■それはよく晴れた日の


 二月。如月。フェブラリー
 呼び方は様々だけど、年を明けてふた月目、水野蓉子は目出度く第一志望の大学へと合格した。
 最悪のコンディションで迎えた試験当日。そんなだから結果を見るまで気の抜けなかったここ最近。だがしかし、紅薔薇さま大学受験に失敗。原因は何と──なんて見出しのリリアンかわら版を拝むかもしれないという杞憂は、あくまでも杞憂で終わった。
「どうされました? 紅薔薇さま」
「んー、やっぱり祐巳ちゃんにとって私は、あくまでも『紅薔薇さま』なのかしら、って考えてたの」
「えっ?」
 ダッフルコートに身を包み、蓉子の隣を歩くのは、蓉子の妹の妹にあたる少女、福沢祐巳。
 くるくる変わる表情と、一途に姉を想い慕う姿が可愛らしい、というのはクラスメイトの談。
 箸にも棒にも掛からないことを考えていたから、蓉子は軽くはぐらかした。
「たまには『蓉子』って呼んでほしいな、紅薔薇のつぼみの妹さん」
 にこやかに言うと祐巳ちゃんは、
「う……じ、じゃあ、よ、蓉子さま?」
 やはり慣れない様である。
(この子にとっては、私は永遠の紅薔薇さまか。まあ、それも悪くないけどね)
「ふふふ、無理することはないのよ」
 そう言って、祐巳ちゃんの髪房を軽くなでた。いつものツーテールではない一本出し(?)の普通のポニーテール。こんな季節だから、少し冷たくなっている。
「意地悪言ってごめんね。そうね、いつものままの二人の方が、あの子も喜ぶかしら。グラン・スールとプティ・スールに挟まれるのって、結構微妙な気分だから」
「はあ……紅薔薇さまって、何だかいつも、誰かを気遣ってるみたい」
「疲れる?」
「いえ、ただ私には、とても真似出来そうにないなあ、って思って」
 答える代わりに、ポニーテールを梳くようにしてあげると、くすぐったそうに目を細めた。それは本当にくすぐったげで、可愛らしくて、こちらまでくすぐったい気分になってしまう。
(あの子が祐巳ちゃんに嵌っちゃうの、判らないでもないわね)
「あ、あれっ?」
 どうやら髪に気を取られているうちに、現在位置を失念してしまったらしい。あの子の家までの道のりの先導を、何となく任せていた蓉子であったが、
「こっちよ、祐巳ちゃん」
「あ……は、ハイ」
 やんわりと祐巳ちゃんの手を握る。彼女も蓉子も手袋なしだったから触れ合った肌と肌は冷たかったけれど、どこかほっとして安心したような祐巳ちゃんの表情は、蓉子の心をほんのり暖かにする。
 このあたりの地理には自信が無かったのだろう。目的地はもう目と鼻の先だから、こうして手を繋いでいる時間はあまり多くない。もっと早くこうすればよかったかな、と蓉子は少々後悔した。
 勿論蓉子は、この辺りの地理には自信がある。
「……少し、時間過ぎちゃいましたね。お姉さま、怒るかなあ」
「そういうときは、待つのも恋のうち、って言ってあげなさい。そうすればあの子、照れながら怒るから」
「……結局、怒られる……。ていうか今日の紅薔薇さま、何だかちょっと黄薔薇さまみたい」
「はしゃいでるのよ、きっと」
 やがて目的地───小笠原邸の、現実離れなほどに広大な敷地が見えてくる。

 今日は、私、水野蓉子と、山百合会一年生で小笠原祥子の妹、私にとっては妹の妹にあたる、福沢祐巳ちゃんと二人、祥子の家にお呼ばれだ。



 『それはよく晴れた日の』


 
「ごきげんようお姉さま。祐巳も。ようこそいらっしゃいました。寒かったでしょう?」
「ごきげんよう、祥子。割と平気だったわよ? 道中ずっと、祐巳ちゃんと手を繋いでたから」
「あっ、あの、ずっとじゃなくてほんの最後だけ……」
「祐巳」
 たしなめるような祥子の声。それは別に不機嫌だとか、そういう意味では決してなく。言われた祐巳ちゃんは一瞬、その意味を図りかねたようだったが。
「……ごきげんよう、お姉さま」
「ごきげんよう、祐巳。あなたは二度目ね、来てくれるのは。ようこそ、いらっしゃい」
 それを言われただけで祐巳ちゃんは、胸の高鳴りを抑えきれないといった風で。まだまだ初々しいという形容が、ぴったりと嵌る。
「さ、どうぞお入りになって。こんなところでは、冷えてしまいますわ」
 
 久々に通された祥子の部屋は、それなりに見慣れた今となってもやはり、別世界と言う言葉が相応しいように思う。机に本棚にクローゼット、淡い色の絨毯にテーブルの上あるいはベッドの脇に置いてある読みかけの文庫本、という自分の部屋の平凡な風景と比べれば尚更のこと。
(初めてここに来たのは……確かまだ、中等部だった頃。色々あったなあ)
 本当、色々と。
 祥子と出会ったのが中等部の頃で、だからこの子との付き合いは結構長い。ずいぶんと手を焼かされることもあったけど、手の焼き甲斐のある子は、誰よりも何よりも、大好きだから。
 誰よりも大切な、自慢の妹──。

「お姉さまは、紅茶でよろしいですか?」
「ええ、ありがとう」
「おっ、お姉さま、私が……」
「ばかね、ここは薔薇の館ではないのよ? あなたは私の、大切なお客様なんだから。座ってゆっくりしてればいいの」
「……はい」
 やがて祥子は、手ずから淹れてくれたお茶を、座ってのんびりと──祐巳ちゃんはどうにも、いたたまれない様子だったけど──二人の前に静かに置く。一連の動作に無駄はなく、気品とか優雅とかいう修飾語は、今この時の為に在るのではないかと思えるほどだ。
 それに口をつける。
 飲み慣れた薔薇の館のそれとは、まさしく雲泥の差である。ああそうだ、祥子の淹れてくれる紅茶をより楽しむために、薔薇の館のインスタントのそれは存在してるのだ、きっと。
 美味しい紅茶は微笑を誘発する。何度味わっても、この感覚は格別だ。

 祥子と共に過ごせる時間はあと僅か。
 蓉子がリリアンを出たとしてもそれは、今生の別れというわけではないが、やはり何らかの形で、幸せな時間の終わりを実感することになるのであろう。
 例えばそれは、こちらが私服で、あちらは制服であった、とか。些細なことであろうと、それは二人を隔てる明確な境界だ。

 だが、それを境界と言うのなら既に、その感覚は体験済みだ。
 目の前にいる二人が、二人となった瞬間がそれである。
 まだ初々しくもあり、お互いに手探りな状況であるのは明らかで、二人とも自分の言葉や態度が、どれほど相手に影響を与えるのか計りかねている。
 時にすれ違うこともあるだろうし、もしや衝突することも、稀にはあるのやもしれない。けれど二人がお互いに向き合って接している限り、きっと上手くいく。根拠の無い直感めいた思いだが、そう確信できる──。

 そんな風に考えたことが、考えてしまったことが、一つの幸せの終わりである。
 蓉子と祥子の紅薔薇姉妹。それは既に二人のものだけではなくなった。福沢祐巳という存在が加われば、祥子としてはどうしても、姉か妹か、どちらかに重きを置かなければならなくなる。
 始まったばかりの関係に重きを置くこと、それは在るべき姿で、勿論蓉子にも異論など無い。大切な妹に、今度は妹が出来た。二人の関係は明るくて良好で、そして未知数。
 実際、祥子にやれ妹を作れだと散々せっついた記憶はあるが、半分は本音、そしてもう半分はポーズであった。出来ることなら、祥子との関係をこのままにしておきたいと思っていたから。

「……あの、お姉さま。紅茶、不味かったでしょうか……?」
「へ?」
 意外すぎる妹の言葉に、間の抜けた返事を禁じ得ない。この紅茶を不味いなどと言うのは恐れ多い。これで不味いというのなら、インスタントの紅茶なぞ単なる赤絵の具を垂らしたぬるま湯に過ぎない。
「いや、こうして近くで見ると、あなたたち二人が、随分と姉妹らしくなったなあって、感慨にふけってたのよ」
 嘘ではない。
 紅薔薇のつぼみと、その妹は、本当に姉妹らしくなって。単に蓉子は、それに妬いていただけ。なんだかんだと理由をつけてこじつけてみたところで、別に何かが変わるわけじゃない。
 祥子と祐巳ちゃんの関係は、99%の幸せと、ほんの1%の不快感と嫉妬を、蓉子にもたらしただけなのだから。
 すると蓉子の言葉を受けた二人は、何故か顔を見合わせた。
 二人が幸せならそれでいい、なんて思ってる自分を鑑みて、随分自分も年を取ったなあ、とガラにもなく……って、二人が妙な視線をこちらに投げかけてくる。
「お姉さま、今日は、私たち姉妹のことは、この際どこかに置いておいてください」
 きっぱりと言う祥子。
「どこか……出来れば、近いところに」
 自信なさげに言う祐巳ちゃん。
「……二人とも、自分たちのことをそんな風に言うものではないわ。あなたたちは姉妹になったばかりなのだから、二人で時間を共有して、共有しすぎるなんてことはないのよ。人と人との繋がりなんて、割合あっさり壊れてしまうことだってあるんだから。ロザリオが二人を繋ぎとめてくれる、なんて思わないこと」 
 つい、強い口調で言ってしまった。何時だったか何処だったか、聖に、『説教グセの蓉子』 なんて呼ばれたことが頭の中をよぎる。が、口に出してしまったものはしょうがない。
 すると祥子は、何だか切なそうな表情でこちらを見つめた。が、直後、何かに思い当たったように祐巳ちゃんの方を見やる。
「……祐巳、お姉さまにちゃんと説明はしたのかしら」
「しっ、しましたよぅ。紅薔薇さまにお電話したときに……」
 そう、祐巳ちゃんに誘われたのだ。うちに電話なんて珍しいなと思いつつも、祥子の家に一緒に、という誘だったわけで、何気にかなり嬉しかった。
 そう、確か、何かの理由があったはずなのだが、三人で学園外で顔を合わせる、ということが蓉子にとっては重要で……はてそういえば、理由とは何だったろう──。
「……その、お姉さまの大学受験合格を、お祝いさせていただこうかと思いまして。それで、どうせなら私たち三人で、と。こういう機会も、なかなか無いものですから……」
 遠慮がちに言う祥子。
 対して、こちらはすっかり、「あ」 という気分。
 完全に記憶から失念していた。
 自他ともに認める完ぺき主義者であるところの蓉子だが、たまーに細かいことをすっかりと忘れてしまうことがある。今回のことが、細かいことであるのかは置いておくとして。
(そうだ……。何気に今日、私がメインだったんじゃない。それなのに何私、偉そうなこと言ってんだろ……ああもう)
 内心の悔恨を押し隠して、
「そうね。ありがとう。二人の気持ち、とっても嬉しいわ」

 まったく、自分が主役であったことを忘れるなんて、滑稽極まりない。主役じゃなくて、これでは単なるピエロではないか。
 二人のことを慮ってばかりだったが、これでは自分が一番まだまだだ。
 そうそう。今なら鮮明に思い出せる。
『祥子さまのお家と、それともどこかに出掛けるか、紅薔薇さま、どうされますか?』
『そうねえ。それじゃあ、祥子の家を、リクエスト』
 きっと祐巳ちゃんは、その方が嬉しいだろうと思ってのことだった。勿論、外は寒いから、という理由もあるのだが。

「……そうね。それじゃあ、もう少ししたら外へ出てみましょうか?」
 あの時は、寒いから祥子の家、なんて少し思ってしまったが。こんな季節だけど、今日は本当によく晴れている。
 なにより、祐巳ちゃんと二人でも、随分と暖かな気分になれたのだから。祥子も加われば、そんな暖かな気分はきっと累乗する。
「そうですね、暖かいですもの、今日」
 たまには、二人の優しさと気遣いに頼ってしまうのも、いいだろう。きっとそれが、なによりの二人の気遣いへのお返しになるのだろうから。


 それはよく晴れた冬の日の出来事。
 ちょいと恥を掻いてしまったが、二人の微笑みは優しくて、自分もこんな笑顔を浮かべられてたらいいな、と思いながら。
 風は冷たかったけど、そんなものは取るに足りないこと。
 こんなにも暖かな気持ちになれる時間は──今日という一日は、まだまだ、始まったばかりなのだから。


 了






▲マリア様がみてる