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■Say a Little Prayer


 イタリアへの修学旅行も無事終えて、そろそろ十月も終わろうかという頃。
 秋はすっかり深まり、ほんの二ヶ月前までの猛暑が嘘のように急激に寒くなってきた。
 今日の分の山百合会の仕事をひとしきり終えて、二年生三人──福沢祐巳さんと、島津由乃さん。そして私、藤堂志摩子は、肩を並べて歩いていた。
 薔薇の館を出て校門までの道すがら、志摩子は学校指定のコートの襟を立てるようにして、少しだけ鼻を鳴らした。

「志摩子さん、風邪?」
「うん……少し。最近急に寒くなってきて」
「身体にこたえるよね」
「ほんと、ほんと」
「……ちょっと二人とも、なに年寄り臭いこと言ってんのよ。聞いてるこっちが情けなくなってくるわ。もっと現役女子高生らしい会話に励みなさいよ」

 そんな、励めと言われてすぐに励めるものでもない。「ねえ」、「うーん」なんて祐巳さんとやりとりしつつも、一人肩をいからせる友人を見つめる。

「私たちは薔薇のつぼみ……志摩子さんは薔薇さまだけど、薔薇の称号背負う前に、一介の女子高生なのよ。もっとこう、平成の世の女子高生にふさわしい話題があるでしょうが」
「例えば?」
「ええとそうね、昨日見たドラマの話とか、おしゃれやらなにやら、とにかくそういう話よ。あとは色恋沙汰の話とか」
「「色恋沙汰?」」

 見事に志摩子と祐巳さんの声がハモる。
 色恋と言っても、正真正銘女子校であるリリアン女学園では、どうこうする以前にどうこう出来る状況ではない。
 そのあたりの疑問をばか正直に口にすると、「ま、まあ色々あるわけよ」なんて、由乃さんのよく判らない答えが返ってきた。ことルックスに至っては正統派美少年な令さま一筋な彼女だ。そこいらにいる男の子では彼女の目には止まらないかも知れない。
 
 ところで祐巳さんはどうだろう。
 確か彼女には、同い年の弟さんがいたはずだ。そのつてで、男の子とお話する機会に恵まれているのではなかろうか。

「そういえばさ、知ってる志摩子さん。なんと、お隣の花寺学院にね、祐巳さんのファンクラブがあるらしいわよ」
「まあ……」
「なんだったけな、推理小説同好会だか言うヘンな連中が立ち上げたらしいんだけどね。花寺の体育祭手伝いに行ったときに、祐巳さんが例の同好会の連中に、女王然と振る舞ったらしくって、同好会の連中はもう祐巳さんにめろめろ。おまけに祐巳さんはあの柏木優氏とも仲が良い。なおかつ花寺学院現役生徒会長の姉とくれば、そりゃ興味も惹くってモンよ。今じゃファンクラブの会員数は五十人をくだらないとか」

 志摩子としては、感嘆の息を漏らすよりない。
 かつて祐巳さんは、『シンデレラガール』と呼ばれていた時期があった。特に目立った生徒でもなく、小笠原祥子さまの目に止まり、ものの数週間で山百合会入りした彼女のことを、生徒たちは、羨望と憧れ、少しの嫉妬と、もっともっと少しの邪な揶揄を持って、彼女をそう呼んだ。
 けれどそれは、祐巳さんの魅力によるもの。
 リリアンの誇るシンデレラは、お隣の花寺学院でも、受け入れられたわけだ。

「……って祐巳さん、何さっきから黙り込んでんのよ。もしかしてファンクラブがショックだったとか」
「???」

 どうやら聞いていなかったらしい祐巳さんに、由乃さんがさっきの花寺の件を伝えると彼女は、目をまん丸にして驚いた。

「ほ、ほんとなの由乃さんっ」
「ほほほんとだってば。だから身体揺するのは止めて頂戴っ」
 制服の乱れを慣らしつつ由乃さんは、「弟さんと話したりしないの?」と。
「話はするよ。けど、そんなヘンな話はしないしきっと私のファンクラブのことなんて……」
 聞いたって絶対教えてくれないもん……と、言葉尻が小さくなる祐巳さん。
「ははあなるほど。弟君は、祐巳さんを他の男どもに取られたみたいで面白くないわけね。愛とか恋とかじゃないけど、彼……ユキチくんだっけ?彼が祐巳さんを大切にしてるってのは、体育祭の時を見てて判ったもの」
「……やめてよ、気持ち悪い」
 それにユキチはあだ名だよ、とややげんなりした顔で訴える祐巳さんに、なおも由乃さんは追い討ちをかける。
「祐巳さんがさっきぼんやりしてたのも、弟君を想って……とか」
「違うよっ。私が考えてたのは、もっと別のこと!」
「別のこと、って?」

 志摩子は尋ねる。すると祐巳さんは、すこしだけ真面目な顔をして言った。
「……もし山百合会に入ってなければ、私、どういう風に生きてたんだろう」
 と。

 おしゃれの話とか、ドラマの話とか、あまり薔薇の館では話さない。ネタがないわけでもないし、勿論禁止されてるわけでもない。
 しようと思えば、いくらだって出来るのだと思う。けれど、ドラマの話よりも面白くて重要なのは、自分たち山百合会のことなのだ。もっぱら山百合会のメンバー同士で話すのは、自分たち山百合会の話題に終始する。
 だから祐巳さんは、きっとこう思ったのだ。

 ドラマやおしゃれの話をするのは、山百合会に入らなかった私。小笠原祥子さまの妹にならなかった世界の、私。

「へえ、哲学的ね。祥子さまの妹になるか否かで祐巳さんという存在は変わる。で、私たちは観測者にはなれないから、まさしくシュレディンガーの猫ならぬシュレディンガーの祐巳ってとこね」
「茶化さないで。それに、由乃さんの言うことよく判らないよ」

 祐巳さんが山百合会に入らなかったら。

 志摩子と祐巳さんは一学年時に同じクラスだったからそれなりの面識はあった。けれどやっぱり、特に親しくなれたのは、彼女が山百合会入りして、ともに活動するようになってからだ。
 そして志摩子が由乃さんとも親しくなれたのは、間違いなく祐巳さんの仲介があったからだった。
 
 きっと、きっと自分は──



  *

 

 子供の頃から引っ込み思案だった。
 「お人形さんみたい」、「可愛い」などと、小さい頃に親戚や近所の人によく言われた覚えがある。
 機転も利かず、利口でもなく、愛想もなかった私は、それらの誉め言葉にただはにかむことしか出来なかった。
 それでも、小さい頃は誰も気にしない。おとなしい子、素直な子として回りの人間たちに認識されていたんだろうと思う。

 けれど、十代も中盤ともなれば勝手は変わってくる。
 気の利いた冗談が言えず、世俗にも疎い私は、少等部、中等部と他人との繋がりが希薄のままに生活していた。
 そんな私をクラスメイト達は、「そういう人間」として見ていただろうし、自分自身ですら半ば諦め半分で、「そういう人間」である私を許容していた。
 だが、中等部を卒業する頃にはもう、そんな自分にも慣れてしまっていた。

 高等部に上がると、ちょっとした違和感に私は首を傾げたくなった。
 女子校というものは、世間で言われているほど浮ついた場所ではない。確かに右を見ても左を見ても同年代の女の子というのは、ある種の連帯感、安心感を引き出すものがあり、浮き世だった場所だというのは理解できる。が、世間一般との差異はそれほど大きなものではない。
 
 それが、高等部では一変する。
 ことリリアン女学園に至っては、別世界といって差し支えないのではなかろうか。

 生徒会長の三人には三色の薔薇の名前が冠せられ、生徒会室に相当するところ、通称『薔薇の館』は、校舎からは切り離された場所に建てられている。その建物の赴きもまた特殊だった。
 そしてリリアン女学園高等部の特異性の極みとも言うべきスールシステム。
 いくつもの要素が絡まりあい、リリアン女学園高等部は、一種独特の雰囲気を携えている。それは、世間の女子校に対する誤認を、正しく体現したかのようだった。否、世間の予想すら越えるかもしれない。
 中等部までと大幅に異なる空気。それが、志摩子の中の違和感の正体だった。

 けれど気付いたところでどうにもなるまい。
 生徒会長として人を率いていくことなど夢のまた夢。そういったことに興味もなければ能力もないし、そうしたいなんて微塵も思わない。
 引っ込み思案でつまらない性格の自分では、スールとなってくれる相手だって見つかりはしないだろう。
 そうやって、これまでと同じように生きていくのだと思っていた。




「きゃあっ!」

 扉を開けると、突然あたり一面に響き渡るような悲鳴。悲鳴元の人間はびっくりしたのだろうが、扉を無造作に開いた志摩子もまた相当に驚いた。
 明日の一時限目に控える数学の宿題プリントをうっかり机の中に忘れてしまい、わざわざ駅まで行っておきながら、学園までとんぼ返りしたのだ。
 そうして夕暮れに染まる教室への扉を開いたところで、この悲鳴である。

「し、志摩子さん!」
「……?」

 自分の名を呼ぶその少女の名前に、志摩子は全く心当たりがなく、内心うろたえていた。あちらは自分の名前を知ってるのに自分が知らないのは正直気まずい。
 同級というのは判るが、肝心の名前が出てこない。
 高等部に上がって一ヶ月。そろそろ仲良しのグループがいくつか構成され始めている椿組において、いまだ志摩子には親しく口を利ける相手はいなかった。
 
 屈託なく、「こんな時間にどうしたの?」と尋ねてくるその少女に曖昧な返事を返しながら、志摩子は必死でその少女の名を記憶の隅から掘り起こしていた。
 入学式の翌日に執り行われた自己紹介では、志摩子は四十名あまりの全員の紹介を、漏らさず聞いていたから、「知らない」ということはないはずだ。
 現に彼女の顔にはちゃんと見覚えがある。頑張れば、きっと思い出せるはずだ。

「もしかして、志摩子さんも数学のプリント忘れたのかな?」
「ええ、まあ」
「私もそうなの。そうしたらいきなり志摩子さんが来たものだから、びっくりしちゃった」
「驚かせてしまって、申し訳ないわ」
「あ、いいのいいの。全然責めてるわけじゃないの」

 驚いたり屈託なく笑ったり、申し訳なさそうな顔になったり、とにかく表情の多彩な少女だった。自分もこれくらい表情豊かになれたらいいのに、なんて考えたところで、ようやく志摩子は目の前の少女の名を思い出した。

「祐巳……さん?」
「え、なあに?」
「あ……ううん。祐巳さんも、数学のプリント忘れてしまったのね」

 どうやら間違っていなかったらしい。
 彼女の名前は福沢祐巳さん。実際に口を利いたのは今が初めてだ。なぜ彼女の表情を見て名前に思い当たったかと言うと、とにかく自己紹介の時の彼女の表情が印象的だったからだ。
 緊張しつつ照れつつ、つとめてにこやかに自己紹介をする彼女の表情が、あまりに志摩子にとって好ましいものだったからだ。
 自分もこれくらい表情豊かに──と、その時も今と同じ事を考えたのだった。
 
 それからしばらくの時間、彼女とお話をした。内容は他愛もないもの。祐巳さんは幼稚舎からリリアンで過ごしていた。お姉さまはまだいない。部活もやってないから、上級生の目にとまることもなく、平凡な自分なんか妹に欲しがる人なんていない……なんてことを語った。

 志摩子が話したことも、また他愛もないこと。まだまだ高等部に慣れてないとか、そういった、いかにもクラス替え直後の生徒たちに交わされるような会話だった。

 やがて下校のチャイムが鳴り、二人ともあわてて支度をして学園を出た。
 バス停までと、バスの中。そして駅までの会話。
 昨日のドラマの話。あまりテレビを見ない志摩子だったが、そんな中で毎週楽しみにしているドラマだったから、話は弾んだ。
 がらがらだったバスの一番後ろに並んで腰掛けて、ふと祐巳さんの視線が自分の髪の毛に注がれていることに志摩子は気付いた。
 「どうしたの?」と、聞くと、若干祐巳さんは赤くなって、しどろもどろになりながら、「髪の毛が綺麗で、ちょっと見とれてた」、なんて。
 別段特別なことはしていない。世間一般の女の子よりもむしろ無頓着かもしれない。
 けれど、赤くなる祐巳さんを見ていると、どうしてもこっちまで妙な気分になってしまう。ときおり当たる祐巳さんのツーテールが、くすぐったかった。

 駅の構内で、彼女は唐突に切り出した。
「実は、志摩子さんとお話するのって、今日が初めてだったんだよね」、と。

「そう、なの。私、あまり人と話すのが得意ではないから……」
「ううん。とっても面白かったよ。それに、その……実は、志摩子さんとはお話したいなって思ってたから」
「どうして?」
「だってその、つまり……し、志摩子さんが、さ」
 ……とっても綺麗だから、なんて言われて、顔から火の出る思いだった。そんない恥ずかしいなら、隠していたって志摩子は気付かないのに、などと思ったり。
 それに、祐巳さんの容貌こそが、志摩子には魅力的に感じられる。
 こうして向き合っている彼女は、真っ赤になってもじもじとしている。社交性のある彼女は、いつもにこやかな笑みを浮かべて周囲の人間に近付きやすい空気を放っている。ほかにも、悩んだり、悲しんだりと、これまで接点が全くなかったのに、印象に残っている表情は数知れず。
 表情豊かな彼女は、まるで色とりどりの花束みたい。

 ──ほんと、うらやましい……な。

 祐巳さんと話せて面白かった。素敵な祐巳さんと話せて、本当に、よかった。
 別れの挨拶を交わして、それぞれが違う電車、違う方向へと離れても、志摩子の中には、祐巳さんの花のほころぶような表情の余韻が残っていた。
 明日学校へ行けば、また祐巳さんに会える。
 まだ家に着かぬというのに、翌日学校へ行くことが楽しみで仕方がないという風な自分に、つい苦笑。

 そして志摩子自身気付いていないことが、一つ。
 「明日学校へ行くのが楽しみ」と思ったのは、実はこれが生涯で初めてだったことに。
 電車に揺られ、夢見心地でうとうととする志摩子は、気付いていなかった──。



 ──翌日。

 藤堂家の朝は早い。
 家が家なだけに、朝からの来客もあるということからの、毎朝の志摩子の日課となっている玄関先の掃除と、余裕もあれば庭の掃除も。
 母親の手による純和風な朝食をおなかに入れて、この界隈のリリアン女学園の生徒よりは三十分は早く出る。だから、ラッシュアワーになど巻き込まれることもなく、今日も無難に学園に到着する。
 
 今日も祐巳さんと話せたら、いいな。……なんて思いながら。

 まだまだひとの少ない校舎を抜け、教室の前にたどり着く。空気の乱れが殆どないから、志摩子が一番か、あるいはより早いクラスメイトがいるのか──などと逡巡しつつも、無造作に扉を開けて

「きゃあっ!」
 と、鳴り響く悲鳴が一つ。
「ゆ、ゆ、祐巳さん……」
「志摩子さんっ」
 驚きもつかの間。祐巳さんは机をぬって志摩子のいるところまでにじりよってきて、切羽詰ったような顔でこう言った。
「プリント見せてっ」
 と。

「は?」
「だ、だから昨日の数学の宿題プリント! あれを、じつはー、そのー、素敵な志摩子さんに見せてもらいたいなー、なんて!」
「だってほら、昨日プリントは持ち帰ったはずじゃあ……」

 彼女の弁明はこうだった。
──確かに昨日、わざわざ学園まで戻ってきて、うっかり忘れたプリントを回収……しようとした。けれど予想外の人物(志摩子のことだ)の来訪に、数学のプリントのことが、頭からすこーんと抜けてしまった。
 机の中に眠ったままのプリントを想いながら、眠れぬ夜を過ごした祐巳さんは、朝早くに家を出てきて一番に教室に到着してプリントに取り掛かって……そして、来訪者に悲鳴──

「ふっ」
「ふ?」
「ふ、うふふふ……」
「しっ、志摩子さん! そうやって笑うの禁止! その、心の底から笑ってるって感じのその笑い方、禁止!」
「だっ、だってしょうがないじゃない……心の中でも、笑ってるんですもの」
「うーっ!」

 そんな、頬の筋肉が緩みっぱなしになるような出来事が、藤堂志摩子福沢祐巳さんの初めての出来事で、始まりの出来事。
 祐巳さんといると、いつだって笑いが零れる。彼女といると、そんなことが頭に浮かぶのは、実は初めて話したときからなのだ。

 そう。現に今も──



  *


「ふふふ……」
「な、なによ志摩子さん。急に不気味に笑わないで」

 バス停で時刻表を確認していた由乃さんが、さも嫌そうに志摩子を批難した。単なる思い出し笑いなのに。
 祐巳さんは……鞄をごそごそとやっていて、奥から何かを取り出したかな、と思ったら、彼女の手には何も握られていなかった。なのに右手と左手を、何だかよく判らないパントマイムでもしてるみたいに動かしている。

「どうしたの、祐巳さん」
「うん。実はね、携帯電話を使う練習。今は持ってないけどいつかは持つことになるだろうからさ。今のうちにね、イメージトレーニングを」
「そうねえ。私も練習しておいたほうが、良いのかしら」
「志摩子さんも一緒にやろうよ」
 祐巳さんと志摩子が、『ケータイの練習』を始めようとすると、

「あーもう! あんたたち、恥ずかしいからよそでやれっ! この大ボケコンビがっ!」
 由乃さんの突然な激昂。一体何がそんなにも彼女の勘に触ったのだろうか。志摩子と祐巳さんは、「なんだろ」、「さあ?」、と、首を傾げるばかりだった。 

「なんて言うか、駄目なのよ。ダメダメダメ! アンタたち二人が会話してると、無性に突っ込み役が必要な事実が浮き彫りにされるのよ!」
 往来でがなりたてる由乃さんの方が、よっぽど人目を引くと思うのだけれど。ねえ、祐巳さん。
 由乃さんをなだめつつ、「突っ込み役ってなんだろう」、と考えてみるも、いまいち明確に具現できない。もしかして、乃梨子のように冷静な人間のことを指すのだろうか。
「まあまあ。そういう時は由乃さんが突っ込んでくれればいいの。いつも一緒にいるんだからさ」
「ふん」
 不機嫌そうに鼻を鳴らす由乃さんと、ほんの一瞬だけ目線が絡まりあう。刹那だったから、祐巳さんは気付く筈もない。

 ──今は、彼女に睨まれたって、後ろめたいことなんて一切ない。

 バスがくるまでもう暫くの猶予がある。特にこれと言った会話らしい会話もなく、ただひたすらに待ち続ける。
 ただ、待ち続ける。



  *



「キライなのよ、あなたのこと」

 いきなりそんな風に言われて、反応するどころか言葉の意味さえ志摩子には理解できなかった。
 梅雨時に特有な絡みつくような空気でさえ容易くスライスしてしまいそうなほどに、鋭い言葉。対する志摩子は完全に言葉を失った。
 「……」、「……」、互いに続く言葉はない。
 薔薇の館の裏手に当たるここは、普段人が寄り付くことはない。志摩子ですら初めて足を踏み入れたここは、あまり空気の流れがよくなくて、長時間いたくなる場所ではなかった。

「由乃さん……」
「何よ。文句あるなら言いなさい」
「……」、けれど志摩子は沈黙する。
 口喧嘩なんてしたこともない志摩子には、どうすることもできなかった。

 志摩子が薔薇の館に出入りするようになって二ヶ月ほどが経つ。お手伝いという肩書きで薔薇の館、ひいては山百合会の面々と近しくなっている志摩子にとって、目の前の少女はそれほど親しい相手ではなかった。
 同学年ではあるが、自分とは全く異質な性質を持つ島津由乃さん。心臓を患っているはずだが、こちらを見据える眼光は、とても病人のそれとは思えない。

「どう、して……?」
 たったそれだけを搾り出すにしても、志摩子にとっては重労働だった。
「私はね、回りくどいことはキライなの。だからこうして、初めに釘を刺させてもらったのよ」
 対して、彼女の答えはさらに理解不能だった。志摩子としてはもう、黙り込む他の選択肢が見つからない。
「知りたいの、理由を」
「ええ……」

「──自分から何も求めないくせに待ち続ける。欲のない風を装って、実際のところ欲深いあなたみたいな人は、私はキライなの」

 そう言い放って、彼女は、倒れた。

 いや、倒れる寸前で志摩子が何とか受け止めた。地面は折からの雨でそれなりにぬかるんでいる。ここで彼女を倒れさせるわけにはいくまい。
 だが、志摩子一人の力などたかが知れている。彼女を受け止めることは出来ても、どうやったって薔薇の館の入り口まで連れて行くのは不可能だ。
 薔薇の館に誰かがいてくれることを願って、志摩子は大声で助けを呼んだ。


 彼女が自分のことを、「キライ」、と言い放った理由。心当たりが無い訳ではなかった志摩子はそれから二日後、薔薇の館の階段を陰鬱な気分を持って登っていた。
 あれ以来由乃さんは欠席を続けている。今日で三日目となる欠席で、彼女の姉である支倉令さまの表情も、暗く沈んだままだ。
 志摩子と話しているときに、突然の心臓発作に倒れた由乃さん。あの後薔薇の館にいた人間に手を貸してもらい、何とか薔薇の館の玄関まで運び込んだ。丁度その辺りで彼女は意識を取り戻したが、令さまが彼女の家に電話をかけてクルマで迎えに来てもらい、そのまま彼女は病院へ。
 志摩子に、彼女と何を話していたのか聞く人もいた。が、志摩子は曖昧に言葉を濁して誤魔化した。とても他人に広めたくなるような話ではない。
 やりきれなさを抱えつつも、平静を装って志摩子は生活していた。


 薔薇の館の面々と。
 一年桃組では、福沢祐巳さんと、彼女に連なる人たち。
 そういった人と人との繋がりが、ようやくまともに形成され始めた頃だった。

 志摩子が、佐藤聖さまの妹になったのは。
 ほぼ時を同じくして、祐巳さんが薔薇の館に出入りするようになった。正式なメンバーではまだないが、志摩子にとって好ましい人の山百合会参入は、実際には絶対にやれないが、それこそ飛び上がって嬉しさをアピールしたいほどの出来事だった。

 そうして、志摩子のことを、無慈悲に、「キライ」、と言い放った彼女との関係も、徐々に変わり始めたのがこのときである。

「ねえねえ志摩子さーん。ちょっと聞きたいんだけどー」
「なあに、祐巳さん」
「志摩子さんってさ、祥子さまにもプロポーズされたんでしょう? その、どんな感じだったの?」
「どう、とは」
「その……どきどきとか、したりした? 祥子さまと面と向かって」
「え、え、そ、それは……その、やっぱり、それなりには動悸は激しくなったわね。祥子さまの美しさってほら、迫力があるから」

 そんな風なやりとりをやや小声で交わしつつ薔薇の館の階段を、祐巳さんと二人で登る。ぎしぎし、ぎしぎしと、一人でもあれなのに、二人が同時に上ると、それなりに老朽化の進んだ薔薇の館の階段は、よりいっそう心もとない悲鳴をあげる。
 そろそろ本格的に修繕を頼んだ方がいいのかしら、なんて考えながら階段を登っていると、

「ごきげんよう」
 と、少しだけ薄ら寒くなるような冷たい響きを持ったそんな言葉を、聞いた。

「ごきげんよう、由乃さん。もう、身体の方は大丈夫なの?」、と、祐巳さん。対して由乃さんは、「おかげさまで」、と、祐巳さんの方を見ないで言う。
 彼女が見ているのは──志摩子だった。
 階段を上がりきってすぐの所から見下ろす彼女の視線は、おせじにも友好的なものとは言い難かった。

「志摩子さんを少し借りたいんだけど、よろしいかしら?
「う、うん。その、志摩子さんさえ良ければ」、祐巳さんが志摩子に視線を向けながら言う。
「……ええ。構わないわ」
 あまり穏やかではないらしい空気を察した祐巳さんは不安顔で志摩子のことを見つめるが。「大丈夫よ」、と、微笑んで見せた。祐巳さんみたいな笑顔になってればいいな、なんて思いながら。


「どういうつもりよ」
 彼女はいきなり切り出した。「どう、とは」、と、聞いても、由乃さんの表情は変わらない。固く結ばれた口と、刃物のように鋭い視線が、志摩子の心をざわつかせる。
 しかし、お手上げだった。
 彼女の言うことが理解できない。キライならキライでいいから、まずは彼女のことを理解したかった。
「……祐巳さんのことよ」
 志摩子の疑問に対して、彼女はそう答えた。

 その後、彼女は矢継ぎ早に質問をぶつけてきた。以下簡潔に列挙する。

──あの時は、ありがとう。倒れそうになったところを助けてもらって。
 ええ。どういたしまして。(もう随分前の話だが、あれ以来ろくに会話もしなかったからこうなる)

──高等部にはもうすっかり完全に慣れたみたいね。
 祐巳さんや武嶋蔦子さんに、山百合会の人たちに、お姉さまである聖さま。個性的な人が多くて志摩子を引っ張りまわしてくれるから。(あなたも含めてね)

──山百合会に正式加入て、どう?
 毎日がめまぐるしくて、目が回りそう。ちょっと疲れるけど、とても充実しているわ。こんな感覚、生まれて初めて。(何故か由乃さんは顔を赤くした)

──祐巳さんとは、随分親しくなったみたいね。
 全部、彼女のおかげなの。初めて話したときから今まで、すごく好意的にお話してくれて。私、人と話すのが苦手なのに、祐巳さんだけは気兼ねなしに話せるの。(初めて会った時から、「キライ」、って言うあなたとは、ものすごく対照的なの)

 矢継ぎ早の質問に、いい加減戸惑いがピークに達した志摩子は、
「あの、由乃さん」、彼女は仏頂面のまま、「なあに?」、と。本当ににこりともしないまま。
「私たちって、その、険悪な関係ではなかったのかしら。質問の内容が、とても友好的なものに思えるのだけれど」
「……ふん。険悪になるのはこれからよ。ええと、どこまで話したっけ?」
「祐巳さんと親しくなったね、という所……」
「そうそう、そうだったわね」
 険悪に、なるのだろうか。

「あなた、祐巳さんのこと好きなの?」
「は?」、と、間の抜けた返事をするのを禁じ得ないほどに、突拍子のない言葉だった。
「は、じゃないわよ。イエスかノーの二者択一。さあ早く答えなさい」
「い、イエス」
 反射的に志摩子はそう口にしていた。あまり深くも考えずに。
 さらに言えば、深く考える必要なんてない。
 仮にどう因果の流れが逆転しようと、どれだけ理解不能な局面に襲われようと、藤堂志摩子が福沢祐巳のことを、『好き』、という事実は、絶対に覆らない。
 覆させてたまるものか。やっと手に入れた、幼い頃から渇望していた他者とのつながり、拠り所。それを絶対に手放すなと、志摩子の本能が囁く。
「そう……やっぱりね」
 どこか諦観を含んだ色で、彼女はそう言った。

 彼女は淡々と語る。
 心臓の疾患は生まれつき。島津由乃にとってそれは、唯一にして絶対の枷。子供の頃から、自身を縛り続けてきたものだ。
 その枷は、数々の制限を強いる。
 遠足、体育祭、体育の授業、それら身体的負荷を強いる事柄だけでなく、日常生活においても稀に起きる発作は、他者に、『壊れ物』、という印象を与えたらしい。
 触れれば壊れる。
 触れずとも、近付いただけで、壊れる、と。
 ゆえに彼女の周りには人は集まらなかった。決して彼女を嫌ったわけではない。肉親であり姉であり友であり自身の分身である彼女のスール、支倉令を除いては。

「……だからね、私には親しい人はいなかった。あなた、私が学校で誰かと親しげに話してるの見たことある?」
 ない。山百合会の人間を除いては。
 だから、ここまで言われてようやく彼女の意図が見えてきた。
「昔からそうだったから、いつしか私は諦めていた。人と人とのつながりにね。幸いにして私は、そういう感覚を知らなかった。だから、割と簡単に諦めもついた」
 
 ──その話は、どこか、志摩子の心をざわつかせる。
    
「けどね、どうしても惹かれるの」
「祐巳さんに」

 呟いた声が重なる。何故か? それは、彼女と志摩子があまりに似ていたからだ。一目見て明らかな異質を感じさせた彼女はその実、志摩子と似たような境遇に陥っていた。

 祐巳さんと祥子さまの関係を見て、自分にはない眩しさを感じた。彼女たち二人が姉妹の契りを結ぶのか否か、それは誰にも判らないけど、祐巳さんという小さな波紋に影響されたことは永遠に残りつづける。それを形にしたいと、明確な何かにして残したいと、そう彼女は語った。

「だから、祐巳さんと親しくなりたいと思った。そんな風に能動的に思わせられたのは、彼女が初めてなのよ。だから」
「私が邪魔なわけね」
 臆することもなく志摩子は言った。別段由乃さんは驚きもしないが。
「そうよ。別にあなたと親しくしたいとは思わない。理由はいつぞやに話した通りよ」
 あなたみたいな人間はキライ、と。彼女はそう言い切った。
「だから、身を引いて欲しいのよ。ここまで言えばもう判るでしょう。別に彼女に近付くなとは言わない。ただ、私は彼女の一番近い人間になるつもりだから」

 なんという勝手な言い分であろう。人として本来許されるものではない筈だ。志摩子は聖人君子ではないのだから、それを容認する必要はない。
 だが、眩しかった。
自信満々にそう言い切れる由乃さんは、やはり自分とは全然違う。ストレートな感情を何の変化もなく奇も衒いもなくぶつけてくるその様は、眩しすぎて、目を開けていられないほど。

 かつての志摩子ならば、この身を引いたかもしれない。彼女の言いなりになって、それでまた、一人に戻る。
 だが、これでも少しは。
 本当に、ちょとだけ、志摩子は変われたのだ。
 だから

「イヤよ。あなたとは代わってあげない。どうしても、と言うなら、力ずくで私のことを遠ざければいい」
 なんて、らしくもないことを口にした。
 それを受けて、
 彼女は、笑った。
「え……?」
「そうこなくっちゃね。今のあなたに身を引いてもらおうなんて思ってない。。そんな風に言い切れるあなたを、『待ってるだけの人間』なんて形容したのは、私のミスね」
「え、えええ?」
 訳も判らずうろたえる志摩子の手をぎゅっと握って彼女は熱っぽく言う。

「私たちの代で、山百合会を歴代最強に押し上げるのよ。当代の薔薇さま方なんて目じゃないわ。私と、あなたと、祐巳さんの三人で。どうせやるなら頂点を極めてみたいと思わない?」

 思わない……けど、そうやって前だけを見据えてひたすら前へ前へと。
 目を凝らして、それ以外に手段はないとばかりに、前へ。

 こうやって両の手をぎゅっと握られている今現在。これも、『祐巳さん効果』の一種なのだろうか。不思議な力。不思議な魅力。
 形容は難しいけど、彼女には、『導く力』、が備わっているような気がする。
 単純に、リーダーとして人を率いていくのではなくて、彼女の目指す先にハッピーエンドがある。だから、彼女の通った軌跡は、まさしく幸せへの道しるべ。だから彼女は、人を惹きつけるのだ。
 由乃さんはそれに惹かれて、きっと、祥子さまも同じく。
 そして、志摩子も言うに及ばず。

 同じ、彼女に惹かれた者として、手を取り合う二人。
 この絆を断ちたくないと。祐巳さんと知り合い、親しくなり、たくさんの人と触れ合う機会を得た。こうして、志摩子のことを、「キライ」と言い切った人とさえ手を取り合うことが出来たのだ。
 願わくば目の前の現実を永遠に。
 マリア様に祈る。
 その祈りは届くのだろうか。初めて自分のための祈りを捧げた志摩子は、そう、痛切に望まずにはいられなかった。



  *



「志摩子さんっ」
「……え?」

 空いているバスの一番後ろの席に座った三人。いつしか志摩子は眠ってしまったらしく、両肩の向こうにある左右一つづつの人の気配に一瞬戸惑った。
 その正体に、気付いてしまえば安堵感。両サイドに友人二人が、志摩子を挟むように座っている。

「どうしたの志摩子さん? どこか痛むの?」
「体調が悪かったなら早く言いなさいよ。ほんと、溜め込むタイプなんだから」
「???」

 二人の言葉が理解できない。ただ、のんびりと走るバスの振動が心地良くて、ついうたた寝してしまっただけだ。体調が悪いなんて、とんでもない。多少風邪気味ではあったけど。
「いやだわ二人とも。どうして、そんなこと言うの?」
 つとめて、明るく言ったつもりだった。
 けれど二人の不安顔は変わらない。

「……だって志摩子さん、泣いてる」

 冗談だと思った。
 涙が溢れそうなほどに瞳が潤んでいるのだろうと、思った。うたた寝していて閉じられていた瞳が、急に外気に晒されて反射的に水分を搾り出したのだろう。
 だが、目じりの辺りに水分がたまっている感触はない。
 代わりに、頬の辺りに冷たい感触が、左右一筋ずつ。
 つまり、涙が溢れそうなのではなく、志摩子は、とめどなく涙を流し続けてしまっていたらしい。

「え……。なん、で。そんな……」
「こっちが聞きたいくらいよ。いきなり思い出し笑いしたかと思ったら、今度はぼろぼろ泣き始めて。わけわかんないわ」
 呆れたように言う由乃さんと、不安顔な祐巳さんと。泣いたり笑ったりと、滑稽な自分。

 この絆を永遠にと、あの時志摩子は祈った。
 こうして二人は、今でも志摩子の近くにいてくれる。
 だから、これからも祈りつづける。自分のために祈りつづける。こうして形に成った絆を、絶対に失いたくないと。
 そうやって望まなければ何も始まらないことを、由乃さんに教わった。
 そして、志摩子が生まれて始めて望んだものは、祐巳さんとの繋がりだった。

 今、三人は並んで座っている。


──ちっぽけな存在である私は、私たち三人の、小さな小さな世界の永続を望みます。その小さな祈りを認めてもらえること、それこそが、私の本当の願い──。


 了







▲マリア様がみてる