■悪夢


T 穏やかな朝

 予感めいたものなど、何ひとつ感じることのない土曜日の朝だった。
 取り立てて寝起きが良い方ではないが、今日に限っては目覚まし時計が鳴り始める前に目を覚ますことが出来た。なぜなら今日は、いつもと少しばかり事情が違うから。
 普段より三十分早い時刻にセットしたが、結局役目を果たさなかった目覚まし時計をオフにして、私こと二条乃梨子はベッドから抜け出した。
 いつもよりかなり早い時間ということを除けば、変わるところのない朝である。
 一月下旬の寒さとなると一種異常と言える。乃梨子の部屋も例外ではなく、寝巻きのままの身体が自然に萎縮してしまう。
 時刻はまだまだ早い。再びベッドの中に戻りたくなる衝動に駆られる。
「……ダメだ。今日は早く行くって決めた」
 乃梨子は水浴びした後の犬がそうするように、頭をぶるぶると振るった。 少し寝癖に乱れた髪が跳ね、そうしている内に、少しずつ眠気が覚めてくる。
 今日は早く学校行って、誰よりも早くあの人に会いたい。
 そんなことを考えながら、乃梨子はいそいそと身支度を始める。
 一月下旬の、静謐な朝のことだった。


   ◇


 今日は山百合会役員選挙の投票日だ。
 午前中の授業を終えた後、ホームルームの時間を利用して投票は行われる。各クラスより選出された選挙管理委員たちにより即日集計され、午後の二時頃には結果が発表される、という速やかなシステムである。例年土曜日が投票日とされるのにはそういう理由がある。
 通常、大抵の学園行事には山百合会はからむのだが、こればかりは事情が違う。選挙に出馬する人間はともかく、今日に関して乃梨子は完全に傍観者であり、そして一人の有権者でしかない。
 二条乃梨子が二条乃梨子として出来ることといえば、選挙に出馬する姉のそばにいることくらいだろう。
 そんな事を考えながら電車に乗っていると、まもなくK駅に到着するというアナウンスが聞こえてくる。かなり早い時間ということもあり、ゆったりと座席に座っていた乃梨子は、なんとなく気分が落ち着かなくなって座席から立つ。いつもと感じが違うせいか、どうも違和感がある。
 K駅で降り、そこからバスでリリアン女学園まで向かう。この道中も普段より明らかに人の姿は少ない。いつもより三十分以上早い時間なのだから、当然ではあるが。
 ほどなくして乃梨子は、リリアン女学園に到着する。目当ての人は朝が早く、一般的な生徒よりもかなり早い時間に登校する。すでに彼女の教室である二年藤組にいるはずであるが、今日は特別な一日だ。
 日頃”なんとなく”行っているマリア像前でのお祈りだが、今日は違う。敬虔な信者というわけではないが、選挙が無事終わることを自分なりに真面目に祈り、マリア像の前を後にする。
 向かうのは、彼女と初めて出会った場所。
 講堂の裏手には、銀杏の木に混じって一本だけ桜の木が植えられている。なぜ一本だけの桜なのか諸説あれど、場所が場所だけに余り生徒が寄り付くこともない場所だ。
 かくいう乃梨子も当時は単なる偶然、気まぐれでその場所を訪れたのだが、今日は偶然や気まぐれではなく、むしろ必然を求めての来訪だ。
 そう、乃梨子の中には確信めいたものがあった。
 果たして乃梨子がその場所へとたどり着くと、待ち望んだ人の姿があった。その人のところへ向けて一歩を踏み出すと、地面に落ちている冷たく乾いた枯れ葉が、どきりとするほど大きな音を立て、乃梨子の所在をその人に伝えてしまう。
 その人は少しだけ驚いたようだが、来訪者が乃梨子だと知ると、その表情を和らげた。
「ごきげんよう志摩子さん」
「ごきげんよう、乃梨子」
 目当てのその人、乃梨子のグラン・スールである藤堂志摩子さんと朝の挨拶を交わし、ようやく乃梨子は安堵する。
 昨日の夜は緊張でなかなか寝付けなかったのだが、その緊張がおそらくたった今まで続いていた。その緊張が、志摩子さんと邂逅を果たしたことによりようやく和らいだ感じだ。
 そして、志摩子さんにいつものように挨拶を返してもらったことで、安堵は安心に変わる。この人は間違いなく私のよく知っている志摩子さんなんだ、と。
「きっと志摩子さんはここに居るだろうな、って思ってた」
「私も……ええ、私もきっと、乃梨子がきてくれるだろうな、って思ってたわ」
 この瞬間、この場所で二人が出会える確率。
 1分の一の必然?
 10分の一の偶然?
 それとも、100分の一の奇跡?
「……10分の一くらいの確率だったのかな」
 乃梨子が冷静にそう分析すると、志摩子さんは小首をかしげた。何の話なのかよく理解できない、という表情だ。私たちが今日この場所で出会える確率、と教えると、志摩子さんの表情がほころんだ。
「乃梨子ったら面白いことを言うのね。貴女のことだから、もちろんその論拠は有るんでしょう?」
「うん。私が、というか私たちが朝起きた瞬間は、ここで出会える確率は100%だった」
「あら」
 更に志摩子さんは、おかしそうに表情を崩す。調子を良くした乃梨子は更に続ける。
「でも起きてから時間が経つにつれ、その確率は目減りしていった。何故ならば、よくよく考えてこんな寒い時期には出来れば外に居たくない、って思うはずだから」
「状況や環境に人間は左右されるわ。特に人は寒さに弱いものね」
「うんうん」
 冬の朝方に布団の中、「寒いわ。地震でも起きて学校が休みになってくれないかしら……」などとぼやく志摩子さんをつい想像してしまい、乃梨子の頬はあやうく緩みそうになる。
 乃梨子の知る限り、朝な夕ないつでもしゃっきりとしているのが志摩子さんだ。眠そうな顔をしているところなど見たこともない。いつも眠そうな顔をしている、という説もあるにはあるが……。
 それともそれはブラフで、案外朝に弱かったりするのだろうか?
 いつか、起き抜けの志摩子さんを拝見する機会など、あるのだろうか?
「そしてここ、リリアン女学園に到着すると、0.5%くらいまで低下していた可能性は、一気に上昇を始める」
「あらあら、知らぬ間に随分と下がっていたのね」
 志摩子さんは、さも楽しげにそう言った。くだらない話にも乗ってきてくれるところがこの人の良い所。
「リリアンに来れば、絶対にこの桜の木を思い出すから。そうすると可能性が具体性を帯び始める。だから少なくとも10分の一。10%程度の確率は最終的に維持するんじゃないかな、というのが私の説」
「それでも確率は10%というところが乃梨子らしいわ」
「私は悲観主義者ってこと?」
「そこまでは言わないけど、現実的よね。現実主義」
「うーん」
 乃梨子としては、素直に首を縦に振りかねるところではあった。まことの現実主義者は、10%の確率に賭けて朝っぱらからこんな所へのこのこと出向いて来たりはしない。きっと自分は、どこかで幻想を信じているに違いないのだ。乃梨子がそう言うと、
「あら、そんなことは無いわ」
 と、あっさりと否定された。意外なほどに断定したような口調だった。
「幻想を信じているような人は、“しばらく私に貸すと思って、ロザリオ外してもいいんじゃないかな?”なんて事は言わないものよ」
「……そういえば、そんなこと言ったっけ」
 決して忘れていたわけではないが、しかし思い出す機会も無かった。
 思えばそのセリフも、この桜の木の下での事だ。季節がら今はもちろん枝の節々を晒している桜の木だが、よくよく乃梨子たち姉妹に縁があるらしい。
 しかし、「貸すだけ」とは我ながらよく言ったものだ。
 リリアンの生徒たちにとって、ロザリオがどれほど重要な意味を成すものなのか、当時の乃梨子は理屈で理解していても、実感として理解していなかった。だからそんな事が言えたのだが、今にして思えば無責任にも程がある。
 借りたものは返さねばならないが、自動販売機でジュースを買うために借りた小銭を返すのとはわけが違うのだ。
 返せと言われても、そうそう返せるものではない。
「あら」
 そのとき校舎の方から予鈴の音が聞こえてきた。思った以上に長いこと話し込んでいたらしい。
「行きましょう、乃梨子」
 何の前触れもなく、自分の手に志摩子さんに手が添えられる。志摩子さんはとても慎重な人なのだが、時折びっくりするほど無防備をさらす。
 だから乃梨子もあまり深く考えずに、つとめて自然を装ってその手に添い返した。こんな時期だからか、志摩子さんの手は乾燥して冷たかった。
 肉体的な接触は、ほんの一瞬だった。
 チャイムの音が長く尾を引きながらやがて消えるように、二人の手は離れていく。
 まだ色づくには遠い桜の木の下での時間に幕を下ろし、乃梨子たちは校舎の方へと向かって行った。


   ◇


 一年椿組の教室へと入ると、乃梨子は先ずとあるクラスメイトの姿を探した。朝のホームルームを前に、生徒たちはそれぞれのグループに分かれて雑談に興じている。しかし目当ての人物はいないようだ。
 通りしなにクラスメイトたちに挨拶を交わしながら、乃梨子は最後列の席に座る生徒のもとへと向かう。
「ごきげんよう可南子さん」
「ごきげんよう」
 ひところ薔薇の館でヘルプとして働いていたこともある、細川可南子さんだ。去年の秋頃からバスケットボール部に入部し、忙しい日々を送っているらしい。それまでは割りと頑なな態度で、意図的にクラスメイトたちと一線を画すような振る舞いが目立っていた彼女だが、ここ最近で心変わりがあったらしい。乃梨子とちょくちょく話すようになったのも、その頃からだ。
「……瞳子って、まだ来てないかな」
 声を潜めるようにして乃梨子は聞いた。松平瞳子、という単語に一年椿組は少し敏感になっているのだ。
 可南子さんは、首を小さく横に振った。彼女は椅子に座っているが、乃梨子との身長差はゆうに20センチはある。目線の高さはそれほど変わらない。
「乃梨子さんが気遣わなくても、彼女は彼女なりに考えてるわよ。今日の選挙も、そして選挙の後のことも」
「そりゃそうだろうけど」
 乃梨子があれこれと世話を焼いたところで、瞳子は煙たがるに決まっている。そして、「白薔薇のつぼみという立場をわきまえなさい」と反論を許さない指摘をして去っていくのだ。ほら、彼女の特徴的な髪形である左右にぶら下げた縦のロールが、不機嫌そうに揺れる様まで想像できる。
「そこまで分かってるなら、瞳子さんのことは瞳子さんに任せておけばいいのよ。それとももしかして乃梨子さん、マゾなの?」
 冗談めかして可南子さんは言う。
「うん、実はそうなのかも」
「おいおい、真に受けないでよ」
 可南子さんは呆れたように笑うが、邪険にされても煙たがられても松平瞳子という一人の人間に執着する自分を鑑みると、可南子さんの指摘もあながち的外れではないな、と思ってしまうのである。
 瞳子が選挙に出馬することが決まってから、ずっと乃梨子はこんな調子だった。
 リリアン女学園高等部の生徒の誰にも平等のチャンスである選挙とはいえ、実際の体質は旧来然とした保守的な世襲制である。生徒会役員である薔薇たちの妹であるつぼみ、そしてつぼみの妹たちは姉の補佐として生徒会活動に携わるのが半義務であるから、代替わりして彼女たちが生徒会長の立場に就くことに異を唱える生徒はいない。
 だが、それではいかにも旧態依然としたシステムだ。生徒会役員となるためには、当代の生徒会長たちと個人的に親しくなり、そして妹として収まることにより初めて生徒会役員としての資格を得る──それは、あまり健全な組織運営の姿とは言えないだろう。つまり風通しが悪いと言える。
 チャンスは誰にも平等に与えられるべきで、それを実現している選挙に問題があるとは言わない。
 だから、瞳子が選挙に出馬したことは間違っていない。幾らそう自分に言い聞かせても、頑として首を縦に振らないもう一人の自分がいる。ここのところ、そんなのばっかりだ。。
「もうじき終わるわ」
 口元に薄い笑みを浮かべ、可南子さんが言った。
「乃梨子さんの立場としては、さぞかし心の休まらない毎日だったと思うけど、それも今日で終わる。だって、瞳子さんが選挙で勝てるわけがないもの」
「可南子さん、それは」
 それは、分かっていても決して言わずに置いていた事実だ。松平瞳子では選挙に勝てない。
「彼女に問題があるのではなくて、問題があるのはむしろリリアンの体質ね。一般の生徒が出馬したって勝てないようなシステムが出来上がっているんだもの。私が出馬しても勝てないだろうし、乃梨子さんが出ても同じだと思う。みんなそれを理解してる。けれど瞳子さんは選挙に名乗りを上げた。どうしてかしらね」
 それを推察は出来るが、あくまで推論の範疇を出ない。
 たぶん一言では言い表せない理由なのだろうが、それを瞳子が喋るはずはないし、恐らく選挙が終わっても口を割らないのではないかと思う。
「来たわ」
 可南子さんがそう言い、反射的に乃梨子も教室の入り口を見る。ここ最近はいつもそうだが、不機嫌そうな表情の瞳子がそこにいた。可南子さんがほんの小さく手を振ると、気づいているはずなのに瞳子はつんと澄ましてそれを無視した。可南子さんとしては、それは当然予想された対応らしい。気分を害することもなく、逆に空恐ろしいほどに嬉々とした笑顔を浮かべた。正直、少し怖い。
「ねえ乃梨子さん」
「な、なにかな」
「山百合会では、選挙に勝った際の祝賀会なんかを企画していたりする?」
 可南子さんの質問の意図が読めないが、特にないと素直に答えた。もちろん、個々人のレベルではあるかも知れないが、特に聞いていない。
「選挙が終わったらさ、瞳子さんの残念会やろうよ。面と向かって残念言うと牙剥かれるから、名目はお疲れ様会っていう事にして」
「たぶん瞳子、誘っても来ないんじゃないかな」
「ふふん。分かってないな、電動ドリルの扱いを」
「電動」
「確かに瞳子さんは、これから起こる事に対してあれこれ文句をつけることは多いけど、すでに起こってしまった事に対しては意外に寛容で、協力的よ。周到に準備して、あとは力ずくで連れて行けば簡単に折れてくれるはず」
 どこか確信めいたような可南子さんは、手をわきわきと動かした。確かに彼女に”力ずく”されたら、小柄な瞳子に抗う術は無い。まあ手を噛まれたりくらいはするかも知れないが。
 これは私たちにしか出来ないことだ、と可南子さんは言い、そこで会話は締めくくられた。朝のホームルーム開始のチャイムと共に、担任の教師が教室に入ってきたからだ。
「大丈夫。私はあなたたちの味方だから」
「……ありがと」
 別れ際に可南子さんは、心強いことを言ってくれた。
 それに瞳子の扱いに関しては、可南子さんの方が一枚上手だろう。その彼女がそこまで言うなら、何もかもを任せてみてもいいかも知れない。そんな風に思い始めていた。





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