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■氷の国のアンジェ


 ──私は今もきっと、あの氷の国の天使を追いかけている。


 当時六歳だった私が初めてスケートというものに触れたのは、両親に地元のスケートリンクに連れて行ってもらった時のことだ。
 学生時代にスポーツマンとして熱心に活動していた父親と母親は、娘である私にも何らかのスポーツをさせたがっていたようで、水泳やスキー、山登りなど、小学校に上がる前から様々なスポーツを、一種の子供の遊戯としてやらされていた。
 無論その当時の私には、”させられていた”などという感覚もなく、むしろ両親とスポーツを通して遊べることが、何よりも楽しかったことが印象に深い。

 そして、そんな風変わりな両親の愛情よりもなお深い印象として刻まれているのが、初めて行ったスケートリンクで出会った光景だった。


  
  ◇   ◇



「ミキ、怖がっちゃ駄目。腰を引いてるから転んじゃうのよ」
「そ、そんな事言われたって。だって怖いんだもん」
 まるで散歩でもするように氷の上を滑る母親の、楽しげな声。いつもなら心休まる声であるが、切羽詰った今の状況では、つい疎ましく感じてしまう。
 それでも、なけなしの勇気を振り絞り、完全に引けていた腰と、慣れないスケート靴のせいで綱渡りのように笑っていた膝を引き締め、前へと進もうとするが……。
「きゃ!」
 瞬間、視界がぐるりと一回転したかと思うと、次の瞬間には冷たい氷の上にしたたかにお尻をぶつけていた。 
「いったーい……」
 痛さと情けなさに、知らず目じりに涙が溜まってくるのを感じるが、前髪を払う振りをして、慌ててそれをぬぐう。
 がまんがまんと自分に言い聞かせる。簡単に泣いたりしたくなかった。
 大丈夫、と言いながら母親が駆け寄ってくる。
 一人で立つこともままならず、母親に抱えるようにして起こされるうち、助言通りにしたのに結局は転んでしまったことを思い出し、つい母親に恨み言の一つも言いたくなる衝動に駆られたが、それもまた情けない事だと、結局は唇を噛みしめた。
 髪や服についていた氷の粒を、母親が優しく払ってくれる。
「スケートはね、難しいの。力を入れれば転んでしまうし、でも力を抜きすぎても駄目なの。お母さんだって最初は、滑ってるより転んでる時間の方が長かったわ」
 丁寧に諭すように、また慰めるような母親の言葉だったが、しかし陸上競技や水泳、スキーまで六歳の児童としては誰よりも持っていた自信が、地面が土や雪、アスファルトから氷に変わっただけであっさりと砕かれてしまったショックをフォローしきれるものではない。
 そんな言葉を知るはずもない年頃だが、人生で初めて味わう挫折だった。
「よ、ミキ。スケートは楽しいか?」
 そのとき、氷の上の母子の傍に颯爽と寄ってきたのは、三十代過ぎ頃の長身の男性。両親の片割れ、他ならぬ父親である。
 漫画やアニメに出てくるような、いかにもな親父臭さを全く感じさせず、時に子供のように目を輝かせて一つの物事に熱中するような父親が好きだった。
 このスケートリンクにおいても、「軽く滑ってくる」と言い残して、一人で自由に滑りに行ってしまう父親のスケーティングは、確かに素人離れした上手さがあり、リンク内でも人目を引いていた。
 そんな父親の格好良さに少し嫉妬を覚えたし、遠巻きに父親のスケーティングを見入っている人間たちにもまた、同様だった。
 ゆえに、父の前で格好の悪い様は見せられない。
「もう少し練習してみる。少し分かってきたから」
 少しは自分の娘の面倒も見なさいと母親に叱られ、ぐうの音も出ない父親に背を向け、リンクの壁面伝いにおそるおそると歩いていく。
 後ろの方で父親と母親が、小声で何事か話し合っているのが聞こえたが、振り向いたら格好悪いと思った。
「お父さんとお母さん、上で少し休憩してるから。気をつけてがんばってね」
「うん」
 短く返事をして、また歩き出す。
 正直、どのタイミングで投げ出してもおかしくなかったと思う。
 それでも投げ出さなかったのは、単なる意地か幼いプライドか。あるいは、他のスポーツにはない不思議な魅力を感じたのだろうか。
 壁伝いにへっぴり腰で進んでいた、当時六歳の私の名前は、安藤ミキ。
 スケートというものと初めて真面目に向き合った瞬間だった。


 休憩すると言う両親と離れて一人で黙々とスケートの練習をしていた私だったが、一時間もすると、強がりではなく実際に、スケートというものがおぼろげきわかってきた。
 要は母親のアドバイスにあった、「力を入れすぎても抜きすぎても駄目」というのを実践できるようになったということだ。
 もちろん分かってくるまでに何度も転んだのだが、一度転んでから次に転ぶまでのスパンは、明らかに長くなっていった。
 今では壁から少し離れ、リンクをぐるぐると回るくらいは出来るようになっていた。
 滑るときの手の位置などにも拘り始めたとき、客席に両親の姿を見つけた。こちらを見ながら、楽しそうに話している。
「おとうさーん、おかあさーん」
 私はそう言いながら、大きく手を振った。直後にバランスが崩れてひやりとしたが、何とか持ち直せた。
 不意に両親と喋りたくなったので、いったん切り上げてスケートリンクから出ることにした。
「やるじゃないかミキ。さすが、飲み込みの早さは父さん譲りだな」
 と、父がとても嬉しそうに私の頭をわしわしと撫でてくれた。
「お母さんのアドバイスが良かったのよ。ねえミキ?」
 母もまるで自分のことのように、とても楽しそうに言う。
 スポーツ万能で格好良くて、でも少しだけ子供っぽい。そんな両親のことが、私は大好きだった。
「うん。スケートって、とっても楽しい!」
 私がスケートを楽めていることは、両親にとっては何よりも嬉しいことらしい。
 両親は私に、生涯を通して何らかのスポーツに関わって欲しいと望んでいるようだ。
 幼い頃からさまざまなスポーツを遊び半分でさせてもらっていたのはそういう理由からで、両親の言い分としては曰く、「スポーツは人を健全に成長させる。スポーツから得るものはとても多い」からだそうだ。
 両親が出会い結婚に至ったのも、スポーツを通してのものだったからこそ、その信念はひとしおなのだろう。
 幼い頃からスポーツに親しみ、そしてスポーツに触れることを何よりも楽しみとする私にとって、それはもちろん不満のあるものではなかった。
 だが、娘が選んだのがスケートだったという事には、両親はもちろん、私にとっても予想できるものではなかった。
 そろそろお昼にしようと父親が切り出し、スケート場の設備である喫茶店兼食堂で、軽い昼食を摂ることになった。
 両親のプランとしては、午前中スケートを楽しみ、お昼を食べ、午後からは家族で買い物をして帰ろうというものだったらしいが、私が午後からも滑りたいと主張したことにより、もうしばらくスケート場にいられることになった。
 両親も午後から少し滑ったが、流石に疲れたということで、喫茶店で休んでいる。
 その間も、私は黙々と練習を重ねていた。
 お昼前を境に客足はピークを過ぎ、今ではスケートリンクの中は、私を含め数名と閑散していたため、練習するのには最適だったというのもある。
 スピードスケートのように可能な限りのスピードを追い求めてみたり、また、フィギュアスケートのように踊りの真似事をしてみたり、など、自由気ままの練習であった。
 不思議な感覚だった。
 氷の上では、人はとても不自由だ。雪だってもっと融通が利く。水中もそうだし、逆に土やアスファルトの上では、不自由を感じることはない。
 だからだろう。思い描いたイメージ通りの動きが出来ると、達成感や充実感がひとしおなのだ。
 もっと氷を理解したい。そんな欲求があとから沸いてくる。
 時間や疲労を忘れて自由に滑っていた私を、不意に現実に引き戻す──あるいは氷の世界へと釘付けにするような光景に出会ったのは、そんな時だった。


 それはおそらく、私と同い歳くらいの、一人の女の子だった。
 トレーナーの上にジャンパーを羽織り、腰くらいまでありそうな長髪をシンプルに後ろで一つに纏める、という飾り気のない格好だ。
 ぱっと見では、人目を引くような要素はなにひとつなかった。だが。
 リンクの入り口でスケート靴を履き、氷の地面に一歩を踏み出したその瞬間に、彼女から少し離れたところにいた私の息は、驚きに止まった。
 水を得た魚のよう、ということわざを知るのはずっと後のことだが、その少女の氷の上での振る舞いは、まさにそういったものだった。
 リンクの壁面伝いに徐々に加速し、半周に差し掛かるころには、完全にその子の姿しか目に入らなくなっていた。
 私のスケートとはもちろん、比較にもならないほどのレベルの高さ。
 というか、彼女の滑りと比べれば、私のそれは単なるお遊戯だ。
 その子も同じリンク内で、同年代くらいの私の存在に気づいたようで、私の直ぐ傍を通り抜けていく際に一瞬だけ目があったのだが、それは文字通り一瞬だった。それくらい彼女のスピードが速かったということだ。
 リンクを一周した彼女は、今度はリンクの中央へと向かって行く。
「あッ!」
 思わず私は叫んでいた。彼女の身体が、何の前触れもなくふわりと浮き上がったからだ。
 無論ジャンプしたからに決まっているのだが、私には得体の知れない力で引っ張り上げられたように見えた。それくらい、自然な挙動だった。
 だが、人は飛ぶことはできず、落下はまぬがれない。
 堅い氷の上への激突の瞬間を予想し、思わず目を瞑りそうになった。
「……うそ!?」
 しかし彼女は激突しなかった。空中でくるりと身体を翻すと、全身をしなやかなバネのように使い、見事に着氷して見せたのだ。
 今の一連の動作を行う自分をイメージしてみるも、イメージすら及ぶものではない。それほどに、圧倒的だった。
 私と同じ年くらいの女の子が、まるで氷の上で天使のように振る舞っている。とても信じられたものではない。
 まばたきをすることも忘れて立ち尽くしていたから、その子が近付いてくることにすら気づかなかった。
「……キミ、一緒に滑ろう?」
 状況を理解するのに、しばらくの時間を要した。
 氷の国の天使が私に話し掛けている。一緒に滑ろうと。
「う、うん」
 断れなかったのは、了承か拒否かの判断が出来なかったからだ。それほどに深い衝撃を受けていた。
 その子がスキップでもするように、自然に滑り始める。私もつられて、同じような挙動で滑り出すが、出来ないことが唐突に出来るようになったりはしない。
 当然の結果として、考え無しに彼女のスケートの初速度にあわせた私は、無様に転んでしまった。
 幸いにどこかを強く打ち付けることはなく、お陰でようやく現実に戻ることが出来た。
「む、無理に決まってるじゃない! いっしょに滑るなんてっ」
「なんで?」
「それは……その、私は『シロウト』だからよ」
 素直に出来ないとは認めたくなかった。だから覚えたばかりで漢字も知らない言葉で対抗したのだが、逆効果だった。
「シロウトなの?」
「そ、そうよ」
「シロウトって、へたっていう意味だっけ?」
「……そう。下手だから一緒に滑るなんて無理」
 実際には少し意味は違うのだが、素人だから下手なのは当然なんだ、と冷静に主張することなど、当時六歳の私には出来るはずもない。
 捨て台詞のように言い残してスケートリンクから出ようとすると、上着の裾をすごい力で引っ張られて、情けなくも引き戻されてしまった。氷の上だからこそのコミカルな光景だ。
「じゃあ教えてあげるから、上手くなったら一緒に滑ろうよ」
「……そんなに直ぐに上手くなれないもん」
「じゃあ明日でもあさってでも、いつでも教えてあげる」
「……うぅ」
 彼女の中では、私と彼女が一緒に滑ることが既に確定事項になっているらしく、その実現のための障害は、とことんまで取り除こうと。そういう腹づもりらしい。
 結局、その子の妙な迫力に気圧され、その誘いを受諾する羽目になった。


 彼女のスケートは正に氷の妖精じみていて、鮮烈に印象を残すものだったが、彼女の初心者へのスケートの教え方もまた、ある意味で印象に深いものがあった。
「これは出来る?」
 そう言って彼女は手を後ろで組んで、アメンポが水面を軽やかに駆けるように、スケートリンクを進んでいく。
 挙動としては私にも出来なくもないものだったが、異なるのはスピードが段違いなことだ。
「……わかんない。やってみる」
 しかし、やりもしないうちから出来ないとは言いたくない。見真似で彼女のように後ろで手を組んで、スピードもなるべく近いものを出すべく、力を込めて氷を蹴る。
 直後に待っていたのは、前方につんのめった挙句の膝からの転倒であった。
「いたい……」
 お尻と違い膝は堅いから、その分痛みもひとしおだった。思わず涙が溢れそうになる。
「大丈夫?」
 彼女が寄ってきて、心配げに言う。しかし、大丈夫かと聞かれたら、どうしたって大丈夫だと答えたくなる。
「このくらい大丈夫」
「そう、じゃあ続けよっか」
「……」
「ええとね、速いスピードで滑るにはね、身体を前に少し倒して、それで……」
 トライアンドエラーとでも言うべきか。
 彼女の指導方針としては、「先ず実際にやらせてみて、転んだら身振り手振りで教える」というものだった。
 実際にやって出来れば良いのだろうが、素人の私にとっては、何もかもが難易度ウルトラCの大技に等しい。
 ゆえに徹底的に転んだ。転んで、滑り、そしてまた転んでと、身体で覚えるとは正にこの事だった。
 子供は疲れを知らないと言うが、それは疲れという概念を知らないだけで、疲労は確実に蓄積されていく。
 転んでばかりの私は当然として、いちいち身振り手振りで教えてくれていた彼女の疲労もそれなりだったようだ。
「もう五時だ」
「五時だね」
 彼女もくたくただったが、私はボロボロだった。お互い口数も少なくなり、今日と言う日の終わりを予感させる。
「明日は来る?」
「明日は学校だもん。あさっても、その次も無理だよ」
「じゃあ次の日曜日?」
「……わかんない。お父さんとお母さんに聞いてみないと」
 話しながらリンクから出ると、彼女はスケート靴を手早く脱ぎ、「またね」と言い残すとさっさと帰ってしまった。
 ちなみにその段階で私はまだ、スケート靴の紐を解いてすらいなかった。
 私の靴はスケートリンクから貸し出されたものだが、彼女は自前の靴で滑っていたらしい。
 自分がお昼からどれだけ上達したのかとか、そういう実感は全くない。ただただ必死に身体を動かしていただけ、という感じだ。
 終始ペースを握られっぱなしだったのは、おそらく彼女の滑りを見たショックが今に至るまで抜けていないからだろうと思う。
「すごい先生に目をつけられたな、ミキ」
「お父さん」
 のろのろとスケート靴を脱いでいると、客席の方から、笑顔の両親が歩いてきた。なんということはない、両親は、私とあの子のリンクでのやり取りの一部始終を見届けていたのだ。
「ミキと同じ年くらいかしら? すごく上手な子だったわね。あ、ミキもすごく上手になって、お母さん驚いちゃった」
「そうかなあ。私、ぜんぜん上手くなったってカンジがしない」
「そんなことないわよ。ねえお父さん」
「ああ。半日であれだけ滑れれば大したものだ。将来はミキとさっきの子で金メダルを争ったりするかも知れないなあ。ははは」
「もう、お父さん気が早すぎよ。うふふ」
 楽しそうに笑う両親をよそに、私はとある決意をしていた。何も悩む必要はない。私は素直に両親に打ち明けた。
「ねえ、また今度ここに連れて来て。もっと滑ってみたい」
 そう言うと、父親は満足そうにうなずいた。
「ああ、いいぞ。来週でも再来週でも、ミキが来たい時に連れて来てやるぞ」
「じゃあ、明日がいい」



 さすがに翌日に再びスケートリンクに来訪というわけには行かなかったが、次の日曜日には連れて行ってもらえることになった。
 あの日は極度の疲労で死ぬように眠り落ちてしまったものだが、翌日以降はなかなか寝付けない日々が続いた。
 氷の上で滑るイメージばかりが先行し、気分が落ち着かないこと。
 そして、抜群にスケートが上手だったあの子の滑りが、時間が経つにつれて印象としてより深くなっているからだ。
 とにかく、早く氷の上に行きたい。そして──
「キミ、また来てくれたんだ!」
 入念にスケート靴の紐を縛り、緊張気味にスケートリンクに入ると、いきなり自分に話し掛けてくる声があり、私は驚いて転倒した。
「わ、大丈夫?」
 転倒して打ちつけたお尻を撫でながら、私はゆっくりと起き上がる。例の女の子が立ち上がる際に手を貸してくれた。
「うー、いたかった」
 先週日曜日の特訓を経て、私は転び方もそれなりに上手くなっていた。
 大して痛くも無かったのだが、せめてもの仕返しにと痛がる振りでもしてやる。
「ごめんなさい。キミがそんな簡単に転ぶとは思わなかったから」
「……」
 別に不愉快ではなかったが、ちょくちょく飛び出す天然気味の発言が気になるところではある。
 それにしても、一応の口約束はあったとはいえ、こうもあっさりと再会できるとは思っていなかった。
「それじゃ、練習しよっか。えーっと今日はねえ……」
 またスケートをやりたいと思った。
 この子に再び会いたいなと思ったのも事実。
 だが、その機会を前にすると、また以前のように転んで転びまくるのは少し憂鬱だなあと考えずにはいられなかった。
「ん? 今日はやっぱり練習やめとく?」
 意外に気が回る性格なのか、私のわずかな気後れを感じ取ったらしい。
「いや、やる」
 恐らく『一緒に滑ろう』と誘われて、しかし私の力量の問題でそれが叶わなかった時点から、決まっていた事なのだ。
 もっと上手になりたい。もっとスケートと触れ合いたい。
 やや漠然としたそれらの目標──というより欲求に近い渇望はあったが、同時にもっと具体的で、もっと明確な目標があったのだ。

 ──あの子と一緒に滑りたい、という目標が。

 その日から本格的に私とその子の練習は始まった。
 今はそうでもないが、当時のスケートリンクというと閑古鳥が鳴いているところが多く、練習と称して私が通い詰めていたスケートリンクも例外ではなかった。
 そんなことを知らない当時の私は、自由に練習が出来てたいへんに気分が良かった。
 一応の”先生”たるその子とは、ほどなく暗黙の約束事項として、日曜日の午後からスケートリンクに集まるという取り決めが交わされた。
 はじめの数回は日曜日になると父親に車で送ってもらっていたが、何度目からかバスで通うようになった。
 何だかんだで娘である私に対して”だだ甘”だった父親だか、母親は常に私の精神的自立を考慮していたらしく、その母の薦めである。
 そんな経緯を踏みつつ、私とその子の練習はどんどんと進んだ。
 ただ滑るだけをひたすらに練習した最初の数回から、ターンと重心移動に移行したのが五回目の頃。速く滑ること、なめらかにターンすること。そして安全確実に停止すること。それらをよどみなく出来るようになったのは十回目の頃だ。
 そして、その頃には私たち二人のことはスケートリンクにおいて知らぬ者はいなくなっていたようだ。
 年端もいかない少女二人が、たたひたすらに黙々と、地味すぎるくらい地味に練習を重ねている。
 しかも教えている側の子供は、年不相応に抜群に上手い。
 冷静に考えれば、確かに奇異の視線の対象になってしかるべきだ。
 私としては、それなりに他人の視線は気になったが、それ以上にスケートが楽しかった。少しずつ出来ることが増えていく事もさることながら、純粋に滑ることが楽しかったのだ。
 対してその子は、周囲の視線など全く気にならない風に見えた。
 よほどスケートが好きで周囲が気にならないのか、当時の私は少し疑問には思ったのだが、その疑問は直ぐに消えてなくなった。子供って、そういうものだ。
 そして、にわかには信じがたいことであるが。
 既に十数回の練習の機会を経ていたにも関わらず、私はその子の名前を知らなかった。
 子供ってそういうものだ──とは言い切れないものがあるが、それだけ私たちがスケートの練習に夢中になっていたという事だろう。
 きっとお互いにとって、名前はあまり重要じゃなかった。
 だが、そんな幼く奇妙なやりとりは、ある日を境に唐突に途切れることになる。



 とある日曜日。
 いつものようにスケートリンクへ向かい、すでに顔なじみとなっていた受付の女性に、母親からもらっていたリンクの利用料金を支払うと、受付の女性はそれを受け取ろうとして、しかし何かに気づいたように手を止めた。
「……今日はね、あの子は来てないのよ」
 もちろん受付の女性も、私と彼女が熱心に練習をしていることは知っている。そして、彼女がいつも私よりだいぶ早い時間にスケートリンクに来ていることも。
「え、ど、どうして? どうして来てないの?」
「うーん、私に聞かれてもねぇ」
 受付の年配の女性は、それでも親身になってくれているようで、本気で悩んでいる素振りを見せた。
「あの子は、年間フリーパスのチケットを持っているから、ここはほとんど素通りしていくんだけど、いつも十時くらいには来ていたわね。日曜日だけじゃなくて土曜日も。平日も夕方頃に来ることはあったわ。きっと近所の子なのね」
「そ、そんなに?」
 私としてもスケートリンクに通い詰めているという自負はあったのだが、あの子はどうやら次元違いらしい。
「あの……あの子の名前って分かりますか?」
 そう聞くと、今度は受付の女性が驚いたようだ。あれだけ会っていて名前を知らないという不自然には、さすがに当時の私でも理解が及ぶことだった。
 本来は店の規則として他のお客の情報は他言してはならないらしいが、私に他意がないことを知っている受付の女性は、特別に名前を教えてくれた。
 だが、教えてもらったところで何が出来るはずもない。
 苗字から電話帳を調べるといっても、ごくありふれた苗字であったから、手がかりなど掴めないだろう。
 料金を支払い、スケートリンクへと向かってみたが、やはりあの子の姿はなかった。普段なら、私が来たのを目ざとく見つけて、直ぐに寄って来るはずのあの子はいない。
 いつもと同じように練習を始めるが、あの子がいなくては新しい滑り方は教えてもらえないし、なにより一人ではつまらない。
 結局、ものの一時間程度で限界を覚え、スケートリンクを後にした。
 受付の女性は、あの子がやって来たら、私が残念がっていたと伝えておくと言ってくれた。
 だが、いつも居るはずのあの子がいなかったというショックは、ずっと私の胸に残り続けた。
 それからも何度か、日曜日だけでなく前日の土曜日にもスケートリンクに足を運んでみたりもした、あの子との邂逅はかなわなかった。
 すでに私のスケート技術は小学生としては相当なものになっていたはずだが、氷の上を不自由なく滑れるようになっても、気持は一向に晴れ行かない。
 無茶をしなければ転ばない自信もついた。少しずつに教えてもらっていたジャンプだって、それらしい事は出来るようになった。しかし──。
 ここ最近私にあまり元気がないのを気にして、母親が心配していた。
 相談してどうにかなるものではないと幼いながらの自覚はあったが、話してみる事にした。
「そう、あの子が」
「……うん。ぜんぜん会えないの。時間通りに行ってるのに」
「きっとね、何か事情があるのよ。じきにまた来てくれると思うわ。それまではお父さんとお母さんが一緒に滑ってあげるから」
「うん……」
 母親の気遣いに私は一応うなずいておいたが、すでに私の実力は、ことスケートに限れば両親を超えていたと思うし、ただ滑るだけじゃダメなんだ、という確信があった。
 あの子と一緒に滑りたい。願うのはただそればかりだった。
 それでも私は根気良くスケートリンクに通い続けた。
 常識外れに密度の濃い練習により、年の割りに図抜けた実力でスケートリンクを滑る小学生。
 いつも一人で黙々と滑る私を見て、いつのまにか二代目に代替わりしたなと、リンクの常連客はそんな風に思っていたかも知れない。
 それでも私は、ひたすらに待ち続けた。氷の国の天使を。
 そして、ついに再会の機会を得た。


 その日も私は、スケートリンクを訪れていた。
 初めて両親に連れられてここを訪れたときから、すでに三ヶ月ほどが経過しており、幼いながら私にとって一種の社交場と化していた。
 店の人間にはすでに顔と名前は覚えられているし、小学校一年生という年齢ながら一人でこんな場所に訪れる私を気遣って、常連客である大人たちに飲み物を奢ってもらったりと、なにかと周囲に世話を焼いてもらっていた。
 次の次の次の冬季オリンピック金メダル候補、などという良く分からない肩書きをもらったりもした。無論当時の私はオリンピックが二種類あることなど知らなかったが。
 昼頃にリンクを訪れ、今の自分に出来ることを一通り滑り終えて、少し休憩を入れることにした。
 あまり入れ込みすぎず、適度に休憩をすること。というのがスポーツをする上での父親の教えだった。
 それを鑑みるに、あの子の教えはややそこからは逸脱していた。私が言い出さなければいつまでも練習に明け暮れる、そんな子だったのだ。
 ふとした切っ掛けであの子のことを思い出す。
 寂しさの処理など当時の私に出来るはずもなく、憂鬱な気持ちでリンクを出ると、入り口に見知った姿を見つけて、私の気持は一気に高ぶった。
 とにかく身体が動いた。
 言いたいことは色々とあったはずだが、頭の中でうまく明文化されず、スケート靴を脱ぐのもそこそこに、ただ私は動いていた。
 入り口までものの十数歩の道程だ。
 そして私の前にいるのは、待ち焦がれていた”あの子”に他ならなかった。
「さっきから見てたよ。キミ、すっごく上手になったね」
 私は頭の中が上手く整理できていないのに、その子ときたら相変わらず私のスケートのことしか気にしてない。
 嬉しいやら悔しいやら、可笑しいやらで、私はその子の両手をぎゅっと握り締めていた。
 待ち焦がれた相手だが、抱きつくのは難易度が高い。上手な日本語で再会の喜びを伝えるのも、また高い難易度をほこる。
 だから結局私に出来たのは、その子を逃がさないようにしっかりと捕まえておくことくらいだったのだ。
「……待ってた。すごい待ってた」
 ようやく出てきたのは、正直な気持ちを表しただけの言葉。
 だから、その子の言葉も、きっと正直な気持ちだったに違いない。
「キミ、一緒に滑ろうよ」

 そうして私たちは、ゆうに一ヶ月ぶりに同じスケートリンクに立つことになった。
 不思議と、練習をしようという雰囲気ではなかった。
 思えば私も、何かを予感していたのかも知れない。すでに一緒に練習をする時間は終わっていて、今日は本当に特別な再会だったのだと。
 ならば、私の力量がどうのこうのという話ではなく、したいことをしたい。
 一緒に滑りたいという願いをかなえるのは、今をおいて他に無いのだから。
「どうしようか」
 それでも簡素な打ち合わせは必要である。一緒に滑る、という行為はあまりに漠然としている。
「キミ、自由に滑っていいよ。私があわせるから」
「わかった」
 実力差を考え、それが妥当だろう。低いところから高いところにあわせるのは出来ないのだから。
 足を動かす。重心移動はすでに無意識に行える。みるみるうちに加速し、スケートリンクの壁伝いに滑っていく私のほんの少し斜め後ろに、その子が同じスピードでついてくる。
 すでに温まっていた身体は私の思うとおりに動いてくれる。今、このスケートリンク内で、私たちより速いものはなかった。
 だが、彼女が私に教えたのは、スピードスケートではない。
 壁伝いにリンクを一周したところで、私は小さく合図を出した。あらかじめ取り決めたものではないが、意図は通じたはずだ。
 スピードを殺さず、リンクの中央に向かってターンをする。エッジが氷上を削ぐ音は殆ど一つしか聞こえない。彼女はエッジの音を抑える技術を持っているのだ。それも教えて欲しかった。
 リンク中央に向かうさなか、予期せぬことが起きた。彼女が私の半歩先を滑り始めたのだ。そうなると自然、私が彼女に合わせることになる。
 その瞬間、ぞくりとしたものが首筋に走った。
 ──置いていかれる。本能がそう悟った。
 そのまま私たちは中央を抜け、再び壁際へと向かう。
 前を行く彼女が、タイミングを測りつつ後ろ、つまり私のいる方向を向く。後ろ向きに滑る格好だが、慣れれば意外に安定して滑ることが出来る。
「教えたよね、サルコウジャンプ」
「……」
 答えられなかったのは、ジャンプの如何ではなく、純粋に余裕がなかっただけだ。
 壁際から少し離れたところを滑って行き、そして彼女の身体がふわりと浮かび上がった。そう、初めて彼女の滑りを目撃したときのジャンプが、このサルコウジャンプだったのだ。
 予告どおりのサルコウジャンプは空中で一回転の軌跡を描き、着氷と同時に氷の粒がきらきらと輝く。
 彼女はジャンプを成功させたが、私はそれにただ見惚れることしか出来なかった。
 確かにジャンプの中で一番簡単なサルコウジャンプは教えてもらったが、成功頻度は十回に一回といったところだ。
 あとの九回は転倒か、良くてバランスが大きく崩れた着氷になる。
 しかも、私のジャンプはただ跳ねるだけ。力任せに踏み切り回転し、運よく着地できれば成功という出たとこ勝負もいいところのシロモノだ。
 だが、彼女のジャンプは芸術品だった。滑走から跳躍、そして着氷までの動作によどみがない。
 舞い散った氷の粒が髪や身体に付着し、一種の幻想的な雰囲気をかもしだしていた彼女が、落ち着いた声で言う。
「大丈夫。今のキミなら跳べるよ」
 彼女は後ろ向きに、再び跳躍する。今度は見惚れている余裕は無い。彼女のジャンプに一拍をおき、私も慎重にタイミングを測りつつ後ろを向き、そしてジャンプに挑む。景色がぐるりと回った。
 回転は充分だったが、着氷が乱れた。転びそうになったが、すんでのところで態勢を立て直す。それでも私としては悪くない出来だった。
 私がもたもたしているうちに、すでに彼女は数歩先に進んでいた。慌てて距離をつめる。
 彼女は大きくターンをし、リンク中央に向かった。そして、”前向きに”踏み切り、力強くジャンプをした。
 空中で一回転と半分。ジャンプの高さと回転の速さがあったため、着氷の際に更にたくさんの氷の粒が舞う。
 俗に言うシングルアクセルというジャンプだった。
 思わず見惚れそうになってしまったが、それは彼女のスケートを見ている観衆がすることであって、彼女と一緒に滑っている私がすべきことではない。
 前向きに踏み切り後ろ向きに着氷するためには、半回転余計に回らなければならないが、なによりアクセルジャンプは、怖いのだ。
 通常のジャンプとアクセルが異なるのは、前向きに踏み切ること。それが、とてつもなく恐ろしい。
 だが、彼女と一緒に滑るということは、そういうことだ。
 それだけで恐怖心をともなうアクセルジャンプだが、それでも私は跳んだ。
 彼女のジャンプのイメージに、私自身を重ねる。ぴたりとイメージは重なった。
 着氷の転倒に不安はなかった。彼女と同じリズムとタイミングで跳んだのだから、転倒の危険などする必要がない。
「やった!」
 彼女の喜ぶ声が聞こえる。教えてもらったばかりのアクセルジャンプを成功させたことで、私の気持ちはどんどんと高ぶっていった。
 あとはもう、夢中だった。
 私の前を滑る氷の国の天使を、ただ夢中で追いかけ続けた。



「……楽しかった。ほんと上手くなったね、キミ」
 長いようで短い時間を共に滑り、私と彼女はスケートリンクを出た。夢中で滑っていた私は未だ夢から醒めきっていなかったが、それを押してどうしても伝えたいことがあった。
「またいっしょに練習したい」
「……」
 それを伝えたかった。
 今日という機会を逃したら、またいつ会えるか分からない。だから、どうしても約束を取り付けておきたかったのだ。
「もうキミに教えることはないよ」
「あるよ!」
 思わず叫んでいたが、彼女がすこしびくりとしたのを見て、直ぐに反省した。
「……ごめんなさい。ここには、もう来れないと思う」
「なんで」
「引っ越すの。多分、すごく遠く」
「……」
 きっと、どこかで予感はしていたのだろう。驚きは無かったが、納得は出来ない。
「じゃあ……そう、冬休みとかに会おうよ! 私がそっちに行くから」
 しかし彼女は首を横に振る。
「わかんないよ。次のところだって長くはいられないかも知れないって、お母さんが言ってたもん」
「……」
 私は何もいえなくなった。『家庭のじじょう』という言葉を当時の私は知っていたし、それが他人にどうこうできるものではないこともまた、知っていた。だが、それでも諦めたくなかった。
「じゃあ、大人になったら会おうよ。私ずっとスケート続けるから、大人になったらまた一緒に滑ろう!」
 短慮といわざるを得ない私の発想だったが、小学校の一年生としてはそれくらいが限界だったと思う。
 私の熱意に押されたのか、彼女は「うん」と頷いてくれた。
「私の名前は安藤ミキ。あなたは?」
 彼女が名乗った名は、下の名前こそ以前に受付の女性に教えてもらったものと同じだったが、苗字が違っていた。
 私はその名前を、しっかりと覚えた。大人になっても忘れないようにと。

 外で母親が車で待っているから、と彼女は早々に引き上げるという。
 私も見送りとして付いていくことにした。建物の入り口までの道中、ぽつりぽつりと会話を交わす。
「最初のアクセル、ハーフになってたね」
「……一回転半なんて、出来ないもん」
 彼女の跳んだシングルアクセルに対して、私がやったのは前向きに踏み切り、半回転して直ぐに着氷するという、いわゆるハーフアクセルだ。
 前向きに踏み切る恐怖心は払拭したものの、実際にどれだけ回れるかとなるとまた別の問題になる。
「キミなら練習すれば直ぐに出来るようになるよ」
「……うん」
 しかし短い道のりは直ぐに終わってしまう。
 建物の外の駐車場には数台の車が停まっており、「じゃあね」と言い彼女はその中のある一台に向かって行く。
 いつもの別れ際のようで、私も同じように返すことしか出来なかった。
 また来週の日曜日に会えるような気さえするが、きっと次に会えるのは早くて十数年後。遅ければ二度と会うことは出来ない。
 そのあたりの実感は、当時の私には非常に理解が難しいものだ。大人になったらと言えど、大人になるまでどれほどの時間が必要なのかもわからない。
 彼女を乗せた車が走り去っていく。
 私は手を振った。彼女も車の中から手を振り替えしていた。そうして”私たちの練習の時間”は終わった。
 しかし、私の練習は終わらない。
 私は再びスケートリンクに戻っていった。大人になったらまた一緒に滑ろう、という長い長い約束を果たすために。


  ◇   ◇


 そこは、とある喫茶店だった。
 フロアの奥の方のボックス席に、三人の二十歳前後の女性が座っている。旧知の三人というわけではないが、かといって込み入った話というわけでもなさそうである。
 三人のうちの一人、ボックス席の向かいに一人で腰掛ける女性は、簡素なジャージ姿という極めてラフな格好だったが、それはこの喫茶店が、とあるスポーツ施設内の一店舗だからだ。
「……本格的にスケートを始めたのは、それから少し後のことです。両親のつてで、ちゃんとした教室に通いはじめました」
「それは安藤選手がおいくつくらいの頃ですか?」
「八歳でした。六歳でスケートに初めて触れて、それから二年間はスケートリンクを遊び場にしているような感じでしたね」
 そう言って安藤選手と呼ばれた女性は、薄くはにかんだ。
 スケートを始めた切っ掛けは、という問いに対しての答えが、思いのほか長く深いものになったために、やや照れがあるのかも知れない。
「フィギュアスケートというと厳しい練習や海外への遠征など、特に続けることが大変な競技という印象がありますが、安藤選手がここまでスケートを続けてこれたのは、その女の子の存在が大きいのでしょうか」
 ボックス席のこちら側に座る二人のうちの一人が、丁寧な物腰でそう質問する。こちらの二人は至って普通の服装である。
 質問を受けて、安藤は苦笑しながら答える。
「だとすると乙女チックな動機ですよね。記事としてはその方が映えますか?」
 いたずらっぽく安藤が言うと、今度は質問をしていた女性が苦笑する。
「個人的には、とても素敵な理由だなって思います」
「あら」
「ふふふ」
 なんとも和気とした空気に席が満たされる。
 とあるフィギュアスケート選手に、おそらく雑誌記者であろう女性がインタビューをしている、そういう状況であった。
 雑誌記者の連れであるカメラを持った女性も含め、三人ともほぼ同年代であることが幸いし、非常に屈託のない柔らかな雰囲気であった。
「スケートを続けてこられたのは……そうですね、やはり周囲の人間の、特に両親の理解と協力があったから続けてこられたと思います」
「なるほど」
「でも……」
 話すか話すまいか悩む素振りはあった。だが、インタビュアーが同性で同年代ということで安心感があったのだろう。
「きっと今でも私は、あの時の女の子との再会を夢見ているんだと思います。あ、記事には」
 インタビュアーの女性が「しませんよ」とにっこりと笑うと、安心したように安藤は続ける。
「結局あれから……今でも再会は出来ていないんですけど、きっと今もどこかで彼女もスケートを続けている。いつかまた一緒に……そう思うと、苦しい時、スランプの時にもがんばれる、というのはあります」
「きっとその女の子、どこかで安藤さんの活躍を見てますよ。ただ恥ずかしいから名乗り出ては来られないだけで」
「そうでしょうか」
「ええ、きっと」
「……ありがとう」
 泣き笑いのような表情で、彼女はそう答えた。


 スケートリンク施設内の喫茶店から場所を移し、私と後輩であるカメラマンの子は、リンクのすぐ傍に待機していた。
 リンク内にはスケート靴に履き替えた安藤選手がおり、軽く流すように滑っている。
 時間的にスケートリンクの営業時間をすでに過ぎているのだが、彼女へのインタビューと写真撮影ということで、特別に店側から許可をもらっている。
「自由に撮ってくれていいそうだから。内藤さん、お願いね」
「了解です」
 後輩であるカメラマンの名を、内藤笙子という。
 実際には私の勤める雑誌社の社員というわけではなく、とある女子大でカメラとジャーナリズムを専攻しているらしい。研究の一環としてうちでアルバイトをしているのだ。
「そういえば先輩、昔スケートをやっていたって、この間仰ってませんでしたっけ」
 カメラを覗き込みながら、内藤さんが雑談のたねを寄越してくる。
「中学の頃までね。学生氷上選手権に参加したりもしたわ」
「へえ。種目は何を」
「フィギュアスケートよ」
 内藤さんがカメラから顔を離し、驚いたようにこちらをまじまじと見つめてくる。
「……そんな偶然、そうそうあったりはしないわよ」
 私がそう言うと、「なあんだ」と言って内藤さんは再びカメラを覗き込む。
 フィギュアスケートをやっていたのは本当の話で、悪くない結果を残せていた。周囲からはスケートを続けていくのだろうと思われていたらしいが、色々と問題が多く、それほど裕福でもなかった私の家では、本格的に挑むにはお金の掛かりすぎるフィギュアスケートを続けることは出来なかったのだ。
 父親の顔をよく知らず、ずっと母親の苦労を見て育ってきた。その母親に金銭面で一層の苦労を強いることはどうしても出来なかった。
 撮影を続けながら、内藤さんが独り言のように言う。
「でも、もし私が”その子”だったら、名乗り出ちゃうかな。また会って昔みたいに一緒に滑りたい。相手が有名人とか余り気にしませんし」
「そうね。それも悪くないと思うわ」
「でも先輩は、名乗り出なそうですね」
「そうね……」
 スケートリンクで滑る彼女を見つめる。
 アマチュアのスケーターとしては当然のことなのだが、競技に勝つための演技というものがある。
 だが、彼女のスケートには勝利への意思や拘りというものではなく、もっと異なるものを感じる。
 彼女の心の中には、あの頃のままのスケートリンクがある。
 きっと彼女は、現役を続けていく限り。そしていつか一線を退いてプロのスケーターになったとしても、永遠に追い続けるのだろう。

 ──キミ、一緒に滑ろうよ?

 彼女のスケートリンクの中で滑る、氷の国の天使を。


 了






▲マリア様がみてる