■紅薔薇、お眠むの時間
祐巳が、小笠原祥子さまの妹となってそろそろひと月ほどが経つ。
つぼみの妹という肩書きには未だ慣れない。というよりも、自分にそんな肩書きがくっついいている事実を失念してしまうことも、しばしばだ。
こればっかりはどうにもなるまい。
これまで、正真正銘、『目立たない女の子』、としてやってきたのだから。
祥子さまは厳しい。厳しくて、優しい。彼の人の冷たさと暖かさには、未だ慣れない。尚且つ、その常人離れした美貌にも。
こればっかりはどうにもなるまい。
これまで、祥子さまのような、『スゴイ人』、との付き合いなんて、全くなかったんだから。
(……って、駄目じゃん自分。こんなんで山百合会の一員としてやっていけるのかなあ)
悩みは些細なことだが、ことさらそれを気に病んだ祐巳は、陰鬱な表情のまま薔薇の館の階段を登り、会議室への扉を開いた。
中には、誰もいない。
祐巳は無言で席についた。
「……」
暇だ。
今日に限って皆様方、何か用事でも出来たのだろうか。山百合会の集まりは定例どおりに行われる筈の今日に至って、どうして集まりが悪い(悪すぎる)のだろうか。
暇で暇でしょうがなくなった祐巳は、鞄から一冊の文庫本を取り出した。
しおりのはさんであるページを開くも、ついうっかりしおりを落としてしまった。
反射的にそれを拾おうと祐巳は身をかがめて……迂闊にもテーブルの縁に額を強打してしまった。誰もいない会議室に、マヌケな音が響き渡る。
「うう……痛い、いたいよぅ……」
まずい。視界がはっきりしない。意識が朦朧とする。打ち所が悪かったのかしら、打たれ強さには自信があるのに……。
徐々にフェイド・アウトしていく意識。
祐巳は、机に突っ伏して意識を失ってしまった。
◇
祥子が、福沢祐巳を妹に迎え入れてそろそろひと月ほどが経つ。
正直言って、未だ祐巳の性格を掴みきれていない。
悪い子でないのは断言できる。言うべきことはきちっと言うし、それなりに真面目に日々を送っているようである。
が、とにかく祐巳は落ち着きがない。
いきなり皆の前でお腹の虫の音色を披露したり、勘違いして意味の分からない事を口走ったり、とにかくせわしない子なのだ。
祥子はやや渋い表情を浮かべる。
こんなことで、二年後の紅薔薇さまが、あの子に務まるのかしら、と。
全てを完璧にこなす蓉子さまと違い、全てが完璧でない祐巳。
その祐巳の顔を思い浮かべようとして、祥子ほんの一瞬戸惑う。
微笑み、笑い、急に真面目になったかと思うと、悲しみ、落ち込んで、泣き出しそうになり、ぼーっとして、また、笑う。
くるくると、まるで万華鏡のよう。
祐巳の表情を思い浮かべようとして、そのあまりに多種多彩な表情に、知らず祥子は笑みを漏らす。
(……まあ、可愛げがあると言うことは、いいことよね)
そう納得させて、階段を登り切った祥子は、会議室への扉をあける。
「あら」
と、つい声に出た。
窓が開けられて、やや強い風にカーテンが翻っている。
机は差し込んだ夕日でオレンジ色に染められている。
そんな世界に、寝息が一つ。
机に突っ伏して眠る我が妹を見て、祥子は思わず破願した。彼女……福沢祐巳の傍らには、読みかけの文庫本が、所在なげに置き去りにされている。その本の主は、夢の世界に旅行中だ。
規則正しく上下する背中は、なんて無防備。
祥子は、自分がどちらかというと偏屈な性格であることを、正しく自覚していた。
だが、この光景を見つめる自分の心は、どうだろう。
心は穏やかな波のように、静かな森の緑のように。澄み切った青空のように、そんな形容が似合うほどに、正直な気持ちになれる。
ふいに、妹の肩が震えた。どうやら吹き込む風に眠りながらも寒さを感じたらしい。
祥子は、祐巳の眠る隣の席……風上の席に座って、風に対してのついたてになった。そのまま机に突っ伏している祐巳と同じような体勢になり、妹の寝顔を見つめた。
その、なんて幸せそうな、寝顔だこと。
いつしか祥子は、自分も抗い難い睡魔に襲われていることに気付く。
それを振り払って、幸せそうに眠る我が妹も夢の世界から呼び起こして、他の人間が来るのに備える──そんな、選択肢も在る。というよりはむしろそれが当然だ。
逡巡。
結局、祥子はそれを選ばなかった。
妹に寄り添うようにして、心地良い睡魔に身を任せる。肩と肩が触れ合うほどに近くに感じる妹の気配は、とても温かくて。
いつしか、祥子の意識も、夢の世界に飲まれてぼんやりとしていく。
◇
妹の祥子が、福沢祐巳という一年生を妹に迎え入れて、そろそろひと月が経つ。
あれやこれやと急かした覚えはあるが、納まってしまえばあっという間だったなと、蓉子は思う。あの祥子のことだから、もっともっとお嬢様然とした人間を選ぶと思っていたのだけれど、なかなかどうして、人を見る目があるようだ。
口ではああ言っていたが、祥子が妹を作らないのなら、それはそれで構わないという考えがあったのもまた事実。
理由は簡単。蓉子が、祥子といる時間を削られずに済むからだ。自己中心的と言わば言え。蓉子は薔薇さまだが、決して聖人君子ではない。「妹と過ごしたい」と望んで、何が悪い。
そんな中での、福沢祐巳の登場であった。
正直、人目で分が悪いと直感した。これまでの祥子の人間関係の枠に囚われる人間ではないと思ったからだ。
イコールそれは、純然たる嫉妬に繋がる。
蓉子は、自身が理性のコントロールが効かなくなる事を恐れた。
水野蓉子が、福沢祐巳に、小笠原祥子を巡って。
だが、しかし
(祐巳ちゃんか……。彼女になら、負けてもいいかもしれないわね)
階段を登りながら、蓉子はそんなことを考える。
仮に祥子の妹を、志摩子や由乃ちゃんに置き換えてみたらどうだろう。彼女らに、大切な妹を奪われると仮定したら。
嫉妬。
それ以上でもそれ以下でもない、嫉妬。それが、人間として普通の感覚だろう。
けど、福沢祐巳の場合は、ちょっと違うのだ。
日溜りのような人柄を擁する彼女の前では、山百合会のメンバーに限らず、おまけに老若男女問わず、素直な気持ちをさらけ出してしまうらしい。
全てを愛し、全てを慈しみ、全てを大切に想う。
そんな奇麗事が、こと福沢祐巳が関わると、何故だか知らぬうちに、あれよあれよと言う間にまかり通ってしまうのだ。
不思議な魅力を持つ少女と、それに惹かれた、わが妹。姉妹となったばかりの二人の姿を思い浮かべつつ、蓉子は薔薇の館の階段を登り、見慣れたビスケットみたいな扉を開けて──そこに、二人の天使を見た。
「くー」
「すぅ……すぅ……」
二人の天使と、二つの寝息。
夕日に彩られた世界で、ここだけが現実から切り取られたかのような。例えるなら、一枚の絵画だ。
二人を起こさぬように蓉子は歩を進める。
開け放たれていた窓を閉める。冷たい風が吹き込む窓に、祥子が気付かない筈もないと思うのだが。
(なるほど、祐巳ちゃんに魅入られていたということかしら)
いけない、頬の緩みが、納まらない。こんなにやけた表情、他の人間には見せられない。というかこの場合、他の人間が来ていないのは、幸運なのか。
今日も今日とて、山百合会の仕事は詰まっている。
体育祭、修学旅行、学園祭と大きな行事はひとしきり終えたが、それらの資料をきちんとした形で纏め上げて、来年に備える。冬季に向けて、運動部の体育館使用スケジュールなども詰めなくてはならないし、何より自分自身の進路のこともある。
考えることは山積みだ。
だから蓉子は、祥子と、祐巳ちゃんを挟むような形で席についた。机の上に手を置いて枕の代わりにして、彼女らと同じような姿勢に身を置く。
強がって、蓉子の前では決して無防備な姿を晒そうとしなかった祥子。彼女の心を開くのだって、それなりの月日を要したのだ。
それなのに、出会って一ヶ月足らずで、祥子はこの少女に心を開いた。
そんな二人が、素直に微笑ましくてついつい蓉子も二人に混ざりたくなってしまったのだ。
(いいの、いいの、今日くらい。真面目な令や志摩子が、何とかしてくれるわよね)
少しだけ、二人の夢の世界にお邪魔したくなって、蓉子も彼女らの後を追うように、ゆっくりと眠りについた。
◇
「あれ、みんなこんなとこで何やってんの?」
佐藤聖と鳥居江利子が薔薇の館の会議室の前にやってくると、そこには、支倉令、藤堂志摩子、島津由乃の三人が、廊下に集まっている。
ぎしぎしと、それなりに老朽化の進んだ廊下を歩いてくる二人の足音を聞いて、他の三人は、露骨に眉を潜めた。
「なにかあったの? 令」
「いや、そのですね、実は」
江利子に問われた令は、ゆっくりと、静かに、会議室への扉を開けた。
「まあ……」
江利子も、そして聖も、思わず感嘆の声を漏らさずにはいられない光景が、そこにはあった。
その中心には、福沢祐巳が。
彼女を囲むようにして、水野蓉子と、小笠原祥子が。
小さな世界で、三人が寄り添うようにして、静かな寝息を立てていた。
「……というわけなんです。だから、今日の山百合会の会議は、急遽廊下で行うことになりました」、少し気まずそうに、令。
「んー、気持ちよさそー。私も混ざってきていい?」、聖は、にやにやと笑みを浮かべながら会議室に入っていこうとする。
「お姉さま、それは野暮というものです」、少し呆れながら、志摩子が聖の制服の裾を掴む。
「まったく、真面目が取り得の紅薔薇ファミリーが形無しね」、少々苛立たしげな、由乃。
「あらあら由乃ちゃん、だったら私たち黄薔薇ファミリーも、一緒にお昼寝する?」、からかうような江利子の提案に、由乃は、「だ、誰がそんな恥ずかしいこと!」、と、真っ赤になって反論する。にわかに色めき立つ皆を静めようと、令は一人右往左往する。
扉の外は、滅多にお目にかかれない光景に、半ばお祭り状態と化している。とてもじゃないが、令一人では皆の興奮を、押さえられそうになかった。
そして、扉の内側は──
◇
福沢祐巳は、テーブルに思い切り額をぶつけた痛みに苛まれながらも、夢を見ていた。左右を年上のお姉さまに囲まれて眠りながら、幻想的な夢の世界にその身を委ねていた。
何故か祐巳は、とある国のお姫様だった。
それなりに幸せだった日々は、とある邪悪な魔法使いの出現により、打ち砕かれることになる。
「ほっほっほ、姫よ、あなたのその身体、悪魔への生贄に捧げてあげるわ」
そうのたまう若くて麗しい女魔法使いは、著しく水野蓉子さまに似ていらっしゃった。蓉子さま……ではなく、邪悪な魔法使いの振りかざした杖の先から、激しい稲妻が飛び出し、姫であるところの祐巳めざして飛んでくる。
もうだめかと目を瞑ると、物凄い音がして光がはじけたのが感じられた。恐る恐る目を開くと、なんと目の前には、白銀の甲冑に身を包んだ騎士が、これまた白銀の盾を構えて、稲妻を防いでいた。
「貴様の思い通りにはさせん。姫は私が守る」
と、凛々しく言い放つ長髪の美貌の女剣士は、どうしようもなく小笠原祥子さまにそっくりだった。だが。
「ふうん。だったら姫じゃなくてもあなたで構わないわ。正直言って、そこのお姫様より、あなたのほうが好みのタイプだしね」
「……私に、姫の身代わりとなれと?」
「ちょっと違うけど、まあそう取ってもらって構わないわ。どう、私のところに来る?」
「いいだろう。誘いに乗ってやる。隙を見て私はお前を打ち倒し、姫の下へと帰還するだろう」
「結構結構。じゃ、来なさい」
「ちょちょちょ、ちょっと待ってよ二人とも!」
慌てて制止するも、二人は忽然と消えてしまって、姫であるところの祐巳だけが一人、取り残される、と。
そんな悪夢を、繰り返し繰り返し見ていた。
「う、うう……」
祐巳の口から、不快げなうめき声が漏れる。けれどそれは、誰の耳にも届くことはなかった。幸せそうに熟睡する蓉子と祥子をよそに、祐巳だけは割と、必死だった。
了
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