■12月のラヴソング
夢は夢のままに。
想いは、想いのままに。
いつまでも出遭った頃のままに二人の関係を、二人だけが知る場所に、そっと仕舞って置けたなら。
私はあなたのために。
あなたは、私のために。
世界は二人だけのために存在して、その世界でずっと、変わらぬ二人を演じることが出来たなら。
例え道化と嘲笑われようと、あなたの瞳の中に私がいることが出来るのなら、それだけで私の心は満たされる。
私の瞳の中にあなただけがずっと居てくれるなら。
こんなにも寒い季節、しんしんと雪が降り積もる、吐く息まで凍り付いてしまいそうな季節でさえ、私の心は暖かなもので満たされるはず。
けれど流れる歳月は、泡沫のように儚くて、吹き付ける北風のように、ただただ無慈悲で。
いつか永遠の不変を望んだ二人の絆でさえ、時の流れのままに徐々に風化する。
こんなにもあなたを愛しているのに。
こんなにも、別れ難く思っているのに。
しんしんと降り積もる雪は一面を白く染める。
私の前髪に引っかかった冷たくて白いものは、しかしその姿を留めているのはほんの一瞬に過ぎない。
微かな湿り気を残して、まるで初めから存在しなかったかのように、儚くも消え果てしまう。
◇
あの日、てんやわんやだった学園祭も無事終わり、祭りの終わりを締めくくる炎に照らされながらこの耳で聞いた言葉がある。
──あなた、妹を作りなさい。
と。
それは私、福沢祐巳と、私にとってはこの世で唯一人お姉さまと呼べる人、小笠原祥子さまの関係が、一つの終焉を迎えたことを意味する。
スールシステムという稀有な上下関係を伝統として受け継いでいるリリアン女学園高等部。そこに在籍する者ならば、誰もが一度は通る儀式のようなものである。
姉と妹という一つの世界が終わり、そこに次なる世代の人間を迎え入れる。
妹の、妹として。
山百合会の人間ならば尚更のこと。
妹を作り、次なる山百合会の担い手として正しく育て上げるのは、もう何十年も昔から連綿と受け継がれている儀式でもある。
だがしかし、私は未だ迷っていた。
誰を妹として迎え入れるのか。
妹を作れと言われて直ぐに思いつくのは、二人の下級生の存在。
松平瞳子と細川可南子。
私や祥子さま、そして当の二人がどう思おうと関係なく、周囲の人間たちは、私と二人の下級生のどちらかが姉妹の契りを結ぶものだと決め付けているフシがある。
無論私は二人のことを憎からず思っているし、二人も、多分きっとそう思ってくれているのだろうが。
それでも私は、迷っていた。
右足から踏み出すのか、それとも左足から踏み出すのか。
或いは──。
学園祭からゆうに二ヵ月近くは経過しているというのに、未だロザリオを誰かに渡す素振りすら見せない私のことを、祥子さまはどう思っているのだろう。
師走という時期柄か日々は慌しくも過ぎ去り、ふと気がつけばこの日を迎えていた。
12月24日。
クリスマス・イヴ。
カトリック系の学園だとは云っても、実際に信仰としてこのリリアン女学園に入学してくる人間は一握りだ。
私もその例に漏れず、クリスマスイヴという一日は、漠然と少し特別な日であると認識しているに過ぎない。
祥子さまも、祐巳と同じく信仰の厚い人ではない。
だがしかし、小笠原家の令嬢としての立場は、私みたいにぼんやりとクリスマスイヴを過ごす、なんてことは許されないのだろう。
山百合会メンバーだけで行われたささやかな──先代の薔薇さま方が妙に力を入れていた去年に比べれば──クリスマスパーティーが終わると、祥子さまはやや急ぎ足に帰っていってしまった。
だから声を掛けられなかった。
勿論原因は、それだけではないのだけれど。
祥子さまに対する後ろめたさ。
ここしばらく私の心を支配しているのはそのことだった。
妹を作れと促されたのは、後にも先にも学園祭の後のあの一回だけだったのだが、それでも無言の圧力というものを私は感じていた。
そえは祥子さまと二人、姉妹二人だけで居る時により強く。
恐らく祥子さまは否定するだろう。私の気の回しすぎだと。
いくら妹に関して祥子さまからの促しがあったとはいえ、妹の一人も作れずに、あまつさえ私がそれを憂いて沈み込んでしまっていては本末転倒だ。
解ってはいるのだけれど──。
最近、祥子さまの目を真っ直ぐ見ることが出来ない。
だから、その電話があったとき、本当に驚いた。
夕方頃に、福沢家の電話が鳴った。
父親はまだ仕事中だし、母親は、曰く 「今日の晩御飯に腕によりをかけている最中」 であるらしかったし、祐麒は何処で何をしているのやら未だ帰宅していない。
私は、特に何かを考えることも無く受話器を取った。
「はい、福沢ですが……」
『こんばんわ。リリアン女学園の小笠原祥子と申しますが、祐巳さんはご在宅でしょうか?』
「いきなり押しかけたりして、申し訳なかったわ」
「……いえ」
驚いたことに、祥子さまは家のすぐそばまで来ていた。
おそらくは自家用車でここまで来られたのだろうが、祥子さまと知り合って以来こういったことは一度としてなかったので、私は少々面食らった。
あるいは、何処かで行われたパーティーに参加されて、その足で来られたのかもしれない。
そろそろ辺りには夜の帳が舞い降りてきて、それに伴って気温も下がってきている。
往来でじっとしているのは苦痛だったので、いつしか私たちはあてもなく夜の町を歩き始めていた。
街は色とりどりのイルミネーションで彩られ、道行く人々には男女のカップルが多い。
私と祥子さまは女同士だからカップルではないけれど、だとすれば周りの人間にはどう思われているのだろうか。
リリアン女学園の姉妹。
なんて即答できる人は居ないだろう。
(普通に友達、かな)
それ以前に、街に溢れているカップルは、他人なんて気にしないだろうし。
「祐巳」
学園内で並んで歩くときは、無意識に祥子さまに半歩遅れて歩く私であったが、今は並んで歩いている。
真横から突然呼ばれて顔を上げた私は、続けて祥子さまから発せられた言葉を聞いて驚いた。
「……ごめんなさい」
「え? ええ?」
どうして自分が祥子さまに謝られないといけないのだろう。
むしろ謝らなければならないのは、妹を作れという祥子さまの命令に背く形になっている私であるはずなのに。
「あなたが、そこまで塞ぎこんでしまうなんて、思ってなかったから」
「……」
当惑する私を見つめながら、祥子さまは続けた。
「無理強いをしているわけではないのよ。幾ら山百合会の人間だからって、妹を作らなければならないと言う義務はないの。妹を作られなかった人も、何年か昔には居たらしかったわ。一年前の私とは違って、あなたには親しい下級生が二人も居るようだったから、少しだけ背中を押してあげればいいのかしら、なんて軽く考えていたのだけれど」
祥子さまは多弁だった。
普段はそれほど言葉の多い方ではないから、やはり私を慮ってのことだろうか。
「……私も回りの人間たちと同じだったわね。あなたが、瞳子ちゃんか可南子ちゃん、どちらかを妹にするのとばかり思ってた。でもそれは、当人たちを無視した勝手な思い込みよね……焦らなくてもいいのよ? あなたを慕っている下級生は沢山居るみたいだし──」
「──違うんです、祥子さま」
私と祥子さまの考えには、微かな、けれど大きな齟齬があった。
この事を告白してしまえば、祥子さまは私のことを甘ったれと思われるかもしれない。
あと四ヶ月で祥子さまの跡を引き継いで薔薇さまになるというのに、こんなことを考えてるなんて、自分でも甘過ぎると思う。
それでも、私は──。
松平瞳子ちゃんと細川可南子ちゃん。
二人のどちらかを妹として迎え入れることに抵抗は無い。どちらかを選べと問われたならば、今この場で選んで見せてもいいとさえ思っている。
けれど、私の心を支配しているのは、それ以前のことだった。
誰を妹として迎え入れるのか、ではなく、そもそも妹を作るという行為そのものに抵抗があった。
誰にも邪魔されたくなかったから。
ここまで大切に育て上げてきた私と祥子さまの一つの小世界。
時に擦れ違うことも、涙を流すほどに悲しいこともあったけれど、それらすべてを包含した一つの世界の存在を私は実感していた。
勿論この現の世は二人だけが居るわけではなく、沢山の人たちで構成されているものだけれど。
それを踏まえて尚私は、『その世界』 を第一に考えたかったから。
恋人でもなく、親友でもない。
肉親に対する家族愛ではないし、恋人への募る思いでもない。
だとすればこの感情は一体何だろう。
何処にも属すことの出来ない感情を、一つの世界に閉じ込めておきたい。
ただそれだけを、私は願っていた──。
「……随分、甘いことを言うのね」
祥子さまの言葉は、予想していたとおりに厳しいものだったけど。
声色は柔らかで、その表情は──笑顔だった。
「そんな世界はありはしない。あなたの取るに足りない空想よ」
私は頷く。
祥子さまの言う通り。自分たち以外のあらゆる因子を無視すればその世界は形成される。
だが、そもそも『姉妹』という誰かの手により作られたシステムの上に成り立っている私と祥子さまの関係は、その成り立ちから二人きりではないのだ。
山百合会を捨てることなんて出来ないし、その場所で得た友人たちとも別れ難く思っている。
世界は限りなく広く、無数の因子により成り立っている。
私と祥子さまの存在なんてきっと、あまりにも小さい。
それが現実だ。
「解ってるなら、いいわ」
不意に、髪の毛に触れてくるものがあった。
白くて綺麗な、祥子さまの手だった。
「ただ二人きりで過ごす世界。そこは時の流れすら及ぶ場所ではなくて、さながら楽園のような場所。私もそんな世界を、夢見たことがないわけじゃない──」
──あなたと、二人きりの世界をね。
いつしか空からは白いものが舞い降りてきていて、木々も、建物も、そして私たちもうっすらと雪化粧をしている。
それは確かに冷たくて、ここが現実なのだと自覚させる。
世界は二人きりじゃなくて、色とりどりのモノで溢れ返っている。
時の流れと共に二人の関係は変っていって、いつしかその絆は消えてなくなってしまう。
出遭ったときに既に別れが用意されていて、始まった瞬間に終わりは見えているのだ。
時間の経過に伴う絆の風化により。
あるいは死別により。
あるいは、より大きな絆の形成により。
現実はいつだって残酷で、この場所に留まることを許してくれない。
もう少しすれば私は薔薇さまになり、そして祥子さまは高等部から居なくなる。
やっぱり、残酷だ。
だからこそ、せめてこんな日だけは夢見ることを許して欲しい。
クリスマス・イヴの一夜限り世界。
もう数時間もすれば跡形も無く消え失せてしまう世界。
「メリークリスマス、祐巳」
「……メリー、クリスマス、です。祥子さま」
聖なる夜に祝福されし、私と祥子さまだけの世界を。
◇
夢は夢のままに。
想いは、想いのままに。
いつまでも出遭った頃のままに二人の関係を、二人だけが知る場所に、そっと仕舞って置けたなら。
私はあなたのために。
あなたは、私のために。
世界は二人だけのために存在して、その世界でずっと、変わらぬ二人を演じることが出来たなら。
例え道化と嘲笑われようと、あなたの瞳の中に私がいることが出来るのなら、それだけで私の心は満たされる。
私の瞳の中にあなただけがずっと居てくれるなら。
こんなにも寒い季節、しんしんと雪が降り積もる、吐く息まで凍り付いてしまいそうな季節でさえ、私の心は暖かなもので満たされるはず。
けれど流れる歳月は、泡沫のように儚くて、吹き付ける北風のように、ただただ無慈悲で。
いつか永遠の不変を望んだ二人の絆でさえ、時の流れのままに徐々に風化する。
こんなにもあなたを愛しているのに。
こんなにも、別れ難く思っているのに。
夢は夢のままに。
想いは、想いのままに。
この気持ちを永遠に。
聖なる夜の、一夜限りの永遠を、私にください──。
了
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