■レフ板


 自分以外の他者と、『密な時間』 というものを過ごしたことが無い志摩子にとって、誰かが傍に居る状況というのは、どうにも想像に難しいものがある。
 山百合会のメンバーと過ごす時間は、休む間の無いくらいに慌しくて。かつてないほどに他者との交わり、繋がりを得ることの出来た、いわば志摩子にとっては別世界のような場所であった。
 その中でも福沢祐巳さんと島津由乃さんは、何の隔てもなく志摩子に接してくれて。『友達』という名の実感を、初めて志摩子に与えてくれた、得がたい存在であった。

 ならばあの子は自分にとって一体何なのだろうと、志摩子は自室の机にかけながら、考える。
 何となく始めた予習は全く頭の中には入ってきてくれなくて、いつしか志摩子は机にもたれかかり、ただシャーペンを弄んでいる。
 思い浮かべるのは、あの子──二条乃梨子という、新一年生のこと。

 ──志摩子さん。

 それは、何だろう。
 『志摩子さん』 と自分のことを呼ぶ人間は、祐巳さんに由乃さん、他にも、クラスメイトの人たちと、学園には沢山居るはずなのに。
 絶対的に異なる何かを抱えてるかのように、志摩子の心を打つ。ここ最近一人のときに考えることは、いつだってその事ばかり。
 けれど答えは遠く彼方に在るかのように霞がかっていて、懸命に手を伸ばしたところで、一向に届く気配はない。

「乃梨子……」
 口をついて出た言葉は彼女の名。
 そう、答えはきっと、志摩子が彼女のことを、いつの間にか呼び捨てにしていたこと──その事実。それに対する答えと同じくらいに、余りにも、遠い。


「志摩子さん」
 呼ばれて志摩子は、不意に考え込んでしまった自分の頭に、ストップをかける。目の前に立つのは、ここ数日、毎日のように顔を合わせている一年生、二条乃梨子。
 桜の木の下で二人、お昼の弁当を広げていた。話題はそう、確かクリップがどうとか。
「──でね、今日は上履きにクリップが入ってて」
 深刻なんだか楽しいんだか図りかねる表情で、乃梨子は言う。
 志摩子はよく知らないのだが、曰く、上履きに何か細工をされるというのは、何らかの自分に敵対する意志が働きかけられていることの証拠、らしい。

 他愛がないと言えば、余りにも他愛のない悪戯。それと同じくらい、今の志摩子と乃梨子が交わしている会話というのは、他愛のないものである。
 山百合会の同学年の仲間たちと交わす会話もまた、他愛のないものばかり。そう、友達として、それはきっと、疑問に思うまでもなく健全なもの。
「けどさ──」
 会話は続く。上履きに悪戯というのが、悪意を露にすることの常套手段だとして、ではどうして乃梨子の上履きにそれがなされていたのか? という段になり、よもやこの学園に入ってすぐの乃梨子が、他人に恨みを買う筈もない。そう考えていた志摩子だったが。
 なにやら乃梨子自身は、思い当たる節がありそうな表情を浮かべている。
「あー、もう。ただでさえロザリオの話が出てきて以来、瞳子さんが口をきいてくれなくなったっていうのに」
 喚くように乃梨子は言う。
 ロザリオ
 という単語に、志摩子の心は一気にざわめきを増した。志摩子とてそれを意識していなかったわけではない。姉の居ない一年生と、妹の居ない二年生が一緒に居れば、リリアンの人間ならば誰だって考えてしまうこと。
 けれど志摩子が、あえて考えぬようにしていたこと。
「……ロザリオ? あ、それで思い出したわ」
 結局、志摩子は逃ることしか出来なかった。

 
 ”どうして、乃梨子は私の傍に居てくれるの?”
 そう聞いてしまえば、果たして彼女は怒るだろうか。
 乃梨子のことは好きだ。けれどそれは、二人の友人に向ける気持ちと、何かが異なるものなのだろうか。乃梨子と志摩子の関係は、友情と呼ばれるものなのだろうか。
(じゃあ……恋?)
 志摩子は内心首を横に振る。同性同士なのだから、それは恋とか愛とか呼ばれるものではない、と思う。けれど友情よりはむしろ、愛情に近い気持ちなのかもしれない。


 喜びも嬉しさも、悲しみも怒りも、全てを受け入れてくれる存在。志摩子は、つい数週間前まで高等部に在籍していた姉のことを──佐藤聖のことを、そんな風に思ったことがある。
(だとすれば乃梨子も……この子も、私にとって……?)
 それは違う。
 志摩子の全てを受け入れてくれて、そして全てを委ねてくれた聖さま。それはあの方の優しさに他ならないが、きっと、他者の心に踏み込むことを恐れるようになってしまった、ということも関係していたように思う。
 それはきっと、志摩子にとって丁度良い距離であった。他人の心に踏み込むことも、踏み込まれることも、慣れていない志摩子にとって。

 乃梨子は──志摩子の放つ感情をきっと、受け止めて、そして返してくれる。
 それは恋人ではなく──。
 親友でもなく──。


「ロザリオが欲しいの?」
「別に」
 不思議と、心は落ち着いていた。
「あげるのはやぶさかではないけど。でも、今のあなたに、果たしてそれが必要かしら?」
「……うん。わかった」
 姉妹の契りを結ぶ。ロザリオを授受する。きっと志摩子が悩んでいることは、それ以前のこと。もしかしたら、祐巳さんや由乃さんにとっては、あるいは考えるまでもないことなのかもしれない。
 どうしてそんなことで悩むの? という表情を、祐巳さんは浮かべるかもしれない。由乃さんはきっと、「そんなことで悩むなんて、くだらない」 と、あっさりと切って捨てるかもしれない。
 けれど、志摩子は──。

 乃梨子の表情は、幾分不満気な色をたたえていたが……あるいはそれは、単に志摩子の願望であっただけなのかもしれない。



 やがて桜は散り、青々とした葉が桜の木に生い茂る季節となり。
 移ろい行く四季と共に、志摩子と乃梨子の関係も変遷を遂げていた。
 未だ実感が薄いのはきっと、取るに足りないことに囚われている志摩子の所為。代々受け継いできたロザリオをその首に掛けた相手が、自分にとって一体どういう存在なのか、だなんて。そんなことで悩むのは、右を見ても左を見てもきっと、志摩子だけだろうから。
 お姉さまに怒られるだろうか。いいや、あの方ならばきっと、「志摩子らしくて、いいんじゃない?」 なんて、気軽に言ってくれるのかもしれない。

「志摩子さん、何か考え事?」
 志摩子の隣に居る少女──つい先ごろ、姉妹の契りを結んだ一年生、二条乃梨子の姿がそこにある。まさか、「あなたと……あなたと私のことよ」 なんて正直に言える口は持ち合わせていなかったから、志摩子は曖昧に頷くことしか出来なかった。
「ええ、あのね……」
「待った。私が当ててあげる。志摩子さん専属カウンセラー二条乃梨子が、ずばり当てて差し上げましょう」
 専属カウンセラー、だなんて。的を射て当を得る言葉とはきっと、このことだろう。
 ううんううんと、わざとらしく唸り声を上げて、しきりに首を捻る乃梨子。わざとらしい、ということはきっと、とうに気付いているわけで。
 
 姉妹となったからといって、二人が共有する空気が目に見えて変わったわけではない。
 志摩子は相変わらず悩んでばかりで、そんな姉には出来すぎた妹である乃梨子は、いつだって志摩子の手を引いてくれる。
 ロザリオを、『貸すだけ』 と言ってくれた乃梨子が、どこまで志摩子の真意を理解していたから知るべくもないけれど。
 山百合会を取るか、それとも二条乃梨子を取るかと迫られ、答えに窮した志摩子の肩の荷を軽くしてくれたその言葉は、自分たち二人のことですら悩む心の奥底でさえ、明るく照らし出してくれた。

 想う先の答えは遠い。けれど、きっと、いつか辿り着けるかもしれないその答えまでの、悩んでばかりの旅路でさえ。あなたが隣に居てくれるならきっと、それだけで、志摩子の心は温かく満たされる筈。
「……判った! 志摩子さんが考えていたこととは、なんと……」
 微笑む乃梨子の胸元で、小さく揺れるロザリオが、梅雨を明け、いよいよ強くなってきた日差しを受けて、微かに白く、輝いた。


 了






▲マリア様がみてる