■山百合会一年生強化合宿計画


 薔薇の館の階段を、ぎしぎしと音を立てて登る。そろそろこの場所へ通うのもまるまるひと月を数える頃になるが、いまだ地に足のつかない感覚に私、細川可南子は囚われている。
 山百合会の仕事に興味なんてないし、目当ての薔薇さまやつぼみが、いるわけでもない……そう、今は。
 ならどうして、こんな場所で鬱屈としているのかと言えば、それはあの人の所為と断言できる。
 ──紅薔薇のつぼみ、福沢祐巳。
 あの人のことを想うと、胸が苦しくなる。
 と、あらかじめ断っておくが、それは恋に恋する乙女の心、なんて少女趣味全開なモノとは一線を画すものだ。
 あの人には……そう、祐巳さまだけには、せめて汚れの一つもない真っ白なままで居て欲しかった。ただそれだけ。けれど、ただそれだけのために、二ヵ月ほど前までは、執拗に祐巳さまに付き纏っていた。いつ私の父親のような人間に目をつけられても、おかしくないほどに魅力のある人だからだ。
 せめて祐巳さまだけには、真っ白なまま、キレイなままで。そのためには、誰かが害虫駆除を受け持たなくてはならない。けれどそれだけのことをする価値のある人だと思ったから、私はその責務に身を投じたのだ。
 あの人みたいに、汚れて欲しくなかったから。
「……くだらない、のよ。全部。今となっては」
 しかし期待はあっさりと打ち砕かれた。男なんて庇われる祐巳さまなんて、それはもう私の憧れた祐巳さまではない。それを目の前に突きつけられて、もうこの人には関わるまいと心に決めたのが、おおよそ二ヶ月前。あの朽ち果てた温室の中でのことだ。
 だがあの人は、今度は逆に、執拗に私に関わりを持ち始めた。
 体育祭を経て、つまらない約束を交わされて。そうして私は、こんなところへ通うこととなってしまった。
 前進も後退もすることなく。ただ気持ちは停滞したままに、今日もまた私は、薔薇の館に足を向けている。嫌なら来なければいいのに、何故。
(……未練、なの)
 ばかばかしい。それこそ、下らない。
 きしむ階段を登りきり、目の前にはビスケットのような扉が、私に開かれるのを待っている。この扉を開ければ、私は山百合会の空気に身を投じることとなる。たとえ私がどう考えていようが、毎日の煩雑な仕事は、止まることなく押し寄せてくる。今日も、それらに没頭していれば時間はあっという間に過ぎるだろう。過不足なく仕事をこなせば、とやかくも言われまい。
 その先にあるものは、未だ見えないけれど。
「ふぅ」
 つまらない思考を打ち切って、私は扉をノックする。が、中から返事は聞こえてこない。人の気配もないようだから、もしかすると私が一番のりだろうか。
 扉を開けると、そこには無人の空間が広がっていた。別に誰が居ても構わなかったが、誰も居ないもぬけのからというのも、存外に寂しいものだ。
 窓を少し開けて、それからテーブルの掃除でも軽くしてしまおうかと考えていた私は、その、テーブルの上に、妙なものがぽつんとのせられているのを見つけた。
「なにこれ」
 手にとってみることもなく、それは一冊のノートだと見て取れた。何の変哲もない、極めて標準的な大学ノートだ。私だって普段使っている。
 どうせ誰もいないことだしと、私は何気なくノートを手にとってみた。それはまだ新品と言って差し支えないもので、汚れも、ほころびも、殆どない。
 だがしかし、ノートの表紙に銘打たれているタイトル──黒のサインペンでそっけなく書かれていた一文を読んだ瞬間、私の思考は絶対零度をもって凍結した。
  『山百合会一年生強化合宿計画』
「やまゆりかい いちねんせい きょうかがっしゅくけいかく……?」
 なんだ、これは。
 漢字十三文字で綴られたその単語は、ひどく不愉快で、悪寒にも似た感覚を私に与える。
 山百合会の一年生とは、つまり二条乃梨子さんのことである。が、一人で合宿というのはおかしいにも程がある。だからこの場合、松平瞳子さんと私を含めた三人と言うことになるのだろう。
「馬鹿げてるわ。私たち三人が合宿だなんて、馬鹿げてる」
 馬鹿げてるとしか言いようがないが、一体このノートがどういう経緯を辿ってきたのかは大いに気になるところである。どうせ誰もいないのだ。しかも、読んでくださいとばかりに、机の上に放置してあるのが悪い。
 そう自分を納得させて、私はその忌まわしいタイトルが刻まれているノートに、目を通すことにした。

 ノートを一枚めくると、大き目のサイズで書かれた文字が視界に飛び込んでくる。
 『ぎじろく』
 ぎじろく? 議事録のことだろうか。やや丸みをおびたその字は見覚えがある。祐巳さまのものだ。
(議事録ぐらい、漢字で書けよ……)
 その下には、やや小さめな文字でこう記されている。
 『参加者:藤堂志摩子、島津由乃、福沢祐巳 進行:島津由乃 書記:福沢祐巳』
 つまりこういうことらしい。
 あの姦しい三人が、会議の真似事をして、その会議の内容を記したものが、このノートだというわけだ。会議の議題は、言うまでもない。
(馬鹿ばっかりだ……)
 由乃さまと祐巳さまが薔薇さまとなり、あの三人で高等部を率いていく半年後が、今から不安でならない。
「ふーん……」
 議事録とやらは数ページに渡って綴られており、ぱらぱらと眺める分にそれはむしろ、議事録というよりも小説に近いものであるようだ。
 誰かが発した言葉が書かれているのは良しとしよう。だが、まるで小説のようなモノローグまで綴られているのはどういうことだ。しかも、祐巳さまの視点で。
(大丈夫なの、あの人……)
 眩暈にも似た感覚をとりあえず隅に押し込んで、私はノートと向き合うことにした。



   §


「二人とも、一年生の三人を見てどう思う?」
 何の脈絡もなく紡がれた由乃さんの言葉の真意を図りかねて、祐巳と志摩子さんは思わず顔を見合わせた。
「どう……って」
「ねぇ」
 一年生三人──乃梨子ちゃんと瞳子ちゃんと、可南子ちゃんか。彼女らを見て思うことと言えば、三人のうちの二人はやや背が低く、もう一人は高い。
 けれど由乃さんが言っているのは、そういうことではないような気がする。
「……少し、無理してるような気が、するわ」
「それよ」
 遠慮がちに言う志摩子さんに、由乃さんは肯定の言葉。まあ、だいたい同じようなことを、祐巳も考えていたんだけれど。
「なんか、三人とも、一線引いてるのよね。もうちょっとあの三人、仲良くできないものかしら」
 別に自分たちと比較してとか、そういうのじゃないけれど。
 客観的に見て、あの三人を、『仲良し三人組』と形容するのは、無理がある気がする。乃梨子ちゃんと瞳子ちゃんは仲がいいらしいけれど、可南子ちゃんが絡むと、どうにも二人の態度は硬化してしまうようだ。
 それは瞳子ちゃんと可南子ちゃんが、犬猿の仲、という原因なのだろう。
「なんとか、垣根を取り払ってやりたいのよね。いつまでもつまらなそうな顔されてちゃ、こっちだってあんま気分良くないしね」
 その言葉を受けて、祐巳と志摩子さんは再び顔を見合わせた。
 こんな時由乃さんなら、「本人たちの勝手」 なんてうそぶいて、絶対に干渉なんてしない人だからだ。自分にも他人にも、割と厳しい人だから。
 そんな二人の思考を知ってか知らずか、
「カンチガイしないでね。最近、姉がうるさいもんだから。下級生の面倒一つ見てやれないで、妹なんかできっこない、なんてね。だから、少しは反論するための材料が欲しいのよ。つまりは自分のため。あの連中のためじゃないわ」
 三たび、祐巳と志摩子さんは顔を見合わせた。今度は二人とも、やや苦笑い。何故って? だって由乃さんの言うことが、とっても島津由乃らしいセリフだったから。

「さしあたって、私はお泊り会を開かせることを提案する」
「お泊り会……」
「正気? 由乃さん」
「一つ屋根の下で、ご飯食べて、お風呂入って、そして同じ部屋で眠る。共有する時間の長さは、そのまま絆の深さに繋がる筈だわ」
 ──お泊り会? そんな、小学生じゃあるまいし。
 ──乃梨子さんとの二人でなら、構いませんけど。
 ──そんなの、ガラじゃないです。
 おお、三人の拒絶の声が頭の中で響き渡る。賭けてもいい。あの三人は、絶対に。そもそも、『お泊り会』 という単語に、拒絶反応を示すであろう。
 というかぶっちゃけ、お泊り会という単語に拒絶反応を示さないのは、現山百合会では我々だけではなかろうか。
「そんな風に強要したって、どうしても嫌なことは、絶対やらないと思うよ。あの三人は」
「乃梨子ちゃんにイニシアティブとらせればいいのよ。志摩子さんの言うことなら、何でもほいほい聞いてくれるでしょうし」
「……無茶言わないで」
 いくら乃梨子ちゃんが志摩子さんにぞっこんだからって、「乃梨子、お泊り会を開きなさい」 「いやですそんな、くだらない」 
 それがきっかけとなって、せっかくの姉妹仲が冷え切ったらどうする。
「そうねぇ……。お泊り会って言うときっと、あの連中はごねるわね。そうよ、じゃあ、こうすればいい。お泊り会なんて野暮な言い方じゃなくて……」


  §



「……合宿」
 頭が痛い。
 学園祭も間近に控えたこんな時期に、そんなことを話し合ってるあの三人組と、それをわざわざノートに取ってる祐巳さまと。
 そうして、このままでは合宿という名を借りたお泊り会を、強制的に敢行させられてしまうという事実に対して。
 ここまで一息に読んできたが、まだまだ続いてるようだ。どうせなら最後まで読んでやると、なんだか妙な意地が湧いてきたところで、
「かっ、可南子ちゃん……」
 とある人物の来訪により、私の読書タイムは遮られることとなった。
「……祐巳さま」
 あらゆる意味で私の運命を狂わせた──いや、現在進行形で狂わされつつある人物。このノートの記し手でもある一つ上の先輩、福沢祐巳。
「もしかしてそのノート、読んだ? 全部?」
 私は頷いた。厳密には全部ではないが、概要は把握した。不本意だが。
 頷いて、そのノートを持ち主へと差し出す。これ以上この場で読みふけるのは、さすがに失礼だろう。
 だから私は、はっきりとこう言わねばならない。
「私にそんな気はありませんから。あの二人とお泊り会を開くだなんて。くだらないにも程があります」
 私の言葉を受けて、祐巳さまの表情は、目に見えてこわばった。それは、終始平和的な雰囲気とスタンスを崩さない彼女にしては、らしからぬリアクション。平たく言えば、そう、『怒り』 だ。
「姉妹でもない人間に、どうしてそんなことを強要されなくてはならないのですか。自分の面倒くらい自分で見ます」
 すると祐巳さまは、どこか得意げな表情を浮かべ、

「……ふーん。じゃあ、姉妹なら構わないんだ」
「え……?」

 あの人の勝ち誇ったような声と、自分の心臓が跳ね上がった音を、私は、どこか遠くに聞いていた。


 了






▲マリア様がみてる