■二条乃梨子は笑わない


 二条乃梨子は笑わない。
 祐巳にとっての彼女の印象とは、その一文に集約される。
 決して感情の起伏が乏しい子だとは思わない。
 しかし、『二条乃梨子』 という少女を思い浮かべる場合、10人中8、9人は、お馴染みの仏頂面を思い浮かべることであろう。
 いや、彼女が稀代の仏像マニアだからだという理由では断じてなくて。
 恐らくは、頭の回転がとても速いのだろう。
 尚且つとても利口な子だから、周囲の状況や他人の思考など、大抵のことは即座に読めてしまうのだと思う。
 年齢不相応に度胸が据わっている、という点も、それを後押ししている。
 つまり、笑うとか怒るとかそういう無意識的感情よりも、理性あるいは意識下の感情が先行するのだろう。
 だから彼女は笑わない。
(もっと笑った方が可愛いのに。もったいないよ)
 唯一彼女が無防備な笑顔を晒すのは、他でもないあの人の前でのみである。
 そう、祐巳の友人でもあ乃梨子ちゃんのグラン・スールである、藤堂志摩子さんを前にした時だけ、彼女は年相応の無邪気な笑顔を浮かべるのだ。
 志摩子さんのどういう部分が乃梨子ちゃんのツボを刺激したのか知らないが、とにかくあの二人は波長が合うらしい。
 純粋な笑顔を浮かべて語らう白薔薇姉妹は、それこそ一枚の絵画のように綺麗で、完成されている。
 その光景は、それこそひとひらの奇跡の如き美しさを醸し出していて。
 彼女たち二人の世界には、誰も踏み込めないという専らの噂を、正しく体現している。
 それはそれで、実に結構なことだとは思うのだが──。
 しかし、『笑いは心の潤滑油』 との先人の言葉にも在る通り、衣食住と同じくらいに、笑顔というのは重要なものだと思う。
 あまり笑わない二条乃梨子という存在は、瞳子ちゃんを初めとする彼女の友人たちや、山百合会のメンバーたち。さらには彼女自身にとってさえ、好ましいものとは言い難いのではなかろうか。
「ううむ」
 祐巳は腕を組んで考える。
 これは由々しき事態である。
 本来妹を導くべく存在している姉、つまりは志摩子さんのことだが、性格的に鑑みて、あまりうるさく指摘したりはしないだろう。というか、絶対しないだろう。断言できる。
(だからこそ、ここは私が)
 余計なお節介だと言わば言え。事態を傍観できるほど大人ではない。なにより自分はそれほど冷たい人間でもないつもりだ。
 ──だからこそ私は、見事二条乃梨子を笑わせてみせよう。


「乃梨子ちゃんって、あまり笑わないよね」
 何でもない風を装って、祐巳は乃梨子ちゃんに声を掛けた。
 時は放課後、場所は誰も居ない──祐巳と乃梨子ちゃん以外には誰の姿も見えない薔薇の館。絶好のロケーションだ。
「そうですか?」
 そう答える乃梨子ちゃんの表情は、やはり笑顔でも何でもないただの能面。
「そうだよ。何で?」
「何でって言われても……現状において、私が笑う理由も意味も見出せないからですけど」
「ふうん。理屈っぽいこと言うね」
「恐縮です」
 まずい。
 絶好のチャンスだというのに、笑いの欠片も見出せないでいる。むしろ口論でもしてる気分だ。
 糸口を。どうにかして糸口を掴まなくては──。
「……じゃあ、お姉さんが乃梨子ちゃんのことを笑わせてあげようか」
「私のお姉さまは、藤堂志摩子さまただ一人です」
「言葉のあやだってばさ。後輩は先輩の云う事を聞くものだよ?」
「ひどく恣意的なことはそれに含まれないと思うのですが……まあ、構いませんよ。私のことを笑わせてください」
「了解。それじゃあ、よろしくお願いしますね」
「こちらこそ」
 互いに頭を下げる二人。
 他者が見れば、奇異の視線を遠慮なく投げかけたくなるであろう二人であった。

「それじゃあ早速……」
「あ、一つ断っておきますけど」
「?」
「いきなりくすぐったり、変な顔をしたり、下らないジョークを用いるのは厳禁ですよ。それらに属するようなことも、却下です。これは忠告ではなくて、警告です」
「……それら或いはそれらに属するようなことをしたら、どうなるのかなあ」
 恐る恐る祐巳は聞いてみた。すると、
「私が祐巳さまを軽蔑するだけです。そして、それが祐巳さまがリリアンの高等部を離れるまで続く予定です」
 うわぁ……ひどい事言うなあ。
 祐巳が一年生だった頃は、もっとこう、可愛げが……いやいや、そんなことを考えている場合じゃない。
 しばしの沈黙の後に、祐巳は切り出した。
「そういえばねえ、こないだ志摩子さんが」
「結局志摩子さんに頼るんですか」
 だが、あっさりと切って捨てられた。
「志摩子さんのネタを振っておけば取り合えずOKだなんて、そんな甘い考えは捨てていただくのが賢明だと思いますよ」
「むう……」
 ガードが固い。これは切り崩すのに中々骨が折れそうだ。
「それじゃあねえ、こないだ瞳子ちゃんが……」
「瞳子といえば、祐巳さまご存知ですか?」
「え、なになに?」
「このあいだ体育の序業で跳び箱をやったんですけど、可南子さんは跳び箱八段を余裕で飛べるんですよね」
「ふむふむ」
 そうだろう。運動神経抜群で足もすらりと長い。彼女にとって跳び箱八段なんて、水溜りをまたぐようなものであろう。
「でも瞳子は小柄で運動神経も人並み。八段なんてとてもとても」
「ふむ」
 そうだろう。祐巳とほぼ同じ体格の瞳子ちゃんにとっては、跳び箱八段と云えば、まさしくモンスターボックスだ。
「でまあ、瞳子と可南子さんがそこでも口論になって、”あらあらみっともない。私が補助してさしあげましょうか?” と、可南子さん。”ふん。跳び箱またぐだけのウドの大木さんが何を仰るの?” ”ごめんなさいね足が長くて長くて” ”そのうち首まで伸びるんじゃございません? ろくろ首という方をご存知?” なんて不毛なやりとりをしてたわけですが……そうしたら可南子さん、『……ロイター板のくせして』 って、ぼそりと。瞳子のバネのような髪型を差して……」
「ぶわっはは」
 ロイター板なんて単語がとっさに出てくるところが素敵だ。身体的な特徴を揶揄するのは決して誉められたことではないけれど、つい笑ってしま──
「はっ」
 祐巳が笑ってどうする。しかも爆笑。
「甘いですね、祐巳さま。いつかその甘さが命取りになりますよ」
「うう……」

 結果は散々だった。
 乃梨子ちゃんの築いた防壁は深く、高い。さながら海の如し山の如し。
 祐巳の企てた薄っぺらい戦略は、彼女の壁に傷一つつけられないままに、敗走を余儀なくされた。
「もうお終いですか? それでは、私も暇を持て余している訳ではありませんので、この辺りで失礼させていただきます」
 それではごきげんよう、と乃梨子ちゃん。やっぱりその表情は能面のままに。
 去っていく乃梨子ちゃん。
 祐巳はその背を、忸怩たる思いで見つめるばかり──。


   ◇


「だめだ……」
 祐巳はテーブルに突っ伏した。
 想像というシュミレーションの中でさえ、彼女に一矢も報いることが出来ないとは。
 二条乃梨子……恐い子!
「ふふっ」
 何か、含み笑いのようなものを聞いた。恐る恐る祐巳が顔を上げると……。
「乃梨子ちゃん!」
 何と、祐巳の前に居たのは、二条乃梨子ちゃんその人だった。
 何故どうしてと、混乱のるつぼに叩き込まれる祐巳。
「何故って言われても……たまたま私と祐巳さまが薔薇の館に来る道中で一緒になって、着いてみればまだ誰も来てなくて。そうしたら祐巳さま、私の顔見ながらぶつぶつぶつぶつと」
「うわ……」
 とんでもないところを見られてしまった。嗚呼穴があったら入りたい。最近活発な活断層の隙間に潜り込んでしまいたいっ。
「でもまあ、祐巳さまの百面相には、適いませんよ」
「へ? 何のこと?」
「わからないなら、いいですよ」
 意味深な言葉を紡ぐ乃梨子ちゃんは、薄い笑みを浮かべていた。


 了






▲マリア様がみてる