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■STAYサード


 その前。/

「……ねえ、聞いてるの? 祐巳さん」
「へ? あ、ああもう、聞いてるよ聞いてますよ。ええ聞いてますとも」
「ほんとかしらねぇ……。なんか祐巳さんの態度が、イマイチ誠意に欠けてるように思えるんだけど」
 目の前でいぶかしんでみせる友人──島津由乃さんに対して私、福沢祐巳は首をぶるぶると横に振る。
 そして真っ直ぐ由乃さんを見据えて、これ以上ないってくらい真剣な表情をもって、『誠意』 とやらもアピールしてみる。
 折角の気の合う友人との雑談タイムだ。仕事だって勉強だって遊びだって、誠意がなくちゃあ始まらない。そう、例えその、『雑談の内容』 が、どれほど下らな……もとい低俗な、いやいや、ちょっと子供じみたものであってさえ。
 何事も誠意が必要だ。
 だが、しかし。
「なによその、ひょっとこみたいなお顔は」
「……」
 祐巳のなけなしの誠意は、しかし由乃さんの心無いジョークに切って捨てられる。ちょっと悲しい。
(ふぅ……)
 祐巳は心の中で、こっそりと溜め息をつく。勿論由乃さんには絶対内緒。でも、これぐらいは許して欲しい。だって由乃さんときたら──。


 ──発端はそう、何時、何処であったのだろうか……なんて、恰好つけて反芻するまでもないんだよね。
 きっと発端は数週間前。祐巳の家にて突発的に開催された、『お泊り会』 に違いないだろう。何故だか知らないが、あの出来事以降、みんなの(といっても一年生と二年生だけ)意識が、どうしてか知らないが、『お泊り会』 に収束しているらしい。
 それから少しの後、志摩子さんのお父様のお誘いにより、彼女の家に泊まらせてもらうことになった。
 その日の夜に起きた超常現象じみた出来事が、由乃さんの闘争本能に火をつけたわけだが……その件はのちほど。
 志摩子さんちでのお泊り会と同日に、一年生の三人も、乃梨子ちゃんの家へ集まっていたらしい。勿論泊まりで。
 きっかけは一言では言い尽くせないくらいに複雑で、だけど大して深くもなくて。まあ、ぶっちゃけた話、由乃さんの闘志が飛び火しただけというかなんと言うか。
 そちらはそちらで、『悪くない』 イベントだったらしく、あれ以来一年生の三人は、ケンケンガクガクしながらも絆は深まったように見える。

 でまあ、話は二年生三人……つまりは祐巳たちに戻るわけだが。
 志摩子さんの家で祐巳と由乃さんが遭遇した、背筋は凍り身の毛のよだつ事件(?)があった。
 それを由乃さんが、志摩子さんが仕組んだものと曲解して、由乃さんは最近志摩子さんに対して、かなりつれない態度を取り続けている。具体的には、無理難題を押し付けたりとか、まあ色々と。
 それだけならまだ可愛げがあるし、由乃さんのそれもハッキリ言って子供じみてるから、人の好い志摩子さんは別段気にしている風もないのだけれど。
 あろうことか由乃さんは、志摩子さんに対する復讐計画を水面下で企てており──。



「……どうしたの祐巳さん? 何だか心ここにあらず、という感じだけれど」
「へ? いやいや全然。我が心、ここに在り。もう在りまくりですとも」
「本当? ……そうね、私の気の回しすぎかしら。 もう歳かしらね、私も。うふふ」
「……歳ってあなた」
 山百合会の仕事が片付くと、由乃さんはあっという間に去っていてしまった。
 そして帰り道、今度は志摩子さんと肩を並べて帰路についている。
 由乃さんのよからぬ企みごとを聞かされながらも、今はその企みの標的である志摩子さんと、共に歩いてるなんて。
 我ながらよくやるなあ、なんて思ってしまう。
 勿論、あっちへ行ったりこっちへ行ったりする、コウモリみたいな不誠実な自分の態度を鑑みて、ということだけれど。

 とまあ、それは置いておいて。
 祐巳の心は、あるひとつの事柄に囚われていた。
 あの時……志摩子さんの家での出来事。あれは果たして、由乃さんの主張通りに志摩子さんが企んだものなのか。その是非を問うべきか否か。

「そういえば、いよいよ明日ね」
「?」
 志摩子さんの言葉は主語がなかったから、一瞬何のことか理解に苦しんだ──が、明日のこととなれば思い浮かぶことはひとつだけ。

 ”さて、順番から言って今度は私の家ね。今週末は空いてるかしら? ハイかイエスで答えてね。”

 ハイかイエスとは一体なんぞや。
 虫も殺せぬほどに清楚でしとやかな笑顔を浮かべて、由乃さんは祐巳と志摩子さんに、『恒例のお泊り会』 を持ちかけてきた。
 祐巳も、そしておそらくは志摩子さんも予定らしい予定はなかったから、とりあえずOKの意志を表しておいた。
 だが、その笑顔の裏側で一体何を企んでいるのか。
 打ち寄せる不安をひた隠しにして、祐巳は由乃さんの提案を飲んだのだ。

「楽しみだわ」
「……」
 志摩子さんは、本当に楽しそうな、幸せそうな表情を浮かべて呟いた。
「私なんかが、こんなに賑やかな日々を過ごしてしまって、いいものかしら」
「……志摩子さんなら、全然問題ないと思うよ。でも志摩子さん、賑やかなのとか本当はあまり、好きじゃなかったりするの?」
「ううん、そんなことないわよ。ただ、慣れてないだけだから」
 その言葉と共に、少しだけ志摩子さんの表情が翳った風に見えたのは、果たして祐巳の気のせいだろうか。
 それはきっと昔の──いやいや、こんな風に穿ったりするのは不誠実だろう。大切なのは今現在だ。
「早く、明日にならないものかしらね」
「う、うん。そうだね」
 満面の笑顔を浮かべる志摩子さんの表情を見るにつれ、祐巳の心は逆に沈んでいく。
 由乃さんの真意をなまじ知っているだけに、どうしても胃が痛くなるような思いが沸いてくるのだ。
 明日。
 全ては明日。
 それまでに、何とか事態を良き方へと導く目処を、立てておかなくては。
 二人の間に(不本意にも)挟まれるカタチとなってしまった自分が成すべきこと、それは、両極端な性質を持つ二人を、よりよき関係へと誘うことだ。
 由乃さんは相変わらず無茶ばかり言うし。
 志摩子さんは……今はそれほど気にしてる風には見えないけれど。(でなければ、こんなに楽しそうな表情は浮かべまい)
 だからこそ、爆発した時が恐い。
 だって志摩子さんの真意って、はっきり言って読めないし。

 だがしかし。だが、しかしだ。
 例え親友の片割れが暴走を繰り返そうと、もう片方の真意がさっぱり読めなかろうと。今となっては、二人のこれからの関係のの良し悪しを担っているのは自分だ。ここで私が動かずして誰が動く。
 明るい未来を掴み取ろう。かけがえのない親友たちのために。


 とまあ、そんな感じで、妙な使命感に燃える祐巳であった。
 


 夕飯を食べ終えて、早速祐巳は由乃さんに電話をした。

「……ふうん。祐巳さんの言いたいことは、取り合えず理解はしたわ」
 勿論用件は、明日のお泊りに関するものである。
 復讐計画などという無意味なことを、何とか止めさせるよう説得した。あくまでもオブラートに包んで。尚且つ、二人の未来云々は上手くぼかして。
「ほんと? じゃあ」
「でも納得はしていない」
「……」
「知らないのなら教えてあげるわ、少しだけ。私が、どうして復讐計画なんてばかげたことを言い出したのか、ってことをね」

 由乃さんは語った。それは主に、彼女と志摩子さんにまつわるものだった。
 二人の関係は、当然ながら険悪なものではない。傍目にも仲がいいのは見て取れるし、山百合会の仲間としても、確かな信頼の絆で結ばれているように思う。
 だが、由乃さんは決して現状に満足していなかった。

「境界線を引かれている気がするのよね。志摩子さんはやっぱり、どこか一歩引いてるのよ。妹との距離はゼロのくせして、私たちとはゼロ距離を望まないところが気に食わない」
「……それと、由乃さんの復讐と、どんな関係があるんでしょう」
「ほら、よくあるじゃない。男同士は、殴り合ってバカみたいに子供じみた喧嘩をして仲良くなる、って。宿敵と書いて『とも』と読むアレよ。別に本気で志摩子さんを泣かそうとか考えてるわけじゃないわ。ただ、遠慮なくぶつかっていけば、あの気弱な志摩子さんも、押し返してくるかもしれない。狙いはそれよ」
「……つまり、復讐の理由は、引っ込み思案な志摩子さんをちょっと強引に引っ張り出して、友情を深め合おう、ということなのかな?」
「そう。志摩子さんの纏っている堅牢な殻をぶち破ってやる、というのが理由よ」
「……」
「どうしたのよ黙り込んで。まだ何か不満があるの?」
 いや、ない。
 ただ少しばかり感動していただけだ。
 ぶち破ってやる、という形容はともかくとして(それを言うなら『取り払ってやる』と形容するのが相応しいと思うのだが)そこまで由乃さんが深く考えていたとは想像だにしなかった。
「じゃあ、明日は?」
「まあ、少しばかり色々とやらせてもらうつもりだけど、祐巳さんが不安に思う必要なんて、それこそ取り越し苦労よ。彼女のことは恨んでもなければ嫌いでもないわ。志摩子さんも祐巳さんも、私にとっては一番大切な親友よ。親友を恨むバカがどこにいますか」
「……ありがとう、由乃さん。何か私、ちょっと泣きそうかも」
「ちょっとちょっと、湿っぽいのは勘弁してね。折角明日はみんなで集まるんだから」
「うん、うん」
 何だか胸が詰まって、このままだと本当に泣いてしまいそうだったから、由乃さんに早々に別れを告げて電話を切った。



 30分後──。
 由乃さんはああ言ったが、やはり事前にさりげなくフォローを入れておいたほうがいいような気がしたので、念のため志摩子さんにも電話をすることにした。
 由乃さんとばかり内緒話の真似事をすることが、志摩子さんに対して後ろめたかった、という意味も少なからずある。
「え? ふくしゅうってもしかして、復讐のこと? 予習復習の間違いじゃなくて?」
 復讐の対象たる志摩子さんは、けれど全然動じた風もなく。多少驚いたようではあるが。
 伝えたのは由乃さんの思惑。勿論境界線云々はひた隠しにして、だ。
「面白そうね」
 いつものごとく綺麗な声のままに言う志摩子さん。
「面白そうって、あなた」
「私の家でそんなことがあったの? 全然気付かなかったわ。私も見たかったわね、その、幽霊?」
 あの日志摩子さんの家で起きた出来事はもう話した。事実をあるがままに伝えただけであるが。(祐巳の主観は含まない、という意味)
「じゃあやっぱりアレは、本物の幽霊だったっていうことなのかなあ……」
 志摩子さんが仕掛けたのでなければ、自動的にそうなる。
「いいえ、まだ解らないわよ? 人形がなくなったのだって、もしかしたら私が隠したのかもしれない。私が仕掛けたという可能性は、ゼロではないのよ?」
「私の志摩子さんは、そんなことしないもん」
 例え冗談でも、人を嵌めるような人じゃない…………………………と、思いたい。
「ふふふ……」
 けれど志摩子さんは、含みを持たせたような笑い声を響かせるのみ。あ、あの、めちゃくちゃ怪しんですけど。
「志摩子さんは何もしてないよね? うんって言ってよ。ねーえー志摩子さーん」
「ふふ、さあどうかしら。秘密は秘密のままにしておいた方が、面白いのではなくて?」
 むむ、志摩子さんと言う人は、面白いか面白くないかを判断基準にするような人ではなかったと記憶してたんだけど……。

 そうして唐突に思った。
(境界線なんて、全然ないじゃん)
 あくまでも志摩子さんは自然で、尚且つ一年生の頃と比べても、確実に、『近い』 と感じることが出来る。
 もしかして、彼女に対して境界線を感じているのは、由乃さんだけ……?

「それはつまり……」
「??? 何のこと、祐巳さん」
 いけない、うっかり口に出してた。
「つ、つまり明日が楽しみだなあ、ってことだよ」
 受話器の向こうで、志摩子さんは笑った。
「で、でもさ、由乃さんが何か気に障るような事をしたり言ったりしても、大目に見てあげてね? だってそれは……」
 志摩子さんへの悪意では勿論なくて、由乃さんなりの気遣いに他ならないのだから。
「それは?」
 しかし、説明が難しい。上手く伝えられる自信がまるでなかったから、結局うやむやに誤魔化すしかなかった。
「大丈夫よ、祐巳さん。そんなに心配しないで。私、祐巳さんが思ってるほど弱くないわよ? こう見えても私、打たれ強いんだから」
「そ、そうなんだ」
「ええ、そうよ。ふふっ、期待しててね?」
「何の期待なんだか……」
 夜分にあまり長電話を続けるのもよくないから、適当なところで話を切り上げて、祐巳は電話を切った。やっぱり志摩子さんは掴み所のない人だ。


 自室のベッドに仰向けになり、天上を眺めながら祐巳はぼんやりと考える。
 何か得体の知れない不穏な空気が漂っていたと思ったのは、気のせいだったのだろうか。あの二人が面と向かって争うなんて可能性を、多少は考慮していた。
 だがそれは、杞憂に終わったようだ。
 個性のカタマリのような二人だからこそ、祐巳に要らぬ心配を植え付けたのかもしれない。
 でもまあ、あの二人は大人だし。考えるべきことはきっちり考えて、わきまえるべきことはきっちりわきまえてる、と思う。

 もっともらしい顔をして、自分がでしゃばる必要なんか無い。
 きっと明日は楽しい事だらけさ。
 だって私たちは、マリア様に見守られてるんだから。

「おーい祐巳、風呂空いたぞ」
 いきなり部屋の扉を開けて顔を覗かせたのは、弟の祐麒だ。女性の部屋に入る時は、せめてノックぐらいしたまえ。
「はいはい」
「……なんだよ祐巳。何ニヤニヤしてるんだ? 気味悪いぞ」
「とっとと寝てしまえ」
「な、なんだよそれ。わけわかんねえよ」
 とりあえず同い年の弟など今はどうでもいい。とにかく、明日が楽しみだ。

 スキップするような足取りで、祐巳は階下へと向かった。



「ふぅ」
 受話器を置いて、島津由乃は一つ小さな溜め息をついた。
「ま、理由が一つだなんて、誰も言ってないしね」
 誰に聞かせるでもなく、由乃は呟いた。それは、先ほどの電話の内容に対してのものだった。
 復讐計画だの何だの、あれこれと由乃は無茶を言っていたが、それが本気ではないのは、電話でのやり取りの通りに本当だった。
 無論藤堂志摩子に対することも、本当である。
 引っ込み思案なのは生まれつきだろう。どうしても他人から一歩引いてしまうのも、ある意味ではしょうがないことだと由乃は思う。
 だがしかし。福沢祐巳が気付いているかは定かではないが。
 藤堂志摩子と福沢祐巳。そして藤堂志摩子と島津由乃の二つの組み合わせ。その距離は同じではない。無論後者のほうが距離的には長い。
 その差こそが、由乃の云う境界線に他ならなかった。
 その距離を埋めたいと思ったのも、また彼女にとっては嘘偽りなき思いである。

「……でもまあ、少なくとも今の私にとっては、瑣末なことね」
 島津由乃の真意、それは──。

「おーい由乃、風呂空いたぞ」
「令ちゃん」
 由乃に声を掛けたのは、支倉令である。
 ここは島津邸。何故支倉家の人間である令が島津家の風呂に入っているのかという疑問は、野暮である。そういった家と家の垣根など、この両家に至っては皆無。
「もしかして明日のこと?」
 令は電話をちらりと見ながら言った。明日あさって、島津支倉家の人間の年長者たちは不在なのである。それはよくあることで、その際には二人の娘たち──令と由乃のことであるが、彼女たち二人も参加するのは当然だった。
 だがしかし、明日は由乃に泊りがけの客人があるらしい。
 ならば、ということで、令も残ることにしたのである。保護者として。
「明日、邪魔しないでね。私たち三人のイベントなんだから」
「別に邪魔なんてしないけどさ」
 令は違和感を覚えた。それは、由乃と長い付き合いである令にしか感じ得ない、限りなく勘に近い予感である。
 ──何か企んでるな。
「なあ、由乃」
「さーてお風呂お風呂。明日に備えて今日は早く寝ようかな」
 由乃はスタスタと歩いていく。その足取りは軽い。令はその後姿を、ぼんやりと眺めていた。

 ──今のところあなたに私怨はないけれど。
    受けた借りは、きっちりと返さなくちゃあ。そうでしょう? 志摩子さん。

 風呂場へと向かいながら、由乃はそんなことを考えていた。



 丁度同じ頃、藤堂邸では──。

「ふぅ」
 受話器を置いて、藤堂志摩子は一つ小さな溜め息をついた。
「楽しみだわ、ほんと。いろいろな意味で、ね」
 誰に聞かせるでもなく、志摩子は呟いた。それは、先ほどの電話の内容に対してのものだった。
 復讐? この私に?
 16年間の人生で、志摩子に対して復讐などと言う意志を向けた者はついぞいなかったから、それだけで志摩子は得も云わぬ感覚──背筋がぞくぞくするほどの昂揚感を抑えることが出来なかった。
 元来争いごとなど好まないのが志摩子である。しかし今、そんな自分が矢面に立たされている。
 なのに、これっぽっちも悲しくないし恐くもない。むしろこんな状況を迎えたことに対して、素直に興奮している。
 志摩子本人にしても、あまりに予想外だった。
 島津由乃がどこまで自分との関係を考えているのかは知るよしもない。志摩子とて、福沢祐巳を含めた三人の関係を考えたことが、なかったわけではない。

「……けれど、少なくとも今の私にとっては、瑣末なことかしら」
 藤堂志摩子の真意、それは──。

「おい志摩子、風呂が空いたぞ」
「お父様」
 志摩子に声を掛けたのは、彼女の父親である。
 実は志摩子の父親は、娘とその友人の電話での会話を気配を殺して聞いていた。娘の学園生活を見守るのは父親の義務だ。娘の交友関係を知っておくことは、トラブルを未然に防ぐための必要悪だと、自分に言い訳、もとい言い聞かせて。
 そんな娘の電話での会話の中で、一つだけ不穏当な単語を聞いた。『復讐』という、不穏当極まりない言葉を。
「明日は確か、由乃さんの家に泊まらせてもらうと言っていたな」
「ええ。まさか今になって予定がある、なんて言いませんよね?」
「うむ……言わないがな」
 娘とやりとりをしながらも、父は考えをめぐらせていた。復讐とは一体なんなのだ、と。
 ついぞ復讐などと言う言葉とは無縁なのが我が娘である。誰かにそのような感情を抱くことは、太陽が西から昇るよりもありえないだろう。
 ならば、誰かに娘は復讐されるのか。
 だがしかし、娘には臆したような気配など微塵も感じられない。むしろ幸せいっぱいという気持ちがにじみ出ている。この矛盾は一体。
「……志摩子よ、リリアン女学園は、楽しいか?」
 父は娘に問うた。ことさら何でもない風を装って。
「はい、とっても」
 笑顔と共に返す志摩子。その笑顔には一点の曇りも無い。
「それじゃあ私は、お風呂に入りますね」
「……うむ。今夜は冷えるぞ。腹を出して眠るなよ」
「おなかなんて出して眠ったこと、ありません」
 志摩子はスタスタと歩いていく。その足取りは軽い。父はその後姿を、ぼんやりと眺めていた。

 ──なにを企んでるのか知らないけれど……。
    由乃さん。あなただけには負けない。負けてあげないから。

 風呂場へと向かいながら、志摩子はそんなことを考えていた。



 三人の少女の思惑を孕み、夜は更けていく。
 その入り乱れた三つの想いの辿り着く先は、一体何処だろうか。
 最後に笑うのは誰か。

 夜は更けていく。
 静かに厳かに更けていく。


 ──そして、運命のお泊り会が幕を開ける。





 STAY-third


 リリアン女学園から歩いて十五分と言う距離にある島津邸に二人が辿り着いたのは、そろそろ日も暮れ始めた頃のことだ。
 最近妙に活躍するお泊りセットと、替えの下着類を詰め込んだ鞄をぶら下げた二人──祐巳と志摩子さんは、二人揃って二つ並んだ表札を見つめていた。

「……本当に、お隣さんだったのね」
 志摩子さんが云ってるのはきっと、島津邸と支倉邸についてのことだろう。お隣さんと言うか、既に二世帯住宅の。
「あれ。志摩子さんって、由乃さんの家に来るの、初めて?」
 志摩子さんは頷く。
 ちなみに祐巳は数度お呼ばれしたことがある。まあ、それは大した差ではないけれど。
 インターホンを押すと、そばにあるスピーカから聞きなれた声が。
『どちらさまですか?』
「紅と白でーす」
「祐巳さん、その言い方はちょっと」
 これで相手が由乃さんの親御さんだったら目も当てられないけれど、あらかじめ今日明日は由乃さんが一人でお留守番だと云う事を聞いている。
 ちょっと待っててという声の少し後に、玄関の鍵が開く音。
 がらがらと玄関の引き戸が開き、
「待ってたわよ、祐巳さんっ」
「ぎゃっ」
 いきなり祐巳と同程度の質量の物体がぶつかってきた。
「もー、待ちくたびれてお婆さんになるところだったわ。この待たせ上手め焦らせ上手めぇ」
「よ、由乃さん……?」
 祐巳のあまり厚くない胸に顔をうずめてぐりぐりと。勿論その相手とは、島津由乃さんに他ならないのだが、一体何なんだろうこの炸裂するテンションは。
「さ、早く上がって。寒かったでしょ? 早く早く、あっためてあげる」
「ちょ、ちょっと待ってよ由乃さん。その、あの……」
 志摩子さんも居るんだから。
 当の志摩子さんといえば、繰り広げられる予想外の光景に、完全に言葉を失ってる。
「あら志摩子さん、ごきげんよう」
「ご、ごきげんよう」
 あまりにそっけない由乃さんの、お決まりの挨拶。志摩子さんは、とまどいながらもそれに返す。
 その態度の変貌振りの是非を問う間もなく、ぐいぐいと腕を引かれて、祐巳は由乃さんに連行されてしまう。
「ちょ、そんな由乃さんっ」
「いいからいいから。細かいこと言いなさんな」
 なんという強引さ。
 これはおかしい……おかしいぞッ!?


 ──そして、一人玄関に取り残された藤堂志摩子といえば。
「ふうん、そういう手で来るの」
 薄い笑みを浮かべて、志摩子は誰に聞かせるでもなく呟いた。




 つい先ほどの騒がしさも醒めやらぬ間に。
「祐巳さんは座ってて。今、お茶淹れるから」
「あ、ありがと」
 って、呑気にお茶なんか飲んでる場合か。志摩子さんがまだ玄関で途方に暮れてるんだから。
「素敵なおうちね」
「し、志摩子さん」
 意外なことに志摩子さんは、ひょこひょこと上がってきていた。そうして一直線に由乃さんの前へ。
(ああ、志摩子さんが切れる……)
 彼女に限ってそんなことあるわけないのに、最悪の事態を想定してしまう祐巳である。だが、しかし。
「これ、うちの母が作ったものなの。夜に皆で食べて、って」
「あ、あら。それはどうも。お母様に宜しくお伝えして……」
 拍子抜けしたような由乃さん。
 渡されたのは、唐草模様の大きなハンカチ──風呂敷のことだ。それに包まれた、お弁当箱のようなもの。
 どうやら志摩子さんのお母様が気を利かせて、志摩子さんに持たせてくれたみたいだ。
「冷蔵庫に入れておいてね。それじゃ」
 やおらこっちを振り向いた志摩子さんは、妙に素早い……いいや、さながら電光石火の如き身のこなしで祐巳の方に近付いたかと思うと、
「先にお部屋に行ってるわね。行きましょ、祐巳さん」
「ととっ、志摩子さん、そんな引っ張らないでっ……!」
「あ、こら待ちなさいッ!」
 由乃さんの静止の声に耳を貸さず、志摩子さんはずかずかと……ではなく、こんな時でもしとやかに軽やかに、日舞の如き華麗で優雅な仕草を用いて。
 そして、度し難いほどの力で祐巳の腕を引っ張っていく。
 またしても連行されてしまう。
「志摩子さんってば! まだ由乃さんが」
「いいからいいから。早くベッドのある部屋に行って、いいことしましょ?」
「どこでそんな言葉覚えたのッ」
 風呂敷を抱えたままの由乃さんは当然の如く出遅れて。
 そうして、拉致られるようにして祐巳は志摩子さんに連れて行かれてしまう。
 抗えぬ強引さ。
 これはおかしい。何かが狂っている。そう、何かが──。


 ──そうして、包み片手にリビングに取り残される由乃。
「こんなに早く手を打ってくるなんて……」
 由乃は一人、屈辱に表情を歪ませる。




「……ところで、由乃さんの部屋は、どこにあるのかしら?」
「知らないのに私のこと引っ張ってきたんだ……」
「ええ。困ったわねえ」
 ちっとも困ってなさそうに、微笑を浮かべる志摩子さん。祐巳は心の中でひとつ溜め息を吐いて、今度は志摩子さんを先導する。
 ……とまあ、そんな大げさにするでもなく、由乃さんの部屋はすぐそこなんだけど。

 モノトーンで統一された、現在、主が不在の部屋。
 女の子女の子したルックスの持ち主ながら、趣味趣向がクールでやや渋いのが、由乃さんの特徴である。
 部屋に入ると、志摩子さんは控えめに辺りを見回して……その視線が、とある一点でぴたりと止まる。視線の先には、何とベッドが。
 まさかね、と内心かぶりを振るも、どうにも今日は雲行きが怪しい。特に、ここにきて真意の読み取りにくい誰かさんの傍に居ることは、少なからず不安……。
(というか、不吉?)
 更に災いを呼びそうな気がする。
 少しずつ、少しずつ気取られぬよう志摩子さんから遠ざかろうとするも──。

「……!?」
 何故かバランスを崩した。
 足首が何か柔らかいものに引っかかってもつれる。
 視界は転がって思考が乱れる。
 受け身を取る間もなく、祐巳はカーペットの敷かれた床に転が……らない。
「へ?」
 祐巳は志摩子さんの腕の中に居て、彼女は変わらぬ微笑をたたえていたが、それが向けられていたのは、祐巳ではなかった。
「な……なっ」
 由乃さんの部屋と廊下を繋ぐ扉は開かれている。
 そして、予定調和の如くそこに立っていたのは、驚きに目を見開いた、島津由乃さんその人だ。
「なにやってんのよ、アンタたちは人様の部屋でっ!?」

(なにって……それを言いたいのは私の方だよ由乃さん。いや、二人とも……)
 人外の速さをもって志摩子さんは、倒れそうになった祐巳を抱きとめてくれて。
 けれど志摩子さんにとっては全て計算され尽くしたもの。
 由乃さんが部屋に入ってくるタイミングを見計らって、コトに及んだのだ。
 祐巳の足を引っ掛けたのが誰の仕業か、なんて、最早言うまでもないだろう。



  ◇



「一体どういうつもりよ」
 由乃さんは肩を怒らせ眉を吊り上げて詰問した……多分。
「どういうつもりって……そんな、どういうつもりも無いわよ?」
 それに対して志摩子さんは、小首をかしげながら、いつもと変わらぬ口調で返した……きっと。
(どういうつもりか聞きたいのは、私の方なんだけどなぁ……)
 扉一枚隔てて聞き耳を立てている祐巳は、心の中でそう呟いた。
 
 呆然とする祐巳を挟んで睨みあう二人。
 首の後ろ辺りがちりちりするほどの緊張感に耐え兼ねて、適当に誤魔化して祐巳が部屋を飛び出したのが、ついさっきのことである。
 しかし勢い良く飛び出して離脱を図ったはいいが、さりとて勝手の知らない他所様の家で行く当てもなく。
 結局舞い戻ってきて、こうして二人の会話に聞き耳を立てている。

「……私が聞きたいのは、ことごとく私の邪魔をしてくれるあなたの真意なの。いい加減祐巳さんだって怒るわよ、きっと」
「どうしてそこで祐巳さんが出てくるの?」
「だって! さっきから志摩子さんってば無茶ばかり……ま、私も人のこと言えないけどさ。どうして祐巳さんを巻き込もうとするのよ」
「それは、こっちのセリフ。由乃さんだって祐巳さんを巻き込んでるじゃない。私に言いたいことがあるのなら、遠慮なく言って欲しいわ」
「……」
「……」
 まるで示し合わせたようなタイミングで黙り込む二人。自分の名が飛び出した所為もあるが、いつしか祐巳は二人の会話に集中し、聞き入っていた。

 
 ……結局私たちって、祐巳さんに頼らなきゃ何も出来ないのかしら。

 何の、ことかしら。

 とぼけないでよ志摩子さん。どうせ祐巳さんから聞いてるんでしょ? 私が立てた馬鹿げた計画のこと。

 馬鹿げた計画……? ああ、復讐がどうのこうのと云う、あの? 祐巳さんをだしにして私に当て付けようとか、大方そのあたりかしら。

 流石、話が早いわね。目的はあなたなのに、どうして私は祐巳さんを巻き込んでるのよ。どうして私は、あなたに直接ぶつかることが出来ないのよ。

 ……話が、よく見えないのだけど。

 嘘。志摩子さんには全部解ってるはず。そうやってとぼけて、知らないフリをして、結局逃げようとしてる。今はそうやって逃げようとしてるのに、どうして今日は私の誘いに乗ってくれたのよ。私が何か仕掛けるって知ってたんでしょ? 知ってるのに来た。来たのに逃げようとしてる。この矛盾は何。説明しなさい。

 ……。

 正直になってよ、志摩子さん。


 祐巳は静かに立ち上がった。立ち上がって一つ、目を閉じて息を吐く。
 これ以上は聞いていられない。聞いてはいけない。
 これは二人の問題だ。私には関係の無い、預かり知らぬ出来事の筈だ。というよりも、関わってはいけないことだと思う。
 二人の仲を取り持つだとかそういうことを、私ごときがしゃしゃり出て首を突っ込んではいけなかったのだ。
 そんなことは、二人はとうの昔に理解していた。けれど理解していても思い通りには行かないのが世の中で。
 きっと二人は、ずっともどかしく思っていた。
 だから私は、今はこの場を去ろう。
 本当は色々と二人に言いたいことはあるのだけれど、きっと祐巳が口にしてしまえば野暮ったくて白けてしまうだけだろうから。


「……祐巳さん、行ったみたいね」
「そのようね」
 扉一枚隔てて部屋の中に居た二人──志摩子と由乃は、一瞬視線を絡ませた後に、小さく笑い合った。
 二人とも、祐巳が廊下で聞き耳を立てていることには気付いていた。けれどお互い気付かぬ振りをして、本気なんだか冗談なんだかよくわからないやり取りを続けていた。
 まるで道化師のように。
 気が合うのか合わないのか、本当、よくわからない二人である。
「……あの時以来かしら」
「?」
 志摩子が発した何気ない一言は主語が無かったから、由乃は疑問符を一つ飛ばした。
「私たちが山百合会に入った頃」
「ああ……」

 まだ福沢祐巳が小笠原祥子と姉妹の契りを結ぶ以前の話である。
 由乃は支倉令の妹、黄薔薇のつぼみの妹として。そして志摩子は佐藤聖との出会いから水野蓉子と鳥居江利子の策により、祐巳よりも一足先に薔薇の館へとその身を置いていた。
 とある組織の中において同年の仲間というのは、共通の認識や意識によってある種の連帯感をもって結びつくものであるのだが。

「見事に疎遠してたわよね、私たち」
「それは、由乃さんの所為だったと記憶してるのだけど」
「違うわよ。志摩子さんの所為」

 責任をなすり付け合う二人であったが、事実を語るならば、『二人の所為』 である。

 ただ流されるままに山百合会にその身を置くこととなった藤堂志摩子は、その当時の由乃にとっては面白くない存在だったのである。
 非現実的とも取れる出会いを佐藤聖と果たし、蓉子と江利子に目をつけられて薔薇の館へといざなわれた。
 だがしかし、そこにひとかけらの積極性も志摩子のなかに見い出せなかった由乃は、出会ってまだ間もない筈の志摩子に向かって、「あなたのことキライ」 という辛辣な言葉を投げかけたのだった。
 その状況ときっかけをマリア様に与えられたにもかかわらず、自身は臆したまま身動き一つ取ろうとしない──そんな志摩子は、生まれつきに背負った疾患により動きたくともまともに動けなかった当時の由乃にとっては、どうにも許しがたい存在だったのである。
 それは志摩子にとっては理不尽な指摘であり、身勝手な主観にまみれたエゴの押し付けに他ならなかった。
 それは由乃とて理解はしていたのだが、ただ単に、『やり場の無い感情をぶつける相手』 として、たまたま同年代として山百合会に入ってきた、由乃とは正反対なちょっと気弱そうな女の子が選ばれてしまっただけである。
 結果二人は、出会っていきなり疎遠となってしまった。
 しかしそんな膠着状態も、更なる一年生の山百合会加入により、絶妙に変化していくことになるのだが──。

「そうね。あの時以来」
「でしょう?」
 志摩子と由乃が、本音でぶつかり合ったのは。
 何処か二人は、互いに対して臆病だった。
 福沢祐巳という因子が飛び込んできて、二人の関係は変った。しかし、持って生まれた性質の距離はそう簡単に埋まるものでもない。近くて遠い。遠くて近い。
 例えばそれを象徴するような事件──『福沢祐巳、藤堂志摩子と島津由乃を二股に掛ける事件』 なるものが存在するのだが、結局祐巳が逃げ出したことにより、決着はうやむやとなってしまった。
 祐巳を挟めば丸く収まる関係。しかし、彼女がそこから抜け落ちたら? その先の結論を出すことを、故意に二人は避けていた。
 由乃は志摩子のことを、「境界線を引いている」 と揶揄していたが、それは由乃とてそう大差は無い。他人と触れ合うことに慣れていないのだ。
 結局二人は、どこか似たもの同士だった。
「じゃあ私たちは、少しは近づけたのかしら? 今日のことで……いいえ、最近のお泊りのことで」
「そうねぇ……或いは、もっともっと近付けたのかも知れないけれど、もしかしたらこれ位が丁度いいのかもね」
 二人は頷きあう。
「それじゃ、下に行きますか。祐巳さんがヒマしてるわ、きっと」
「ええ、行きましょう」
 足取りも軽く、二人は由乃の部屋を後にした。


  ◇


「ふいー」
 祐巳は肩まで湯に浸かって、若干乙女らしくない声をあげた。
 夕飯を食べてから小一時間ほど雑談に興じ、そろそろお風呂にしましょうと相成って、祐巳が一番風呂を頂くことになった。
 他所さまのお風呂に入るというのはそうそうあることではないが、島津邸のお風呂、いやバスルームは祐巳の家のそれよりも一回りは大きくて、そのせいもあってか開放感があり、とても気持ちがよかった。
(今でも令さまと由乃さん、一緒にお風呂とか入ったりするのかなぁ)
 いや別に他意はないんだけれど。
 そこまで考えて祐巳は、何年も昔には弟の祐麒と一緒にお風呂に入っていたことを思い出してしまったので、その思考を強引に打ち切った。
「それにしても、あの二人……」
 どうやら無事仲直りは出来たようである。
 ヤブをつついて蛇を出す趣味はなかったから、その事に関して祐巳は一切触れなかったのだが、どうやらあれ以来の二人の様子を見るに、大事には至らなかったらしい。
 数時間前までのごたごたが嘘のように、三人の間に流れる時間はただ穏やかだった。
「うんうん。何事も平和が一番だよ」
 バスタブの縁にべたっとあごを乗せて、祐巳は一人ごちた。
 そうやって熱めのお湯に身を浸しながら、穏やかな平和を噛み締めていた祐巳であったが……。

「ちょっと! アンタ何様のつもりよッ。人んちの脱衣所で勝手なことを!」
「勝手って、ただ私は、お風呂に入ろうとしてるだけだけど」
「今祐巳さんが入ってるのが見えないのあなたは! 非常識にも程があるッ。子供じゃあるまいし、いい年して一緒にお風呂だなんて戯れ言をッ!」
「そんなこと言われたって……じゃあどうして、由乃さんは服を脱いでお風呂に入る気満々なの?」
「私は祐巳さんの背中流してあげようとしてるだけよっ」
「じゃあ私の背中も流してちょうだい」
「断固、拒否するわっ!」

 ……なんだ、これは。
 お風呂場の曇りガラスの引き戸一枚隔てて、何か不吉すぎるやりとりが、いいや小競り合いが繰り広げられているのは、果たして在っていい現実なのだろうか。
(気のせい、気のせい)
 バスタブの中で膝を抱えて顔を埋めてそう自分に言い聞かす。
 お湯に浸かってるのに身体が震えてくるのは気のせいで、勿論聞こえてくる友人たちのおかしなやりとりも気のせいでしかない。

「大体何なのよっ。ようやく本音でぶつかり合えたとか言って、結局抜け駆けするつもりだったのね志摩子さんはっ」
「それは、あなただけには言われたくなかったけど」

(幻聴、幻聴)
 ふと気付くと祐巳は無意識に逃げ道を探していた。しかしお風呂場という密室はどこまで見回せども密室で、唯一の出入り口には、なにか得たいの知れない不吉なモノたちにふさがれている。
 もはや、退路はなかった──。

 がらがらっと景気よくお風呂場の引き戸が開かれて、漂っていた湯気が一気に逃げていく。
 もうもうと立ち込めていた白い湯気の向こうに見えたものは。
「祐巳さん、一緒にお風呂入りましょ?」
「……背中、流してあげるわ、祐巳さん」
 満面の笑顔を浮かべた志摩子さんと、苦虫をダース単位で噛み潰したような、しぶーい顔を浮かべた由乃さんの姿があった。
 しかも、二人とも揃って裸族だ……。
「……は、はい。ありがたき幸せ……」
 いろいろと逸脱気味な友二人を前に、祐巳はそう呟くより他なかった。


「……じゃ、よろしくね由乃さん。背中引っ掻いちゃ、いやよ?」
「はいはい」
 志摩子さんは持っていたタオルを由乃さんに渡す。今の今まで志摩子さんが由乃さんの背中を流しており、つまり今度は交代するというわけ。俗に言う、背中の流しっこという奴である。
「あ、あの、二人とも? その、喧嘩しないでね……?」
 たまらなくなって祐巳は二人に声を掛けた。
「喧嘩? どうして私たちが?」
「そんなことするわけないじゃない。いい年した高校生がそんな、はしたないこと」
「そ、そう。ならいいんだけど」
 何となく釈然としないままに祐巳はまだ湯に浸かった。対して二人は湯船の外で、今度は由乃さんが志摩子さんの背を流している。
 傍目には、とても平和な光景だ。そう、平穏極まりない光景の筈なのに、何故こんなにも心がざわざわとするのだろう。
 それは、膨張しきって破裂寸前の風船を連想させる。ちょっとでも突付けば、その平和は破裂して破綻して……。

 お風呂場に二人の侵入を許してしまい、その二人の一触即発の雰囲気に祐巳は総毛だった。私のことはもう巻き込まないんじゃなかったのと問い詰めたかったが、すでに巻き込まれてしまった今となっては後の祭り。
 進退窮まったこの状況をどうにか打破すべくと祐巳は逡巡した。こうなってしまってはもはや逃げられない。二人を残して風呂場を後にするのは不安すぎるし、そもそも祐巳がいたから二人が来たのなら、直ぐに祐巳が風呂場を出て行くのは不誠実に過ぎる。
 しかし、どちらかに不公平があってはいけない。
 だからこそ祐巳は、二人に背中の流しあいを薦めたのだ。
 上手くいけばその隙のうやむやに逃げられるかもしれないという、一抹の望みを託して。

(というかいい加減私、のぼせ気味なんですけど……)
 由乃さんは背中を流してくれると言ったが、すでに身体は洗い終えている。祐巳がこの場所でやり残したことはもはや無いのだが。

 ぼんやりとした思考の中、これまたぼんやりと二人を見詰める祐巳。どうやら背中は片付いたらしく、今度は二人、裸のままに正面に向き合ってなにやらごそごそと怪しく妖しく傍目にぁゃし過ぎる動きを見せている。
(なにえっちなこと始めてるんだろう……)
 と思ったら、どうやら二人は、互いに体の洗いっこをしているらしい。効率的なのか非効率的なのか、それはマリア様にも解るまい。
(誰もそこまでしろなんて、言ってないけど……)
 いい加減頭がぼんやりとしてきた。ここは二人には申し訳ないが、お先に失礼させてもらった方が賢明かもしれない。
「──、──」
 あれ。
 自分で喋った言葉が聞こえない。酷い耳鳴りに遮られる。
 やまない。
 耳鳴りがやまない。
 まるで、耳鳴りの壁に押し潰されていくみたい──。



  §



 そこは、薔薇の館だった。
 祐巳にとってはどうしようもなく見慣れた場所であるにも関わらず、ひどく違和感のある光景だった。
(そうか、視点が高いんだ)
 まるで監視カメラの捉えた映像でも見てる気分だ。いや、薔薇の館に監視カメラなんて無い(ハズ)だけど……。
 ただぼんやりとその映像を眺めていると、やがて薔薇の館の会議室に入ってくる人影が在った。
 志摩子さんと、乃梨子ちゃん。そして、由乃さんと、その後ろについてくるあの子は確か……。
 そうか、由乃さん、あの子を妹にしたんだ。
 二組の姉妹は、どうやら上手く行っている様だった。志摩子さんと乃梨子ちゃんは言うに及ばず、由乃さんも、なかなかどうしてあの子とちゃんと姉妹してるみたい。
 どういう変遷を経てあの子と親しくなったのかは知るべくも無いけど、今はとりあえず二人を祝福してあげたい。
(……?)
 またしても、違和感を覚える。
 二組の姉妹は仲睦まじく、その妹である一年生の二人も、よい友達であるように見えるのだけれど。
(志摩子さんも由乃さんも、どうしてそんなに、他人みたいに……)
 見慣れた二人は、よそよそしかった。例えるなら、食堂か何処かで、たまたま席が空いてなくて、たまたま見知らぬ他人と相席でいるような、そんな感じがする。
 だってさっきから、一言も会話を交わさないし、そもそも相手を見ようともしない。
 まるで、他人だった。
 
 やがて黄薔薇姉妹が席を立ち、どうやら薔薇の館を後にするらしい。今日はお仕事はなかったのかな。
(なんで……どうして二人とも、そんななの?)
 志摩子さんと由乃さんが交わした言葉と言えば唯一つ。
 別れ際の、『ごきげんよう』 というそっけない一言だけだったのだ。


 徐々に祐巳は理解し始めていた。これは恐らく夢。それを祐巳が自覚していると云う事は、恐らくは明晰夢というものだろうか。
 今、祐巳が『視て』いる世界について、一つ解ったことがある。
 福沢祐巳という存在が無い。
 私が居ない夢を、私が見ている。夢を見ている私は確かに福沢祐巳で、その福沢祐巳が存在する世界を夢見ている筈なのに、その世界に福沢祐巳は存在しない。
 こういう夢をフロイトがどう分析したのかなんて知らないし興味も無いけれど、それとは別に気になることが一つある。

 この世界の志摩子さんと由乃さんは、一体、どういう関係を築き上げているのだろう……。

 ここまでこのヘンな夢に付き合ってきたのは、そのことが気になっていたからだ。夢に一瞬も永遠も無いのだろう。一瞬は永遠で、どれだけの時間私がこの夢を見ているのか知る術は無いけれど。
 少なくとも、今の今までこの世界を見てきた限りでは、

 藤堂志摩子と島津由乃に、何の関係性も見出せなかった。


 
  ◇



「──ッ」
 軽い音を立ててシャーペンが机の上に落ちた。その拍子に、令の意識は覚醒する。
 いけない、いつの間にか眠っていたみたいだ。一応今日明日中は、あの姦しい三人の保護者のわけだから、隣の島津邸の明りが消えるまではせめて起きていようと机に向かっていたが、いつのまにかうたた寝をしていたらしい。
「ふう」
 ノートを閉じる。あまり予習に身は入らなかったが(というか、全くさっぱり)、まあ今日ぐらいはいいだろう。
 時計を見ると、そろそろ日が変わる時間だった。あの三人はもう眠っただろうか。
 部屋のカーテンを開けて、ついでに窓も開ける。暖房の効きすぎた部屋でうとうとしていたから、これ以上ないくらいに気持ちがいい。
「……まだ、起きてるのか、あいつら」
 夜更かしするのは結構だ。近隣住民に迷惑を掛けない程度なら、がんがん楽しんで貰って構わないが、流石にこちらは一人で連中に付き合って夜更かしするというのは、ちょっときつい。
「こっちはこっちで、祥子でも呼べばよかったかな」
 そう言うと、令は薄い笑みを浮かべた。何てことは無い、ただの思い出し笑いだ。
 小笠原祥子。
 お泊り会。
 この二つの単語が並ぶと、どうしても令は思い出し笑いを禁じ得ない。
(二年……いや、一年生の頃だったかな)
 まだ祥子と知り合ってそう日も深くない頃だ。ようやくお互い、硬さが取れてきた頃だったと記憶している。

 誰に入れ知恵されたのかは今となっては知るべくもないが──。
(ま、江利子さまか蓉子さまだろうけど)
 いきなり黒塗りの長ーい車で支倉宅まで乗り付けて。それを見たうちの人間は例外なく浮き足立って、唯一令だけがそういう車に縁のある人間に思い当たり。玄関先まで出てみると、若かりし頃の祥子が毅然として立っていて……。
「それでいきなり、『令、お泊り会を開くわよ』 だもんなぁ……。笑うなって言う方が、無理」
 小笠原祥子と、黒塗りのリムジンと、そしてお泊り会という単語のギャップに、令は往来で腹を抱えて笑ったのだった。
 結局令はリムジンに乗せられて小笠原邸へ。そこで待っていたのは──。
「ま、忘れがたい思い出では、あるわな」
 良いか悪いかは別として。
 祥子本人はそれを黒歴史として認識しているらしく、令がその話題を振ると完全無視を決め込んでしまう。気持ちは理解出来なくも無い。

「あれ……?」
 島津邸を眺めていた令は、違和感に囚われた。確か勉強を始める前──十時前だったろうか、隣を一度今と同じように確認した。
 そのときは確か風呂場の照明が点けられていて……。
「まだ、風呂入ってるのか……長風呂は構わないけど」
 令は窓を閉め、カーテンも閉める。
 つかつかと歩いてきてベッドに腰掛けて、冷静に考えてみた。

 ──いくらなんでも、長過ぎやしないか?

「由乃ッ……!」
 令は立ち上がった。すさまじい速度をもって押し寄せてきた、悪すぎる予感につき動かされて。
 嫌な予感がする。
 嫌な予感がする。
 嫌な予感がする──!
 何かが起きた。そうに違いない。能天気な三人を打ち砕くようなイレギュラー極まりない何かが。
 令は部屋を飛び出して一直線にお隣へと向かった。階段など三段飛ばし、靴などはいてるヒマは無い。靴下のまま庭に飛び出して島津邸の窓に張り付く。
「チ……!」
 鍵が掛かっていた。玄関に回りこんで引き剥がすようにして扉を開ける。玄関の照明は点けられていた。リビングも同じ。しかし、リビングには誰も居ない。もぬけの殻と化したその空間は、より一層令の焦燥を煽る。
「なにやってんだ、三人とも……!」
 踵を返し、風呂場へと向かう。その十数メートルがことさら長く感じられる。こんなにこの家の廊下は長かっただろうか。こんなにもこの家は静かだったろうか。
 廊下を駆け抜ける令の脳裏に浮かんでは消える、『最悪の状況』。
 自分がのうのうと眠っている間に悪漢が島津邸に押し入った。そこに居るのは無力な女三人。抗う術は無い。なけなしの抵抗は、しかし悪漢にとっては蚊に差されたほどにしか感じられなくて、そして一人、また一人と──。
「くッ……!?」
 風呂場に打ち捨てられた変わり果てた三人の姿を想像して、令は胃のむかつきを覚える。私の責任だ。私が、あいつらを守る責務を怠った──!
 飛び込むようにして脱衣所に入り、その場所を見る。曇りガラスの向こうに目を凝らす。

 肌色が見えた。
 それは一人分ではない。ぼんやりとしていてはっきりは視認出来ないが、二人分、ないしは三人分。
「由乃!」
 脱衣所に飛び込んで引き戸を開けるまで、一秒に満たなかった。勢いよくその場所への扉を開き、その名を叫ぶ。
 視界は湯気にとざされている。しかしやがてそれは霧散して、余りにも残酷な現実を令に突きつけた──。



「……何やってんだ、君らは」
「あっ、れ、令ちゃん! 祐巳さんが大変なの!」
 由乃が叫ぶ。志摩子は、いきなりの侵入者にきょとんとした表情を浮かべている。
「祐巳ちゃん……? って、祐巳ちゃん伸びてるじゃないか! 何ぼんやりしてるんだよお前らっ!」
「だ、だからこれから運び出そうとして……」
 福沢祐巳は、完全にのぼせていた。
 風呂場のマットの上で志摩子と由乃に抱えられるようにしている祐巳。目は虚ろに光を失っていて、おそらくは立つこともままならないだろう。顔といわず手といわず、全身に朱が差したように赤い。
「ちょっとどいて、二人とも!」
 意識の混濁している祐巳の身体を、令は軽々と持ち上げる。お姫様だっこの要領で抱えあげて、急ぎ風呂場から抜け出す。
「由乃!」
「は、ハイっ」
「縁側に布団しいて、あとはタオルケット一枚用意して! 窓開けて風通しよくしといて、早く!」
 バスタオルを捲いて由乃は走り去る。
「志摩子!」
「は、はいっ」
「水用意して。あとは祐巳ちゃんの着るもの……祐巳ちゃんのパジャマと下着、上はTシャツ着せるから。その辺から持ってきて、早く!」
 志摩子も、由乃と同じようにバスタオル一枚捲いて駆けて行く。

「……ぁ、れい、さま……?」
「喋らないでいい。心を落ち着けて、何も考えるな」
 志摩子と由乃を見送り、令も動こうかという所で、祐巳は薄く目を開けた。どうやら意識はあるらしい。それならば、大事には至るまい。令は心の中で一つ、安堵の溜め息を漏らす。
「……ごめんなさい、わたし。こんな、ばかみたいなことに……」
「ああ、キミはバカだ。でも、あの二人はもっとバカだ」
 祐巳はまた目を閉ざした。今はまだ息をするのも辛い筈だ。令は祐巳の胸に耳を押し当てて鼓動を確かめた。多少早いが、許容範囲内ではある。回復は、それほど遠くはないだろう。
「まったく、何をしてたのかは知らないけどさ……」
 祐巳を抱きながら、令は慎重に歩みを進めた。そうして、祐巳の顔を見詰めながら、小さく一言呟く。
「……ま、バカやれる友達ってのは、いいもんだよな」



  §



 やがて季節は移り変わり、夢の世界に季節の移り変わりの概念なんてあるのかないのか知らないけれど、とにかく季節はゆっくりと移ろっているらしい。
 薔薇の館のストーブが稼動を始めて、窓の外には雪景色。やがて雪は解け皆の動きはのびのびとしてきて、春の到来を教えてくれる。
 そうかと思えば制服は半袖になり、セミの鳴き声がうるさく響き渡る。けれどやがてそれも潮が引くように静かになっていき、半袖は長袖になり、窓の外に見える木々は紅葉に彩られ始める。
 季節は、移ろっていた。


 それでも二人の関係はひとかけらも変ることなく、そもそも関係が『無い』から、変わることなんて有り得ないのだろうけど。
 今も薔薇の館の会議室には二人だけが居るのだけれど、交わされるのは無味乾燥な日本語だけだ。いいや、山百合会としての仕事に関する会話を無味乾燥などと形容するのはおごましいことなのだろうけど、そんなことは極めて瑣末なことだと思う。
 いい加減私は苛立っていた。
 私の世界の二人は……色々と難しい二人だけど、あんなにも真剣に自分たちの関係のことを考えているというのに、こっちの二人と来たら、まるで機械人形みたいに見えてしまう。
 ひどく、苛立たしい。
 友達が侮辱されたようで、この夢を、そしてこの夢を見ているであろう自分が憎たらしかった。

(私が、居たから……)
 これは福沢祐巳のいない世界。居ないからこそ改ざんされるべき事柄がある。そのうちの一つが彼女たち二人の関係なのだとしたら、それは一体何を意味するのだろう。
 自意識過剰と言わば言え。
 本来の世界での志摩子さんと由乃さんの関係は、きっと私が居たから『始まった』のだ。それは単なる始まりでしかなくて、そこにいかほどの価値が在るのかは解らないけど、今私が見ている世界と比べれば、決して軽くない価値があったのだと思う。


(由乃さん、あなたはあんなに復讐復讐って志摩子さんに拘ってたじゃない。なのになんで、私が居ないくらいでそんなに他人のフリしてるのよ)

”だって私、この人キライだもの。自分だけ遠く離れた場所にいて動こうとしない。動ける力も、人をひきつける魅力もあるのに、それを発揮しようとしない。世の中には動きたくても動けない人だっているのに”


(志摩子さんも志摩子さんだよ。積極的になれなんて言わないけど、もっともっと由乃さんに近付こうよ。他人にぶつかるのは、悪いことじゃないんだよ?)

”だって……恐いのよ。私、誰かと親しくなるのが恐い。親しくなろうとする努力が、恐い。人と人とで輪を紡ぐことが、恐い。私はそういう人間なの、生まれた時から。それにこの人、私のこと嫌ってるみたいだし……。そんな人とは、私は”

 
 強いフリをして強がって弱い自分を押し隠して自分にはない強さを持つ誰かを羨んで嫉妬して遠ざけた誰か。
 弱いフリをして本当の強さから目を背けて弱さを理由に誰かから逃げて遠ざかることしか出来ない誰か。
 それは確かに現実で否定することは出来ないけれど、だとしたらそれを肯定して受け入れて前に進もうとするのもまた現実だ。
 私が今見ている世界は現実にありえたかもしれない世界だけど、それは福沢祐巳という存在をゼロにして考えた時のみ存在しうる世界だ。
 だとしたらこんな世界に何の意味も無い。私の下らない妄想が産んだ可能性でしかない世界。

 だから私は渇望する。
 私という存在の居る私の居るべき彼女たちの世界を。



   ◇



 額の上の冷たい感触に違和感を覚えて、祐巳は曇り空が晴れうっすらと日の光が差し込むように覚醒した。
 冷たい風が頬を撫でていく。たまらなく気持ちがいい。そう、まるで長風呂のあとに夜風に当たったような感覚──。
(そうだ。私お風呂でのぼせて……そう、確か令さまに担ぎ上げられて、そして……)
 ぼうっとして霞がかった思考のままに記憶の糸を紐解いていると、突然目の前ににゅっと二つの顔が飛び出した。
「……祐巳、さん?」
「令ちゃん、祐巳さん気がついたみたいよー?」
 目の前にある二つの見慣れた顔は、やや心配げな色を浮かべたそれだった。二人の名を呼ぼうとしても喉がからからに渇いていて、上手く言葉が出てこない。
 だから私は、両の手をゆっくりと伸ばして、二人の頬に片方ずつそっと触れた。
 他人でしかなかった二人がこうして同じ時を共有してくれている。それは少しだけ私が原因の一翼を担っていて、けれどその少しが私にとっては誇りだった。
 他の何物にも替えがたい三人でわいわいと騒がしく過ごす時間は、まるで宝石のように輝いていて、祐巳が見てしまったあの灰色の世界を嫌が応にも心の奥底で浮き彫りにする。
 それは忌避すべき世界で、だからこうして祐巳は二人に手を伸ばす。
 触れた頬の感触は確かに温もりを伴った現実のそれで、この世界が夢でないことを証明づけてくれる。
 だからこそ今、問い掛けたい。

「ねえ……志摩子さんと由乃さんにとって、あなたたち二人の関係って、なんなのかな……」
 虚を突かれたような表情は一瞬で、そして先に口を開いたのは由乃さんだった。
「うん……そうね、友達って言うよりは、むしろ戦友? 宿敵と書いて『とも』と読むアレかしら。だってただ馴れ合ってるだけじゃつまんないもの。笑って泣いて、怒って殴って、それでも笑い合えてこそ仲間だもん。勿論私と志摩子さんと、祐巳さんを含めた三人でね。私たち三人なら、例え相手が蓉子さまたちだって負けやしない」
 どこか照れたように言う由乃さんの言葉はとっても由乃さんらしくて、祐巳はつい笑ってしまった。
 そうして今度は、志摩子さんの方を見やる。
「私と由乃さんは……少なくとも友達じゃあ、ないわね」
 一瞬だけ思考が固まる。それは由乃さんも同じだったらしく、目をまん丸に見開いて志摩子さんを見詰める。
 でも志摩子さんは、笑顔だった。
「親友、よ」
 固まっていた時と思考は一瞬で、次の瞬間に気付いたら、志摩子さんは由乃さんに滅茶苦茶に抱きしめられていた。
「こいつっ、私のことビビらすなんて生意気よっ! あれあれあれー? 志摩子さん顔真っ赤ですよー? 私に惚れちゃだめだぞー火傷するぞー?」
「だって……! 私、誰かのこと親友だなんて云うの、初めてで……!」
 ……とまあ、そんな感じで、寝そべってる祐巳の傍らで、何故かじゃれ合いを始めてしまう二人でした。

 別段何かをやり遂げたわけでもないのだけれど、どうしたことか祐巳は妙な達成感に酔いしれていた。そう、祐巳はなにもしていない。動きづめ喋りづめだったのは他でもない志摩子さんと由乃さんだ。
 祐巳はと言えば、風呂場でぶっ倒れただけ。
 それでも、果ての無い幸せを祐巳は噛み締めていた。二人の友の傍に居られることの幸せを。
「……ありがとう。二人とも、大好き。初めから私が心配することなんて、これっぽっちもなかったんだね……」
 感極まってそう呟くと、
「こらあっ!」
「ぐへっ」
 何故か、由乃さんがお腹に圧し掛かかってきた。
「何が、『心配すること』 よっ。心配掛けたのは私たちじゃなくてあなた、祐巳さんでしょっ。このばかちん! ばかばか!」
「私だって……私たちだって、祐巳さんのこと、大好き」
 何故か、志摩子さんにも物凄い力で抱きしめられた。

 苦しいけど、幸せ。
 酸素足りてないけど、嬉しい。

 ちょっと離れたところで呆れたように祐巳たちを眺めている令さまが、本当に少しだけ羨ましそうな表情を浮かべるのが、妙にくすぐったくて誇らしくて。
 
 だから今、きっと私たち三人の想いは一つだった。


 ──友達ってほんと、いいものだなあ……ってね!!




 
 /終幕、そして。


 物語とは恰好よく終わるに越したことはないけれど、どうやら私、福沢祐巳はそういうのにはほとほと無縁な性質らしい。
 泣いて笑って怒って目が回るほどに盛りだくさんで、(お前はマジに目を回したろうという突っ込みは、この際禁止)、楽しかった週末。
 そして、週明けて月曜日──。

「一体どういうことよ、これは」
 目の前で険しかない表情を浮かべた小笠原祥子さまは、薔薇の館の会議室のテーブルをばしばしと叩いた。
 そこには今朝方から一時間目が始まるまでにばら撒かれた、『祥子さまご立腹の原因』 たる、毎度お馴染みリリアンかわら版が、メンバーが持参しただけの枚数プラス、薔薇の館の玄関先にご丁寧に置かれていた一枚、計9枚が並べられていた。
「……リリアンかわら版、ですが」
「そういうことを聞いてるんじゃありません!」
 おずおずと口を挟んだ志摩子さんは、祥子さまに一喝された。志摩子さんは、まるで実験前のラットのように恐怖にその身を震わせる。
「いい? 三人とも」
 テーブルを挟んで祥子さまの対岸に、祐巳と、志摩子さんと、そして島津由乃さんがじっと俯いて綺麗に磨かれたテーブルを見詰めていた。
 というかこの状況には見覚えがある。
 祥子さまがリリアンかわら版をばしばしやっていて、ストレートに怒りを露にしている。あの時は渦中たる人物は不在だった筈……そう、イエローローズな騒動だ。なつかしいなあ。
「私が聞いているのは、この馬鹿げた記事のことよ。リリアンかわら版なんていつも程ほどには馬鹿げてるのだけど、私はいつも寛大に見逃してきたつもりよ? そういう記事が大衆に求められているなら、多少の損害には目をつぶろうと、自分に言い聞かせてきたわ。でもね……」
 祥子さまは一息、そして激情と言う名の弾丸は撃ち出される。

「幾らなんでもこれはやり過ぎなのよ築山三奈子ッ……!!!」

 ばしーんとまるで親の仇よろしく祥子さまは、リリアンかわら版を殴打した。
「ッッッ……」
 そして痛そうに手をひらひらとさせた。さっきから何度もばしばしやっている所為で、祥子さまの手の平は、傍目にも痛々しいことになっているのが容易に見て取れる。
「三奈子さま、まだ現役だったんのね……」
「そりゃあ、こういうコトが起こればあの方はしゃしゃり出てくるでしょう。無理矢理付き合わされる真美さんの姿が目に浮かぶようだわ」
 志摩子さんと由乃さんは、どこか醒めたように言い合った。同じように祐巳も、額にハチマキして徹夜で原稿を仕上げる三奈子さまの姿が、頭にぽんと浮かび上がる。
「私が気に食わないのは、あなたたちのその反応よ。悔しくは無いの? そんな記事、でたらめもいいとこじゃない。そりゃあ多少の事実は含んでるんでしょうけど、それを面白おかしく歪ませて学園中にばら撒く三奈子さんの性根が理解できないし、あなたたちのその醒めた反応も理解できな……ぐッ、げほッ、げほッ」
 叫びづめのせいで祥子さまは、ひどくむせられてしまった。
「大丈夫か? 祥子」
「ええ……ありがとう、令」
 まるで高級レストランのボーイさんよろしく脇に控えていた支倉令さまは、祥子さまの背中を軽くさすった。うーん、紳士的としか言いようがない。
 祐巳たち三人も三人で、意識して冷静で居るわけでは断じてなくて、ただ単にここまで見事にやられてしまえば、ぐうの音も出ない。そんな感じなのだった。


 この騒動は、言うまでもなくリリアンかわら版に起因するものだ。
 どこから情報を得てここまでのものを仕上げたのかは知るべくも無いが、そこには祐巳たちが最近突発的に開いた、『お泊り会』 の様子が、克明に記されていたのである。
 
 最初の夜──祐巳の家での出来事は。

 福沢邸に訪れた藤堂志摩子と島津由乃。勿論祐巳を含んでわいわいと楽しくやっていた三人の前へ、突然ジャニーズ系美男子が訪れる。何故かその少年はマフラーを捲いている。
 その人物は祐巳の遠い親戚で、志摩子さんと由乃さんは一目見てその少年にフォーリンラブ。女のサガ剥き出しで相手の邪魔しつつ言い争いしつつもその少年へアプローチを仕掛けるのだが、ラスト付近でその少年が爆弾発言。
 『俺が心から愛しているのは、愛せるのはお前だけ。誰よりもお前のことを愛している、祐巳──』、と。
 だがしかし、少年と祐巳の恋は絶対的な壁に阻まれる。
 何と二人は、同じ血を分けた姉弟だったという──。
 苦悩する少年。とまどう祐巳。迷い悩み理性と情欲の間でもがきあがき続ける。そして、悩みぬいた末に二人が出した結論は──。

 という、最近流行りの韓流チックなラヴロマンスに仕上げられている。最後に下した二人の結論があまりに切なくて愛しくて、祐巳は涙をこらえるのに必死だった。
 念のため断っておくが祐麒はジャニーズ系ではないし、勿論祐巳は奴に告られてもいない。近親愛に嵌るつもりは今のところないし、志摩子さんと由乃さんは祐麒に惚れてもいない。
 ただ、一つ屋根の下に女三人男一人という状況が、三奈子さまの手にかかり劇的に進化(?)したのだった。
 『君がくれた愛の欠片』 と銘打たれたその物語は、リリアンの女生徒たちだけでなく、その母親たちにも圧倒的な支持を得られそうである。


 そして二度目の夜。志摩子さんの家でのこと。

 こちらはうってかわってファンタジックというか、所謂ライトノベルと呼ばれるものに分類されるのではなかろうか。
 主人公に志摩子さんが据えられており、彼女の心の闇が生み出したもう一つの藤堂志摩子のカタチ、シマコと名乗る幼い少女がキーキャラクターとなる。
 志摩子さんの寂しさや孤独がカタチを成したその存在が、徐々に志摩子さんの現実を蝕んでいく。やがてそれは志摩子さんそのものをも侵し始めて、彼女の存在が薄らいでいく。
 誰もが藤堂志摩子を記憶から忘却し始め、なんとかその事態を止めようと祐巳と由乃さんは奔走するも、事態はどうしようもなく絶望的だった。
 やがて祐巳たちも志摩子さんを忘れ始め、しかしギリギリのところで踏みとどまるものの結局……志摩子さんは、この世界から消えた。
 季節は移ろい、リリアンでの春がまたやってくる。
 祐巳と由乃さんは、二人だけで薔薇さまとしての責務に日々を忙しくしていた。仕事は山のように押し寄せてきて気の休まるひまも無い。しかし時折ふと思い出す。柔らかそうな髪の毛を春風に揺らすかけがえのない友だちの姿を。
 そう、今も桜の木の下に静かに佇んでいる、あの少女のような──。

 という、君のくれた愛の欠片とはまた違う意味で涙腺を刺激する読み物だった。志摩子さんの家での幽霊事件が、三奈子さまの手によりドラマチックなものへと変貌した。
 ……というか、祐巳はこの物語を知っている気がする。
 『SHINING BRIGHTLY 〜たいせつなもの〜』というタイトルが与えられたこの物語に、確かに見覚えがある。
 以前、祐麒が妙なゲームに嵌っていたことがあった。祐巳もしきりに奴にそのゲームを薦められたのだが、どうにもそのゲームの絵が苦手で、結局手ずからプレイしることはなかったのだが、どうしてもそのゲームに拘る祐麒は、お話のさわりだけ祐巳に語ったのだ。ええ、そりゃもう熱っぽく。
 不思議とその頃の祐麒は、カツカレーばかりを食べていたのが印象に深い。


 そして最後の夜、ついおとといのこと、由乃さんの家での出来事。

 こちらは何故か、特別大きな誇張もなくドラマチックな物語に仕上げられてもなく、拍子抜けするほどに『普通』だったのだが……。
 一枚の写真が効果的に使用されていた。
 祐巳がお風呂場でのぼせて、目を回している場面。言うまでもなく三人はどうしようもなく裸族しており、丁度祐巳が二人に抱きかかえられている状態で、ほどよく密着していた。
 それは勿論祐巳たち三人ではなく、おそらくは新聞部の女の子を三奈子さまが口説き落として撮らせたのだろう。
 ほどよく湯気に覆われていて、しかるべき画像処理が必要な部分は見当たらなかったが、ある種の想像力を働かせるには十二分におつりがくる出来栄えだった。
(というかこの手前の志摩子さん……これきっと真美さんだ。カツラまでかぶせられてぱっと見は志摩子さんっぽいけど、胸が)
 ちょっと足りない。
 そういえば今日真美さんは欠席だった。おそらくは寝ずの編集作業にヌード写真。もしかしたら今回の騒動の一番の被害者は、彼女かもしれない。

 ただ唯一問題なのは、この写真の場面が、『のぼせた祐巳が志摩子さんと由乃さんに介抱されてる場面』 ではなく、『のぼせた祐巳が志摩子さんと由乃さんに襲われてる場面』 とも取れる文章が綴られてるのがいやはや何とも……。

「て、照れるぜ」
「祐巳、なにへらへらしてるの!?」
「す、すいませんっ」
 ともかく、祐巳たちにとってこのリリアンかわら版は、別に不愉快でも何でもない。自分たちの裸が露呈したわけではないし、限りなく小説に近い記事はとても楽しめたし。
「この小説、すごく面白いよね。知ってる人がモデル──というか実名そのままだけど、そのぶんビジュアルイメージすぐに湧くから、飽きずに読めるよ」
「実際に起きた出来事に手を加えてる辺り、その、三奈子さまという方のこだわりが感じられれるわ。とうかこれ、記事じゃないみたい。『実在の人物団体名とは一切関係ありません』って書いてあるわね。虫眼鏡でも持ち出さないと中々気付かないと思うけど」
「写真も、『イメージ写真』 ですって。意味不明の日本語ですわね。私たちは毎日お三方を見てますから気付きましたけど、この写真、殆どの人が錯覚してますわ。薔薇とつぼみ二人がついに脱いだ! という感じで。この……志摩子さまと由乃さまが祐巳さまを襲ったかのような錯覚する文章も、ついにやったかあの二人! という感じで」
 剣呑な雰囲気からはやや遠い位置にいる一年生の三人は、会議室の隅っこで軽口をたたきあっていた。
 祐巳たちがそれほど気にしないことも、その他の山百合会のメンバーがむしろ面白がることも三奈子さまは計算づくだったのだろう。欲を言えば祥子さまの怒りも計算に入れて欲しかったけど。
 その、怒りさめやらぬ祥子さまは、この状況をむしろ楽しんでいる一年生の三人を、一人一人じっくりと睨みつけた。うう、目で殺すとはこのことだ……。
 瞳子ちゃんは可南子ちゃんの影にすっぽりと隠れて、当の可南子ちゃんは気付かないフリ。乃梨子ちゃんに至っては睨み返さんばかりの勢いだ。大物だよ、あの三人。

「とにかく! 諸悪の根源は三奈子さんだけど、あなたたちも責任の一端は担ってるわ。お陰で今日は、学園中大騒ぎよ。志摩子、由乃ちゃん。そして祐巳。何か私に言うことはないの?」
 ここは素直に、「ごめんなさい」 が適当なのだろうが……。
 三人は、こっそりと目配せをし合った。どうやら共通する一つの意思が芽生えたようである。そう、一人ではとても出来ないようなことも、三人なら平気。
 だって、そもそも祐巳たちは何も悪いことはしでかしていない。だったら胸を張ろう。自信を持って今こそあの名言を。
 せーの、
「──曰く、」
「築山三奈子は」
「記者よりも小説家になるべきだ──」

 ……そして、紅色の稲光が落ちた。




「ふー、今日はたっぷりしぼられたなぁー」
「だって由乃さん、ちっとも祥子さまの言うこと聞かないんだもの」
「志摩子さんだって全然こたえてないじゃない。流石に連チャンだったから少しは間を空けて……今度は冬休みにでも、祐巳さんの家で祐麒君を取り合いますか!」
「じゃあ私は、頑張ってもう一人の私を生み出さないと」
 軽口を叩き合いながら肩を並べて歩く二人の少し後ろを、祐巳はぼんやりと歩いていた。既に日は暮れかかっていて、世界は夕日色に赤く、伸びる影はどこまでも長い。
(終りよければ全てよし、かな……?)
 本当に突発的で何の意図も無かった祐巳の家での一件に端を発した、今回の一連のお泊り会騒動。
 幽霊騒ぎに背筋を寒くして、かーるく一年生たちも巻き込んで、そうしてある種の予定調和とも取れる道筋を経由して、直接ぶつかった志摩子さんと由乃さん。

 その二人がこうして今、肩を並べて歩いている。二人をぼんやりと眺めてる祐巳も、まるでお祭り騒ぎが終わった後のような心地良い余韻と軽い疲労だけが残るだけ。
 大団円と呼ぶに相応しいこの世界のこの瞬間。
 けれど世の中そうそう上手くいくものではない。理不尽はそこかしこに転がっていて、時にはそれらにつまずくこともあるだろう。人一人の力などたかが知れていて、時に無力感に苛まれることもあるだろう。
 そう、この夕暮れの世界が針の上に立つような奇跡的な可能性で成り立っていることを自覚しなければならない。
 この大団円が終わりではない。物語はどこまでも続いていて、時には砂を噛むような終局を迎えることだってあるはずだ。
 それでも地球は回っていて時は留まることを知らない。何度終わりを迎えたって、明日はきっと当たり前のようにそこにあるのだから。
「──ねえ、二人とも!」
 声を掛ける。ゆっくりと二人が振り返る。
 その二つの笑顔が、きっと次なる物語へのプロローグ。



 了






▲マリア様がみてる