■おいしい缶入り汁粉の飲み方


「……ご迷惑お掛けしました」
 薔薇の館の会議室で、一人の女生徒がぺこりと頭を下げた。この薔薇の館に通うようになって一ヶ月と半分くらいの、一年生の有馬菜々だ。日頃はわりと快活な性格の彼女だが、今はなぜか消沈としている。
「しょうがないよ。分かりにくい所だと思うし。私も何度か引っかかりそうになったことあるし」
「二年生の私たちですら時々ごっちゃになるくらいだから。無理ないと思うわ」
 さっぱりと言うのは二年生の二条乃梨子。同じく二年生である松平瞳子もそれにならって菜々になぐさめの言葉をかける。


 ひとつの些細なミスが切っ掛けだった。
 山百合会の基幹業務のひとつとして、生徒への学園行事実施要綱などの連絡というものがある。
 そのための手段として、要項をまとめた書類を作成し、所定の掲示板に貼り出すという仕事があるのだが、掲示板に張り出すための書類に誤表記があったのである。そこは菜々が担当した箇所でもあった。
 理由は不明だが、リリアン女学園高等部では、三学年部のうちの二学年部にのみ二年桜組が存在し、代わりに二年李組が存在しない。正確な所以はすでに忘れられ、失われてしまったのだが、歴史ある伝統校であるための名残のひとつと言われている。
 これは全校生徒が知る話ではあるのだが、ミスがあったのはそこだった。本来二年桜組と表記しなければならない所で、二年李組と表記されていたのだ。細かい誤字脱字などは、それもやむなしと放置することはあるが、クラス名の誤記はさすがに無視できない。
 ミスが発覚したのは、あいにく校内に約十数箇所ある掲示板に貼り出された後だった。貼り出しの作業も山百合会の仕事であるが、一度すべてを回収し、該当箇所を修正して再度貼り出すという二度手間となった。
 書類を作るのも、貼るのも。そして回収して再度貼り出すのも、一人では相当の作業量となる。一人でやっていては夜中になる。
 しかし山百合会は全員協力制。基本的にひとつの仕事に全員で取り掛かり、そして発覚したミスに対しては、可能な限り即日、全員でフォローするという体制だ。
 今回の件に関しても、ミスの発覚から解決までの時間は、ものの一時間といったところだ。修正前の書類を貼り出したところから数えても、二時間たっていない。修正前を目にした生徒も殆どいないだろう。これ以上ないくらいの磐石の対応といえた。


「貼り出す前にもっとよく確認をすべきだったね。ちょっと油断してた」
「今後は確認を徹底しましょう」
 三年生の福沢祐巳と藤堂志摩子は、うんうんと頷き合う。
 余計な作業が発生したというのに、ひどくまったりと──ともすれば普段よりもまったりとした雰囲気である。それはひとえに彼女たちの人の好さと言えるし、ミスをした菜々への気遣いでもある。
 有馬菜々はまだ一年生。二学年のクラス名が特別であることをはっきりとは理解していなかっただろうし、なにより新人ということで山百合会の仕事自体に慣れていない。
 やむを得ないと割り切っていい状況と、簡単に割り切ってはいけない状況というのはある。大したことのないミスであるし、実害もほぼ無い。こういうこともあると、皆が割り切っていた。

 しかし、割り切れていない人物が一人いる。ミスをした本人である菜々だ。唇を噛み締めてじっと床を睨んでいる。まるで親の敵のように。彼女の目は怒りに満ちているが、その怒りの対象は他ならぬ自分自身だ。
 二学年だけクラス名が特殊なのは知っていた。なのに仕事をしている最中には、そこに意識が向かなかった。
 山百合会は一つの案件に全員で取り組むが、細かい作業などはある程度割り振って行う。菜々本人としては割り振られたその仕事に自信はあった。ゆっくり、間違えないようにでいいからと姉には言われたが、内心では菜々は「なめるな」という気持ちだった。これぐらい誰にでも出来ると、たかをくくっていた。しかしなめていたのは自分自身だった。
 そしてミスをした自分に対して誰も責めたりしないことが、まるで自分がなめられてるみたいで悔しいのだ。

 歯痛を我慢したような顔で俯く菜々の肩に、ぽんと置かれる手があった。
「菜々」
「ひッ」
 思わずひっくり返ったような声をあげる菜々。今この状況で最も恐ろしい人物に肩に手を置かれたのだ。不自然な動きで恐る恐る振り返る菜々は、もう一目散に逃げ出したいと思ったほどであるが、我慢してその人物の表情をうかがった。
 菜々の恐るべき想像の中でその人物は般若のような顔をしていたが、実際にはそれほどでもない。「めッ」というような顔がそこにあった。
 三年生の島津由乃だ。他ならぬ菜々の姉である。
「言ったでしょ。あせらないで間違わないように、って」
「はい。すいません」
 声色も表情もそれほど怖いものではなかったが、逆にそれが恐ろしいという説もある。どちらにしろ今の菜々には、謝るより他にない。
「今後くれぐれも気をつけること。いい?」
「はい。それはもう」
「よし」
 肩に置かれていた手が、今度はぽんと菜々の頭の上に置かれる。菜々と由乃に身長差はほとんど無いのだが、かなり上の方から手を置かれているような気がした。
 
 その後由乃は、妹が迷惑をかけたことを皆に詫びた。菜々も一緒にもう一度頭を下げた。リーダーの祐巳を筆頭に、乃梨子も瞳子も、大したことない。全く問題ない。山百合会ではよくあること。などなど、少しも気にしていないことをアピールした。
「解決したところで、お茶にしましょう」
「さんせ〜い」
 そして志摩子の提案により、その日は(時間が遅かったこともあるが)仕事は切り上げて、皆でお茶を飲みながらのんびりと雑談に興じた。トラブルこそあったものの、ひとつの案件を片付けたことで皆のテンションは割と高かった。むしろトラブルがありそれを乗り越えたからこその高揚感ともいえた。
 誰も菜々のミスのことなど気にしてなかったし、菜々本人も楽しい時間のさなかに徐々に失敗の悔しさを和らげていった。あるいは皆、それを意識して楽しい時間を作ろうとしていたのかも知れない。
 どこにも、遺恨の欠片すら見つからない。全くいつもと変わらない薔薇の館の風景だ。

 そう、誰かが言っていた。こんなこと、山百合会ではよくあることだと。それは冗談でもなんでもない事実である。あくまで傾向としてではあるが、山百合会には成績優秀にして品行方正な生徒が多い。それゆえの生徒会長という責務であるが、彼女たちだって特別な資格など持たないごく普通の十代の女子高生だ。ときにケアレスミスをするし、うっかり忘れたりすることもある。人間だからミスは必ずあるのだ。人間に絶対はない。
 ミスを放置すれば良くないことが起こる。時に学園の催しが滞るという最悪な事態を引き起こしかねない。しかし山百合会に代わりはおらず、自分たちのフォローは自分たちでするしかない。
 だから彼女たちは、ミスは悔いるものであると同時に──むしろ後悔に先んじて取り返さなければならないものだということを経験則から身を持って理解している。
 それは自分のミスだけではなく、他人のミスでも同じだ。誰のミスであろうと、愛すべき山百合会の信頼の失墜に繋がるのだから。
 ミスは取り返すべきもの。そういう意識は行き届いている。
 そのためには一人では立ち行かない。だから協力する。どんなときでも例外なく。
 それなりの期間を山百合会で過ごせば──特に今の山百合会ならば、それが当たり前で当然のことであるとが分かる。

 ……だが、本当にそれが当たり前のことなのだろうか?


  ◇


 それから数日後のこと。薔薇の館では、山百合会のメンバーたちがいつものように仕事に励んでいた。最近はメンバーの集合について若干やり方を変え、作業効率がアップした。そのため皆の機嫌はいつになく、かつてないほど上々である。
「意外な盲点だったよね。放課後の集まり方」
「今思えば、昔は当たり前にそうしていた気もするわ。いつの間にか忘れてしまっていたのね」
 祐巳と志摩子が話しているのは、放課後の集合についてである。
 つい二週間ほど前のことだが、祐巳から『山百合会の活動日を決めたらどうか』という提案があった。放課後は山百合会活動の時間であるが、集合に関してこれといってルールがなかったために、日によって集まりが良かったり悪かったりとまちまちであった。
 山百合会では基本的に全員で同じ案件に取り組むため、集まりが悪い日は仕事を進めにくい。
 それゆえの祐巳の提案だったが、皆の反応は鈍かった。部活動などとの兼ね合いもあるし、忙しい時期と暇な時期で集まる頻度も変わってくるからだ。些細ではあるが、意見の食い違いにより話し合いは珍しく紛糾した。
 じゃあどうしようかと再度話し合ったとき、誰かが言った。「お昼ご飯食べてるときに決めればいいじゃないか」と。
 確かに毎日薔薇の館に集まってお昼を食べていたが、それは伝統的なものであり特に意味の無いものだと、誰もが気にかけていなかった。勿論それだけのためではないのだが、その日集まるかどうかを決めるには絶好の機会であるというのに、ここのところ機能していなかった。つまり形骸化していたのだ。
 話し合うことが大事だと誰もが理解している。だが、肝心なときにおろそかになることもある。油断は大敵だった。


 その日も特に滞りもなく仕事は進んだ。下校時刻まではまだ少し間があるが、区切りもいいので今日は終わりにしようかと、そんな声が上がりだしたときだった。
「ちょっと待ちなさい、菜々」
 少し焦ったような由乃の声だった。皆驚きなにごとかと手を止めるが、一番驚いたのは菜々だ。それでなくとも彼女は、数日前のミスをまだ引きずっていて少し過敏になっている。
 由乃が手に持っていた書類を、隣に座る菜々に見せる。真面目すぎるくらい真面目に取り組んでいた菜々の顔色が、水を被ったように青くなったのはその時だ。
 二人が小声でちらちらと何かを話しているうちに、青かった菜々の顔はいよいよ血の気を失い白くなった。
 何かあったな、と一同は理解した。そして由乃が切り出すのをじっと待った。
「……ごめん。ちょっとみんなに確認して欲しいことがあるの」
 ことさら真剣な由乃の宣言である。すでにスイッチが切り替わっていた他のメンバーたちは一様に傾注した。深く俯き素顔の見えない菜々を気にしながら。

 由乃が言うにはこういうことだった。
 自分が発見したのは偶然だが、少し厄介なミスが見つかった。内容としては、聖書朗読部と聖書研究部の部活動データが混ざってしまっている、というものだった。
 ミスをしてしまったのは菜々。確認したところ、朗読部と研究部の区別が曖昧だったらしい。本人にも自覚があるという。うなだれる菜々を見て皆痛ましい気持ちを覚えた。
 由乃は続ける。のちほど指導は行うが、今は先ず状況確認を優先したい。申し訳ないが、これまでに作業を終えた分の再確認を皆にお願いしたい、という内容だった。
 口で言うのは簡単だが、難しいのはここである。確認して欲しいとはいえ、確認するためにはイチからデータと照らし合わせながら正誤を確認していくしかない。
 単純だが根気のいる作業だ。山百合会の仕事といえば、つまるところ全て根気との勝負であるが、一度登った山をもう一度登れと言われたらげんなりもする。
 目の前の書類の山を凝視するメンバーたち。
 確認なんて必要ない。間違ってるのはその一枚だけ。だから確認しなくても大丈夫と、きっと誰もが一瞬はそう考えた。

 しかしそれは一瞬だけだった。
「よーしお姉さんに任せとけ!」
 いの一番に書類をひっつかんで確認を始めたのは、二条乃梨子だった。日頃からバイタリティに富む人物である。ここにきてそれが発揮された。
「あのお姉さんワーカホリックだから。放っておけば書類を全部綺麗にしてくれるわよ。人参の代わりに仕事ぶら下げるの」
「なにおぅ。瞳子お前も手を動かせー」
「やってるわよ」
 乃梨子に続いたのは、同じ二年生の松平瞳子だ。乃梨子の作業がブルドーザーだとすれば、瞳子のそれは精密機械だ。一枚一枚、早く正確に処理していく。
 どちらにせよ、菜々を元気付けるため殊更に陽気な二人だった。
 祐巳と志摩子も、元気な二年生たちに即発されたように、早速書類の山と向きあう。カラ元気ではあるのだが、元気に変わりはない。若干のためらいこそあったものの、ようやくいつもの山百合会として機能しつつあるようだ。
「ほら。菜々も確認しなさい。今からなら下校時間には間に合うから……菜々?」
 由乃にせっつかれる菜々であるが、返事がなかった。終始うつむいていた菜々が顔を上げる。彼女の首には由乃から受けたロザリオがかけられていたが、まるで今は鉛の鎖がかけられているかのように、重々しく、苦しげな動作だった。
 もう我慢の限界だった。そう、言いたいことがあったら言えばいい。ついこの間も、意見を引っ込めようとしたら、やれ言えそれ言えと促されたものだ。
 ならば思ったことを素直に言えばいい。そんな開き直りのような気持ちで菜々は口を開いた。
「……なんで」
「え?」
 菜々の発した声に誰かが反応した。そしてそれが引き金になった。
「なんで怒らないんですか? ミスして迷惑かけてばっかりの奴が目の前にいるのに、どうしてそんなに平気でいられるんですか」
 椅子を弾くように立ち上がった菜々の顔は、怒りだった。声こそ荒げなかったが、彼女の内心は古い畳がささくれだったように荒れていた。
 怒られるべきは自分自身。だというのに誰もが何事も無かったかのように和気あいあいとしたままで、自分が怒っている。これではあべこべだ。自分の態度が表している矛盾は、他ならぬ自分自身が招いた結果であることが、ミスの上に重ねて菜々を苦しめていた。
「気持ちは分かるけどさ。過度に人のミスを突っつくのはどうかと思うよ」
「誰だってミスはする。それは一般論だけども、ね?」
 最初に答えたのは乃梨子と瞳子だ。先輩に祐巳たち、そして後輩に菜々。その中間という位置の彼女たちは、菜々とはそれほどまだ親しいというほどではないが、先輩たち祐巳らとの付き合いは相当に長い。ようは彼女たちは、身軽に動ける立場なのだ。
 しかし山百合会そのものの返答を代表して答えるのが自分たちの役割ではないことは自覚している。結果、なんとも歯切れの悪いことしか言えない。
「その、菜々ちゃんの言いたいことは分かるの。それが気持ち悪いということも。考えなくちゃいけない事だとは思う。でも、今は……」
 志摩子がそう言い、そしてちらりと由乃に目をやる。今ここで言うべきこと、そしてやるべきことは決まっている。志摩子はそれを答えても良かったが、それは志摩子が言うべきことではない。
 また、菜々の望むようにしてやっても良い、と志摩子は思う。だがそれは、姉に裁量を任せるべきことだ。
 志摩子の視線に気づいたのかは分からないが、由乃が静かに落ち着いた声で菜々に話す。
「皆に謝りなさい。で、早く席について手を動かしなさい。ごねてる暇はないのよ」
 静かに諭すような由乃だったが、表情は以前に菜々がミスをしたときよりずっと厳しい。
「……ってるんですか」
 菜々が俯きがちにぼそぼそと何かをつぶやく。聞き取れなかった由乃が聞き返すと、今度ははっきりと言った。
「何カッコつけてるんですかって言ってるんです。素直に言えばいいじゃないですか。姉の面目を潰すなって」
「そういうことを言ってるんじゃないわよ!」
 今度は椅子を蹴飛ばすようにして由乃が立ち上がる。取っ組み合いでも始まりそうな即発の雰囲気をある種読んでいたのだろうか、志摩子と乃梨子が両脇から飛びつくようにして、由乃の体をはがいじめた。
「由乃さん、駄目っ」
「……」
 由乃には、取っ組み合いも平手を張るつもりもなかったのだが、そんな風にしがみつかれて毒気が抜かれたらしい。そんなことをするつもりはなかった。しかし、そう見えてしまうのはいけないことなのだ。
 対して菜々の方にはと、落ち着けようと祐巳と瞳子が近づいたが、投げ捨てるようにして「用事が出来ました。今日はお先に失礼します」と一礼すると、鞄をひっつかんで機敏に会議室から出て行った。誰かが止める間もなかった。

 ──階段を降りる音は徐々に小さくなりやがて聞こえなくなった。
「実は階段を降りる振りでした、じゃーん。とか言って菜々ちゃん、戻ってこないかなあ」
「私だったら来ないわね。貴女ならやりそうだけど」
「なにおぅ」
 乃梨子と瞳子である。菜々のミスはもとより、菜々の暴言、暴挙ににもそれほど気分を害している感じではない。
 そんな中、由乃が静かに席についた。何事もなかったかのように、書類の確認を再開する。
「妹が迷惑をかけたわ。残りは私が片付けておくから」
「それこそ、何カッコつけてるんですか、ですよ」
 あとは一人でやるという由乃に、乃梨子がいたずらっぽく突っ込みを入れる。
 先輩後輩という垣根を超えたこのいたって気易い雰囲気が、今の山百合会の特徴といえる。祐巳たち三年生たちがそういう風に振る舞ってきたこともあるし、そもそもそういう人たちだからとも言える。昔の山百合会とはかなり様変わりしている点だった。
 つとめて自然に祐巳は皆に問いかけた。
「今、考えるべきことは何だろう」
 志摩子がそれに答える。
「彼女が言っていたことね。少し、何かを変える必要があるかも知れない。まだうまく考えがまとまらないけど……」
「そうだね。私も考えてみる。だから瞳子と乃梨子ちゃんも考えて。由乃さんは、菜々ちゃんのことを考えてあげて」
「……了解しました。リーダーどの」
 いかにも不肖不肖といった由乃の態度に、どこかからこらえきれない小さな笑いがこぼれた。一体どこのどいつが──と由乃が周りを見回すと、どこからもだった。皆が笑っていた。由乃がじろりと皆を睨むも、あまり効果はないようだった。

 険悪だった雰囲気はやわやわとほぐれ、書類の確認作業は適切に進んだ。
 少しして、祐巳がこっそりと由乃に聞いた。
「菜々ちゃんを追わなくていいの?」
 由乃は淡々と答える。
「少しは頭を冷やす時間が必要でしょ」
 お互いにね、と付け加える。手にした書類を、まるで石ころか何かでも見るような目で見ながら。


  ◇


 それから1時間ほどのちのこと。
 書類の確認作業もあらかた終えたところで、頃合いを見計らって福沢祐巳は薔薇の館を抜けだしてきた。彼女は今、本校舎内のミルクホールにいた。
 放課後というとここでお喋りしている生徒は多いのだが、今はもう下校時刻間際ということで、ひどく閑散としている。
 そんなミルクホール内の隅のほうの席で、菜々が一人で本を読んでいた。参考書か何かにも見えたが、ページをめくる手つきがや菜々の目付きがどうも怪しい。
 ともあれ、目当ての人物を見つけた祐巳は、菜々のほうへ近づいていった。参考書に夢中の菜々は、祐巳の姿に気づいていない。
「こら。校舎内に携帯の持ち込みは駄目でしょ」
「!?」
 突然声をかけられて慌てた菜々は、手元を本で隠そうとする。不自然きわまりない動作だった。
 なんてことはない。彼女は本を読むとみせかけて携帯をいじっていたのだ。
 今更慌てても誤魔化せないと判断した菜々は、別に携帯を隠すでもない手つきで仕舞い、そして居直った。
「紅薔薇さま……。別にフツウですよ。みんな持ってます。隠れていじってるんですよ」
「知ってるよ。携帯禁止は時代遅れってみんな言ってるね。でも私たち山百合会がルールを破るのは駄目」
「またそういう……」
 当然のように祐巳が言うと、菜々がうめきにも似たつぶやきをこぼす。「また」というわりにさっきの件には何ら関係ないが、坊主が憎ければ袈裟までもである。
 祐巳はさっき自販機で買った飲み物を、菜々の前に置いた。自分の分の飲み物もテーブルに置き、菜々の向かいの席に腰を掛ける。
「はい。今日はお疲れ様」
「……おつかれさまでした。どうしてここだって分かったんですか?」
「うん、何となくね。ほんと何となくだよ」
「はあ……」
 姉とは違い、どうも勝手が違う。絡め手なのか正攻法なのか。判断できぬままに、菜々はこうして姉の友人と向かい合う形になってしまった。
 しかし菜々の視線は、祐巳ではなくその手前の一点に注がれている。今しがた祐巳が自販機で購入してきた飲料だ。缶コーヒーによくある180ml缶であるが、表記されているのが”おいしい缶入り汁粉”となっている点が異なる。
「缶入り汁粉って美味しいんですか? 買っている人を初めて見ました」
「買ってる人がどれだけいるかは知らないけど、味は飲んでみれば分かるんじゃない?」
 そう言われても半信半疑の菜々と、何故か自信ありげな祐巳である。しばらく祐巳は待ってたが、菜々が飲み物に手を出す気配がないため、話をすすめることにした。


「あれからずっとミルクホールにいたの?」
「友達と会って、さっきまでここで喋ってました。その子も帰っちゃったんで、さてどうしようかなと」
「ふうん。で、山百合会はどう?」
「は?」
 話に脈絡がなく、菜々は混乱する。
「薔薇の館に通うようになって二ヶ月くらい。そろそろ慣れてきた頃かなって。山百合会に対して考えたこととか思ったこととか、色々聞きたいな、と思ってね」
「はあ」
 なんだろう。試用期間を終えての感想でも話せというのだろうか。ミスばかりしてボロボロだったこの二ヶ月の軌跡を。
 決してそれだけではないのだが、ミスをやらかしてフォローしてもらって……というループの印象しか菜々にはない。
 きっと自分には向いてないのだ、こういうのは。だから、明日からもう来ないでいいと言われてもいいやというやけっぱち気味な気持ちで、菜々は答えた。
「そうですね……。皆さんとてもお優しくて素敵な方ばかりで。薔薇の館に通わせてもらって、学園生活がより充実するのを実感します」
 なんという生意気な後輩だ。菜々は自分で言って苦笑した。リリアンだから良いものの、場所が場所なら殴られてもおかしくない。
 しかし祐巳は合わせたのかそれとも素なのか。うんうんと納得するように頷いた。
「うん。みんな優しいしよく動いてくれるよね。私の采配が若干食い違っててもフォローしてくれるから、ただ座って待ってればいいかなって思える安心感あるよ」
 逆に、下手に何かを変えようとすると公然と反対意見が出てきてへこまされる、と祐巳はからからと笑う。ほんのつい最近のことだが、祐巳といわゆる祐巳の意見に対しての反対者との間で、もめたことがあったのだ。
 菜々もよく覚えている。温厚な人たちの集まりに見えて、実はいつも激しい討論が行われていたのかと菜々は恐々としたが、あれは『せいぜい一年に一度』というレベルの出来事だったらしく胸をなでおろした。
「みんなね、色々言ってくれるんだよ。良かったら良いと言ってくれるし、何かが間違っていたらそれを教えてくれる。私も極力そういう風にしてる。もちろん、駄目なら駄目と言ってくれる。フォローして、フォローしてもらう。そんな感じ」
「協力しあってるんですね」
「うん」
 しかし、そうでない時期もあった。そしてそれは、わりと最近のことだったりする。


 福沢祐巳がまだ一年生だった頃のことだ。季節は秋も深まってきた時期。祐巳は昨年度まで彼女の姉であった小笠原祥子と姉妹の契約を結んだ。祥子はその当時、紅薔薇のつぼみという生徒会役員、つまり山百合会の一員であったため、自動的に祐巳も山百合会という組織に在籍することとなった。
 一年生。つまりルーキーである。同輩に藤堂志摩子や島津由乃がいるが、彼女たちは祐巳よりも一足早く山百合会に在籍していた。
 ある日祐巳は、祥子からだしぬけにこんな事を切り出された。
「おとといの仕事内容について、祐巳の仕事に間違いがあったの。それ自体は昨日、お姉さま方が修正したから、後で皆に謝っておきなさい」と。
 祥子は間違いの内容を祐巳に説明したが、なにより一昨日の出来事だ。祐巳はうろ覚えで、間違いの内容もピンとこなかった。それは本当に自分の間違いなのだろうか。誰かが自分の間違いを、新人の祐巳にかづけているだけなのではないか、と。新人ならミスもする。だから多めに見てもらえる。ならば新人のせいにしてしまえばいい──と。
 だがそれは確証のないことだ。だからその情報を信頼するしかない。そして祐巳は、姉である祥子のことを信頼していた。自分のミスは受け入れよう、と。しかし祐巳はもうひとつ別のことを考えた。そしてつい口に出してしまったのだ。
「なんだか気味が悪いですね」
 と。


「……それで紅薔薇さまは、お姉さまに何と言われたんですか?」
「めっちゃ怒られた」
「ですよねー」
 折角のお姉さま方の好意になんという言い草。自分のミスを棚にあげて。そういうことは一人前の仕事が出来るようになってから言うべき。祐巳あなたそれをわかっているの? と。
「ばか正直に言っちゃったのはさすがに無いかな、って今は思ってるけど、あのときの自分の気持ちが間違っているとは思ってないの。他人のミスを黙ってフォローするのはスマートだし、それを美徳とする気持ちも分かる。だが、しかし」
「だがしかし、ですね」
 祐巳と菜々は同じようにうんうんと頷く。きっとこれが自分だったら気持ち悪すぎて頭がおかしくなるだろう。菜々は率直にそう思った。
「どうしてそんな風潮だったんですか?」
 菜々のもっともな疑問である。祐巳は「幾つか理由はあるけど、これといった明確な答えはない」と前置いて話しだした。
「さっきも言ったけど、何事に関しても、言わないのが美徳という考え方が蔓延してたこと。山百合会活動に割く労力ってかなりのものなんだけど、大変さをアピールしたりもしない。何故ならそれはスマートじゃないから。大きいのはこの二点かな」
「今とずいぶん違ったんですね、雰囲気」
 うん、と祐巳は頷く。何事にもフレンドリーでフランク。気易い雰囲気の今の山百合会とは対照的だが、それはほんの二年前のことなのだ。
「だからね、菜々ちゃんのお姉さまと、志摩子さんか。三人でこっそり話して、私達がこういうの変えていこうって決めたんだ」
「お姉さまもいっぱいやらかしてたんですか? そこ知りたいなー」
「ハハハ。多分ね。でも由乃さんには、それはあまり伝わってなかったみたい」
「……」
 憮然とした表情の菜々である。妹の問題は姉に言う。妹の責任は姉の責任。そして妹の指導は姉が行う。祥子と祐巳の紅薔薇姉妹はリリアンの伝統たるそれを正しく体現していたが、島津由乃と、姉である支倉令の関係は少々異なっていた。
「たぶん令さまは、由乃さんに半分も伝えてなかったんじゃないかなあ。んで指導って言っても、あの二人はちょっと特別な関係だからね」
「お姉さまが姉妹にこだわるのって、そのせいですね」
「そうだね。由乃さんはあれで、菜々ちゃんをすごく大事にしてるんだよ。ちゃんとした姉妹関係を作ろうとしてるの」
「まあ……理解はしました。でも納得はしないかも知れませんよ?」
「それでいいよ。ただしお互いに誤解なきように」
「はーい」
 菜々はそれから、あの藤堂志摩子にもミスがあったのか知りたがったが、祐巳が知るかぎり志摩子がミスをしたことは殆ど無い。控えめだが聡明な人物であるため納得は出来るのだが、それが真実だったのか、それとも志摩子の姉である佐藤聖が何らかのトリックを使っていたのか。それは今となっては知る由もないのである。


 それからは他愛もない会話が続いた。
 菜々は若かりし日の姉のことを知りたがったし、かつての山百合会に在籍していた人物たちにも興味があった。祐巳としても、菜々と由乃が二人きりのときどんな話をするのか興味があった。
 そんなことを話していると、時間がたつのはあっという間だった。
「……冷めちゃったね。新しいの買ってくるよ」
 話し込んでいたためすっかり忘れられていた缶入り汁粉は、ちょっと適温とは言いがたいまでにぬるくなっていた。熱々の飲み物が恋しい時期でもないが、それに気付いた祐巳は買い直しに行こうとする。
「いえいえ悪いですっ。冷めても美味しいですっ」
「いいよ。代わりに冷めたのは私にちょうだい。私、缶入り汁粉が大好きなんだ」
 菜々は懸命に祐巳を止めたが、熱々のほうが絶対美味しいという祐巳を止めることは出来なかった。やがて祐巳は自販機から出てきたばかりの、熱々の缶入り汁粉を菜々の前にことんと置いた。
「さあ、どうぞ。熱々が美味しいよ?」
「……すいません。いただきます」
 プルタブを開けて菜々は一口だけこくりと飲む。あまり縁のない飲み物であるため、若干慎重になっているようだ。
 一口飲み終えた後の菜々は、なんだか不思議なものに出会ったような顔だった。
 そんな菜々を楽しそうに見ながら、祐巳はこれまた楽しそうに語る。
「私は昔からミスばっかりしてて、そのたびにフォローしてもらって、そんでお姉さまに叱られてた。そんなときにコレ飲んでたんだ。ちょうど寒い時期だったから。二年になってからはあまりミスもしなくなったけど、まあ私にとっては水みたいなものだから」
「どんだけ缶入り汁粉飲んだんですか、紅薔薇さま」
「私には、それしか無かったんだ」
「紅薔薇さま……」
 ミスを連発し、姉には叱られるばかり。しかし知らぬ間にフォローはなされている。自分から何も出来ない悔しさ、焦燥感、無力感。それらやり場のない感情は、どこかで中和してやるしかなかったのだ。
「でも今は違う。瞳子と乃梨子ちゃんはあんな感じで楽しい子たちだし、志摩子さんは頼りになってくれる。由乃さんはああ見えて、菜々ちゃんのことを第一に考えてるから。それでもどうしようもない、苦しいことがあったら、私が何とかする。よりよい方向に変えていけばいいんだから」
 俯いて話を聴いていた菜々は、やがてぽつりと呟いた。
「紅薔薇さま……私のことを泣かそうったって、そうは問屋がおろしませんよ」
「あれ、ばれた?」
 泣いてすっきりするという手もある。祐巳はあわよくばそれを狙っていたのだが、なかなか上手くはいかないものだ。

「……でもこの、缶入り汁粉はなかなか美味しいです」
「でしょ?」
 何故か自分ごとのように顔をほころばせる祐巳であった。



<終>


※2012年3月20日掲載






▲マリア様がみてる