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■雪になって消えた二人


「……そういえば江利子、ヘアバンドはどうしたの?」
 お姉さまが私の額の辺りに目をやりながら言う。昨日まで私、鳥居江利子のトレードマークだったらしいヘアバンドは、今では自室の勉強机の上に転がっており、本来の役目を果たしていない。
 私の前髪は、今は自然に下ろされており、昨日までに比べると睫毛の辺りに鬱陶しく髪の毛が掛かる事があるが、それもじき慣れるだろう。
「ヘアバンドは家にありますよ。つけないのには特にこれといって理由はありませんが」
「ふふ……まだ誰かに言われたのね」
「……まあ、当たらずと言って遠からずです」
 姉に隠し事は出来ないとよく言うが事実その通りで、特に何を言わずとも隠したいことや秘めやかにしたい事は、おのずとばれてしまうものだ。私たち黄薔薇の名を冠する姉妹もそれは例外ではなかった。
 ヘアバンドなんて似合わないとか柄じゃないとか、そんな風に揶揄されれば判り易くもあるし説明も容易いのだが、事実はいささかに異なる。
 ──私が黄薔薇のつぼみの妹という立場に納まってから、かれこれ二ヶ月ほどが経過した。始めのうちだけと判ってはいても周囲の騒ぎ様には辟易とさせられるものがあり、特に何事も水面下で行うことを信条としていた私は、黄薔薇のつぼみと親しくなり頻繁に顔を合わせるようになっても、周囲に絶対にそれと気取られぬよう心掛けた。
 その結果が周囲の過剰とも取れる驚きであり、高等部に進学以来率先して目立とうとしなかった私へ急にスポットライトが当てられたのには、半ば予想はしていたが鬱陶しさを感じざるを得なかった。
 その過程で生まれた一つの通称に、”ヘアバンドの子”、というものがあった。言うまでも無くそれは私の事で、黄薔薇のつぼみの妹を一目見ようと遠巻きに私の姿に注目するゴシップ好きなミーハー達が、頻繁に口にしていた言葉だ。
 確かにそう形容すれば遠目にも判別は容易であるが、そんな風にばかり言われる身としては堪ったものではない。鳥居江利子=ヘアバンドというパブリックイメージがリリアンの高等部に浸透するのはそれこそあっという間で、私はそれを当然のように苛立たしく感じていた。
 ──つまらない型に嵌められるのは困る。
 かつてとある人間に誉められてからヘアバンドを常に身につけていた私ではあるが、今となっては当時の昂揚など形骸化して久しく、結果としてヘアバンドの子という俗称が私にそれを外させる事になったのは、実に私らしいという気がしないでもない。
 突然トレードマークを外した私に周囲は驚き、果ては黄薔薇のつぼみの姉妹の不仲説まで飛び出したのには苦笑しか出てこなかった。お前ら他に考えることは無いのか、と。


 ……そんな感じで、深いようでいて実に浅い理由がヘアバンドを外したことには含まれているのだが、勿論この聡明で名高い黄薔薇のつぼみに一から十まで説明する必要は無い。”ヘアバンドを誉められる事に嫌気が差したから”、だけで私のことを或る意味私より理解して下さっているお姉さまには通じるのだから。
「相変わらず損な性格をしているのね。そういうの、私は嫌いではないけど、時には素直になることも必要だと思うわ」
「……素直になんてなれませんよ。私は捻くれ者ですから」
 肯定してくれるものだとばかり思っていた。しかし、お姉さまの口から飛び出したのは、若干辛辣なそれであった。
「素直になれないなら、そうなれる様に努力なさい。時にはそういう努力だって必要になるのよ」
「お姉さま?」
「まあ、一般論だけどね。私は今の貴女が好きだし、変わらないでいてくれた方が好ましい。貴女がヘアバンドを外したからって私たち姉妹は何も変わらない。だから、そういう事もあるということだけ覚えていてね」
「……はい」
 決して的を射た物言いとは思えなかったが、その時の私はただ何となく頷いていた。
 私もお姉さまも踏み込まれることを好まない性質だったから、本音で語り合うことなどそれこそ片手の指に余る回数だったように思えるが、だとしたら今がその数少ない機会だったのかも知れない。
 このときお姉さまは何かを予見していたのだろうか。リリアン女学園高等部において一度目の冬、私が黄薔薇のつぼみの妹と呼ばれている時、既に。
 お姉さまは私のことを何でも知っている風だった。大した事を話し合ったわけでもないのに、私の事を全て理解していた。対して私は姉のことを理解していたのだろうか。一言に表せば掴み所の無い人であったが、それだけ知っていても相互理解には遠く及ばない。
 仮に今の関係性のまま変わることなく卒業の日を迎えたとき、私は彼の人に言うのだろう。お姉さまのことが最後まで何一つ判りませんでした、と。
 彼の人は笑うだろう。声を上げて、ころころと。何となく予想出来る。例えば私自身が妹にそう言われたのなら、きっと笑ってしまうだろうから。
 時には素直になる努力も必要だ、と。
 きっとお姉さまもしたであろうその努力を、私もいずれするのだろうか。
 私には私自身のことが予見出来そうも無いが、だからこそお姉さまがこの時言った言葉を努々忘れぬようにしようと、そう思った。



 1

 クリスマス・イヴを目前に控えたここリリアン女学園は例年に違わずにわかに浮き足立ち始め、色とりどりのイルミネーションに彩られる街の景観に比例するように、リリアンに住まう乙女たちの心もとりどりに彩られ始める。
 恋人と過ごす、或いは姉妹で過ごす。また気心の知れた友人たちと過ごすのも悪くない選択肢だ。楽しみの取捨選択はそれこそ無限大で、つまりそれはクリスマスイヴというある種の特別な一日が包含する魔力のようなものと形容しても言い過ぎではない。
 誰だって特別な一日を目前に控えれば気分も昂揚してくるものだ。
 リリアン女学園という場所の特異性とでも言うべきか、敬虔なカトリックの信仰者も少なくない数存在している。彼女らにとってクリスマスイヴとは大多数の消極的無神論者たちにとってのそれとはまた違った側面を見せるのだが、その大多数の無神論者の一人たる鳥居江利子にとっては、クリスマスイヴという日はその平凡な立場にのっとった然るべき一日であるという認識しか持ち得ない。
 だが、所詮認識は認識。数日後にはクリスマスイヴだと自分に言い聞かせても、大多数の生徒が感じるような昂揚は欠片も沸いてこないのが今の江利子であった。
 今のような有り様の山百合会を目の当たりにすれば──。
「……お姉さま、顔色がすぐれないようですけど、体調でもよろしくないのですか?」
「令」
 心配げな面持ちを浮かべ話し掛けてきた少女の名を、支倉令という。私より頭一つ分は高い上背に、繊細な美少年のような容貌を持つこの下級生は、私にとっては他ならぬ無二の妹である。
 お姉さまと呼ばれることなど想像も出来ない。そもそも妹など作れるのだろうかと、自分よりも遥かに立派な人格者である姉の傍に身を置きながら一年前には思ったものだが、こうして妹を持ってみるとそんな不安は遥か遠い。
 中学生となった自分が想像出来ない。同じように、高校生となった自分が想像出来ない、という事象に良く似ている。案ずるより産むが易し。為してしまえばそれが当たり前に思えるものである。
 私と、私の姉とでは似たもの同士という形容がしっくりと嵌るから、だからこそ私は、自分とは正反対の性質を持つ人間を妹に持とうと思った。そして、いくつかの曲折を経て巡り合ったのはこの支倉令という下級生であり、令と姉妹の契りを結んでからの約半年間、その選択を後悔したことは一度も無い。
「体調は悪くないわ。むしろ悪今いのは、山百合会の現状だと思うけど。令、貴女はそうは思わない?」
 私は意地悪を言っている。令が本人以外の周囲の人間の悪口など言える性格でないのは百も承知。誰の言動も行動も先ず自分の中に受け入れて、肯定してから考えるのが支倉令という少女だ。
 山百合会の中堅を担うべきつぼみの三人が、壊れた歯車のように噛み合わずまともに機能していなくとも、それを私がやけばち気味に愚痴ろうと、令はその全てを肯定してから始めるのだ。
「その……聖さまも蓉子さまもここの所お忙しいようですし……ですから、その分私と祥子が頑張らなければと、思ってはいますが」
「お忙しい? ふふっ、令って本当に人が好いのね。まあ、お忙しいといえばお忙しいのでしょうけど」
 佐藤聖と水野蓉子。私と並んで薔薇のつぼみの名を冠するあの二人のことを考えると、胸の辺りに黒い霧が色濃く立ち込めてくるのを感じる。
 リリアンにおいて顔なじみの三人がつぼみの妹として薔薇の館にて会した時には、ある種の運命めいたものを感じざるを得なかった。水野蓉子とは中等部の頃から、そして佐藤聖に至っては幼稚舎の頃からの付き合いである。聖は私が初めて本気で喧嘩を吹っ掛けたくなった相手。そして蓉子は、初めて敵わないと思わされた相手だ。お互いに認め得ぬところはあるものの、気の置けない関係を維持しつづけてきた連中との生徒会活動は苦しみや苛立ちあれど、それを上回る楽しさや充足を得ることが出来るだろうと密かに期待に胸高鳴らせたのも今は昔。こんな風になってしまうことを、一体誰が予想しただろうか。
 ろくでもないつぼみ三人に対して、つぼみの妹──支倉令と、蓉子の妹である小笠原祥子は、聖が妹を持たない所為で通年より一人少ない二人きりだというのに、本当に良くやってくれている。特にこれといって指導なぞした覚えはないのに、令は山百合会の仕事を着実に身に着けそれを地道に実践していっているし、それは祥子にしても同じだった。蓉子なぞ世話焼きの代名詞のような人間であるのだが、ここのところずっと聖の世話焼きに掛かり切りで妹の世話まで気が回っていない。にもかかわらず、だ。
 まったく持って、私を含めたつぼみの三人は、出来の良い真面目な妹たちの爪の垢でも煎じて飲むべきだろう。
 令は口篭もったままだった。私は、自分のしたことを反省する。大切な妹を詰まらない皮肉めいた戯れ言で困らせるなんて姉の風上にも置けない。死んでしまえ、私。
「……ごめんなさい、令。貴女は、私には過ぎた妹よ」
 私は、隣に座る令の頬をそっと撫でた。年頃の少女の肌にしては若干硬い手触りは、長年の剣道の稽古による所為か。日頃運動をしない人間とは身体のつくりが違うのだろう。実直、素直、真面目。令のイメージを捕らえたそれらの言葉が日頃の鍛錬から生み出されたものだとしたら、例えば私が剣道を嗜んでいたならば、もう少し素直に、真面目に生きることが出来ただろうか。
 意味の無い自問は、令の頬に触れていた右手の甲への暖かな感触により、柔らかに融け消える。私の手に重ねられた、令の左手だった。そのまま令はゆっくりと首を振る。
「そんなこと、おっしゃらないで下さい。私のお姉さまは、鳥居江利子さまただ一人なんですから」
「令……」
「私は子供だし、事情もよく知らないので大した事は言えません。でも、私は、病める時も健やかなる時も、お姉さまの味方です。味方でいたいんです」
 嗚呼、と私の心が呻いた。どうして、私は。
 暗闇をさ迷い歩いている時、その道のりを照らし出してくれるのは、いつだってこの素直な妹だ。無神論者である私にとっての唯一の信じられるべき神は、令だ。いや、マリア様と言うべきだろうか。
 進めず、戻れず、覚めない悪夢のような現実を仄かに照らしてくれるマリアの存在は、相変わらず素直になれない私にとっては、唯一の救いだった。


 2

 今年のクリスマスパーティーはどうしようかしら、とお姉さまの口からそんな言葉が発せられたとき、先ずは我が耳を疑った。
 クリスマスパーティー? こんな状況で?
 馬鹿げてる、とこんな時だけ馬鹿正直素直極まりなく反論しそうになり、慌てて喉のすぐそこまで出かかった言葉を飲み込んだ。
「……何かオカシイ事を言ったかしら、私」
「い、いいえ。そんな滅相もない」
 実際、滅相あるのだが、先ずは落ち着いて考えてみたい。
 お姉さまの言うクリスマスパーティーとは、山百合会の面々というごくごく内々で開催される、毎年恒例のちょっとした催しである。薔薇の館の会議室をそれらしく飾りつけて、めいめいが持ち寄った菓子類などを添えての談笑会だ。本来食材の持ち込みなどは許可されてはいないのだが、その辺りは学園側が気を利かせてくれているらしい。実際、一般生徒たちからの差し入れなどもあり、非合法には違いないのだが世論に賛成されているようなものである。
 パーティーの概要は大まかにそのようなものであり、こちらに関しては問題などない。
 むしろ問題があるのは、パーティーを執り行う人間たちの側だ。
 薔薇さま方──お姉さまも含めたお三方に関しては問題などあるはずも無い。進路の関係で忙しいことは忙しいだろうが、そこはそれ。出来る方々は、いつ何時どんな状況でも、出来てしまうものだ。
 一年生たちも問題はないだろう。財閥の令嬢である祥子なぞ財界のパーティーもあるだろうから、もしかするとハードなスケジュールを強いることになるかもしれないが。
 問題なのは私たちつぼみの三人だ。
 白薔薇のつぼみである聖は今年一年通しても数えられるほどしか薔薇の館には訪れていないし、その聖ばかりを気に掛けている蓉子は真面目に顔を出し仕事はこなしているものの、果たしてどうだろう。聖のパーティーへの参加など見込めるはずも無いから、もしかしたら蓉子も──?
「江利子はどうしたい?」
「……どうしたい、って言われても」
「実はね、少し考えていることがあって。取りとめも無いことなのだけど」
 はあ、と曖昧に頷くと、お姉さまはその、”考えていること”、を語ってくれた。
 ──終りよければ全て良し、という古人の言葉にあるように、日本人は兎角始まりと、そして終わりを大切に重要に扱う風潮にある。例え結果にいたる過程にいくつかの齟齬があろうと、結果として上手く纏まっていれば許せてしまうという、義理人情に厚い国民性が後押ししているのかも知れない。
 だから、それは日本人同士の小集団である山百合会に置いても例外ではない。
 さまざまな事があった今年、それらを総括する意味でも例年どおりクリスマスパーティーを開くべきではないだろうか。
 年の瀬ということで忙しい中だとは思うが、そこは各々スケジュールを調整してある程度の無理を利かせてでも実現させるべきではなかろうか。
 ところで、催しを開くにあたってはどうしても、”主催者”という立場の人間が必要になるものである。内々のチャチなパーティーであるから主催という形容は大仰かもしれないが、それにしてもパーティー実現のための段取りを、音頭を取って進める役割は必要だろう。
 では、誰を主軸に話を進めるべきか?
 一年生たちは後輩という立場から、やはりある種の遠慮の気持ちは出てしまうだろう。音頭を取るということは、どうしてもある程度、”仕切る”という意味合いをはらんでしまうものだからだ。やってやれないことは無いだろうが、あまり気乗りはしてもらえないと予想出来る。
 かといってあと数ヶ月で卒業という立場に身を置いている三年生が仕切るのも、また違う気がする。それではいささか発展性に欠けるのだ。段取りはスムーズに運ぶだろうが、面白みがない。
 だから、ここは来年度の山百合会の中核を担う、二年生諸氏に身を砕いてもらいたい──。
 お姉さまの語った長い話を総括すると、おおむねそのような内容だった。
「……つまりお姉さまは、クリスマスパーティは開かれて然るべきと。そして、開催のための準備を、私にやれと。こう仰るわけですか」
「あなた一人ではなくてね。二年生の三人にやって欲しいな、と言っているのよ。何も格式ばったパーティーをやろうと言ってるわけじゃないの。普段の集まりの進化系のようなものなのだから難しいことは何も無いでしょう? あなた達三人は、去年にも一度経験しているわけだし」
「……えー」
「えー、じゃないの。そろそろ私たち三年生に楽をさせて欲しいものだわ」
 お姉さまの語ったことは、いわゆる一般論の集合体で、個々人の様々な事情を鑑みるとその枠組みに当てはめることは不可能に近い。
 例えば二年生三人で準備せよと水を向けられたところで、聖にその気は沸いてこないだろう。対して蓉子にとってそういった仕事は正に水を得た魚だろうが、お姉さまの意思は明らかに蓉子のことを指していない。
 現在二年生の中では一番身軽なこの私、鳥居江利子にやれと、こう言っているのだ。
 ものすごく遠まわしに。
 お姉さまは他人に理解を強制しない。
 それは恐らく優しさであり思慮深さであり、一種の美学と取れなくも無いが、裏を返せば、理解されないことへの不安や、他人に理解してもらうことを諦めている、とも解釈できる。
 だから今のお姉さまの物言いは、非常にらしいと言えばらしいのである。
 恐らくお姉さまは、ここで私がその申し出を断るかもしれない、そういう展開も想定しているはずだ。その場合パーティーは三年生が中心となり、聖以外のメンバーは揃い、そしてクリスマスパーティーは平凡でありながらも楽しく終わるのだろう。
 対して私が中心となりパーティーを行うことのメリットはやはり、噛み合わない二年生三人をどうすべきか、という部分に全ては集約される気がする。
「……失敗するかも知れませんよ。上手く行かなくて、詰まらないパーティーになるかも知れませんよ」
「ええ」
「そのあたりを覚悟しておいて頂けるなら、そのお話、承ります」
 ぶっきらぼうに答えると、お姉さまは笑った。
 つとめて詰まらなそうに答えたのは、私の中の一つの覚悟を悟らせたくなかったからだったが、やはりお姉さまにはお見通しだったらしい。
「ありがとう。江利子なら受けてくれると思ってたわ。頑張ってね。私たちも、出来る限り応援するから」
「……ほんとに応援してくれるんですか? 遠くから眺めてるだけなんじゃ」
「ははは……。応援というよりも期待かしら。そう、期待してるわよ、色々と」
「もう、お姉さまったら……」
 どうせパーティーを開くのなら、彼女も呼びたい。
 あの佐藤聖にも、出席してもらいたい。
 そうすれば、蓉子だって喜ぶだろう。
 つまりは、友情のため。
 友情という形のない大儀のために、私は走ろう。
 メロスのように、走ろう。
 それが今この瞬間、私が受け入れた覚悟だった。


 どれだけ準備に時間をかけられるかで、本番の内容は天地ほどの差が現れるものらしいと、世ではよく言われている。
 つまり、どれだけ的確に根回しが出来るかだ。
 三年生のお姉さま方は、根回しなどせずとも臨機横転に的確さをもって対応してくれるだろう。
 今回のターゲットを聖に絞るのならば、鍵となるのはそのほかの人間。
 蓉子と祥子の紅薔薇姉妹と、あとは我が妹である令だ。
 彼女たちの協力が、是が非でも必要となる。
 しかし、何も決まっていない先行きの不安な状態で蓉子に話を打ち明けるのも、どこか躊躇われた。失望させてしまうとか、そういう理由ではない。
 何も決まっていないと知ったら、蓉子は率先してそのリーダーシップを発揮して、事態の解決の目処をつけるため動き出すだろう。
 それ自体は悪いことではない。
 悪いことではないのだが──。
「……ちょっと、くやしいわよね」
 最初に動いたのは私なのに、手柄を横取りされるようで悔しい。
 私は、なんて俗物なのだろう。
 自分自身の俗っぽさに嫌悪しつつも、私は小笠原祥子が籍を置く、一年松組へと足を向けた。


 3

 放課後の学園内は、火が消えたように静まり返っていた。
 遠くに軽音部の奏でる音が聞こえ、どこかの教室から仲の良い者同士の談笑の声が聞こえてくる。
 冬の日の夕暮れなど無きにも等しくて、あと小一時間もすれば夜の帳が落ち始めるだろう。
 どこか現実感の薄い、ふわふわとしたこの時間を、私は嫌いではない。
 気分は悪くない。ちょっと込み入った話をするには最適なテンションだったが、この場合問題なのは、まだ祥子が学園内に留まっているのかどうか、という一点だった。
 年の瀬に片付けるべき仕事はあらかた片付いており、山百合会の集まりはここ最近詰めていない。
 然るに今日は山百合会の集まりは行われなかったのだ。
 やや急ぎ足に一年松組の前まで辿り着くと、案の定教室内は静まり返っていた。
 やはり遅すぎたか、と踵を返そうとすると、教室内から一人の女生徒が、からからと扉を開けて出てきた。
 タイミングが良い。祥子の所在を問おうかと私はその生徒の方へと歩み寄る。自分に視線が向けられることに気付いたか、その生徒もこちらを向く。
 視線と視線が絡み合ったのはほんの一瞬で、その一瞬は真に一瞬のことだった。
 つまり私にとっては特別印象に残る人間ではないということだ。
「……ちょっと、よろしいかしら? 少しお聞きしたいことがあって」
 ごきげんよう黄薔薇のつぼみ、と挨拶を置いてから彼女は薄く微笑んだ。山百合会に身をおいてからこっち、顔だけは広くなってしまった弊害といえば弊害である。
 もう慣れた感覚だが、こっちは相手のことを知らないのに相手は私の事を知っている。
「松組の小笠原祥子さんに用があって来たのだけど、彼女、まだ学園内に居るかしら?」
「ええ……祥子さんは今日は日直ですので、先ほどまで日誌を書いていました。今は職員室へと日誌を持っていっているのだと思います。じき戻るはずです」
「そっかそっか。ありがとう」
 タイミングは上々だ。げんを担ぐ方ではないが、こう幸先が良いと、これからのパーティーの準備にも力が入るというものだ。


 待ち人はまだ訪れない。
 先ほどの女生徒は、すぐに立ち去るとばかり思っていたが、どうしてか私と一緒にこの場に留まっていた。私を一人残すことに気が咎めたか、はたまた別の理由か。山百合会の人間をアイドル扱いする類の子ではなさそうだが、その真意は伺えない。
 仕方ないから世間話でもしようかと私が口を開きかけた瞬間だった。
「……冬、お好きですか?」
「冬?」
 話題に困ったら天気の話という。世の中の全ての人間が、ある程度天候に左右されつつ生きているのだから、天気に関して話せない人間はいないのだ。
 今は冬。空気は身を切るように冷たいが、今年はまだ初雪が舞い降りていない。
 冬は好きだ。雪さえ降らなければ。
 東日本に降雪があること自体稀だが、だからこそひとたび降ってしまえば、交通機関は麻痺するし多少なり積もれば歩きにくいことこの上ない。
 雪さえ降らなければ冬は好き。そう答えると、彼女はまた、薄く微笑んだ。
「師走、って言いますよね。冬は、何もかも、何かにせきたてられるように過ぎていく気がします。山百合会も、今はお忙しいのでは?」
「そうでもないわ。よく出来た薔薇さま方の尽力により、今年の冬はやけにのんびりとしてるわね」
 一部のんびりとしていられない状況であるが、あくまでも一部だ。だからこそ、その一部に関して当事者でない私が、別の仕事を宛がわれたりもするのだ。
「……まあ、それでも、気が急かないわけではないわ。具体的じゃないけど、漠然と何かに背中を押されている気はする」
「ええ、判ります。そんな時に降る雪を見ていると、急いている足を止めたくなります。考えていることや、かつて起きた事。そして、これから起きる事の全て、何もかも雪の中に消えて無くなってしまうように思えてしまって」
 雪の中に消える。
 その概念は、詩人ではない私にとっては理解の範疇を超えている。
 結局彼女と私は他人同士なのだから、理解する義理も義務もないのだが、別に彼女とて理解を押し付けているわけではない。
 そう、あくまでも世間話の領域に留まっているのだから。
 だから私は、殊更真面目にこう言ってやった。
「確かに雪が降れば足を止めたくなるわね。雪に濡れた地面は、滑りやすいから」
 私の深刻な物言いと内容のギャップの所為だろうか、彼女は二,三度目をぱちぱちとさせた後、声に出してころころと笑った。
 笑いながら彼女は言う。確かにそうですね、と。
 結局他人だから、彼女も笑えるのだろう。
 私だってそうだ。他人だからこそ、茶化すことが許される。
 結局、それだけの関係だ。


 やがて、妙な具合に盛り上がっている私たちの傍に近づいてくる人影があった。私の待ち人である小笠原祥子その人だ。
「……ごきげんよう江利子さま。珍しいですね。一年松組に何か御用でも?」
「松組っていうか、用があったのは貴女なんだけどね。この後少し時間取れるかしら? 山百合会のことで少しね」
「構いませんわ。あとは帰宅するだけですので」
 私と祥子のやりとりを少しの間眺めていた彼女であったが、やがて話の切れ目を見計らって、この場を辞そうとする。
「それでは、私は失礼します」
「暇つぶしに付き合わせて悪かったわ。ありがとう」
「こちらこそ。まさか私が山百合会の方とお話出来るなんて、思いもよりませんでした。こちらこそ、ありがとうございました」
 そう言って一つお辞儀をして、彼女は身を翻して去っていった。
 結局名前すら聞かなかったが、どこまで行っても他人なのだから、それもまたいいだろう。縁があればまた会える筈なのだから。
 彼女の姿が廊下の曲がり角に消えてから、祥子が少しだけ落としたトーンの声で、妙なことを言い出した。
「江利子さま。彼女とお知り合いだったのですか?」
「いや、たまたま居合わせただけよ。彼女から祥子が日誌を置きに行ったって聞いたから。単に世間話をしていただけ」
 祥子が難しい顔を浮かべる。数学の問いに詰まった時に類するような表情ではない。戸惑いの正体すら理解できていない、そんな表情だ。少しだけ、気に障った。
「何か言いたい事でもあるの?」
「その……江利子さまは、彼女が誰なのか知らないと仰いましたね。けれど、知っているはずなんです。少なくとも名前だけは」
「らしくないわね。はっきりと結論を言ったらどう?
「ええ……」
 ──彼女の名は、久保栞といいます。
 くぼ しおり。
 耳に覚えのありすぎるその名は、曰く、”白薔薇のつぼみが嵌っている”、と専らの評判の女生徒の名だ。山百合会だけではなく、高等部全土に知れ渡っている噂である。
 私とてその噂を知ったのはもう半年以上も前だ。
 噂の是非を聖本人に聞くのは流石に躊躇われたから蓉子に事の次第を聞き、そして、ほどなくしてそれが噂ではなく実話だという事を知る。
 それと知っていれば、注意して観察すれば直ぐにわかるのである。
 常に誰かのことを考えている風な聖。本人にそもそも隠す気がなかったのか、聖と久保栞が一緒にいる場面を、一度だけ目撃したこともある。
 そう、そのときも私は思ったのだ。
 印象に残らない子だな──と。
「そんな……あれが久保栞? だって、私は彼女のことを一度見ている。なのに気付かないなんて……」
「その、ですから私も驚きました。今の山百合会、特に蓉子さまと江利子さまが、あの子と友好的に関われる要素がどこにも見当たらなくて」
 存在感や印象などおしなべて相対的なものだから、例えば私にとって久保栞がまったく印象に残らない人間でも、聖にとっては違った側面を見せる。別に私たちに限らなくとも、誰にだってそれは当てはまるのだ。
 だとすれば聖にとっては、あの久保栞という人間は、よほど鮮烈な印象を伴って出会ったのだろうか。
 自分自身のなにもかもを投げ出してさえ傍に居たい、一つになりたいと思えるほどに。
 動悸が治まらない。何の準備もないままに踏み込んではいけない領域に踏み込み、そして紙一重で命拾いしたようなものだ。
 特に、聖のことをよく知る私や蓉子が、軽軽しく関わっていいような存在ではない、あの久保栞という少女は。
「……蓉子さまは、時折あの子と話をしているようです。一度遠めに見かけたことはありますが、あまり友好的ではないような雰囲気でした」
「でしょうね。聖にこれ以上関わるなとか、そういう類の話でしょう。蓉子はああ見えて激情家だけど、同時に理知のカタマリみたいな子だから。不用意に暴力的なことは言わないだろうけど、友好的は無理でしょうね」
「……江利子さまは、どうなのですか?」
「何がよ。久保栞の襟元つかんで聖にこれ以上近づくなとでも言えばいいわけ? そんな道化はまっぴらごめんよ」
「そこまで言いません。でも、江利子さまは、ご友人である聖さまから何もかもを奪ったあの久保栞を許すのかと、それが聞きたいんです」
「許すとか、許さないとか」
 そうではない。聖と久保栞が惹かれ合うことは悪ではない。
 問題なのは、その関係が生んだ状況だ。
 聖は栞に夢中だし、聖の激情を受け止める栞だってそれなりの覚悟のもとにあるはずだ。結果二人の世界は完全に閉じてしまい、外界に向けて回線が開かれていない。
 その閉塞的な状況をどうにかしたいと思っているのが蓉子であり、しかし、同時に蓉子がここまで彼女らに関わろうとするのは、それだけが原因ではないのである。
 聖だから。
 渦中に居るのがあの佐藤聖だからこそ、蓉子はここまで関わろうとするのだろう。
 だとすれば、私はどうすればいい?
 だとすれば、私は──。


「……許すとか許さないとか、そういう問題じゃない。聖にはもっと外界に目を向けて欲しいと思っているのは蓉子と一緒よ。だから、それ以上でもそれ以下でもないわ。久保栞そのものに関しては、また別の問題だから」
 私は詰まらない一般論を吐いている。
 祥子が聞きたかったのはそういうことではないのだ。そんなことは百も承知なのに、出てきたのはいい訳じみた言葉ばかりだった。
「……でも、蓉子さまは」
「私は蓉子じゃない!! 蓉子と同じことする必要なんて、どこにも無いじゃない!」
 かっとなって私は叫んでいた。
 傍から見れば、下級生を苛める上級生の構図だ。祥子には何の罪も無い。無知は罪というが、祥子は無知ではない。自分の姉が聖のことをどう思っているか、祥子だって気付いている筈なのだから。
 それを踏まえて、私に聞いているのだ。
 あなたは久保栞の存在を許せるのか、と。
「……悪かったわ。ほんと、私って姉失格どころかそもそも先輩として失格ね。あなたのお姉さまは本当に立派よ。それに引き換え私って奴は」
「い、いえ。私も、出過ぎた事を言いました。謝らせてください。本当に、すみませんでした」
「いいの。祥子は悪くないわ。ふふ、今日はもう帰りましょうか? 相談事するっていう雰囲気でもないでしょう」


 情けなさにこれ以上自分の姿を祥子の前に晒していたくなかったのだが、しかし祥子の強い要望により、私はクリスマスパーティーに関してお姉さまに水を向けられたことと、パーティー自体に関して私が考えていることを伝えた。
 私の醜態が彼女の中でどう作用したのか知れないが、祥子は凄く乗り気になってくれた。それは本来の彼女の性質ではなく、無理に私に合わせてくれたような風だったが、それでも素直に嬉しいことだった。
 その後、祥子を伴って令の姿も探したが、今日は剣道部の活動日ではなかったので、既に帰宅した後だった。
 祥子と別れ帰宅した私は、早速妹の家に電話をして、クリスマスパーティーに関しての話を伝えた。そのときに聞いた話だが、何と祥子と令の二人で、クリスマスパーティーをやってみたらどうかな、と相談をしていたらしいことを聞いた。もちろん山百合会のだ。
 まだ計画も何も具体的には何も決まっていないらしいが、私が乗り気になったことで、ならば全力で協力しますと言ってくれた。
 パーティーに関して私が考えていることを教えると、案の定令は驚いたが、それに関しても強力してくれるらしい。
 祥子相手に怒鳴ってしまったことで、私の中でも何かが吹っ切れてしまったらしい。もちろん全てを吹っ切ったわけではないのだが、今は、今だけはすがすがしい風が私の内には吹き流れている。
 私の考えたクリスマスパーティー、それは。
 聖を呼ぶ。
 そうすれば蓉子も喜ぶ。
 恐らく聖に能動的に参加を促すことは不可能だから、しぶしぶ来てもらうことになる。
 だが、それはしょうがないことだ。
 逃避的妥協ではない。れっきとした、前向きな計算だ。
 しぶしぶやって来た聖を、なんらかの手段で驚かせてやりたい。
 しょっぱなで驚かせてその強固な外殻を剥いてしまえば、あとはこっちのものだ。
 無理やりにテンションを上げて、その流れに聖も巻き込んでしまおう。
 それは空元気だとか、一時の逃避だとか、例え聖が楽しんでくれたってそういう側面は否定できない。
 だが、そう言いたければ言えばいい。
 パーティーとはそういうものだ。
 宴の後に寂しさはつきものだ。
 だからこそ、最大限にパーティーを楽しむのだ。
 令も祥子も協力してくれると言った。
 蓉子が協力するのは、これは義務に近いから心配する必要はない。
 先輩諸氏はアドリブで協力してくれるだろう。
 何も問題は無い。あとは私が精一杯走ればいいだけだ。
 久しく全力疾走を忘れていた。全力で走って誰かの前に出ることに飽きて、ここ最近では適当に手を抜いて完走することしかなかった私だが、しかし今では走りたいと身体が訴えている。その本能に従えばいい。
「ははははは! ハッピー・クリスマス! ついでに誕生日おめでとう、聖! あはははははは……!!」
 興奮に居ても立ってもいられなくなった私は、コートも羽織らずに外に飛び出して、夜の住宅街を駈けて回った。
 少し早いクリスマスイヴという特別な一日と、聖の奴の誕生日を祝う言葉を馬鹿みたいに叫びながら。
 鳥居の娘ついに狂ったか、とか、クリスマスボケが早すぎだ、とか言いたければ言えばいい近隣住民諸氏よ。
 私は友のために走る。
 友情は何よりも勝るという事を、あの邪知暴虐な暴君に見せ付けてやろう。
 邪知暴虐な暴君って誰のことかっていう突っ込みは、とりあえず置いておけ。
 つまりは、そんな感じなんだ。
「ははははは……! 楽しい! こんなに楽しいのは久しぶりよ、せいーー! ようこーーー! 首を洗って、待ってなさいよーーーーー……!!!」
 私は走った。夜の街をひたすらに。どこまでも、どこまでも。
 イヴの夜に待ち受けていることなど、少しも知らぬままに。



 4

 冷徹さと荘厳さの同居した佇まいを見せるお聖堂の中から、パイプオルガンの音色が低く響いてくる。
 基本的に自由参加であるイヴの日に行われるミサは、リリアン女学園においては例年にならった行事催しの一環である。
 今ごろお聖堂の中は張り詰めた空気に支配されているのだろう。
 中には佐藤聖が居る。
 そして、あの久保栞も恐らくはミサに参加しているのだろう。
 私はミサに参加はしていないが、同じように、或いはそれ以上に自分の身体が張り詰めているのを感じていた。
 聖に件のクリスマスパーティーに関して参加を促すことを話したのは、ついおととい、二十二日のことだ。
 期末試験が終わった頃からだろうか、聖の様子はこれまでとは明らかに変わっていた。
 良いほうにではなく、悪いほうへと。
 栄養の補給が足りてないと一目で判るほどにやつれて、痩せて、消沈としていた。
 ろくに事情すら知らぬ巷の生徒たちは口々に噂し合う。
 白薔薇のつぼみは、久保栞に振られたのだと。


「ねえ、聖」
「……なにさ」
「聖と私って、いい加減長い付き合いよね。断絶してた時期もあったけど、足掛け十年超えてるのよ」
「……そうだね」
「十年ひと昔ってよく言うけど、実際その通りだと思う。聖と掴み合いの喧嘩をしたことは当たり前だけど既に過去のことだし、それから険悪だった時期も含めて、全部昔話の一種だと思うの」
「……悪いけど、昔話したい気分じゃないから」
「待って、待ってよ。人の話は最後まで聞くものだって。来年からは私たちが薔薇さまなわけじゃない。ぶっちゃけた話、来年が正念場だと思うの」
「……何が言いたいのさ」
「だからさ、私と聖と、それと蓉子か。私たちは、そろそろ協力しなければならない時期に差し掛かってると思うの。考えても見て。私たちって今年、協力らしい協力ってしたっけ?」
「……まさか江利子の口から協力なんて言葉が飛び出すとはね。今年は雪が降るかな」
「茶化す元気はあるみたいね。確かに協力なんて言葉とは、私も、あとはあなたも無縁だったけど、同じ山百合会の仲間であるし、それ以前に友人なわけでしょう。困ったときは助け合うのが正しい友人関係だと思う。聖はこれまで、助けたり助けられたりとかした事はある?」
「……そういえば、あんまり記憶にないなあ。ていうか私、友達いないし」
「だから、これまでのことは昔の事、昔話と割り切って、来年からはまた一味違う関係を築けたらなって、私はこのところよく考えるの」
「……江利子、拾い食いでもしたの?」
「だからね、差し当たって私は、聖に一つお願いをしたい。今日の山百合会のクリスマスパーティーに出席して欲しいのよ。何とパーティーの準備は、主だってこの私がやったのよ」
「……らしくないことしたね。ていうか、長い前置きだった割りに本題に無関係だったんだね」
「前置きは前置きよ。聖もいろいろあったみたいだけど、今年は友達や仲間とわいわいやるクリスマスイヴってのも悪くないんじゃない?」
「……まあ、確かにね。考えとくよ。だからもう行ってもいい? ちょいと疲れててね」
「考えておいてね。ほんとに、前向きに考えておいてね!?」
「……わかったって。こんなに熱のこもった江利子を拝ませてもらったんだから。前向きに考えさせてもらうさ」


 ……というのが、一昨日の放課後に聖と私が交わしたやり取りだ。
 傍目には嫌がる聖を無理やり誘っているように見えるが、私は一つの確かな手ごたえを得ていた。聖にとっては私が率先してパーティーの準備をしたことが予想外だったらしく、そのお陰か彼女の興味を少しでも引くことに成功した。成功の秘訣が、日頃やる気の無い私とのギャップだったことが、実に自虐的な結果となったが、これこそ正に結果オーライという言葉を見事に体現している。
 主に準備を手伝ったりアイディアのネタ出しに付き合ってくれたのは、令と祥子の二人だった。令は兎も角、祥子などネタ出しという言葉そのものが似合わない子なのだが、似合わない事をしているのは私も一緒だった。どこか、不思議な連帯感があったのだ。
 蓉子にもパーティーの概要は伝えたのだが、率先して手伝ってもらうことはしなかった。何故だろうか、それは今でもよく判っていない。ただ何となく、の気持ちだった。
 やがてお聖堂から、三々五々生徒たちが吐き出されてくる。どうやらミサが終わったらしく、今日もう一度改めて聖を誘ってみようと考えていた私は、お聖堂の方へと足を向けたのだが、その足はぴたりと止まった。止めざるを得なかった。
 ──久保栞。
 あの少女の姿があった。私に気付くことなく、お聖堂から出てきて、そのまま校舎へと戻ろうとしている。
 久保栞に少し遅れて、聖が出てきた。
 聖は、久保栞のことばかりを見ていた。栞の方は気付いているのかいないのか、聖の方を振り返ることなく黙々と歩いている。そんな栞を聖はずっと見ていた。
 私は二人の姿をじっと見ていた。せり上がって来る嫌な予感と共に。
 聖は当たり前のように私に気付くことなく、私のことなど、パーティーのことなど、少しだって考える風もなく、ただ久保栞だけをじっと見ていた。
 私は黒い予感に両足を地に磔られたまま、微動だに出来なかった。



 5

「……江利子ちゃん、そろそろ始めてもいいんじゃない? この後用事のある人だっているだろうし、余り引っ張りすぎても良くないわ」
「もう少しだけ待ってください。まだ聖が来ていません」
「そうは言ってもね……もう30分過ぎてるし、それに聖ちゃんだって強制参加ではないのだから、何か外せない用事でも出来たのよ、きっと」
「……でも」
 紅薔薇さまにそう言われて、私は二の句が継げなくなる。30分以上の遅れは、確かに致命的だったからだ。
 ここ、薔薇の館の会議室は、折り紙で作ったイカリングを連結したようなものや、小さなクリスマスツリーも設置されて、見ようによっては幼稚舎のクリスマスパーティーのような有り様へと変貌していた。
 これらの装飾を作ったのは私と令と、あとは祥子の主に三人だが、素人が作る装飾など例えどれだけ気合を入れようとチャチなものしか作れないという良い例を提示したようなものだった。けれど私自身は気に入ってるし、要は本人たちの満足度次第なのだ。
 真っ白いクロスの敷かれたテーブルの上には、令の焼いてくれたクッキーをはじめ、色とりどりの菓子などが鎮座している。見た目に華々しく、味のほうも令の手製なのだから市販品に勝るとも劣らない。
「……もう少しだけ、待ってみてはいかがでしょう。その、折角のパーティーですもの、どうせなら全員揃ってから始めたいものですし……」
「あの聖さまのことですから、その、遅れてひょっこりと現れそうな気もしますし……」
「祥子も令も、一体どうしたというの。私だって聖のことは誘ったけど、駄目元みたいな気で誘ったというのに」
 遠慮勝ちに待つことを提案したのは祥子と令だ。しかし、どこか苛立ったような蓉子に諌められてそのまま黙り込む。
 蓉子の苛立ちの原因は聖にあるのだが、それは私とて同じだった。付け加えて、蓉子の苛立ちも私の苛立ちを助長する。対して私の苛立ちは蓉子の苛立ちを促進はしないのだろう。
 それは、似ているようで微妙に異なる感情の流れだ。
「……これ以上待つのは全体の迷惑ね。私の妹の所為でこれ以上迷惑をかけるわけにはいかないわ。始めましょう。後で聖にはよく言い含めておくから」
「白薔薇さま!」
「江利子ちゃんの気持ちは判るわ。熱心に準備をしてくれたのだものね。でもね、時にはこういうこともあるの。理解して頂戴」
 何か手はないかと辺りを見回して、そして私はお姉さまと目が合った。まるで示し合わせたように。
 ──私が言おうか?
 お姉さまの目は、そう物語っていた。立場上私がこれ以上白薔薇さまにたてつく事は上手くない。こんな日に後々に残りそうなしこりを生み出したくないのは誰だって同じ思いなのだから。
 けれど、白薔薇さまと同輩であるお姉さまが言えば、また話は変わってくる。
 しかし──。
 私は小さく、誰にもお姉さま以外に悟らせぬように首を横に振った。令も祥子も、私の詰まらないエゴに巻き込んでずいぶん迷惑をかけてしまった。土壇場でこれ以上誰かに、お姉さまに迷惑をかけることは自分自身許せない。
 結局私は妥協した。これは腐敗を生む逃避的妥協だとわかっていても。


 結論からいってパーティーは去年のそれと同じように健全に、それらしく盛り上がって、つつがなく幕を引いた。若干に険悪な幕開けだったのだが、それを微塵にも感じさせないほどに上手く中和させたのは、よく出来た薔薇さま方の良心に他ならない。それだけの力のある方々なのだ。
 私とてこれ以上醜態を晒してまで我を通したくないから、ほどほどに場を盛り上げることに協力し、ほどほどに楽しんだ。それは蓉子とて同じだったろうが、しかし彼女との共感は薄かった。
 繰り返すが、似てるようで違うのが私と彼女の今の境遇である。
 聖が姿を見せないことで、入念に準備したいくつかの仕掛けも水泡に帰すことになった。
 けれど。でも。しかし。
 もう、そんな事はどうでもいい。
 いっそ、雪でも降ればいい。
 かつてあの久保栞が言っていたではないか。
 全ては雪の中に消えるのだと。
 そうなればいい。
 消えてしまえばいい。
 友のために走ろうなどと不埒なことをマジに考えた私も、
 聖も、
 蓉子も、
 何もかも消えて失くなればいい。
 ────消えてしまえッ……!!!



 6

 照明の落とされた部屋の中は、何もかもが薄青く、ぼんやりと濁って見えた。
 あのパーティーの後に、私は皆に適当に挨拶をして、巻き込む形になってしまった令と祥子に頭を下げて、一人帰路についた。今の私は、一人でいなければならない。傍に誰か居たのならば、きっと八つ当たりしてしまうだろうから。
 ベッドに身体を投げ出したまま、ただ、じっと薄青い天井を眺めていた。いや、睨み付けていた。頭を冷やすためとか、そういうことではない。そんな殊勝な心がけに励むつもりなど毛頭ない。
 私は私だ。何も悪いことなどしていないのにこういう結果を迎えてしまったのならば、私だけが頭冷やして反省するのは筋違いもはなはだしい。
 ただ、悔しさと虚しさと、及ばなかった私自身の力に、私は腹を立てているのだ。
 階下から母親の声が聞こえてくる。大方風呂が沸いたからと、その辺りかと思い無視を決め込もうとしたのだが、しかしそうではなかった。
 オガサワラさんから電話よ、と言われて、私はベッドから跳ね起きた。


「もしもし、祥子?」
『……夜分にすいません。リリアンの小笠原祥子です』
「今日は本当にごめんなさい。絶対聖は来てくれるって、手ごたえはあったのに……」
『そのことなんですが、恐らく聖さまは、パーティーに来てくださるつもりだったのだと思います。でも、深刻な事情があって、来れなかったのだと』
「何、その話。私は知らないわ」
『私自身も、本当は知ってはいけない話だと思います。けれど、偶然から知ってしまいました。知ってしまい、そして、江利子さまには伝えるべきだろうと判断して、こうして電話をさせていただきました』
「いい判断よ、祥子。あなた素敵な薔薇さまになるわ」
『……ありがとうございます。実は……』
 祥子は、いくつかの私の知らない事柄を、つとめて冷静に語った。
 久保栞が高校卒業後、リリアンを離れて修道院に入ること。
 今、リリアンの女子寮から久保栞の姿が消えていること。
 そして、同じように聖も、山百合会のパーティーに参加すると告げたまま、しばらく前に家を出たまま帰らないこと。
「……それって」
『何か、嫌な予感がします。私が知ってしまったのは、学園長が白薔薇さまに事の次第を話しているときだったのですが』
「……よくそんなトップシークレット、入手できたわね」
『私の本意ではありません。ただ、偶然に、立ち聞きする形になってしまって……』
「悪いことなんてないわ。それを私に教えてくれた事も含めて、ね」
『ですが、私はここまでです。これ以上知ってはいけない気がします。関わってはいけないと思います。ですから……』
「わかった。後は私が引き継がせてもらうわ。この恩は忘れない。絶対に忘れないから」
『はい。江利子さま、がんばってください。私は、全てが上手く行くように、祈っています』
 最後にありがとうと告げて、私は丁寧に受話器を置いた。ここ最近下級生たちに世話になりっぱなしだ。何もかもが中途半端な私は、結局誰かの手を借りなければ本当に大切なところには辿り着けないのだろう。全力疾走を忘れてしまった私にとっては、既に全力という言葉自体が付け焼刃なのだ。
 だが、それでもいい。今は私のことなどどうでもいい。
 適当に理由をでっち挙げて、私はコートだけ引っつかむと家を飛び出した。
 偶然にもコートのポケットにかつて愛用していたヘアバンドが忍ばせてあったから、私は殆ど無意識にそれを身に付けた。目のあたりでちらつく前髪が鬱陶しかったからだ。
 玄関の扉を乱暴に開いて、
 そこで私は、ぴたりと足を止めた。
「雪が……」
 初雪だった。
 雪になって消えたいと、全て消してしまいたいと願ったのはこの私だ。だとすれば何て皮肉で自虐的で自嘲的で捻くれた話なのだろう。今の私は消えて欲しいなんてこれっぽっちも思っていないのに。
 私はこの舞い降りる雪の中、何処へ向おうとしているのだろう。
 何処へ向うべきなのだろう。
 誰を探すべきなのだろう。
 全ては雪になって消えた後かもしれない。
 それでも私は、きっとその先にあるべき最後の光景を求めて走り出した。


 だから、果たしてその光景は、誰にとっての最後だったのだろう。
 聖? 蓉子? それとも──。
 がむしゃらに走って走って、奇跡のような偶然の果てに私が辿り着いたのは、きっと私にとって一つの最後の光景そのものだった。
 遥か遠く、雪のカーテンの向こうに薄っすらと見えたのは、三つの寄り添い合う人影だった。
 左に居るのは、あれは白薔薇さまだ。真ん中に居る誰かの肩を、しんしんと降る雪から庇うように抱いている。
 対して右側に居るのは、おそらくは蓉子。同じように、真ん中に居る誰かに向って何かを話し掛けている。
 そして、真ん中に居る誰かとは、もはや言うまでもなく。
「……聖」
 パーティーをすっぽかした、あの佐藤聖だ。
 私は全身から力が抜けて、もう立っているのが精一杯だった。走り回った末に辿り着いたのは、既に終わっていた光景だった。
 白薔薇さまの存在など、ぶっちゃけた話どうでもいい。所詮どこまでも遠い他人でしかない。理解されなくともないし、したくもない。けれど、その隣に居る二人は絶対的に違う。私にとって得難い友人であり、私は正真正銘、彼女たちのために走ったのだ。
 しかし、今更何を言えばいい。すでに終わってしまった事に対して介入することなど蟻が象を倒すも同義なのだ。つまり不可能だと。つまりは手遅れだと。
 聖が久保栞と二人、イヴの夜に何をしようとしたのか、おおよそは想像がつく。駆け落ちか、それとも無理心中か。それを止めたのが白薔薇さまであり蓉子であり、そして恐らくは久保栞の聖のための最後の強さなのだろう。
 聖と蓉子の二人は、徐々に私から遠ざかって行く。雪の中に消えていこうとする。
 行かないで欲しい、そう願ってもそれは既に叶わぬ願いだ。いや、最初から叶わないことなんてきっと私は理解していた。それでも足掻きたかった私はクリスマスパーティーなんていう体裁ばかりを気にして、それに身を砕くことで自分自身を誤魔化していた。
 だから私は、こうして一人、遠くにいる。何も出来なくて、何も言えなくて。
 佐藤聖と水野蓉子。彼の二人は。
 ──雪になって、二人は消えた。



 家の玄関先まで戻ってきた時、そこに予想外の人物たちを見つけて、私は固まった。
「おかえり、江利子」
「お帰りなさいお姉さま。寒かったでしょう」
「……お姉さま……それに令まで。一体何やってるの、こんな時間に」
 私の家の玄関先にコートを羽織って立っていたのは、私のお姉さまと、妹である支倉令だった。すでに日付は変わっている。正気の沙汰とは思えない。
「クリスマスパーティーをやり直そうと思ってね。江利子ったらパーティーの間ずっとむすっとしてて、折角令ちゃんが作ったクッキーを食べようともしないんだもの。幾らなんでも、主催者でも、それはあんまりじゃないかしら?」
「そうですよーお姉さま。もうほんと、ひどいです」
「ねえ」
「ええ」
 そう言って、悪戯っぽく頷きあう二人。
 何だろうこのアットホームな雰囲気は。雪がちらついて外気温は零度に近いのに、私の心は、こんなにも冷え切っているのに。何故この二人は、氷を融かすのだろう。
「ともかく、お疲れ様、江利子。さ、上がって。上がってっていうか、ここは貴女のおうちなのだけれど。ご両親もお兄様方も心配してらっしゃるわ。さ、早く、こっちへ」
 差し伸べられたお姉さまの手が私の肩か、頬か、それとも髪の毛かに触れた。正直な話、寒さで感覚が麻痺していて触れられても判らないのだ。
 人は本能的に温もりを求める傾向にあり、人が最も心地よく感じることの出来る温もりは、同じ人の肌の温もりなのだという。だからこそ人は人と肌を重ね合わせることを本能的に求めるものらしい。
 だから、きっと本能だった。差し出された腕をつたい、さらにぬくもりを求めお姉さまにすがりついてしまったのは。
「お姉さまっ……!」
「……頑張ったわね、江利子。あなたはほんと、がんばった。私は、あなたの姉でいられたことを誇りに思うわ」
「あ、あの。私も、お姉さまの妹で居させてもらえて、その、すごく誇りに思いますっ」
「あああ……お姉さま、おねえさま……ッ、うあぁぁぁっ……」
 私はきっと、好きだったのだろう。大好きだったのだろう。聖のことも蓉子のことも、きっと等しく大好きだった。
 けれど蓉子は聖を選び、そして聖は久保栞を選んだ。
 だとしたら、私は誰を選べばいい?
 いつだって中途半端だった私は、一体誰を選べばいい?
 ずっとずっと、そんな事で悩んでいた。
 もっと素直になれば良かったのだ。クリスマスパーティーとか、そんなものは関係なしに、彼女たちにぶつかっていけば良かったのだ。
「くやしかった……凄く悔しかった! 聖は栞を選んで、蓉子は聖を選んだ……私は……私は誰にも選ばれないことが悔しかった……! だから私は選べなかった! 子供みたいにヘソを曲げて、お姉さまにも素直になれって言われたのに、でも、ぜんぜん素直になれなくて……!!」
「……判るわ。よくわかる。そういうの、辛いわよね。でも江利子はがんばった。私なんてがんばることすら出来なかったのに。えらいよ、江利子。えらいえらい」
 ぽんぽんと頭を撫でられて、まるで私は子供みたいだった。けれど、どうすることも出来なかった。こみ上げてくる激情は私の理性には到底手に負えなくて、ただ私は、声を上げて泣き続けた……。



 7

「──江利子ッ!」
「へっ?」
 肩を強く揺さぶられると同時に、私はまどろみから覚醒した。程よく暖房の効いた木造りの古めかしいこの部屋は、見慣れた薔薇の館の会議室だ。
 目の前にはこれまた見慣れて見飽きた顔が一つ、椅子に座って呆けている私の顔を覗き込んでいる。見飽きた友人、白薔薇さまの佐藤聖だ。
 ううむ、と私は内心で腕組みをして考える。少し状況を整理してみたい。
 今日はクリスマス・イヴ。
 イヴといえば、山百合会恒例のクリスマスパーティーだ。辺りを見回せば、あまたの色彩のイカリングが──折り紙で作られた例の装飾が、所狭しと飾られている。心なしかイカリングの数が以前見たときよりも増えているような気がする。
 まあ、今年でパーティーも三度目の経験だ。徐々に増えていくものなのだろう。
 そう、今はパーティーの真っ最中だったはずだ。なのにどうしてこの私は、のうのうと眠っていたのだろうか。仲良く語らう後輩たちや同輩連中を眺めていたら余りにも平和な気持ちになり、程よく効いた暖房にも後押しされ、ついうとうととしてしまった。まったく恥ずかしい限りだが、一応筋のとおる推理だ。
 私は自分の推理に満足していたが、しかし目の前の聖の表情は。
「……なに、泣いてるのさ江利子。ちょっと前からかな、アンタ、眠りながら泣いてたんだよ。気味悪いったらないよ」
 聖は驚いている。非常に半端ない驚愕の表情を浮かべている。今日は山百合会のパーティーで、ついでに明日はこの聖の誕生日だ。なのに聖ったら死ぬほど驚いている。
「大丈夫? 体調が悪いなら保健室、連れてってあげようか?」
「ははは。何よ蓉子までそんな深刻な顔しちゃって。これはほら、あくびよ、あくび。その所為で涙が出たのよきっと」
「それにしたって……ねえ」
「ねえ」
 聖と蓉子は互いに不安げな面持ちを浮かべたまま頷きあう。それを見て、どうしてか私はほのぼのとした気分になる。寝起きという事で頭が上手く回っていないのだろうか。
 けれど今なら、そう。素直に、ありのままに気持ちを伝えられる気がする。
 だから私は言った。
「二人とも、大好きよ」
 と。
「は」
「ハハハハハ……」
 この寒い季節なのに彼女らのこめかみには、汗が一筋たらりと伝っていた。暖房の効きすぎだろうか? いや、それにしては二人とも妙に青い顔をしている。壊れたロボットのように乾いた笑いを上げつづける二人は、少しだけ常軌を逸脱していた。
「ねえ聖」
「なにさ」
「江利子が、聖のこと好きだって」
「違うって。江利子は蓉子のことを好きって言ったんだよ」
「聖のことよ」
「蓉子だって」
「……もしかして、江利子のことを泣かせたのは、聖、あなた?」
「違うって。むしろ泣かせたのは蓉子じゃないの?」
「……」
「……」
 次の瞬間、拳と拳が、目の前で交錯した。互いに拳撃が不発だったことを知るやいなや、互いに距離を取り、構えたままに対峙する。
「……よくも江利子をオモチャにして泣かせてくれたわね。いくら聖でもそればっかりは許すわけにはいかないわ」
「……それはこっちのセリフだ。江利子を泣かせやがって。マリア様が許しても、この佐藤聖が貴様のことを許さない」
「いやあぁぁぁぁぁぁぁーーー!!」
「チェストォォォォォォォーーー!!」
 そして、雄たけびを上げて激突する二人。まさに獣と獣の激突だった。そこには龍と虎の対決のような荘厳さは微塵もなく、いうならばライオンとトラの対決のような泥仕合に近い。繰り返される一進一退。どちらも決め手に欠ける戦いが繰り広げられた。
 一年生と二年生諸氏は、突然の脈絡のないバトルに開いた口が塞がっていない。このバトルは言うなれば聖と蓉子の照れ隠しに近いものがあるのだが、それはこの私にしか知りえないことだろう。
 聖の隙を突き、蓉子が投げ技に持ち込もうとする。繰り出されたのは蓉子得意の投げっ放しジャーマンだった。向こう側の壁まで放り投げられた聖は、壁をぶち破ってのびている。完膚なきまでに鮮やかに決まった。これでは聖は再起不能かもしれない。
「江利子、あなたを泣かせた悪い奴は成敗したわ。さ、安心して眠りな、さ……ぐえッ」
 踏み潰された蛙のような声を発して、蓉子の姿が掻き消えた。復活した聖が音も無く走りより仕掛けたのはランニングネックブリーカーだった。首をまともに持っていかれた蓉子は気がつけば床で伸びていて、聖はそんな蓉子に一瞥すらくれることなく、私に向ってにっこりと言う。
「ようやく素直になってくれたんだね江利子。突然告白されて驚いたけど、私も嬉しいよ。素直な江利子は万倍可愛いよ。邪魔者は退治したからほら、何でも遠慮なく。素直になってほら、私の胸に飛び込んでおいで」
 両手を広げた聖に、私は近づいていった。
 そう、私は少しだけ素直になれた。あの日、雪になって消えた二人に言えなかったこと。出来なかったことはたくさんある。けれど、今の私は一年前の私よりは少しだけ素直だった。
 だから今、素直に聖にぶつかろうと思う。
「よくも」
「はい? なんだって?」


 ──よくも私が精魂込めて準備したパーティーをすっぽかしてくれたわね、せえぇぇぇぇぇぇぇぃぃぃぃぃぃーーーーー……!!!


 間抜け面をさらしたままの聖の後ろに回り、無防備なその背中からチキンウィングフェイスロックを仕掛け聖の動きを封じる。
「フフッ、借りは返させてもらうわよ、聖」
「馬鹿な……この私が、こうも簡単に後ろを取られるなんて……!? はッ、まさかこの体勢は!? やめて! あれだけはやめて! ムチウチになっちゃう……!!!」
 慌てて聖は身もだえするも既に時遅し。そのまま私は、禁断の五連続バックドロップに持ち込んだ。五度目のバックドロップの時には流石に少し目が回ったが、しかし既に聖の意識はそのとき刈り取られていただろう。手加減をしたから命までは刈り取っていないだろうけど。
「素直になるって、素敵なことよ。あなたたちも、時には素直になる努力をすることを、忘れてはいけないわよ」
 私の足元でのびている聖はとりあえず置いておき、私は後輩たちへそう言った。
 カクカクと可愛い後輩たちは頷いてくれて、そして聖と蓉子に借りを返せたことで、今年のクリスマスパーティーはつつがなく幕を降ろしたのである。




 エピローグ

「今日はヘアバンドをしてるのね」
 かつて──三年前まで私のお姉さまだった人は、私の額のあたりに視線を向けて、そう言った。今も昔も私のトレードマークらしいヘアバンドを今は身に付けている。
「最近では、つけたり外したりですよ。ヘアバンドつけてれば若く見られることもあるし、かといってかしこまった席でヘアバンドは格好つかないですし」
「成長したわね。姉冥利につきるわ」
「何もかもお姉さまのお陰ですよ」
 今日はクリスマスイヴ。駅前で友人たちを待っている時に、思いがけない人との再会を果たすことになった。かつてリリアンの高等部に在籍していた頃に、足掛け三年間私が、”お姉さま”、と呼びつづけた大恩ある方だ。
 あまりべたべたしない関係だったから高等部卒業と同時に縁は切れていたのだが、こうして久しぶりに顔を合わせてみればやはり、何年経ていようと私にとってお姉さまはお姉さまだった。

「もしかして待ち合わせの友人って、彼女たちのことかしら?」
「そうです。腐れ縁がずっと続いていまして。イヴに女三人ってのもどうかとは思うんですけどねぇ、ははは……」
「いいじゃない。素敵なことだと思うわ」
「お姉さまは、紅薔薇さまや白薔薇さまとは?」
「……あれ以来、ね。もともと彼女たち二人は親しかったから今でも会っているみたいだけど、私は山百合会に入ってから知り合ったから、やっぱり距離はあるわ」
「そう、ですか。すいません、込み入ったことを聞いてしまって」
「いいのいいの、気にしないで。江利子はがんばったのだもの。貴女のがんばりが、今もあなたたち三人を結び付けているのだと思うわ」
 どうだろう。私たちの場合、例え私がどう動こうが、いつまで経っても切っても切れない関係を続けている気もするが、それは確認のしようがないことだ。今は今なのだから。
 喫茶店でかれこれ小一時間ほど話し込んでいるのだったが、そろそろ待ち合わせの時間が迫っている。
「そろそろ出ましょうか? 私も実は、待ち合わせでね」
「あ、そうだったんですか。ん、イヴということですし、お相手は」
「もう、あまり詮索しないの」
 しかし、お姉さまは笑っていた。恐らく待ち合わせのお相手は男性だろう。お姉さまを射止めた奴に興味が湧かないでもなかったが、踏み込みすぎないのが私たち姉妹の関係だった。これくらいの距離感がお互いに心地よいのだ。


 喫茶店を出て、お姉さまとは別れた。連絡先の交換はしなかった。縁があればきっとまた会えるはずなのだから。
 駅に向ってのんびりと歩いていると、駅前のロータリーのバス停のあたりに見覚えの或る風体の二人を発見した。どうやら向こうも同時に私の姿を認めたらしく、小さく手を振っている。同時に気付くという辺りが、もう度が過ぎたツーカーという感じがして何だかもう。
 今日は山百合会のクリスマスパーティーに誘われており、こうしてかつての薔薇が三人揃って久しぶりの母校へ赴くという趣向だ。あの二人の片割れなぞリリアンの女子大に進んだのだから現地集合でよいものだが、しかし、そこはそれ。少しでも雰囲気を大事にしたいらしかった。気持ちは判らないでもない。
 今の薔薇はあの三人のはずだ。性格的に開きのある三人だったから纏まるのにも一苦労かもしれないが、それもまた味だろう。噂によれば、私たち三人を驚かすとっておきの仕掛けがあるらしい。素直な紅薔薇だけでは面白みにかけるが、かなりの曲者な黄薔薇や、しれっとすごいことをやってのける白薔薇などの存在を鑑みれば期待してもよいだろう。楽しみだ。
 バス停の傍にいた二人は、私のゆっくりとした歩みに業を煮やしたか、向こうから近付いて来てくれる。二人とも、変わらぬ笑顔だった
 あの日雪になって消えた二人の笑顔は、今でも私のすぐ傍にある。


 了






▲マリア様がみてる