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■タイセツナヒトのために


 『心配してくれてありがとう。ごめんね』

 彼女は、確かにそう言った。
 痛ましい笑みを浮かべて、そんな表情など、彼女に最も似合わないものだというのに。
 私は、彼女を止められなかった。
 それは、むしろ引き止める言葉が出てこなかった、と呼ぶに相応しかったかもしれない。
 何故なら、彼女の瞳の中に、絶望の色を視たから。
 だからこそ私は、引き止められなかった。『一人になりたい』、『誰とも喋りたくない』という、彼女の中の負の部分に、賛同してしまったからだ。
 けど、それは決定的に間違いだった。
 あのとき私は、首に縄をつけてでも、彼女を薔薇の館に連れて行くべきだったのだ。そうすれば彼女は、一人雨に打たれることも無かった。
 せめて、傍に居てあげられていたなら、何かが、変わっていたのだろうか。


 1.

 予感はあった。
 先週までの彼女の態度と、今日の朝の山百合会の集まりに、彼女が出席してないことを確認して、その予感は確信へと変わった。
 後はその確信を、疑問としてぶつけるだけである。
 その為に、白薔薇姉妹の藤堂志摩子さんと二条乃梨子ちゃんには、早めに薔薇の館に来てくれるよう頼んである。
 具体的には、志摩子さんに頼んだのみだが。
 理由は話していない。別に話しても構わなかったが、止められる恐れはあった。だから、話さなかった。
 残る邪魔者は、姉である支倉令のみだ。
 既にそちらの方も対策を打ってある。その為に、わざわざ休み時間中に、辞書など借りに行ったのだ。
 だから私は、後は薔薇の館の一階で、あの人が来るのを待てばいい。
 ……ほどなくして、館の入り口は開かれる。
「…? どうしたのかしら、由乃ちゃん」
 入ってきたロングヘアの上級生は、奇麗な声でそう言った。
 小笠原祥子さま。現在の山百合会の、中心人物の一人である。
「祥子さま、お話があります」
 私は一歩踏み出る。
「令があなたのことを教室で待っていたわよ。辞書がどうとかと言って…」
 そこまで言って、祥子さまは気付かれたようだった。
「…たばかったわね、あなた」
 私は、昼休みに令ちゃんのところへ辞書を借りに行った。放課後に返しに来るから、教室で待っていてくれと、付け加えて。
 だから今頃彼女は、来る筈の無い私を、待ち続けている筈なのである。
「令が居ては都合が悪いのかしら?そうでなければ、自分の姉をないがしろにするような真似はおやめなさい」
「そんな事、今は重要じゃありません」
 私は、私自身の想像以上に不機嫌になっているらしい。でなければ、この方に対して今のような口はきかない。
 案の定祥子さまの瞳は、一目見てゾクリとする程に細められた。だけど今は、そんな事も重要ではない。そんな事今は、どうだっていい。
「祥子さまが、祐巳さんに辛く当たる理由を教えて下さい」
 目の前にいる人の表情が変わる。
 私が知りたいのは、これだった。
 数日前までは、自分の…自分たちのことで精一杯だった。周りを見回す余裕も無かったから、だから彼女の様子まで気が回らなかった。
 けれど今になってみれば分かる。
 もう既に祐巳さんの精神が、崖っ淵まで追い込まれていることに。
 祐巳さんは、我慢強い人だった。彼女に辛く当たる人間は多くないだろうが、きっと彼女は、何を言われても自分の中に押し込めてしまう人間なのだ。
 なのに感受性が鋭いから、人一倍そういった他人の言葉を気にする。だから、そうやって追い込まれていく。
 彼女は、そういう人間だ。
 だとすれば、今彼女をそこまで追い込んでいるのは、何か。
 そんなものは一目瞭然だ。
「意図を図りかねるわね。私は祐巳に辛く当たった覚えはないわ」
「嘘ですっ!でなければ何故、何度も祐巳さんとの約束を破ったんですか!?そのことで祐巳さんがどれほど落ち込んでいたか、それくらい予想がつくはずです」
「それに関しては、祐巳の了解を得ているわ。あの子は納得してくれたはず」
「守れもしない約束を交わすのに納得しろって言うんですか!祐巳さんが納得なんて、してるはずないでしょう……!!」
 だんだん自分の感情が抑えられなくなっていく。このままでは、もっと酷いことを言ってしまうかもしれない。けれど今更後に引くことなんて、できっこない。
 祥子さまが口を開きかけたその時
 薔薇の館の扉が、勢いよく開かれた。
「外まで…聞こえてる」
 そこに立っていたのは、支倉令であった。
「令ちゃん……」
 私は、ついそう呟いてしまっていた。
 予想していたよりも、あまりにも早過ぎる。彼女がやってきてしまったからには、祥子さまに対してこの糾弾じみた質問など、続けられよう筈もない。この状況では、どうやったって私の味方になんてなってはくれない。
「タイミングがいいわね、令。あなたに言っておく事があるわ」
「なにさ」
「妹の躾は、ちゃんとしておきなさい。年上の人間に食ってかかるようなブゥトンなんて、常識外だわ」
「……ッ!」
 自分自身で、噛み締めた奥歯が痛かった。
──躾が必要なのは、アンタの方なんじゃないのッ…!! この高慢ちき……!!!
 喉のすぐそこまで出掛かったような。むしろ、噛み締めた歯に跳ね返って、辛うじて外界に弾き出されなかったと言うべきか。
「…躾が必要なのは、アンタの方なんじゃないの?」
 だから、すぐ脇から私の耳にそんな言葉が飛び込んできた時には、私にはまるで魔法のように聞こえてしまったのだ。
 私は思わず隣にいる姉の横顔を、まじまじと見つめてしまった。
 階段を上がろうとしていた祥子さまは、意外な人物からの自分を糾弾する声に、少々面食らったようである。
「……令、それはどういう意味かしら」
「言葉通りの意味さ。自分の妹が苦しんでいるのにフォローも無し。ただそれを傍観してるだけのアンタには、薔薇さまの称号は相応しくないね。蓉子さまに一体何を教えてもらったのさ」
「……あなた達には、関係の無い話だわ……」
 それは呟きとしか形容できないほど小さな声だった。
 祥子さまは、まるで私たちへの興味が失せたかのように、踵を返すと、一人で階段を上っていって二階へと消えていってしまった。
 胸の中がもやもやとする。苦しい。息苦しい。
 けれど私が焦燥感に駆られている暇はないのだ。こうしてる今も、親友が身を切り裂かれるような苦痛に苛まれている筈だから。
 このままではきっと、取り返しのつかないことになる。
 彼女たちにとって、『周りの人間』である私たちが手をこまねいていては、絶望的な予感に正面からぶち当たってしまうような…そんな暗雲めいたものを感じるのだ。
「祥子の方は私に任せておいて。大丈夫さ、由乃は間違ったことは言ってない」
 ぽん、と、頭に手が置かれた。
 ずっとやってる剣道のせいで、男性の手のようになってしまった。だけど私が一番大好きな、手だった。
 姉が味方についてくれたことが素直に嬉しかった。
 が、嬉しがっている場合でもない。
 あの『高慢ちき』を令ちゃんに任せて、私は、もう一人の容疑者に会いに行くことにした。


 2.

 その人物は、私の射抜くような視線に早々に気付いたらしい。
 練習が一段落したところを見計らって、私のところへ走りよってきた。
 彼女の顔はあくまでも笑顔だ。が、心の中でも笑っているかというと、決してそんなことはない。確信できる。
 何故かといえば、多分私も同じような表情をしているからだった。
「ごきげんよう、黄薔薇のつぼみ。どうされたのですか?」
 私はそれにごきげんようとは答えずに、今時間は取れるかと問うた。
 当然彼女は私のつっけんどんな態度をいぶかしがり…何かを感じ取ったかのように、「10分くらいなら」と答えた。

「…で、一体何の御用ですか?薔薇のつぼみともあろう方が」
 目の前にいる少女、松平瞳子は、今度は隠しもしない。さも不機嫌そうに言った。
「悪いわね。わざわざ練習中に引っ張り出して」
「そう思うんでしたら、早く用件を言ってください」
 彼女の反抗的な態度は予測できたものだったけど、祐巳さんのためと思えば別段煩わしくも何でもない。
「わかったわ。祥子さまが祐巳さんよりも優先すべきこと…それが一体何なのか、知っているなら教えなさい」
「…祥子お姉さまと祐巳さんのケンカの原因…とかじゃないんですか?」
「最初は単純なケンカだとは思ったんだけどね。よくよく観察してみるとそうでもない。でも、こないだのマリア祭の時の二人は、いつも通りだった。つまりここ数日に、祥子さまに何かがあったと思ったのよ」
 祐巳さんをほったらかしにするほどの何かが、ね。
 すると彼女は不敵な笑みを浮かべた。はっきりいって気に食わない。
「鋭いんですのね。さすが、祐巳さまと違って」
 一瞬、ひっぱたいてやろうかと思った。
 今も悩み苦しんでいる筈の祐巳さんを侮辱できる権利なんて、あんたにはない。
「黄薔薇のつぼみの仰った通り、今、祥子お姉さまは、大変な状況なんです。だから祐巳さまにはかまっていられない…。大体、こういうことです」
「その、『大変な状況』とやらを、もっと詳しく教えてもらいたいものね」
「お教えすれば、祐巳さまにも伝えるでしょう?」
 それは当然だ。
 でなければ、自身の姉でもないのに、『祥子お姉さま』などと呼ぶいけ好かない人間のところへわざわざ出向いてきたりはしない。
「でしたらお教えするわけには参りません。祥子お姉さまに、固く口止めされておりますので」
 もうよろしいでしょう、とでも言いたげな態度だ。
「どうしても、祐巳さんを救うのに協力はしてくれないの」
「ええ。申し訳ありませんが」
 ここで祐巳さんを救えなければ、きっと取り返しのつかないことになる。
 ああ見えて祐巳さんは意外と頑固で、思い込みが強い。特に、思いつめて頑なになっている今ならば尚更だ。
 祥子さまを取り巻く、『大変な状況』とやらが首尾よく落着したとして、その時になって祥子さまが祐巳さんに手を差し伸べたとしても。
 その手が、誠意に満ちたものであったとしても。
 祐巳さんは、おそらく祥子さまを拒絶するだろう。
 既にその片鱗は見え隠れしている。薔薇の館に顔を見せなくなったのがいい例だ。彼女は、すすんで祥子さまとの繋がりを、断とうとしている──。
「お話が済んだのでしたら、これで」
 
 松平瞳子は、私の目の前から去っていった。
 祐巳さんと祥子さまが離れたとして。
 その現実に耐えられないのは、はたしてどちらの方だろうか。
 そんなものは決まっている。
 祐巳さんに一度でも拒絶されてしまえば、きっと祥子さまの心は無事ではすまないだろう。
 そして
 その時に祥子さまを立ち直らせることが出来るのは、祐巳さんを置いて他にはいない。
 けれど
 祐巳さんが、祥子さまに手を差し伸べることを拒絶したら?
 そのことを松平瞳子に伝えたかったのだ。今一番祥子さまの近くにいる彼女に。
 けれども喋れなかった。
 あれ以上口を開けば、きっと私は彼女に酷い言葉を投げかけてしまっただろうから。

 そして今日も薔薇の館に福沢祐巳の姿はなく
 彼女がいない分だけ、いや、それ以上に空気が沈んだままで。
 朝から続いていた雨は、結局丸一日降り止むことはなかった。


 3.


 朝から、天気も気分も良くない日だった。
 昨日は結局、あの後薔薇の館では殆ど口を開かなかった。
 生意気な縦ロールからは何も聞きだせず終いで、どうせ祥子さまにはなにかしらの嫌味を言われるのであろうと覚悟して薔薇の館に戻ってみたが、予想に反して当の祥子さまは、まるで周りに人間がいないかのように、一人ぼーっとされていた。
 姉である令ちゃんに聞いてもあまり要領を得た説明は得られなかったし、それは白薔薇姉妹に聞いたところで結果は大差ないだろう。
 志摩子さんのような性格の人に、我の強いあの二人を、強制的にでも引き合わせて仲直りさせることなど、期待するのは酷というものだ。妹の二条乃梨子ちゃんは志摩子さんとは反対に、押しが強くて我も強い。頭が良くてしっかりもしているし、周りを良く見て冷静な判断も下せる。なかなかに頼れる人物だとは思うが、彼女のような、『新入り』に頼るのは、志摩子さんや祐巳さんよりも半年も薔薇の館に長く居る私のちょっとしたプライドが、許さない。
 何とかしてあげたい。
 今は6時限目の二年松組の教室。私、島津由乃の席の、やや右前方の席に腰掛けている福沢祐巳さんの後姿を見つめながら、そう思った。
 やがて授業はチャイムと供に終了し、一応これで今日の授業は、全て終了したことになる。私と祐巳さんはこの後、薔薇の館に向かい山百合会の仕事に従事することになっているのだが──
 祐巳さんは、私の方を一度も振り返らずに、一言も声をかけずに、教室を出てゆこうとしていた。
「祐巳さん」
 私は反射的に彼女を呼び止めた。しかし彼女の歩みは止まらない。そのまま祐巳さんは、一人で教室を出て行ってしまった。
 かっ、と、頬が熱くなった。
 私が呼び止めたとき、祐巳さんはほんの一瞬だけ、びくりとした。だけど振り返ることなく行ってしまった。
 つまり私の声は届いていた。故意に彼女は、無視したのだ。
 私は教室を飛び出して、彼女を追った。
 きっと私と顔を合わせたくないから、いつもより急ぎ足で昇降口へ向かったのだろう。でなければもっと簡単に追いついたはずだ。
 玄関で靴を履き替えていた彼女にようやく追いついた私は、早速、『問い詰める』ことにした。
「いったい何があったのよ」
 もちろんさっきの無視のことではない。祥子さまも縦ロールも口を割らないならば、祐巳さん本人に直接聞くしかあるまい。
 祐巳さんは、私の顔を真正面から見つめた。いや、それは、『睨みつけた』と形容するのが相応しいものだったかもしれない。
 その真意は読み取れない。
(そんな表情、似合わないよ。祐巳さん)
 そう思ったけど、私はそれとは違うことを言った。
「祥子さまだって心配してるよ」
「まさか」
 祐巳さんは鼻で笑った。
 また、彼女に似合わない仕草。私は内心、わずかばかり狼狽していた。かつての祐巳さんは、いやまだ昨日までは、祐巳さんは祐巳さんだった。他人の悪口など決して口にしない、平和の象徴みたいな人。昨日までは、彼女自身がやや憔悴したような雰囲気はあったが、それでもまだ『普通』だった。
 けれど、今の祐巳さんには、その『普通さ』が欠落している。
 だから彼女の挙動言動は、こんなにも冷たく感じる。そのことに関して、私はうろたえていた。
「本当だってば」
 それは嘘だ。自分で言っておいて嫌になる。昨日の祥子さまは、少なくとも祐巳さんのことで悩んでいた風ではなかった。もっと、別なことに心を囚われていたようだった。祐巳さんが姿を現さなかったことについても、帰り際に申し訳程度に志摩子さんに尋ねていただけだ。
 そして今日は、その祥子さま自身が薔薇の館に姿を見せていない。令ちゃんの話によれば、出席はしているらしいが、昼休みには薔薇の館に来られなかった。
 私の嘘の言葉は、当然祐巳さんの心に届く筈もない。彼女の表情は、以前と変わることもなく冷たいまま。
「とにかく、今から一緒に薔薇の館に行こう」
 ここで祐巳さんを一人にすべきではないと思った。
 何か取り返しのつかない、冷たくて暗い予感がする。
 祐巳さんは足を止めている。けど、だんだん離れていってしまうような感覚を覚えた。
 反射的に私は、彼女の腕を掴む。
「行かない」
 振り払われる。拒絶の言葉と供に。
 彼女の拒絶は、他人のそれよりもずっと冷たく感じる。それはひとえに、普段の彼女が纏う温かみによるものだろう。
「何があったか知らないけど、きっと祥子さまが悪いと思う。だから、一緒に抗議してあげる。黙ったまま腹を立てたら、永遠に仲直りなんて出来ないよ」
 半ば破れかぶれに私は言った。
 無理矢理にでも祥子さまと祐巳さんを真正面から突き合わせることが出来れば、何とかなると思ったからだ。
「もう、その段階は終わったんだ」
 その時の彼女の表情を見て、私は言葉を失った。
 『福沢祐巳』では、なかったからだ。目の前の少女が。
 私の良く知ってる、おっちょこちょいで、素直で、正直で、たまにお馬鹿な福沢祐巳では、なかったからだ。
「心配してくれてありがとう。ごめんね」
 それは彼女らしい温かい言葉だったけど、私はただ彼女の名を呟くことしか出来なかった。
 涙を見たから。
 悲しみと辛さで流れる涙を、果たして私はいくつ見た事があるのだろう。
 わからない。
 だから、胸が苦しくなった。息をするだけでも苦しさを感じるような、そんな気持ちになった。
 雨の中を一人、祐巳さんは歩いていった。
 彼女は冷たい雨を手に持った傘で受け止めながら、一体何を思うのだろう。
 お姉さまである、祥子さまのこと? 当然だろう。少なくともあからさまに『余計なお世話』という空気を振りまいてまとわりつく誰かのことではあるまい。
 祐巳さんを追いかけることは出来なかった。
 降りしきる雨越しに、弱弱しいけど確かな拒絶を感じ取ってしまったから。
 だから私は、薔薇の館に向かった。
 さっきも祐巳さんに言ったことだが、祐巳さんの方に原因があるとはどうしても考えられない。二人の態度を見ればそれは見当がつく。
 だとすれば残るは。
 

 4.

 ゆっくり歩いてなどいられない。
 傘を差して走っていては、雨露は勿論それほど防げるわけでもないが、悠長に歩いていられるほど余裕があるわけでもない。
 薔薇の館に、走る
 館の入り口が見えて、派手な音を立てて扉を開けて。軋む階段のことなど構っていられるものか。ぎしぎしと凄い音を立てて駆け上がりビスケットみたいな扉に手をかけて
「祥子さまっ!」
 開くと同時に叫んだ。
 まず目に飛び込んできたのは白薔薇姉妹。次に私の姉の支倉令の姿だった。令ちゃんは何か私に言っているようだ。大方制服が雨でかなり濡れているとか髪の毛が乱れているとかそういった事だろう。
「そんなの今、全然重要じゃないっ!」
 志摩子さんがびくりとしたのが見えた。
「祥子さまは、来ていらっしゃるの?」
「……来てないよ」
「どうして連れてきてくれないのよ!?」
 そう言うと、令ちゃんの少年のような表情がはっきりと不機嫌に歪むのが分かった。
「……無理矢理、首に縄でもつけて引っ張ってこようかとも考えたさ、本気でね」
 でも、と、令ちゃんは続ける。
「出来ないさ。私だってあの二人がどういう状況なのかさっぱりわからないんだ。それなのにでしゃばることなんて。祥子だって、悩んでるんだ」
「令ちゃん……」
「でもそれが何なのか、わからない。悔しいよ」
 そうだ。私も令ちゃんも、同じ事で行き詰まってるんだ。ただ相手が祥子さまか祐巳さんの違いだけで。
 私も祐巳さんを連れてくることが出来なかった。
 何を悩んでるのかも分からずに、ただおせっかいばかり焼いて、迷惑をかけて。
 大切な人なのに。
 親友なのに。
 本当に困っている時に、手を差し伸べることすら出来ずに。
 傍観することしか、出来ないなんて。
「ごめん、令ちゃん……」
 私は部屋の外へ飛び出した。一階の物置部屋に駆け込む。背後に私を呼ぶ声が聞こえてきたが、振り返ることは出来なかった。
 部屋に入り扉を閉めて、それに寄りかかって。
「私が泣いて、どうするのよ……」
 零れ落ちそうになった涙を見られたくなかったから、あの場から逃げ出したのだ。
 力を失って、ずるずると床に座り込んだ。
「どうして、私のことを頼ってくれないの……?」
 その程度の存在なのだろうか。彼女にとって、私は。
 悩み事の一つも打ち明けてもらえないような、そんな薄っぺらな関係だったのだろうか。
 少なくとも私はそうは思っていない。
 同年代の仲間で
 親友で
 未来の、薔薇さまたち。
(親友、だよね、私たち……。それとも私が思い上がってただけ……?)
 握り締めた拳が痛い。
 ぽつり、ぽつりと、冷たい床が音を立てた。何事かと思い調べてみると、それは──
(……悔し涙。これは単なる、悔し涙。祐巳さんのとは違う。他人になんて、見せられない……)
 部屋の外から誰かの呼ぶ声が聞こえたような気もしたけれど、雨音がざあざあとうるさくて、よく聞こえなかった。

 しばらくして私を呼ぶ声は聞こえなくなり、私は教室に戻って鞄を取って、そのまま帰宅した。誰にも何も告げなかったが、あの姉ならば多分分かってくれるだろう。どのみちこんな状況では、仕事になんてなりはしない。
 雨の中を帰る、一人で。
 隣には誰も居ない。
 祐巳さんが好きな人と離れ離れの悲劇に見舞われているのに、私だけ好きな人と帰る事なんてどうしてできようか。

 祐巳さんは今、どこにいるのだろうか。
 せめて一人じゃなくて、誰かと居てくれたなら。
 本当は、私の傍に居て欲しかったけど。
 それには届かなかったみたいだから。
 だから願う。マリア様に。
 ──せめて貴方が、誰かの暖かさに触れていることを祈って。



 5.

 目が覚めて──
 昨日、自分が涙を流したことだけがハッキリと思い出されて、やがて頭がしゃきっとしてくるにつれて昨日の出来事が浮かび上がってきて。
 朝っぱらから、憂鬱な気分になった。
 それは姉であり幼馴染でもある、少年のような顔をした人物も同じだったらしく、朝食を食べて玄関を出てそこでいつものように顔を合わせたとしても──二人の間の空気は重いものだった。
 学園までの道すがらに、令ちゃんとの会話は殆どなかったから、考える時間は充分にあった。
 そして、考える前に、思う。
 自分じゃない誰かのことでこれほど悩んだことが、果たして私の人生の中で他にあっただろうか、と。隣に居る支倉令は最早家族同然の人間だから別として。全く違うカテゴリーなのだ。
 私にとって、島津由乃という人間にとって福沢祐巳は、掛け値なしに、『親友』と呼べる存在だった。病気のことやいろいろな事が原因で、これまで私は親友と呼べる存在にめぐり合うことは出来なかった。
 そんな私が得た、唯一で無二の存在。
 私はそれを、軽く受け止めすぎたのではないか。軽く扱いすぎたのではないか。だからこそ彼女は、今のような肝心な場面になって、私に対して心を閉ざしたのではないだろうか。
 全然、分からない。
 親友を得たのも初めてだったし、その親友に拒絶されるのもまた、初めてだったから。
 どうすればいいのか、分からない。
 もし祐巳さんを失うことになったら、と、考える。
 それは、身が凍る思いだ。
 何でも話せて、同じ高さでものが言えて、手を伸ばせばいつでもそこに居てくれて、隣に居る時、いつも彼女は笑っていてくれる。
 そんな存在を、失うことになったら──
(考えたくない……考えたくないよ、そんな事……)
 足取りはますます重くなる。
 ふと気がつくと、令ちゃんは私の随分と先を歩いていた。気付かない彼女も彼女だし、自分も自分だ。
 けれど慌てて追いつくほどの気力は沸いてこなかった。


 二年松組の教室に入って最初に目に入ったのは、新聞部の山口真美さんの後姿。
 そして。
 その後ろで見覚えのありすぎるツインテールがぴょこりと揺れた時、私の心臓が早鐘を打った。
 その少女は私の姿を認めたらしい。周囲の椅子やら机やら鞄やらを引っ掛けながら忙しなく足早に私のところへ向かってきた。
 慌てた様子の彼女だったが、私の心の中は彼女の挙動の比ではなかった。私のところへ来てどうするつもりだろう。もう話したくないのではなかったか。もしかすると絶交宣言でもされるというのだろうか。私は何を言えばいい?どういう態度で、迎えればいい?わからない、わからない──
 彼女が私の名を呼んだ。私は、返事も出来ずにただ見つめ返すのみ。
「昨日は、ごめんね。心配してくれたのに、何か、突っぱねちゃったみたいで」
 何を言おうかと迷ったが何も浮かばなかった。目の前で福沢祐巳が私相手に喋っているという事実のみに囚われていたから
「ふーん」
 私の口から吐き出されたのは、そんな言葉だけ。
 取りあえず鞄を机において落ち着こうと思った。そんな私を祐巳さんは見つめている。
 相変わらず何を言えば言いか思いつかなかったけど、出来れば二人になりたかったから、廊下に行こうと顎で示すことにした。
 廊下を歩く。祐巳さんは、黙って私の後をついてくる。
 すれ違う人間たちは、薔薇のつぼみ二人が肩を並べるでもなく離れて歩いているのを、奇異の視線で見る。
 そもそも私は、もうすぐHRも始まるというのに一体何処へ向かおうとしているのだろうか。
 祐巳さんの足音は聞こえてくる。私に、ついてきてくれる。けれど声はかけられない。
 今ここで振り返るのは、何故か知らないが怖かった。


 気がつくと私たちは、中庭に出ていた。
 朝方少しばかり降っていた雨は、今はもう止んでいる。草木に乗っかっている雨露がキラキラと反射して、綺麗だなと思った。
 私は、中庭の外れにある大きな気の近くに来て、意を決して振り返った。
 そこに居たのは、私の良く知る少女──
 福沢祐巳、だった。
(ああ……)
 私は今きっと、心の底から安堵した。
 いつもの表情、いつもの笑みが、これ程に大切に思えるものだったなんて。
 昨日までの、あまりに彼女に不釣合いな痛ましい表情はそこにはない。私の大好きな、いつもの祐巳さんがそこにいてくれた。
 きっと私は今、怒ったような不機嫌な顔をしているのだろう。だってそうしなければ、泣いてしまいそうだったから。嬉しくて、泣いてしまいそうだったから。
 彼女は手放していない。
 私との関係を。
 ならば、何故。
 私を、頼ってくれなかったのか。
 親友を独占したいと思う。それは、いけないことなのか。私が生涯で始めて得た、自身との等身大が重なり合う絆。それにすがって、何が悪い?
 昨日の疲弊しきった祐巳さんを救ったのはおそらく、先代白薔薇さま、佐藤聖。
 祐巳さんが聖さまに助けを願ったのか。それとも聖さまが、祐巳さんを助けたいと思ったのか。どちらにしろ二人の偶然が生み出した必然に
(私は、負けたんだ)
 私にとって祐巳さんがそうであるように、祐巳さんにとってもまた、私のことを必要として欲しい。我が侭だと欺瞞だと言われようと、少なくとも既に卒業してしまった人なんかには、絶対に負けたくない。
 無二の親友。
 私との関係を捨てないでくれた祐巳さんも、そう思ってくれているならば、

 ──もっと、私のことも頼ってよ……!

「祐巳……!」
 自分の発した声がどこか他人のそれのように聞こえ、その時になって初めて呼び捨てにしてしまったと気付いた。
 祐巳さんが戸惑ったような声を上げて、柔らかい彼女の身体の感触を知覚した時に初めて、祐巳さんを抱きしめてしまったのだと理解した。
「よかった。私、もうだめかと思った。私たち、もうだめになっちゃうのかと思った」
「え?」
 祐巳さんの意外そうな声。
 それはそうだろう。私自身、こんな風に思ってしまうなんて夢にも思わなかったんだから。
「でも、大丈夫なのよね? 祐巳さんが私に『ごめんね』って言いに来てくれたってことは、私とまだ友人関係を続けたいって意味なのよね?」
「そう……いうつもりだけど?」
「ならいい。祥子さまとどうなろうと、祐巳さんが私と友達をやめないならそれでいい。もう、薔薇の館に無理には誘わないから、山百合会と一緒に私を捨てたりしないで」
 自分勝手な言い分だと思われたかもしれない。
 けれど、伝えたいのだ。
 私にとって祐巳さんが、どれほど大切な人かということを。
「つぼみじゃなくても、私は祐巳さんのこと大好きだからね」
 伝わって欲しい、全部。
 私の、はじめての想いを、あなたに。



 エピローグ

「知らない。知ってても教えない」
 そう言って私は貝のように口を閉ざした。
「……分かったわ。これ以上聞いても時間の無駄みたいね」
 目の前にいる少女は……同級の友人、尚且つ新聞部実力ナンバーワンの山口真美さんは、にこりともしないでそう答えた。
 互いの表情はいわゆる仏頂面と呼ばれるに相応しいものだったが、別に私たちは喧嘩中というわけではない。ただ私が彼女の質問に答えなかっただけなのだ。
「ごめんなさい。時間を取らせたわね」
「気にしないで」
 そんなやり取りの後、真美さんは全く関係のない世間話を始めた。当然私もその世間話にのることにする。
 真美さんのこういった変わり身の速さは、流石だと思う。
 プロ意識。私の好きな言葉だ。
 さっきの彼女の質問、それは、祐巳さんに関することだ。多分真美さんはすでに祐巳さんに直接、『インタビュー』を試みているのだろう。祐巳さんが薔薇の館に姿を見せなかったことに関して。
 けれど納得のいく結果を得ることが出来なかった。だからだめもとで近くに居る人間、つまりは私のところへ聞きに来たのだろう。
 当然私は、他人の触れて欲しくない傷を、むやみやたらと無関係の第三者に晒すような趣味は持ち合わせていない。
 だから私はこう答えた。
 知らない。知ってても教えない……と。
「……さてと、そろそろ部活に」
 行こうかなと、真美さんが言いかけたその時だった。
『高等部二年松組、フクザワユミさん。至急職員室まで来てください』
 真美さんが椅子から立ち上がりかけて硬直して、それを見ていた私も、きっと同じように硬直していたことだろう。
『繰り返します──』
 真美さんが脱兎の如く教室を飛び出す。セーラーカラーは翻さないように、なんて、新聞記者になった彼女にとってはナンセンス・ワード。
 流石の勘の鋭さ、頭の回転の速さ。凡百の人間ならば、彼女をそう評するだろう。
 しかし──
 私に言わせれば、今の彼女などどこまでも遅い。
 何故って。
 真美さんが教室の外に飛び出した時には、私はすでに廊下の遥か彼方を駆けていたのだから。


 職員室にたどり着いた私は、そこにいたあまりに予想外の人物を目撃して文字通り固まった。
「蓉子さま!」
「あれれ、由乃ちゃん?」
 心底意外そうに、元紅薔薇さまである水野蓉子さまは言った。
 意外そうに? と、いうことは。
「……祐巳さんを呼び出したの、蓉子さまですね? もしかして、祥子さまに関することで…」
「すごいのね由乃ちゃん。一瞬でそこまで推理できるのなら、それはもうすでに才能よ」
 誉められて悪い気はしなかったが、今はそんな場合ではないのだ。祐巳さんの呼び出しと蓉子さまの存在が、もうすぐに野次馬を大量発生させてしまうだろうから。
「じゃあ、やっぱり」
「100点あげてもいいくらいだわ。大正解」
 そこでタイムリミットだった。廊下の向こう側に真美さんの姿を認めた。そして反対側の廊下には、カメラを構えた武嶋蔦子さんの姿が。
 そして二人の後ろには、ぱっと見て少なくとも五本の指では足りない数の生徒たちの姿があった。その中には見覚えのある生徒の姿も見える。
 それはいいとして、真美さんと蔦子さんのいる前で今回の件に関して話すのは少々躊躇われた。出来ればこの二人を同時に相手にするのは御免こうむりたい。祐巳さんのことを出来るだけ広めたくない、隠したい今、真美さんと蔦子さん二人掛かりでは、大雑把に見積もっても少々分が悪い。
「もうじき、祐巳さんはここに来ると思います。ていうか、その前に祐巳さん以外のフルメンバー揃っちゃいそうですけど」
「こういう時って、本人以外がまず揃うのが定石よね。面白い現象だわ」
 他愛ない世間話。
 ほんの僅かの空白のような時間。余興のような会話を楽しむ。
 やがて。
 山百合会の仲間たちが揃い、先代の紅薔薇さまという予想外の人との再会を懐かしみつつも、卒業後も劣らぬ人気の蓉子さまは、ファンの子達に囲まれてしまった。
 そして待つこと数分。
 小走りに祐巳さんがやってくる。それと同時に物語も徐々にペースアップしていく。私は私で、きちんと、『脇役』として、『主人公』の手助けをしないと。
 私は、二年松組へ走った。

 蓉子さまから事情を聞いた祐巳さんは、何かを決心したかのような表情で頷いて見せた。強い、表情だ。強くて格好のよい。
 祐巳さんは蓉子さまの後を追って、廊下を行こうとする。それを呼び止めて私は言う。
「祐巳さん、これ」
 二年松組の教室に置きっぱなしだった彼女の鞄を差し出す。
「あ、ありがとう」
 祐巳さんが鞄を手に取る。その手を掴んで
「がんばれ。後で話聞くからね」
 ありったけの気持ちを込めて、私はそう言った。
 応援するという言葉がある。
 沢山悩んで、落ち込んで、そして私以上に悩んでいた彼女。どんなことで悩んでいたのか詳しくは分からない。
 だからせめて、彼女のことを考えて、すべてを受け入れて、ただ、応援しよう。唯一無二の、かけがえのない親友のために。
 私の、タイセツナヒトのために──。


 了






▲マリア様がみてる