■すれ違い
「はろー」
軽快な声に振り返ると、そこにはカメラが待ち構えていた。「またか」、と、炊かれるフラッシュを待っていると、
「あれ、蔦子さん。今日は撮らないんだ」
「私はねえ、こと、この場所に至っては、『シャッターチャンス率』、ってのは、非常に高いと思うのよ。けれど、『シャッターを切る率』、ってのは、実際かなり低いんだわ」
「温室が? 何で?」
彼女の言うことは、よくわからない。
確かに今私──福沢祐巳は、人っ子一人(祐巳除く)いない温室にいて、何となくぼんやりしてたところだ。そこに武嶋蔦子さんがやってきて、今に至る。
今は放課後で、実はたったさっきまで薔薇の館にいたのだが、とある理由で、今はここにる。
「だからね、『薔薇の館の住人と温室』、ってのは、ある意味、つまりアレな組み合わせなわけよ」
「ああ……」、ようやく理解できた。「つまり、何か不愉快なこととか悲しいことがあって、私がここに引き篭もってると思ったわけね?」
別に撮ってもかまわないよ、と水を向けると、「いいのいいの」、と、蔦子さん。結局シャッターが切られることはなかった。
「そんなことより、どうなの」
「うん、ちょっと凹み中、かな」
祐巳は正直に答えた。
──1時間ほど前。
「祐巳、昨日はどうしたのかしら」
薔薇の館の会議室に来られた祥子さま。一足先に到着していた祐巳は、いつものようにお茶を出して、それに上品に一口目をつけてから、祥子さまはそう言われた。
「昨日?」、ポットの蓋を閉めながら、祐巳はおうむ返しに答えた。答えながら、昨日のことを思い出す。
昨日は、山百合会のお仕事は、お休みだった。おととい、全校生徒の注目を集めたバレンタイン企画の残作業が終わり、その翌日である昨日は、休むこととなっていた。こういうのはいつものことで、大きな仕事が片付くと、翌日にはお休みという形式を、それこそ祐巳が山百合会入りする以前から続けているのだという。
当然、帰宅部であるところの祐巳は、早々に帰路についた。
うん、全くおかしい所はない。胸を張って言える。
「校門の所であなたを待っていたのだけれど、その顔を見るに、昨日は早々に帰ってしまったようね」
どことなく祥子さまの口調には、険がある。と、ここにきてようやく、「昨日はどうしたのかしら」、という問いの意味が飲み込めた。
昨日は山百合会の集まりがなくて、それでささっと帰ってしまったことを、なるべく平静をよそおって伝える。他のメンバーは、いるにはいるが、どうやら今日は、遠巻きに見守る姿勢に徹底しているらしく、誰も割って入るようなことはしない。
けれど、祥子さまはそっけない。「そんなことは判っているのよ」、と、少しだけ苛立たしげな声を上げる。
「確かに、これまで山百合会の集まりがない時に、一緒に帰ったことはあまりなかったかもしれないけど、バレンタインの頃にあんなことがあったばかりだし」
あんなこと、とは、祥子さまと祐巳の、ちょっとした行き違いのことだ。
本当に些細なことがきっかけで、そんなことが積み重なって、祐巳は、祥子さまを怒らせてしまった。それは今となっては、本当に些細なことだったと思えるほどで、要するに二人とも、相手を気遣う一言が足りなかったから、おきてしまったことであった。
「……」
「私のことを、待っていてくれるかな、と、思っていたのだけれど」
昨日、祥子さまとは顔を合わせる機会があった。偶然廊下で会ったのが一回、お昼に薔薇の館でご飯を食べる時に、一回。
一緒に帰りましょう、と、誘われた覚えはない。山百合会の仕事を終えた後は、自然と一緒に帰ることになるから、あまり意識したことはなかったけど。
もし、そう思われたなら、一言くらい声をかけてくれてもいいのに。
「不満そうな顔ね、祐巳」
「いえ、そんな」
「もういいわ。私も、それほど気にしてるわけじゃないから。こんなつまらないことは、忘れて頂戴」
祐巳のことを待っててくれた祥子さま。
けれどそれに気付かなかった。
当然だ。一言の言葉もなく、かつて、「そういうこと」、があったわけでもなく。祥子さまのことは大好きだけど、全てを理解するには、たった半年足らずでは足りなすぎる。
足りない部分は、言葉でフォローするしかないのに。
こういうことは、過去何回かあった。今回もそうだし、ついこのあいだのバレンタインの時だって。あの時、白薔薇さまがいなければ果たして関係を修復できていただろうか? ハッキリ言って自信はない。
だから、不安に思う。
いつか、取り返しのつかないことになってしまうのではないだろうか、と。
祐巳と祥子さまの関係は、いわばゼロからのスタートだった。令さまと由乃さんのように、小さい頃からの友達と言うわけではない。いきなり、『姉妹』、からスタートした二人の絆は、きっと、他の人のそれよりも、脆い。
「なに難しい顔してるのよ、祐巳。今はもう全然気にしてないんだから、しゃっきりしなさい」
「……はい、お姉さま」
──再び、場所は温室。
「……で、その後どうしたの?」
「いつも通りお仕事して、でも何か煮え切らなくて、みんな帰った後に、わたしだけ一人でここにきたの。少し、考えたくて」
「嫌いになったの? 祥子さまのこと」
祐巳は、「まさか」、と、返す。いろいろと難しいところもあるけど、祐巳はあの、小笠原祥子さまという人を、後輩として、妹として、そして一人の人間として、好きだ。好きで、憧れている。
「考えるより先に、祥子さまとお話でもした方が」
蔦子さんは、ぼそぼそと呟く。
祐巳だって、そのほうがいいと思うのだ。けれど、あまり愉快でない話題を蒸し返すことを、祥子さまはあまり歓迎しない。
だから、
「わかんないなあ……」
ただ祐巳は、ひとりごとのように、そう呟くのみである。
◇
「わかんないなあ……」
目の前で彼女の親友、福沢祐巳は、そんな言葉を呟いた。そうそう、さっき彼の人も、似たようなことを、とある場所で呟いてた。
似たもの姉妹
喉元までせり上がってきた言葉を、蔦子は懸命に飲み込んだ。今の祐巳さんは、あまり冗談が通る状態でもないと判断したからだ。
(迷うわねえ、今も祥子さまが、校門のところで祐巳さんを待ってること、伝えるか否か。ああ、迷うわ)
伝えて、理解させるのは簡単だけど、それではあまり意味がない。決して悪意ではなく、あくまで祐巳さんと祥子さまの二人のために。
割と、危ういバランスのうえに成り立っている二人の絆を、文字通りそれが、『始まる前から』、知っていた人間としては、少しは責任があるかな、と、蔦子は思うのである。
「ま、困ったときは、福沢祐巳専属カウンセラー武嶋蔦子を頼りなさい。相談ぐらいのってあげるから」
「……ありがと、蔦子さん」
そして、そう遠くない未来、二人は知ることになる。
人と人との関係は、儚くて、脆いことを。関係を維持しようと努力しなくては、あっけなく崩れ去ってしまうことを。
どれだけ相手を大切に想っていても、言葉にしなければそれは無意味である。
言葉にせずとも伝わると思い込むことは、傲慢以外の何者でもないことを。
この時の祥子と祐巳はまだ、知らない──。
了
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