U 銀杏の中の……

 その日の授業は一時限目からいつもと変わりなく進行した。
 通常、生徒会役員選挙といえば少なからず生徒の興味を引きそうだが、結果が見えていればレースの興は削がれる。リリアン女学園の場合は、特にその傾向が顕著である。
 学園祭やバレンタインデーのような盛り上がりは望むべくもないが、学園新聞であるリリアンかわら版の一面を飾るには充分、という程度の注目度だ。
 三時間の授業はいつも通りに終了し、今ではクラスメイトたちは選挙管理委員の人間がやってくるのを、気ままに雑談をしながら待っているような状況だ。そんな中、誰とも喋らずにただ窓の外を詰まらなそうに眺めている少女が一人いる。瞳子だ。
 数日前に演説会を済ませ、人事を尽くしたうえで天命を待つ。あるいはそんな風にも見えるのかも知れない。
 やがて一年椿組担当の選挙管理委員会の生徒がやって来て、雑談にざわついていた教室内は静かになった。管理委員の生徒は、これから投票が行われる旨と、それに関する詳細の説明を始めたが、それほど緊張した空気というほどでもなく、むしろ平時のホームルームと何も変わるところはない。
 何故なら椿組にやってきた管理委員の生徒は、同じ椿組の生徒である敦子さんだからだ。控え目だが人当たりの良い人なので、緊張した雰囲気になろうはずもない。
 後ろの人に回してください、と言い敦子さんが投票用紙を列ごとに配布する。いくら思案に暮れようと、乃梨子がこの紙に記入する名は決まっているし、瞳子が記入する名もまた、決まっている。
 チャチな紙切れ一枚であるはずの投票用紙に、現実を見ろよと諭されているような気がした。
「ありがとうございました。集計した結果は、本日の二時頃に講堂の掲示板に張り出される予定です」
 投票用紙を回収した敦子さんは、そう言って教室を出て行った。これから選挙管理委員会の生徒たちが、集まった投票用紙をもとに、不乱に集計作業を進めるのだ。
 投票は生徒の義務であるが、結果発表を見るところまではそれに含まれない。後日、正式に山百合会の方から発表するのだから、無理に今日の二時からの掲示を待たなくても、結果を知るのは後日でも構わないと考える生徒もいるが、どちらかというと少数派だ。
 発表の時間までまだ間があるため、生徒たちの行動は三々五々だ。部活動を行っている者は部室へ、そうでない者は教室で同じ立場のものとのお喋りで時間を潰したり、あるいは参考書を広げる者もいる。
 投票が終わるとさっさとどこかへ消えてしまった瞳子の姿はすでにない。
 同じように可南子さんの姿も見えないが、こちらは朝のホームルーム前に言っていた、例の残念会とやらの準備に余念がないのだろう。
 そういうわけで手持ち無沙汰気味の乃梨子だったが、帰宅するという選択肢はもちろんない。
「お昼……食べようかな」
 数人で机をくっつけて弁当を広げているグループを見て、自分も昼食を摂らなくてはと思い当たる。
「乃梨子さんは、薔薇の館でお昼かしら?」
「あ、うん。そう」
 とあるクラスメイトの一言で、そんな当たり前のことをようやく思い出す。しかし今日はうまく頭が回らないな、と乃梨子はこめかみを人差し指でこんこんと叩く。壊れかけのテレビではないのだから、それで調子が戻ったりは勿論しないのだが。
 自分でもわかっている。期待している事や、逆に不安に感じている事などが先に控えていると、思考がその事に囚われてしまう。まさに今日はそれなのだと。
 せめて志摩子さんの前ではマトモでいなくちゃ、と頭を軽く振りつつ、乃梨子は一年椿組の教室を後にした。


   ◇


 薔薇の館で山百合会メンバー全員の揃った昼食の時間を終わったのは、一時の少し前。発表は皆で見に行こうという話になったのだが、何だかんだで未だ一時間程度の間があった。
 仕事をするという気分にもなれないし、各々で時間まで好きなように過ごそうと決まり、乃梨子は志摩子さんと連れ立って、気ままに校内の散歩などしていた。
「さっきの祐巳さま、凄かったね」
 姉である志摩子さんの友人にして、山百合会での先輩でもある福沢祐巳さまの、お昼の弁当の食べっぷりに関して、志摩子さんと語り合ってみたかった。
 その光景を思い出したのか、志摩子さんは思い出し笑いのように、柔和に相貌を崩す。
「よほど、お腹が空いていたのかしらね」
 冗談めかして志摩子さんが言う。
 祐巳さまの威勢のいい食べっぷりに触発されて、皆が皆、非常に気持ちのいい食べっぷりを披露するに至った、という奇異の現象である。
「でも、ここ一番で堂々と出来るのって、凄いなって思う」
 逆に平時は抜けている事もあるという意味も含まれるが、それが彼女が他者を惹きつける所以なのかも知れない。
「祐巳さんは祐巳さんで緊張していたのでしょうけど……あれが彼女なりの『緊張の仕方』なのかも知れないわ」
「緊張すると開き直る?」
「ええ、そうとも言えるわね」
 乃梨子の目には祐巳さまは全く緊張しているように見えなかったのだが、彼女と付き合いの長い志摩子さんにはまた違って見えるのだろう。
 あてもなく二人で歩いていると、いつの間にやらマリア像の前まで来ていた。今日という日に注目を浴びる場所でもないので、生徒の姿も見えず、しんとしている。
 志摩子さんと交わした会話は、祐巳さまの弁当にまつわる話から、食欲の話など取りとめのないものばかりだったが、いつもより少しだけ志摩子さんは多弁だった。それが志摩子さんなりの『緊張の仕方』なのかも知れない。
 緊張している……何に対して?
 それは口に出してはいけない事なのかも知れないが、気にし始めてしまうと、どうしても口に出さずはいられなくなった。
「志摩子さん、選挙に当選する自信はある?」
 誰もいないマリア像の前よりも、もっと誰もいない場所。乃梨子たちは今、ホームルーム前の朝と同じように、銀杏の中の桜のたもとにいた。
 志摩子さんは乃梨子の問いに、まるでついさっきの世間話の続きみたいに、「自信がなければ、選挙に出たりしないわ」と答えた。
 受験生との会話で「落ちる」や「すべる」という単語の濫用を控えるようなもので、直接的に当落の話などしないものだ。何にでもゲンを担ぎたがる日本人に特有の感情だが、それを乃梨子は否定しない。不吉は遠ざけたいし、出来れば吉兆を愛でたい。
 だが、それを押して、なお押して乃梨子が本当に聞きたかったのは、自信の有無どころではなく、もっとも不吉なものだ。
「乃梨子が気にしているのは、もしかして私が選挙に落選してしまう可能性かしら?」
「……」
 観念するような気持ちで乃梨子は神妙に頷いた。もちろん志摩子さんは気分を害したような素振りなど見せないが、先ほどの世間話の最中とは違う、どこか言葉の端に冷たい印象を受ける。
「ごめん。つまんない事言って」
 なんとなく胸がざわめき、つい謝罪の言葉を口にしていた。志摩子さんは軽い笑みを浮かべる。
「別に怒っているわけではないわよ。だってそれは、考えなければいけない可能性なのだから」
 志摩子さんは一本だけ寂しそうに立っている桜の木を見上げる。
「例え現役である私が票を集められなかったとしても、結果は覆らないのだから、恐らく覚悟の問題だと思うわ。そのとき、潔く身を引く覚悟を決めておく事。私にとって……祐巳さんや由乃さんにとってもそう、私たちにとっての選挙とは、そういう事よ」
「選挙なんて無ければいいのに」
 つい乃梨子は本音を漏らす。
 現役が当選する確率は高いとはいえ、現役が選挙に出馬することは、結局リスクを背負うだけのように思えてならない。
「乃梨子たちの代で無くすように働きかけてみたら?」
 楽しそうに志摩子さんは言う。
「できるのかなぁ」
「山百合会の方からアプローチするのはあまり体裁が良くないわね。保身のためと思われる恐れがあるから。本当にやるなら、別方面から間接的に、ね」
「だよね」
「大丈夫よ。私は負けないから」
 志摩子さんはそう言って笑った。
 確かに『勝てば』負けないだろう。それはひとえに、志摩子さんの持つ自信の表れとも言える。
 だが、『負けた』場合はどうするのか?
 志摩子さんは覚悟の問題だと言った。潔く身を引く覚悟は当然に必要だとしても、他にもしなければいけない覚悟は山ほどある。志摩子さんがどこからどこまでを覚悟と言ったのかわからないが、半端な覚悟では足りないだろう。
 それを指摘するのは今更だし、当落を控える人間にあれこれと偉そうな事を言いたくない。だが、恐らく乃梨子が本当に伝えたかったのは、そういう諸々のことなのだ。
「そろそろ戻りましょう、時間だわ」
「うん」
 姉を信じるのは妹の義務。
 その言葉だけに殉ずるわけではないが、乃梨子の覚悟は決まっている。例え何が起きようとも、志摩子さんの味方でいるのだと。ずっと昔からそう決めているのだ。
 だから、驚きや理不尽がなかったと言えば嘘になるが、それでもその時は比較的に冷静でいられたと思う。
 山百合会のメンバー全員で、投票結果の張り出される講堂に向かった。着く頃にはちょうど選挙管理委員の生徒が大きな張り出しの紙を持ってきて、掲示を始めていた。
「乃梨子さん」
 そこにいる全員が、少しずつあらわになっていく張り紙に注視する中、一年椿組の選挙管理委員である敦子さんが密かに傍らに寄ってきて、小さく耳打ちをした。
「敦子さん……なに?」
 乃梨子がそう聞くと、
「ちゃんと志摩子さまの傍にいてあげてね」
 そういい残し、また張り出しの手伝いに戻っていった。
 何かを問い直す間もなかったが、敦子さんの忠告を受け、今朝方から感じていた奇妙な予感が確信に変わった。
 その時、どこからか悲鳴のような声が上がった。掲示を見に来た一般生徒のものだ。
 慌てて乃梨子も張り紙を見ると、そこには簡潔に作られた枠組みの中に、四つの名前が縦書きにされている。名前の上の赤い印は当選の証だろう。
 福沢祐巳という名の上に、赤い印がある。
 島津由乃という名の上にも、同様の印がある。
 そして、松平瞳子という名の上にも、赤い印があった。
 赤い印が三つ以上記されることはない。何故なら当選の椅子は三つしか用意されていないのだから。
 だから、藤堂志摩子という名の上に赤い印はなく、ぽっかりとスペースだけが空ろになっている。
「志摩子さん……」
 隣に居た志摩子さんの腕を、ぎゅっと掴む。掴むというよりは恋人同士腕を組んでいるような格好だ。だが、志摩子さんの腕は微動だにせず、死人のように強張っている。
 もはや言うまでも無い。選挙結果の張り紙が雄弁に語っている。
 藤堂志摩子は、生徒会役員選挙に出馬し、そして落選した。





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