■希望 
 
        春という季節が連想させるものは。 
 ほんの少し冷たさの残る、けれど柔らかな風と、心まで暖かくなるような陽光。 
 満開の桜が目の前いっぱいに広がって。まるで、桜色したレースのカーテンみたい。 
 世界中の誰だってきっと、この季節には、心はまるで羽のように軽やかで。 
 新しい生活が始まることへの、ほんのちょっとの不安と。 
 そして、たくさんの希望と期待を胸に、この舞い散る桜の中を歩いているはず。 
 そう、私も、そんな人々の中の、一人。 
 
 
「なんてね。ちょっと、感傷的になってみました。マル」 
 前髪に引っかかった桜の花びらを払いながら、私、福沢祐巳は、そんな取り留めも無いことを考えていた。 
 まだ着慣れていないリリアン女学園高等部の制服は、全然身体に馴染んでなくて。 
 いそいそと、やや緊張気味に歩いている(ように見えるであろう)祐巳は、今日から高等部一年生という肩書きを得ることとなった。 
 正確に言えば、入学式が行われた昨日からなのだが、クラスの皆と顔を合わせて自己紹介などを行う今日からが、実質高等部第一日目であると思う。 
 周りには、祐巳と同じく、微妙に身体に馴染んでない制服に身を包んだ新一年生たちが何人もいる。彼女らは、どんなことを考えてるのだろう。漠然とした、形にならない期待と不安? 
 まあ、みんな同じようなものか。 
  
 やがて道なりに進んでいくと、リリアンにおける象徴的な存在である、マリア像が見えてくる。 
 雨の日も風の日も、健やかなるときも病めるときも、リリアンの庭に住まう天使たちを見守っている、大きすぎる存在。 
「……」 
 それに無言で手を合わせ、て、祈る。 
 
──マリア様、高等部での三年間も、健やかに穏やかに過ごせますよう、と。 
 
 
 教室に入り、近くにいるクラスメイトたちに挨拶を交わして、席につく。 
 高等部から外部受験により入学する人なんて殆どいないから、大多数の人が、中等部で知り合いだった人、あるいは顔だけ、名前だけは知っている、という人間が大多数を占めている。 
 だから、ぶっちゃけた話、中学校→高等学校へと進学する際の、自分を取り巻く大きな環境の変化というやつを、リリアンの生徒が享受することは、ほぼ0%なのである。 
 少々の緊張は残るけれど、慣れるのはきっと、すぐのはず。 
 
 鞄を机の脇にぶら下げて、さてどうしようかと一息ついたところで、 
「!?」 
 真っ白い光が、視界いっぱいに広がった。 
 な、なんだ? 突然の事態に、頭がうまく回らない。いや、元々回転の速いほうではないんだけれど。 
「ごきげんよう、福沢祐巳さん」 
 目を開けるとそこには、眼鏡をかけた女の子が、笑みを浮かべて、悠然と佇んでいた。 
 ……右手に、使い捨てではない普通のカメラを携えながら。 
「いきなりごめんなさいね。私は武嶋蔦子。今年一年、どうぞよろしく」 
「蔦子……さん?」 
 そういえば、噂には聞いたことがある。 
 カメラ片手に、リリアンの女生徒を片っ端から撮って回っている、『自称写真部のエース』 という変わり者の生徒が中等部にいる、って。 
「あら、私のこと知ってるの? それは重畳。もしかして、写真を撮られるのはお嫌いだったかしら? もしそうなら、今後は自重するけど」 
「……いや、そんなことはないよ。ただ、いきなりだったからビックリしただけ」 
 まだ戸惑ってる頭を何とか回して、祐巳は答える。 
 それにしても、何と言うか、物怖じしない女の子である。確か祐巳と蔦子さんは初対面だったけど、そんなものはお構いなしといった風である。 
 年上の女性と話しているような、そんな気分。 
 
「でもさ、どうして私なんか撮ったの? どうせなら可愛い子を撮った方が、良かったんじゃない?」 
 祐巳は横の席──蔦子さんの席がそこだった──に向かって話し掛けてみた。 
 すると蔦子さんは、さも心外だと言わんばかりの表情で、 
「別に可愛い子ばっかりをターゲットにしてるわけじゃないわ。〜〜〜で〜〜〜な女の子を撮ることが、私の生業なの。あ、別に祐巳さんが可愛くない、なんて言ってるわけじゃないけど」 
「なあに、その、〜〜〜って」 
「企業秘密、ってこと」 
 ちょうど、〜〜〜の部分だけ蔦子さんは、もごもごと口を動かしただけで祐巳には聞き取れなかったんだけど。それは当然のこと。祐巳に解らないように言ったんだから。 
「ま、今からこうして写真撮っておけば、半年後には希少価値がでてるかも知れないじゃない。あらかじめサインを貰っておく、とか。そんな感じ?」 
 冗談めかして言いながら蔦子さんは、今度は両手の人差し指と親指を使った長方形をカメラに見立てて、それを祐巳の方向に向ける。 
 長方形の向こう側には、蔦子さんの眼鏡と、その奥にある悪戯っぽい瞳が見えた。 
「まっさかー」 
 祐巳は笑顔で答える。 
 例え太陽が西から東へ昇ったって、祐巳の生写真にレアリティが付加されるなんて事は有り得ないだろう。 
 
 平穏無事に過ごせれば、それでいい。 
 高等部にあがって早々、面白い人とお友達になれたのは予想外だったけど。それでも、これまでの十数年のリリアンでの学園生活は、一言で表すと平凡そのものだった。 
 クラス委員を務めるほどに積極性とリーダーシップを備えてるわけでなく。 
 クラブ活動で立派な成績を残せるほどに、運動が得意なわけではなく、アーティスティックな才能を持ってるわけでもなく。 
 友人は少なくは無いけれど、別段外交的で社交的な性格をしているわけでもなく。 
 即ちそれは、ごくごく普遍的な学生の姿であるはずだ。 
 期待と不安が入り混じるこんな季節だとしても、その実期待を寄せるほどにドラマティックな事件など起こりはしないし、不安に苛まれるほどに悩んだり迷ったりする事態に遭遇することもない。 
 
 だったら、平凡な学園生活を満喫すればいい。 
 友達と同じ部活に入って、それなりに真面目に取り組んで。もしかすると部活動に励んでいるうちに、親しい先輩が出来てスールとなるかもしれない。 
 ありきたりな学園生活を、ごく自然に受け止めればいい。 
 うん、それが一番。 
 
「ん? なにか考え事? 祐巳さん」 
「うん、いやね、これから始まるであろう平穏な学園生活に、想いを馳せていたの」 
 正直に答えると蔦子さんは、トキとカラスがつがいで大空を飛んでいるのを目撃した瞬間のような表情を浮かべた。 
「平穏……平穏ねぇ。まあ確かに祐巳さんには平穏が似合うけど。もっとこう、激動の学園生活に巻き込まれるのも似合う気がする」 
 巻き込まれるって……それはまた、穏やかじゃない。 
 
 それにしても蔦子さん。 
 絵に描いたような平凡な人間である祐巳に激動が似合うだなんて。やっぱり蔦子さんって、面白い人。 
 
 
 
 ──そう、あの時確かに、そう思った。 
 うららかな春の陽が差し込む一年生の教室で、確かに祐巳は思っていた。平和で平穏な学園生活を享受できればそれでいい、と。 
 だとしたら、始まりは何だったのだろう。 
 あの時蔦子さんが言っていた、『激動の学園生活』 の始まりは、一体何処だったのだろう。 
 
 祥子さまにタイを直していただいた時? 
 それとも、あの後控えていた山百合会主催による一年生歓迎会で、ピアノを弾いていた祥子さまに、心を奪われた時? 
 どちらにしろきっかけは、小笠原祥子さまという存在だったと思う。 
 こうして祐巳が、波乱に満ちた学園生活を送るようになったのは。 
 
 
「お姉さま」 
 目の前にコーヒーカップが音もなく置かれるのが視界に飛び込んできて、我に帰る。 
 淹れたてのコーヒーの香りと、白い湯気。 
 昔々、あの時の想いが、それらに捲かれて頭の中から、霞むように消えていく。二年前の春に思っていたことが。 
 コーヒーを淹れてくれた妹は、そのまま自分の分のコーヒーをテーブルの上に載せて、自分も席についた。が、まだ目の前のコーヒーには口をつけていない。 
 もしかして、祐巳に気を遣って、かな? 
 ありがと、と告げて、そのまま一口。世間一般的に見てこのコーヒーは、やや甘い部類に属すると思う。それは祐巳にとって、いつものコーヒー。可愛い妹が淹れてくれる、いつものコーヒー。 
 いつだったか、もう少し歳を重ねれば、ブラックのコーヒーを美味しいと感じることが出来るのかな、なんて考えたことがあったけど、少なくともそれは、祐巳にとっては一年やそこらの年月を重ねただけでは叶わないことが判明したここ最近。 
 高等部における最高学年となった今でさえ、ブラックのコーヒーは美味しいとは感じられない。 
 ……それでも、砂糖の量は減ったんだけど。というか、減らしたんだけど。ほんのちょっとね。いつまでも甘ったるいままじゃ、恰好つかないし。 
 
 あの子を妹に迎え入れてそろそろ半年が経つ。 
 始めのうちは本当に頑なで意地張っていて。そのたびに自分と祥子さまとの差を痛感してしまって、いちいち自己嫌悪に陥っていたりしたけど、それも解消されつつあるここ最近。 
 祥子さまみたいに毅然とした態度で振る舞うなんて、祐巳には絶対に出来っこないけれど。だったら、ぜめて自分らしく。 
「お姉さま、緊張されてます? 肩でもお揉みしましょうか?」 
 出会った頃のトゲトゲしさはこの頃ナリを潜めてきたみたいで、あの頃とは別人みたいな笑顔と、気遣いの言葉を掛けてくれる彼女は、祐巳にとっては自慢の妹。 
 この子のためにもしっかりしなくちゃ、という決意に駆られる。 
 可愛い妹。 
「まあ、お姉さまは昔からぼーっとされてるのが常でしたからね。ちょっとくらい緊張された方が上手くいくのかもしれませんけど」 
 ほほほ……と、上品ぶって笑う。 
 前言撤回。キツイ言葉は相変わらずで、姉を姉とも思わぬこのあつかましさ。まあ、今ではもうそれすら、慣れ親しんだものだけれど。 
「祐巳さん、まだ? もう結構人集まってるわよ。まさかまだ原稿上がってないなんて言わないでしょうね」 
「まさか」 
 扉を開けて顔の覗かせた、山百合会の仲間であり、大切な親友でもある少女──島津由乃さんに、軽く答える。さっきからテーブルの上に置きっぱなしだった半ピラの紙を一瞥して。そしてちょっとぬるくなったコーヒーを飲み干して、祐巳は席を立つ。 
「準備オッケーね」 
「あ、お姉さま、原稿は持っていかなくてよろしいのですか?」 
「うん、大丈夫。言うべきことはきっちりと、頭の中に入ってるから」 
 そう答えると、二人はさも意外だというような表情を浮かべた。むむ、二人ともなんかちょっと失礼だぞ。 
 
 これか始まるのは、山百合会主催、新一年生の歓迎会。 
 二年前はただ歓迎されるだけの立場だった祐巳が、今では歓迎する側で、尚且つ代表者の肩書きまで得てしまっている。 
 祥子さまの妹となって、紅薔薇のつぼみの妹という分不相応な立場を頂戴してしまって。一時はどうなることかと思ったけれど、それでも時間は止まることなく流れていく。 
 いつしか肩書きは、つぼみの妹からつぼみへと変わっていて。 
 いろいろな事があった。 
 思い出すだけで笑みが零れてしまいそうな楽しい出来事や、胸が締め付けられるような悲しい出来事もあった。 
 
(平穏な学園生活に想いを馳せる、だなんて) 
 あの頃の自分に、今を見せてあげたい。きっと驚くだろう。驚いて緊張して、三日三晩は眠れなくなるかもしれない。 
 ……うーむ、我ながらそれは可哀想なイメージだ。 
 だったら、笑顔で言ってやればいい。ガンバレ、って。 
 
「祐巳さん、まだかしら?」 
 由乃さんに引き続いて顔を出したのは、藤堂志摩子さん。由乃さんと同じく、祐巳にとってはかけがえのない存在だ。 
 祥子さまは卒業されてしまって、もう祐巳の傍にはいない。その事実は、未だに祐巳の心に大きな穴をあけて、風通しをよくしてしまっているけれど。 
 今の祐巳には、頼れる仲間がいる。 
 愛すべき妹がいる。 
 だとすれば、これから新しく始まる、(多分)波乱に満ちた日々は希望そのものだ。あの頃望んだ平穏とは、きっとかけ離れているけれど。替わりに得たものは、計り知れないほど大きい存在。 
 
 望みとは、叶えられないもの──ってのは、誰の言葉だったかな。 
 けれど、代わりに得たものが、大きな大きな希望だとすれば。 
 
「さ、行こう」 
       胸を張って生きていこう。今日から、私たちが薔薇さまだ。 
       
       
       了 
       
 
       
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