めるのはおかしいわ。1プラス1の解が2であることに納得のいく説明は要らない」
「……」
 祐巳さまは黙り込んだ。彼女だってそれを承知のうえで、敢えて結果に抗ったのだ。
 祥子さまは今度は、二年生の選挙管理委員の生徒に諭すように言う。
「あなたたちを疑うわけでは決してないわ。だから私は、あるべき権利を行使させてもらいたいだけ」
「なんでしょうか」
「求めるのは情報の開示。生徒手帳の選挙の項目にも書いてあるわね。選挙管理委員会は、選挙にまつわる情報の開示には、個人のプライバシーに関わるものを除き、すみやかに応じなければならない、と」
「票数の内わけですか? それだけなら今すぐにでもお教えいたしますが」
「今すぐここでじゃなくていいわ。それに、知りたいのは票数だけではなく、集計の上で発生した書類や、学年ごとの累計など、持ちうる限りすべてのものね。逆に、総計に至るまでに本来あるべきデータが一部でも欠けていたりした場合、山百合会は今回の選挙の正確性と正当性に疑問があると判断するわ」
「……わかりました。情報の開示は管理委員会の義務ですから。でも、不自然なところは何一つないと断言しておきます。選挙管理委員会と、がんばって集計作業をしてくれた管理委員の皆の名誉のために」
 二年生の選挙管理委員の生徒も、祥子さまの正当な主張に対し、覚悟を決めたようだ。
 それにしてもこの名前の知らぬ二年生、紅薔薇さまと紅薔薇のつぼみを前にして、一歩も引かないとは大したものだ。
 投票に関する書類などは、この時期だけ管理委員会の本部として使用される特別実習室にあるが、閲覧には管理委員の立会いが必要だという。
 なので今から、管理委員の数名を伴って確認に行こうと、そういう話になったようだ。
「さっきは妹が悪かったね。怖かったでしょ」
「す、少しだけ」
 少し離れたところで、令さまが一年生の選挙管理委員の生徒と話していた。先ほど由乃さまに随分なことを言われてしまった子だ。彼女には何の非もなく、ただ由乃さまの傍にいたことが運の尽きだっただけだ。
 令さまとその一年生ではかなりの身長差がある。令さまはわざわざしゃがんで、その生徒と目線を合わせる。
「選挙管理委員の仕事は大変だったかい?」
 子供をあやすように令さまが言うと、一年生の子は小さく頷いた。
「……すごく大変でした。でも私は、私たちは手を抜いたりなんて!」
「大丈夫、分かってるよ。君は正しい仕事をちゃんとしてくれたんだろう? だから、胸を張っていればいいんだ。正しいことをしたという自信があるなら、誰に何を言われたって、恐れる必要はないんだから」
「令さま……はい」
 一年生の生徒は、令さまに頭をぽんぽんと撫でられて、ようやく落ち着いたようだ。その光景は、べそをかいた妹をあやしている兄貴、という構図を連想させる。
 一連のやり取りのひとしきりを、ただ眺めていただけの乃梨子だったが、今の自分がすべきこと、そしてしたい事は、事後の段取りのあれこれを話し合うことではない。
「志摩子さん、大丈夫……志摩子さん?」
 ほとんど密着していた志摩子さんは、結果の張り出しからずっと、何の反応も示してくれない。
「……ええ、大丈夫よ。そうね、私も票数の確認はしたいわ」
 志摩子さんはそう言うが、とても大丈夫そうには見えない。もともと抜けるように白い肌が、今では後ろが透き通って見えるくらいに色を失っている。
 少し、厭な予感がした。周囲が騒がしい場所にいるべきではないと思った。
 由乃さまと祐巳さまは、この選挙に問題があったのではないかとストレートに管理委員会にぶつけた。
 祥子さまは、それだけでは通らなかった由乃さまと祐巳さまの気持ちを、きちんと整然とした理論で通してくれた。
 そして令さまは、管理委員会の方へのフォローをして、無茶な要求を通す山百合会というイメージを和らげてくれた。
 それらはすべて、志摩子さんのことを思っての行為だ。
 だが、逆転の可能性などないのだと、乃梨子は心のどこかで理解し、納得していた。これ以上は恐らく悪あがきだと。
 他のどんな事であろうと、叶わない悪あがきをするのは嫌いじゃない。その結果、やっぱり駄目だったねと目的を同じくする者と分かち合うのもいい思い出になるだろう。
 だが、今回の件に関しては、足掻けば足掻くほど志摩子さんの傷を広げるだけだ。
「すいません。お姉さまは気分がすぐれないようなので、少し失礼します。私、付き添って行きますから」
「ちょっと、乃梨子」
 誰に向けて言うというわけでもなかったが、誰の返事も待たずに、乃梨子は志摩子さんの腕を引っ張って、この場を離れることにした。
 後ろで口々に何かを言う声が聞こえたが、それらの全てを無視した。管理委員会に対して、食い下がろうと思えば幾らでも食い下がれるだろうが、今の志摩子さんに必要なのはそういう事ではない。とにかく今は、静かな場所へ。


   ◇


「乃梨子、そろそろ離して。少し痛いわ」
「あ、ごめん」
 言われて乃梨子は腕を離したが、言われなければずっと離すつもりは無かった。
 ひたすらに静かな場所を目指して歩いた先は、銀杏の中の一本の桜。今日としては三度目の場所である。ひとけのないこの場所で、乃梨子は言わねばならない。他の誰かに任せるわけにはいかない。
「選挙、落ちちゃったね」
「そうね……だから、皆と一緒に、確認に行かないと」
「志摩子さんも、あの張り紙だけじゃ納得できない? 祐巳さまと由乃さまみたいに」
「それは」
 志摩子さんは言いよどむ。日頃は物分りの良い人なのだから、定められた発表の方法にケチをつけたりはしない。周りの面々が勝手に盛り上がっていたからこそ、志摩子さんも「そうしなければならない」と思い込んでしまっただけだ。
 だから、志摩子さんは選挙管理委員会に不満を覚えていない。
 しかし、自身の落選も信じることが出来ないでいる、という矛盾。
「納得は、出来るわ。管理委員会に不手際があったとは、思わない」
「うん。残念だけどね」
 少しずつではあるが、志摩子さんの目に現実味が戻り始めていた。少しずつ矛盾を解消していけば、すぐに回復していく。
「でも、私と志摩子さんは変わらないよ。私はずっと、志摩子さんの妹だから」
「そう。ありがとう乃梨子」
「どういたしまして」
 このまま穏やかに落選という事実に慣れていってもらえば大丈夫。志摩子さんは強い人なのだから大丈夫、と考えていた。
「規約では確か、生徒会役員の任期は一年単位よね。私は落選したけど、あと二ヶ月は山百合会にいてもいいという事かしら」
「うん。でも志摩子さんだったら、いつでも薔薇の館に遊びに来てくれたって構わないよ。親しい人を呼ぶことに任期なんか関係ないもの」
「山百合会の仕事は? させてはもらえないのかしら?」
「いや、大丈夫だよ。部外者の可南子さんが手伝ってくれてた頃もあったし。あ、でも皆の許可もらわないと。でもきっと大丈夫。皆が許可しないわけないから」
「そう……私は部外者だものね」
「うん、ごめん」
「乃梨子が謝ることではないわ」
 落ち着いた会話が交わされているようにも感じるが、乃梨子の頭の中では警報が鳴り響いていた。口調がつとめて自然だからこそ、逆に後ろに恐ろしいものが控えているように錯覚する。
 いっその事、今から集計結果の確認作業に参加してくるかとも考えたが、いまいち手ごたえを感じないものになりそうでならない。
 集計データに手落ちがないことを確認されたなら、志摩子さんはきっとすみやかに引き下がるに違いない。それは拍子抜けするような茶番劇だ。必要な行為であるとは思えない。
 だが、ここに留まることに対して、何故か警報が鳴る。一体何のための警報だ。
「……」
「ねえ、乃梨子。私には何が足りなかったのかしら。祐巳さんや由乃さんに比べて、何かが足りなかったのだと思うけど、分からないの……乃梨子?」
「……志摩子さん。あのね」
「答えて乃梨子!」
 ようやく乃梨子は警報の意味と自分の愚かさ、浅はかさに気付いた。落選した志摩子さんにとって根本的な問題を考慮していなかった。いやむしろ目を背けていたと言っていい。
 結局乃梨子にも覚悟が足りなかったのだ。現象には原因がある。目の前の現象のみを提示して志摩子さんに納得してもらおうという、そういう考えが甘く、浅はかだったのだ。本人の気持ちになってみれば、遅かれ早かれ原因にたどり着くのは予想できたことなのに、その原因から乃梨子すら眼を背けていた。
 だが乃梨子の役目は志摩子さんを安心させ落ち着かせることだ。万に一つの逆転劇は頼もしい仲間たちに任せておけばいい。そのためには、先ず自分が落ち着くことだ。安易に切れては駄目だ。志摩子さんに合わせていたずらに逆らわぬように、しかし伝えるべきことは伝える。第一に考えるべきは、志摩子さんのこと。
「原因はあるのかも知れないけど、わからないよ。だからそれは、ゆっくり一緒に考えようよ」
「……」
「約束したよね。志摩子さんの傍にくっついて離れないって。だから安心して」
 我ながら上手にものを言えたと思った。しかし志摩子さんは目を細め、疑念のまなざしを向けてくる。
「知ってたのね、乃梨子は。知っていて隠していたのね」
「なにをさ」
「結果発表の前に言っていたじゃない。自信はあるのかとか、もし落選したらどうするのかとか。私が落ちるかもしれないって、知っていたんでしょ!」
「そんなの! 落ちるかも知れないのは祐巳さまだって由乃さまだって同じことだし……」
「だったらどうして隠していたの!? 教えてくれても良かったじゃない。隠しておいて私がショックを受けるのを楽しみにしてたのね!?」
「そんなこと……」
 あるはずがない。誰がそんな陰険なことを考えるものか。そう声を荒げそうになったが、自分が切れても何も解決しないのだ。落ち着け。クールになれ。そう自分に言い聞かせて一歩を踏み出した時だ。
「志摩子さん、あのさ」
「来ないで!」
 金を切るような声を挙げ、志摩子さんは強い力で押されたように二歩、三歩と後ずさった。背後には一本だけの銀杏の中の桜の木があった。制服が汚れるのにも関わらず、志摩子さんはもたれかかるように桜の木の幹にその身を預ける。顔色は蒼白で、目の焦点もろくに定まっていないように見える志摩子さんは、小さくうめいて両手で胸を押さえた。
 乃梨子に背を向け、うなだれて片腕を木の幹に添えるようにし、もう片手で胸を押さえ苦しげに呼吸を繰り返す。気持ちが悪いのかと背中をさすろうととして手を伸ばす。だが返ってきたのは力ない拒絶だった。
「触らない、で……」
 苦しげに上下する肩を、ただぼんやりと馬鹿みたいに眺めていることしか出来ない。理不尽な仕打ちに苛まれる姉の姿に目を背けたくなる思いだったが、決して理不尽なものではないという事も自覚しなければならない。当選枠が三枠の選挙に四人が名乗りを上げれば、誰が何をどうしようと一人は落選する羽目になるのだ。全校の生徒たちが、いや恐らく立候補者である当事者たちの誰もが──おそらく瞳子すらも志摩子さんが落選することは予想していなかっただろうが、そういう可能性がゼロであるという保障など、マリア様が与えてくれるはずもないのだから、あるべき可能性が実現したと自覚する必要がある。
 だがそれでも、理不尽だと全てを恨み呪いたくなる気持ちに嘘はつけない。志摩子さんも、そして乃梨子自身も。
「どうして、私だけが……」
 吐き出すような志摩子さんの呟きに、乃梨子は何も答えられなかった。





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