■名前を呼んで
薔薇の館への道すがら。
祥子の前を並んで歩く二人。祐巳と由乃ちゃんは、どうやら昨日のドラマが余程面白かったらしい。
身振り手振りを交えて、昨日の再現の試みに熱中している。
あまりみっとも良いものではないが、咎めるのも二人の仲に水を差すようで、気が引けた。
仲が良いのは結構なことだ。
そう自分を納得させて、祥子がほんの一瞬、二人から視線を逸らしたその時に、
「あッ!?」
「祐巳さんっ」
反射的に、視界を正面に戻す。
見ると、祐巳が廊下にお尻をついて、しゃがみ込んでいる。
おしゃべりに興じていて、足元がお留守にでもなったのか。
どうやら、我が妹は盛大に転び、辛うじて受身を取ったようである。
「大丈夫? 祐巳」
かすかに涙目になった祐巳が頷く。
そんな妹へ、制服の埃を掃いなさいと、ハンカチを差し出した瞬間──
──視界は今よりずっと低い。地面は土。かすかに砂埃が舞っている。祥子は立っている。誰かを見下ろしている。誰かが地面にお尻をついている。誰かが涙目でこちらをじっと見つめている。祥子は誰かにハンカチを差し出す。誰かの膝が赤く染まっている。誰かの──
「──お姉さま?」
目をまん丸に開いて、祐巳がこちらを覗きこんでいる。
その手には、さっきのハンカチが。
「ありがとうございます。ドジですね私。派手に転んじゃって」
「大丈夫。祐巳さんは、『何もないところで転ぶ』 という属性が、よく似合うから」
「むむむっ、何てこと言うかな由乃さんっ」
祥子は、妹が差し出していたそれを、半ば無意識で受け取る。
「祥子さま、気分でも」
由乃ちゃんが、心配そうに聞いてくる。なんでもないと祥子は答えて、つとめて動揺を押し殺して、二人を促す。
「……何でもないわ。さ、二人とも、行くわよ」
釈然としない顔を浮かべながらも、二人は祥子についてくる。
心臓が早鐘を打つ。
口の中がやたらと乾く。
自分が何を思い出したのか、それを理解出来ぬままに、祥子は黙々と歩いていた。
*
「祥子さん、どうしたの?」
祥子の目の前の席に座るクラスメイト──鵜沢美冬さん。
ぐるりと美冬さんが振り向いた。
拍子に、自然に切り揃えられたショートカットが、ふわりと揺れる。
「……え?」
「だって、プリント回したのに、ずっと祥子さん下向いてて。こっちに気付いてくれないんだもん」
少しだけ膨れてみせる美冬さんの手には、一枚のプリントが。
祥子は、気まずい思いでそれを受け取る。
考え事をしていたとはいえ、不覚極まりない。
つまり美冬さんは、後ろを向いて祥子にプリントを渡そうとして。
しかし祥子はそれに気付かずに。
しょうがないから美冬さんは、プリントを渡すことを諦めて、HRが終わった今、改めて手ずから渡してくれた、というわけだ。
祥子の席が、最後列だからこそ出来た技である。
つまり、HRの間中、考え事にふけっていたことになる。
「ごめんなさい……。ちょっと、考え事をしてたみたいで」
「最近、ずっとそうだよね。何か、悩み事?」
二年から三年に上がる際、クラス替えは行われない。
持ち上がりで、同じ面子で、もう一年間を過ごすことになるのがならわしだ。
美冬さんとは、二年生の頃から同じクラス。
二人とも、今は三年松組の一員である。
「悩み、というわけではないの。ただ、昔のことで……ええ。多分、昔のことなのよ。きっと」
「へー、昔の彼氏さんの事とか?」
おどけたように言う美冬さんに、祥子は顔をしかめてみせる。
その手の冗談は、あまり好きではない。
「冗談冗談。そんな、とんがらないでよ」
祥子が、この鵜沢美冬というクラスメイトについて、知っていることは少ない。
二年生の頃は全くの他人だった少女。
必要最小限しか会話を交わさなかった彼女のことを、二年生の頃は、『単なるクラスメイト』 として認識していた……そのはずである。
「祥子さん?」
こうも気安い口を利くようになったのは、そう、美冬さんが、髪形を変えてから、のように思う。
おかしな話だが、美冬さんが、今のようなショートカットの以前、どんな髪型だったのか思い出せない。
だから、直感的なものだった。
『美冬さんの髪型が変わった』
そう認識して以来、彼女は、祥子の視線のいたるところにちらつくようになった。
言動はやや幼いきらいがあるものの。
人懐っこく気さくな性格の彼女は、クラスの中心に居ることが多い。
多いのだが、
果たして、彼女は以前からそのように振る舞っていたか?
「何を悩んでるか、それが判らないってこと? 大丈夫大丈夫。思い出せない程度の悩みなんて、きっと大したことないんだから」
「そう……かしら」
「そうそう」
美冬さんは、何故か自身満々に、ぶんぶんと頷いた。
* * *
「そうそう」
私はぶんぶんと頷く。むち打ち上等である。
大好きな人の表情の曇りを取り払うためならば、私はいくらでも道化になろう。
もしかしたら、彼女の表情を曇らせているのは、私のせいなのかもしれない。
だが、既にそれは過去のこと。
彼女にとってはもとより、私にとっても、今では既に過去のこと。
それは、チャンスを逸し続け、一握りの勇気を出し惜しんだ、私自身が招いた結果である。
「そろそろ帰ろうよ。みんな、いなくなっちゃったよ」
「私は、薔薇の館へ行かなければ」
「じゃ、途中まで一緒に行こう。最近なにかと物騒だから、ボディガードということで一つ」
「なんなの? まあ、好きになさい」
ずっと引きずっていた想いをそっと仕舞い、新しい気持ちで歩む。
そうすれば、心はこんなにも軽くなる。
最近変わったねと、時折言われるのは、紛れもなくそのせいだ。
この先、私が口を閉ざせばきっと、祥子さんが私との思い出を、鮮明に思い出すまでは至らないのだろう。
けれど、それでも構わない。
「んじゃ、行こう祥子さん」
「……ええ、美冬さん」
祥子さん。
今は親しみを込めてそう呼べる。
ただそれだけで、私は夢のような満足感を得ることが出来るのだから。
了
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