■気持ちのわかる、クローゼット


 薔薇の館には、まだ誰も来ていないようだった。
 祐巳はホームルームが終わって、特に用事もなかったので直に来た。由乃さんは剣道部。だから、必然的に令さまも同じ。
 白薔薇姉妹は、これは分からない。
 もしかすると、二人でどこか寄り道をしてるのかもしれない。
「お姉さまも、まだ来てないのかなあ」
 祐巳は寂しかったので、わざと声に出してそう言ってみた。けれど無人の空間はそれに答えることもなくただ在るのみ。
「早く来過ぎたかな…」
 ぎしぎしと階段を上って、会議室兼サロンに入る。ビスケットみたいな扉を(はしたないけど)後ろ手に閉めて部屋の仲を見回したところで、祐巳は違和感に襲われた。
「……?」
 なんだろう、なにか違う。
 ここは祐巳にとって見慣れた空間だったから、少しの違いでも心に引っかかってくる。泥棒に入られたときも、こういう気分になるのだろうか。
 ひとしきり見回しても、原因は掴めなかった。
「ま、いっか」
 お茶を入れて、皆を待つことにした。
 そして数分後。
 参考書を開いて時間をつぶしていた祐巳は、とうとう違和感に耐え切れずにそれを閉じた。ティーカップはすでに空になっている。
 先ほど感じた違和感は、変わらず祐巳を苛み続けていた。
(あー、何か気持ち悪い。なんだろこの感じ)
 この空間に対しての違和感というのは察しがついている。ただそれが何処から発せられているものなのか。
(よし、しらみつぶしにいくか)
 暇つぶしがてら、祐巳は捜査に乗り出した。
 まずは台所から。
 食器棚、ガスコンロ、やかん、手拭用タオル、祐巳が使ったまだ洗ってないティーカップ、しまってないお茶の道具、その他もろもろ…
「異常なし」
 次は会議(雑談)スペース。
 資料を閉じたバインダーや辞書なんかがある本棚、壁の環境整備のポスター、窓際の植木蜂、丸いテーブル、その周りにある椅子、壁掛け時計、クローゼット……
「クローゼットだと?」
 部屋の隅にあるクローゼットに、祐巳は目を止めた。
 それは何処にでもあるようなものだった。観音開きのスペースが一つ、引き出しが二つ。特に値の張るようなものにも見えない。
 ごく普通の、人一人入れるくらいの、クローゼットだった。
「何故?」
 ここに、これがあるのだろう。
 というか昨日は絶対無かった。というかこのクローゼット
「ビスケット扉、通んないじゃん」
 誰かの悪戯だろうか。
 というか、ここではないどこか、教室にでも置いてあれば、さぞかし浮いて見えたことだろう。ところが学校らしくない変わったつくりの薔薇の館に置いてあると、まるで十数年も前からそこに在った風に見えてしまう。入ってすぐに気付かなかったのは、多分そのせい。
 祐巳はゆっくりとクローゼットを開ける。軽い手触りで、徐々にクローゼットの扉が開いてゆく。
「からっぽ…」
 服が入っていても困るのだが、肩透かしを食らったような気分だった。けれどあるはずのないクローゼットに入っていた服なんて、七不思議並みの胡散臭さがある。
 中は、かび臭くて、少し埃っぽかった。
 それはそれとして、祐巳はちょっとしたことを思い出した。
 例えばイリーガルに他人の部屋に侵入し、そこへたまたま部屋の持ち主が帰ってくる。慌てた主人公は、手近にあったクローゼットの中に身を躍らせる…。
「…幸い辺りに人影は無し」
 祐巳は、知的好奇心を満たすことにした。
 靴を脱ごうかどうか迷ったが、結局そのままにすることにした。
 恐る恐るクローゼットの中に足をかける。もう、お姉さまである小笠原祥子さまには、絶対にお見せできない格好。
 祐巳は心の中で、えいやっ、と掛け声をかけて、一気にクローゼットの中に身を躍らせた。
「ん…はいった」
 中は、小柄な祐巳には丁度良い広さがあった。ついでにクローゼットの扉を内側から引っ張って、扉を閉めてしまう。がちっ、と、音を立てて扉は閉まった。
 暗闇。
 居住性は、意外にも悪くないと思った。
(さて、くだらないことしてないで、とっとと出ようかな)
 その時、階段の軋む音が聞こえた。一つじゃない。何種類もの足音。
(や、やばい。みんな来ちゃった。はっ、早くここから出ないと)
 目の前の扉に手をかけて開こうとする──
(…開かない)
 顔から血の気が引いてゆくのが分かった。木製のそれ程重厚でも何でもない扉は、押しても引いてもびくともしない。
 いよいよ足音は近くなって、話し声も聞こえてくる。
(開かないっ。開かないよっ!なんでっ、どうしてっ!?)
 本当に、一ミリも動かない。まるで施錠の魔法でもかけられたかのような。
 やっきになって、祐巳はどんどんと扉を叩いた。鈍い音が、クローゼット内に響く──けれど扉は開かない。
 その時、ビスケット扉の開く音が聞こえて、祐巳は反射的に身体を凍らせた。
「…あれ、誰もいない。確かに物音がしたんだけど。いないの、祐巳さ〜ん」
「気のせいでは?まさか祐巳さんが、どこかに隠れてるとか」
 この声は、島津由乃さんと藤堂志摩子さんの声。由乃さんが、この部屋に誰か居ると思って、すぐに祐巳の名を挙げたということは
「…祐巳の鞄があるわ。参考書も、広げたまま。台所には使い終わったティーカップが置いてあるし。少し前まで確かにいたみたいね」
「名探偵祥子。流石、祐巳ちゃんのこととなると鋭い」
「妹のことを心配するのは当たり前でしょう。違って?」
「まあまあ、祥子さま。お姉さまも、そんな言い方ないでしょう」
 祐巳の姉である小笠原祥子さまを由乃さんのお姉さま、支倉令さまが茶化している。そこへ、めずらしく由乃さんが仲裁役に打って出る。いつもは止められる側なのに。
「お手洗いでしょうか?」
 ぼそっと呟いたのは、志摩子さんの妹、二条乃梨子ちゃん。『しっかり者指数』では、先代紅薔薇さまの、水野蓉子さまに迫る勢いの一年生だ。
 総勢五人。クローゼットに閉じ込められたのを含めて、六人。フルメンバー揃っているわけである。
(…というか私って、本当にバカだ)
 自分に呆れつつ、助けを呼ぶために控えめにクローゼットの扉を叩こうとした祐巳であったが。
「そーいえば、祐巳ちゃんの妹候補のあの二人、いるじゃない。祥子は姉として、どう?」
「どう、とは」
「どちらがより祐巳ちゃんの妹にふさわしいか、と」
 とっとっと。
 いきなり令さまが祐巳の話題なんか振るものだから、反射的に手を引っ込めてしまった。しかも微妙にきわどい話題。
「それは祐巳が決めることよ。あの二人のどちらかであろうと、全く別の人間であろうと。私は祐巳の意思を尊重するわ」
「あるいは妹を作らない…とか?」
「…そうね。それも祐巳にとって一つの選択肢ね」
「その方が祥子にとっては都合が良かったりして」
「妙に絡むわね、令。ここまではまだ冗談で済ませてあげるわよ」
 にらみ合う祥子さまと令さま。や、クローゼットの中からは見えないけれど、目に浮かぶようだ。
(というか、出られない)
 祥子さまも令さまも、よもやクローゼットの中に話題の渦中の人間がいろとは思わないだろう。だからこそこの話題なのだ。
 今出るのは、タイミング的に最悪だ。
(じゃ、じゃあ私はいつ出ればいいの?)
 既に部屋には五人集まっている。その五人が、同時に席を外す瞬間を狙って、クローゼットを出る。
(五人同時に席を外す確率って、一体何パーセント?)
 というかそもそも、このクローゼットの扉が開かないのだ。そういえば祐巳が内側から閉めた際に、妙な音を立てた。そのせいだろうか。
 もしかしたら、外側からなら、開けるかもしれない。
(ちょちょちょ、ちょっと待って)
 部屋の外には五人。皆が同時にお手洗いでも用事でも何でも、席を外す確率など、絶望的な数値。下校時刻になれば皆薔薇の館を出るだろうが、その時になっても祐巳が現れなければ、皆不審に思うだろう。鞄は置きっぱなし。参考書も出しっぱなし。おまけにクローゼットは内側から開けられない。誰かに外側からあけてもらうしかない。
(やばい)
 いよいよコトの重大さが身に染みて来た。穏便に済ませられる道は、最早ない。
 それでも早くに自分の存在を知らせれば、まだ傷は浅くて済むかもしれない。遅れれば遅れるほど、天文単位的に危険度は増してゆく。
 今ここで動くのが、最良の選択肢だ。
 けど。
「そもそも何で、祐巳の妹の話なの」
「そうね。そこから説明しようか」
 令さまはそこで言葉を区切った。
 すると椅子を引く音やら、鞄をテーブルに置く音やらが聞こえてくる。どうやら今まで立ち話をされていたらしい
「お姉さま、一体何の話?」
 耐え切れなくなったのか、由乃さんが令さまを促す。
「実はね、細川可南子ちゃんと松平瞳子ちゃんね。あの二人が今日、私のクラスに尋ねてきたのよ。あ、当然別々だったけどね」
 当然というのは、可南子ちゃんと瞳子ちゃんの二人の一年生が、すこぶるつきで仲が悪いということが、周知の事実ということを踏まえての、当然。
 それにしても、あの二人が令さまを訪ねてきたというのは、興味深い話だった。
「私、その話知らない」
「そりゃそうよ。由乃には話してないんだから」
 むくれる由乃さんに、それをはぐらかす令さま。黄薔薇夫婦漫才はその後約一分ほど続いた。
「…で、結局どうなったわけ?」
 そう言った祥子さまの声には、多少の険が混じっている。いい加減目に馴染みすぎた令さまと由乃さんのその光景は、祥子さまにとってあまり快いものではないらしい。
「ん。あの二人ね、明日からよろしくお願いしますと。出来た子達よね。わざわざ挨拶に来るなんて」
 そう、可南子ちゃんと瞳子ちゃんは、明日からの、取りあえず学園祭までの山百合会が多忙を極める時期いっぱい、薔薇の館に来てお手伝いしてくれることになっている。ちなみに二人とも、乃梨子ちゃんのクラスメイトだったりする。
「で、それがどうしたの。もしかしてそれだけ?」
「話は最後まで聞きなさいって」
「紅薔薇さまのところには、あの二人、行かれなかったんですか?」
 乃梨子ちゃんが口を挟む。
「私は昨日、放課後家の用事ですぐ帰宅してしまったから。もしその時に尋ねてきてくれていたなら、悪いことしたわね」
 と、祥子さまは言うが。
 瞳子ちゃんは祥子さまの遠縁の親戚だから。祐巳なんかよりも、祥子さまとの付き合いはずっと長い。今更挨拶というのも考えにくい。
 可南子ちゃんは一ヶ月ほど前に、祥子さまに、『一喝』、されているから。しかも理由が理由なだけに、果たしてどうだろう。
「で、続きは?早く言ってよ」
 由乃さんの言葉遣いは乱れ放題。
「うん。二人ともそのあと、狙ったみたいに同じこと言うのよ。『別に祐巳さまのことは、あまり関係ありません。私がしたいから、お手伝いさせていただくんです』、って」
「なるほど」
 志摩子さん。
「へー、やっぱり」
 由乃さん。
「わかりやすいですね」
 乃梨子ちゃん。
 …って、おいおい、何みんなして納得してるんだ。
「祐巳の面倒を見てくれて、しっかり山百合会の仕事をこなせるのなら、どちらでも構わないわ。いい加減、祐巳の妹談義はもういいでしょう?」
 祥子さまは、実に興味がなさそうにそう言った。
 そしてその言葉に何かを思うよりも先に、この瞬間こそ飛び出すチャンスだと、祐巳は思った。迷ってる暇は無い。せーのっ
「…それにしても、紅薔薇のつぼみは本当に、どこに行かれたのでしょう」
 とととと。
 乃梨子ちゃんに先手を打たれてしまった。というか誰も、気付かないのだろうか、鋭い乃梨子ちゃんでさえ。薔薇の館の二階に、あるはずのないものが鎮座していることに。
「でも、祐巳ちゃんが居ないだけでも、結構広く感じるものね」
「ええ。もう一年ですものね。祥子さま」
「志摩子、なぜ私に話を振るのかしら」
「いいじゃない、祥子。祐巳ちゃんが祥子の妹になって…つぼみの妹になってからを振り返って、なんてのも、悪くないんじゃない?丁度まるまる一年だし」
(悪いっ)
 悪いです、令さま。もし祐巳が皆と同じく席についていたとしたら、例え相手は黄薔薇さまであろうが詰め寄っていた筈だ。けれど席についていなかったからこその、今の話の流れだから。
「祥子は、初めて祐巳ちゃんが薔薇の館に来た時、どう思ったのさ。あ、そういえば派手にぶつかったんだっけ?」
「忘れたわ、そんな昔のこと」
 祥子さまはつれない。
「ああ、忘れたといえば、祐巳ちゃんのこと忘れてたんだっけ。折角タイを直してあげたのに」
「…どうして、あなたが知っているのかしら」
 すぐさま、私も、私も、と、志摩子さんと由乃さんが告白する。
「祥子は口止めしてたみたいだけどね。お姉さまと聖さまが、祐巳ちゃんに根掘り葉掘り聞いてたよ。で、私はお姉さまから聞いた。だから私は、全部知ってる」
 由乃さんと志摩子さんはあえて言わないが、きっと知っているのだろう。
 丁度、『黄薔薇革命』の頃だ。
 帰ろうとした祐巳を待ち伏せて、薔薇の館の一階で、佐藤聖さまと鳥居江利子さまが。まるで門番のように。
 彼のお二人の追及という波の前には、祐巳の中の防波堤はあまりに脆い。
 洗いざらい吐いてしまった祐巳を、二人は満足げな顔を浮かべて、ようやく解放したのだ。特に祐巳が祥子さまの妹になった前後の鳥居江利子さまは、祐巳の知る限り最もいきいきとしていた気がする。
「もしかして、『曲がったタイ伝説』というのが、今皆さまの言われているそれでしょうか?」
「…なんなの、それは」
 さも不快だと言わんばかりに、祥子さまは答える。
「あ、そのネーミングは今私の頭にぱっと思い浮かんだだけなんで、あまり気にしないで下さい。入学直後、瞳子が言ってたんです。『曲がったタイは、要注意』、って」
「それって一年生みんなが知ってるの?」
 うきうきしたような声で、志摩子さんは問うた。祐巳の話題は、皆のテンションが上がる。反比例して祥子さまのそれは、潜水艦のように沈んでいく…らしい。
「ええ。特に、少女趣味な感性の子は、祐巳さまと、そういった運命的なものに憧れるみたいです」
 そう言う乃梨子ちゃんの口調は、あくまでも世間話。確かに乃梨子ちゃんと少女趣味って、北極と赤道直下ほどの隔たりがある。あくまでも彼女は、リアリストだ。
「乃梨子はどうなの?憧れたり、しないの?」
「私、少女漫画とかキライですから」
 一刀両断。
(おーいっ、桜の木の下で二人の世界ってのも、充分に少女趣味だぞっ)
 と、目の前のクローゼットのドアをぶち破ってそう叫びたい。
「でも、紅薔薇のつぼみのことは…憧れというより、私は畏怖に近い気持ちを抱いてるかもしれないです」
 畏怖、という単語に、皆が引っかかった。勿論祐巳も例外ではない。なにより多弁な二条乃梨子というのが、皆の物珍しさを引いた。
「祐巳さんと畏怖ってのは、乃梨子ちゃんと少女漫画と同じくらいの隔たりがあるわよ」
 由乃さんの突っ込みは、いつだって鋭いんだ。
「見た目はそうかもしれません。それに私は、四月以降の祐巳さましか知りませんから。イメージが皆さんと違うのかもしれません」
「わかった!」
 名探偵島津由乃叫ぶ。というかみんな、今日は仕事しなくていいの?
「答えは呆れるくらい簡単よ。昔の祐巳さんは、天然ボケで可愛い、って感じだったじゃない。そうでしょ、志摩子さん」
「え、ええ。的確な表現だと思うわ」
 由乃さんは更に続ける。
「けど最近の祐巳さんを思い浮かべて。ほら、しっかりしてて可愛い、って感じじゃない。そうでしょ、志摩子さん」
「うん…そうかも、しれないわね」
 何故由乃さんが執拗に志摩子さんに確認を求めるのかというと、志摩子さんは、滅多なことでは人の意見に反対しないからだ。
「乃梨子ちゃんの中の、『福沢祐巳像』と、私たちの中の、『福沢祐巳像』は、天体望遠鏡でも引っ張り出さないと見えないくらい、かけ離れているのよ」
 どうだと言わんばかりに、由乃さんは乃梨子ちゃんを見る…いや、見たのだろう。
「当たっています。でもその答えでは、まだ50点です」
「なっ…」
 由乃さん、乃梨子ちゃんに一歩及ばず。やはりこの子は一筋縄ではいかない。
 絶句する由乃さんを尻目に、乃梨子ちゃんはさらに続けた。
「そういう、『かけ離れている』部分も含めて、紅薔薇のつぼみには、得体の知れない底の深さを感じるんです。それに、これからもあの方は、まだまだ進化を遂げそうで。他人の良いところを吸収してどんどん成長してるような、そんな印象があるんです」
「祐巳ちゃんには、人生の師匠がいたからね」
 祐巳の十数年の中で、師匠と呼ぶにふさわしい人物。数え切れないほど世話になった。袋小路に詰まって身動きできなくなった時は、必ず手を差し伸べてくれたあの人は。
 その人はこの場に居なかったから。だから、必然的に、その人の妹に、視線が集まることになるのだろう。
「佐藤聖さまですね」
 志摩子さんが、皆を代表してそう答えた。
「その方は、お姉さまのお姉さま──」
「ええ、そうよ。あの方は、祐巳さんをとても可愛がっていらしたから」
「可愛がっていたというか、愛玩していたと呼ぶにふさわしいね。去年の山百合会名物の一つだったから。抱きつく聖さまに、抱きつかれてうろたえる祐巳ちゃん。ね、祥子」
「…いちいち私に話を振らないで頂戴」
 けれど、と、祥子さまは続ける。
「…あの方がいなかったら、もしかして今の私と祐巳は、無かったかも知れないわね。色々と目に付くところもあったけど、今はとても感謝してるわ」
 聞き流してしまいそうなほど自然に、祥子さまはそう言った。けれどその言葉は、本来持っている意味よりも、ずっと重いはず。祥子さまも、勿論祐巳も、身に染みて理解していると言い切れる。
「逆に、佐藤聖さまが、今みたいに親しみやすい人柄に変わられたのも、祐巳ちゃんがここに出入りするようになってからなんだよね」
「はい。私があの方の妹になったときには、まだどこかで他人を拒絶なさっているような、そんな印象でしたから」
「…ところで由乃ちゃん、どうしてそんなに難しい顔をしているのかしら?」
 祥子さまが妙なことを聞く。どうやら由乃さんの機嫌が雨模様らしい。祐巳は、腕組みをして俯き加減の、獲物に飛びつく寸前のネコのような親友の姿を想像した。
 けれど由乃さんからのレスポンスは無い。不審がった令さまが、今度は祥子さまの代わりに呼びかける。すると由乃さんはとんでもないことを口走った。
「…私、祐巳さんのことが、どうしても好きです」
(○×◎■──!?)
 祐巳は、勢い余ってクローゼットの外へダイブしそうになって寸前で押し留まった。
 カシャンと、誰かがテーブルにスプーンを落とした。
 げほげほと咳き込む音の出所は、令さまだろうか。
 沈着冷静な乃梨子ちゃんも、内角高め危険球スレスレの爆弾発言に対して、すぐにはフォローの言葉が出てこないものと見える。姉の方も、推して知るべし。
「…よ、由乃ちゃん。あなたのその気持ちは、尊重したいと思うのだけれど」
 いかにも言葉を選んで、という風に祥子さまが言う。祐巳としても、由乃さんのその気持ちは掛け値なしに嬉しいのだが──ええと…ヘタすると、森の中で睡眠薬?
「……え?」
 ここにきて、ようやく周囲の人間の困惑顔に気付いたらしい由乃さんは、場にそぐわない素っ頓狂な声を上げて、(多分)目をぱちくりとさせた。
「え、何?皆さん、どうなさったの?」
「由乃が、さっき、祐巳ちゃんのこと、『どうしても好き』、って」
「ああ、あれ」
 いつもの調子で由乃さんは言う。
「キライになれないのよ」
「え?」
 誰かが聞き返した。
「正直言って、本当に始めの方は、好きじゃなかったんです」
 由乃さんの独白は、全く要領を得ない。けれどその後に続いた言葉たちを聞いて、祐巳は凍りついた。
「いきなり来て、知らないうちに話に巻き込まれて、みんなにちやほやされて、志摩子さんのクラスメイトで、聖さまは妙にちょっかい出すし、江利子さまはイキイキしてるし、令ちゃんもやたらと祐巳さんの世話焼くし、とどめついでに、祥子さまのこと振っちゃうし…」 
 早口言葉のように、次々に言葉が紡ぎ出される。それは、祐巳に対する恨み言といっても差し支えないものだった。それに、早口になる時の由乃さんは、相当に、『煮詰まってる』状態だ。
「でも、学園祭の『シンデレラ』は、祐巳さんがいたから成功したんだし、祥子さまと祐巳さんを見て、私も変わらなきゃ、って思えたんだし、そうやって祐巳さんとたくさんのことを話してるうちに、いつのまにか近くに祐巳さんが居ることが当たり前になって…」
「よ、由乃、落ち着いて」
「落ち着けですって?そんな風に落ち着いてる余裕なんて無いわ。私、祐巳さんに我が侭ばかり言って随分困らせた。だって祐巳さんなら、いつだって受け止めてくれたから。でも、でも、それは私の勝手な思い込みなだけで、本当は私のことを遠ざけたいと思ってたかもしれない……今居ないのは、もしかしたら、私を避けて…?」
「由乃ちゃん、落ち着きなさいっ!」
 祥子さまの一喝。しかし彼女は止まらない。
「どいてっ、祥子さま!私は、祐巳さんを探しに行かないと…」
 薔薇の館にふさわしくない、祐巳と祥子さまが正面衝突した時のような、派手な音が鳴り響く。部屋を出て駆け出そうとする由乃さんを、令さま他のみんなが、身体を張って止めているのだろうと、容易に想像がつく。
 祐巳は思う。
 こんなところで一人、隠れてるわけには行かない。ただでさえ由乃さんには今、考えなければいけないことが目の前にそびえ立っている。無事由乃さんの妹決めをフォローこそすれ、祐巳のことで心労をかけるなんて、何が親友だ。
 ここから出て、伝えなければいけない。
 あなたの存在が、祐巳にとってどれほどの支えになっているかを、言い尽くせないほどの感謝の言葉を、心の中に留めているかを──
 そして
 ぎぃぃぃぃ…と、実にマヌケな音を立てて、
 クローゼットの扉が、開いた。
 たっぷり十数秒は、見詰め合っていたのではないかと、それ程に長く感じる時間が過ぎた。
「あ…」
 そう言ったのは、果たして誰であったであろう。
 凍ってしまった時間の中で、それでも、永遠に時を凍らせておくわけにも行かない。氷解の魔法は、祐巳の口から発せられなければなるまい。
 せめて控えめに、精一杯おしとやかに、祐巳は言った。
「ご、ごきげんよう…」
 と。


 これ以降は、後日談となるが──。
 あの後、当然の如く由乃さんが、『キレた』。
 それはもう筆舌に尽くしがたく、由乃さんの心臓に悪影響が無かったかどうか、それだけが唯一の心配事だった。
 祥子さまは、我が妹の愚行に対して眉間にしわを寄せ、令さまはもう、由乃さんを抑えるのに必死だった。
 志摩子さんは祐巳のことを慰めてくれたけど、乃梨子ちゃんの方は、ある意味ずっと正直だった。まるで怪しい節足動物を発見してしまった時のようなあの表情は、忘れろと言われても、しばらく網膜に焼き付いて離れそうにない。
 最後に、皆の内緒話を思い切り聞いてしまった祐巳が、向こう一週間ほど、薔薇の館で小さく縮こまっていたことを、付け加えておく。


 了






▲マリア様がみてる