■あの頃の夏に、サヨナラ 


 -前編-

 リリアン女学園に、『間違って』入学してしまって、早や、四ヶ月。
 満開だった桜が、青々とした葉を茂らせる程度の時間を費やして、この、どこか閉ざされた温室じみた学び舎にも、すっかりと慣れてしまった。
 マリア様に手を合わせるのも
 『ごきげんよう』という挨拶も
 余りにも特異な、伝統ある制度も
 どれもこれもが、ごく自然に自身の一部に融け合ってしまったかのよう。
 入学して間もない頃は、まるで、夢の中にいるようだった高校生活。
 けれど今では、中学までの十四年間が、夢の中にいたかのような、そんな錯覚さえ受けてしまうことも、この頃ではしばしばだ。
 リリアン女学園一年目の、夏。
 『お姉さま』との、はじめての、夏。
 けれどそれは、初めての夏であると供に、全く別の意味で、『最後の夏』でもあったのだ。

 醒めない夢が現実になり、やがてそれが唯一無二の存在になったかのような、リリアンでのスクール・ライフ。
 順風満帆と言って差し支えない生活の中で、『かつての生活、かつての日常』も、ゆっくりとその歩みを進めていた。
 そんな当たり前のことに気が付かなかったのは、やはりリリアン女学園という夢に酔いしれていたせいだろう。
 置き忘れてきた現実。
 それの存在を、嫌が応にも直視させられた、とある夏の日の出来事。
 最後の、夏の日の──。



「乃梨子」
 自分の名を呼ばれ、「はい」と返事をして、静かに振り返る。首だけで振り向くなんてもってのほか。スカートの襞は乱さないように、セーラーカラーは翻さないように。
 リリアン女学園敷地内ではもとより、家の中など普段の生活の時にも、無為にそんな風に振る舞ってしまう今日この頃。同居人である叔母にその仕草をからかわれるのも、今ではもう慣れっこだ。
 ぐるりと半回転して、振り向いた先に。
「ごきげんよう、お姉さま」
 マリア様が、穏やかな微笑を浮かべて、こちらを見ていらっしゃる。
 発した言葉が引き金になり、ほんの少しだけ胸が高鳴る。
 藤堂志摩子さん。
 リリアン女学園生徒会長の一人で、ロサ・ギガンティアの称号をその身に背負う。
 ふわりとした巻き毛が弾んで揺れて、また元の位置に戻る。乃梨子よりもほんのちょっと上背があり、見上げるようにしたその先には、西洋のアンティークドールのような双眸が、こちらを見つめて柔和に微笑んでいる。
 同じ生き物とは思えないほどに、美しい。
 勿論異性ではなく、かといって、軽々しく同じ性などと口にする事が憚られるような、禁忌じみた美貌。
 例えば、天使となる筈だった人が、些細な手違いで、人間としての生を受けて、この現し世に遣わされた。
 人間離れした美しさを誇る彼の人は、妹である乃梨子を呼びに、わざわざ一年生たちの教室まで出向いてきてくれるような、細やかな心配りも出来る方で。

──そう、正に、『マリア様』と呼ぶに、ふさわしい人。

「どうしたの、乃梨子。何か、考え事?」
「志摩子さんに、見惚れてたの」
「いやだわ乃梨子ったら。年上をからかうものじゃないわよ」
 志摩子さんは、ころころと笑う。そんな仕草一つ見てるだけで心臓が早鐘を打つのは、四ヶ月たった今でも変わる事はない。
「志摩子さま、ごきげんよう」
「ごきげんよう、白薔薇さま」
 一年椿組のクラスメイトの何人かが、志摩子さんに挨拶をして通り過ぎていく。それに対して、笑顔で答える志摩子さん。
 挨拶を交わして行ったクラスメイトたちは一様に、教室を出ると、感嘆の溜め息を漏らす。教室内にまばらに残っている生徒たちもまた、同様に。
 その溜め息の中身は、志摩子さんの美貌への憧れか、はたまた嫉妬か。どちらにせよ、彼女らの気持ちは、乃梨子にも判らないでもない。
 さっきだって、志摩子さんをからかった気なんて毛頭ない。
 ただ、魅入られていただけなのだから。
「準備、出来ていて? 明日から夏休みなのだから、忘れ物とか、大丈夫?」
「ええ。準備万端で、志摩子さんを待ってたから」
 今日は一学期の終業式。明日からは、リリアン女学園に留まらず、全国津々浦々の学生庶子念願の、夏季長期休暇。つまりは、夏休みだ。
 それは周囲の生徒たちの晴れやかな表情を見れば一目瞭然。
 実のところ乃梨子自身、『お姉さまと夏休みの予定を立てること』が楽しみで楽しみで、朝食もろくに喉を通らなかったと言う体たらく。
 誕生日が嬉しいのは小学生まで。
 夏休みが嬉しいのは高校生まで。
 けれど、楽しいコトを目前に控えて、それに関してあれこれ思考を巡らすという行為は、老若男女問わず、どうしようもなく嬉しいものなのだ。
「さ、行きましょうか乃梨子」
 薔薇の館へ。
「はい、お姉さま」
 もう幾度となく繰り返したこのやりとりは、心の中の小さな湖に、一滴の雫を落とすようなもの。
 雫は波紋になり広がって、やがてカラダの隅々にまで凛として響き渡る。
 それは、どこかマジナイじみた、自身の内に在るスイッチを、パチリと音を立ててONする行為。
 歩き出したお姉さまの横に並び、行き交う生徒たちの視線を浴びながら供に歩むのは、既に乃梨子にとって、なくてはならない日常のひとコマだった。
「そういえば志摩子さん、昨日ね……」
 とりとめのない話に、笑顔で相槌を打ってくれる志摩子さん。
 明日からは、夏休み。
 大好きなお姉さまとの夏は、たった今、始まったばかりだ。


                        *


 薔薇の館の会議室から、とても楽しそうな声が聞こえてくる。
 乃梨子は、隣にいる志摩子さんと思わず顔を見合わせた。目の前にいる姉の表情は、響き渡る喧騒を聞いて、ついさっきよりも、より一層晴れやかな表情を形作る。
 それはつまり、志摩子さんの、『親友たち』が、既に会議室にいるという事だ。
 親友──紅薔薇のつぼみの福沢祐巳さまと、もう一人、黄薔薇のつぼみである、島津由乃さま。
 彼女たちがいると、本来、どことなく穏やかな空気を保っている薔薇の館は、途端、賑やかで姦しい空間に変貌する。
 感情表現の豊かな祐巳さまと、頭の回転が速い由乃さま。
 年頃の娘たちの集う場、という、当たり前の表情が、山百合会のムードメーカーである二人が揃うと、まるでつぼみが花開くかの如く、ひょっこりと顔を覗かせるのだ。
 祐巳さまと由乃さまに、志摩子さんを加えた現山百合会の二年生。
 それは、新参である乃梨子の目にも、『攻守』のバランスが保たれた三人組であることは明らかだった。
 彼女らそれぞれに固定のファンは存在するが、一年生たちに最も支持されているのは、『お三方が揃ってる姿』であることが、何よりもそれを雄弁に物語っていると、乃梨子は思った。
「ごきげんよう」
 扉を開けて、お馴染みの挨拶を交わしつつ、会議室に入る志摩子さん。少し遅れて、乃梨子もそれに習う。
「あの、令さま。差し出がましいようですが、タンカの一つも持参された方がよいのでは」
「ばっかじゃないの、祐巳さん。人一人乗せたタンカを、どうやって令ちゃん一人で担ぐのよ。冗談は休み休みにね」
「むーっ」
 前後関係の掴めない、つぼみのお二人の会話に、志摩子さんが控えめに割って入る。ちなみに、会話に忙しかった二人は、乃梨子たちが入ってきたことに、気付いてなかった。
 その間に、祐巳さまと由乃さまの姉、薔薇の称号を持つお二人とも、挨拶を交わす。
 紅薔薇さまの小笠原祥子さまは、優雅に。黄薔薇さまの支倉令さまは、陽気に。
 ルックスも性格も好対照なお二人は、同学年でありながら、親友と言うよりも戦友、あるいは良きライバルとでも表現した方がしっくり来るような間柄だった。
 いつぞやのお二人とのファーストインプレッションは、最悪だったと乃梨子は今でも信じて疑わないが、現状を見るに、どうやら、自分たちにとって良いところに収まったように見える。
 梅雨の日にこの場所で、「年功序列反対!」などと叫んでいた自分は、妙に若かったなあと、乃梨子はこの頃人事のように思うのだ。
「乃梨子ちゃんってさ、この頃妙におしとやかになったよね」
「令、それではまるで、昔の乃梨子ちゃんがおしとやかじゃなかったみたいじゃないの」
 どうやらお二人とも、乃梨子と同じことを考えていたと見える。
 正直な令さまも、それを窘める祥子さまも、本人であるところの乃梨子も。三人とも、つい笑みを零してしまうような、そんな滑稽さが、昔は確かにあったのだ。
 本当、たった半年足らずで、随分と、『おしとやかに』なったものだ。
「……だから、富士登山にタンカなんて持参する馬鹿はいないって、私は言ってたの」
「どうやって一人で持つの?」
「そう、そこよ。私と令ちゃんで行って、仮に私が志半ばにして倒れたとして、その時丁度タンカがあったとして。百歩譲ってその状況を仮定して、令ちゃん一人でどうやってタンカ運ぶのよ……という事を、話していたわけ」
「……うう、由乃さん意地悪だよ」
 つまりこういうこと。
 富士登山に関する祐巳さまの、ピントのずれた意見を、由乃さまが面白おかしく諌めていた、というわけだ。
 何度も蒸し返されて祐巳さまとしては遺憾だろうが、このような瑣末なことで臍を曲げるような人ではない。その辺り、由乃さまも心得ているのだろう。
 二年生コンビに、志摩子さんも加わって、一層華やかになる。
 どちらかというと寡黙なタイプの志摩子さんも、このお二人といるときには、無為に饒舌になってしまうらしく。
「いやだわ祐巳さんったら。いくら令さまでも、由乃さんが乗ったタンカを一人では運べないわよ。うふふ」
「志摩子さんまで……」
 ときたま、乃梨子ですら見たことのない表情を彩らせるのは、親友二人に対する、少しばかりの嫉妬を伴ったりする。
(まあ、志摩子さんの笑顔が見られるだけで、充分にお腹一杯なんだけどさ)
 『妹ばか』丸出しの思考に、内心苦笑しつつ、紅薔薇さまの声に耳を傾ける。
 今日は終業式だから、夏休み中の活動に関する簡単な打ち合わせだけ、と、昨日紅薔薇さまは仰っていた。
 山百合会フルメンバー揃ったことで、ようやく会議は始まった。
 活動計画書、なるものが順番に回されて、それに目を落とすと、夏休み中の山百合会の活動方針、活動予定が、細やかに綴られている。
 この丁寧さ、几帳面さは、黄薔薇さまの手によるものだろうか。
 まあ、それはどうでもいい。
 乃梨子としては、姉に会えるだけで十二分に満足なのだから。


                        *


 その齟齬は、今日はそろそろお開きにしましょうか、という雰囲気が漂い始めた頃、無機質に響いた。
『二年藤組 藤堂志摩子さん。おられましたら、至急職員室までお願いします』
 間延びした校内放送に、志摩子さんは、ひゅっと現実に引き戻されたかのように、顔を上げた。
『繰り返します──』
 一同、まず志摩子さんを見つめて、直後、皆が皆、顔を向き合わせた。
「校内放送……」
「久し振りね、この感覚」
 したり顔で頷き合う山百合会メンバーに対して、阿吽の呼吸を理解できていない一年生がここに一人。
「あのね、乃梨子ちゃん」
 隣に座っていた優しい祐巳さまは、判り易く噛み砕いて説明してくれた。
 つまり
 校内放送は、事件の前兆ということらしい。
 曰く、先代黄薔薇さまが、新聞部に記事をでっち上げられたことによる、『イエローローズ騒動』。
 曰く、先代白薔薇さま──志摩子さんのお姉さまだ──が、とある小説を執筆していたのではないかと言う、『白薔薇事件』。
 どちらも校内放送が印象的だったと、祐巳さまは語った。
(というか、記事をでっち上げる新聞部って……いいのか、それ)
 先代新聞部編集長は、山百合会の幹部たちに、蛇蠍の如く嫌われていたと小耳に挟んだことはあるが、関係者の口から事件のあらましが語られると、一層その真実味を増すというものだ。
「それでは、少し席を外しますね」
 志摩子さんは、そう皆に断りを入れて、上品に席を立った。
 その仕草は右クリックで対象を保存したくなるほど洗練されたものだったが、それよりも現状で気になるのは、校内放送の内容だ。
 由乃さまが、心当たりなどを志摩子さんに尋ねているが、当の志摩子さんは全く身に覚えがないらしく、「さあ?」と言って、小首をかしげるだけだった。
(気になる。気になるぞ〜)
 品行方正で通っている志摩子さんが、職員室へ呼び出されての指導と言うのは考えにくい。だとすれば、学校外のことであろうか。どちらにしろ、情報量が少なすぎる。
 志摩子さんが扉に手をかけて出て行こうとする。
 それを、未練たらしく目で追い続ける自分がいる。
「あれ、コピー用紙、切れてるわ」
 唐突に、黄薔薇さまの妙に明るい声が聞こえた。
 困ったなあ、どうしようかなあなどと呟きながら黄薔薇さまは周りを見回しつつ、
「悪いけど乃梨子ちゃん。ひとっ走り行って、コピー用紙貰ってきてくれない?」
 流石、ミスター・リリアンの称号は伊達じゃない。
 乃梨子は、心の中で優しい黄薔薇さまに拍手喝采。紙吹雪でも送りたい気分だ。
「了解でーす」
 黄薔薇さまの心遣いと、紅薔薇さまと由乃さまのやや呆れたような顔、加えて祐巳さまの平和な笑顔に押し出されて、乃梨子は、小躍りしながらお姉さまの後を追いかけた。

 
 職員室へ入っていく志摩子さんを見送って、乃梨子は手近な壁に寄り添った。既に日本列島は本格的な夏真っ盛り。ひんやりとした壁の感触は、こんな季節には、なかなか得がたいものである。
 既に校舎内に人影は殆どなく、時折目の前の廊下を通る生徒は、『白薔薇のつぼみ」である乃梨子に挨拶を交わしてくる。顔の知らない生徒に挨拶されるというのにも、最近はようやく慣れてきた。
「ごきげんよう、乃梨子さん」
 と、今しがた挨拶してきた生徒は知らない仲ではない。
 小柄な体躯と、それに見合った小さめな顔。頭の脇に左右一つずつぶら下がっている少々時代錯誤な縦ロールが、主の気分に合わせるかの如く楽しげに揺れている。
 こちらをじっと見つめている勝ち気な双眸が、山百合会の誰かを連想させるその少女は、右も左もわからないリリアン女学園で、乃梨子が初めて得た、『友人』であった。
「ごきげんよう、瞳子。部活だったの」
「ええ。今しがた終わったところですわ。そしたら、こんなところで素敵な白薔薇のつぼみに出会えるなんて」
「む?」
 いつも仏頂面で無愛想な自分のどこが素敵なものか。瞳子の言い回しは、決して皮肉気なものではなかったが、どうにも不自然さを感じずにはいられない。
 バカ正直に疑問を口にすると、
「清く正しく美しい、リリアンの庭に住まう天使として、ふさわしい立ち振る舞いを身に付けなさった……という意味ですわ」
 挨拶の仕方一つ取ってみても、普段の何気ない仕草の隅々に至るまで、今の乃梨子は、『リリアン女学園の生徒』として誇れるものである──ということらしい。
 否定しようとも思ったが、それよりも気になる事があった。
「そんなに変わったかな、私」
「ええ。春頃にはまだ頑なさがあって……あの頃の乃梨子さんも、颯爽として素敵でしたけど。自分を狼だと思い込んでる羊みたいだと、随分失礼なこと考えてましたわ」
 それをこの場で言うのは失礼であるか否か。
「でも最近では、リリアンに慣れた、というより、リリアンの校風を纏って自在に着こなせるようになって、けれど芯の強さは相変わらずで。来年、再来年の山百合会は白薔薇中心に回ると、専らの評判ですわよ」
「……」
 度を越した過大評価は、是正する気も失せると言うのは紛れもない事実らしい。
 友の言葉に呆然と佇む乃梨子のすぐ脇で、職員室の扉が開いた。どうやら志摩子さんの用事は済んだらしい。後は一応、コピー用紙を手に入れて薔薇の館に戻るだけだが──。
「それでは瞳子はこれで。白薔薇さま、乃梨子さん、ごきげんよう」
 妙に素早い立ち振る舞いで、瞳子は廊下の向こうへ消えていった。その気遣いが素直に嬉しいと思うのは、彼女の友人としては、さてどうだろう。
「ごめんなさい乃梨子。今日は、このまま家に帰らなくては」
「えっ?」
 志摩子さんの声が硬い。
 色白な肌が、この暑さだというのに青ざめて、普段とは違う、ゾクリとするほどの色香を漂わせる。──鼓動が少しだけ早くなった。
「父が、倒れたって」
 唐突な言葉に、乃梨子は二の句が続けられない。
 あの陽気なお父様が、倒れた?
「さっき病院に運ばれたらしいわ。だから早く──」
「志摩子さん」
 乃梨子は、志摩子さんの手を取った。そんな話を聞いて、冷静でいられる人間がいようはずもない。出来るだけ落ち着いてもらうにこしたことはない。
「大丈夫。お父様は、きっと助かる。もしよかったら、私もついていって……」
「それは、ダメよ、乃梨子」
 志摩子さんは言った。
 姉妹は供に行動するものだけど、『供に行動すること』が、目的なわけではない。
 今、乃梨子がすべきことは。
「……わかった。私は、みんなにこの事を伝えておくから」
 最後に一回、志摩子さんは乃梨子の手を強く握り締めて、急ぎ足で昇降口へ向かった。
 お父様のことは確かに不安だったが、なによりも志摩子さんが一度も振り向いてくれなかったことが、乃梨子にとって、カラダを苛む不安そのものであった。


                        *


 いきなりケチがついた。
 いやいや、志摩子さんのお父様が倒れたという危惧すべき事態に、『ケチ』などつけてはマリア様のバチがあたっても文句は言えない。
 事態の顛末を山百合会の面々に伝えると、当然の如く皆、心配げな雰囲気となり。今学期最後の山百合会定例会議は、陰鬱な雰囲気を漂わせたままお開きとなった。
 「きっと志摩子は相当なショックを受けていると思うから、あなたが支えてあげて」と、紅薔薇さまに託された事に、乃梨子の心は妙に熱くなるのだった。
 それでも、夏休みのスタートを、志摩子さんと共に、よーい、どんで切れなかったことは、例えどんな理由があろうとも、納得できるものではなかった。
 そこまで考えて、ふと思い当たる。
 何故、納得できないのか、と。
 理性的に考えてみれば、今回の事態は乃梨子が意気消沈とする理由は、親しき人の肉親が病に倒れ伏したという一点に他ならない。
 だから、志摩子さんがそちらを優先するのは当然のことであり、乃梨子が口を挟むべきことでも、ましてや、『志摩子さんを取られた』などと錯覚するのは奢り昂ぶりも甚だしい。
 少し、らしくないと思う。
 それこそ昔は、『理性のカタマリ』とか、『融通が利かない』とか、とかくしきたりや決まり事を守る女として、そんな風なあだ名で呼ばれていたこともあるくらいだ。
 ……そうそう、それらのあだ名の発展進化系なのだろうが、『鉄の処女』などと呼ぶ失礼千万な男子生徒も、ごく少数存在したようである。
(ふん。まあ、処女は処女だけどさ)
 閑話休題。
 ともかく、自分らしくないと思う。
 志摩子さんが絡むと、正常な判断力を失う。タチの悪いことに、どうやら自身ではその齟齬に気付いていないらしい。
 『理性のカタマリ』たる、二条乃梨子が、である。
 優先されるのは、志摩子さんのお父様のこと。
 昔なら、理解して納得できたことが、今では理解できても到底納得は出来そうに無い。
 人は成長して変わっていく生き物だが、果たしてこの変化は、『あるべき進化』として、受け入れてよいものだろうか。
「ま、悩んでてもしょうがないか。ただいまー」
 居候させてもらっているマンションの扉を開く。
 家主は、二条菫子さんという、リリアン女学園出身の方で、乃梨子にとっては叔母に当たる人物だ。もう随分と歳を召した方なのだが、元来のお茶目さと陽気さで、まるで同い年の友人のような関係を築いている。
「おかえり」
 と、菫子さんの声が、響かない。
 代わりに聞こえてきたのは、低くてややぶっきらぼうな声。明らかに女性の声でなく、男性のそれだ。
 驚いて駆け足でリビングに向かうと──といってもそれは十歩あるかないかの道のりだが──なんと。
「よ、乃梨子。久しぶり」
「恭一!」
 乃梨子にとって、『幼馴染』であり、唯一、近しい距離にいた男性。
 幼稚園の頃からの腐れ縁が、中学校卒業まで十年以上続いた、見慣れて、見慣れすぎて見飽きたと言っても過言ではない人物。
 高菜恭一(たかなきょういち)──ソイツは、屈託の無い笑みを浮かべて、真っ直ぐな瞳で、昔と変わらない佇まいで、そこに居た。


「へえ。じゃあやっぱり、剣道部には入ってないんだ」
「ん、ウチの剣は、あんまり普通の人に見せていいものじゃないしな。あの手この手で勧誘してくる子がいるんだが……な」
 リビングのテーブルで二人、向き合って、中学卒業から今に至るまでの近況など、語り合う。
 中学の卒業式以来会ってなかった幼馴染は、相変わらずのぶっきらぼうさで、「変わってないな〜」という感想を、乃梨子に抱かせる。
 ぶっきらぼうの無愛想で通っている乃梨子が言うのもアレなのだが、この高菜恭一という男、乃梨子に輪を掛けてのぶっきらぼうさを誇る。
 そりゃもう、小学校に上がる前から、それは変わらない。
 それこそ恭一といると、普段無愛想な乃梨子が、相当に、『華』のある性格佇まい立ち振る舞いに見えてしまっていたと、当時の関係者は語る。
 見てくれは悪くない。
 無駄な肉の無い体躯は、非常にバランスが取れていて、一目見ただけで、『スポーツ万能』という印象を、他者に印象付ける。それはまあ、コイツの『特技』を思えば、至極当然のことなのだが。
 髪なんかも割とサラサラで、艶のある真っ黒。
 着飾ればそこそこいい線行くんじゃないだろうかと思う。
 そして、なによりも顔つきが他の男子生徒とは一線を画していた。
 何を隠そう恭一は、いっぱしの、『剣士』なのである。
 代々家に伝わる流派らしくて、聞いてもあまり詳しくは話してくれなかったが、その修業、鍛錬は、相当の苛烈さを極めるらしい。
 実はこの高菜恭一という男、乃梨子よりも一つ年上なのである。
 乃梨子が小学校の五年生のの頃だったろうか、コイツは、一年間、『休学』していたことがある。
 で、その空白の一年間を恭一は何に費やしていたかと言うと、なんと、同じく剣士である父親と共に、全国を回って、武者修行に明け暮れていたらしい。
 道場破りまがいの真似をしてみたり、スゴ腕の剣士が居ると聞けば、例え火の中水の中。どんな所にでも赴いて、手合わせをしていたらしい。
 年齢に不釣合いな精悍な顔つきは、その辺りで形作られたものであろう。
 これだけ挙げれば、モテる要素全てを包含した、いかにも同性に嫌われそうなタイプなのだろうが、何せコイツは、半端じゃなく地味なのだ。
 地味目の服装は、上から下まで、この暑いのに黒一色。長袖なのはどうしてかと言えば、腕周りなんかが傷だらけだからということだが、まあそれはいい。
 なんと趣味が盆栽いじりというのだから驚かされる。いや、自分も全く人の事はいえないクチだが。
 ともかく、やることなすこと全てが地味な恭一は、少なくとも乃梨子の知る限り、浮いた話は一つもなかった。好意を寄せている女子が何人かいることは知っていたが、表立ってどうこうと言うまでは、至らなかったらしい。
 で、話を戻すが、めでたく六年生時に、同学年になったと。
 ともかく、この現代社会において型破りなところを多々に含んだ奴なのである。高菜恭一という幼馴染は。
 そんなことはさておき、今さっき奴は聞き捨てならないことを言わなかったか?
「あの手この手で勧誘してくる子?」
「む……しまった。聞き流してくれ」
「あの手この手で勧誘してくる子?」
 壊れたテープレコーダーよろしく、要点を繰り返す。
 恭一は頭をぽりぽりと掻きつつ、「かなわないなあ」などと言いつつも、白状する気になったらしい。
「……剣道部のマネージャーさ。何かと押しが強くてな。どこから聞きつけたのか、ウチの流派のことまで掴んでるらしくて」
「へえ、恭一もいよいよ年貢の納め時ね。イロイロな意味で」
「なんだ、それは」
「随分大っぴらなアプローチじゃないの。きちんと、返事はしてあげなさいよ。宙ぶらりんなままってのは、恭一にも、その子にも、よくないからね」
「……何の話だ?」
「勿論、剣道部に入部するかしないか、って事に、決まってるじゃない」
「……」
 そういえば、思い出話に花が咲いて、すっかり失念してたことその1。
「菫子さんは、どこ行ったの?」
「ああ、俺が尋ねてきた時、丁度出掛けるみたいだった。んで、タイミングがいいから俺に留守番していてくれって」
 そりゃまあ、恭一と菫子さんは、よく知った仲ではあるのだが。
 そして、失念していたことその2.
「恭一さ、今日は何しに来たの?」
「あーまあ、乃梨子とも随分会ってなかったしな。軽く顔でも見にいくか……って感じで、ふらふら来ただけなんだが」
 別に互いの家を行き来することに遠慮する仲でもない。そもそも、菫子さんが留守を預けるような人物だ。というか、乃梨子が高菜家に行けば、同じように留守番を任されるであろう。そんな間柄なのだ。
「じゃあさ、これからどっか出掛けない?」
「……まあそれは構わないが、いいのか? 今日なんか、仲間と出掛けるのにうってつけな日じゃないか」
 そんな日に尋ねてくるアンタは一体何なんだ。
「いいのいいの。まだ日も高いし、久し振りに街でも歩こうよ」
「街を歩くのは構わんが、仏像なんか見に行かないからな。そうじゃなければ、構わん」
「なにさ、私だって盆栽市なんて行かないからね。あんなとこ行ったら、一秒で寝る自信あるね」
 その辺りは、お互いに譲与しあって。
「わかったわかった。それじゃ、行こうぜ。って、お前留守番は?」
「いいのいいの。どうせ客なんて、この炎天下の中来るわけ無いじゃない。いるとしたら、ソイツ相当の物好きよ」
「はは、違いない」
 そうして私たちは、輝く夏へ飛び出した。


                        *


 勿論、暑苦しい制服は適当に脱ぎ散らかして、適当に着替えて、PC起動してアウトルック確認してガリガリと返信書いて送りつけてから、である。
 飛び出すのはその後でも遅くはない。
 ちなみに制服はきちんとハンガーにかけてあるし、それなりにおしゃれもしたし、メールは正しい日本語で書きしたためた。顔文字なんてもっての外。つまり、それ程の勢いで、という比喩だ。
「まだかー」
 急かされて外に出る。
 玄関先の扉を開くと、途端、すさまじい量の直射日光が肌を焼く。盛夏隆々。これぞ正しい日本の夏だ。だが
「日焼け止めでも、塗ってこようかなあ」
 という乙女心も、また必然。
「別に構わんぞ。待っててやる」
「いやいや、いいや。今年は元気系小麦色美少女で行こうかな」
「ぬかせ」
 おでこを軽く押される。この感触も、随分久し振りだ。

 とりあえず恭一のお昼がまだだったから、ファーストフードで奴の空腹を軽くいなすことになった。乃梨子は済ませてあるので、軽くサラダだけ注文することにした。
 それにしても
「似合わね〜。恭一、それでも今時の高校生?」
「む、乃梨子だってあんまり似合ってないぞ。その黒髪が、すさまじく浮いてる」
 どちらも人の事は言えない立場だった。元々二人とも、洋よりも和を重んじる人間だから、ポテトやハンバーガーはもとより、そもそも華やかな飾りつけの施された店内で、テーブルで椅子に座って食べるという事実からして、似合わない。
 畳と襖の、似合う二人なのだ。
 乃梨子の黒髪が浮いていると恭一は言ったが、なるほど確かに浮きまくっている。右を見ても左を見ても、茶色やら金色やらに彩られた、あれこれと工夫を施したヘアスタイルをした女子高生が群れをなしている。
 男連中に至っても、顔のどこかに穴があいていない方が今では珍しく──ピアスのことだ──光り物を全く身に付けていない恭一は、とても異端だ。
「まあいいんじゃないのか? 俺たちは、俺たちだ」
 そう言う恭一は、それなりに美味しそうにハンバーガーを頬張っている。乃梨子も、恭一の分のポテトを軽くご相伴する。
 ま、そんなものだ。
 確かに、この平成の世の学生たちからは、若干浮いている感はお互いに否めないが、別にハンバーガーが食べられないほど逸脱しているわけでもない。ならばどうということもないだろう。

 結局恭一は追加でハンバーガーを一つ頼んで、それをあっという間に平らげてから、ごちそうさまと相成った。
 満腹げな恭一は、「本屋に行こう」と提案してきた。
 丁度乃梨子も、時間つぶしの文庫本を切らしていたところなので、一も二も無く賛成した。少し行ったところにある大型の量販店が、品揃えもよく、冷房も程よく効いているから丁度よいだろう。
「んじゃ、案内するわ」
「……とか言いつつ、ヘンな神社仏閣へ連れて行く気じゃ、あるまいな」
「なんでアンタはそれにばかり結びつけるの」
 確かに恭一を言葉巧みに騙して、乃梨子の趣味の道を連れまわした記憶はなくはないが、そんな、根に持たなくても。
「しょうがないだろ。俺が偉い人が彫った仏像を見ても、『ふーん』っていう感想しか、出てこないんだから」
「いや、もう無理には薦めないから」
 昔。かなり昔のことだが、仏像の素晴らしさを恭一に懇々と説いた覚えがある。もしや未だにトラウマとして恭一の心に留まりつづけているのだろうか。だとすれば申し訳ない限りだが。

 そうこうしているうちに本屋へ到着。
 ひんやりとした店内の空気が、若き二人を歓迎してくれる。しばらく見て回ろうと、別行動で散策を開始。乃梨子も、適当に店内を見て回りつつ、お目当ての文庫本コーナーへ歩みを進める。
 ところが
「あら」 「ん?」
 何故か、早々に恭一とエンカウントしてしまうことになった。
「何だ、乃梨子もこれが目当てか」
 そう言って恭一が手に取ったのは、拳銃を構えた若者がアップになっている表紙の、ライトノベルと呼ばれるジャンルの、文庫本だ。
「は、はいぱー・はいぶ……なにそれ」
「……無理矢理読まないでいい。乃梨子は知らないだろうが、俺はこの作者のファンなんだ」
「へえ。アンタっててっきり時代小説とか好きそうだと思ってた」
「嫌いじゃあないがな。剣劇バトルとか、読み物としては面白い」
「そういうの読んで、必殺技思いついたりとか?」
「そんな悠長なことしてるうちに、実戦では首をはねられるだろう」
 ふん。ちなみに乃梨子はその、はいぱー何とかが目当てだったわけではない。
 最近、新しい体裁で刊行されている、結構昔のミステリーだ。その中の一つを乃梨子は手にとる。
「ああそれか。村長が殺されるやつだろう? それ、なんと犯人は」
 重大なネタばれを回避すべく、乃梨子は然るべき行動に出た。
「恭一、マナーがなってない」
「……だからって、他人の口の中に拳骨を突っ込むのは人としてどうかと思う」
「ふん。好奇心は猫をも殺すのよ」
 ハンカチで手を拭いて、連なってレジを済ます。その間も雑談が途切れることは無い。レジ係にしてみればさぞかしうざったい二人組みなのだろうと、乃梨子は思うが。
「今度貸してやろうか。いや、絶対面白いから。ゲームの世界に入り込む奴なんだが」
「さっさと金払いなさいってば」
 雑談を途切れさせる気なんて、サラサラなかった。

 その後、本屋を出ると、『開店記念』なんていうのぼりが風にはためいているのが目に飛び込んできた。丁度道を挟んで反対側にあるその店は、色とりどりのネオンが彩られた、いかにも騒がしそうな店だ。
 二人して顔を見合わせる。さて、横断歩道はどこだ。

 けたたましい店内BGMに、目に痛いほどのチカチカとした画面効果。客たちは騒がしく、そして客よりも、なによりゲームの筐体の音がうるさいこの店は、言うまでも無くゲームセンターだ。
 オープン初日ということらしく、かなりの人で賑わっている。
「久し振りだ。ゲーセンなんか来るのも」
「私も」
 中学の時には、数人で連れ立って、よく寄ったものだ。最近はすっかりご無沙汰となっていたし、別段来たいとも思わなかったが、こうして久し振りにゲームセンターの空気を吸うと、なんというか
「なんか、久し振りに、燃える」
「右に同じ」
 こう見えて二人とも、救いがたいほどのゲーマーだったりするのだ。なにかにつけて二人して、対戦、対戦を繰り返していた。格闘ゲームからシューティング、落ち物パズルから、クイズゲームまで。
 とりあえずビデオゲームコーナーを見て回り、かつてはまっていた、武器を持って戦う2D格闘ゲームの最新作が出ていることに気づいた。
「やるか」 「ええ」
 筐体の向こうとこっちに別れて、戦闘開始。
 恭一は、でかい扇を持った上半身裸のキャラクターを選択した。対する私は、背骨が逆に曲がっている見るからにいかれたキャラを選択する。
 バトル開始。
 そして繰り広げられる一進一退。新作だとしても、以前からいるキャラの使用感はそれ程変わらない。前作を『極めた』二人の戦いは、苛烈を極めた。
 一本目を恭一が、二本目を乃梨子が取り、いよいよ三本目。
 恭一がコンボをミスったのだろうか、コンボ表示が途切れて、乃梨子の使っているキャラは、遅れて繰り出された技を容易くガードする。
(この間合い、殺った……!)
 未だ技モーションが解除されない恭一キャラに、致命の一撃を繰り出そうとするが──なんと、恭一キャラが、技モーションを強制キャンセルして、突っ込んでいった乃梨子のキャラに、超必殺技を繰り出した。
 ケズリ量の多いその技を、例えガードしたとしても、削り殺されてしまうほどのパワーしか、こちらは残っていない。が、避けている暇は無い。
 イチかバチかで、ケズリを無効化する特殊ガードを試みる。が、
「──!」
 その見てくれと同じく、意味不明な絶叫を上げて、乃梨子使用のキャラは、吹っ飛んで地に倒れ伏した。
 ケズリ無効のガードは、ゲージを消費する。恭一キャラの攻撃を裁ききれるほどに、乃梨子のキャラには、ゲージが残されていなかった。
「ちっくしょう!」
 思わず筐体のコンパネを強打してしまう乃梨子。エキサイトした戦いに敗れた場合は、こうでもしなくては鬱憤が収まらない。
 と、視線を感じて横を向くと、乃梨子の乙女らしからぬ叫びを聞いて、驚愕に顔を歪ませた、いかにもひ弱そうな男性が一人、こちらを凝視している。
 あわててあたりを見回すと、なにやらちょっとした人だかりが出来ている。乃梨子と恭一の戦いのギャラリーか何なのか良くはわからないが、格闘ゲームが下火な昨今、これだけ一つどころに人が集まるのも、珍しい。
「あ、ははは……その、やります?」
 手近な男性客に適当に水を向けてみる。
 無言で椅子に腰掛ける男性客。乃梨子はそれを見届けるのもそこそこに、人の居ない方へとすごすご逃げていった。

「それにしても、『ちくしょう!』は、ないだろう。今時男でもあんな奇声上げる奴はいないぞ」
「しょうがないじゃない。久し振りにバトルしたんだから。つい、ね」
 あの後は、恭一の方も早々に切り上げて、二人して逃げるようにゲームセンターを後にした。
 今二人が居るのは、とあるビルの一階にあるCDショップ。話題はどうしても、先ほどのバトルに集中してしまう。
「まあ、いいけどさ……って、相変わらずやかましいの聞いてるんだな、乃梨子は」
「悪い? アンタも、いつもいつも似たようなのばっかり」
 恭一は、主に邦楽のガールズポップ系、乃梨子は、洋楽のメロコア系。お互いに手にもっているのがあまりに予想通りであったため、そんな不毛な会話が繰り広げられることになる。
 ほんと、音楽の趣味趣向ってのは、人によって千差万別だから面白い。
 乃梨子の中学時代の友人で、儚げな雰囲気うを纏った、それ程身体の丈夫でない、典型的な幸薄そうな色白少女が居たのだが、彼女の家に遊びに行った際に、「おすすめ」と聞かされたのが、耳鳴りがしそうなほどのすさまじい音楽──つまりはスラッシュとかデス。そういった、イカレ系──が、ヘッドフォンから流れ出した時には、卒倒しそうになったものだ。
 それに比べれば乃梨子たちの趣味など、らしくて可愛いものではないか。や、可愛いからってどうということもないのだけれど。
 レジを済ませて、店を出る。
 そろそろ夕暮れが近い。日中殺人的な猛暑だったことが嘘のように、気候は涼しくなりつつある。
 なんとなく二人とも話し疲れてて。話題には事欠かないのだけれど、しばらく沈黙に身を委ねていた。乃梨子は、恭一が歩いていく方向に、適当についていく。おそらくは恭一自身、目的地などないのだろうが。
 やがて都会の喧騒から離れていって、代わりに、夏草の香りが乃梨子の鼻腔をくすぐる──どうやら川べりに向かっているらしい。

 夕日がまぶしい。
 川べりの土手に上がると、一面がオレンジの世界。ついさっきまでとは似ても似つかない、別世界。
 そんなところに、二人はたどり着いていた。



「今日は、結構楽しめたよ。久し振りに、騒げたし」
 土手を降りていくと、ちょっとした公園になっている。乃梨子は勝手に降りて行って、当然恭一もそれについてきて。手すりにもたれながら、乃梨子は言った。
「ああ、俺もだ」
 ぶっきらぼうな響きはいつものこと。
 お互い、夕日に向かって喋っている。どことなく照れくささを感じて乃梨子はそうしているのだが、恭一はどうなのだろう。
「乃梨子はさ、こうして出掛けたりとか、あんまりしないのか? その、男とかと」
「男? そんなの居るわけないじゃん。女子校だよ? 今の私が通ってるのは。いたとしても私みたいな、『鉄の処女』じゃあ、男だって寄ってくる訳がないよ」
「はは、なつかしいな、それ」
 恭一は目を細める。
 デリカシーの無いどこかの男子生徒が発案したそのあだ名は、もうすでに遠い過去のものだ。風化しつつある。
「実は、その言葉考えたの、俺なんだ」
「えっ、えーー!?」
 驚く。イロイロな意味で。そういったムーブメントを生み出せるような人間ではないのだ、恭一という人間は。
 なによりもその言葉は、恭一のセンスからは、かけ離れてるように思えるし。
「その、スマン。別段流行らせるつもりはなかったんだが。それ聞いた連中が、偉く気に入っちまってな。俺としては軽い気持ちだったんだが……。ほんと、不愉快な気分にさせちまって、すまない」
「……いや、それは気にしてないんだけど、さ」
 頭を下げる恭一を諌める。恭一はさらに続けた。
「中学の時は、結構オマエとつるんであっちこっち遊び歩いてて、まあ、他にもいろんな奴がいたけどさ、あの頃は毎日が楽しかった」
「そんな、年寄りみたいなこと」
「いや、今が楽しくないわけじゃあない。それなりに親しい人間は、それなりにいる。そういう連中と遊んでるのは、それなりに楽しい。だけどあくまで、『それなり』なんだ」
 恭一は、熱に浮かされたように話す。
「それで判ったことがある」
 視線を右に向けると、そこには恭一の真っ直ぐな瞳があった。
「……俺はさ、オマエが居ないと、ダメらしいことが、判った」
「恭一……」
「オマエと初めて会ったのは、確か幼稚園の頃だ」
 そう。
 あのころ乃梨子になにかとちょっかいを出してくる男の子がいて──今にして思えば、それは稚拙な親愛表現だったのだろうが──とにかく、色々とちょっかいを出されていた。
 で、ある日その男の子は、やりすぎてしまったのだ。
 乃梨子が公園の砂場で作っていた砂のお城を、彼は足蹴にして壊してしまったのだ。
 確か、泣いた。
 せっかくの精魂込めた傑作を、完膚なきまでに破壊され尽くしてしまったのだ。
 だが、男の子は、相手を選ぶべきだったのだ。
 普通の女の子ならば、泣き崩れて、そしてその間に男の子は悠々と去っていくのだろう。だが。
 この野郎、だったか、なめてんじゃねえ、だったか、とにかく叫んだ記憶がある。泣きながら。そして叫びながら、その男の子に飛び掛った。それはもう、親の仇よろしく。
 考え付く限りの攻撃を試みた。
 ひっかいて平手打ちして殴って蹴って噛み付いて。
 んで、いい加減辺りが薄暗くなって相手の顔も良く見えなくなってきた頃、乃梨子もぼろぼろだったが、男の子はもっとぼろぼろだった。
 男の子は泣き止まないし、蹴り付けたすねからの出血も止まらない。
 仕方なく乃梨子は、男の子を自分の家まで連れて行った。
 そして怒られた。両親に、こっぴどく。乃梨子はそもそも被害者なのに。男の子を手当てして、乃梨子は両親に連れられて男の子の家まで謝りに行った。
 そこで怒られた。
 男の子が。
 女の子に負けるとは何事だ、そんな奴は男の風上にも置けん、とか、そんな風のことを延々と言われていた。
 それが終わりそうに無いので、二条家の人間は、その間にすごすごと引き上げてきたのだった。
 乃梨子的にはそれでめでたしめでたしなのだが、男の子にとってはそうもいかない。
 翌日、男の子は、『報復』に出た。
 仲間を引き連れて、乃梨子が一人の時を狙って襲い掛かってきたのだ。5、6人は居ただろうか、精一杯奮戦したが、さすがに多勢に無勢だった。
 押さえつけられて殴られて蹴られてぼろぼろにされた。髪の毛もぐちゃぐちゃにされて、おまけに服も剥ぎ取られて肌着一枚にされた。服は取られた。
 近くの家の軒先にシーツが干してあったので、取り敢えずはそれを借りることにした。だがさすがにそんなナリで帰る訳にもいかなくて、背の高い草むらのなかで途方に暮れているそのとき──。
「そう、その時、シーツにくるまった体中傷だらけの女の子を見つけたんだ」
 それが、二条乃梨子と高菜恭一の出会いだった。
「それで、恭一に服を取り返してきて、って頼んだのよね。そうしたら服と一緒に、男の子たちも連れて来るんだもん。しかもぼこぼこにして。あの時はびっくりしたわ」
「……あー、あのな」
 言いにくそうに恭一は口を開いた。
 シーツに包まった乃梨子は、たまたま通りがかった恭一に、頼んだらしい。
 服を取り返してきて、ではなく、「あいつらぶちのめしてきて!」と。
「う、うそ」
「いや、俺ははっきりと覚えている」
 しかも幼き日の乃梨子はさらに続けた。「ぶちのめしたらここに連れてきて! 詫びいれさせてやる!!」、と。
 恭一はすでにその頃から剣術を習っていたから、幼稚園児5人など、ものの敵でもなかった。
 軽く男の子たちをのして、恭一は乃梨子の前まで引きずってきた。
 その後は、乃梨子の罵詈雑言のオンパレード。泣いている男の子たちをさらに泣かせて、しまいにはシーツを探していた近所の主婦に見つかって警察に連れて行かれて。全員の親に召集が掛けられて、すさまじくおおごとになってしまった。
「なんでそんな、詫びいれさせてやるだなんて、はしたない」
「まあ、あいつらに全面的に非があるわけだしな。オマエの怒りも、もっともだ。子供のころの話だしな」
 なんということだろう。
 幼少の乃梨子は、自身が思ってるよりも、ずっと凶暴だったらしい。
「まあ、その時俺は、すごいショックを受けたわけだ。こんなインパクトの強い女の子がいるんだ、ってな」
 それ以降、乃梨子は恭一とよく遊ぶようになった。
 その当時の女の子女の子した遊びを嫌っていた乃梨子は、恭一の修業の手伝いや、時には高菜家の人間に混じって、修業の真似事なんかもさせてもらうようになった。
 やがて小学生に上がり、思春期を迎えても、二人は大抵一緒にいた。
 高菜家は恭一のほかにも、一人の姉と一人の妹と、一人の弟がいて、恭一も含めて凄く仲が良かった。それに乃梨子も混ぜてもらい、いっつも男女込みで遊んでいたため、思春期特有の、男は男同士、女は女同士で遊ぶようになる、なんて洗礼を、乃梨子と恭一は受けなかったというわけだ。
 中学にあがっても、二人の関係は別段変らなかった。
 二人はさして変わらなかったが、周りはそうでもなかったらしい。
 乃梨子のことを、『男を連れていい気になっている』なんて思ってる、乃梨子たちとは別の小学校から上がってきた女子どもがいた。
 なにかと入学直後からちょっかいを受けたものだが……重ねて言うが、彼女たちも相手を選ぶべきだったのだ。
 いじめというのは、被害者側が加害者側よりも、色々な意味で劣ってなければ成立しない。それは人間的な価値では勿論なくて、どれほどの人脈を持っているか、とか、気性が荒いとか、そういうことだ。
 つまり乃梨子は、黙って苛められてやるような人間では断じてない。
 乃梨子と恭一、そのほか友人連中を巻き込んで、それまでに築き上げてきた人脈をフルに活用して、逆に乃梨子を目の敵にしていた女生徒たちを孤立させてやった。
 やがて自分たちを取り巻く異変に気づいたのだろう。
 事の黒幕たる乃梨子に、彼女たちは食ってかかって来た。
 そろそろだろうと踏んで、乃梨子が一人で教室で黄昏ている時を狙って──勿論それは、ワナだった。
「あの時のオマエのセリフは忘れられないな。なんせ」
「……できれば、忘れて欲しいかも」
 密かに練習していたのだ。相手に強烈なインパクトを与えられる啖呵というものを。その辺りは主に愛読書から抜粋して使用したしさらに完璧を期すために、乃梨子は、恭一の姉に、ある技を習った。
 恭一の姉という人も、れっきとした武道家で、恭一とは違い、主に素手で相手を倒すことを生業とする。そのルーツは、江戸時代の伊賀だか甲賀だかにまで遡るらしく。
 そんなお姉さんから、まあ、イロイロと教えてもらって。
 彼女ら──確か相手は三人だと思ったが──まあ、「お嫁に行けない身体に云々〜」とか、ハッタリをかましつつ、お姉さんから教わった技で相手を絞めたり押さえつけたりして、二度といじめなんてする気にならないほどの目にあわせてやった。
「あの時恭一、こっそり私とあの連中のやり取り、見てたんだよね。私はいいって言ったのに」
「仕方あるまい。乃梨子がいくら強いっても、相手は複数だ。しかも、幼稚園の頃と違って、服なんて剥ぎ取られたら、致命傷だろ」
「……まあ、そうだけどさ」
 『最悪の事態』を想定して、恭一は、控えていてくれたのだ。
 それにしても、思い出せば思い出すほど、
「血なまぐさい人生送ってるよね、私たちって」
「乃梨子には、味方も多かったけど、敵も多かったからな。いつ大きな事件に巻き込まれるんじゃないかって、目が離せなかった」
「はは……そりゃ、どーも」
 そして恭一は、身体ごと向き直った。

「中学を卒業してから、半年離れて気がついた。そして今日、乃梨子に会って確信した」
 真撃な瞳。
 緊張して震えている手は、いつのまにか硬く握り締められていた。
 乃梨子より、頭一つ分は高い背。
 出会った頃は乃梨子の方が発育が良くて、背も高かった。
 けれど今は、乃梨子の身体が、恭一の腕の中にすっぽりと収まってしまいそう。
 信頼できる、大切な人が今、勇気を振り絞るその姿は、とても、格好良かった。

「高菜恭一は、二条乃梨子のことが、好きだ」

 風景が真っ白になる。
 乃梨子の立っている地面も、空も、恭一の後ろの光景も、全てが真っ白で、何も無い空間。
 ここはどこ。
 恭一に告白されて、それに答えようとしてる乃梨子がいる、世界。
 その時、ふいに聞こえた、声。

──うん、私も恭一のこと、好き。大好き……。

 そんな自分の声を、確かにこの耳で聞いたのだ。
 恭一に好きだと告げられて、それに頷く乃梨子というのは、とても自然で、あるべき姿で、何一つ違和感など無かった。
 そうして確信する。
 乃梨子は、恭一のことが好きだったと。
 昔から、それこそ会ったばかりの頃から、大好きだったと。
 それを、たった今確信した。

「───、」
「乃梨子……?」

 ならば何故、言葉が出てこない。
 真っ白な頭の課かに浮かんだただ一つのイメージは、こんなにも自然なのに。
 「私も好きだよ」、と言って、恭一の胸に飛び込めばいい。
 その光景は、全てが受け入れる。
 恭一も、乃梨子も、誰も、誰も。
 きっと、ずっとずっと好きでいられる。それを素直に伝えればいい。
 ならば何故、たった一言が出てこないのだ──


  桜。
  桜が舞う。
  一面の桜吹雪が、真っ白い世界に広がる。
  肩口に引っかかる桜の花弁を、軽く払う。
  真っ白い世界と桃色の桜が眩しくて、手を掲げる。
  それでも眩しい。
  眩しすぎて、目を細める。
  薄まった視界の先に見えるもの。
  ふわりと、舞う髪の毛と、アイボリーのセーラーカラーと、膝の下まであるスカート。
  風に舞う。
  彼の人が、ゆっくりと振り向く。
  舞い散る桜より綺麗で、頬を撫でるそよ風より清楚な、彼女は。
  柔らかな声で、私の名前を紡ぐ。


「乃梨子」
 自身を呼ぶ声で、はっと我に還った。
 すぐさま、置かれている状況を理解して、とっさに言葉を搾り出す。
「……ごめん恭一、少し、考えさせて」
「そう……か」
 明らかに落胆の色の混じった声だった。彼なりに、確信と自信があったからこその、『告白』だったのだろう。それは自己の過大評価でも自意識過剰でも何でもない。
 なぜなら、こんなにも乃梨子の心は、恭一へと傾いている。
 否、傾いているどころではない。彼のことが好きだと、恋しいと言い切れる。
 たった今乃梨子は、高菜恭一の気持ちと精一杯の勇気を、そして二条乃梨子の素直な想いを、この手で、この心で、この利己的な感情を持って、踏みにじったのだ。
「そ、そうだよな。いきなりこんなこと言われても、急には、なあ!」
「ほんと、ごめんね……」
「気にするなよ。俺、結構待つのは好きだからさ。返事はいつだって、構わないさ」
 恭一は笑顔だ。見慣れたはずの恭一の人懐っこい笑みは、こんなにも痛ましいものだったろうか。
 このまま二人で居るのは、どうしても気まずい。恭一もそれを察したのだろうか、「それじゃ、俺は」などと言って、逃げるように乃梨子の傍から去っていこうとして、
「乃梨子……?」
 ふいに、その足を止めた。
 見上げるようにしたその先、土手の上に、人影が見える。
 目を凝らし、その人物のシルエットが明確になってゆくたび、乃梨子の心は切なく締め付けられる。そもそも目を凝らす必要なんてなかった。「乃梨子」と、彼の人に呼ばれるたび早鐘を打ちはじめる心の臓。正直なカラダが、その人物が誰なのか、何よりも雄弁に物語っていた。
「志摩子さん!」
「え……?」
 この場に居る少女二人を、目をぱちくりさせながら見比べる恭一。
 志摩子さんが土手を恐る恐る降りてこようとするが、いかにもその仕草がおっかなびっくりだったので、乃梨子はあわてて土手を駆け上った。恭一も、少し遅れて後に続く。
「どうしたの志摩子さん、こんなところで! お父様は、大丈夫だったんですかっ」
「の、乃梨子、少し落ち着いて」
 血気にはやる乃梨子を諌める志摩子さん。
 ふと土手の下のほうに止まってるゼダンが目にとまった。よくよく見てみれば、ああなんと、志摩子さんの、あまりに特徴的なお父様が、身を乗り出してこちらを覗いてるではないか。
「……もう、回復されたんですか?」
「あのね乃梨子……そのことは、あとでゆっくり」
 志摩子さんは、乃梨子の傍からつつつと離れていって、恭一の方へと歩み寄っていった。その仕草は、あいも変わらず洗練されたものだ。
 それに対する恭一は……口を半開きにして、ぽかんとしてる。
(な、なんてこった。恭一の奴、志摩子さんに見とれてる)
 身内の恥を晒しているようで、乃梨子は身の置き場に困った。
「はじめまして。リリアン女学園の、一応、乃梨子の先輩をやらせていただいてます。藤堂志摩子と申します。以後、お見知りおきを」
「は、ハイ。あの自分、乃梨子の友人の、高菜恭一です。よ、よろしくお願いしますっ」
 恭一が異様に硬い。ばね仕掛けの人形よろしく頭を下げる恭一は、いっぱしの剣士ではなく、単なる年頃の純情少年そのものだ。
「あ、じゃあ俺はこの辺で。その、失礼します」
「……ごめんなさい。その、なんだかお邪魔してしまったみたいで」
「いえ、そんなこと全然ないです。それじゃ」
「はい。また機会がありましたら。それでは、ごきげんよう」
「ごっ、ごきげんようっ」
 未だかつて、恭一の奴は、『ごきげんよう』と、口にしたことがあっただろうか。恭一は、妙に急ぎ足で土手を降りて、夕暮れの住宅街の中へと消えていった。
 それを見届けて、志摩子さんは乃梨子の方へと向き直った。
「……本当、ごめんなさいね。馬鹿だわ私。こういうことって、全然判らなくて」
「あ、それはいいの。ところで、お父様の容態は」
「うーん、容態などと形容してもよいものかしら」


                        *


 土手からの帰りは、志摩子さんのお母様が運転するセダンで送ってもらった。
 同乗していたお父様は、半日前に倒れたとは、とても言いがたいほど元気で、唯一右手にはめたギプスが痛々しいな、と思ったところで、乃梨子は嫌な予感がした。
 志摩子さんのお父様は、倒れた。
 ちゃぶ台につまずいて、盛大に、『倒れて』、あわててついた右腕を、骨折してしまったらしい。
「な、なんて」
 ベタな、という言葉を、乃梨子は懸命に噛み殺した。
「明日皆に、どう説明したらいいものやら」
 と、頭を抱える志摩子さんだった。
 そうこうしてるうちに車は見慣れたマンションにたどり着き、乃梨子は丁寧にご両親にお礼をして、志摩子さんとは、短いやり取りを交わして、走り去るセダンを見送った。
 階段を上り、玄関の扉を開けて、
「ただいま」
 と、自分の声が、妙に消沈としたものであることに気が付いた。
「おっかえりーリコ。どうだった? 恭一クンとの、『デート』は」
「ん、まあまあ。だから今日は、ご飯いらない」
「ちょ、ちょっと乃梨子」
 叔母とのやり取りもそこそこに、乃梨子は自室に引っ込んだ。時計を見ると、すでに、『リリアンのお嬢様』が出歩くような時間ではなくなっていた。
 ポーチを椅子に引っ掛けで、薄手のブラウスの一番上のボタンを外して、乃梨子はベッドに身体を投げ出した。
「はぁ……」
 何も考えたくなかった。
 なのに、乃梨子の胸の奥は、まるで赤々とした火が灯ったかのように、熱い。
「恭一に、告白された」
 異性から好意を告げられたのは、勿論乃梨子にとって初めての経験だった。嫌が応にも、その事実に意識は集中する。
 中学にあがってからは、そういうコトを意識したことは、全く無いわけではなかった。近しい距離にいた恭一との仲を、クラスの女生徒に問いただされたことはあったし、そもそも男と女が居れば、そういう展開になりうるというコトも、充分に承知していたつもりだった。
 中学の頃に、告白されていたとすれば、どうだろう。
 多分、頷いた筈だ。
 恭一のことは好き。乃梨子のことを女として好意を寄せられていたと知れば、より一層好きになれただろう。恭一の事を、一人の男性として。
 そもそも今日は、中学校の頃に戻ったみたいな気分だった。
 遊ぶ内容も、会話の内容も、周りへの認識も、全てが懐かしくて。けれど懐かしいばかりじゃなくて、確かに前を向いて、楽しくて、健全な一日だった筈だ。どういうわけか、山百合会のことは何一つ頭に浮かばなかった。そう、恭一と街を歩いていた時には、志摩子さんのことすら。
 ならば何故、答えてあげなかった。
 否、答えてあげなかったのではない。答えられなかったのだ。
「は……、ぁ……」
 胸が苦しい。締め付けられるように、胸が切なくなる。寝返りをうって枕に顔をうずめる。
 こんなにも乃梨子の心を苛むのは、脳裏に浮かんだ真っ白な世界。桜が舞い、風がそよぎ、その彼方に見える、薄ぼんやりとしたシルエット。
 瞼をぎゅっと閉じる。
 脳裏に浮かんだ情景を振り払いたかったからではない。桜の向こうに佇むあの人に、振り向いて欲しかったから。
 鼓動は高鳴る。
 おかしい。
 こんなの、自分じゃない。二条乃梨子じゃない。
 瞼の裏に、振り向いたあの人が居る。
「……ッ」
 かすれたような声は、紛れも無く自分自身の声だ。
 消して欲しい。このままでは自分は、おかしくなる。だが。


──あの人に会えるのなら、おかしくなろうとも、狂おうとも、喜んで私は……。
 
 




 -後編-

 寝苦しさに目が醒めた。
 髪の毛が頬に掛かっている。
 カラダの奥底に澱のように住み着いている倦怠感。
 器たる肉体から剥離していた魂が、ベッドの上でじわじわと明確になる意識と共に、ピタリと混じり合い融け合って、一つになる。

──朝、だ。

 結局昨夜は、夕ご飯も食べずに、風呂にも入らずに、ブラウスのまま眠ってしまったらしい。確か一つ目のボタンを外した記憶はあるが、何故か二つ目まで外れているようである。眠っている間に、外れてしまったのだろうか。
 こんな寝乱れた格好を、菫子さんに見られたのなら多少気恥ずかしいものがある。
 時刻はまだ、早朝といっても差し支えないほどであった。
 空気はひんやりとして、多少襟元が寒く感じる。
 数時間もすれば強烈な紫外線が降り注ぐのだろう.
今はまだこの朝の正常な空気を堪能したい。ブラウスの前を止めて、窓を開け放ちながら乃梨子は思った。
「は……ぁ……」
 息を吸い込むのと同時に、昨日の事まで鮮明に思い出してしまった。
 恭一と街へ出て、夕暮れの土手で告白されて、その後志摩子さんに会った。たまたまあそこに車をとめたのは偶然だと言っていたが、そのお陰で家まで送ってもらえたのは、少しばかり得をした気分になれた。
 家に入り、すぐさま部屋にこもって、疲れて火照った身体をベッドに横たえているうちに……。
「やめた」
 こんなにも清々しい朝に、昨夜の乃梨子の全身を焼かれるような想いなんて、ミスマッチもいいところだ。
 乃梨子は窓際を離れ、机に目を落とした。
 昨日薔薇の館で配られた、山百合会夏期休暇中の活動案内。何故だか、それが配られたのが随分前のコトのように思える。
「……」
 とりあえず、シャワー浴びよう。
 それほど汗を掻く方でもないが、今の身体の感覚は、あまり気持ちのいいものじゃあない。昨日の夜の残滓も激情も、綺麗に洗い流してしまいたかった。
 時間もそれなりに押している。
 山百合会の活動が、今日から一週間びっしりと詰まっているのだ。


 シャワーを浴びて、バスタオルを頭から引っ掛けて、下着とTシャツ一枚という格好でリビングをうろうろとしている乃梨子の背中から、呆れたような声が聞こえてきた。
「あ、おはよ、菫子さん」
「なんていう格好してるのよ。恭一クンがいたら、どうするつもり? あ、この場合丁度いい刺激になるのかな」
 無意識に、バスタオルを抑えていた手に力がこもる。
 声が震えそうになる。頬が熱くなる。少しだけ、全身の感覚が麻痺する。
 震える声を押し隠して、バスタオルに僅かに顔をうずめながら、乃梨子はやっとのことで声を絞り出す。
「……お願い、今、恭一の話はしないで……」
 そう言って俯く乃梨子が纏っている空気は、いつものそれとは似ても似つかないものだった。
 不審がる叔母が、何かに思い当たったように、乃梨子の二の腕を掴む。
「乃梨子、アンタまさか恭一クンに、何かされたんじゃ……」
 頭が、カッと熱くなった。
 考えるより先に、乃梨子は叔母の手を無我夢中で振り払った。
「やめてよ! 恭一はそんなコトする奴じゃない! 私と恭一の間に、ヘンなコトなんて、全然なかったんだから!!」
「リコ!」
 全速力で部屋まで戻ると、ハンガーにかけてあった制服を引っ掴む。それを頭から被って、取るものも取らずに乃梨子は家を飛び出した。
 
 まだまだ冷たい空気の早朝を、乃梨子はがむしゃらに駆ける。
 思い出したくなかった。
 このままでは、昨夜のようにまた、訳の判らない激情にこの身を焦がされることになる。
 それは、この歳になるまで恋を知らなかった十五の少女では持て余してしまう程の、狂気にも似た想いだった。
 熱くなるカラダを、振り落とすように、乃梨子はひた走る。

 早朝でよかった、涼しくてよかった、と、乃梨子は、駅の化粧室で自身の姿を映し出した鏡を見つめながら、そう、一人ごちた。
 半乾きだった黒髪は、走っている間にあらかた乾いてしまったらしい。辛うじて持ち出してきたらしいブラシで髪を撫で付けながら、乃梨子は、「はあ」、と、熱っぽい溜め息をこぼした。
 こんな、熱に浮かされたように激情を散らすカラダのまま、薔薇の館に踏み入るのは大いに忍びない。
 やがてホームに電車が入ってきたことを告げるアナウンスを聞いて、乃梨子は慌てて化粧室を飛び出した。
 電車に滑り込んで、ふだんよりぐっと利用客の減った車内で乃梨子は、ただひたすらに電車の走る振動に、身を任せていた。



                          *



 夏休み中の山百合会の活動は、基本的に午前中で終わるよう、日程が組まれている。
 今日、つまり7月25日から8月2日までの7日間は、とりあえず毎日会合を開くことになっており、その仕事詰めの一週間をやり過ごした後の夏休み中盤は、丸々10日間ほど、活動は自粛するようになっている。
 そしてまた、夏休みの終盤は山百合会の活動にいそしむ、と、こういう算段だ。
 夏休みに入ったからといって、特別な仕事が姿を現すわけでも、山百合会メンバーの交わす会話が劇的に変化するわけでも、勿論ない。
 半年間続けてきたことを繰り返すような気持ちで、乃梨子は流れるように、あてがわれた仕事を片付けてゆく。
 今日は、志摩子さんと挨拶以外の言葉を交わした記憶はない。無理に話し掛けないし、話し掛けられもしない。でも、そんな日があっても、たまにはいいではないか。
 いい訳じみた思考に、乃梨子は内心苦笑しつつも、てきぱきと仕事を片付けてゆく。
 流れるように、流れるように。
 その間に交わされる雑談もまた、流れるように通り過ぎていく。
 それはつまり、仕事が順調に片付いてる、という証でもある。
 流れている時は、スムーズに流した方がいい。わざわざ雑談で盛り上がる必要も無い。皆も同じ気持ちなのだろう、シャープペンを走らせる音や、紙を裁断する音のみが響き、まるでどこかのオフィスのような洗練された雰囲気に、薔薇の館は支配されていた。
「あっ」
 カツン、と、シャープペンが床を叩く音が、やけに耳障りに響いて、せっかく形成されていた流れは、無残にも断ち切られることになった。
 乃梨子の手を離れ床に転がったシャープペンは、コロコロと転がって、黄薔薇さまの足元でストップした。
 それを拾い上げて、黄薔薇さまは、
「どうした白薔薇のつぼみ。もしかして乃梨子ちゃん、疲れてる?」
 乃梨子の肩書きを、多少わざとらしく、けれど乃梨子の名前を優しく発して、気遣ってくれた。
「全然、平気ですよ。ちょっと手がすべっただけです。私なんて、タフなだけが取り柄なんですから」
「ふむ、どこかで聞いたようなセリフだね」
 したり顔の黄薔薇さまに、なるほど納得といった風な紅薔薇さまと由乃さま。「私なんて元気なだけが取り柄なんですっ」と、常日頃から自称している祐巳さまだけが、よくわかっていない顔できょろきょろと周りを見回していた。
 黄薔薇さまが、すっくと席を立ち──どうやらコピーを取るつもりらしい──コピー機を覗き込んで、何故か少し思案顔になったかと想うと、
「うーん、なんかインクが切れてるっぽい」
 なんてことを、口にした。
「私、貰ってきましょうか?」
「そうだねえ。でも、乃梨子ちゃんばっかり使い走りさせるのもなあ……うん、由乃と祐巳ちゃんも、悪いけど付き合って取りに行ってくれない?」
「ちょ、何で私が、そんなこと」
 反発する由乃さま。威嚇する猫を抑えるような仕草で、脇からやってきた祐巳さまが、由乃さまの腕を取りながら、
「まあまあ、いいじゃない。私、由乃さんと乃梨子ちゃんと、一種にお散歩行きたいな〜」
「きーっ、このお人好しっ」
 何故か、乃梨子と祐巳さまの二人で、由乃さまを抱えるような格好でお使いに行くことになってしまった。
 黄薔薇さまの、「いってらっしゃーい」という陽気な声と、紅薔薇さまの、いつぞやのような呆れたような視線とに押し出されて、乃梨子たちは薔薇の館の会議室を出た。

「ああもう、腹立つわ。こういう時ばっかり令ちゃんは私のことぞんざいに扱うのよっ」
 扉を閉めるのと同時に始まるのは、当然の如く由乃さまの愚痴である。
 由乃さまはいつだって、ストレートに自身の感情を放出する。それを行わせる器量と勇気は中々のものだと、乃梨子は思う。
「そうとんがらないの。ああいう風に振る舞える令さまって、格好いいと思うよ」
 対する祐巳さまは、本当に、日溜りのような女性だ。
 少女らしい豊かな感受性と、裏表ない思いやりの心を持つ祐巳さまを、掛け値無しに、『優しい女の子』と、乃梨子は評価したい。
「だーかーらー、ああいう風に外っ面ばかり気にして、格好ばかりつける令ちゃんが、気に食わないの!」
「もう、由乃さんたらー」
 がなりたてる由乃さまに、「困ったなあ」という祐巳さま。本当、見ていて飽きない、ナイス・コンビだと思う。
「さて、まずはインクを貰ってきて、それから軽くお散歩して……どうしたの、乃梨子ちゃん」
 そして乃梨子は、優しい祐巳さまに、謝罪しなければならない。
「……ごめんなさい。私、ここにいたいです」
 少しだけ目を見開く祐巳さま。だが、当然黙っていないのは由乃さまだ。
「はぁ? 何言ってんのよアンタ。せっかくの令ちゃんの猿芝居、フイにする気?」
「すみません……。それでも、どうしても」
 本気であることを伝えると、乃梨子を見据える眼光が鋭く光った。まるで、よく砥いだ刃物のようだ。
「感心しないわね、そういうの。志摩子さんもそうだけど、あなたも結構、欲が深いことね」
「由乃さん」
 志摩子、という言葉に、嫌が応にも乃梨子のカラダが緊張に硬くなる。乃梨子はこれから、志摩子さんの心を覗き見ようとしているのだから。
「乃梨子ちゃん、あまり、詰め過ぎないで。一人で考え込まないって、私と約束して」
 ふいに、祐巳さまの言葉が胸に染みて、ちょっとだけ瞳が潤んだ。


「いい加減その手は見飽きたわ、令」
 聞こえてくるのは、紅薔薇さまの冷ややかな声。対して黄薔薇さまは、さして気にした風もなくさらりとかわす。
「別に。こういうのは結果さえ良ければいいのよ」
「ふん」
 扉一枚隔てて、『乃梨子がいない筈』の会話が展開する。
 後ろめたさに押し潰されそうだ……と、思ったところで、自分が、ただ神経が太いだけの人間ではないことに、今更ながら気づいた乃梨子だった。
「さて……と」
 乃梨子と、そして、黄薔薇さまと紅薔薇さまの、『目的の人』は、一部始終を黙って見届けていただけだ。普段からそれ程饒舌な人ではないが、かといって目の前のせわしないやりとりを無言で傍観するほどに冷めた人でもない。
 そう、その人は、明らかに意識していた。
「話してもらおうか、志摩子。乃梨子ちゃんと何があった?」
「私は──」
 今日、初めてまともに声を聞いたような気がした。志摩子さんは、切羽つまったような声で、第一声を紡いだ。
 考える時間は、それこそ無限と思えるのではないか、という程に、この場合はあったはずだ。それを踏まえてなお、志摩子さんからは、それ以降の言葉が発せられることはなかった。
 真実を告げるにしろ、
 嘘でこの場を塗り固めるにしろ、
 どちらにしろ、志摩子さんがこの場を無傷で切り抜けるのは不可能のように思えた。
 全てを洗いざらい話して、先輩二人の協力と助言を仰ぐ──言葉にするのは容易いが、それに費やされる覚悟と勇気は並大抵のものではない。
 ましてや事情が事情だ。
 もしかしたら志摩子さんには、この場で事実を伝えようとしても、伝えられないかもしれない。当然だろう、なぜなら、

 『妹に、男が出来たかもしれません』

 なんていうコトは、志摩子さんには、口が裂けても他人に言えることではないだろうから。

「そんなに、硬くならなくてもいいじゃないの。ただ私たちは──ダメね、これじゃあ」
「どうした、祥子」
「いえ、私たち二人で志摩子に事情を聞く……となると、どうしても尋問めいてしまうのは、仕方のないことなのかしらね」
「祥子の悪女っぷりが、こういう場面だと際立つからね。際立つというか、引き立つ?」
 眉を吊り上げる紅薔薇さまの不機嫌そうな表情が、目に浮かぶようだ。
「別に、私たちは、そんな」
「昨日までは、あなたたち白薔薇姉妹は、本当に仲睦まじい様子だった。けれど今日に至って、殆ど口を利こうとしないし、目も合わせない。決していがみ合ってるという風ではないけれど、二人とも、とてもぎこちない」
「志摩子と乃梨子ちゃんはね、性格的に、本当、似合いの二人だと思うのよ。色々と躊躇いがちなあなたに、ぐいぐい押す乃梨子ちゃん。これ以上ないってぐらいぴったりの妹を見つけたなって思ってた」
「……」
 志摩子さんは黙ったままだ。
「だけど、今日気づいたわ。あなたたち白薔薇姉妹の、唯一危うい部分。二人とも、詰めて考え過ぎてしまう。そう、恐いくらい純真に」
「それでも乃梨子ちゃんは、ちょっとやそっとじゃ動じない子だと思うし、考えすぎたって、それに容易く押し潰されるほど弱い人間でもない。それなのに、今日は」
「乃梨子が──」
 志摩子さんが乃梨子の名を紡ぐ、が、それは殆ど無意識的なものだろう。
「今日はあの子、触れれば壊れてしまいそうなほど、追い詰められていた風だった。判る? 志摩子。『あなたたちに何かあった』のか知りたいのではなくて、『二条乃梨子に何があったのか』を、知りたいのよ」
 動悸が早くなる。
 喉は、カラカラに渇いている。
 恐怖と羞恥でこの身がすくむ。
 まるで、紅薔薇さまと黄薔薇さまに全てを見透かされているような気がして、乃梨子は石像のように固まったまま、一歩も動けなくなってしまった。
「私は……わたしは……」
 薔薇の館に、志摩子さんの嗚咽のような言葉だけが響く。
 言えるわけがない。
 もし真実を口に出来るのなら、扉の向こうに居る彼女は、もう既に藤堂志摩子ではない別の存在だ。
「私と、乃梨子の間には……別に、何もありません。普段通りです……」
 それは事実だ。だが、真実ではない。
 彼女は、目の前の人たちを明確に拒絶した。

「乃梨子に何があったか、なんて、私は、知りません──」

 判らない、ではなく、『知らない』と言った。
 それは何故。
 それはきっと、知りたかったから。
 あの時、妹と親しげだった男の正体を、志摩子さんは知りたいと思った。妹にとってどういう存在なのか。妹のことを好いているのか。妹は、その男を好いているのか。

 そして、知りたくなかったから。
 妹は、その男のことを想って、恋焦がれるのか。妹は、その男とくちづけを交わしたのか。妹は、その男に、純潔を捧げたのか──。


「乃梨子ちゃん」
 自分の名を呼ぶ声と共に、突然肩を掴まれて、危うく乃梨子は大声を上げるところだった。
 見ると、すぐ脇に祐巳さまがいる。
「しっかりして。そろそろお姉さまたち、出てきちゃうよ」
 どれほどの時間、自分は固まっていたのだろう。しゃがんでいた足は痺れきっていて殆ど感覚を無くしている。
「あ、っ……」
 視界は未だ鮮明ではないし、なによりうっ血していた両足が乃梨子の言う事を聞かない。早くこの場を立ち去らなければ、とんでもないことになるというのに。
「もう、しっかりしろ、二条乃梨子!」
 由乃さまの叱咤の声が、乃梨子の心をうつ。
 二人のブゥトンの肩を借りて、未だ麻痺して機能停止したままの両足と思考を引きずるようにして、逃げるように薔薇の館を後にした。
 


                          *



 連れてこられたのは、食堂だった。
 利用者もなく、閑散とした夏休みの食堂は、まるで空気までも違ったもののように乃梨子は思えた。いつもは生徒たちで賑わっている広々とした空間が、逆に人気が無い時には、どこよりも寂しくて静かな空間に感じられる。
「私たちが出てから、随分経ったよね。ヘンに思われてるかなあ」
「気にすることはないわよ。どうせ全部芝居だったんだから。今更後ろめたいことなんてあるわけないわ」
 軽口を叩き合う二人だったが、やがて由乃さまが、こちらを見据えて本題を切り出した。
「さて、洗いざらい吐いてもらうわよ乃梨子ちゃん。隠し事はあなたのためにならな……ちょ、何するのよ祐巳さん」
「そんな聞き方じゃ、だめー。それじゃあ単なる後輩いじめじゃないの」
「あのねえ、私はこれ以上面倒くさいことに巻き込まれるのはウンザリなのよ。山百合会の姉妹仲は、しばらく安泰だと思ってたのに、どうしてこんな」
「あ、気にしないでね乃梨子ちゃん。由乃さんの批難中傷罵詈雑言なんて、今に始まったことじゃないから」
「喧嘩売ってるのね祐巳さん」
 もしかしたらこの二人は、乃梨子の行き詰まった心を解きほぐそうとしてくれるのではないか、そのための漫才じみたやりとりではないのか、と思い当たったところで、ようやく自分の思考が回復していることに気付く。
「……」
 ふと、乃梨子は考えた。
 目の前のブゥトンのお二人は、果たして、『恋』というものを体験したことがあるのだろうか。
(ない、だろうなぁ)
 二人とも、幼稚舎からリリアンだと聞いたことがある。ならばそもそも、恋の機会すら与えられなかったのではないか。
「ご迷惑お掛けして、ほんとに……」
 二人が乃梨子をわざわざここまで引きずってきたのは、勿論、事情を聞くためでもあるのだろう。『実は、幼馴染の男の子に告白されたんです』と、打ち明ければ、きっと。
「気にしなくていーの。二年生はね、一年生の世話を焼きたがるものなんだよ。ね、由乃さん」
「話を振らんでよろしい」
 きっと二人は、黄色い声を上げて、色めき立つのだろう。
 だが、その先。
 その先。
 たどり着く先。
 先に待ち受けるものを告げた時、果たして二人は、何を思い、何を言うのだろうか。

  ”私は先日、幼馴染の男の子に告白されました。私も、その男の子のことは好きです。
   けれど私は、志摩子さんに惚れています。志摩子さんを愛しています。
   藤堂志摩子だけの二条乃梨子でありたいんです。
   私の全てを、志摩子さんのものにして欲しいんです──。

「……お姉さまにキツイこと言われるかもしれないけど、気にしちゃダメだよ? 私たちは、絶対に乃梨子ちゃんの味方なんだからっ」
「複数形にするな」

──祐巳さま、あなたは、それを知ったとしても、笑顔でいてくれるのですか……?



                          *


 
 翌日──。
 7月26日、こんな時期にしては涼しい、過ごしやすい一日。

 
 結局昨日は、うやむやのままに一日を終えてしまった。
 姉妹して、近しい人たちの救済の手を跳ね除けてしまって。だけど日常はさほど崩れることもなく、一日の幕を閉じた。
 結局志摩子さんとはまともに話をしていない。
 話してしまえば、目を合わせてしまえば、自分の中の何かが壊れてしまいそうで、とてつもなく恐かった。
 あれから恭一からの連絡はない。
 気にしてないわけでもあるまい。『待つ』と宣言した以上は、きっとアイツのことだから、愚直なまでに待ち続けるのだろう。
 だからといってその言葉にいつまでも甘えるのは、余りに誠意を欠いた対応だと思う。
「恭一……」
 ずっとずっと昔から、乃梨子のことを守ってくれた。乃梨子のことだけを見てくれていた。
 自分だけの、たった一人の、騎士。
 恭一の腕に寄り添うことに、何の不安がある。恭一と歩む道のりに、一体何の不安があるというのだ。だがしかし、彼のことを愛しいと思うたび、乃梨子は、狂気じみたおかしな感情に身を焼かれる。
 
──志摩子さんが近くにいる。彼女の真っ白い二の腕を掴む。引き寄せる、なんてもんじゃない。あらん限りの力で引っ張り寄せて。おとがいを掴んで、無理矢理こっちを向かせて、無理矢理に唇を奪う。志摩子さんのなかの縮こまった舌を探って、乃梨子のそれと絡め合わせる。拒絶の声は乃梨子の激情を倍加させる。めちゃくちゃに壁に押し付けて──

「──ッ」
 乃梨子は席を立った。
 薔薇の館の見慣れた光景は、いつもと変わることなく目の前に在る。
 既に今日の山百合会の活動は終了して、それなりの時は過ぎている。静まり返った空気が、薔薇の館にひとけがないことを物語っていた。
 自身の穢れきった欲望に吐き気を覚える。全身がまるで燃えるように熱い。薔薇の館にそのようなおぞましい感情を振り撒くわけにはいかない。乃梨子は俯いて口元を抑えたまま、手探りで出入り口の扉を探す。
「!?」
 その手が、明らかに無機物でない何かに触れて、あわてて手を引っ込めた。
 手の触れた先に見た信じられないものに、乃梨子は驚愕に表情を歪ませる。
「黄薔薇さまっ!」
「……ごきげんよう、乃梨子ちゃん。やっぱりまだ、帰ってなかったな」
 時刻は既に二時を回っている。山百合会の活動がお開きになったのが正午だから、乃梨子がいつまでも薔薇の館に留まっているのはおかしいのだが……目の前にいるTシャツにジーンズというラフないでたちの黄薔薇さまもまた、充分におかしいのではないだろうか。
 というよりも、薔薇の館に私服というのが、コトの外ミスマッチだ。
 あまりに突然な黄薔薇さまの登場に、へなへなと腰砕けてしまった乃梨子を、あくまで紳士的(?)に、エスコートしてくれる黄薔薇さま。
 二人とも椅子に腰掛けて、向かい合うような格好になった。
「……出来れば、話して欲しいな。ここまで乃梨子ちゃんが追い詰められて、頑なになるってことは、私たち如きじゃあ、手の出せない問題なのかもしれないけど」
「そんな」
「一度は家に帰ったんだけどさ、どうしても気になっちゃって、戻ってきた」
「……」
 黄薔薇さまは、背も高いから座高もまた、乃梨子とは比べるべくも無く高い。覗き込むような格好になって、黄薔薇さまは言った。
「恭一くんって子に、告白でもされた?」
 瞬間、頭の中がスパークした。回路が破壊されるほどの強電。
 誰にも話した覚えは無い。どこかで情報が漏れるなどと言うことはありえない。唯一志摩子さんが漏らしたという可能性はあるが──。
「なるほど。実はさ、剣士の感と女の感を駆使して、どうやら色恋沙汰らしい、ってとこまでは、何となく察しがついていたのよ。で、さっき、乃梨子ちゃんが呟いてた名前を聞いて、確信した」
 どこか茶目っ気を含ませて黄薔薇さまは言う。
「……盗み聞きなんて、酷いんですね」
「こーら、キミがそれを言えた義理か」
 おでこにこつんと指が当てられる。
 確かにそうだ。昨日乃梨子は、薔薇さま方の会話を、思い切り盗み聞きしていたのだから。そんな自分の滑稽さに、思わず笑みが零れる。
「ありがとうございます、黄薔薇さま……。でも、ダメなんです。私、これまで大して悩んだり考えたりなんてしないで、人生やってきちゃったから。こんなふうに、皆さんに迷惑ばかりかけて」
「おいおい、私のキミに対する第一印象は、『手のかからなそうな子だな』、だったんだよ? それは、今でも全然変わってないし」
 黄薔薇さまは苦笑する。
「山百合会のメンバーってのは、皆、いい意味でも悪い意味でも個性が強いから。人間関係の軋轢なんて、数え切れないほどあったんだ」

 紅薔薇さまと祐巳さまの喧嘩は、昔はしょっちゅうだった。祐巳さまが紅薔薇さまに食ってかかったのは一度や二度ではないし、紅薔薇さまが祐巳さまに冷たく当たったことも、それなりの回数あった。
 梅雨時のアレは、乃梨子にとっても記憶に新しい。

 志摩子さんのお姉さま──佐藤聖さまという方は、二年生のうちには、殆ど薔薇の館に顔を出さなかった。それを紅薔薇さまのお姉さまがやっきになってどうにかしようとしてたこともある。

 そして黄薔薇さまは──支倉令さまはなんと、由乃さまにロザリオを付き返されたことが、あるという。

「う、嘘」
「本当さ。でね、私のときも、他の誰かの時も、周りの人間が精一杯に、けれどさりげなく手を貸していたお陰で、どうにか取り返しのつかなくなる前に、あるべきところに収まっていたんだ」
「……山百合会って、凄い人が沢山居るんですね」
「まあ、凄いといえば凄いかもね。良いか悪いかは、別問題として」
 もう、隠す必要なんて無いような気がした。
 誰かに話を聞いて欲しかった。誰かに乃梨子の罪を、裁いて欲しかった。
 沢山浮かぶ言葉の中から、乃梨子は一文字一文字を丁寧に選り分けて、やがてそれが齟齬なく組み上がってしっくりと心の中に刻み付けられるまで反芻した。
 それは刹那の逡巡だったのかもしれないが、乃梨子にとっては、気の遠くなるほどに長い時間だったように感じられた。

「……志摩子さんにどんな顔して会えばいいか、判らないんです。志摩子さんに対してだけは、ずっとずっと純白でありたい。汚れた自分なんて、晒したくない……」

 カーテンが揺れて、それでようやく風が吹いていることを自覚する。
 やがて黄薔薇さまは、ゆっくりと言葉を紡いだ。

「乃梨子ちゃんは、薔薇の館にいてくれるよね?」
「は、ハイ」
「リリアン女学園は、どう?」
「昔はあまり……でも今は、大好きです」

 にっこりと黄薔薇さまは微笑むと、席を立った。
「あ、あの」
「ごめんね乃梨子ちゃん。好きとか嫌いとかって、他人に言われてどうこうするものじゃないと思う。私に言えるのは、これくらいさ」
 立ち上がって、乃梨子を置いて何処かに行こうとする。
「黄薔薇さまっ」
 一瞬こちらを見据えた黄薔薇さまは、下げていたポーチから何かを取り出して、乃梨子の頬にあてがった。少しだけ冷たい感触。それは紛れも無く、乃梨子の瞳から溢れ出したものだった。
「じゃあね、乃梨子ちゃん。悩んだ末に出した答えは、きっとキミを強くするよ」
 そう、最後に言って、薔薇の館を後にした黄薔薇さまは、
 やっぱり、格好良かった。


                         *


 家に着いたのは、もう夕方に近い時間帯だった。
 菫子さんとはそれなりに話をして──露骨に避けて、部屋に引きこもったりすると、あらぬ誤解を受ける──全然食欲は無かったが、用意されたものはそれなりに平らげて、乃梨子は部屋に引っ込んだ。
 リビングから持ち出したコードレスフォンの子機を暫く見つめてから、意を決して、ボタン操作を開始した。数度のコールの後、向こうで受話器の上がる音がした。
「はい、高菜です」
「……乃梨子、だけど」
 とっさに言葉が出てこなかったのは、あちらで受話器を取ったのが誰なのか判別つきかねたからだった。結局、恭一が出たものであると踏んで、そういう応対をしたが、どうしてもタイムラグは残る。
「ああ……久し振り、だな」
「うん」
 今の二人の用事といえば、あのことに他ならない。
 乃梨子は、明日の昼頃に、あの時の公園で会いたいと切り出した。別段恭一に迷いの風はなく、「ああ、わかった」と、ぶっきらぼうに呟いて、その後は、何となく言葉を交わして、すぐに通話を切った。
 今日乃梨子がすべきことは、もう何もない。
 何もない。
 何もなければ、何かを考えることもない。あの狂おしい激情の波に飲み込まれることもない。
 白でも黒でもない透明な心のまま、乃梨子は眠りについた。
 


                         *



 7月27日──。

 恭一との約束をお昼にしたのは、山百合会の活動を、早めに上がらせてもらうためだった。
 はっきり言って、そんなことに欠片ほども意味は無い。
 どうせ正午には山百合会会議はお開きになるし、1,2時間程度の齟齬が致命的になるほど、乃梨子も恭一もタイトなスケジュールで生活しているわけでもない。
 早引けさせてもらえれば、『志摩子さんと肩を並べて帰る』という選択肢を考慮せずにすむからだ。今はまだ、志摩子さんの顔をまともに見られない。
 
 案の定、たった一時間程度を早引けする乃梨子は、皆に不思議がられたし、志摩子さんに至っては、日常の環から外れた行為に出た乃梨子を、青ざめた顔で凝視していた。それを乃梨子は無心で払いのけて、急ぎ足で自宅へ戻った。
 黄薔薇さまの複雑そうな表情だけが、やけに印象的だった。

 菫子さんは外出をしていた。それは乃梨子にとっては好都合な誤算だった。
 箪笥の奥にしまってあった、今年の夏が始まる少し前に購入した、ノースリーブで、スカートの裾がフレアな、真っ白いワンピースに、躊躇うことなく腕を通した。
 買ったはいいが、どうにも自分らしくないことに迷って、結局一度も袖を通してなかったという代物だ。
 それを着る。そしてもう一つ。
 昔、むかしのこと。まだ恭一とも出会う前だったと思う。
 今日みたいに暑い日、母親が乃梨子を連れて出掛ける時に、大きな麦わら帽子を被っていたことがある。そして乃梨子も、小さい、子供用の麦わら帽子を被せられていた。
 その時の乃梨子は、何故だかとても、『いいもの』に見えてしまったのだ。 
 結局、母親にねだってそれを譲ってもらい……当然大きすぎて当時の乃梨子には、非常にアンバランスなものだったのだが、何よりも幼少時の鮮明な記憶と言うのは勝るものだ。
 以来乃梨子の宝物となったそれは、高校生となった今でも、手元で大切に保管されている。そういうところで、無闇に几帳面な人間なのだ。
 押入れから、そっと目当ての箱を取り出す。
 数年ぶりに開かれた箱。外見は埃にまみれていたが、中は綺麗なものだった。
 思い出の麦わら帽子を被り、鏡の中に自身を写すと、まるで数分前とは別人のような自分がそこにいた。
 実は乃梨子は、この麦わら帽子に、願というか、とても稚拙なものなのだが、そういうものを委ねていた。
『好きになった男に、麦わら帽子を被った姿をまざまざと見せ付けて、惚れさせてやる』、という。
 昔から、知っていたのだ。
 麦わら帽子を被ると、女性は、ぐっと可愛らしさが増す、ということを。何故なら乃梨子の母親が、そうだったからだ。
 昔の思い出に浸る乃梨子は、思わず笑みを零す。鏡の中の笑顔の乃梨子は、それなりに悪いものではないと、うぬぼれ気味に乃梨子は思った。
 あの人は、なんて言ってくれるだろうか。
 この姿を、可愛いと誉めてくれるだろうか。
 それを思うと、乃梨子の心は高鳴った。



                         *



 いつぞやの川べりの公園にたどり着くと、乃梨子は手近のベンチに腰を下ろした。
 今日は、格別に日差しが強烈だった。もしかしたら戦後最高云々〜とか、そういうのを記録するかもしれない。
 だが、乃梨子はといえば、ノースリーブの白いワンピースが事の外夏の暑い日に過ごしやすいことに気がついた。
 剥き出しにされた肩が、多少人目を気にさせるが、何よりも風通しが良くて涼しい。白と言う色も、効果的なのだろう。しばらくは、お気に入りになりそうだった。
 そしてなにより、麦わら帽子の存在が大きかった。
 もう何年も被っていなかったせいか、これがまた事の外涼しく感じられる。気温は既に30度を余裕で超えているだろうが、乃梨子には、それよりも5度は低く感じられた。
 川べり、というせいも、あるのかもしれないが。
 お昼時だからだろうか、人影はまったくなく、辺りには、セミの声だけがうるさく響き渡っていた。
 そんな中で乃梨子は、土手を降りてくる一人の男性の姿を、ぼんやりと見つめていた。
 心はこれ以上ないくらいに落ち着いている。最適な、精神状態だ。
「……?」
 だが、あろうことかその人影……勿論恭一なのだが、彼は、乃梨子の座っているベンチに近寄ってくることもなく、向こうの手すりの方へと向かっていった。瞬間、意味が理解できなかったが、すぐに原因に思い当たり、
「恭一」
 そう言いつつ近寄っていくと、恭一は、ことさらビックリしたような装いで振り向いた。
 その視線はあくまで純粋で、けれど、あまり見慣れることの無い色も混じっていた。
 恭一は驚いている、見慣れない乃梨子の格好に、あきらかに意識を奪われている……そんな風だった。
「よ、よう。気づかなかったよ。いつ来たんだ?」
「あのね、ずっとそこのベンチに座ってたの。恭一ったら、全然気付いてくれないんだもん」
 恭一は言葉もないが、まあ無理もあるまい。乃梨子自身、鏡に映った自分を、まるで二条乃梨子ではないと思ってしまったぐらいなのだから。
 あくまでも笑顔で、乃梨子は答える。
 その笑顔に、何かの確信を得たのだろうか。恭一の体から、一気に緊張が抜けていってるようだった。
「返事、もってきたよ」
「ああ」
 あくまでも笑顔で。あくまでも笑顔で、乃梨子は言葉を紡ぐ。


 恭一と向き合うと、どうしても見上げるような格好になる。昔は乃梨子の方が背が高かったのに──また、いつかと同じことを考えてる。
 その恭一は、いつもと変わることのない、落ち着き払った表情に、見える。見えるだけなのかもしれないが。
 きっと恭一は、確信している。
 乃梨子の、恭一に対する肯定的な感情を。当然の、恋愛感情を。
 恭一の口は、真一文字に結ばれたままだ。丁度、乃梨子が背伸びをして、乃梨子自身の唇がぎりぎり届くくらいだろうか。キスするときの相性は、凄くいいみたいだ。
 何よりも、目の前の人物は乃梨子にとって大切で、重要だ。両親を除けば付き合いは一番長い。裏切られたことは無かった。裏切ったことも無かった。嫌いだと思われたことは無かった。嫌いだと、思ったことも無かった。昔から、お互いに好きだった。
 高菜恭一。
 二条乃梨子。
 全く、これ以上ないくらいにぴったりのカップルだと。まるで誂えたみたいに、しっくりはまる。そんな事に、今更ながら気付かされた。
「もう一度、言って」
「え?」
「もう一度、あの時の言葉を、言って欲しい」
 どうやら理解してくれたみたいだ。

「……高菜恭一は、二条乃梨子のことが、好きだ」


「うん。私も恭一のこと、好き。大好き」






 ──そして風が吹く






「……でもね、ダメなの。私はもう、だめなの。あなたの傍に居ることは、出来ないの」
「お、おい。そりゃ一体、どういう」
「私は変わってしまったの。きっと、あなたにキスされていても、あなたではない違う事を考えてしまう。あなたに抱かれている時もきっと、あなたではない違う……桜が舞う世界であの人に振り向いて微笑んでくれる世界を、きっと、視てしまう……」
「乃梨子っ! 頼むから判るように説明してくれ!」
 判るように説明、など、どうしてできようか。
 黙りこむ乃梨子に業を煮やしたのか、
「……いいさ。つまり、乃梨子の心の中には、俺よりも好きな奴が居るんだろう。判るさ」
「恭一……」
 恭一の表情が、乃梨子の見慣れない風に形作られる。乃梨子にはそれが何を意味するのか、良く判らなかった。だが判らなくて当然だろう。乃梨子は、恭一に、『怒り』の表情など、向けられたことが無かったのだから。
「けど、納得は出来そうにない」
「え……」
「当たり前だろう。オマエを……乃梨子を、どっかの男に取られるんだったら、まだ納得も出来るさ。ソイツのこと、一発くらいはぶん殴るかもしれないけどな。けど、相手はあの時の人なんだろ! 俺よりも、あんな女の方がいいってのかよ……!」
「志摩子さんの悪口言わないで!」
「ッ……!」
 苦渋に満ちた恭一の顔は、乃梨子にはとても直視できるものではなかった。
 乃梨子のことは恨んでくれていい。この場でひっぱたかれたって、きっと乃梨子は文句一つ言わないだろう。
 だけど、志摩子さんのことだけは、どうしてもダメだ。例え恭一であろうとも踏み込ませるわけには行かない。
「……私はあの人のものなの。あの人のために、ずっと、綺麗なカラダでいたいの。あの人のために、ずっと真っ白でいたいの……だからあなたの傍に居ることは出来ない……」
 もう恭一は、言葉もないようだった。ただ、無理矢理に作られた笑顔が痛ましいと、乃梨子は思った。
 乃梨子にしても、話すことはもう残っていない。ただ相手の顔をお互いに見つめつづける時間が、無為に過ぎていく……。
「サヨナラ……だ、乃梨子。俺には、おまえの頭の中が理解できそうもない」
「……」
「最後に、一つだけ聞かせてくれ。もしあの頃……中学の頃に告白してたとしたら、どうなってたのかな……」
「あの頃の私だったら、きっとあなたのために何でもしてあげられたと思う。高菜恭一だけの二条乃梨子に、なってあげられたと思う。だって私は、あなたのことが大好きなんだもの」
「あの時に、力ずくでもオマエのことモノにしときゃ、良かったのかもな」
「そう、かもね」
 離れていく。恭一との距離が。心も、体も、何もかも。
 走り去ろうとする恭一は、最後に振り返って、こう言った。

「……麦わら帽子、似合ってるよ」
 乃梨子は、何も言えなかった。
  




                           *




 高菜恭一の心は掻き乱されていた。
 すでに自分とは違うモノになってしまった乃梨子を一人残して、恭一は土手を駆けていた。
 汗が噴出してきて、喉もカラカラに渇いている。だけど構わずに彼は走りつづけた。だが走りつづけたところで息は荒くなっていくばかりだし、乱れた心の隙間はいつまでたっても埋められることはない。
(ちくしょう……ちくしょう……!)
 乃梨子を取られたという事実ばかりが頭の中を駆け巡る。
 しかも相手はあの美人だという。乃梨子とは見た目もそうだが、中身がまるで似ても似つかないあの女は、一体何なのだ。どうしてあの女は、乃梨子をかどわかした。
 結果、自分の手には届かないものになってしまった。
 乃梨子はもう違う世界にいるのだという事実が、恭一の全身を苛んでいた。
「とッ……」
 がむしゃらに走っていたから、誰か通行人にぶつかってしまったようだった。相手の顔もよく見ずに、謝るのもそこそこにして走り去ろうとする恭一だったが、誰かに肩を掴まれて、それ以上走ることは出来なかった。
「ッ……何なんだよ一体!」
 そこで見知った顔を見つけて、恭一は絶句した。
「アンタ、支倉さんとこの……」
「ええ。父がいつもお世話になっています」
 そこにいたのは、恭一の父が懇意にしていた家の一人娘であった。女だてらに剣を振るい、確か乃梨子と同じ学校に通う──。
「こうしてちゃんと会うのは初めてですね。ごきげんよう、支倉令と申します。一応、二条乃梨子ちゃんの先輩をやらせていただいて……」
「うるさいッ!」
 その挨拶、その立ち振る舞いは、今の恭一には癇に障る。
 目線の高さは殆ど同じ。恭一は、睨みつけるような視線で、目の前の人物を見据えた。
「あ〜あ、私って、とことんおせっかい焼きだよな……なんたってこんな苦労してんだか」
「そう思ってるんなら、とっととどけよ」
「そうもいかない。見てみぬ振りも出来たんだけど、ここまで知ってしまったからには、それなりにけじめをつけないといけないかな、なんて思ってね」
 恭一は無言だ。その眼光だけが、15の学生らしからぬ光を放っている。
「アンタが俺たちの何を知ってるってんだ」
「キミが乃梨子ちゃんに振られたことと、乃梨子ちゃんの意中の人が絶世の美女ってことくらいかな」
「!」
「色々あって、事情を知っちゃったのよ、私。こうなるともう、無視できない性格でね。キミにこのままリリアン女学園を逆恨みされたままってのは、一応リリアンの生徒会長として、見過ごせないし。志摩子を闇討ちされても困るし」
「そんなことするわけないだろ」
「やっぱ、女子校のお嬢様として、若い男ってのは何かと警戒してしまうものでね。男なんてどいつもこいつもケダモノって思ってる女の子が、ウチには冗談抜きでうじゃうじゃいるのよ。ちなみに私の仲間には男性恐怖症が一人、男に全く興味が無いのが二人。で、志摩子なんか、男はケダモノって思ってるのかな。」
「どいつもこいつも最悪だな。アンタもそのクチか」
「いやいや、そこまで私は自分を乙女だなんて思ってないよ。ただ、キミがこのままじゃあ収まりがつかないって事くらいは、判るつもりさ」
 そういって目の前の長身の女……支倉令は、布に包まれた竹刀を一本、恭一に向かって投げた。
「なんだ、こりゃ」
「怒りの鉾先を志摩子に向けられても困るんでね。若い男と女じゃあ、どんな間違いが起きるか判らないし。だから、相手してあげるよ。あ、別に剣の相手じゃなくても、お望みとあらば、何だって」
「ぬかせ。誰がアンタみたいな男女と」
「だろうねえ」
 いつ構えたのだろうか、恭一が爆発的な踏み込みで令に打ちかかる。が、それを令は顔色一つ変えずに受け流す。
「俺がどういう人間か知らんわけでもあるまい。剣道部の部長如きが、この俺とまともに打ち合えると思っているのか」
「御影流二刀小太刀の遣い手、高菜恭一。小太刀じゃなくて竹刀だけどね。それぐらいのハンデはちょうだいよ。ま、それを差っ引いても、今のキミの乱れきった精神状態じゃあ、どうだろうね」
 そして竹刀と竹刀のぶつかり合う音が、響き渡る。



                           *



 喪われた。
 走り去る恭一を見届ける乃梨子の中に浮かんだ言葉、浮かんだイメージは、それだった。喪われた、と。
 たった今この瞬間、何かが崩れ落ちた。ガラス細工のお城が崩れ落ちるように、儚く、脆く、キラキラと、綺麗に。
 今、乃梨子の世界には誰も居ない。圧倒的に広い世界で、乃梨子だけが一人だった。それを自覚して乃梨子は震え出した。この暑いのに、小刻みにカラダを震わせた。
 誰かに会いたい。
 誰かに会いたい。
 誰かと会って、話をしたい。
 いつまでもこの世界で一人でいたら、まるで自分が塵になって消し去られてしまうような錯覚に襲われて、乃梨子は走った。


 住宅の中に、緑の色が濃くなってきた頃、乃梨子は和風のつくりの家にたどり着いた。もうすでに見慣れた風景だったその場所に初めてきた時、あの人に会えたのは本当に偶然だった。
 玄関の前に、立つ。
 だが、そもそもあの人は家に居るのだろうか。連絡もしないでここにきたのは、乃梨子にとって迂闊としか言い様がない。
 だって、あの人に会えなくては、きっと乃梨子の心が壊れてしまうだろうから。

「乃梨子……?」
 予想外のところから、自分の名を呼ばれて、乃梨子は立ちすくんだ。
 見ると、アスファルトの向こう側、10メートルほど先に、乃梨子が飢えてやまなかったあの人がいる。多少驚いて、だけどやっぱり、笑顔を浮かべて。
 それで、もうダメだった。
 駆けた。
 髪の毛がはねる。麦わら帽子が舞う。だけど、そんなものは些細なこと。
 今は、一秒でも早く、志摩子さんにすがりたかった──

「志摩子さんッ」
「ど、どうしたの、乃梨子」

 子供のように、志摩子さんにすがりついて、泣きじゃくる。実際肩に回された志摩子さんの手の感触を感じていると、まるで子供に戻ったような気分になった。
「志摩子さん……しまこさあん……」
「大丈夫よ乃梨子。あなたが悲しむ必要なんて、全然ないのよ。だから、ね、お願い。泣き止んで」
「でも、でも……ッ!」
 嗚咽が止まらない。溢れ出す感情が、止まらない。
「お願い志摩子さん、答えて。私は、間違ってたのかな? 今の私は、間違ってるのかな……?」
 なんという無理な注文だろう。詳しいことは志摩子さんに何一つ話してないのに。それなのに、自身を裁いてくれだなんて。
 けれど志摩子さんは、
「間違ってなんかない。あなたの下した決断なら、私は絶対にそれを信じられるわ」
 そう言って、一層強く抱きしめてくれた。
 もう、それだけで。
 志摩子さんの、その言葉だけで──。
「……?」
 ふいに、ぬくもりが消えた。慌てて見回すと、志摩子さんはアスファルトの上に転がっていた何かを、拾い上げているところだった。
 少し汚れのついたそれを軽く払って、乃梨子に被せてくれた。
「麦わら帽子、似合ってる。とっても可愛い」
「ああ……」
 それだけで。
 その言葉だけで、乃梨子にはもう何もいらない。
 
 あなたにその言葉をいただけたなら、もう何も、私には必要ありません──。






 エピローグ



 長いようで短かった夏も、減っていくセミの鳴き声とともに、終わりを告げようとしていた。
 山百合会夏期休暇中の活動は、序盤こそ多少の問題を孕んだままスタートを切ったのだが、どうやらそれもメンバーたちの杞憂に終わったようだ。
 予定されていた仕事はつつがなく終了し、あとは二学期の到来を待つばかりとなった。
 そうして、8月も27日を数えるとある日、
「お疲れ様、令」
「え、何が?」
 支倉令の親友、小笠原祥子は、いつも言葉が足りないので、そんな風な唐突な言葉には慣れた令だったのだが。
「山百合会の活動のスケジュール調整に、剣道部も。何だか全部あなたに任せきりだったみたいで、悪かったわ」
「いや、それは大したことじゃあないんだけどね」
「それに、あの二人の面倒も見てくれたみたいで」
 そういって祥子が目をやった先には、木陰で白薔薇姉妹が仲良く語らう姿があった。
「あのふたりったら、あれ以来、見てるこっちが呆れるほどいちゃいちゃしちゃって。ああいうのを、きっと本当に、綺麗な姉妹愛って言うのかしらね」
「……」
「ほんと、令には感謝して……令?」
 令の表情は、嬉しいとも悲しいとも取れない、複雑な表情だった。
「大丈夫? やっぱり疲れてるの、令」
 心配げな祥子の表情が、令の目の前にある。他人の心配を、これほどストレートに表に出す祥子も珍しいと、令は思った。
「いや疲れてなんかないよ」
「聖さまがいてくれたならね。私たちがしゃしゃり出なくても、解決してくれたのかもしれないけど」
 佐藤聖。
 先代ロサ・ギガンティア。志摩子の姉。
 佐藤聖がいたとして、今のあの二人を見たら、一体どう思うのだろうか。
 久保栞という生徒と心を通わせて、それ以外の全てを拒絶した、佐藤聖。二年前の冬の日に、駆け落ち未遂を起こした、あの佐藤聖。
 今の志摩子と乃梨子。あの二人は、互いの存在以外見えてはいまい。両の手を互いに握り合って二人の世界だけを唯一の拠り所にした、あの二人。
 佐藤聖は、あの二人を見て、何を思うのか──。
「令?」
「大丈夫、なんでもない」
 そこで令は、考えることを止めた。




                            *




「お姉さま」
「なあに、乃梨子」
「へへへ、呼んでみただけー」
「もう……でも、最近、私のことを、『お姉さま』って呼んでくれるのね。どうして?」
「どうしてって、志摩子さんは、私のお姉さまじゃない」
「ふふ、頼りない姉で、申し訳ないけど」

 姉妹は語らう。
 真っ白な心で、互いのことを思いやり、慈しみ、想いを通わせる。
 理想的な姉妹。
 楽園に居る天使たちのような、理想と幻想とに包まれた、綺麗な二人。

「もうすぐ、夏休みも終わりね」
「じゃ、どこかに出掛けよう? 今年最後に、もう一回あのワンピース着たいんだ。志摩子さんだって、見たいでしょう〜」
「……へんな言い方しないで頂戴。それではまるで、ワンピース姿が目当てみたいじゃないの」
「違うの?」
「もう……あなたったら」

 困ったような志摩子の表情だったが、一目見て嬉しさの方が勝っている表情だった。
 それを見て、乃梨子も満面の笑みを浮かべる。少しだけ悪戯っぽい、無邪気な笑顔を。

「じゃあ、麦わら帽子も、被ってきて欲しいわ」
「もちろん。あ、志摩子さんも被ろうよ、麦わら帽子!」
「ダメよ。だって私、持っていないもの」
「じゃあさ、私がプレゼントしてあげる! 志摩子さんなら絶対似合うよ!」

 もうじき、今年の夏も終わる。
 志摩子さんと、肩を触れ合わせながら、去年までの夏はどうやって過ごしていたのかと、乃梨子は不意に思った。
 だけどそれは、薄ぼんやりとした霞に覆われていて、どれだけ目を凝らしても、耳を澄ましても、この手ですくい寄せることは叶わなかった。
 志摩子さんの柔らかくて綺麗な巻き毛が肩に触れるたび、こそばゆくて、だけど凄く幸せな気分になれて。
 昔のことなんて、どうでもよくなってしまう。

 あの頃の自分に、さよなら。


「志摩子さん。私、志摩子さんのこと大好き」
「……私もよ、乃梨子」



 ──あの頃の夏に、サヨナラ。

 
 了






▲マリア様がみてる