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 島津由乃は、剣道部の部室で一人、立ち尽くしていた。
 机の上に置かれた、ごく普通のスポーツバッグ。紺色の、何の変哲もないそれは、由乃が先月、剣道部へ入部した際に、スポーツ用品店で購入したものだ。
 最近では、そろそろこの、大きい鞄にも慣れてきたな、と、由乃は思っていたところである。
 
 それが、無造作に開かれていた。
 何の遠慮もなしに、ジッパーが開けられており、その中に入れておいた、着替えや、スポーツ用タオルは……床に、乱雑に投げ出されていた。
 ぱっと見にそれは、痛々しい。
 蹂躙され尽くした、という言葉が、頭の中に浮かぶ。
 由乃は、目の前の光景に、ぎりり、と、奥歯を鳴らした。

 ──何でもない、いつもの部活だった。
 竹刀と竹刀が、ぶつかる音。素足が、床を蹴る音。そして、少女たちの掛け声。
 そんな中で由乃は、基礎メニューを、淡々と繰り返す。
 ランニング、ストレッチ、筋トレ。そうして最近ようやく、実際に竹刀を用いての、素振りをさせてもらえるようになった。
 不満はない。判り切っていたことだから。
 剣道どころか、運動さえ、今まで全くやらなかったのだ。そんな自分が、いきなり経験者と打ち合えば、下手をすれば、腕の骨が、それだけでいかれてしまうだろうし。
 まあ、これは、姉の言葉の受け売りだけれど。
 ちなみに、あてがわれた練習メニューを完遂できるのは、他の剣道部員が、あらかた引き上げた後になる。
 一人剣道場に残り、黙々と練習メニューをこなす由乃に、姉である支倉令が、付き添ってくれることもある。いろいろと縁のある、田沼ちさとさんが、付き添ってくれることもある。もちろん、由乃一人の時も、ある。
 メニューを終えて、荒い息を落ち着かせて、顧問のところに顔を出して、着替えて、帰宅する。
 そんな日が、一週間に、三日。後の三日は、薔薇の館で山百合会のお仕事に精を出す。令ちゃんも、大体同じスケジュールで動く。まあ、あちらは一年生の指導役でもあるから、由乃と全く同じというわけにはいかない。
 けれど、部活を行う三日間のうち、最低一日は、令ちゃんと日をずらすようにしている。何故かといえば、あんまりべたべたしているのは、他の部員に、いい印象をもたれないと危惧したからだ。
 ま、初めからいい印象は、持たれてはいないようだけど。
 由乃は、自分でも理解しているが、とにかく立場が微妙だ。
 通常、部活の入退部は、年単位が慣例だ。二年生も中盤に指しかかろうという時期に、部活に入ろう考える者は、殆ど居ない。というか、皆無。由乃を除いて。
 しかも、ロサ・フェティダ・アン・ブゥトンという、偉そうな肩書きのおまけつき。そして、姉たる支倉令は、剣道部のエース。
 部員たちに、色眼鏡で見られるのも、無理はないと思っている。
 まあ、それはしょうがないことだ。ゆっくりと、やっていくしかあるまい。
 
 ……状況描写が長すぎたかな。
 とにかく、今日は、何の変哲のない平凡な部活だった。そうなる筈だった。
 今日は、令ちゃんが薔薇の館に赴いており、由乃は、部活動に精を出していた。
 何とか練習メニューを終えて、顧問に報告して、よろよろと部室へ向かった。


 ──そうして、この状況である。
 由乃の鞄の中身は、無残にも床にぶちまけられており、幸いにも、裂かれたり汚されたりはしていなかったが、それでもショックには違いない。
 部室の中には、誰の姿もなく、当然、由乃の私物と、あとは剣道着や竹刀が整然と、並べられているだけの簡素な空間だ。
 その中で、バラバラ殺人の如く散乱した、タオルや着替え、その他プライベートな品々。

 由乃は、ただ一人立ち尽くす。
 心を落ち着けて、目の前の現実を、理解しようとする。
 ……大丈夫、自分は、取り乱したりしていない。今の自分はまだ、冷静な判断力を失っていない。
 逡巡、そして結論。
「……もしかして、イジメ?」
 無論、答える者は、誰も居なかった。


  ◇


「……そうなの。鞄が勝手に開けられてて、中身が荒らされてた……んッ、無くなったのや、傷ついてたものはなかったけど……んんっ」
「ふむふむ。あれ、そういえば……っしょっ、と、前もそんなこと、言ってなかったっけ?」
「ッ……! え、ええ。あれは、ここに入ってすぐの時ね。鞄の中身がかき回されていて、めちゃくちゃになってた。なってたけど、それがきちんと、鞄の中に詰め込まれてたの……痛ッ! もうちょい、弱くして……。うん。そのときは、表向き、なにごとも無かったかのように、整えられてたの。でも、今回は……ッ!?」
「鞄の中身が床にばら撒かれてる、ってのは、穏やかじゃないよね。昨日、私が部室に戻った時は、なんともなかったのに。由乃さんの鞄は、そのままだったよ」
「じゃ、じゃあ、あなたが着替えて、部室を出て、そして、私が部室に入るまでに、犯行は行われ……いっ、痛い! お願い、もっと、やさしくして……」
「んふふ、もう限界かね? ならばこんなのどうかしら。ほうら、ほら」
「んあアあぁっ……!?」
 こらえきれない嬌声が、口元からこぼれ出す。

 ……断っておくが、別に、いかがわしい行為の真っ最中、というわけでは、断じてない。
 ここは剣道場。ただ今、部活動の真っ最中。
 由乃は、ここ剣道部において、数少ない理解者であり、よき友でもある、田沼ちさとさんと組んで、柔軟体操に励んでいた。
 これは別に、由乃だけの、初心者向けメニューというわけではない。
 見渡せば、剣道部十数名の女の子たちが、規模の大きい輪を作り、それぞれ二人一組で、三々五々、柔軟体操に余念が無い。
 まあ、由乃たちのように、むだ口を叩きながらの人間も、決して少なくは無いが。というかそれが、大多数だ。

「ふう。由乃さんって本当、身体、固いわねぇ。開発……もとい柔軟のしがいがあるよ」
 手をわきわきと、ちさとさん。あまりにも乙女らしくない仕草は、正直、控えた方がいいと思う。
「悪かったわね。どうせ私は固いわよ。頑固よ。石頭よ」
「そこまで言っていないけど……」
「それに、あなたの手つきがね、その、つまり、何と言うか」
 柔軟体操は、いつもちさとさんと組んで行う。というよりも、由乃と組みたがる人間が、いないのである。いや、いなくはないかもしれないが、声をかけられたことは一度も無い。
 だから、ちさとさんが気を利かせてくれて、率先して、声をかけてくれて、柔軟してくれちゃうわけだ。
 問題なのは、その柔軟ぶり。
 身体の固い由乃を、限界ぎりぎりややアウト気味まで、追い込んでくれる。それは、真綿で締め付けられるような感覚だ。
 けれど手触りは、あくまでソフト。滑らかに、身体の上を、彼女の手が踊る。けれどそのくせ、かけられる力は、平均的な女子高生のそれではない。やわな由乃では、抗おうにも抗えない。それほどの圧力を、遠慮なくかけてくる。
 ぐいぐいと、或いはさわさわと押し込まれて、痛覚はあるが、後に待っているのは、それを遥かに上回る爽快感。体中の筋と言う筋が適宜に伸ばされて、尚且つ程よく、身体の芯まで温まっている。
 クルマに例えるなら、リッター当たりウン万円のエンジンオイルを、入れてもらった後……みたいな。
 ただ一つ問題なのは、その、とにかく、上手すぎる。上手すぎて、怪しさが炸裂しているところにある。
 ちさとさんは、全身をつかって、由乃の身体を、押したり引いたり曲げたりしてくれる。
 そして、そのたびに、彼女の胸が、遠慮なくふにゃりと押し付けられる。察するに由乃よりも随分と立派であろうそれを、自慢したいという腹なのだろうか。
 ともかく、押し付けてくるのだ。
 しかも、こっちの身体──うなじから肩口、背骨を通りおなかに回ってへそのあたり。そこから登って、胸いってわき腹いってお尻のあたり行って、ふともも、ももも、もものうち。ワケワカラン。ひざがしら越えて、すねとふくらはぎ同時進行。そうして、足の甲と裏で、文字を描くように指が踊り、最後に足のつま先を、指先一つでちょこんと弾く。
 そう、触れてない部分なんて、手術痕あたりと、それこそアノ部分くらい……。
 しかも、喋る時には、耳元で囁くように。吐息までかかる。そのたびに、身体が震える。彼女に気取られないように振る舞うのに、必死だ。
 ……いささか妙な気分になるのも、致し方ないだろうと、健康な女子の一人として、思う。

「そのへん、どうなのよ。私のこと、誘ってるの?言っとくけど私、極めてノーマルだから。そういうのは他を当たってね」
 ぶっちゃけて、言った。
「私だってノーマルよ……でも、そうね。必要以上に由乃さんの感覚、刺激するのも考え物ね。でも私は、やめるわけにはいかないのだった」
「のだった……って、コラ。舐めたこと言ってくれるのね。柔軟体操で身体が火照るのはいいんだけど、違う意味で火照るのは、ちょっとどうかと思うのよ」
「だってねえ……」
 由乃のすごみなど露知らず、といった風に、ちさとさんは、こちらの身体を、なめるように見回してくれる。微かに、瞳が濡れているように見えるのは、果たして気のせいか否か。
「令さま」
「んえ?」
 予想外の単語に、素っ頓狂な声を出してしまう。
「令さまが、あなた──由乃さんの身体に触れて、そして、その後に、この私が触れる。それは私にとって、このうえない快感なのよ。この気持ち、あなたに分かって?」
「さ、さあ?」
 正直、分かりたくない。
 妄想癖のある友人は、祐巳さんだけで手一杯、おなかいっぱい。充分、間に合ってます。
「でもねちさとさん。令ちゃんだって、私の胸やお尻なんて、触ったりしないわよ。それじゃ単なる変態さんじゃないの」
「へえ、全然?」
「全然」
「全く?」
「全く」
「それじゃあ、いいのね?」
「い、いいけど」
 蛇が迫るような動きで、ちさとさんは、にじりよってきた。緩慢な、けれどそれでいて急流なスピードに、由乃は反応できなかった。
 そして、ちさとさんの右手が、由乃の左胸の前で、ぴたりと止まった。
「!?」
「甘いわよ。ここだけは、誰にも触らせちゃあ駄目でしょう? 令さまを除いては。大切な大切な、由乃さんの勲章」
 左胸の傷。心臓の、傷。
「ここの傷に触れたのは、きっと令さまが一番よね。それは多分、あなたよりも。執刀医の人とか、看護婦さんとか、空気中の細菌とか、そういう野暮なのはなしで、ね」
「……ええ、そうだけど」
「そこに触れても、いいかしら?」
 猫なで声で、ちさとさんは言う。表情もまた、然り。
 一見、人のよさそうなその表情の裏には、誰にも見せることが出来ない妄想が渦巻いているのを、由乃は知ってしまった。
「ね、ちょっとぐらい、いいでしょう?」
「絶対ダメ」


  ◇


 結論から言って、今日の部活は、始まりから終わりまで、平穏無事にコトは済んだ。
 特別メニューを、由乃は居残りで黙々とこなす。
 そして、それに付き合ってくれた友人が居たことが、なによりも平和と平穏の象徴ではなかろうか。
 由乃の鞄が辱められることも無く、五体満足で、帰路につくことが出来た。
 家に着くまでが部活とは、良く言ったものだ。
「言わないよ、由乃さん。大丈夫? 最近ちょっと疲れてない? マッサージとかしてあげようか? ほらほら、遠慮すること、ないんだぞー」
「猛烈に遠慮させていただくわ」
 柔軟体操でアレなのだから、マッサージなんて……想像するだけで、どうにかなってしまいそうだ。
「それにしても、今日はよかったね。鞄も無事だったしさ。あれは。外部の人間の犯行だったのかな?」
 つとめて明るい声で、ちさとさんは言う。しかし、この事件がそれほど甘いものではないということを、由乃の直感が告げていた。
「……今日は令ちゃ……お姉さまが部活に出ていたし、なにより、最後までちさとさんが私に付き合ってくれたから。だから連中、動かなかったのよ」
「? どういうこと、それ」
 先ほどとはうって変わって、深刻な顔を向けてくるちさとさん。由乃は、話すか話すまいか逡巡し、そして結局──

「ちさとセンパイっ!」
 空を切る、メゾ・ソプラノの声に一瞬、身体を思い切り震わせた。
 よく通る、澄み渡るような声。二人の後ろから駆けて来た少女に対する、第一印象が、それだった。
「葉子じゃない。どうしたの、そんな血相を変えて」
「ヨウコ……?」
 先ごろ卒業されたあの、ミス・パーフェクトの、隙のない笑顔が一瞬、頭の中をよぎる。
「ああ、水野蓉子さまじゃなくて、この子は、藤原葉子(ふじわらようこ)って言うの。合唱部で、中等部の頃の、部活の後輩」
 ちさとさんが説明してくれる。
 なるほどちさとさんの後輩か、ならば無下にも出来まい。とりあえず余所行きの挨拶をしようと、由乃が微笑みかけようとした瞬間、
「……」
 物凄い目で、睨まれた。驚いて、用意していた言葉を、全て忘れてしまった。
「……島津由乃さま、ですね。お話は伺っております。初めまして、一年の藤原葉子といいます」
 その態度は、あんまりだ。
 あんまり過ぎてつい、由乃は笑ってしまった。
「な、なにがおかしいの……! ですかっ?」
 なるほど光る稲光、とは、まさしくこんな時に遣う言葉なのだろう。が、そんなことはどうでもいい。
 ああ、そんなに睨まなくても、邪魔者は退散するから。
 要するに、この子──葉子ちゃんは、センパイであるちさとさんのことが、たまらなく好きで。
 だから、ちさとさんと肩を並べて歩く由乃の存在が、親の仇の如くおもしろくないわけだ。
「そういうわけだから、ちさとさん。私は教室寄って忘れ物取って来るから、あなたは先に行って頂戴」
 一瞬だけちさとさんは、悩み顔を浮かべる。直後に、眉がハの字になり、何かを紡ごうとして口が動き、そして結局、苦笑いを浮かべて、挨拶をして、葉子ちゃんと供に、廊下の向こうへ消えていった。

「……さてと、私はどこで時間を潰してようかな」
 あんな風に睨まれて、あからさまに敵意を剥き出しにされたのに、何故だかとても、心地良い。
 直接的な感情表現は、由乃の好むところ。
 鞄に鬱憤をぶつける、低俗な連中に比べれば、その差はもはや、光年単位と言って差し支えない。
 足取りも軽く、由乃はうきうきと、校舎内を散策して回った。


  ◇


 その日の夜、島津家の電話が鳴った。
 風呂上りで、さっぱりとした気分で、由乃は受話器を取った。すると、
「その声は由乃さんね? こんばんわ〜っ。あなたの親友にして良きライバル、田沼ちさとさんで〜すっ。呼ばれて飛び出て、じゃじゃじゃじゃ〜ん」
「番号を、よく確認してください」
 がちゃりと、受話器を置く。
「なんだなんだ、今のは」
 そして再び、電話がけたたましく鳴る。一寸置いて、由乃は受話器を取った。
「はい、もしもし」
「ひっど〜い由乃さん。番号、間違ってるわけないじゃない。それなのに、いきなり切るなんてっ」
「……じゃあね、おやすみ」
「ああ、ちょっとちょっと、待ってよ切らないでよ。大切な用事があって、わざわざ電話したんだから。部活の連絡網まで、引っ張り出して」
「それはご苦労様。でもね、いーい、ちさとさん。私たちって、こうして夜遅くに電話越しに長話するほど、親しかったかしら?」
「またまた、ご冗談を。そりゃあ、志摩子さんや祐巳さんに比べれば、あなたとの親睦度は低いでしょうけど、こと、『剣道部内』 に、限って言えば、、田沼ちさとは、島津由乃の、唯一無二の親友、じゃない? そう、それこそ文字通り、ね」
 むう、否定できないのが、辛いところではある。
「別に。私には、令ちゃんがいるもん」
「ふっふっふ。そのセリフ、うかつに使っちゃダメよ。そんなこと、部活動中に言ってごらんなさい。一部の人間どころか、全部の人間から、三白眼向けられることになるから」
「ふん。そんなこと、あなたに言われるまでもないわ」
 これは、紛れも無く、二人だけの秘密のお話。そういうものを交わしている時点で、二人は既に親しいのである。
 けれどそんなこと、あえて意識するものでもない。祐巳さんならともかく、相手への好意をあけっぴろげに出来るほど、由乃は、お人好しではないのだ。
 だから由乃は、つとめてぶっきらぼうに。
「んで、こんな雑談交わすための電話じゃあ、ないんでしょ? 用件はなによ、用件は」
「ふふふ。用件は、これ」
「これ?」
 これと言われても、由乃の目の前にあるのは、どこかのオマケで貰ってきた、メモ帳がちょこんと鎮座してるのみ。
「分からないの? 推理しなよ、推理」
「舐めんな。これってのは要するに、電話。つまり今私たちが交わしている会話に、他ならない。そうでしょう?」
「ブラボー。さすがね」
「分からないのは、どうしてこれが、用件なのかと言うことよ」
 含み笑いが聞こえる。そして、
「なんと、この電話、実は私、携帯電話からかけているのですっ」
「……」
 リアクションに窮する、由乃。そして、結局思いついた言葉といえば、ただ一つ。それは、
「おやすみ」
 慌てたように、待って待ってと、がなりたてる電話の向こうのちさとさん。

「……まったく、由乃さんって、気が短いんだから。こんなものは前振り、枕詞みたいなもんよ。ま、携帯買って貰って、嬉しかったってのも、あるけど」
「んで、電話料金も親御さんに払ってもらう、と。まったく能天気でいいわねえ。親のスネを、ガジガジと」
「一応、限度額は家族会議で定めたわ。超過分は、どこかで補うという取り決めの元に」
 聞けば、手に入れた携帯電話でかけた相手は、何と由乃が最初だったらしい。無論、電話帳に登録したのも、最初。
「あきれた。初めては、本当に好きな人のためにとっておけばよかったのに。、それを、一時の気の迷いで私なんかに捧げちゃって」
「大丈夫。後悔しない」
 とまあ、こんなむだ口は、正直どうでもいいのである。

「ほら、今日、学校であなたが言いかけてたことが、あったじゃない。えーと、なんだったっけ」
「記憶にございません」
「茶化さないで。確かあなたは、こう言った。『今日は令ちゃんがいたし、最後までちさとさんが付き合ってくれた。だから連中、動けなかった』 ってね」
 しっかり覚えているではないか。
「連中って、誰と誰のこと」
「……」
「言いなさい」

 ──連中というのは、剣道部の、とある仲の良い三人組のことだ。
 二年生である彼女らは、一人を除いては、姉である支倉令に憧れて、剣道部に入部した、らしい。
 彼女たちの名前が確か、佳子(かこ)さん、君子(きみこ)さん、そして、忍(しのぶ)さん。
 上の名前は、正直、知らない。自己紹介はしたはずだけれど、記憶の彼方に追いやられた。
 ぱっと見では、ごくごく普通の少女たちのように、思う。
 けれど由乃は、忘れもしない。
 剣道部に正式に入部したその日、由乃は、皆の前で自己紹介をした。内容は、平均的なものだったと思う。つつがなく始め、つつがなく終えた。
 その後、ぱちぱちと鳴る拍手。ある者は面倒くさそうに、またある者は、よそ事を考えながらの、形だけの拍手。だがまあ、自己紹介に対する拍手が、喝采でも、困る。つまりはそういうものだ。
 だが、件の三人。
 拍手もせずに、かといって別のことを考えている風でもなかった。
 彼女たちは、じっと、由乃の方を見つめていた。
 静に、由乃のことを、睨んでいたのだ──。

「……ふぅん。忍さんたちか。私の目には、彼女たちは、そんなことするような娘たちとは、映らなかったけどな」
 聞けばちさとさん、三人のうちの一人、忍さんとは、去年同級だったとか。曰く、それなりに親しい、ごく普通の、元クラスメイトだと言う。
 忍さんという人は、とてもそんなことをするような人じゃないという。
「ま、忍さんはそうかもしれないわ。でも、他の二人のうちのどちらかがイニシアチブを取って、あるいは二人が、率先して私の鞄を、辱めたのかもしれない」
 由乃は、彼女たちを、剣道部に入ってから知った。だから、余計な先入観に縛られない。自己紹介の時のあの視線、あれは、明らかに度を越した、悪意、害意、そして敵意を感じた。
 それ以降、今日にいたるまで、彼女たちとは一度も口を利いていない。
 明らかに、由乃のことを避け、近付かぬよう、彼女たちが振る舞っているからだ。
 他の人間たちとは、まだまだ親しくないものの、それなりに会話は交わす。
 しかし、彼女たちとは……
「一言も喋ってないし、向けられる視線もそのまま。正直、肩こっちゃう。自意識過剰なだけなのかも、しれないけどさ」
「まあ、即断は禁物よ。由乃さんなら大丈夫だとは思うけど、いきなり彼女たちに、面と向かって問い詰めたりしないようにね」
「んなの、当たり前じゃない。動かぬ証拠とともに、彼女たちに、自らの罪を突きつけてやるわ」
 そこで、鞄に関する話は打ち止めとなった。あとは、雑談に終始する。主にむだ口が多いのは、まあご愛嬌だ。
 
 結局二時間以上話しこんで、お開きとなった。
 電話料金のほうが結構ヤバイのではないかと、由乃は心配をしたが、案の定だったらしい。それによってちさとさんは怒り、(自業自得だと、思うが) 由乃にいいがかりをつけてきた。
 何で、早く切ってくれないのか、と。
 その時に、二人の仲は多少険悪なものになるのだが──それはまた、少し先の話。別の話である。


  ◇


 そうして、いよいよこの辺りから、むだ口など叩いていられる状況では、なくなった。
 由乃にとって、本格的に物語がつまらなくなり始めたのが、翌週の月曜日からにあたる。

 その日は、姉は山百合会の仕事に赴いており、ちさとさんは、体調がよくないということで、今日は早退だった。
 だから、ある程度の予感はついていたのだ。
 由乃は一人、部室のドアの前で、立ち尽くす。
 何を自分は恐れているのか。
 リリアン女学園において、自分が恐れるものなど、何一つ無い。
 
 能面のような表情で、由乃は部室の扉を開いた。かちゃりと、無味乾燥な音を立てて開かれた、その先には。
「はぁ……」
 予想通りの光景が広がっていた。
 あまりに予想通り過ぎて、知らず、溜め息ももれる。
 無造作に開け放たれた鞄。痛々しい光景。鞄の中身は空っぽ。目を背けたくなる。散乱した中身。部室一杯に由乃の私物が、投げ出されている。部屋に人影は無く、しんと静まり返っており、ただ由乃の吐く息の音だけが、無情にも響き渡り──
「ああ、もういいから、もう、結構」
 何かを手で制す。
 何だろう、正直、どうでもいい。どうでもよくないのは、目の前の光景だ。
 氷のような表情で、由乃は一人、呟く。
「そろそろさ、反撃してもいい? 待つのは性に合わないのよね」
 答える者などいない、一人きりの部室の中で、由乃は、目の前の光景を網膜に焼き付けるかの如く、いつまでも、睨みつけていた。


「……んで、いきり立って私の家に来たという訳ね。どうでもいいけど、私とあなたって、お友達だったかしら?」
 どこかで聞いたようなセリフを、目の前の少女──田沼ちさとさんは、いたずらっぽい表情で言った。
「だって、お友達って言わないと、おうちの方が不安がるでしょう?」
 このやりとりの既視感はとりあえず、無視。
 唯一違っていることといえば、今回は、ちさとさんの家で、由乃が玄関に立っているということと、
「友達として、ちさとさんに、この事件の真相を暴くのを、手伝って欲しい」
 いつぞやの時になかったもの。
 二人の間に、友達としての絆が、芽生えていたことだろう。
「了解したわ。こんなちゃちな事件……事件と呼ぶにも、あなたにとってはおごましいかもしれないけど、由乃さん、あなたならこんな事件、一人でも解決できる筈。島津由乃に、やられっぱなしは、似合わない。だから、けれど一人で動かなかったのは、あなたなりの配慮。私を引き入れることによって、私に対して、特別感、優遇感を、与えようとしていた。あなただけは私にとって特別よ、って、そういう意味を、孕んでいるのね。とても不器用なやり方。実にあなたらしい。けれど私は、そんなあなたの優しさが堪らなく……」
「いちいち説明するんじゃないわよっ!!」
 人の家の玄関で、由乃はつい、激昂して叫んでいた。
 ああもう、気に食わない。普段は飼い犬のように擦り寄ってくるくせに、ちょっとでもこちらが追えば、意地悪くはぐらかす。
 しかも、由乃の本音の部分を、ちくちくと刺してくるのがまた、なんともいえない不快感。
「……というかあなた、早退したんでしょう。こんなところに突っ立ってて、平気なの?」
「うーん、家に帰ってきてずっと寝てたから、治ったみたい。まあ、よくある風邪でしょう。少なくとも、あなたより優先されることではないわね」
 そんな、歯の浮くようなセリフを、よくも、まあ。

「……でも、またやられたか。いい加減無視できないわね」
「そうね。いくつか策はあるけど、ちさとさん、あなたならどうする? どう、動く?」
「私も、それなりに考えてはいたの。とりあえず、今日中に纏めておくから。詳しいことは、明日ってことで。んで、どうする? 上がる?」
 少しだけ迷って、由乃は答えた。
「遠慮しとく。事件が全部解決した時に、改めてお邪魔させていただくわ。作戦を立てる、なんてものものしい為じゃなくて、一人の──」
 友人として、と、由乃は言おうとした。けれど、言えなかった。
 何故なら、ちさとさんの表情が、あまりにもにこやかで、由乃の言おうとしていることを、とっくに見通している、そんな表情だったからだ。
「なになに? 続き、教えてよ」
「……じゃあね。お大事に」
「あーん、ちょっと待ってってばー」
 
「ああもう! 祐巳さんだったら、きっと……」
 きっと、由乃の言葉を、まるで不意打ちのように受け止めて、顔を赤くして、うろたえるだろう。そんな彼女の正直な態度が、由乃は大好きだ。
 けれど、ちさとさんは、カンが鋭い。
 大抵のことが、見透かされてしまう。
 だから、何となく悔しくなって、さっきだって、言いたくなくなってしまったのだ。
 それは、不愉快だ。会話のイニシアチブが取れないのは、正直言って、不愉快。
 不愉快ではあるけど、
「……まあ、新鮮ではあるわね」
 悔し紛れに、由乃は一人、夕暮れ時の空に向かって、呟いた。



 2

 二度目に鞄を荒らされたあの日から数日。
 今日は、決行の日。
 そして、反撃の日。
「仏の顔も三度まで。もし、今日も荒らされたなら、実力行使に出るわ」
「報復の基本は倍返し、だものね。由乃さんの場合」
「人聞きの悪いこというのね……別に私は、そこまで鬼じゃないわよ」

 今日は姉の支倉令は、部活動には出席せずに、薔薇の館に赴いている。だからこそ連中は、必ず不埒を働く筈だ。
 今までの犯行を分析してみると──

 ・犯行は、支倉令が居ない日に行われている。
 ・由乃が、一人で残っているときに行われている。

 この二点。これらが、犯行の前提条件となっているらしい。
 だとすれば今日、令ちゃんが不在な今日こそが、犯行が行われるであろうと、由乃は分析、推理した。
「ま、推理ってほどのことでもないわね。でもさ、こんなものを用意する必要はあったのかしら? ねえ、ちさとさん」
 目の前のちさとさんは、自身ありげに頷く。
 そして、彼女の手には、一つのデジタルビデオカメラが握られていた。
「彼女たちが、由乃さんの鞄を食い散らかしてるところに踏み入って、現行犯逮捕、とかも考えたんだけど、ちょいリスキーなのよね。こっちは二人、向こうは三人。正直言って、ちょっと分が悪いわ。私は、あなたを守りながら立ち回れるほど、強くない」
「ふーん」
 別に、向こうが暴力に訴えるとか、決め付ける必要はないのに。
 それに、自分の身は、自分で守る。
「ま、そうは言っても、こんな際どいことをするんだから。慎重に越したことは、無いと思うの。事実を暴かれた彼女たちが、かっとなって、私たちの口を塞ぐかもしれない。誘拐犯が、人質を殺したくなるのと同じ理由かしら?」
「いや、ほんのり違うと思うけど……」

 ──慎重に越したことはない、というちさとさん提案の策は、以下のものだ。
 本日、部活動開始前に、部室にビデオカメラを仕掛けておく。
 由乃はわざと最後の一人になるまで残り、ちさとさんは、先んじて、部活終了時に、帰宅する……ふりをして、校舎内で、隠れ待つ。
 遅れて、由乃は何も知らないふりをして、部室へと戻る。

「……シンプルだけど、成功確率は高い。こちらの考えが、見透かされる可能性は低い。ま、見つかった時のリスクは高いけど。でも、隠し場所はプロに相談したんだから、きっと大丈夫」
「プロねえ……」
 何故か自身満々なちさとさん。それに対して、由乃は多少の不満顔。
「ま、ここまで来たら、後は動くだけ。私を信じなさいって。私は、あなたを信じるから」
 ……どうでもいいことだが、この田沼ちさとという少女、歯の浮くような、具体的に言うと、ヒロイックなセリフを、平気で吐く。
 漫画かアニメの、見過ぎだろうか?
「行くわよ由乃さん」
 雑念を振り払って、深呼吸を一つ。心を落ち着けて、由乃は答えた。
「ええ。背中は任せたわ、ちさとさん」
 信頼できる友人と、鉄の意志。その二つを携えて、いざ、戦場(剣道場)へ赴かん。


  ◇


「さて……」
 とある部室で、少女が三人。面持ちは、それぞれに、神妙だ。
「このまま、デジカメの画面で見るのも、ちょっちショボイわよね」
「どうせなら、大画面で品評会といきましょうよ」
「ふむ。まあ、大画面とまでは、いかないけれど」
 少女の一人が、どこからともなくコードを引っ張り出して、それを、デスクトップ型のPCに繋いだ。
 PCを起動させ、ファンの唸り声のみが、静かに部屋に、響き渡る。
 そんな中で、三人のうちの一人、由乃は、今から三十分ほど前の出来事を、思い浮かべていた。

 ──部活動が終わる。
 他の部員たちは、三々五々、剣道場に一礼をして、部室へと戻っていく。
 そして、由乃は一人、黙々と基礎メニューを繰り返す。
 声をかけていく者、いかぬ者。だんだんと、前者の割合が多くなっていくのは、素直に嬉しい事実である。
 少しずつ、剣道部に、居るべき場所を確保できている。
 そんな中で、例の三人は、相変わらず敵意のこもった視線を向けるだけで、一声もかけてこない。
 そうして気付いたことが一つ。
 彼女たちの、おそらくはリーダー格であろう、忍さん。彼女だけは、どこか真意が読み取れなかった。他の二人が、あからさまに敵愾心を剥き出しにしているのに対して、忍さんだけは、どことなく冷めている。あるいは、醒めている、と、表現した方が的確だろうか。
 まあ、彼女たち自身に興味は無い。
 ついで言えば、彼女たちが由乃に対して抱いている感情にも、さらさら興味はなかった。
 ともかく、剣道場には、由乃一人が残された。
 そして待つ。
 彼女たちが、『犯行』 を出来るほどの時間、由乃は一人、無表情に無感情に、床を睨んだまま時を過ごした。

 そうしてきっかり三十分。
 ちさとさんとの打ち合わせ通りの時間、由乃は待ち、そして部室へと向かった。
 一応、周囲に人影が無いことを確認して、由乃は部室へと入っていった。
「待ちかねたわ、名探偵さん」
 微笑をたたえた、ちさとさんの姿があった。そしてそのまま、彼女は、由乃の鞄を差し出して、自分はデジカメを持つ。
「……?」
 彼女の態度から察するに、犯行は行われた筈だ。なのに、何故鞄は元通り綺麗にされているのか。
 よくよく見れば、ちさとさんの呼吸は、少しだけ乱れている。ショートカットもところどころはねており、なにやら慌しく、「何か」 を、たった今まで行っていたように見受けられる。
 ああ、なるほどと、由乃は思う。
 息せき切らして、由乃よりも先に部室へやってきて、乱れに乱れた鞄と、鞄の中身を元通りに、戻す。とにかく、由乃が現れる前に。
 そんな彼女の気遣いが、やさしさが、どうしてだか妙に、心に染みてくる。だから、
「ありがと」
 短く言って、由乃は、彼女のちょっとだけ乱れた髪を、手櫛で撫でつけた。ほんの一瞬。そうして、ただ無心に、部室を出た。
 何故って?
「ちょ、ちょっと待ってよ由乃さん!」
 今、慌てて後ろについてくる少女のことを思ってしまったら、不覚にも、泣いてしまいそうだったからだ。

 ──と、そんなことがあったのが、三十分ほど前。
 今、由乃たちはここ、部員たちが、一人を残して引き上げた、写真部の部室にいる。
「どうしたの、由乃さん。緊張してきた?」
「……別に。そんな、やわな神経してないわ」
 ちさとさんは、あくまでも自然体に見える。対して由乃は、冷静さは失っていないが、いろいろな事が頭に浮かんでは消え、どこか地に足のついていないような感覚に、さっきからずっと、囚われている。
「ま、ちゃっちゃと済ませてしまいますかね」
 と、そこで、もう一人この部屋にいた少女──一人だけ残った写真部員。
 ちさとさんが相談した、『プロ』 である少女、武嶋蔦子さんは、いつもの如くポーカーフェイスで言い、そして正常に起動したPCへ、一人向き直った。


  ◇


「……悪いわね、こんな面倒くさいことに巻き込んで」
「全然、気にしてないわよ。むしろ嬉しい。私に、『面倒くさいこと』 を、相談してくれて」
「あらら、蔦子さんも随分と、歪んでるのねえ」
「ふっふっふ、表現者という人種は、基本的に、程度の差こそあれ、すべからく歪んでるものなのよ……ああ、この状況は、私にとっては凄く心地良い」
 うっとりした声で、蔦子さんは語った。
「相談事は、基本的に親友にするもの。由乃さんの親友といえば、そう、あの二人に他ならない。でもね、物事には、向き不向きがある。例えば祐巳さんなら、由乃さんが嫌がらせを受けていると知れば、まるで自分ごとのように悩み、そして悲しむでしょう」
 由乃は、無言で頷く。それを受けて、蔦子さんは続けた。
「私はまあ、色々と、汚れてるから……おっとっと、お二人さん、ヘンな顔しなさんな。そういう意味じゃないわよ。私だって正真正銘、清らかな乙女なんだから。汚れてるってのはつまり、いろいろと生臭いことにも、それなりに理解があるということよ。だから、そういう話を私に持ちかけてくれたことは、かなり私の自己満足を刺激してくれるわ」
「気持ちは、狂おしいほど分かるわ」
 蔦子さんとちさとさんは、見合わせて、そして怪しく笑った。
 この二人、先日まで面識は無かったようだが、なかなかどうして、気が合うようだ。爽やかさには著しく欠けるが、新たな友情の発端として、素直に、由乃は二人を祝福しよう。
 とまあ、そんなことはともかく。
「……じゃあ、さっき部室で撮った映像を、再生するわ。二人とも、準備はいい?」
「OK」
「いつでもいいわ」
 蔦子さんが、慣れた手つきでマウスを動かす。
 やがて画面には、おそらくは動画再生用の何かのソフトが表示されて、少し遅れて、お待ちかねの盗撮動画(?)が、映し出された──


 ──見慣れた剣道部の部室。
 アングルなどから察するに、どうやら、参考資料や、大昔の地区大会などの戦歴表が押し込められた、本棚にカメラを隠したらしい。
 なるほど、今の剣道部員でそこに手をつける者など、皆無だ。
 ちらりと蔦子さんを見ると、本人は別段得意げでも何でもなく、あくまでポーカーフェイス。確かに彼女は、プロだ。
 画像は鮮明。申し分ない。
 しばらくは誰も来ない筈、と言って、ちさとさんは、蔦子さんを促す。
 カチカチと、蔦子さんはマウスを操作して、多少時間を飛ばす。やがて、無人の部室に誰かが現れたところでまた、普通に再生を始める。
 と、そこで三人は、とある事実に気付いた。

「ねえ、ちさとさん」
「なにかしら、由乃さん」
「関係ないところは、飛ばした方がいいんじゃないの?」
「そうねえ……プライバシーの侵害という言葉も……いや、この場合すでに、肖像権?」
「ねえ。とにかく、よろしくないわ」
 そう言って、蔦子さんを促そうとする、が、彼女は、
「ダメよ。もしかしたら、なんでもないところに手がかりが、隠されているかもしれないわ」
 そう大真面目に言う蔦子さんは、食い入るように画面を見つめている。
 その、画面の中では、
 剣道部員の一人が、何ともなまめかしい、下着姿を晒していた──。

 そうだ。よく考えてみれば、当たり前のことだった。
 ちさとさん持参のデジタルビデオカメラが、どんなに高性能だろうと、鞄を荒らしている瞬間と、そうでない瞬間を選り分けるのは、当然のように不可能だ。
 だから、全く関係のない部員の、着替え姿も、ばっちりと録画されてしまっていた。
 まあ、部室では当然、たった一人で着替えることなど、できよう筈もなく、当然由乃もちさとさんも、皆の中に混じって、着替えをしている。
 だが、こうして画面の中として見ると、その、とても、背徳的なことを、してるような気分に……。
 
 女三人、無言で画面を見詰めている。
 由乃とちさとさんは、罪悪感にかられながら、無関係な部員たちに、心の中で詫びつつ。
 そして蔦子さんは……現役女子高生マニアである、武嶋蔦子さんは、瞬き一つせず、身動き一つせず、画面を凝視していた。
 そうして、ときたま一言。
「ああ、撮りたい……」
 と。
 由乃とちさとさんは、顔を見合わせる。お互いに、ほんのりと頬が紅潮してる辺りが、とても気恥ずかしくてまた、視線を逸らす。
 そんな意味不明の時間が暫く過ぎて、
「あっ!?」
「なになに、どうした……げっ」
「いやん」
 蔦子さんの、突然の大声に、慌てて画面を覗き込んだ由乃は、次の瞬間、硬直した。ちさとさんのふざけた声は、この際無視。
 
 画面の中の、長い三つ編みの少女。
 その少女は、鞄を置いて、一呼吸。そうして、ロッカーへと向かい、その扉を開け、そうして、
 制服のタイを、するりと解いた──

「ダメダメ! 見ちゃダメ! 絶対、ダメーっ!!」
 蔦子さんが手を添えていたマウスを、由乃は無理矢理奪い取って、動画の再生を終了させようとして、
「まあまあ、よいではないかよいでわないか。ここまで来たのだ、今宵は目一杯楽しもうぞ、くふふ」
 ちさとさんに、がしっと羽交い絞めにされた。それを無理矢理に、引き剥がそうとする。が、びくともしない。それでも由乃は、必死に抗った。
「うーむ、絶景かな絶景かな」
 だって、画面の中に映っているのは、他ならぬ由乃自身なのだから──!!!
「由乃さんって、結構スタイルいいわよね」
「うるさい」
「そう。スリムなくせして、出るべきところはきちっと、出てる。おまけにお肌は、雪のように白い」
「うるさい」
「ほら、腕なんて折れそうなくらい細い。ああ、そんな華奢な身体を、思い切り抱きしめたい……」
「うるさい──! しかもアンタ、抱きしめるどころか、たった今私のこと、羽交い絞めにしてるじゃないのよ……!!!」
 由乃の絶叫が、新聞部の部室内に響いた。

 
  ◇


 そうして、三人、またしても無言で画面を眺める時間が続く。
「ねーえぇ、ごめんってば。そんな、ヘソ曲げないで」
「曲げてなんかないッ」
「思い切り、捻じ曲がってんじゃないのよ」
「うるさいっ。この私の、可憐で清楚な乙女心を、無残にも踏みにじった、あなたがたの罪は重いわっ」
 こんなにも、不毛なやりとりを続けながら。
 仏頂面をしながら、由乃は思う。
 やはりこの二人、ちさとさんと蔦子さん、妙に気が合う。しかも、物凄く怪しいところで。
 どうしてくれようかと、由乃が思案しているうちにも、映像は、淡々とつつがなく、流れている。部活は終わり、そろそろ部員たちが、部室に戻ってきている。
 由乃にとってあまり違いはないが、練習後の、やや息の乱れた、汗に濡れた少女たちというのは、隣に居る怪しいプロカメラマンにとっては、また違ったおもむきがあるらしい。
 いい加減、見慣れた部室と、少女たちのセミヌードに飽きている、由乃やちさとさんとは違う。彼女のテンションは常に、高回転を維持している。
 そんな雑念に囚われている、そのとき。
「そろそろよ」
 ちさとさんの、緊張した声が、背筋に響いた。

 画面に、今のところ変化はない。
 見慣れた、剣道部の部室を、ただ映し出しているのみ。
 やがて、昔の無音映画のような映像に、変化が現れた。
「……」
 知らず、息を飲む三人。
 ついさっき、着替えを済ませて、部室を出て行った二人──由乃がアタリをつけていた容疑者、佳子さんと、君子さんが、部室へと入ってきた。
 その挙動は、お世辞にもみっともいいものではなく、まるで、
「コントみたいね」
 ちさとさんは言う。由乃も、まったくその通りだと、思う。

 それ以降、画面に映し出されたものは、それほど大した物ではない。
 傍目に分かるほどに、びくびくとした二人の少女が、由乃の鞄に、おそるおそる手を伸ばす。
 遠慮がちにジッパーを開けて、中にたいしたものが入っていないことを確認して、その、由乃の私物たちを、これまたおそるおそる、床に置いていく。撒き散らして、ではなく、あくまで、「置いて」 いる。
 そうして二人は、入ってきたときと同じように、びくびくと。そう、まるでコントみたいに、部室を出て行く。
 それでおしまい。

 ちさとさんが、無言でマウスを操作して、ソフトを終了させる。
 蔦子さんは、所在なげに、愛用のカメラを弄んでいる。なんにせよ、ここは由乃が音頭を取って、この場を締めくくるべきだろう。
「とりあえず動かぬ証拠はゲットしたわね。あとは明日、部活が終わった後にでも、関係者を全員集めて種を明かして、この事件は、無事、解決と」
「まあ、こんな盗撮まがいのことをしてしまったからには、こちらとしても、少々後ろめたいのだけれど」
「それはいいのよ。あちらは、由乃さんの鞄を荒らしたのがばれて、後ろめたい。私たちは、こんな盗撮まがいのことをしでかして、後ろめたい。これで平等じゃない」
「そうね。別に私は、彼女たちを犯罪者に仕立て上げようとしたいわけじゃない。これを機に、少しでもお話できればと思ってる。そのとき、立場が平等じゃないと、いろいろやりにくいのよね」
「なら今日は、これでお開きかな。結構時間、やばいもの」
「ありがと蔦子さん。感謝してる」
「いえいえ」
 そんなやり取りの後、由乃と蔦子さんは、帰り支度を始めようとする。が。
「どしたのちさとさん。さっきから、黙り込んで」
「……忍さんが、いなかったわ」
 言われて由乃も、はたと思い当たる。
「そういえばそうね……まあ、表で見張りでもしてたんじゃない? 気にしたらきりが無いわよ。ところで、ちさとさん」
 さっきからずっと、気になっていた重要なことを問うべく、由乃は、ちさとさんにずずっと近付いた。反射的にだろうが、ちさとさんは、少しだけ仰け反る。
「な、なにかしら、由乃さん」
「さっきのアレ……どうしてちさとさんは、少しも映ってないの? あなたも、部室で着替えてた筈よね。ねえ、何で?」
 ちさとさんは口篭もる。目が泳いでいる。口は半開きで、笑おうとしても、笑い方を忘れてしまった、そんな表情を浮かべている。
「言いたくないなら私が言うわ。あなたがビデオカメラを隠したんですものね。カメラの死角がどこになるのか、把握していて当然よね。あなたはそこで、映らないようにして着替えた。違う?」
「さすが名探偵。推理のキレが違うぜ」
 ちさとさんは、半ばやけっぱち気味に答えた。
「……」
「……?」
「剥いちゃえ」
「剥いちゃおう」
「ねえ二人とも、剥くって、何を?」
 言葉の意味を把握できずに、目をしばたかせるちさとさんに、由乃と蔦子さんは、じりじりと近付いていき、そして──。


 ドタバタとはしゃぐ由乃は、この瞬間、つまらないこと全てを忘れて、ただ、楽しんでいた。同い年の少女たちとじゃれ合いながら、ふいに、ガラにもなく、こんな時間がいつまでも続けばいいと、ほんの少しだけ、思ってしまった。
 だから、今、この時の由乃には、予想すべくもなかった。
 この、くだらない事件が解決する筈の明日、目を背けたくなるほどの、全てを捨てて、逃げ出したくなるほどの悲劇に、見舞われようとは。
 それが、由乃と、もう一人、この瞬間もっとも近くに存在していた少女を、容赦なく苛むことになろうとは。
 この時の由乃は、まだ、知らない。



 3

 急展開、という言葉がある。
 これまで謎のベールに包まれていた人物の、正体が判明したり、とてつもない事件が起きたり、あるいが、主要な登場人物が命を落としたりとか、そういう出来事の後は、よく、この言葉が使われる。
 物語は、急展開する、と。
 なるほど目の前でそれをされると、とてもよく理解できる。
 『急展開』 を受ける人物たちの、衝撃と、狼狽と、そして今、由乃の場合は、とても受け入れたいとは思えないほどの、最悪な急展開だったから。
 つけくわえて、怒りと、そして悲しみも。


「ちょっと、よろしいかしら?」
 今日の部活も無事、終了した。けれど由乃の戦いは、これから始まる。
 剣道場の隅で、タオルで汗を拭っている少女二人──此度の事件の実行犯二人、佳子さんと君子さん。
 由乃は、つかつかと二人に歩み寄っていて、出来るだけ、つとめて普通の口調で、話し掛けた。
「なに……かしら、由乃さん」
 答えたのは、君子さんの方だった。どちらかというと佳子さんの方がイニシアチブを取るタイプに見えたので、由乃は、ほんの少しだけ違和感を抱いた。
 が、イニシアチブとはいっても、あくまでこの二人、という枠内での話だ。
 ぱっと見、派手なこと、クラスの中心、話題の中心、そういうものとは無縁だということは、一目見て分かる。
 さてどう切り出したものかと、由乃は頭の中で腕組みして、思案した。
 ただ、伝えればいいだけだ。
 少しお話があるから、着替えたら、少しばかり顔を貸して……いやいや、付き合って欲しい、と。
 けれど、目の前でびくびくと……まるでいじめられっこのような態度を取られると、何と言うか、モチベーションの低下を嫌が応にも、理解してしまう。
 けれど、差し向かいで、話はせねばなるまい。
 よし、と、心の中で掛け声一つ。と、
「何をしている?」
 突然の、斜め後方からのややハスキーな声に、あっさりと由乃の気勢は、遮られた。振り向いたその先には。
「忍……さん?」
「いかにも。上杉忍とは、この私のことだが」
 ちさとさんと同じくらいの、短い髪。頬のあたりにシャギーを入れた、ちょっと癖のある髪の毛。第一印象は、恰好いいヘアスタイル。
 次に、顔。フェイス。
 真正面から見ると、これはなかなか、というより、かなりの美人だ。派手さはないが、まるであつらえたように、顔の造詣は整っている。
 具体的に言うと、山百合会にいても、何らおかしくないほどの、ルックスの持ち主だった。
「何か用か? 由乃さん」
「別にあなたに用事はないわ。私は。佳子さんと君子さんに、用があるのよ。忍さん、あなたは関係ない。はっきり言って、邪魔なのよ」
 そうはねつけると、忍さんは、上品に口元を歪めた。
「何よ」
「ふふ、噂に違わず、はっきりとした物言いをするのだな、由乃さんは。気に入ったぞ。私も、あなたと話をしてみたい」
「ちょっと、何勝手なこと言ってんのよ。忍さん、あなただって、私のこと避けてたでしょう。おまけに、敵意のこもった視線で、じろじろと」
「うん? そんなことは全く無いぞ。私は、自分でも自覚してるが、どうも、意識しないと視線が鋭くなってしまうらしい性質でな。そもそも、よく知らぬ相手のことを、恨もう筈がないではないか」
「そうね。つまりは由乃さんの、自意識過剰だったってわけね」
 今度は真横から。すでに聞きなれた感のある、友人の声。
「ちさとさん……。あなた一体、どっちの味方よ」
「正義の味方、可愛い子の味方、あるいは自分の味方。いろいろあるけど、どれがいい?」
「知らん」
「仲が良いのだな。しかし、ここで一つ合点がいかぬ箇所がある。聞いてくれるか?」
「よかろう……じゃなくて、いいわよ」
「ちさとさんは由乃さんの友人なのだろう? 今回の件……私は露ほどにも知らぬが、ちさとさんは、概ね理解しているのだろう?」
「おおむね、というか、ほぼ全部ね」
「私は、佳子と君子の友人を自負している。ちさとさんと立場は同じだ。なのに何故、私はコトのあらましを知らぬのだ? これを機に、知りたいと思うぞ」
「ふむ、一理あるわね」
「ちょっとちさとさん、無責任なこと言わないでよ。部外者たる忍さんには、引っ込んでいてもらうのが道理でしょう?」
「あら、じゃあ私、田沼ちさとも、島津由乃にとっては部外者なのかしら?」
「そ、そんなこと言ってないじゃん……」
「でしょ? だったら、ここは素直に、忍さんにも同伴してもらおうよ。きっとその方が、話もスムーズに進むんじゃないかしら?」
 確かに。
 ここまで、一言も発してない、口下手な二人と話すよりは、色々な意味でスムーズであろう。
「ま、いいわ。好きにしなさい。忍さんも、ちさとさんも。私は、わたしの気がすむように、思った通りに動くだけよ」
 背中に視線を感じながら、由乃は一人、部室へと足を向けた。


  ◇


 剣道部の部室の前には、ちょっとした人だかりが、形成されていた。
 訝しげな表情をあらわにして、由乃は近付いていく。
「……」
 手近にいた人間が、由乃に気付く。一瞬、気まずそうな顔になり、それがやがて、他の人間たちにも伝染する。そして、潮が引くように、人の波が、由乃の周りから引いていった。
 やけに、癇に障る。
 適当な人間を問い詰めても良かったのだが、この大人数の中から選ばれる人間にとっては、この上も無い迷惑だろう。
 そんな風に自分を納得させて、部室へと入った由乃は、

 ──そこに在った光景を前に、心まで硬直させた。

 見慣れた鞄。
 ジッパーが開かれて……いや、壊れて、歪んでいるように見える。
 中に入っていたタオルは、床に投げ出されている。
 それが、鋭利なもので切り裂かれたようなありさまに、なっており。
 
 直感的に感じたのは、悪意を通り越した、敵意、憎悪、怒り。
 それは、一介の女子高生にとっては、戦慄すべき光景だろう。

「っ……」
 不意に、胸が痛んだ。
 ささくれだった何かで、心臓をかき回されるような、あの、忌まわしい感覚。
 かつての由乃を、常に苛んでいた、死に近い感覚。
 心臓の手術をして以来、久しく忘れていた感覚に、今の胸の痛みはよく似ている。
 そして、一歩を踏み出そうとして、気付く。
 自分の身体が、手の指先から、足の爪先まで、まるで氷のように冷たくなっていることに。
 それを自覚した途端、全身から力が抜けた。
 ふらりと身体がよろめいて、ああ、久し振り。ちゃんと、昔みたいに受け身が取れるかなあと、やけにスローな世界の中で、まるで人事のように思い浮かべて、そして、
「由乃っ!?」
 これまた、懐かしくて、久しく忘れていた感覚に、由乃は包まれた。
 まるで、かつての再現ドラマのようだ。
 が、いつまでも支えられているというのも、あまりみっともいいものではない。地力で立とうと、両足に力を入れてみたが、まるで筋肉がごっそりこそげ落とされたかのように、力が入らない。
 もうしばらくは、不本意だがこの再現ドラマに、付き合うことになりそうだった。


  ◇


「……とりあえず、由乃の鞄と、鞄の中身は回収しておいたよ。今は綺麗に片付いているし、野次馬も散った」
「ありがと、令ちゃん」
 ベッドの中の由乃は、目の前に居る、幼馴染兼姉の、支倉令へ、短く礼を述べた。
 ここ、保健室の中には、二人の姿以外に無く由乃がベッドの中で身じろぎする他は、いたって静まり返っている。
 二人の表情は、お世辞にも明るいものではない。それが、より一層部屋内の静けさを際立たせていたのだが……先に沈黙を破ったのは、姉だった。
「……なんなのさ、あれ」
 どこまでも、沈痛な声だった。
 痛ましいその声と、その表情を見るにつれ、由乃の中には、罪悪感が湧き出てくる。
 本当は、令ちゃんを巻き込むつもりはなかった。
 犯人の性質上、令ちゃんに露見するような行動は取るまい。そう思って、特に何も対策を打たなかった。この心優しい、人一倍お人好しな姉が、この事件のことを知れば、きっと心配するだろう。恐らくは当事者である由乃よりも。
 全てが解決したら、過去の出来事として、雑談の種にでも話せばいい、そう、思っていた。
 けれど事情は変わった。
 のんびり構えている暇はない。手をこまねいている暇は、ない。もう、遠慮していられる事態でも、ないのだ。
 それは誰に対しての遠慮だったのか、今の由乃にははっきりとは分からなかったが、この事件の出口は、そして真実は、既に見え隠れしている。パズルのピースは、出揃っている。
 ならば何を躊躇う必要も無い。
 あとは、由乃の決断一つ。
「心配しないで、令ちゃん」
「由乃……」
「真実は目と鼻の先。あとは、犯人に会いに行くだけよ」
 そう言って、由乃は保健室のベッドを飛び出した。


 時計を見ると、由乃が倒れた時間から、まだ十五分も経っていなかった。以前、発作を起こした時など、向こう丸一日くらいはベッドの中だったのだから、我ながら驚くべき健啖ぶりである。
 保健室から剣道場への道すがら、由乃はふとそんなことを思う。
 目的地までは、普通に歩いて、ものの数分でたどり着く。それまでに、心を落ち着けて、考えをまとめなくては。
 令ちゃんの話によれば、ちさとさんに、忍さんに君子さん佳子さん。皆、まだ剣道場にいると言うことだ。
 令ちゃんにはああ言ったが、まだ犯人に会いに行くことは出来ない。
 まず、初めから洗い直してみよう。
 
 由乃の部活用の支度が入った鞄が、何者かにより無断で手をつけられた。そのときは、鞄の中身は元通りにされていた。この時は、まだそれほど気にはしていなかった。誰かが間違えて鞄を開いたとか、その程度のことと認識していた。
 次。またしても鞄を誰かに弄くられた。今度は明らかに何かの意志が込められていた。鞄の中身が床に散乱しており、酷いありさまだった。これが、都合二回。
 そうして、由乃は動いた。
 次の犯行を予測して、先手を打つ。ビデオカメラを仕掛けて、三回目の犯行を録画。証拠は手に入れて、あとは事件を解決させるだけ。そう思った矢先に起きたのが、ついさっきの、あの忌まわしい出来事だ。

 ぶつぶつと、独り言を呟きながら一人、廊下を歩く由乃に、奇異の視線を向けるものは少なくない。というか、多い。
 けれど、そんなことはどうでもいい。
 重要なのは、目の前の事件と、関係者たちのこれからなのだ。だから、関係ない他人の視線なんか、気にしてる余裕は無い。
 大丈夫。こんなもの、某先代ロサ・フェティダの奇行に比べれば、児戯にも等しい。
 ……と、こんなことを考えている時間はないってば。

 アレが起きたとき、由乃は剣道場にいた。そして、由乃よりも先に、佳子さんと君子さんは、剣道場へと来ていた。
 過去三回の鞄への悪戯は、彼女たちの仕業だろう。犯行に及ぶタイミングも、その内容も、一つとして異なる部分は無い。
 けれど、今回のは、明らかに異質だった。
 強い悪意。
 心臓をわしづかみにされるような戦慄を、あの時由乃は感じた。それほどの意志は、佳子さんと君子さんには、無かった筈だ。
 だから、最後の犯人は、別の誰か。いまだ由乃が、『故意に』 目を向けていない、とある一方に、存在しているのだろう。
 それはまだ、考えたくない。
 考えたくないったら、考えたくない。
 何故って、『考えたくないから』 に、決まってるじゃない。

「およ?」
 ふと気付くと、剣道場の扉の前にいた。普段、この時間ならばまだ、部活は行われている筈であるが、何故か剣道場の中からは、物音一つしない。
「なんで?」
 由乃は一瞬、考え込むが、
「なるほど、部活やってる中じゃ、うるさくてとても話し声なんか、聞こえないもんね。探偵役の推理のお披露目は、大抵静かなとこでされるものだし」
 と、とても都合の良いことを考えつつ、由乃は扉に手を伸ばした。


  ◇


「犯人は、あなたたちね」
 ちさとさん、忍さん、佳子さん君子さん、そして由乃。剣道場にいるのは、この五人のみ。
 つかつかと、「発端」 たる事件を起こした二人の前に歩いていって、由乃は、そう簡潔に告げた。
 そして、予想通り、緊張にびくりと身体を震わせる二人。
「わ、私は……」
「今更否定する気? それもいいけど、悪いけど、こっちには動かぬ証拠があるんだわ。あなたたち二人が、私の鞄を荒らしてたところ、ばっちりビデオにおさめちゃった」
「!?」
「何のことだ?」
 驚愕する二人に、不思議そうな顔の忍さん。
「悪いけど、説明させてもらうわ、二人とも。私はあなたたちに、鞄を荒らされる覚えは無い。だから、ここで忍さんに全部説明することが、あなたたちへの罰だと思って頂戴ね。さすがに、やられっぱなしで黙っていられるほど、お人好しでもないのよ」

 由乃は、一部始終を忍さんに説明した。
 今、目の前で由乃の話を聞いている、この、妙に時代がかったものの言い方をする少女は、話がわかるし、それなりに切れる人だ。だから、あまり気を遣う必要は無い。
 つとめて客観的に由乃は、事の顛末を、筋道立てて説明した。
「……お前ら、そんなことしてたのか。どうも最近、こそこそと何かをやってるなとは、思っていたのだがな」
「ごめん、忍……」
 憔悴しきったような、佳子さんの声。
「謝る相手が違うぞ、佳子。私ではなく、彼女に対して謝るべきであろう」
「いいのよ、忍さん。さっきはああ言ったけど、こうなったのも、私が剣道部に無理矢理入部したせいなんだから」
 そうでしょ? と、君子さんに問うが、君子さんは俯くだけだ。
「突然、訳の分からない奴がしゃしゃり出てくれば、頭に来るのも当然よね。しかも、当たり前のように、剣道部のエースの隣に居座ってるわけだからね。そう思わない? ねえ、ちさとさん」
「……ま、それなりに、ね」
 さっきから黙ったままだったちさとさんは、曖昧に濁した。
「……別に、そんなんじゃ、ない。ただ、何となく、令さまの傍に居る由乃さんが、羨ましく見えて、それで」
「そんなんじゃなくないじゃない」
 きっ、と、君子さんはこちらを睨む。その目つき、祐巳さんや志摩子さんには通用するだろうが、あいにくと由乃には、これっぽっちも通用しない。

 君子さんは、ぽつりぽつりと語り出した。
 一年の頃、その頃は既に名実ともにエースだった、とある二年生──支倉令に憧れて、剣道部に入部したこと。友人である、佳子さんと一緒に。
 そして二人は、上杉忍という少女に出会う。
 自分に自信が持てなかった二人は、常に超然としている忍に惹かれ、やがてぽつりぽつりと会話を交わすようになり、そして親しくなった。
 部活への入部の動悸であった令ちゃんとも、時折会話を交わせるようになり、それなりに有意義で充実した剣道部。
 けれど、そこにイレギュラーが現れた。
 言うまでもなくその正体は、黄薔薇のつぼみ、島津由乃。
 当然のように(当然だが)気安く令ちゃんと喋り、無意味に目立ち、しかも、入部して早々に、心強い味方(ちさとさんのこと)を、得た。
 自分が時間をかけて、少しずつ得たものを、ものの一、二ヵ月で手に入れた由乃が、たまらなく妬ましく、そして憎らしかった、と。
 大まかに、そんなところだ。

「……そんなの、しょうがないじゃない。私とあなたは別の人間。一緒くたにされてもね」
「そんなこと分かってる……! だから、だからせめて、少しだけ困らせてやろうって、そう、思って……」
「んで、勢い余って、今度は鞄と鞄の中身を、八つ裂きにしてしまった、と」
 悪戯っぽく由乃が言うと、今度は佳子さんが、激しく首を横に振った。
「違う! 私たちは、あんな酷いことしてないっ。それに、あの時私たちは、私たちはっ……!」
「事件が起きた時、佳子と君子は、私や由乃さんと一緒に居たからな。そもそも実行不可能だ。それに、二人は確かに、由乃さんの鞄に手をつけた。けれどな、八つ裂きになど、する人間ではない。二人の友人の名において、この私が誓おう」
 忍さんは、強い口調ではっきりと言った。
 自身と確信。友人に対する信頼。それら全てを纏った忍さんは、なるほど確かに魅力的に見えた。いつもおどおどとしている、佳子さんと君子さんが憧れると言うのも、無理は無い気がした。
 当然由乃も、そういう彼女の態度は、好ましく思える。
 佳子さんと君子さんとは、ちょっと性質的性格的に合わなそうではあるが、かといって、憎むべき相手というのも違う。
 だから、この場合は──

「当たり前じゃない、忍さん。だって、あの鞄をヤったのは、他ならぬ持ち主であるこの私なんだから」
 
 一同……剣道場にいる人間全ての、信じられないものを見るような視線が、由乃の身体に突き刺さった。
 なにを言い出すんだこのバカは、という視線。無理も無い、自分だってそう思う。
 けれど、こうするのが一番あとくされがないのだから。
「……ちょっと待たれよ由乃さん。自分の鞄を自分で傷つけるとは、これいかに。自分の持ち物と言えば、自分の身体も同義だ。おぬし、よもや自傷癖持ちか?」
「痴れ事を。わらわに限って、そのような中傷は至ってナンセンス。単に頭が怒り心頭だったから鞄を引き裂いたまでじゃ」
 ああもう、訳がわからない。
 無口コンビは、相変わらずだし、ちさとさんも何やら思案顔。結局、忍さんと由乃の時代がかったやり取りが繰り返され、
「……まあ、そこまで言うなら構わぬよ。これ以上は、私たちは関わらない」
「ありがと。ここからは私の問題だから。そうそう、例の盗撮ビデオだけど、言ってくれればいつだってお返しするから。あんなもの発表したら、逆にこっちの神経疑われるわ。幸い、鞄八つ裂きはともかく、鞄荒らしの件だけは、ここに居る人間以外、知らないから」
「それは、佳子と君子が決めればいいことだ。私たちはもう、口出しすべきことはない。最後の事件の、早期解決を、祈ってるよ」
「そうね、速く解決しないと、また私が、鞄を八つ裂きにしたくなっちゃうもんね」
「ふっ、違いないな。まあ、そういうことにしておこうか」
 そう言って、忍さんは剣道場を後にした。佳子さんと君子さんも、それに習う。
 去り際に二人は、ぺこりと頭を下げて、急ぎ足で剣道場を出て行った。
 「ビデオに撮られる」 という事実だけで、随分と抑止力にはなるはずだし、なにより今回は、単なる彼女たちの出来心だ。もう、彼女たち二人が、何かよからぬことに手を染めることは、ないだろう。

 そうして、剣道場には、ちさとさんと由乃のみが、残された。
「……さて、無事に事件も解決したことだし、蔦子さんも呼んで、ぱーっと打ち上げでもする?」
「…………」
「ちょうど、明日は土曜だしね。どこかに出掛けるのも悪くないし。んー、それにしてもちさとさん。あなたと二人でこうして行動するようになるなんて、夢にも思わなかったわ」
「…………」
「なーにしけた顔してるのよ。ほらほら、いつものむだ口はどうしたの?」
「…………」


 その日の夜、島津家の電話が鳴った。
 丁度、お風呂上りだった由乃は、バスタオルを身体に巻きつけたまま、受話器を取った。
 電話の相手は、ちさとさん。何だか妙に声が固いのは、気のせい。言葉尻が少し震えてたのもきっと、気のせい。気のせいったら、気のせい。
「……明日、ウチに来ない?」
「そういえば、そんな約束してたのよね。事件が解決したら、あなたのお部屋にお呼ばれする、って。なんなら蔦子さんも」
「一人で来て」
「え?」

「……答え合わせ、しよう」



 4

「……答え合わせ、しよう」
 知らず、言葉尻が震えた。当然、電話の向こうの相手には気取られただろう。
 電話の向こうは、無言のままだった。だから私は、そのまま受話器を置いた。伝えるべきことは伝えた。後は明日を待てばいい。
 最後のあの事件、自分がやったと彼女は言い放った。
 それは彼女なりの優しさだったのかもしれない。
 けれど私は、その優しさに溺れるわけにはいかない。
 私は覚悟を決めて、『二番目に』 携帯に登録した番号を呼び出した。


  *


 土曜日の昼下がり、訪問するのは二度目となるべく家の門扉の前で、由乃は一人、溜め息をついた。
 気が重い。だから必然的に、足も重くなる。
「ふぅ」
 けれど、わざわざここまで出向いてきたのだ。昨夜のちさとさんからの電話は、結局一方的に切れてしまった。
 由乃が是非の返事を返す前に、早々と。
 ちさとさんの言い放ったことがややショッキングだったこともあるが、それは、まあ、
「自業自得、なのかな」
 由乃にとっても、ちさとさんにとっても。
 さて、と、一呼吸したのち、由乃はインターホンに指を伸ばした。


  ◇


「あらかじめ釘を刺させてもらうけど」
 ちさとさんの部屋へと案内されて、由乃はいきなり本題を切り出した。部屋の中はきちんと整理されており、けれど今の由乃には、本棚の中身がどういうものだとか、そういう所まで気が回らなかった。
 正直、こちらもあまり余裕なんてないのだ。
 平静を装っていても、所詮は一介の平静の女子高生でしかない。物語の中の名探偵の如くは、そうそう振る舞えるものではないのだ。
 ちさとさんは、由乃の声に反応して、ゆっくりと顔を上げる。
「……わたしがヤった、なんてことは口が裂けても言っちゃダメだからね、ちさとさん」
「相変わらず、容赦ないのね。そこがまあ、祐巳さんや志摩子さんとは、あきらかに一線を画するところでも、あるわけだ」
「ふん、どうやら、そうらしいわね」
「由乃さんさ、この際だからハッキリさせとくけど」
「ええ」
「今でも、もしかしたら私がやったのかもしれない、って考えてるでしょ。正直に答えて」
「……ええ。今でも四割くらいは、あなたのことを疑ってる」
 ここまできて隠すこともない。由乃は、望み通り正直に答えた。

 最後の事件、忍さんと、佳子さんと君子さん。この三人は、由乃より先に剣道場にいたのだから、犯行は不可能だ。
 けれどちさとさんは、由乃の後から剣道場にやってきた。犯行は充分に可能だ。
 そうしてもう一つ、事件の後の明らかにおかしかった、ちさとさんの態度。

「あまりにも理由としては弱すぎるけどね。『鞄をどうにかする』 っていう発想は、今回の事件に関わった人間しか持ち得ないはずだと思う。佳子さんと君子さんと忍さんにはアリバイが在る。けれど」
「消去法で私、ということね。うん、筋は通ってる。問題は動機だけど、『令さまを独り占めしてる由乃さんが憎かった』 という立派な……」
「やめて」
 たまらなくなって、由乃はそう呟いた。
 絶対に、耐えられない。
「私がやった、なんて、お願いだから言わないで……」
 ちさとさんを手放したくないと願っている自分がいる。そう思っている相手に自分を貶めて憚らない、などと言われることは、身を裂かれるより辛い。
 嘘でもいい。
 ちさとさんが犯人でもいい。
 由乃と今のままの関係を続けてくれるのならば、例え一時凌ぎだけの言葉でもいい。今だけ自分ではないと言ってくれれば、由乃は愚かしくもそれを信じこむだろう。
 私は犯人じゃない、と、そう言ってくれれば、ちさとさんを失いたくないと切に祈っている由乃は、それだけで。
 不覚にも、由乃はちさとさんにすがりついて、涙を流していた。悔しさもプライドも、何もなかった。ただ目の前にいる少女を失いたくない。涙に頬を濡らしながら、それだけを思っていた。


 どれくらい、そうしていただろう。
 ふいに目の前の少女が、
「違うよ」
 小さな声で呟いたから、初め由乃には、一体何のことか理解できなかった。
「私じゃないよ。犯人は、別にいるの」
 ちさとさんは、由乃の頬をハンカチで拭って、静にそう言った。涙がふき取られる感触が少しこそばゆい。
 そのとき自分は、どんな表情をしていたのだろう。みっともなく弱音を晒して、姉でもない人物に身を委ねていた。こんなにも自分は弱かったのだろうかと。由乃は愕然とする。
 ちさとさんは、ゆっくりと語り始めた。

 昨日の部活動中、偶然にもちさとさんが着替えていた時、部室にはちさとさん以外の人間はいなかった。
 そのとき、由乃は剣道場で忍さんと話していた。ちょうど、その時に起きたことだ。
 犯人たる人物が部室の外にいたのを、着替え終えて部室を出たちさとさんは、偶然目撃した。
 その人物はちさとさんの存在には気付かなかった。ちさとさんのよく知る人物だったその人は、けれどすぐに立ち去ってしまった。ちさとさんが声をかける間もなく。
 
「……そのとき追いかけて、無理矢理にでも捕まえて、話を聞けばよかったのよね。でも私はそれをしなかった。でも、出来なかった。だって追いかけるということは、その人物を信用してないっていう意味だし」
 ちさとさんは続ける。
「でも、そのせいで、私が甘かったせいで、あなたを傷つけた。あなたの鞄に悪戯をしたのは私じゃないけど、でも、私がやったようなものなの」

 犯人は、ちさとさんのことが好きだった。
 ずっと昔から、それこそ由乃よりも何年も前から、ちさとさんのことが大好きだった。
 ちさとさんより一つ年下のその少女は、だから、想い人になにかと近付いていた由乃のことが、どうしようもなく憎くて、疎ましかった。
 だから、その少女は──。

「私のせい。私が、葉子の気持ちを考えてやらなかったから。だからあの子は……」
「……」
 藤原葉子。
 ついこの間、由乃は彼女に出会った。一つ年上で、尚且つ黄薔薇のつぼみという偉そうな肩書きを背負ってる由乃に対して、一歩も引かなかったあの気の強い少女のことを、由乃は好ましく思っていた。なんと言うか、どこか他人には思えない、共感できる部分があったからだと思う。
 だから、葉子ちゃんが由乃の鞄を切り裂いたことも、何となくは理解できた。
「私が剣道場に行ってる間に葉子は戻ってきて、そして、由乃さんの鞄に手をつけた。もし葉子が私の姿を一目でも見ていたら、あるいは違っていたかもしれない。でも……」
「ええ、判る。だから、きっと、みんなの運がなかっただけだと思う。たまたま私だったから。もしちさとさんの傍に居るのが違う誰かだったら、葉子ちゃんは、一線を超えなかったのかもしれない。たまたま生意気そうな奴がちさとさんの傍にいたから、きっと、頭に血が上っただけだと思う」
「由乃さん……葉子のこと、許してくれるの?」
「許す」
 由乃がそう言い放つと、ちさとさんは目をまん丸にして驚いた。よもや、こうもあっさりと由乃が納得するとは予想だにしなかったのだろう。
「ただ、一つだけ条件がある」
「……?」
「どうして彼女──藤原葉子は、そうまで追い込まれてたのか。それを教えて欲しい。普通の精神状態だったらきっと、あんなことは出来ないと思う。だから教えて。どうして、ちさとさんは、追い詰められていた葉子ちゃんに、手を差し伸べなかったの?」
「……」
「教えなさい」

 田沼ちさとと藤原葉子の関係の始まりは、リリアン女学園中等部の頃にまでさかのぼる。
 当時二人は合唱部に所属しており、部活内での先輩後輩という間柄であった。
 部活動中に親しくなり、そして家が近所だったという事実もそれを後押しして、二人の仲は、急速に近くなっていった。
 先輩後輩という仲を、そして学年一つ違いという仲をも二人は乗り越えて、二人はお互いを第一に、無二の親友としての関係を築き上げていた。
 葉子ちゃんはちさとさんを全面的に信頼して、そしてちさとさんは、その信頼にこたえるべく振る舞っていた。
 そう、「まるで、二人は姉妹のよう」 そう言われたことは、それこそ何十回とあった。
 それは、二人の世界と形容して差し支えないものだったという。

「……いっつも一緒に居た気がするわ。葉子は私のことを頼ってくれて、甘えてくれて。それがとてもあの頃の私には、心地良かった。私も、そういう期待や信頼に答えるのが、とても……ある意味、快感だったというか。だからね、高等部にあがったらきっと、私たちは姉妹になるんだろうなあって、漠然と考えてた」
 閉じられた世界での相互依存。
 包容力のある姉に、わがままな妹。
 まったく、どこかで聞いたような話である。
「でもね、いざ高等部に上がって、そして二年生になるまでの一年間。学校で一緒に居られないから、やっぱり私と葉子は、ほんの少しだけ離れてしまった。でね、離れている間の一年間で色々考えたのよ。私たちが姉妹になる意味って、実際のところあるのかな、って」
 頭痛がするほど、聞き覚えのある話だ。
 姉妹の在り方。
 こと、以前からの親しいもの同士。
 果たして、姉妹になったとしても、そこに何らかの発展性を見いだせるものなのか。
 結局それを見いだせなくて、一度姉妹の関係を白紙に戻したくなる気持ちを、由乃は狂おしいほどに知っている。
「だからね、葉子が高等部に上がってきても、少し距離を置いていたの。本当は、二人で合唱部に入ろう、って葉子は言ってたんだけど、私はそれを拒んだ。別に縁を切ろうとか、そんなことは考えてなかった。ただ、二人でばかりいるのも、よくないと思ったからに過ぎない。けれどそれが、葉子にとっては、どうしようもなく辛かった……んだと、思う」
「葉子ちゃんの不安や焦燥の結果が、私の鞄と言うことね」
 ちさとさんは小さく頷く。
「ごめん……由乃さん。だから、殆ど私の所為みたいのものなの」
「ん、まあ、共感できる話だし……」
「?」
「なんでもない」

「……ところで、今葉子ちゃんはどうしてるの?」
「昨日電話して話した。一応、自分がやったって、認めてた、と、思う」
「思う?」
「その、言ってることが支離滅裂で、よく判らなかった。それ以降、何度かけても繋がらない。あ、向こうも携帯ね。何度も家のほうの電話にかけるのも、家の人に悪いし……」
「そう。じゃあ、もしも会えたのなら伝えて欲しい。私は、もう全然気にしてないって」
「……それでいいの? 由乃さんは」
「倦怠気味のカップルってのは、時々そういう変化を欲しがるもんなのよ。たまたま今回は、私の鞄がそれに巻き込まれただけ」
「へえ。何だか説得力あるね」
「うっさいほっとけ」


 結局この日は、せっかくの初ちさとさんの部屋お呼ばれだったのだが、殺伐とした話に終始してしまった。
 今日は土曜日。だから、今日と明日にかけて、葉子ちゃんとのことは、どうにか解決すると、ちさとさんは言っていた。
 ことここに至って、すでに由乃のやるべきことは残っていない。
 ちさとさんの家から帰る道すがら、
「……どうしても他人事に思えないとこが、弱い所ね」
 憎むべき真犯人をどこか憎めないのは、どうにも葉子ちゃんと自分との、ひいては彼女ら二人と、自分たち姉妹が、妙にダブってしまう所為なのだろうと、ぼんやりと思った。


  ◇


 明けて翌週──。
 山百合会の仕事をつつがなく終えた由乃は、下足室の自分の下駄箱を開けて、そして絶句した。
「あれ、なあにそれ由乃さん」
 共にいた祐巳さんが、のんびりと聞いてくる。
 由乃の手に握られているのは、一通の真っ白い封筒。一度、表裏をひっくり返してみるも、差出人らしき文字は見受けられない。
「まあ、恋文というものかしら?」
 どことなくおどけたように言う志摩子さんをじろりとひと睨みして、由乃は、ことさらぶっきらぼうに言い放った。
「単なる果たし状よ」


 中庭の外れで、由乃は一人の下級生と向き合っていた。
 話す言葉はお互いに皆無。相手は何かを推し量るようにして黙ったままだし、由乃は単純に、目の前の対して親しくもない下級生を相手にかける言葉も見つけられないまま、ただ時間だけが悪戯に過ぎていた。
「……でもね、いい加減飽きたわ。用があるならとっとと済ませなさい。聞いてあげるから」
 たまりかねて由乃はそう言うと、目の前の下級生──藤原葉子ちゃんの小さな体躯が、傍目にもわかるくらいに、一瞬だけびくりと震えた。
 そうして、微かにためらいを見せたのち、
「すいませんでしたっ」
 ばね仕掛けの人形よろしく、スゴイ勢いで頭を下げる葉子ちゃん。
「もう二度と、私じゃなくとも、他の人にも、絶対にこんなことしないと誓えるのなら」
「はい……」
 神妙に、葉子ちゃんは頷く。
 由乃は彼女の方へと静に歩み寄って、葉子ちゃんのセーラーカラーを軽く撫でた。葉子ちゃんは目を大きく開いて、あきらかにうろたえた。頬を張られるとでも思ったのだろうか。
「じゃ、許す。今回だけは、その首にかけられているものに免じて、許してあげるわ」
 不意打ち気味にそう言うと、葉子ちゃんは耳まで真っ赤になった。
「こっ、これは……!」
「ロザリオの授受、したのね。どちらが切り出したの? 普通は姉からだけれど、元から親しい間柄の場合はその限りじゃないわ」
「私から、よ。由乃さん」
 あつらえたようなタイミングで、ちさとさんが現れる。
 どこかで盗み聞きでもしてたのかと疑いたいところだが、なんてことはない。中庭の隅で一部始終すっかり観察していたのだった。
「激昂した由乃さんが、葉子をどうにかしないよう、見張ってたの。見えるところに立ってれば、それだけで抑止力になるでしょう?」
 だ、そうだ。
「別にどうもしないわよ。ただ、黄薔薇のつぼみとして、藤原葉子ちゃん。そしてあなたの姉である田沼ちさとさん。あなたがた二人に言わなければならないことがあるわ」
 何を言い出すのかこいつは、という表情を浮かべる二人。
 由乃は、先ほどの 『果たし状』 を、指でつまんで、ひらひらさせながら言った。
「手紙というやり方にケチをつけるつもりはないわ。でもね、文章がいただけないわよ。なによ、『お話がありましたら今日の放課後、、中庭に来てください』 よ。『お話がありますので……』 って書くのが普通じゃない? 読んだのが私じゃないほかの誰かだったら、酷く叱責されてたかもしれないわよ」
 すると、ちさとさんが茶化すように言う。
「由乃さんで大丈夫なら、きっと誰でも大丈夫よ」
 な、なんて失礼なことを言う奴だ。ほら、葉子ちゃんまで吹き出しそうになってるのを、必死にこらえてる。
「……ふん。とにかく葉子ちゃんは、もっとしっかり現国を勉強すること。それともう一つ」

 自然に笑い合う二人を隔てるものは何もない。
 頼りがいのある姉と、生意気な妹という二人の関係は、リリアン女学園高等部において、新しいステージへと移行した。
「おめでとう、二人とも。山百合会は、あなたたち二人の姉妹としての契りと、そして新しい門出を、心から祝福するわ」
 どこか他人に思えない二人に、精一杯の祝福を。 


 了






▲マリア様がみてる