■正しいナイフの使い方


 私はきっと憧れていた。
 まばゆいばかりの光の中、互いの手を取りながら歩むあの人たちに。
 彼女たちの、繋がれた手の環の中に入れなかった私は、きっと惨めだった。
 入れるチャンスはきっと、あったはずなのに。
 でも、入れなかった。
 だから、少なくとも惨めな人だと思われたくないから、そのために色々と手を尽くしたつもりだ。
 学園内の噂話で私の知らない事は無いし、友達だって沢山作った。
 それが仮に上辺だけ取り繕ったような友人関係でも、それすら持ち得ない惨めな人よりは、幾ばくかは惨めに見えないはずだから。
 でも、やっぱり私は、惨めな人だった。
 惨めな私は狂々と転がる抗いがたい運命に飲み込まれるようにして、今。
 こうして今、カッターナイフを憧れていた女の子に突きつけて、立っている。


 事の起こりはきっと、些細なことだったのだろうと思う。
 まったく、世の中どこでどう転ぶか判らないものだ。
 この世には沢山の歳若い犯罪者の人がいるわけで、今日も今日とてニュースでは、引きもきらずに青少年の犯罪が垂れ流されている。
 家庭環境が悪い。内向的な生徒だった。或いは普遍的な家庭に生まれ育ち、周囲には、「そんなことをするような子には見えなかった」、と評されようと、世間を賑わす犯罪を起こす事は有り得るのだ。
 明確な意志を持ち犯罪に手を染める子もいるのだろう。
 だが、しかし。
 本当のところは、単なる不幸な偶然が重なっただけなんじゃないかな、とも思う。
 たまたま良く切れるナイフを持っていた。たまたま憎らしく思っていたクラスメイトが居た。たまたま体育用具室に居て、たまたまマットが沢山あった。たまたまそのマットで、人間を巻いてみたくなった。
 そんな偶然なのかもしれない。
 今の私みたいに。


「……なんだ。そんな事だったんだ」
「ええ、そうなの。心配掛けて、御免なさいね」
「い、いやいや。いいっていいいって。私が勝手に心配してただけだもん」
 目の前にはふわふわとした綺麗な綿毛の女の子がいる。その人は桂のクラスメイトで、名前を藤堂志摩子さんと言う。
 慌しかった学園行事のラッシュ。体育祭に修学旅行に前代未聞の妹オーディションというイベントを経て、その疲労もあったのか、最近の志摩子さんは若干精細を欠いていた。
 でも、いつだって私は志摩子さんのことを見ているから、判る。
 志摩子さんの元気のない理由が、単なるイベント疲れだけではないということを。
 どうにも気になった私は、勇気を出して直接志摩子さんに疑問をぶつけてみた。そうしたら、

 ”悩みや心配事がなさ過ぎて、逆に不安だった。由乃さんや祐巳さんが妹問題で頭を悩ませているのに、自分だけこんなに平和でいいのかしら、と逆に不安だった”

 とのことだった。
 思わず私は拍子抜けして、その場に座り込みそうになってしまった。
 これでも睡眠時間に若干の影響が出るくらいに、志摩子さんのことを心配したのだ。
 彼女が内に篭りやすい性格だと云うのを私は知っていたから、また何か悩んでいるのかなあ。私じゃ力不足だけど、相談に乗ってあげたいな、と心底思っていたのだ。
 でも、その辺りは結果オーライということでひとつ。
 悩みがないのなら、それに越した事はないのだから。
「うん。じゃあ……」
 じゃあ、一緒に寄り道でもして帰らない? と、どさくさに紛れて志摩子さんを誘ってみようと、そう思ったときだった。
「あれー志摩子さん。まだこんなトコに居たんだ?」
 二年藤組の前の廊下で話していた私たち──正確には、志摩子さん一人に声をかける人がいた。
 私は志摩子さんに掛けようとしていた声を止められ、反射的に声のした方を見た。
 そこには、見知った顔が二つばかりあった。
 私たちに声を掛けた、島津由乃さんと、その後ろに少し遅れてついてくる、福沢祐巳さんだった。
 なんだか、急に醒めてしまったような気がする。
 邪魔された。
 追い払いたいと思った。
 そんな思いが渦巻いて、けれど実際には何も出来る筈は無く、私は何も言えなくなってしまった。
「なに志摩子さん。もしかしてまだ悩んでるの?」
 心底呆れたように由乃さんが言う。彼女の明け透けなものの言い方は、いつだって勘に触る。
「いえ、全然。むしろ悩んでるのは、由乃さんじゃないの?」
 志摩子さんらしからぬ、幾分挑発的な言い方だったのが意外だった。私は余りにも志摩子さんの事をしらな過ぎる。
 由乃さんの悩みとは、おそらくは妹に関することだろうか。
 妹。
 志摩子さんのことばかりで頭がいっぱいな私は、自分が誰を妹として迎え入れるかなんて考えられようはずもない。私は、由乃さんみたいに頭の回転が速くないから。
「あれ、桂さん。久しぶりだね」
「祐巳さん」
 ここにいたって、ようやく私は口を開いた。
 彼女とは決して浅い仲ではない。私だけがそう思ってるのかもしれないけど。
 祐巳さんと沢山お話していた時期もあった。まだ一年前のことなのに、ひどく昔の事のように感じる。
 単なるリリアンの一生徒だったはずの祐巳さんが、小笠原祥子さまに見初められて山百合会に身を投じることになったのが、今からちょうど一年前のことだ。
 それが、私と彼女の差だった。
 それだけが。
 それだけなのに。

 久しぶりに会った祐巳さんと話す事も、私になんて興味も関心も無さそうな由乃さんと話す事も、私にとっては大難儀なことだった。そして、彼女たちがいては、私は志摩子さんとはお話できない。
 気心の知れた人たちの中に一人混じってお話できるほど、私は強くない。
 私はただ、輪の外側からぼんやりと見ていることしか出来ない。
 私の事をおしゃべりな人だって思ってる人もいるかもしれないけど。
 実際には、私はそんな人間じゃないんだ。
 ただ、私にはそれしかないから。
 上辺だけで人と話す事しか出来ないから。

 私がくさくさとしている内にも、志摩子さんたちは私なんてはじめから居ないみたいにしてお話している。
「まーこないだみたいに、狂ったように爆笑モード入っちゃわなきゃいいんだけどさー」
「そんなことあったかしら? ねえ祐巳さん」
「う、うん。どうだろうね」
「うわ、この人恥ずかしい過去を無理やりもみ消そうとしてる」
 志摩子さんが爆笑とか、そういう話は私は知らない。
 知らないから、お話に加われない。
 ただ、はにかんだように見てることしか出来ない。
 ついさっきようやく志摩子さんの悩みを知った私だけど、祐巳さんも由乃さんも、きっともっと前からそれは知っていたんだろう。
 よくよく考えてみればそれは当然のこと。彼女たちは、友達同士なのだから。
 私がついさっきまで知らなかったのも当然のこと。なぜなら、彼女たちとは友達じゃないから。
 祐巳さんとはそれなりに親しかった時期もあったけど、一度疎遠になった関係というのは、なかなかに微妙なものがある。
 そんな距離感を気にしない人も居るみたいだけど、私はどうしても気にしてしまう。
 結局私は。
 私だけ。

 楽しそうにお話する三人を見てることしか出来なくて、たまにお話を振られても気の利いた事も言えなくて、ただ曖昧なことしか返せなくて。
 気が付けば私は廊下に一人きりだった。
 あの人たちとお話すれば、きっとこうなるだろうって予想はしていたけど、実際にそれを突きつけられると、結構しんどいものがある。
 なんで私だけが。こんな思いを味あわなければならないんだろう。
 初めから手に入らないと判っているなら、近づかなきゃ良かったんだ。
 結局私だけ弱くて。
 あんな風に強い人たちの中に混じることなんて、出来そうも無くて。
 それが悔しくて。
 私はいつしか、あの人たちの後を追いかけていた。
 ペンケースの中に入っているものをぼんやりと思い浮かべながら。
 理由も、意味も、そのときはきっと、わからなかったけど。


  *  *  *


「桂さん、落ち着いて。お願いだから」
「……」

 二つの顔が私の方を向いていた。
 一つは驚き、焦り、そして私に敵意を向けてくるものだった。
 もう一つは、私に対して、「落ち着いて」、と言った人のもの。
 私に対して落ち着いてと言うことで、自分も落ち着こうとしてる。そんな顔だった。
 緊張に顔を青ざめさせた、志摩子さんと由乃さんだった。
 元来二人とも、私に対してこんな表情を向けたりしない。
 どうしてこんな風に異常事態に陥っているのかというと、私の手によく切れるカッターナイフが握られているからだった。
 カッターナイフを突きつけて、二人を薔薇の館の会議室の壁際に、追い詰めているからだった。
 どうしてこんな風になったんだろうと、二人とも疑問に思っているはずだろう。
 当然だ。
 私自身ですら、そう思っているのだから。
 多分、偶然にもカッターナイフを持っていたからだろう。
 でなければ私は、いつものように諦めて一人帰路に付いていた筈だ。

 そう、全てはカッターナイフを持っていた所為だ。
 そう、本当はちょっとした冗談だった筈なのに。
 私だって、本気になるとちょっと怖いんだよ、ということを知って欲しかっただけなのに。
 ほんの冗談のつもりだったのに。

 冗談のつもりで追いかけて。
 冗談のつもりで、彼女たちの居るであろう薔薇の館の会議室を目指した。

 カッターナイフを手にしたまま会議室に踏み入ったら、席についていた志摩子さんと由乃さんは、ありえないものを目の当たりにしたような表情を浮かべ。
 誰かが紅茶の注がれていたカップを落して。
 流しから戻ってきた祐巳さんが、一瞬硬直して。
 その瞬間、由乃さんの目配せにより硬直の解けた祐巳さんが、会議室から脱兎の如く逃げ出した。
 ”外に知らせて。誰か呼んできて”と、そういう目配せだったのだろう。
 流行の少年少女の殺傷事件の存在感が、彼女たちの行動を鋭くさせたのだろうか。
 
 ともあれ、この瞬間、私はめでたく犯罪者となった。

 落ち着いて桂さん、と、志摩子さんがそう繰り返す。よほど私に落ち着いて欲しいと見える。
 あくまでも平和的に、中立に、中和を目指す志摩子さんらしいといえばらしい。
 私の好きな志摩子さんだ。
 充分に私は落ち着いていて、現状を把握していたけど、傍目にそう見えないのも無理はあるまい。
 図らずすも私は、人質をとって薔薇の館に立てこもった形となり、やがて騒ぎを聞きつけた学園側からの要請により、機動隊だの何だのものものしい人たちに私は確保されて。
 それで終わりだ。
 そこから先などない。
 犯罪者というレッテルは、生涯消えないのだから。

 喪失感は遅れてやって来て、それは決して浅くないものだったけれど、意外にも私はさばさばとしていた。
 普段うじうじと考え込んでしまう人間は、ここ一番で開き直る性質でもあるのだろうか。
 どちらにせよ、もう後戻りは出来ない。

「……」
「そんな目で見ないでよ、由乃さん。こわいこわい」

 負けん気の強い由乃さんは、相変わらず凄い目つきで私の事を睨んでいる。
 この人は、油断のならない人だから。
 今だってそう、私が手に持ったカッターナイフを、どうやって奪い取ろうかとか、そういうことを虎視眈々と考えているに違いない。
 だから、油断してはならない。
 やれやれ、いっぱしの犯罪者気取りだなあ、私も。

「……目的は何?」
「目的?」
 そうだなあ。
 こうなるに至った経緯などを鑑みると、細やかな理由や要因は沢山あって、どれか一つを挙げるのは難しい。
 だから、しいて言うなら、
「なんとなく、かな」
 馬鹿にされたと思ったか、由乃さんの瞳の奥に、より一層強い怒りの焔火が灯る。
「なんとなく、ついかっとなって、って感じじゃ駄目かな?」
「アンタ……!」
 きっと後で警察の人に尋問された時も、私はこう答えるのだろう。
 なんとなくやった、って。
 つとめて冷静でいようとしたらしい由乃さんは、私の言い分が相当気に入らなかったらしい。
 目的意識のはっきりしている彼女と、いつだって曖昧な私とは、こんな時でも水と油なのだろう。
 今にもつかみかからんばかりだった由乃さんは、しかし未だ理性的だった。
「ふん、どうせ理由は志摩子さんなんでしょうけどね。ミエミエなのよ」
「……」
 それもある。けど、それだけじゃない。
 志摩子さんが目的ならば、当の志摩子さん本人に刃を向けたりはしない。
「志摩子さんと楽しそうにお話してる私たちが羨ましかった? それとも憎らしかった?」
「……」
 それもあるだろう。でも、まだそれだけじゃ足りない。きっと。
「へえ、私とは話す口も持たないっていうの? まあいいけど。私、桂さんに興味なんて無いし」
 そう言うと、由乃さんは志摩子さんの方を顎で指し、
「話したいなら話せばいいじゃない、志摩子さんと。今なら誰にも邪魔されないわ。私はあっち向いてるから、どうぞお話だって何だって、気の済むまで……」
 気に食わなかった。
 私の事を格下のように見下すのは結構だ。
 そう、私だけなら。
 けど、

「お前が」
「ん?」
 
──お前なんかが志摩子さんまで見下したように!!

 振り上げた右腕とカッターナイフは軽かった。
 由乃さんに駆け寄る両足も、決して重くは無かった。
 けれど、こんなのはきっと、間違ったナイフの使い方だ。
 こんなことをしたいがために、私はカッターナイフを手にしているわけじゃないんだ、きっと。
 でも今の私は、ちょっと逆上していた。
 心無い事を言う由乃さんを、このナイフで傷つけたいという衝動が、爆発してしまった。
 頭の回転は速いけど、身体機能が人並み以下の由乃さんは、絶好の標的のように見えた。
 腕か、身体か、それとも、その驚愕に歪んだ顔か。
 どこでもいい。
 ナイフの刃が届いてから考えよう。

 だが人は、そうそう刀傷沙汰などには持ち込むことは出来ないらしい。
 由乃さんまであと1メートル付近まで迫った私は、しかし横っ腹に凄まじい衝撃を受けて、壁の本棚のところまで吹っ飛ばされた。
 衝撃でカッターナイフを落してしまい、おまけに本棚に激しくぶつかった所為で痛くて全身に力が入らない。

「こいつッ!」

 床に崩れ落ちた私のおなかに、重く鋭い衝撃が走った。
 由乃さんの声だった。
 どうやら彼女に、つま先で思い切りおなかを蹴られたらしい。
 息が吸えなくなって何も考えられなくなって、胃の中のものを戻しそうになる。
 それでも私は、さらなる衝撃に備えて身体を蹲らせた。
 だがしかし、それ以上の衝撃はやってこなかった。

 私が顔を上げると、そこにあったのは意外な光景だった。
「これ以上はやめて、由乃さん」
「な、何言ってるのよ志摩子さん。私、こいつに殺されそうになったのに」
 由乃さんは、志摩子さんに身体の半分を抱えられるようにしていた。
 二人の体格は殆ど同じだけど、体力と筋力の差で由乃さんは動けない。
「それは、私が阻止したから」
 なるほど横っ腹への最初の衝撃は、志摩子さんのものだったのか。
 辺りを見ると、若干テーブルが傾いでいることに気付く。
 おそらく志摩子さんは、壁際からテーブルに飛び乗って、そこから私に飛び掛りタックルをしたらしい。
 あの一瞬で。
 何気に身体の利く人だ。
「そういう問題じゃないでしょ! そりゃ、助けてくれたのは感謝してるけど……野放しにしてたら、またナイフで、あ!?」
 私も由乃さんも、きっと気付いたのは同時だった。
 私は、あのカッターナイフを手にしなければと。
 由乃さんは、あのカッターナイフを排除しなければと。
 しかし、ナイフは思いがけず傍にあった。
「ああ、これ?」
 ナイフは、志摩子さんの手の中にあった。
 刃を仕舞うこともなく、無造作に刃物を携えた志摩子さんは、アンバランスで、非現実的で、そして綺麗だった。
「は、早くどっかやってよ、それ。窓の外にでも放り投げて」
「どうして?」
「だって、そんなもの残しといたら、また……」
 ちら、と私を一瞥し由乃さんが言う。
 私は相変わらず床に半分這いつくばったままの無力な体勢だったけど。
 それでも、一度凶行に及んだ人間だから。
「人のものを勝手に捨てるのはよくないわ」
「志摩子さん……!」
 私の前までつかつかと歩み寄ってきた志摩子さんは、あろうことかそのカッターナイフを、私の方に差し出した。
 刃の方ではなく、柄の方を向けて。
 私は、半ば無意識にそれを受け取った。
 それは、驚くほど手に馴染んだ。
 志摩子さんは、当たり前のような顔をしている。
 由乃さんが何かがなり立てるのが聴こえたが、あまり耳には入ってこなかった。
 志摩子さんは言う。
「私は、桂さんのこと信じてるから」、と。



未完

解説
 これは酷いSS、ひとでなしのSSです。完結しなくて良かったです。この後結局、志摩子のことを信じた桂さんは、重要な局面でミスをし、進退窮まった状況に陥る。最後はナイフで自害しようとするが覚悟が足りなくてためらい傷程度にしかなれず、気付いたときには病院にいる、という無意味なダークでした、確か。






▲マリア様がみてる