■ケータイ革命


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 携帯電話の校内への持ち込みは、原則として禁止とする。
 やむを得ない事情で携帯電話を持ち込む場合は、事前に所定の届書に、持ち込む理由を明記し、担任教師に提出をすること。
 許可を得て携帯電話を持ち込む場合は、休憩時間や放課後を含め、校内に滞在する全ての時間において電源を切ること。
 携帯電話を使用する場合は、あらかじめ担任教師にその旨を告げ、担任教師の立会いのもと、指示された場所で通話を行うこと。

 ※リリアン女学園高等部生徒手帳
 『校則 携帯電話について』の項目より抜粋

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 ◇1


「……だから私は言ってやったのよ。誰もが3割バッターになれるわけじゃないんだぞ、って」
「へえ。そりゃ粋だね」

 入学式や新入生歓迎会という大きな催しを無事に終えた6月。
 薔薇の館の階段の破損というアクシデントや、山百合会におけるリーダーの選定という新しい試みも実践しつつ、今日も山百合会は平常に運営されている。
 日頃から前倒しで仕事を進めている成果だが、今日はこれといって急いで片付けるべき案件もない。
 ということで会議室でのんびりと雑談に興じていたのは、福沢祐巳さんと、島津由乃さん。そして私こと藤堂志摩子の三人である。

「ねえ、ちょっと二人に聞きたいことがあるのだけど」
「ん?」
「なあに?」

 なんでもない雑談が一段落するのを見計らって、志摩子は聞きたかったことを二人の友人に問いかけてみた。

「……携帯電話、って持ってる?」

 少しだけ慎重にそれを聞くと、二人はさも意外だという表情を露骨に示したが、我ながら変なことを聞いているという自覚がないこともない。
 一瞬だけ詰まった空気を誤魔化すように、祐巳さんが明るく笑った。

「ちょっとビックリした。携帯の話題を振られると思わなかったから」
「ヘンなことだからビックリしたというかね。どうしたの? 携帯の話なんて、らしくないじゃん」
「なんとなくね、気になったの」

 由乃さんは正直に率直な返事だったが、それはいつものことだ。
 あくまで日頃の雑談を装って志摩子は話を進めた。
 志摩子にとってそうではないことを、例え気心知れた二人が相手とて、悟られたくはない。
 最初に答えたのは由乃さんだ。

「持ってるけど、ここには持ってきてないよ。いちおう黄薔薇さまとしてね」
「あ、持ってたんだ」
「うん。リリアンに持ち込まないから、持ちつける癖がなかなか付かないんだけど。令ちゃんや菜々とメールしたり、たまに田沼ちさとから迷惑メールみたいなのが着たり。それくらいかな。あんまり有効活用はしてないね」

 祐巳さんは? と由乃さんが話を振ると、祐巳さんはなんでもないように首を横に振った。

「私は持ってないなぁ。リリアンにいると余り使わないよね。祐麒とメールしても意味がないし」
「へー、弟君は持ってるんだ。メルアド教えて?」
「やだよ。というか私も知らないんだから、気になるんなら自分で聞いてね」
「はーい」
「志摩子さん、ケータイ欲しいの?」
「そういうわけではないのだけど。実は藤組で少し携帯電話に関する話があったの。ちゃんとした話し合いというわけではなかったのだけど、折角だから議事録にしてみたの」
「志摩子さんは仕事しすぎだね」

 志摩子が鞄の中から取り出した議事録は、賛成や反対を問うものではないため、意見書としての体裁のもとに作ったものだ。
 仕事しすぎとうんざり顔の由乃さん。
 そしてふむふむと好奇心に表情を躍らせながらの祐巳さん。
 それぞれに反応は違えど、志摩子の作った議事録に目を通してくれた。
 ちなみに議事録の詳細は、以下のようになる。



 ■

 日時:2009年6月3日 場所:三年藤組 参加者:三年藤組生徒全員
 議題:携帯電話の扱いについて


 主な意見

・自由に携帯電話を持ち込めるようにして欲しい。常時電源オフでは意味がないから、マナーモードにした上での常時電源オンを認めて欲しい。

・学園で使わないから携帯電話の持ち込みを自由にして欲しい。

・携帯電話の使用の手間が煩雑でめんどくさい。いちいち担任の先生の立会いのもととか、今時ありえない。

・誰とは言わないけど、携帯電話をこっそり持ち込んでいる人が大勢いるが、放置していいのか。

・いっそ例外を認めず全面禁止にして欲しい。そうすれば納得できる。

・持ち込みの届出を行う場合、親が持たせたがっている、という理由で受け付けてくれるのか。

・携帯使用時に教師が立ち会うのは、プライバシーの侵害ではないのか。


 以上

 ■



 というような内容になる。
 志摩子としては、可能な限りクラスメイト達の生の声を尊重したつもりだ。

「この意見書を見るに、藤組の人たちはみんな、携帯電話の持ち込みを認めて欲しいんだね」
「そうね。みんなそう思ってるのだけど、あくまで是でも非でもない意見書という形にしておかないと」
「三年藤組にだけリスク背負わせるわけにはいかないもんね。そのための山百合会だし」

 祐巳さんの言い分はもっともであり、一般生徒の代わりにリスクを背負うのが、山百合会の仕事の本質である。
 そのようにして彼女は納得してくれたが、由乃さんは議事録に何度か目を通した後、自分の生徒手帳とのにらめっこを始めてしまい、一切の発言がない。
 慣れてない人にとっては緊張の一瞬だが、それは彼女にとっての思考時間だから、静かに別のことをしていればいい。

「藤組は携帯持ってる人多い? 藤組にいる友達は持ってたけど」
「桂さんのこと? ええ、持ってるって言ってたわ」
「桂さん、面白い子だよね」
「そうね。話をしていると楽しいわ」

 そんな風に祐巳さんと話しているとやがて 生徒手帳を親の敵のように眺めていた由乃さんが、ぱたんと手帳を閉じた。
 それを合図として彼女は淡々と話し始めた。

「携帯を持ち込んではいけない。持ち込んで使うためには面倒な手順が必要になる、ってことは知ってたんだけど、こんなに面倒だとは思わなかった。特に興味なかったからね」
「議事録にも書いてあるね。確かに面倒だよ」
「しかも使う場合は担任の立ち会いの元でとかね。いかれてる」
「確かに少しいかれてるかも知れないね」
「そうね、いかれてるわ」
「私としては、それが気に入らない」
「手順が面倒なこと? それとも……」
「もちろん手順そのものじゃなくて、生徒に携帯を持たせないために、わざわざ面倒な手順を作ってるところね」

 だよね、と祐巳さんは頷く。
 気に入らないかどうかはともかく、彼女も同じ事を考えたのだろう。
 携帯電話を全面禁止としたいのが学園側の本音だろうが、頭ごなしに禁止するのはいかにも旧時代的で反感を買いやすい。
 だから例外を設けて、携帯電話の持ち込みも特例的に認めているのだが、その手順が非現実的であっては生徒にとっては本末転倒であるし、学園にとっては想定された予定調和だ。
 かぎりなく全面禁止に近い状態であるのに、例外を設けてその印象を緩和させるようなやり方が、特に由乃さんにとっては気に入らないようだ。

「……祐巳さんと志摩子さんはどう思う?」

 どこか挑むような由乃さんの口ぶりだ。
 祐巳さんが先ずは、少し考えて答える。

「個人的な話は置いておいて、携帯電話の持ち込みを自由にして欲しいという意見があるのであれば、それに答えてみたいというのはあるね。志摩子さんは?」
「そうね……。私としては、もっと多くの意見を集めたいところね。私たち三年藤組の意見としては携帯電話に肯定的だけど、他のクラスの人たちがそうとも限らないもの」
「全体の意見を募ってみる? 三年藤組みたいにして?」
「学級活動の時間を割いてもらって、携帯電話に対しての意見を集めたほうがいいと思う」
「そうだね。山百合会だけ先走っても、生徒のみんなの気持ちがついてこないもんね。先ずは、話題性を持たせて盛り上げなきゃ」

 そのようにして祐巳さんは納得してくれた。
 しかし、外堀から埋める姑息な手段を嫌う人もいる。

「回りくどいわね。先ずは私たちでケータイに関する校則の雛形作る。それ添えて各クラスごとに会合開いてもらう方がよくない?」
「それでは山百合会の意見の押し付けになるわ」
「押し付けじゃなくて提案だって。潜在的にそういう声があるのは分かりきってることじゃない」
「私たち山百合会は、全校生徒の代表よ。つまり一般生徒の意見が私たちの意見なの。先ずは全ての意見を集めてから。それからよ」

 売り言葉に買い言葉で言ってから志摩子は、しまったと思った。
 固定観念を押し付けるようなものの言い方は、きっと由乃さんの嫌うところだ。
 そして固定観念にとらわれやすいのが自分の欠点だと自覚はしているのだが……。
 しかし同時に、これでいいとも思った。
 表向きはどうあれ、先ずは我々自身のモチベーションを上げる事がきっと重要なのだ。
 そして、当然の反応として由乃さんの目が吊り上った。

「言われたからやる。そういう声があるからやる。山百合会って周りに何か言われないと動けないわけ?」
「……それだけではないけど、山百合会にはそれを実現するだけの力がある。そして一般の生徒たちには無いものなの。だから動くことに対しては慎重であるべきだと思うわ」
「志摩子さんの言う慎重ってのは、なるべく自分で責任を負わないことの言い訳でしかないじゃない」

 他人のために動くことは嫌いではない。
 しかし私は、いつしかそれを責任逃れのための言い訳にしていたかも知れない。
 自らの意思でないのなら、それだけで体のいい言い訳になるのだから。
 そういう自分は、あまり好きではない。
 自分が自分以外の生き物になりたいと思うのは、こういう時だ。

「責任とかではなくて、決断は慎重に行うべきだと」
「だからさー」

 由乃さんは苛立たしげに自分のお下げを掴みぶんぶんと振り回すが、やがて何かを思い出したようにぴたりと手を止めた。
 しかし回転しているお下げは直ぐに止まらないので、それから一回転くらいしてからゆっくりと止まった。

「……こんなこと、前にもあったよね」
「あったかも知れないわ」
「あったあった。いつだったっけ、何だったっけ。あれ、そんなに前じゃないはずだけど」
「私その時どんなこと言ったっけ?」

 由乃さんはしきりに思い出そうとするが、残念ながら本人の記憶の中にないものは、祐巳さんの中からも、そして当然志摩子の中からも、消えてなくなってしまっていた。
 こういう忘れっぽいところ、私たちの欠点なのかも知れない……。

「じゃあ、前と同じようなことを言うかも知れないけど、いい?」
「由乃さんが言いたいことを言うのがいいと思うの」
「では、お言葉に甘えまして……」

 こほん、と咳払いをひとつして由乃さんは志摩子のほうに向き直った。

「──みんなの意見とか話題性とか責任とか、この際どうでもいいのよ。さっきは脱線しちゃったけど、私が言いたいのは、携帯電話を自由にしようって時に、それに反対する人と一緒に動くのが嫌なだけなの。そりゃ、言いたいことはわかるわよ? 言ってることが自己中心的だって。けどね、みんなの意見は大事だけど、その前に私たちの気持ちのほうが大事なんじゃないかってことを言いたいの。周りの意見を気にして、みんなのために働く。大いに結構。だけどね、ときに自分の気持ちを押し出すことも大事だっての」

 由乃さんは一息にそう言った。
 確かに、こうして面と向かって言われてみると、似たようなことを過去に言われた覚えがある。
 由乃さんはどうだと言わんばかりに胸をそらしている。
 祐巳さんは、何故か楽しそうに事態を静観している。
 志摩子としては、この段に至って伝えるべき言葉は一つしかない。

「……私、由乃さんのそういうところ、好き」
「なはは。同じ手は二度食わないって」
「それもそうね」

 由乃さんは、白い歯をのぞかせてにやりと笑った。
 話は全く解決していないのだが、そろそろ頃合かという感じで祐巳さんが口を開いた。

「どっちかっていうと、慎重であるべきだ、という志摩子さんの意見に賛成なんだけど、とりあえず瞳子たちの意見も聞いてみようよ」
「そうね」
「うん。菜々もケータイ持ってるから」
「由乃さんは菜々ちゃんと毎日メールしたりする?」
「恋人じゃないんだからそれは無いよ。たまに、面白いことがあったり、面白いものを見つけた時に送るくらい。あとは予定立てるときとか」
「それは恋人っぽいけど」
「だから恋人じゃないっての」

 楽しげにからむ祐巳さんと、あくまで否定する由乃さんである。
 今度、機会があったら、どんな時に、どんなふうにメールを送るのか。菜々ちゃんにも聞いてみようと思った。
 


 ◇2


 それから少ししてから、祐巳さんと由乃さんの妹である松平瞳子ちゃんと、有馬菜々ちゃん。そして志摩子の妹である二条乃梨子が、薔薇の館にやってきた。
 薔薇の館の会議室は、会議室と命名されているくらいだから、山百合会の業務を行うのが主となる場であるが、先程の志摩子たちのように、なんでもない雑談の場になることもある。
 そして、仕事としている時と、雑談している時の空気というのは、目には見えないが随分と違うものだ。
 それに目ざとく気付いた瞳子ちゃんが、祐巳さんに向けてにこりと笑う。

「今日は仕事はしないんですね、お姉さま」
「したいならしてもいいよ。私はのんびりしてるから。ぐでー」
「もう、自堕落なんだから」

 祐巳さんと瞳子ちゃんは、まるで数年来の友人というような雰囲気で楽しげに話している。
 上級生が下級生を指導するという基本的な人間関係を、そこだけを切り取ったのがリリアンの姉妹制度と言える。
 しかし彼女たちはその枠組に当てはまらない。
 校内の端々で見かける姉妹たちも、志摩子が一年生だった頃と比べると、典型的な姉妹というより、祐巳さんと瞳子ちゃんのように、友人関係に似た雰囲気を持つ姉妹が増えているように思える。
 それは時代の変化と言えるし、山百合会の影響とも言えるかも知れない。

「別に遊んでたわけじゃないわよ。ケータイの自由化について話してたじゃない。れっきとした仕事よ仕事」
「お姉さまってメールの返信が遅れると怒るんですよ。何してただの、誰かと遊んでたのかだの」
「うわあ、由乃さまったらウザイ彼氏みたい」
「菜々! 余計なこと言わなくていいから!」

 由乃さんと菜々ちゃんのやり取りに、乃梨子が茶々を入れる。
 三年生である由乃さんと、一年生の菜々ちゃんは、学年が2つ離れている珍しい姉妹だ。
 二人の仲は良好のはずだが、まだ手探りで関係を模索している途中らしく、ときおりそれが諍いとなって表に現れることがある。

 ──例えば半月ほど前、こんなことがあった。
 薔薇の館に通うようになって間もないことから無理はないのだが、菜々ちゃんには仕事上のミスがやや多い。
 しかし、誰にだってミスはあるのだから、誰も菜々ちゃんのことを責めたりはしない。
 仕事上のミスをお姉さまに有耶無耶にしてもらったことが、志摩子にも何度かある。
 だからミス自体は別に重要な問題ではないのだが、それを誰も気にしないことを菜々ちゃんは不満に感じていたらしく、それを皆の前で明らかにした。
 その態度を頭ごなしに叱りつけた由乃さんと菜々ちゃんの間で、ちょっとした衝突があったのだ。
 その際に、メンバー全員での話し合いが持たれたのだ。
 腹を割って今の山百合会について考えてみよう、と。
 もちろん、由乃さんと菜々ちゃんも交えてだ。
 思い当たる節があった志摩子は、そのとき皆に思い切って打ち明けてみた。
 話は半月前に設けられた話し合いに遡る。

「……菜々ちゃんがミスをしてしまうのは、私達に原因があるように思うの。由乃さんは覚えてると思うけど、昔の山百合会って、かなり静かだったのよ」
「祐巳さんが来る前くらい?」
「そうね。祐巳さんが来てくれるようになってから、少し賑やかになったけど」
「いや、私が来てからもかなり静かだったよ」
「そうね。だから、人が入れ替わるたびに、少しずつ賑やかになっていったのね」

 現在の山百合会メンバーの中での最古参が、由乃さんだ。
 次に志摩子、その次に祐巳さんとなる。
 当時を知る二人は、確かにそうだったと頷いた。
 志摩子たちが二年生となり、次にやって来たのが──やって来たというか、志摩子が連れてきた形だが、妹の乃梨子になる。
 当の乃梨子は、その話に興味深そうだ。

「ねえねえ志摩子さん。私が来てからは?」
「結構、賑やかになったわね」
「それでは私は? ……私が来たのは割りと最近ですが」
「かなり、賑やかになったかしら」

 前年度の三学期になって正式に通うようになった瞳子ちゃんも、この話は気になるみたいだ。
 そして、この中で一番山百合会を長く見てきた由乃さんには、志摩子が何を言わんとしているか見えてきたみたいだった。

「それでも瞳子ちゃんが来た頃くらいまでは、まだそれほどではなかったはずよ。なんてったって祥子さまがまだ居たからね。そして令ちゃんは、そんな祥子さまを気遣ってたか」
「ええ。たぶん、過度に賑やかにならないようになさっていたかしら」
「お姉さま、静寂を好む人だから」

 自分のミスが招いた事態という負い目があるのだろうか、それまで発言を控えていた菜々ちゃんが、控えめに言った。

「あのー。差し出がましいようですが、それでは、私が来てからは?」
「すっごく賑やかになったよ!」

 祐巳さんのお姉さまである小笠原祥子さまは確かに静寂を好む方だったが、妹である祐巳さんはそうではない。
 当時は祥子さまの妹として自重していたところはあっただろうが、今では楽しい話題を振ったり、和みとも脱力ともとれる冗談で場を楽しませてくれる。
 彼女は今の”賑やかな山百合会”を心底歓迎しているようだ。

「私はあんまり賑やかにしない方だけど、今の山百合会は好き。でもそれが、今回のことでは裏目になってしまったと思うの」
「慣れてない人間が喋りながら仕事すれば、そりゃミスのひとつもするか。なるほど」
「私と瞳子は運が良かったってことですね。静かなうちに仕事に慣れたんだ」

 騒がしいからミスをしてしまう。志摩子がたどり着いた結論はそれだった。
 志摩子たちのように仕事に慣れていれば、喋りながらでもそれなりに能率を上げることは出来るだろう。
 しかし、瞳子ちゃんのように、山百合会のヘルプをしていた経験もない菜々ちゃんが同じ事をすれば、当然ミスを重ねてしまう。

「じゃあ、どうしよっか。そうか、私がお姉さまみたいにすればいいんだね。瞳子、やかましくてよ。縦ロールがバネみたいになっていてよ」
「お姉さま、似合わないです。しかも髪型関係ないっす」
「バネになって欲しいみたいな言い方ですしね」

 祐巳さんと瞳子ちゃん、そして乃梨子が、話し合いの中に適度に雑談を挟み込んでくる。
 間違いなくかつての山百合会に無いものだが、しかし今更この雰囲気を手放すことは出来ないしまた、手放したくもない。
 結論にたどり着いたのは良いが、志摩子には結局、効果的な対策を講じることは出来なかった。

「なら、私だけ喋らないでおきますよ。慣れれば乃梨子さまや瞳子さまみたいに、ミスしないで仕事できるようになると思いますし。それまで辛抱します」
「例え期限付きであれ、喋らないだなんて、そんなこと許すと思う?」

 淡々と解決策を述べる菜々ちゃんだったが、由乃さんはそれを許さない。

「じゃあ……喋るのは、取り掛かってる仕事が一段落してからにします。喋りながら仕事するのではなくて、仕事してから喋って、喋ってから仕事する。これでどうでしょうか」
「菜々はそれでいいの?」
「はい」
「それなら、私もそうするわ。菜々が仕事に慣れるまで。みんなにも出来れば協力して欲しい。喋るのはもちろんいいんだけど、喋りながら手を動かすのはしばらく控えて欲しい。リーダー、どう?」

 どう、と話を振られたのは、我らがリーダーである祐巳さんだ。
 祐巳さんは、かつて誰かがそうであったように、優美に返答をした。

「よくってよ」
「だから似合わないですって、お姉さま」


 ……そのような内容の話し合いの場が持たれたのが、半月前のことだ。
 菜々ちゃんに散発するミスの原因の究明と対策立案を同時に行なってしまうという、雑談の延長線上のような話し合いだったことは否定できない。
 結果として一定の結論にたどり着くことは出来たし、自分たちが歩んできた道のりが、必ずしも正しいとは限らない、と知ることが出来たのは、メンバーにとって良い刺激だった。
 ──山百合会をより良く、より楽しくしていこう。
 スローガンとして掲げているわけではないが、かつての山百合会の薔薇さま方のように志摩子たちが振る舞えるかというと、首を縦には振りづらい。
 自分たちには、より自分たちらしいやり方がある。
 それを求めていくことこそが、山百合会をより〜という気持ちに繋がるのだ。
 しかし、組織をより良く、より楽しくしていくことが生んだ弊害が、今回の菜々ちゃんの件だった。
 常に自分たちが正しいとは限らない、という大きな教訓を、菜々ちゃんに苦難を肩代わりしてもらうことで志摩子たちは得たのだ。
 決してそれをおろそかにしていたつもりは無いのだが、祥子さまと令さまが卒業なさりメンバーの入れ替わりはあったものの、志摩子たち三年生の三人と、乃梨子たち二年生二人という顔ぶれがずいぶん長いこと続いているし、それはもうしばらく続く。
 固定化したメンバー構成が長期間にわたり続くと、メンバー間の価値観が均一化されてしまい、本当に正しいことが分からなくなってしまうのだろう。
 ──この教訓を忘れてはならない。志摩子はそう思う。

 そんなことを志摩子が考えているうちに、由乃さんは先ほど志摩子たちが話していたことを、下級生たちに伝え終えたようだ。
 ひと通りの話を聞いている最中から目を好奇にきらきらと輝かせていたのは、最年少の菜々ちゃんだ。
 携帯電話の自由化。
 特に日頃から携帯電話を活用しているらしい菜々ちゃんの興味を引いたようだ。 

「面白そうですね! 是非やりましょう! というかすでに私今ケータイ持って! もがもが!」
「はいはいストーップ」

 と、由乃さんが菜々ちゃんの口を手に平でおさえる。
 由乃さんの目は優しいが、手を離すつもりは全くないらしく、それなりに力がこもっている。

「菜々はケータイを、どうしたの?」

 そしてぱっと手を放す。

「だからケータイ今持ってて……もがっ」

 ふたたびに口を押さえられる菜々ちゃん。
 特別な事情を持つ生徒だけが、特定の手順を踏んだ上で、携帯電話を校内に持ち込むことを許されている現状から、山百合会のメンバーが無断で携帯電話を持ち込んでいることが明るみになれば、山百合会という組織の信頼失墜は避けられない。
 政党与党のスキャンダルではないから、野党からの追求により辞任に追い込まれることはないだろうが、例え山百合会に対抗組織がおらずとも、学園側の措置として反省文は覚悟しなければならない。
 しかも菜々ちゃんは、”つぼみの妹”ではなく、れっきとした山百合会役員たる”薔薇のつぼみ”なのだ。
 山百合会役員が反省文を書く、という事態は出来れば避けたい。
 というようなことを(たぶん)目と目のアイコンタクトで菜々ちゃんに伝えた由乃さんは、再度、口を抑えていた手を放す。

「それじゃあ菜々。あなたはケータイをどうしたいのか、もう一度よく考えて、話してごらんなさい」
「……エット、私コト有馬菜々ハ、携帯電話ヲ所有シテイマスガ、校内二持チ込ンダコトハアリマセン。シカシ、持チ込メタライイナと思イマス。デスノデ、携帯電話自由化ノハナシニ賛成デス」
「よし。よく出来ました」
「菜々ちゃん電報みたいになってるよ!」
「大丈夫デス。問題アリマセン」

 菜々ちゃんの頭を由乃さんがよしよしと撫でる。
 明らかに普段の快活さが目減りしている菜々ちゃんに対して、いつも通りの笑顔の祐巳さんが、「大丈夫。仕事と同じで、じきに慣れるよ」と、慰めになるのか図りかねる言葉をかけていた。


 その後、皆で今後のシナリオ──と形容すると陰謀めいてしまうが、今後の展望についてざっくりと話し合った。
 山百合会のスタンスとしてはあくまで、現状の携帯電話にまつわるシステムの問題点の解決、となる。
 山百合会はあくまで、あくまでも無色の力でなければいけない、と志摩子は考える。
 つまり、山百合会から『ケータイを自由にしよう!』と呼びかけはしない。
 しかし、山百合会側から、現行の制度について『何か問題はありませんか?』と問いかけることは、山百合会の業務に含まれる。

 ──もちろん、「あれを自由に、これを自由に」と、率先して呼びかけた山百合会も、過去にあったかも知れない。
 志摩子たちとて、仮にメンバー全員が由乃さんだったならば、そういった手段を取っても不思議じゃないし、特に制限もされていない。
 あくまでも設けられた校則の範囲内で、自由に学園活動を送ることが生徒の勤めであり、それは一般生徒も山百合会も変わらない。
 学園の風紀を乱すな、という類の言葉は生徒手帳に書かれているが、生徒を扇動してはならない、とは記載されていない。
 つまり風紀を乱さない範囲内ならば、扇動したっていい。
 しかし、特に有名じゃない一般生徒が「ケータイを自由化しよう!」と声高に叫んでも、なかなか他の生徒には届かない。
 これが山百合会となると、知名度や影響度の高さから、とてつもなく大きな声に聞こえてしまうのだ。
 志摩子としては、この力の濫用は出来れば避けたい。
 ”濫用”が由乃さんだとすれば、志摩子はすると”臆病”となる。
 大事なのは、この2つのバランスを維持すること。
 ときに力の行使は必要だし、ときに慎重に見極める必要もある。
 これを上手に見極めることが出来るのは、祐巳さんを置いて他にない、と志摩子は考える。
 だから祐巳さんにリーダーという大役を担って欲しかったし、きっと由乃さんも同じ事を考えていただろう。
 もちろん、志摩子たちも率先してリーダーという責務の重みを軽減していくように働きかけている。
 祐巳さん、あれでけっこう意固地だから……。

 ──かようにして今回は以下のように決まった。
 『”携帯電話にまつわる意見や問題点”という趣旨でクラス全員の意見を集め、内容をまとめた記録を提出してもらう』と。
 先ずは、各クラスのクラス委員長を薔薇の館に集め、要項を伝える。
 内容と期限だけこちらで定め、手段については限定しない。
 クラス活動の時間を使って話し合いの場を設けてもいいし、そういった音頭をとるのが苦手なクラス委員長には、山百合会が配布する資料をそのままクラス全員に配布し、意見を記入してもらったのちに回収する、という手段を取ってもらってもいい。

「資料づくりとかスケジュール決めとか、どうする? 今からやる?」
「明日からでいいじゃん。もうちょい色々と喋って詰めてみようよ」
「そうね。きっちりと決めてから動いた方がいいし」

 ……この、志摩子たち三年生の一連のやりとりを要約すると、「どうせなら今日は雑談だけしてようよ」という意味になる。
 もちろん、今日から動こうと思えば動けるが、”喋るときは喋る、手を動かすときは動かす”と緩急をつけていこうと菜々ちゃんのことで決めたばかりだ。
 志摩子たち三年生が、率先して雰囲気づくりをしていく必要がある。
 そのとき乃梨子が、だしぬけに挙手した。
 手を挙げなければ喋れない、なんていうルールは、山百合会にはもちろん無いのだけど。

「ちょっと疑問なんですけど、こういう事って昔からありました? 山百合会が音頭を取ってする生徒主体の運動」
「私の知る限り、無いかしら。由乃さんは?」
「私もないね。やろうと思えば幾らでもやれたとは思うけど」
「面倒くさかったのかな。先ずそもそも、山百合会内で意見を取りまとめることが。なんだかんだで個性的な人の集まりだから」
「自分はそうじゃないみたいに言うお姉さまも、割りと個性的ですよ」

 個性的かどうかはともかくとして──。
 つまりいまの山百合会は、かつてないほど一枚岩に近い状態ということなのかも知れない。


 ……その日の帰宅時間、薔薇の館から、リリアン最寄りのバス停までの道中のことだ。
 特別な理由がない場合はたいがい、この時間は姉妹ひとかたまりになって歩いている。
 そんな風に、志摩子の隣を歩いていた乃梨子が、すっと手を差し出してきた。

「志摩子さん、これあげる」
「なあに?」

 妹の手の中にあったのは、狐の尻尾を模したキーホルダーのようなものだった。
 毛の質感がリアルで、いかにもふさふさしている。
 妹はちょっと子供みたいに笑って、少し得意そうに話し出した。

「昨日ゲーセンで取ったの。二個取れて、私は色違いをひとつ持ってるから、もう一つは志摩子さんにプレゼント」
「私が貰ってもいいの?」
「うん。何にでも気軽に付けてみてよ」
「ありがとう。大事にするわね」
「耳掃除に使うのもアリだよ」
「いやだ、そんなことに使ったりしないわよ」

 志摩子と乃梨子は、小声で笑いあう。
 先ほどまでの会議室での雑談とも言えないほどに、他愛もないやり取りが、恐らくどの姉妹の間でもかわされている。
 他の姉妹たちも、めいめいにリラックスした表情だ。
 ”山百合会の一員”として、恐らくかなりの度合いで結束している自分たちだからこそ、こんな時にしか”姉妹”として触れ合えないのかも知れない。
 志摩子は、妹に貰ったふさふさのキーホルダーを撫でながら、そんなことを思った。




 ◇3


 それから一週間後に山百合会側としてのすべての準備が整い、薔薇の館に各クラスのクラス委員長に集まってもらう運びとなった。
 ふと思い返してみると、特別な行事などが無い限り、薔薇の館に一班の生徒が集まるという機会は殆どない。
 人手不足のためのヘルプとして、或いはそれは誰かの妹候補としてなど、私的に近い形でしか実現しない。
 しかし、今回のような寄り合いの場は、率先して設けるべきなのだ。
 各委員会の委員長と顔を合わせる機会は多いのだが、直接的に各クラスと繋がる機会が少ないことが、一般生徒と山百合会のどうしても埋めがたい距離になっていたとも考えられるためだ。
 例え明確な伝達事項がなくとも、こうした集まりは多すぎない頻度で定例していければいい。

 ひとしきりの説明と質疑応答を終えると、各クラスの委員長たちは、めいめいに挨拶など交わし、この場を後にしていった。
 放課後ということで彼女たちにも部活等あるだろうし、なにより人数に対してこの会議室は少々手狭である。
 そんな中、三年藤組と三年松組のクラス委員長の二人が、なんとなくこの場に残っていた。
 藤組は志摩子の、そして松組は祐巳さんと由乃さんの在籍クラスのため、気安さもあるのだろう。
 三年藤組のクラス委員長さんが、まるでスキップするような足取りで志摩子の方に近づいてきた。

「志摩子志摩子、この間の話し合いが効いたのかな? それって凄いことじゃん!」
「そうね。みんなに議事録見せたら、ちょっと携帯電話について見なおそう、ということになったの」
「自由化したらきっとみんな喜ぶよ。藤組に志摩子がいてくれてよかったって!」
「うふふ、それは嬉しいわ」

 三年藤組のクラス委員長さんは非常に気さくな人で、クラスメイトの誰に対しても敬称を略していく姿勢を崩さない。
 いつも楽しそうに話す人だが、楽しい時はめいっぱい楽しく、悲し時は自分ごとでなくとも悲しさを隠さない。
 そういう温かみある人柄が支持され、クラス委員長に推薦されたのだった。
 今現在持っているかどうかは分からないが、確か彼女も携帯電話を所持していたはずだ。

「松組は話し合いとかする?」
「私はしてみたいかな。由乃さんは?」
「しないと逆に不自然でしょう」
「どうせなら学活の時間にココでやろうよ。お茶飲みながら。クラス委員長として私が提案するから」
「ちょ、入り切らないっての。床が抜けるぞ!」

 祐巳さんと由乃さんのいる松組では逆に、薔薇さま二人がいつも身近にいることから、山百合会への特別視が薄いらしい。
 松組のクラス委員長さんとは志摩子はあまり面識がないが、こうして薔薇の館にいることに何ら気負いがないようだ。

「話し合い終わったら松組の議事録見せてよ」
「いいよ。藤組のも見せて」
「オッケー!」

 じゃあね志摩子! と手をぶんぶんと振って、藤組のクラス委員長──細貝有希子さんは、松組のクラス委員長さんと一緒に、薔薇の館を後にしていった。
 残された志摩子たちは、誰からということもなく、ふう、という溜め息をこぼした。
 ようやく一仕事が終わったことと、しかしこれがスタートラインであるという事実がそうさせるのだろう。
 今回の携帯電話についても含め、生徒たちとの橋渡しをしつつ学園側に何らかのアプローチをしていく事に関して、今の山百合会には何の実績もなければ前例もない。
 先輩方から引き継いできた項目のいずれにも当てはまらないのだ。
 およそあらゆる必要事項を、全て自分達による手探りで一から構築していくしかない。
 各クラスのクラス委員長への連絡から、資料作成。
 当日の説明会の段取り決めに加え、場所づくりの準備から後片付けという肉体労働。
 初回ということで薔薇の館の会議室を会合場所と定めたものの──。

「……由乃さま、次からは特別教室使いませんか?」
「同感。これじゃ身がもたないわ」
「うーん、出来れば薔薇の館にいろんな人を呼び込みたいものだけど」

 乃梨子と由乃さんの正直な感想に否定的な祐巳さんであるが、日頃から割りとタフな祐巳さんの顔色も疲労の色が滲んでいる。
 そういう流れで、色々やることはあるものの、取り敢えず今日はのんびりしようということになった。

「それじゃ、私がお茶淹れますね」
「お願い」

 さすがに菜々ちゃんは運動歴が長いだけありまだまだ元気だが、対して上級生たちは疲労の色が濃く、全体的に口数も少ない。
 普段は率先してお茶を淹れてくれる乃梨子と瞳子ちゃんも、今日は椅子から立つことが億劫のようだ。
 そういうことで、菜々ちゃんがお茶を淹れてくれた後、全員がテーブルについているというのにしばらく誰もが無言、という珍しい現象が起きていた。
 菜々ちゃんも空気を読んで、しばらくお茶を飲むことだけに集中していた。
 自分の淹れたお茶に対するメンバーの反応をひそかに注目していたようだったが、そもそも誰の顔色もすぐれないため、やがて諦めたようだった。
 やがて一番に回復したらしい乃梨子が、ぽつりと口を開いた。

「……志摩子さんのクラスの委員長さん、面白い方でしたね」
「そうね。あれで面倒見もいいのよ。みんなに信頼されてるわ」
「三年藤組は面白い人が多い、って聞くけど」
「面白いというと語弊があるけど……そうね、個性的な子が多いかしら」
「例えばどのような方が?」

 そう、例えば──。

 一日一善をモットーに、”善行ポイント”と称して善行の記録を日記として毎日つけている人。
 ”掃除の神”を自負し、窓の桟から棚の奥深くまで、少しの汚れも見逃さない人。
 自分の名を冠する方程式発見を夢見て、およそあらゆる事柄を方程式で説明しようとする人。
 思い通りの夢を見るための研究を小等部の頃から続けている人。
 人気はほどほどだけど憎めないバラエティ芸人を目指し、あまたの動物の鳴き声の模倣を日々練習している人。

 ──などなど、枚挙にいとまがない。

「なんか、面白い人というか……」
「イタイ人が多いですね」
「痛いなんてことはないわ。みんな熱心で真面目だもの。それにみんな目指すものは違うけど、みんながみんなのことを認めているから」 
「わかったわかった。志摩子さんが藤組を大事にしてることも分かった」


 皆が訝しげな表情になっているのを見て、志摩子は必死に抗弁した。
 クラスメイトたちの努力を見るたび、自分も頑張らなくては、と志摩子はいつも思うのだ。
 一般的な感性から少しずれた子が多いのというのは分かるのだが、だから何だというのだろう。
 いつになく楽しそうな祐巳さんが、身を乗り出してきた。

「ねえねえ、三年藤組の標語って何だったっけ」
「標語? 『人に優しく、自分にも優しく』だけど……」

 志摩子がそう答えると、なぜか場が爆笑に包まれた。
 皆、疲れなどどこかに置き忘れたかのようにお腹を押さえて涙さえ浮かべて笑っているが、志摩子としては笑いどころが分からない。
 とってもいい言葉なのに……。

「何故みんな笑うの? ここは笑う所じゃないわ」
「ご、ごめん志摩子さん。悪い意味じゃないの。志摩子さんの話を聞いて、何だか元気が出てきたよ。藤組の子たちのためにも、私たち頑張らなくちゃ」
「うん、やりがいが出てきた」
「それなら、いいんだけど……」

 志摩子としてはいまいち納得できないが、藤組のことを話したお陰で皆に活力を与えられたなら、それはそれで良いことだ。
 それから皆はいつもの調子を取り戻し、賑やかにお喋りに興じたのだった。

 各クラスでの意見の取りまとめの期限は、二週間後と定めている。
 もちろん我々山百合会としては、二週間をただ待っていればいいというわけではない。
 取りまとめた意見をさらにどのようにまとめ上げるのか。
 集まった意見をただ羅列するだけでは、それは山百合会の仕事とは言えない。
 今後のため、学園のため、そして生徒のために有効活用できるデータとしてまとめ上げてこそだ。
 そのためには、二週間後をただ待っての行き当たりばったりでは事は成せない。
 大事なのは、周到な準備と、モチベーションだ。
 後者はたぶん大丈夫だろう。
 あとは前者。
 今日はともかくとして──明日から気を引き締めていく必要がある、と志摩子は気持ちを新たにした。




 ◇4


「……やっぱり、意見としては藤組の時のと同じような意見が並ぶよね」
「それはまあ、予測できたことよ。今のシステムには明らかに問題があるし」
「それを生徒たちに有利な形で解決するとしたら……つまり、そういうことよね。

 各クラスのクラス委員長を集めた会合から二週間後。
 今、山百合会の手元には、全クラス分の議事録、合計にして18枚の議事録が集まっていた。
 山百合会が各クラス委員長に配布した資料は、そのまま生徒全員に配布してアンケート用紙として使用できるようにも作ってある。
 配布して要項に記入してもらい、結果をクラス委員長がまとめる。
 もしくはクラス単位で話し合いをしながら、要項をまとめる。
 どちらの手法を採用しようとも、必要な項目が埋まるように作成したのだ。
 ちなみに配布した資料は、以下のようなものだ。


 ■

 〜山百合会から生徒の皆さんへのアンケート〜

 @今の携帯電話に関する校則に、問題があると思いますか?

  →思う  思わない

  思う人はその理由を、思わない人はその理由を記入してください。



 A携帯電話の持ち込みが自由になった場合、あなたは携帯電話を校内に持ち込みますか?

  →持ち込む  持ち込まない

  持ち込む人はその理由を、持ち込まない人はその理由を記入してください。


 B携帯電話に関する校則を破った場合、罰則は必要だと思いますか?

  →思う  思わない

  思う人は罰則として適切な項目を、思わない人はその理由を記入してください。


  ご協力ありがとうございました☆

  ■


 ──以上のような内容となる。

「……やっぱり最後の☆マークは要らなかったと思うんだよ」
「いいじゃん。いまさら山百合会がお高くとまってもしょうがないし。そういう時代は終わったのよ」
「紅薔薇さまは気になさってるようですけど、ウチのクラスでは割りと普通でしたよ。ああ星があるな、っていう程度で」
「そうそう、お姉さまは気にしすぎですよ」
「そうかなあ」

 祐巳さんはしきりに首をひねっているが、志摩子としても、罰則にまつわる重い話の後に星マークがあるというのは、ちょっとアンバランスで気持ちが落ち着かない、というのはある。
 とはいえ、星マークの有無で書類の印象は変わる。
 「私たち山百合会も、同じ生徒ですよ」と親しみを持ってもらうためには、こういう細かいこだわりも必要だろう。

「それじゃ、さっそく集計を始めませんか?」
「そうだね。今日は手を動かす日だよ」
「菜々、くれぐれも焦らないことよ。時間はたくさんあるんだから。終わらなかったら明日続きをやればいの」
「はい、承知してます」
「今回の場合、ミスっても誰にも分からないっていうのはあるけど」

 自由記入欄の意見をひとつ取りこぼしても、またイエスノーの設問形式部の数値を少々間違えても、大勢には影響しない。
 とはいえ、せっかく集まった意見の取りこぼしは、出来れば避けたいところだ。
 そのようにして集計作業は始まった。
 イエスノーの設問形式の項目については、クラス内での数字が、イエス何人、ノー何人と。
 そして自由記入欄の意見については、挙げられた意見が被っているものをまとめた上で記載してある。
 志摩子たちが行うのは、それを更にまとめあげる作業だ。
 手を動かすときは動かし、そして喋るときは喋る。
 当面そのような方向で進めるように決めたばかりではあるが、やはり、目新しい意見については、その場で喋りたくなるという気持ちはある。

「校則を破った場合の罰則──退学。重っ!」
「それはないよねえ、さすがに」
「でも、そんなことを考えている生徒が、少なくとも一人はいるということね」
「前の紅薔薇さまなら、そう仰りそうですね」
「祥子さまか……ありうる」

 何故か祐巳さんが身震いした。
 この学園内に少なくとも一人は祥子さまのような人がいると想像してしまったからだろうか。
 志摩子たちは集計作業中にちょくちょくと小話を挟んだりもしたが、菜々ちゃんだけは不乱に手を動かし続けた。
 由乃さんは、菜々ちゃんの手が止まった時──つまり一段落したタイミングで何気なく話しかけたりもしていたが、菜々ちゃんは最後まで集中力を切らさなかった。
 やがて皆も菜々ちゃんを気遣うように、誰からともなく無言になった。
 しかし、この場にいる誰もが、沈黙が気まずくなる間柄でもないし、どちらかというと志摩子自身、無言でいることの方が多い。
 そんな風に、それほどの気詰まりもなく、集計作業は滞りなく終わった。
 予定していたよりかなり早い時間での完了となった。

「意外と早く終わったね」
「菜々ちゃんが頑張ってくれたお陰だね」
「光栄です」

 まだ緊張と集中が解けていないらしい菜々ちゃんは、ものすごく固い返答をして、話しかけた乃梨子を白黒させた。
 志摩子の予想としては、下校時刻いっぱいまで時間をかけてちょうど集計が完了する見込みだったのだが、まだ下校時刻まで30分ほどある。
 そんなわけで、誰からともなく集計結果の感想を話しだした。

「携帯電話の校則に問題があると思ってる人が8割超えってのは妥当だよね」
「むしろ100%狙いたかったところよ」
「やろうと思えば出来たのかもですけど、それじゃ扇動になりますし」

 実際にアンケート用紙をパソコンに打ち込んで作成してくれたのは乃梨子は、”扇動まがいのことをしたくない”という志摩子の意思を組んで、極力やわらかい言葉を選んでアンケートを作成してくれた。
 しかし、設問の組み方や流れを見れば、山百合会の狙いはおおよそにはつかめてしまう。
 それを踏まえた上でなお、生徒たちに選択権を譲渡する形式を維持することが出来れば、仮に山百合会の狙いが何であれ、正しい内容ならば通るし、正しくなければ通らない。
 これは自分たちに都合の良い人間のみに問いかけたアンケートではなく、全校生徒を対象にしたものだ。
 偏りや不平等のない公正なもの──志摩子はそう信じている。

「でも、実際に携帯電話を持ち込むか持ち込まないかとなると、過半数を超えませんでしたね」
「これはリリアンだからなのかな。そもそもきっと携帯の普及率が低いんだ」
「山百合会で5割ですからね」

 携帯電話を持っているのが、由乃さん、菜々ちゃん、そして乃梨子。
 対して持っていないのが祐巳さん、瞳子ちゃん、そして志摩子となる。
 実は、項目@の携帯電話に関する校則についての設問の前に、『あなたは携帯電話を持っていますか?』という設問があったのだ。
 ギリギリまで話し合ってこの項目は削除することになったのだが、これに関しては未だに志摩子たちの中でもはっきりとした答えが出ていない。
 この設問を設けてしまうと、まるで今回のアンケートが、携帯電話を所有している生徒のみに向けたアンケートであるかのような印象を与えてしまう、という危惧があったのだが、これが志摩子たちの取り越し苦労なのかそうでないのか、判断に窮するところだ。
 単純にデータのひとつとしてなら、もちろんあったほうがいい。
 しかし、所有率2割という結果が出て、自分たちのモチベーションが下がることを無意識に恐れたのかも知れない。

「罰則について……これ、入れようって言ったの、由乃さんだったよね」
「だって当然でしょ。自由と責任は表裏一体よ」
「私もそう思います。ウチのクラスでも、アンケート配る前から山百合会がケータイ自由化するってう噂があったんですよ。あ、私は喋ってないですよ。でも、自由化っていう言葉だけ先行して、一年生みんなお祭り騒ぎみたいになっちゃってて……」
「ケータイの話した時の菜々の喜びようを見れば、だいたい分かるわ」
「違いますっ! 私は純粋に面白そうだなって思っただけで……」

 菜々ちゃんが墓穴を掘ってしまった形だが、一年生たちの誰もが菜々ちゃんのように喜んだのならば、お祭り騒ぎになるのも無理はない。
 そんな生徒たちが”罰則”の二文字を目にしたなら、その心理は想像に難くない。
 罰則という言葉は、とてつもなく重い。
 当たり前のようにその二文字が記載されたあのアンケートは、由乃さんが言うように、自由と責任を簡潔にわかりやすく表したものとして生徒たちに届いたはず……と、志摩子は思う。

「とりあえず集計は終わったけど、まとめるのは明日からでいいかな」
「コンピュータ部のパソコン一台使わせてもらえるのは明日あさってだから、その方がいいですね」
「もうちょい早く申請しとけばよかったなあ、パソコン」
「乃梨子だけに任せきりも良くないから、薔薇の館にパソコン来たら、みんな覚えましょう」
「主に我流ですけど、そのときはこの乃梨子めが皆さんに教えますよー」

 書類作成やまとめのために、どうしても昨今ではパソコンが必要になってくる。
 必要に応じてコンピュータ部の部室で一台借りているのだが、度重なるとあちらもこちらも少々面倒臭くなってくる。
 そのため、山百合会の業務用としてパソコン一台買ってください、と学園に申請したのが一ヶ月ほど前なのだが、受理はされたものの未だ現物がやってくる気配がない。
 志摩子はちょっとその方面に明るくないのだが、同時にインターネットに繋ぐための工事も薔薇の館に施すらしい。
 「ネットに繋げなきゃ、パソコンなんてただの箱ですよ」と乃梨子が強硬に主張した結果である。
 どうしてパソコンなどという高価な品物がただの箱に成り下がってしまうのか、乃梨子は恐らく極めて丁寧に説明してくれたはずなのだが、志摩子としては未だによく分からない。
 しかし、がんばってパソコンの使い方を覚えたいな、という気持ちはある。

「ヒマなときに山百合会の紹介動画とか作ってみたいですね」
「面白そう! ついでに歌ってみたり踊ってみたり……」
「山百合会が流行りの日常系アニメになってみた、とかね」

 乃梨子の提案に、菜々ちゃんが目を輝かせた。瞳子ちゃんも割りとパソコンやインターネットの方面に詳しいみたいで、三人で喋っては笑い、笑っては喋ってと、とても盛り上がっている。
 志摩子としては、何を話しているのかさっぱり分からないが、それは祐巳さんと由乃さんも同じらしい。

「まあ、あっちはあっちで」

 由乃さんが少し憮然として言った。
 自分の知らない話題で盛り上がっているのが面白くないのだろう。

「今回のアンケートをまとめ上げて、ようやく半分ってところかな?」
「やることとしては、そうね。順調に進んだとして、あと半分でゴールかしら」
「ゴールテープ切れたら、あとは上村先生のとこに行って私たちがひたすら説得すればいいだけだからね」

 校則を改正するためには、山百合会が作成した草案を元に各クラスで話し合いを設けてもらう必要がある。
 そこで挙げられた意見を盛り込みつつ当初の草案を調整し、最終的に各クラス代表者の三分の二以上の賛成を得ることで、学園に改正案として提出することが出来るようになる。
 そして、校長先生──現在の場合、シスター上村の承認を得ることが出来た場合、校則改正が実現することとなる。
 もちろん、草案の調整案を仕上げた時点でこっそりと上村先生に目を通してもらい、可否の色合いを定めてはもらうつもりだが──。
 各クラス代表者の三分の二の賛成を得た時点でそれは、『全校生徒の意思』ということになる。
 ここまでくると逆に、生徒側も学園側も後戻りが出来ない段階に踏み込んでしまうため、ここから結果が覆るような事態は出来れば避けたいのだ。
 生徒手帳にそう書かれているわけではないが、その事態をなんとか回避しつつ、生徒側も学園側もウィンウィンの結果を得られるように何とか調整していくのが、山百合会の表沙汰にしていない業務のひとつとなる。

 それでもどうしても、生徒側に利益を与えられるような結果を得られないという見通しが強い時には──最後の切り札として、山百合会には臨時に全校選挙を実施する権限が与えられている。
 これは本当に最後の手段だ。
 校則を”無くす”時や、問題のある教師の罷免、あるいは学園行事の変更などを行おうとする場合、全校選挙で過半数の賛成を得ることが必要になるのだが、過半数の賛成を得られなかった場合それは、山百合会への不信任そのものとみなされ、山百合会は解散しなくてはならない。
 他に全校選挙としては山百合会役員選挙があるが、あれも信任と不信任を生徒全員に問いかけるものだ。
 ただし、山百合会そのもののことであるため、山百合会が主催するわけにはいかない。
 そういうことから、山百合会役員選挙のときのみ臨時で、選挙管理委員会という組織が立ち上げられ、全校選挙を代行する運びとなっている。
 全校選挙の結果は覆らない。
 この場合に限り、校長先生の承認も不要とされている。
 山百合会役員選挙で仮に志摩子が落選した場合、シスター上村がどれほど結果に対して働きかけようと、志摩子がロサ・ギガンティアという肩書きを返上しなくてはならない事実は曲げられない。
 なぜならそれは、全校生徒の意思そのものなのだから。
 もちろん、仮に実現した場合、生徒側関係者と山百合会、そして学園側の代表者との間で話し合いは持たれるだろうが……。

 ちなみに、今回の携帯電話にまつわる校則改正について、全校選挙などという手段を持ち出す予定は全く無い。
 一般生徒には殆ど知られていないが、全校選挙というのは、それを持ち出そうとするだけで山百合会として正気を疑われるレベルなのだから。

「……あくまで希望的観測なんだけど、生徒たちの大半の人は、私達の狙いを好意的に受け入れてくれると思う。校則改正案の提出まではスムーズに行くと思うのよ」
「唯一、読めないのがシスター上村か。まあ、最悪私達が泣いて頼めば折れてくれそうな気もするんだけどなあ。山百合会は上村先生と仲良くしててよかったよね」
「そうね。きっと私たちのことを可愛い孫のように思ってらっしゃるはずよ」

 難関らしい難関は、シスター上村の承認という項目のみ。
 しかし、相手が上村先生となれば安心も湧くというものだし、万に一つの最悪の可能性で要望の通る見込みがなくとも、「しょうがないね。残念だったね。でも私たちがんばったよ」そういう風に締めくくろう、と祐巳さんと由乃さんは考えているようだった。

 だが自分は二人とは少しだけ違うことを考えている。
 そう、妹の乃梨子にすら明かしておらず、誰の目にも触れさせていないものだ。
 全校選挙の事などが頭をよぎったのはそのせいなのだが、それは実際に全校選挙に訴えるという意味ではなく、もっと精神的なものだ。
 もしもシスター上村の承認を得られなかった時、私は潔く諦めることが出来るだろうか。
 見通しは暗くない。
 加えて、志摩子たちが進めば進むほど明るさを増す確かな手応えのあるものだ。
 しかし、どうしても志摩子は心の奥底がざわめくのを抑えることが出来なかった。




 ◇5


「……じゃあ、一ヶ月間の試用期間を特別問題もなく終えたなら、あなたたちが提案した校則改正案を承認しましょう。それでいいかしら?」
「へっ?」

 志摩子たちは今、校長室にいた。
 山百合会が作成した校則改正にまつわる草案を元に、生徒たちの意見を反映させさらに調整した改正案を、シスター上村に見てもらうためお邪魔していた。
 あまり大勢で押しかけても迷惑なので、三年生三人と、シスター上村とでの”密談”となる。
 シスター上村とはかねてからの縁もあり、志摩子たちにとっては先生というより、よき理解者という印象がある。
 しかし、それはそれ、これはこれ。
 自分たちは決して遊びでやっているのではない、というアピールを込め、毅然とした態度で会談に臨んだ志摩子たちであったが、予想とは裏腹に、シスター上村の態度は非常にやわらかく友好的なものだった。
 改正案に色々と駄目出しをされると踏んでいたのだが、さっと目を通すことものの数秒、あっさりと許可を出されてしまった。
 祐巳さんがちょっと間抜けな声を上げてしまうのも無理からぬところだ。
 しかし由乃さんは用心深く、確かめるように質問した。

「そんなに簡単でいいんですか? こうすることで学園内の風紀が乱れるかも知れませんよ?」
「風紀やモラルの問題とか、携帯電話にまつわるトラブルの蔓延とか、問題は色々想定できるわね。でも、いつまでも新しいものを排除していては、生徒たちの意識も古いままだから」
「少々のトラブルよりも、意識改革を優先させると?」
「ざっくりとしてならば、そういう捉え方で間違いないわ」

 リリアン女学園の高等部という所は、幼稚舎から大学部まで一貫教育を行うリリアン女学園の中でひときわ異彩を誇る。
 普通に考えて、幼稚園から大学生、そして社会人としてまでをひとつの区切りとして、より自立性が向上し、より本人への責任性が増してくるのが平常のはずだ。
 歳をとるたび、成長していくたび、より自立的に、責任的に。
 ところがリリアン女学園では、高等部に差し掛かるとなぜか自立性と責任性が低下してしまう。
 姉妹関係は自立性と相反するかのような相補性を持つし、責任の所在もわからなくなりがちだ。
 不始末を起こした妹の責任は、姉側に追求される。
 しかしそれはあくまで雰囲気的に、のみの話であって、実際には責任は妹が果たさなければならない。
 これの何が問題なのかというと、”責任を負っていることを自覚できない”ことだろう。

「……大昔は本当に、妹の責任は姉が果たしていたのかもしれないわね。でも、そんなことを今やっていては姉としてはたまったものではないわ。今のリリアンにおいて姉妹制度は絶対ではないの。誰もそんな覚悟を秘めて姉になろうとは思わないでしょう。そう、それこそ祐巳さん、あなたのお姉さまのような子ではない限りね」
「確かに、祥子さまならそれくらいの覚悟を背負いそうですね」
「昔は祥子さまがたくさんおられたという事なのかしら」
「祥子さまがいっぱい……」

 何故か祐巳さんが身震いした。
 自分以外の生徒がみんな祥子さまだったら、確かに志摩子でも身震いするかも知れないけれど……。

「だから、携帯電話を持つということは、生徒の自立性を高めるために良いことだと思うの。今の携帯にまつわる校則は、抑止力として優れた校則だとは思うけど、それしかない。あなたたちの改正案は自由と抑止力をちゃんと考えてる。だから良いと思ったの」

 ちなみに、志摩子たちが持ち込んだ改正案は、以下のようになる。


 ■

 校内への携帯電話の持ち込みは、原則として自由とする。
 ただし、校内においては電源をオフにするか、常時マナーモードでの携行を条件としてのみ許可する。
 通話やメール、インターネットへのアクセス等の携帯電話の使用は、休憩時間のみとし、授業中などには、特別に急を要する要件のみに限定し、通話のみを許可する。その場合は教師に申し出て、指定された場所で通話を行うこと。
 上記項目をみだりに破った場合には、反省文、もしくはそれ以上の罰則を課せられるものとし、生徒はこれに従わなくてはならない。

 ■


 ……以上のようになる。
 携帯電話の持ち込みと使用規定についてを全面的に改定し、罰則規定も明確にしたところが変更点となる。

「この改正案作成にあたり、山百合会が気をつけたところは?」
「えー、携帯電話持ち込みの選択権を平等に生徒に提供することと──」
「使用に際しての規制の緩和と、特例の設定──」
「そして罰則規定の明確化です──」
「結構。そんなことを練習してこなくてもいいのに」

 シスター上村はさもおかしそうに笑った。
 志摩子たちが三人で歌うように話したのが面白かったらしい。
 「あなたたちは何をしたいのか?」と聞かれた時、最低限言葉につまらないようにしよう、と三人で話した結果だった。
 原則として選ぶ権利は生徒にある。
 授業中に携帯電話を使用しないのは日本という国において全社会的なマナーだが、それでも特例として、使用することは許可される。
 ただし、その間の授業を受けることを放棄するわけだから、”特別に急を要する要件”と、授業を天秤にかけ、どちらかを選ぶ必要はある。
 規則を破った場合には責任を取らなくてはならない、という事実を明確にした上で、しかし責任を取るというリスクを回避するべく、常時の電源オフ、ないしはそもそも携帯電話を持ち込まない、という手段を選んでいく自由もある。
 自由と責任は表裏一体。
 現状の、”勝手に持ち込むこと自体が反則であるのに、ばれなければ大丈夫”な上、”あるのかないのか分からない罰則”という、玉虫色の結論が出やすい状況も解決する。
 そのあたりの曖昧さに対する批判は、生徒たちからも上がった意見だ。

「試用期間や発表するタイミング、方法については山百合会に一任するわ。期間が終わったら、また私のところに来てちょうだい。正式な手続きを行いましょう」
「はい」
「いつもお世話になってます」
「今後とも、なにとぞよろしくお願いします」
「こちらこそ。あなたたちが山百合会の音頭を取るようになってから、何だか学園が活気づいた感じなの。こちらとしても嬉しいわ。私、生徒たちはみんな自分の孫みたいで可愛いのだけど、なかなかこの歳になると動けなくて。おばあちゃんだから」
「いえいえ、そんな」
「上村先生はまだまだお若い」
「素敵な女性だなって、いつも思います」

 そんな風にして会談は締めくくられた。
 挨拶をして校長室を出ると、祐巳さんが「ふー」と長い息を吐いた。

「良かった。上村先生と仲良くしておいて」
「最大の関門……ってほど構えてたわけじゃないんだけど、山らしい山は超えた感じかな」
「まだ油断はできないわ。私たちはまだゴールテープを切ったわけじゃないもの」

 志摩子としては、ここまで来たなら何とか良い結果を残したい。
 その意気込みを込めて、自分の油断を戒めようと思ったのだが、祐巳さんと由乃さんは意外だったようだ。

「志摩子さん、やる気まんまんだね」
「発端としては藤組の議事録からだもんね。正式に校則改正を発表するときは、志摩子さんにやってもらおうかな」
「全校集会の後で? うまくできるかしら……」
「二年生から薔薇さまやってた人間が、なにびびってるのよ」
 
 由乃さんはいたずらっぽく笑うが、全校生徒を前にスピーチをするというのは、なかなか大変なことだ。
 それに関しては、きっちりとした原稿を用意して何度も練習するしかない。
 そして、発端は藤組の議事録として曖昧となっているが、本当の発端はそこではない。
 生徒たちの意思で山百合会は動く。
 それは間違いではない。
 しかし、”それだけではない”という事を志摩子が考えているなどとは、二人は想像もしないかも知れない……。



  
 ◇6


 改正後の携帯電話に関する校則を適用した上での試験運用期間が始まって、一週間ほどが経過した。
 これはあくまでも試用期間であり、本決定ではないということに関して、生徒たちに誤解を与えてはならない。
 その部分を強調しつつ、みたび薔薇の館に集まってもらったクラス委員長たちに対しての説明会を開いた。
 シスター上村の仮承認を得た校則改正案と、それについて細部の説明書きを添えた資料をクラス委員長たちに配布し、更にそれを元に、山百合会で指定した日時にクラス単位で説明を行なってもらうことで、高等部全体として一斉に試験運用期間の開始とした。
 あくまでも今は試用期間。
 改正案が実際に施行されたわけでもないしまた、試用期間があったからといってそれは正式施行を保証するものではない。
 ことさらに強くその部分を強調したつもりなのだが、試用期間開始直後は、高等部全体としてまるでお祭り騒ぎのような様相を醸していた。
 それから一週間が経過し、ようやく学園内は落ち着きを取り戻しつつあるように見える。
 今のところ、これといった問題の表面化もないようだった。

「菜々、一年生の方はどう?」
「まだまだお祭り状態です。ケータイを持ってる子と持ってない子で今でははっきりグループが別れちゃってる状態です。でもまあ、ケータイはケータイでしかないんで、盛り上がるのに飽きた後は、また前のように戻りそうな感じはします」
「あなたは出来るだけ中立の立場でいなさいね。ケータイを持つことも持たないことも同じだから。どちらかに偏りが出ないように」
「はい、お姉さま。でもそのうち、みんな持ちそうな雰囲気です」
「校則で縛られてるから持たない子もいたでしょうしね」

 ちなみに、放課後というのは休憩時間と同等であるため、通話もメールも自由となる。
 つまり薔薇の館での山百合会としての活動中も携帯電話は自由となるのだが、由乃さんと菜々ちゃんの黄薔薇姉妹は、お互いに自分の携帯電話の画面を見ながらしゃべっている。
 志摩子としては、かなり奇妙な光景だった。

「見慣れないかもだけど、別にお互いに無関心なわけじゃないから大丈夫だよ。仕事しながらお喋りするのに近いかなあ」
「そうなのかしら……。でも私、あんな器用なことはできそうにないわ」
「あはは。大丈夫。仕事しながらより全然簡単だよ」

 乃梨子がフォローの言葉をかけてくれるが、機械に明るくない志摩子としては、全く自信がない。

「志摩子さんもケータイ買ったら教えてね。メールの設定とかはじめてだと難しいから」
「ありがとう。その時はお願いね」

 乃梨子の提案はいたって自然なもので、またそれに答えるのも自然に行われるべきはずだ。
 だというのに少しだけ後ろめたいのは、妹にも秘密にしている隠し事があるからだろう。
 それを山百合会の誰にも明かすわけにはいかない。

「お姉さまは携帯電話買わないんですか?」
「今のところは用事無いかなあ。正式に校則変わってもたぶん持たないかな。でも瞳子が買ったら、私も買ってみてもいいかな」
「私も、お姉さまが買った際には準備しようかと思ってます」
「瞳子、先にどうぞ」
「いえいえ、お姉さまこそ」

 紅薔薇姉妹の祐巳さんと瞳子ちゃんの間では、妙な読み合いが発生している。
 瞳子ちゃんは祐巳さんを妹として尊重しているし、また祐巳さんも瞳子ちゃんを姉として気遣っている。
 とはいえ彼女たちは本質的には対等だ。
 相手の気持ちが分かりきっていることに不都合がないため、状況を楽しむことが出来るのだ。

 ところでシスター上村は、「試用期間中に問題が無かったら」と仰っていた。
 問題が無かったら。
 ともすると聞き流してしまいがちだが、果たして”問題がない”とはどのようなことを指すのだろう。
 ”問題がある”のならば、問題点を提示すれば良いだけだから簡単だ。
 しかし、無いものを証明は出来ない。
 本当に無いのか? と突っ込まれたら言葉に窮してしまう。
 そのことに関して、少し話し合いがあった。

「……ぶっちゃけ、”問題がない”なんてことはありえないと思うんだよ」
「ほう」
「聞かせて」

 これは祐巳さんが言い出したことだが、万能のシステムは存在しえない。
 どこかに何かしらの欠陥が必ずある、ということだ。
 だからシスター上村が言うのは、「大きな影響を与える問題が無かったら」と言う意味だと祐巳さんは解釈したらしい。
 逆説的に、「小さな問題ならば、ある程度黙認してもよい」という解釈もできる。

「上村先生なりの気遣いというか、心配りというか、うまく言えないんだけど、どんなにルールを細かく決めても、たぶんフォローしきれない部分は出てくる。これはもうどうしようもないから、ある程度ならば学園は目をつむるし、私達山百合会も、ある程度ならばそうしてもいい、っていう風に聞こえたんだ。考え過ぎかな? 都合が良すぎるかな?」
「いえ、ありうると思います。私たちは結局子供だから、出来ないことは出来ないと思うし。でもなんか、逆に試されている感触もありますね」
「ええ。そういう問題に直面したときどうするの? と受け取ることもできるかも」

 祐巳さんの考察に、乃梨子と瞳子ちゃんも賛成……というか、それぞれに考える切っ掛けを得たように見える。
 仕事は出来るだけ前倒しで、用意や準備を周到に。
 試用期間をスタートさせ、ほっと一息というところにいた志摩子たちは、ゴールが見えてきたことで油断していたのかも知れない。
 いわば思考停止していたのだ。
 しかし祐巳さんは、考えることをやめなかった。
 そのことが皆に、まだ模索していない道があることを教える形となった。

「んでさ、みんなに聞きたいんだ。私たちにはまだ出来ることがある。いや、あるというか、あるかも知れないって考える必要がある。だからみんなの考え、やるべきと思うことを教えて欲しいの」
「祐巳さんには何か腹案があるんじゃないの?」
「いや、まったく」
「全然?」
「ぜんぜん」

 質問した由乃さんはあっけに取られたようだ。
 ふつう……ふつうなんて言葉はこの場合は野暮だけれど、なんらかの自分なりのプランを添えてくるのが妥当なやり方だし、皆の気持ちも集めやすい。
 志摩子を含めて皆が驚いたことに、祐巳さんも面食らったようだ。

「……だってしょうがないじゃん。ついさっき考えがまとまったばかりなんだから。その先のことまで考えてる余裕がなかったんだよ」
「いやいや、悪くないよ。こっから先はみんなで考えればいいんだし」
「祐巳さんが言い出さなければ、きっと考えないままだったわ」

 しかし、小さな問題に対してどうするかといっても、あまりにも漠然としすぎていて決め手がない。
 そもそも、まだ問題が現れていないのだ。
 明確な対策など立てようもない。
 そのとき、菜々ちゃんが控えめに口を開いた。

「あの、取り敢えず問題を”保留”することは出来ないんですか?」
「保留?」

 一同、菜々ちゃんの発した言葉をオウム返しした。
 対策や解決ということばかり考えていた志摩子たちには、想像も出来ない言葉だった。
 先ほどの祐巳さんではないが、今度は菜々ちゃんが狼狽した。

「あ、すいません。変なこと言っちゃったんでスルーしてください」
「いいの。続きを言ってみなさい」

 由乃さんに促され、菜々ちゃんは自信無さげでありながらも自分の考えを話し始めた。
 菜々ちゃんとしては先ず、志摩子たちがまだ起きていない問題への解決策を模索しているのが、不思議でしょうがなかったらしい。
 でも自分は皆さんほど真面目ではないから──決してそんなことは無いと思うのだけど──どうして起きてもいない上に具体的に明らかになっていない問題に取り組まなければならないのか疑問だった。
 
 どうしても取り組めと言われても、どうしていいのか分からない。それでもまだ見ぬ問題が消えないなら、見えるようになるまで”保留”することしか出来ないではないか、と。

「保留か……なかなか盲点だね」
「ただの保留ではなく、きちんと問題を受け入れた上での保留ですね」
「小さい問題は解決が難しいけど、とりあえず記録を残しておく。それが積み重なっているようなら、きっと何か原因があるはずだから、記録をもとに究明できるかも知れない」
「よし、それで行こう!」

 小さな問題点、影響力の少ない問題点も、無視はしない。
 残さずこぼさず記録を残し、問題の発生を繰り返すようなら、記録をもとに解決策をさぐる。
 問題点は、きっとある。
 問題点が無い、なんてのはありえない嘘だ。
 だからそれを認めた上で、記録を残していく。

「菜々、一年生たちの間で起きた携帯電話にまつわる問題──とまで行かなくとも、ちょっとした疑問点や質問なんかは、ぜんぶノートに書いておきなさい」
「はい。でも、どういう風に?」
「起きた事実は起きた事実としてそのままに、言われたことはそのとおりの言葉でメモを取ることが大事かしら。それに対するあなたの主観は、分かるように分けて書いておいて。どちらも大事な項目よ」
「はーい。すでにもう、色々と見たり聞いたりしてますよ。例えば……」

 菜々ちゃんは、一年生たちの間での出来事を話し始めた。
 大半はそれこそ”小さな問題”にもならないほどの些細なものだが、中には深刻な問題に発展しそうなものもあった。

「授業中にこっそりメールとかね……まあ、あるわな」
「ルール遵守を呼びかけるポスターとか作っておきましょうか」
「なら、美術部に協力要請しようかな。気兼ねなくいろんなポスター作ってもらって、全部貼り出しちゃおう」
「菜々、こういう意見なんかも、ぜんぶ記録をつけておいてちょうだい。しばらくの間、記録係を任せてもいいかしら?」
「はーい。探偵みたいで面白そう」
「よしよし」
「えへへ」

 由乃さんが菜々ちゃんの頭を軽く撫でる。
 少しずつ二人は理解が深まっていったのだろうか、お互いがお互いにとって収まりの良いところを見つけ出しはじめたみたいだ。
 全ては良い方向へと動き出している……ように志摩子は思う。
 試用期間はあと三週間。
 山百合会として、手を打てるところには全て打つ。
 そうすることが、校則改正への可能性をより高めていくと信じて。




 ◇7


 ──事件が起きたのは、試用期間が始まって二週間のときだ。
 すでに薔薇の館には、三年生組と二年生組が集まっていたのだが、少し遅れてやって来た一年生の菜々ちゃんが、会議室に入ってくるなり青い顔をして言った。

「……ちょっと、まずいことが起きました。ついさっき、五時間目のことなんですけど」

 菜々ちゃんが言うのはこういうことだ。
 五時間目の授業中、菜々ちゃんのクラスの生徒の携帯電話が、着信を知らせる着信音を鳴らしたらしい。
 当然、授業中ということで教室は静かだったため、ごまかしのきかない状況となってしまった。
 担当教師はもちろん、教師として注意を行った。
 それは現在試験運用中の校則に違反することと、授業の妨げになること。
 そして、今後くれぐれも注意するように、といった内容だったらしい。
 逆に校則が本決まりしておらず、山百合会主導として試験運用中であるため、その後の扱いについては山百合会に任せる、ということになり、菜々に扱いを任せたのだという。

「いちおう、ケータイ鳴らしちゃった子に話を聞いておきました。お昼休みにマナーモードを解除して、そのまま戻すのを忘れたらしいです。とりあえず早めに反省文を書いておいて欲しいって言っておきました」
「よし、対応としては間違ってないわ」
「ありがとうございます」

 由乃さんが菜々ちゃんの適切な対処を褒めたが、菜々ちゃんは真顔のままだ。
 これが”大きな問題”であることを理解しているからだろう。

「マナーモードを解除しちゃったか……多分これ、今回たまたま問題が表面化しただけで、実際にはマナーモードにし忘れてる子や、していない子がきっといるよね」
「そうね。たまたまケータイが鳴らなかっただけで。今回その子のケータイが、最悪のタイミングで鳴っちゃったんだ」

 試用中の校則には、学園内では電源オフかマナーモード設定と定めている。
 授業中に特別に急を要する要件について通話を行うことは許可しているが、それと授業中に携帯電話が鳴らしてはいけないのは別の問題だ。
 急用はやむを得ないのだが、携帯電話が鳴ることはやむを得ないことではない。
 着信があっても鳴らさないようにする手段は幾らでもあるのだから、それをしないのは本人の責任となる。
 そして、ごくごく常識的なこととして、携帯電話を授業中に鳴らすことは授業の妨げとなるため、マナー違反となる。
 ごくごく突発的に一人の携帯電話が鳴ることは、実際的には授業の妨げとなはらないだろう。
 しかし、一人鳴り、二人鳴り──そして「急用だから」と詐証して通話を始めてしまっては、学級崩壊の引き金となる。
 大きな問題に発展するおそれがあるため、これを小さい問題として”保留”するわけにはいかないだろうし、シスター上村も見逃すまい。
 志摩子は、シスター上村がどう考えるのか気になった。

「……上村先生はご存知なのかしら」
「まだかも知れません。ほんとうに、ついさっきの事ですから」
「でも話は行くだろうねえ。先手を打って上村先生のところに話に行こうか」
「いや、上村先生は、問題が起きたら来い、とは言ってない。試用期間が終わったら来いとは言われたけど……まあいつだって行ったっていいんだろうけど、これくらいで会いに行ってたら山百合会がなめられる。私たちの山百合会が、ある程度頼りに出来ると判断してくれたから、今回の校則改正も任せてくれてるんだから」
「うん、由乃さんの言いたいことは分かるけど、でも一声かけておくくらいしとかないと、最悪山百合会が何もしないと思われちゃうよ」
「どうしましょう……一人か二人、少人数で伺ってみましょうか」

 問題に直結することではないのだが、ひとつの組織として適切な行動と、必要とされる行動のバランスを取ることのなんと難しいことか。
 志摩子たちがこれと決めかねている所に救いの手を差し出したのは、これまた菜々ちゃんだった。

「あのー、もしよろしければ、校長先生にメールを送っておきましょうか?」
「メール!?」

 一同が驚愕の声をあげる。
 誰も予想をしない言葉が菜々ちゃんの口から飛び出したからだ。
 菜々ちゃんも皆の反応に少し驚いたようだが、昨今なぜかこのようなことが多いためか、それほどショックは無かったようだ。

「ええ。少し前に校長先生が校内を見て回ってらして、そのとき一年生の子たちが校長先生の周りに集まって、メルアドの交換とかしてたんです。私もまあ、わー、っていう感じで、便乗して交換したんですけど……やっぱり、まずかったですか?」
「い、いえ。よくやったわ。お手柄って言えるレベルのことよ。うん、菜々はよくやった」
「ありがとうございますー、って喜んでいいんですか?」

 喜ぶべき、素晴らしい、ワンダフル……等々、上級生たちはめいめいに菜々ちゃんのことを褒めた。
 良くも悪くも価値観が固まってしまっている志摩子たちに対して、菜々ちゃんの考え方や行動はあまりにも斬新だ。

「どんな風にメール送っておきましょうか」
「うーん、そうだね。今回起きたことと、山百合会として学園に迷惑をかけたことの謝罪の言葉。そして、話しあって対応を決めます、という感じの内容でお願いできるかな? ちょっと複雑かな?」
「大丈夫です。ちょっとメール書きますね」

 祐巳さんからの注文を受け、菜々ちゃんが携帯電話を操作し始めた。
 携帯電話を右手に持ち、親指だけでボタン操作する菜々ちゃんの入力速度は、志摩子から見るとあまりにも早い。
 それこそ視認できないくらい早い。
 目の前で携帯電話を操作するのを見たことがないわけではないし、乃梨子が操作しているのや、藤組のクラスメイトが操作しているのを見たことがある。
 しかし菜々ちゃんのそれは、乃梨子の操作よりも更に早いように見えた。

「慣れると割りと早く打てるんだよ。でも、それにしても菜々ちゃんは早いね」
「乃梨子も早いと思うわ」
「私は普通くらいかなあ。それで、だいたいみんな私と同じくらい。でも菜々ちゃんは早い」

 乃梨子もしきりに感心している。
 認めたくはないが、これが若さなのだろうか……。
 ものすごい勢いでメールを書き終えた菜々ちゃんは、皆に携帯電話の画面を見せるようにした。
 どれどれ、という風にして、志摩子たちは画面を覗き込んだ。


 ■

 ごきげんよう黄薔薇のつぼみの有馬菜々です。
 今日うちのクラスでケータイ鳴らしちゃった子がいるんですけど、ちゃんとゆっといたんで大丈夫です。
 その子も凹んでるからあんまり怒らないでくださいネ(テヘペロ
 あとでセンパイたちと話し合いってのやるんで、対策とかできたらまた沙織ちゃんにメール送ってもいいですか?

 ■

 
 ──これはない。
 ぱっと見た印象では恐らく誰もがそう思ったはずだが、よく読んでみると、祐巳さんが要求した事柄がきちんと表現されていることに気付く。
 それに、文体は軽いが、敬語がおろそかになっているわけでもない。
 しかし、神妙な表情で画面を覗き込んでいた一同としては、なかなかコメントに詰まる文章だった。
 辛うじて、という感じで最初に口を開いたのは祐巳さんだ。

「……あのね菜々ちゃん。”ゆう”じゃなくて”言う”でしょ。日本語の乱れは良くないよ」
「それくらい知ってますよぅ。でも、喋るときは”ゆう”って言うじゃないですか」
「しかも、上村先生のこと、沙織ちゃんって……」
「そう呼んでいいですか、って質問したら、いいわよって言ってくれましたもん。上村先生より、沙織ちゃん、の方が可愛いもん」
「もん、って言われてもね」
「もんもん!」
「あと、テヘペロって何?」
「えー、テヘペロというのはですね……」

 菜々ちゃんは菜々ちゃんなりに懇切丁寧に祐巳さんに説明をしているのだが、聞いている祐巳さんはどんどん難しい表情になっていった。
 祐巳さんは真面目だが、話の分からない人ではないので、きちんと菜々ちゃんの言い分を理解してくれたようだが、祐巳さんのお顔は晴れない。
 理解はしたが納得は出来ない、そんな表情だ。
 そんな祐巳さんに対して、由乃さんはニヤニヤしながら話しかけた。

「どう祐巳さん。少しは私の苦労が分かったでしょ」
「……まあね」

 由乃さんが憮然とした祐巳さんをからかう。
 最初に配ったアンケート用紙に星マークを付けるか付けないか、というところで渋っていたくらいだから、祐巳さんはああ見えて古風で格式などを重んじる子なのだろう。
 時代が急激に移り変わっていく今だからこそ発見できた、友人の珍しい一面だった。
 ところで祐巳さんは、結局菜々ちゃんに説得される形で、メールをシスター上村に送ることにゴーサインを出したらしい。
 そもそも菜々ちゃんの機転により実現した手法であるし、祐巳さんの要求事項は満たしてある。
 加えて菜々ちゃんの携帯電話から送るわけだから、最終決定は菜々ちゃんが行うのが自然だ。
 そのあたりを祐巳さんはちゃんと自覚しているからこそ、どうしても晴れないわだかまるものがあるのだろう。

「あ、校長先生から返信来ました」
「早いね。なんて?」
「えっと、”内容に関しては了解しました。一回きりで収まるようなら大丈夫だけど、今回のようなことが続くと、見通しが暗くなってしまうから、ここが踏ん張りどころになるわ。がんばって。お姉さま方にもそう伝えてあげてちょうだい”とのことです」
「なるほど……」

 シスター上村の返信を読んだみんなは、少し言葉少なになった。
 実は志摩子もそうだったのだが、シスター上村からの何らかのアドバイスをこっそりと期待していたのだ。
 携帯電話を鳴らさないようにすること。
 これは思ったよりも難しい問題だ。
 ”これ”と決め手になるような対策が、まだきっちりと話し合いを持っていないものの、出てくる気配が薄そうな問題なのだ。
 結局、マナーモード設定をやり忘れたり、電源をオフにし忘れたりすれば、着信した瞬間に携帯電話は鳴ってしまう。
 そして、ひとたび鳴り出してしまえば、その時点でアウトだ。
 誤魔化しが効かない上、予防対策しか手を打てるものがない。
 この問題、見通しが明るくない──志摩子たちはそう直感していた。

「とりあえず、美術部にお願いしてたポスターを貼りだそう。ルール遵守にまつわるものを特に目立つ場所に」
「クラス委員長を通して呼びかけも行いましょう。携帯電話を鳴らさないように」
「上村先生も言ってたけど、ここが踏ん張りどころみたい。些細な問題も見逃さないし、些細な意見も取り上げてみる。絶対に校則改正案を通す、っていう不退転の気持ちでがんばろう」
「おー!」

 祐巳さんの促した決起に、全員がこぶしを上げて答えた。
 気持ちで負けたら、その時点で負け。
 山百合会が膝を折ったら、その時点で負け。
 他の皆はもしかして違うのかもしれないが──志摩子としては、敗北を甘んじて受け入れるという選択肢は存在しない。
 どうしても有効な手立てが見つからない場合、生徒一人ひとりの携帯電話をチェックしてのマナーモード設定確認というプライバシーの問題に踏み込む手段や、全校選挙も視野に入れるべき、と提案してみるつもりだ。
 皆の賛同はおそらく得られず、それと志摩子が諦めないことは相反する要素となる。
 また前述の手段は、仮に効果を発揮したとしても遺恨を残す。
 そういう手段を選びとる組織というのは、おそらく無能の部類なのだ。
 不退転の気持ち──。
 本当に不退転の気持ちを秘めているのは、もしかして志摩子だけかも知れない。
 祐巳さんの決起の決意は同時に、孤独感をも喚起するものだった。




 ◇8


 試用期間が始まってから三週間が経過した。
 志摩子たちが予想もしえなかった問題というのは起きていないのだが、”携帯電話を鳴らしてしまった”という問題がずっと尾を引いている。
 一週間ほど前に菜々ちゃんのクラスの生徒が鳴らしてしまったことが皮切りになったかのように、各学年、各クラスでもその問題が散発するようになってしまった。
 大きな問題、影響を与える問題に発展しうると分かっていながら、志摩子たちがこれといった決め手となる対策を講じられていないからだ。
 
「まずいね、これは」
「うん。この辺で切っておかないとマズい」

 祐巳さんと由乃さんが頷き合うが、志摩子を含めて他のメンバーにこれといった発言がないのは、”これ”という決め手に繋がる意見が見つけられないからだ。

 この一週間で授業中に携帯電話が鳴ってしまうという事件が5件起きた。
 これが多いのか少ないのか。
 一週間に平均して5回鳴るとして計算すると、一ヶ月に20回以上鳴ることになる。
 休憩時間や放課後に通話およびメールをすることは許可してあるが、着信音を鳴らせることは全ての時間帯において不許可としている。
 これに関しては、わかりやすさを重視させるためだ。
 常時マナーモードにしておくと定めておけば、学校内でいちいち設定を変える必要はない。
 登校前にマナーモード設定とし、帰宅後に必要に応じて解除すればいいだけだ。
 しかし、人間だからうっかり忘れる、ミスをするということはある。
 一度ミスをしてしまった人間は、特別な理由がない限りそうそう重ねることはないだろうが、高等部の生徒一人が一年に一回鳴らしてしまったとしても、全体的に見て数字としては大きなものになる。
 これを見過ごすわけにはいかない。

 そして志摩子たちは、この問題に対してこれといった対策を立てられていない。
 ポスターの貼り出しや、注意の呼びかけなどは行ったが、これが決め手にならないことは事前に分かっていたことだ。
 根本的にうっかりミスは無くせない。

「皆さんが私のミスを減らすために考えてくださったことが、何かヒントにはならないでしょうか? 考えてはいるんですが、なかなか浮かばないです」
「目の付け所はいいわ。あなたの時は、”集中力を妨げない”という意味の措置を取ったんだけど、しかしこれを今回に当てはめるとなると……」
「難しいですよね。うっかり忘れが後から響いてきて、フォローのしようもない」
「うっかりミス……これをどうにかしたい」

 菜々ちゃんの件については今では効果を発揮していることから、有効な手立てだったと言える。
 しかし、携帯電話の場合、鳴ってしまったらそれまでだ。
 由乃さんと菜々ちゃんが、過去の例から解決策を模索しているが、志摩子としては、まったく別のところからアプローチしなくてはならない、と考えている。
 しかし、それがなかなか難しい──。

 そのとき、志摩子たちが集まっている薔薇の館の会議室に、ノックの音が響いた。
 客人だろうか。

「はーい。どちら様でしょうか?」
「すいません……ちょっと、あの、私、三年松組のクラス委員長の宮内です。少し、込み入ったお話があって……」

 志摩子たちは顔を見合わせた。
 祐巳さんと由乃さんにとってはよく知る人物のはずだが、少し特殊な事情みたいだ。
 祐巳さんが代表してドアを開くと、開いたドアの先にあったのは、ここのところ何度か顔をあわせている松組の委員長さんと、そしてもう一人、志摩子がよく知る人物の姿があった。

「有希子さん……どうしたの!?」

 志摩子はたまらず駆け寄った。
 開いたドアの先にあったのは、志摩子の所属する三年藤組のクラス委員長の、細貝有希子さんの姿だったからだ。
 有希子さんは今、松組のクラス委員長の宮内さんに抱えられるようにして辛うじて立っている。
 今にも崩れ落ちそうで……そして顔は涙でぐちゃぐちゃだった。
 志摩子と、そして宮内さんとで、何とか有希子さんを支えながら、会議室へと入れてあげることとなった。
 遅れて駆け寄ってきた由乃さんが鋭く質問した。

「どうしたの。何があったの!?」
「ちょっとね、まずい事になっちゃって。その、有希子のケータイ鳴っちゃったんだ。クラス委員長会議のときに。たまたま先生もいて、ごまかせなかった。ごめん」
「なんてこと……で、でも大丈夫だよ。私たちがこれから対策立てるから!」
「そう、有希子さんが悪いんじゃないの。私達がきっと何とかするから」

 顔見知りで同学年でもある志摩子たちが慰めると、それが切っ掛けになったかのように、有希子さんが志摩子と宮内さんの手から離れ、そして崩れ落ちた。

「……ごめんなさい。私、あんなにみんなに注意していたのに。なんてことを……。ごめんなさい……」

 崩れ落ち、うつむき顔を抑えながら謝り続ける有希子さんの姿はあまりに痛ましくて、志摩子の目からも涙がこぼれてきた。
 有希子さんはとても楽しい人だが、同時に人一倍の責任感もあり、クラスメイト達のことにもいつも気を配っている。
 だから、今の状況で携帯電話を鳴らしてしまうことがどれほど影響のあることなのか、理解してしまっているのだろう。
 それに、携帯電話の校則改正についても、志摩子と同じくらいに熱心だった。
 改正校則の仮配布の際や、一週間前に初めて携帯電話が鳴ってしまう問題が発生したとき、山百合会からの注意呼びかけのメッセージも、志摩子と同じか、あるいはそれ以上に熱心に、そして丁寧にクラスメイト達に説明していた。
 これは大事なこと、絶対に失敗してはならないことだと。
 だからこそ──ショックも大きかったに違いない。

「有希子さん、大丈夫よ。有希子さんが悪いわけじゃないの。あんなに熱心だった有希子さんでも鳴らしてしまうのだから、きっと私たちの側に何か問題があるの。だから泣かないで……」

 泣き崩れる有希子さんの肩を抱きながら、志摩子は決意した。
 もう問題を先送りには出来ない。
 大事なクラスメイトを泣かせるために、志摩子たちは携帯電話の校則を改正したわけではないのだから。
 そう、道は他にもきっとある。
 まだ模索していない隠れた見えづらい道が、きっとあるに違いない。
 今日ここで、これから、それを絶対に見つけてみせる。
 志摩子は、そう決意した。




 ◇9


 ──薔薇の館の会議室では今、志摩子たち山百合会のいつものメンバーの他に、三年松組の委員長の宮内さんと、そして三年藤組の委員長である有希子さんが、テーブルについていた。
 扱いとしては、二人のクラス委員長はオブザーバーとなる。
 有希子さんはまだ少し目が赤く、時折鼻をすするようにしていたが、今ではある程度回復してくれたみたいだった。
 このところ書記役をやってくれている菜々ちゃんが、今回も継続して書記を務める。
 携帯電話でのメール打ちもそうなのだが、彼女は非常に手が早い。
 そのこともミスが多かったことの原因の一つなのかもしれないが、集中力を維持出来、仕事をよく理解すればそれは大きな特技となる。
 山百合会メンバー達の顔つきは、30分前とは明らかに違っていた。
 ひとえに”集中力が増している”顔つきだったし、ここにきてようやく──志摩子も含め、祐巳さんが一週間前に言った”不退転の気持ち”に達したのかも知れない。
 これはいつもの雑談では勿論ないし、仕事を前倒ししたうえでゆとりを持って設ける話し合いじゃない。
 ここで何らかの結論を出せなければ、後がない。
 まさに、正真正銘の不退転と言えた。

「私たちの知恵とか経験とか、積み重ねてきたものを全部ここで出しきるつもりで話しあおう」

 リーダーである祐巳さんの言葉から、会議は始まった──。


 問題は、鳴ってしまう携帯電話についてだ。
 恐らく有希子さんのお陰だと思うのだが、皆の発想は少しだけ以前とは変化が生まれていた。
 最初に発言したのは乃梨子だ。

「どうしても、どう頑張っても携帯電話を鳴らさないようにすることは出来ないと思うんです。私たちの携帯だって、今ここで鳴ってもおかしくない」
「私もそう思います。仮に今ここで気をつけてマナーモード設定を確認しても、それはやがて忘れてしまう。恒久的な対策に繋がらないんです」

 瞳子ちゃんもそれに賛成した。
 皆もそれに異論はないようだった。
 携帯電話を鳴らさないことは不可能である、というひとつの事実認識だった。
 ここで志摩子は、かねがね考えていたことを話すことにした。
 まだはっきりとは頭の中で整理できていないし、自分の意見に対する先のことを明確に出来ていない。
 しかし、体裁を気にして出し惜しみするわけにはいかない。

「そもそも、携帯電話が鳴るのはどうしていけないのかしら。私たちはこの検証をまだ行なっていないわ」
「それは……確かにそうね。マナーとか常識とかで流していた。そもそも、ケータイを鳴らさないとか、公の場で電話に出ないとか、日本だけのルールみたいよ」
「他の国では、大事な会議中でもばんばんケータイで話すらしいですね。私も聞いたことあります」

 しかし、他所の国は他所の国だし、日本は日本だ。
 リリアン女学園は日本にあるのだから、他所の国のマナーを持ちだしたところでナンセンスと言える。
 しかし祐巳さんがここで口を開いた。

「でも、いい線いってるような気がする。他の国のことをそのまま当てはめることは出来ないけど、参考にはなると思う」
「そうですね。ちょっとこの方向で考えてみます」

 祐巳さんの軌道修正は適切だった。
 意見を遮ることなく、かつ拾い上げられる部分を見極めてつなげていく。
 他所の国の常識を持ちだしたのは由乃さんだが、志摩子はその意見の可能性を探らなかった。
 しかし、祐巳さんの軌道修正により、由乃さんの意見に可能性を見いだせるようになった。
 さすがのバランス感覚だと志摩子は感心した。
 次に口を開いたのは乃梨子だ。
 完全に集中……というより熱中モードに入っているようで、そんな時の乃梨子は少し少年のような顔つきになる。
 乃梨子は真面目で責任感のある子だが、遊び心もある。
 藤組の委員長の有希子さんは、少し乃梨子に似ているのかも知れない。

「じゃあ、どうして日本はダメなんでしょう。いや……違うな、そうじゃない。うん、どうして私たちは携帯鳴らすのがダメだと思ってたんでしょう」
「……単純にうるさいから、かしらね。静かな場所でけたたましく鳴り出したら、確かに煩わしい。喧騒の中で鳴ってもぜんぜん気にならないのは、喧騒自体がやかましいから」
「静かな場所で静かな音──シャーペン走らせる音とか聞こえても、あんまり煩わしくはないですしね」
「携帯電話はうるさい、これは間違ってないよね。みんなどうかな?」

 祐巳さんの事実確認に一同が頷く。
 そして由乃さんが、唸るようにして喋り始めた。

「……なんとなく見えてきた。私達が見落としてたことが。じゃあ菜々、ケータイはどうしてやかましいのか、みんなに教えて」
「はい。ケータイのスピーカーって何か耳に響く音を出すんですよね。着メロは今ではCDの音とほとんど変わらないんですけど、なんていうのかな……曲の派手なトコからいきなり始まったりするから、実際はそうでもないのかもだけど、何か、やかましいっていう印象があるんです」
「持ち主に気づかせるための役割だからね。で、他の人と被らないように持ち主は個性的な着メロを選んでくのか」
「やかましくなるのは必然、ってことですね」

 ならば逆転の発想だ。
 考え方の視点を変えて見ることや、結果から考えてみること。
 どうしても極論や乱暴な論風となるため日頃はたいてい避けるのだが、これは不退転の話し合いだ。
 後に引くことをしないと決めたのだから、遠慮は不要となる。
 志摩子は思いつく限りのことを話す、そう決めた。

「着信メロディが静かならば……日本のマナーには反するのかも知れないけど、そう……日本の、なんていうのかしら……風潮には反しない。あくまでもマナーなのだから。マナーの話ならば、リリアン女学園のマナーに反しなければいいはずよ」
「そうですね。日本のマナー、なんて言葉はざっくりとしすぎているから幾らでも覆せるはずです」
「携帯電話を公の静かな場で鳴らしてはいけない、なんていう法律はない。授業妨害とか、まあ、そういう色々な枠組みにはめれば、最終的にそれを縛る法律はあるのかもだけど、静かな着メロが授業妨害になるはずがない」

 授業中に携帯電話を鳴らすのがルール違反、という検証のなにひとつない根拠性の薄いところからここまで来た。
 有希子さんは放課後の生徒活動中に鳴らしただけなのに、あれほど憔悴し、涙を流した。
 これに答えない山百合会に存在価値などない。
 まさにメンバー全員が一丸となる話し合いとなった。
 この気持ちを冷ましたくない。
 少しでも意見交換が途切れてしまえば、携帯電話を自由にすることを心の底から願っているわけではないメンバーたちは、「もうやめてしまおうか」と少しでも思ってしまうかも知れない。
 しかし、それではきっと駄目なのだ。
 まだここまで具体的になる前に、由乃さんが言っていた。
 「携帯電話を自由にしようという時に、そう思ってない人と一緒に動きたくない」と。
 きっとそういうことなのだ。
 何かを動かすための話し合いや活動をするとき、最上の結果を残すためには、全員一丸となることが大切なのだ。
 それはきっと、信念や筋を通すといった話に近い要素となる。
 携帯電話を自由化したいと最初に願ったのは、他ならない自分自身だ。
 自分が考える事をやめては、歩みを止めては、それは活動の形骸化と同義となる。
 そのために志摩子は、意見を述べ続けることを止めなかった。

「授業は映画館ほどの静寂を求められるものなのかしら?」
「そんなはずはないよ。黒板の板書の音とか、シャーペン走らせる音とか、雑音はいっぱいあるもの」
「少しくらいの音があったって、授業の妨げにはならないはずです」

 しかし、冷静さを欠いてはいけない。
 自分たちが何の話し合いをしているのか、そして目的は何なのかをおろそかにしていては、明後日の方向に話が進んでしまう。

「今、私達が話している”静かな着信メロディ”というのは、持ち主に鳴らして気づかせるためのものではないわ。だから静かでも生徒たちにとっては問題ないはずよ」
「常時マナーモードか電源オフ、ですからね。これは崩さない」
「そういう状態でのケータイ持ち込みの権利は勝ち取っているから。問題はうっかり鳴らした時だけだもんね」

 志摩子を含めて、ここにいる誰もがある程度の結果を見出しているのだと思う。
 自分たちが見落としていた事と、なぜ見落としていたのか。
 そして、それを踏まえた上でどのように現状から変化させていくのか。
 しかし、それでも検証は必要だ。
 自分たちが常に正しいとは限らない。
 均一化された価値観は、本当に正しいことと間違っていることをあやふやにしてしまう。
 つとめて落ち着いた口調で、祐巳さんが言った。

「……でも、着メロは結局、個人個人で選ぶから、それぞれ違うものになるよね。仮に静かなものだとしても、色々な音色や曲が鳴ったりしたらやっぱりやかましいし、風紀の問題とか突っ込まれたらなかなか反論できないよ」
「なら、どうしましょう。風紀って言われると……」

 祐巳さんの意見はあまりにも適切だった。
 それがあまりに適切だったため、一瞬だけ皆が言葉に詰まってしまう。
 恐らく志摩子はその時、祐巳さんを共に山百合会で活動する仲間ではなく、自分たちが相手とする組織──この場合、学園側の人間とでも認識してしまったのだろうか。
 自分でも驚くほどかっとなってしまった。

「──風紀は秩序よ。風紀の乱れは秩序の乱れ。ならば秩序を乱さなければいいの。私達がおそろいの制服を着ているのは何故? これは秩序を乱さないためよ。着信メロディも同じ。制服と同じように着信メロディもお揃いにすればいい。リリアン女学園の秩序ある風紀にふさわしいものを選べば、風紀を乱すことになるはずがないわ!」

 泣き崩れた有希子さんのため。 
 そして自分自身の信念のため。
 まるで祐巳さんがその時、志摩子の目的の障壁となるような錯覚をしてしまい、祐巳さんを論破するような形になってしまった。
 私、なんていう事を……。

「ご、ごめんなさい。ちょっと、気持ちがたかぶってしまって」

 志摩子は、たった今述べたことが、それほど的外れだとは思っていない。
 おそらく皆もそう考えてくれているはずだが、話し合いというのはこんな風にまくしたててするものではない。
 いかに優れた意見だとしても、それを威圧的に場にぶつけてしまったり、もしくは発端から過程、そして結論まで長々と述べてしまうと、反対にしろ賛成にしろ、他の人間がその後に続けにくくなる。
「……うん。志摩子さんの言うことは分かるよ」
 恐らく祐巳さんが、必死にこの場を収める言葉を探しているみたいだったが、なかなか出てこないようだった。
 そして志摩子自身、この場をどう収めていいのか分からなかった。
 その時、手を上げた人物があった。
 オブザーバー枠として話し合いに参加していた、有希子さんだった。

「有希子さん……」
「……志摩子の意見に賛成です。値段の問題もあるから、ケータイをお揃いにすることは出来ないけど、着メロを同じにするのは、鞄や上履きを揃えるのと同じで、簡単に出来ることだから。”風紀を乱さないために着メロを同じにし、授業を妨げないために静かな音のものを選ぶ”と考えれば、すごく自然な発想だと思う」

 有希子さんは、少しまだ赤い目をした表情を笑顔にして、志摩子に向けてにっこりと笑った。
 それに続き、松組の委員長である宮内さんも、賛成の意向を示してくれた。

「ん、まあ、私と有希子の発言は参考程度にして頂くとして。私も藤堂さんの意見……というより、これまでの流れに全面的に賛成です。ケータイを鳴らさないことが不可能なのだから、いっそ鳴ることをオーケーとして、迷惑にならない着メロを選ぶ、というのは、山百合会の皆さんが考えた校則改正案の方向性に合ってると思います」
「より白黒ハッキリさせる、という方向性のこと?」
「ええ。以前の校則なら、こっそり持ち込む人とルールを守って持ち込まない人が同じに扱われているなんておかしいし、同じように、マナーモードにちゃんとしてる人としていない人が同じに扱われるのも納得できないもの。だから、今回みなさんが話しあった内容を更に盛り込めば、よりよい校則になると思うの」
「逆に、ここまで明確に生徒に有利、学園にも不利益なく線引きをして、それでも違反してしまう人には、それこそ”反省”してもらうしかない、と誰もを納得させることが出来るはずです」

 二人のクラス委員長たちも交えて話を進めたことにより、事実上、志摩子たちの意見の正常性、正当性を確認できることになった。

「ケータイの着メロって、それこそケータイ買ったばかりの頃にはおもしろがって色々変えたりするんですけど、そのうち飽きちゃって同じのでずっと固定するんです。だから恐らく、”うっかりマナーモードにするのを忘れた”よりは、”うっかり着メロを指定と別のものにしてしまった”というのは、なんて言うんでしょうか、うっかりミスの発生度合いをかなり下げられると思うんです」

 携帯電話に詳しい菜々ちゃんも、色々と検証してくれた上で賛成してくれた。
 ひとしきりこれまでの話し合いの内容に対しての意見が出揃った頃合いを見計らって、祐巳さんが皆に問いかけた。

「この方向性で決定しようか。ここまで詰められたなら、あとは具体的なことを検討しはじめていいと思う。どんな着メロにするのか、どうやってそれを用意するのか、とか」
「異議なし。あーつっかれたー!」
「いいと思います。久しぶりに熱くなっちゃいましたよ」
「私も。なんか汗かいちゃった」
「議事録はバッチリ取れてるんで大丈夫です。絶対いけますよこれ!」

 祐巳さんの問いかけに、由乃さん、乃梨子、瞳子ちゃん、そして菜々ちゃんが次々に賛同する。
 みんな一様に晴れやかな表情を浮かべているのは、今回の話し合いから一定以上の手応えを感じ取れたからだろう。
 しかし志摩子としては、どうしても気持ちが上向かない。
 皆が落ち着いた意見交換を重ねていく途中で、有無を言わせないような物言いで話し合いを途切れさせてしまった。

「……本当にみんな、ごめんなさい。私ひとりだけ、冷静ではなかったわ」
「ちょっと驚いたけどね。でも悪くなかったよ。あんだけ矢継ぎ早に意見出されると、こっちとしても考えることを止められないっていうのかな。頭がよく回った」
「うん、志摩子さんすごかったよ。おしっこ漏らしそうになった」
「お姉さま! 品がなさすぎです!」

 凄い感想を言った祐巳さんに、瞳子ちゃんが縦ロールを逆立てるようにして注意した。
 さすがに皆、集中力が途切れて……というより底をついてしまったのか、誰からともなく雑談を楽しむ空気となった。

「みんな、お茶にしようよ。折角千穂さんと細貝さんが来てくれてるんだから、みんなでお喋りしようよ」
「了解っ。ただいまお茶淹れます!」

 祐巳さんの提案に、菜々ちゃんが間髪入れずに立ち上がった。
 菜々ちゃんは手の速さもさることながら、動作も志摩子たちより五割増しくらいで機敏だ。
 皆、かなり疲労困憊しているのに、菜々ちゃんの動きはまるで疲れを知らない小学生のようだ。
 ちなみに千穂さんと言うのは、松組の委員長さんのことだ。
 宮内千穂さんは、楽しそうに由乃さんに話しかけた。

「菜々ちゃん元気いっぱいね。正直、年齢差がキツかったりするでしょ」
「分かる? あのパワーに付きあうのも、色んな意味でなかなかしんどいわ。こっちは無邪気で済ませられる歳じゃないってのに」

 由乃さんはげんなりとしながらも、楽しそうに笑った。
 目の赤さもだいぶ回復した有希子さんが、こっそりと志摩子に話しかけてきた。

「山百合会って凄いね。私、志摩子たちのいる山百合会があるリリアンにいて凄く良かったよ。こんなに学園のこととか生徒のこととか考えてくれてるなら、学園が良くならないはずがないもの。自分のいる場所を好きになれるって、とても幸せだと思う」
「私も。有希子さんたちのいる藤組にいられて、すごく幸せよ」

 志摩子の正直な気持ちだった。
 ”自分は本当にここにいて良いのだろうか?”と終始問いかけ続けていたかつての自分が嘘みたいな気分だった。
 自分の居場所を、より好きになるため。
 有希子さんを始め、藤組の個性的なクラスメイトたちも、きっと同じ気持で努力しているのだと思う。
 そんなクラスメイト達のため、山百合会の仲間のため、学園のため。
 そして妹のため。
 自分の周りのあらゆることのために努力することが、より自分の居場所を、そして自分自身を好きになるために大事なのだと信じて。



  
 
 ◇エピローグ1

 
 ──紆余曲折ありながらも、どうにか試用期間の一ヶ月を乗り切った志摩子たちは、校長室……つまりシスター上村のもとを訪れていた。
 もともと試用期間が終わったら、結果の如何によらず自分の元を再度訪れて欲しいと言われていた事。
 そして、一ヶ月前に提出した校則改正案に、更に調整案を加えた本決定案を上村先生に提出すること。
 最後に、内々密に連絡を取り合っていた、携帯電話を鳴らしてしまう問題についての山百合会としての見解、そしてそれをどのように本決定案に盛り込んだのかを口頭で説明するためだ。
 これが今回の件の締めのひとつとなるため、志摩子たちは全員で校長室を訪れたのだったが──。

 
「……素晴らしかったわよ、山百合会。あなたたちのような生徒会機関がわが校で育ってくれたことを私は誇りに思うわ」
「素晴らしい山百合会素晴らしい」
「感服いたした」

 パチパチパチパチ……。
 志摩子たちが校長室を訪れると、シスター上村以下数名の教師がおり、志摩子たちを何故か拍手で迎えてくれた。
 シスター上村以下数名の教師は、すごい笑顔だった。 

「ど、どうも」
「こちらこそ、お世話になりまして」
「この度は、ありがとうございました……」

 そんな風に拍手で出迎えられては、志摩子たちとしてはひたすら恐縮するしかなかった。
 そして、志摩子たちがぞろぞろと校長室に入っていく最後尾に、山百合会ではない人達の姿もあった。

「新聞部の山口真美です。このたびは取材許可いただきましてありがとうございます」
「写真部の武嶋蔦子です。ぜひとも記念に一枚、と思い立ちまして」
「こちらこそ。あなたたちもゆっくりしていって頂戴」

 ぜひともゆっくりと、とシスター上村は仰るが、真美さんに蔦子さん、そして教師数名がいるこの校長室では、ちょっと少し気持ちが落ち着かない。
 それは祐巳さんも同じだったらしく、本決定案の校則と、これまでに集まった意見やデータをまとめたものを、校則の根拠性もしくは純粋な参考資料として位置づけて、シスター上村に手渡しをした。

「上村先生、これ、お願いします」
「はい。ふふふ、福沢さん、ちょっとこのままの姿勢で右のほうを向いてごらんなさい」
「はい……? あ、ああ、なるほど」

 祐巳さんが不思議そうに右を向くと、そこに蔦子さんがカメラを構えて待っており、絶妙なタイミングでシャッターを切った。
 これはニュースなどでよく見かける光景だ。
 民間の団体や組織が、何らかの報告書や意見書などを大臣や首相に提出するときに、こうやって渡す瞬間がニュースとして流れることがよくある。
 そういう時、渡す側も渡される側も、渡した瞬間に数秒だけそのままの姿勢で静止し、写真やビデオを取りやすくする、というのをよく見かけるのだが、まさか自分たちがこれに関わる日が来るとは思っていなかった。

 ちなみに、校則改正案の最終調整版は以下のようになる。



 ■

 校内への携帯電話の持ち込みは、原則として自由とするが、以下に記載する【設定】【使用】および【罰則】の三項目を順守し、正しい携帯電話の使い方を心がける事とする。

【設定】
 校内に携帯電話を持ち込む生徒は、以下の二点を、所有する携帯電話に設定しなければならない。

 @常時マナーモード、もしくは電源オフ
 A山百合会が指定した曲を着信音として設定する

【使用】
 通話やメール、インターネットへのアクセス等の携帯電話の使用は、休憩時間のみとし、授業中などには、特別に急を要する要件のみに限定し、通話のみを許可する。その場合は教師に申し出て、指定された場所で通話を行うこと。

【罰則】
 上記項目をみだりに破った場合には、反省文、もしくはそれ以上の罰則を課せられるものとし、生徒はこれに従わなくてはならない。

 ■


「例の”携帯電話を鳴らしてしまう”ことについての山百合会の見解は、先生たちの間でもかなり話題になったわ。先生たちだって携帯電話は持っているから、正直な話、いつ鳴らしてしまってもおかしくない。でも悪気があるわけではないの。それをこういう形で解決させたことは評価できる、と」
「ありがとうございます。鳴らしたくなくても鳴らしてしまう、という悪意なき違反者への救済措置です」
「あのー、新聞部から1つだけ質問をよろしいでしょうか?」
「どうぞ?」
「ありがとうございます。この最終調整案内の【設定】についてひとつ。山百合会指定の着信メロディとは、どのようなものなのですか?」

 真美さんの質問だった。
 最終調整案については、まだ施行していないものの生徒たちに連絡はしてあるのだが、具体的な部分で発表を避けているところがある。
 例えばいま、真美さんが質問したような部分だ。
 これに関しては、ついこの間準備が整ったばかりであり、発表できる状態ではなかったという理由もあるが、「ひとつくらい隠し玉を用意しておきたい」という志摩子たちの遊び心でもあった。

「上村先生、それではお願いします」
「うふふ、了解」

 シスター上村は自分の携帯電話を取り出すと、何かの操作を始めた。
 そして、少し携帯電話を高くかかげるようにしてボタンを押すと、リリアン女学園に関わる誰もがよく知る、耳に馴染んだメロディが静かに流れだした。
 ──マリア様のこころ。
 リリアン女学園の生徒として何度も歌ってきた曲のピアノ伴奏部のみを着信メロディとしたものだ。

「おお。美しい」
「まるで心が洗われるよう……」

 控えていた二人の教師は、何故か感銘を受けている。
 山百合会が別にそのように頼んだわけではないのだが、先生方の間でも、これを着信メロディとすることを知っていたのは、シスター上村のみだったようだ。 

 ──マリア様のこーころ、それーはあおぞらー……。

 できる限り耳にやさしい音色で作ってあるこの着信メロディを聞いていると、自然に頭の中で歌声まで再生される。
 校長室にいる誰もが、しばらくその綺麗な旋律に耳を傾けていた。




 ◇エピローグ2


 山百合会が申請したパソコンが、遅れに遅れてようやく薔薇の館に設置された。
 携帯電話について詳しいのは菜々ちゃんだが、パソコンについては乃梨子の得意な領域となる。
 つい先ほどようやく一通りのパソコンの設定が完了したらしく、乃梨子と、そして瞳子ちゃんと菜々ちゃんが興味しんしんで一緒に画面をのぞき込んでいる。

「さて、先ずは何をしましょうか」
「そうだねえ。取り敢えずコンピュータ部にお礼のメールを入れておこうか」
「いろいろとお願いしましたからね。しかも超短納期」

 本当に情けない話だが、志摩子は携帯電話のこともパソコンのこともあまりにも知らないため具体的にどのように行ったのかは分からないのだが、着信メロディの制作と、それを校内のネットワークに関する場所に置いて、携帯電話に入れられるようにしてもらったのだ。
 これに関して一括して引き受けてくれたのが、コンピュータ部となる。
 乃梨子がこれに関する仕組みを、恐らくものすごく丁寧に説明してくれたはずなのだが、志摩子には全く理解できなかった。
 今回用意した着信メロディの元データは、CDに収めて山百合会に保管してあるのだが、生徒たちはそのCDを使わない。
 じゃああの着信メロディは今、どこにあるのかと考え始めると、志摩子の頭は混乱してしまう。
 ”ローカルエリアネットワーク”や”サーバー”、”ダウンロード”等の単語がキーワードとなることは何となく分かるのだが……。
 
「美術部にもお世話になったし、各クラスの委員長さんたちにもだいぶ色々がんばってもらったよね」
「山百合会だけじゃできることに限界あるからね。ま、私たちの人徳ってやつよ」

 由乃さんは笑うが、日頃から各部、各委員長たちと良好な関係を築いておかなければ、協力要請はなかなかに難しい。
 山百合会が生徒たちのことを考えれば考えるだけ、生徒たちも山百合会のことを考えてくれる。
 今回のことだって、志摩子たちが率先して考え、携帯電話について生徒たちに働きかけたからこそ、生徒たちは協力してくれた。
 そして生徒たちの協力なくして、携帯電話についての運動を成し遂げることは出来なかった。
 この関係を維持できたら良いな、と志摩子は思う。




 ◇エピローグ3


 現在ではまだ、携帯電話については”試用期間”という扱いとなっている。
 これは、何か問題があるからというわけではなく、どちらかというと生徒たちの準備期間が必要だからという措置である。
 着信メロディのダウンロードや設定についての不具合の有無などが主たる部分であり、不具合があったら山百合会に相談して欲しいと伝えてあるが、だいたいは生徒間で解決させているようで、これといった問題は志摩子たちのところに届いていない。

 放課後、薔薇の館へと向かう道すがら。
 廊下や教室のそこかしこで、携帯電話を持ちながらお喋りをしている生徒たちの姿を見かける。
 少し前までは想像も出来なかった光景であるが、これを実現したのは他ならぬ自分たちなのだ。
 最近よく、下級生たちに「白薔薇さまのメールアドレスを教えて下さい」とお願いされることが多い。
 実は志摩子は携帯電話を持っていなくて……と説明するとわかってもらえるのだが、果たして携帯電話を持っていたとしても、志摩子はメールアドレスをよく知らない下級生に教えるだろうか。
 答えはおそらくノーだ。
 実家の電話番号をみだりに拡散させないのと同じで、メールアドレスも出来れば見知った人に教えるだけで済ませたい。
 志摩子はそう考えているのだが、菜々ちゃんもシスター上村と気軽にメールアドレスを教えあっていたようだし、もしかして志摩子の考え方が間違っている……というより、古いのかも知れないと思うことはある。
 そんなことを考えながら歩いていると、後ろからぽんと肩をたたかれた。

「しーまこっ」
「ひゃっ……有希子さん。もう、脅かさないで」
「ごめんごめん。これから山百合会? 私も部活だから、そこまで一緒に行こうよ」
「ええ」

 志摩子の肩を叩いたのは、藤組の細貝有希子さんだ。
 彼女は試用期間中に一度、携帯電話を鳴らしてしまった。
 罰則規定として反省文と定めてあったため、もちろん彼女に悪気はなかったのだが、形式として反省文を書いてもらった。
 自分が携帯電話を鳴らしてしまった理由。
 山百合会の話し合いにオブザーバーとして参加したこと。
 そして、クラス委員長としてルールの順守を呼びかけていくこと。
 これらの内容をまとめた、非常に立派な──というのも妙な形容だが、とにかくしっかりとした反省文だった。
 彼女はそれを実践し、藤組内で率先して、彼女なりに面白くも楽しく、しかし真面目にルールの順守を皆に呼びかけている。

「どうしたの志摩子。なんか浮かない表情」
「うん、少し。ちょっと気になるというか、怖いことがあって」
「怖い?」
「ええ。実は……」

 志摩子は、つい先ほど考えていたことを有希子さんに話した。
 今日び、携帯電話にまつわる悪いニュースは枚挙にいとまがない。
 そして標的となるのはいつも女子高生だ。
 もしかして志摩子は、リリアン女学園において開けてはいけない扉を開けてしまったのではないかと、今更に疑問の念が湧いてきたこと。
 そんなことを志摩子が伝えると、有希子さんは少し考えるように話しだした。

「志摩子の気持ちは分かるよ。最初はただの好奇心でケータイで遊んでて、知らぬ間に犯罪に巻き込まれてるってこと。確かに今は多いんだと思う。でもね、そうだね、少なくとも藤組の子には、そんな軽率な子はいないよ。それは断言していい」
「藤組の子に悪意はなくとも、悪意は他所からやってくるものだから……」

 リリアンという箱庭にいる限り、少なくとも外部からの悪意と生徒たちは遮断される。
 それが携帯電話のせいで、外部からの影響を受けやすくなってしまう。
 個人差により、影響を受けやすい子と受けにくい子はいるだろう。
 受けにくい子はきっと、”自分”というものをしっかりと持っている子だ。
 最も身近なところでは、乃梨子。
 そして祐巳さんや由乃さん。
 今こうして話している有希子さんも、ちゃんと自分を持っている。
 しかし自分自身はどうだろう。
 藤堂志摩子は、多様化、多種化する世の中で、志摩子の見えないところで渦巻く悪意から、自分自身を守れるのだろうか。
 ちゃんとした自分というのを持って、その悪意をはねのけることが出来るのだろうか。

「志摩子はね、志摩子自身が思ってるよりも、自分というものを持ってるはずだよ。山百合会の人たちはみんなそうだと思う。こないだの話し合いにちょこっと参加して知ったよ。誰もが仲間のことを大事にしてるのに、けど本気でぶつかる時はぶつかってる。そこで自分というものを持っていない人だったら、きっと弾き飛ばされちゃうよ」
「山百合会は、そこまでではないと思うけど……」
「ずっといると実感なくなっちゃうのかな。松組の千穂も言ってたよ。山百合会凄い、自分には絶対務まらない、って」
「そうなの、かしら……私には、藤組の子たちの方が、私よりよほど”自分”をしっかり持っているように思えるわ」

 志摩子がそう言うと、有希子さんは笑った。

「藤組のみんなが色々なことに熱心なのはね、きっとあれは志摩子の影響なんだよ」
「私の?」
「うん。山百合会にいることは出来ないけど、でも自分なりに”自分”を追求したり研究したり、なんていうのかな……自分らしさを追い求めることは出来るはずだ、って。志摩子のようにはなれないけど、志摩子に負けないようにがんばろう、って思ってるはずだよ。身近に薔薇さまがいるって、いい刺激だよね。あはは」

 有希子さんはからからと笑う。
 一般生徒たちに手本になるように、誤った道に進ませないように。
 それは山百合会としての勤めだが、志摩子は恐らくそれを勘違いしていた。
 それは教育や指導、働きかけではなく、”藤堂志摩子という人間が、周囲の人間によい影響を与えること”で、はじめて実現するのだ。
 そう、考え方そのものを押し付けるのは良くないことだと理解していたはずなのに、いつしかそういう手段に縛られていた。
 大事なのは、皆に”考えてもらうこと”に他ならない。

「だから大丈夫だよ。私たちはそうそう悪意に流されたりはしないから。流されそうな子がいたら助けてあげられるし、逆に、万が一にも山百合会が流されそうになっていたら、そしたら今度は私達が助けてあげる番だよ!」

 だから大丈夫! とピースサインを出して、有希子さんは駆けていき、あっという間に見えなくなった。
 彼女は少しだけ照れ屋さんなところがあるのだが、そんなところも皆に好かれている。
 有希子さんは個性的な面々の揃う藤組をよくまとめているが、それは日頃の、何気ない普段のやり取りや行動が、藤組の皆の共感や好意、信頼を集めるものだからだ。
 悪意に流されないように、負けないように。
 そう呼びかけることは簡単だが、志摩子自身がそれを実践できなくては、皆の心に届かない。
 果たして自分にそれが、実践できるだろうか──。



 
 ◇エピローグ4


「……お父様。今日は折り入ってお願いがあります」
「うむ?」

 帰宅した志摩子は、制服を着替えると、かねてから──それこそ三ヶ月ほど前から準備していた”あるもの”を持ち、父のもとを訪れていた。
 父は居間で書き物をしていたが、恐らくかなり珍しい娘の”お願い”と聞き、手を止めた。

「珍しいな。お前がお願いとは。話してみなさい」
「はい。実は私、携帯電話が欲しいんです」

 率直に志摩子がそう伝えると、父は「なんだそれくらいの事」という風に、少々肩透かし気味に、しかし安心したような笑顔を浮かべた。
 志摩子の父も、かなり古いものらしいが携帯電話を持っている。
 志摩子は自分が携帯電話などの近代的な機器が似合わない古風な人間であることを自覚してるが、今ではお寺の住職という古風な仕事をする父でも携帯電話を持つのだ。
 志摩子のお願いは、きわめて自然なものとして父に届いたようだ。
 見通しは暗くなく、かなりの好感触といえる。

「志摩子よ、父は嬉しいぞ。お前もそういう俗世のことに興味を持ってくれたことがな。俗世には悪いことも多いが、良いこともある。それを選びとる目を養って欲しいのだ。しかし、俗世に目を向けなければそもそも養われる機会もないのだから」
「はい、今後は少しずつ、そういうことも意識していこうかと思います」
「うむ。ところで志摩子、買い方は分かるか? 未成年の場合、保護者の承諾が必要となる。お前さえ良ければ、今週末にでも買いに行くか」
「はい、是非に」
「うむ。どんなものが欲しいのか、どうしたいのか。今からよく考えておきなさい」
「はい。実はもう、欲しいものは決まってるんです」
「なぬ?」

 父は意表を突かれたようだった。
 志摩子が用意したあるもの──まあ、単なる携帯電話のチラシなのだがそれを父に見せた。
 チラシを畳の上に広げ、志摩子はある一点を指さした。
 どれどれ、という風に、父も身を乗り出してくる。

「欲しいのはこれです、お父様」
「ふむ……おお、なかなか良いデザインだな。値段は……五千円か。志摩子よ、これはなかなか良い買い物だ。なかなか俗世を見る目があるではないか。父は嬉しいぞ」
「違いますお父様。五千円ではありません。五千円の十回払いです」
「……」

 志摩子が父の勘違いを指摘すると、父は黙り込んだ。
 あれ、と志摩子は思った。
 先程までの明るい見通しに、急に影が刺したような感触だったからだ。
 これはいけない、と志摩子は直感した。
 父のモチベーションが下がってしまう前に、どうにかする必要がある。

「お父様。私、携帯電話でお友達とたくさんお喋りしたいんです。みんなもそう言ってくれています」
「う、うむ。それはとても良い考えだ。しかしな……」
「一括で買う場合も五万円なんです。ならば、十回に分けて少しずつ負担していった方が良いですよね?」
「ま、待て待て志摩子。それは正しくない考え方だ。分割払いは購買者の目を眩ませてしまう効果があるのだからな。それは俗世の良くない部分だ」

 しまった、と志摩子は思った。
 どうやら正しくない手段を選んでしまったようだ。
 早急にフォローする必要がある、と志摩子は考えた。
 薔薇の館に設置したパソコンで乃梨子が調べてくれたのだが、「父親に物を買ってもらう時、効果的なやり方」というのがあった。
 志摩子はそれを実践してみることにした。

「ねえお父様……買って?」
「……」

 色々と理由をつけて物をねだるのは、きっと正しくないことだ。
 理由は確かに沢山あるのだが、根本的に”欲しいから欲しい”のである。
 だから、「買って欲しい」、という気持ちを真っ直ぐに伝えるのが大事だと、乃梨子が検索してくれたページに記載してあった。
 そのとき同時に、上目遣いにするとより伝わりやすくなる、と書いてあったので、志摩子はそのまま実践してみた。
 上目遣いをする場合、どうしても少し顔が下向きの格好になる。
 これはつまり、”礼”をしている格好に近い状態となる。
 家族に対しても礼の気持ちは必要だし、それを表すための上目遣いなのだろう、と志摩子は解釈している。
 父は長考の末に──やがて首を縦に振ってくれた。

「……分かった。買ってやろう」
「ほんとに? ありがとうございます!」
「よいか志摩子。五万円というのは大金だ。これがどれほどの金額なのかというとな……」
「はい」
「つまり、軽々しくぽんと出して良い金額では決してないわけで。例えば……」
「はい」
「しかし、これを私がお前のためにぽんと出してやるのは、えー……」
「はい」

 父が金銭というものの重さ、大事さ、大切さを丁寧に説明してくれているのだが、志摩子の耳にはあまり入って来なかった。
 早く今週末になって欲しい、の一心だった。

「……そういう訳で、これはとても重要なことなのだ。志摩子よ、理解してくれたか?」
「はい。お父様に買ってもらう携帯電話、ずっと大事にします」
「うむ。わかってくれて父も嬉しい。他に用がなければ、下がってよいぞ」
「はい。それでは失礼します」

 志摩子は畳の上に広げてあったチラシを仕舞うと、父のいる居間を後にした。
 居間のふすまを閉める際に、父の大きな溜め息が聞こえたような気がした。




 ◇10


 7月の上旬。
 いつの間にか、という形容がぴったりなのだが、衣替えも済み、季節は暑い時期に差し掛かっていた。
 志摩子たちが初めて薔薇の館で携帯電話の話をしてから、まるまる一ヶ月以上が経過している。
 携帯電話自由化の活動を始めたばかりの頃、まだまだスタートラインだ、まだまだ先は長い、と考えていたのが、つい昨日のことのように思い出される。
 本当に、長いようで短い一ヶ月だった。

「……志摩子さん。緊張するのは仕方ないんだよ。だから緊張も自分の一部だと思って、自然に行こう」
「ええ、大丈夫よ。乃梨子が練習にたくさん付き合ってくれたお陰」
「うん。志摩子さんなら絶対大丈夫だよ」

 今日は、月に一度開催される全校集会の日となる。
 校長先生──シスター上村の講話や、部活動などの大会で入賞があった場合の表彰式などが行われる。
 どちらかというと式典的な色合いが強く、連絡事項や具体的な通達は、全校集会後に関係者、関係組織のみを集めて別個として行われることが多い。これは学園行事の連絡や、山百合会からの連絡などが当てられる。
 入学式や卒業式、始業式などと同じ扱いであり、これに関しては山百合会で進行を担ったりはしておらず、一生徒としての参加となる。
 
 ──しかし今回、シスター上村からの希望により、”山百合会からのお知らせ”の時間が、全校集会内に特別に設けられることになった。
 全校生徒はもとより、全教員、全関係者に届けられ、正式に学園の歩みのひとつとして記録される極めて公式なものだ。
 理由はもちろん、携帯電話にまつわる校則の改正によるものである。

 志摩子たちはこれを受け、にわかに浮き足立った。
 これは生徒主体で行われるものではなく、ようは入学式や卒業式で行われる来賓各位のスピーチと同等のものだからだ。
 さてどうしよう、困ったぞ、と冷や汗に近い汗を流しながらかつての記録や書類をひっくり返した結果、30年も昔に一度だけ前例があったのを発見した。
 それはかつて、学園主体で行われていた学園祭を、生徒主体で開催できるようにしよう、という運動を山百合会が行った際の記録だった。

「あったあった。見てみようよ」
「あらら、ちょっと触ったら破れてしまったわ」
「ちょっと志摩子さん、丁寧に扱いなさいね。先輩たちの栄光の軌跡なんだから」

 しかし発見できたのは、一枚の書面に経緯と結果を記しただけのいたって簡素なものであり、志摩子たちが求めるヒント的なものは見つけられなかった。

「……このとき、全校選挙してるんですね」
「やるなあ。しかも過半数取ってるし」
「……でも一人だけ、薔薇さまがこの時に交代してますね。つぼみが薔薇さまになっただけみたいですけど、何か色々大変だったっぽいですね」

 色々と調べてみたが、やはり足がかりになりそうな部分は発見出来ず、諦めるしかなかった。
 結局、自分たちは自分たちらしくやるしかない。
 そんな結論に落ち着いたのだが、そうすると今度は、誰が代表してスピーチをやるのかという問題になる。
 志摩子としては、リーダーである祐巳さんにお願いしたかったのだが……。

「うーん。リーダーってのは結局、私達でそう決めてるだけだからね。正式なものでも何でもないんだよ」

 と、祐巳さんは逃げ腰だった。
 そこで声を上げたのは由乃さんだった。

「私としては、最初に藤組の議事録持ってきてくれた志摩子さんにお願いしたい! 話し合いでも一番熱心だったし! 志摩子さんがいいと思う人、挙手ー!」
「ちょっと、由乃さん……!」

 そんな、殺生な──!
 志摩子としてはこの数の暴力の発露をなんとかして食い止めたかったのだが、由乃さんに続き祐巳さん、瞳子ちゃん、そして菜々ちゃんまでに手を挙げられてしまい、収まりがつかなくなってしまった。
 志摩子としては、もはや切実に訴えるしかない。

「あのね、私、本当にこういうのは苦手なの。折角のみんなで進んできたここまでの道のりを、台なしにしてしまうかも知れないわ。いいえ、台なしよ」

 そのとき、志摩子の手を握る人物があった。
 乃梨子だった。
 乃梨子は笑顔を浮かべ、志摩子の手をぎゅっと握ってくれている。

「私も、志摩子さんにやってもらいたいな」
「乃梨子、あなたまで──」
「私も全力で協力するから。大丈夫、ただ用意した原稿を間違えないように読むだけなんだから。一緒に練習しようよ。志摩子さんがちゃんと出来るようになるまで、納得できるまで付き合うから。約束したじゃん。志摩子さんのそばをくっついて離れないって」

 乃梨子は力強くそう言ってくれた。
 本気になっている時や、熱中している時、本当に「何かしたいな」と思っている時、乃梨子の瞳には力強さが宿る。
 このときの乃梨子も、そういう眼差しを浮かべていた。 

「図書館にスピーチのやり方の本とかもありそうですし」
「志摩子さんはね、きっと志摩子さんが思ってる以上にしっかりした人だよ。私はいつも、志摩子さんみたいにしっかり喋れるようになりたいな、っていつも思うんだよ」
「志摩子さんのことは中等部の頃から知ってるし。最後には必ずみんなの頼りになってくれることもね」
「白薔薇さまの本気を見てみたいです!」

 乃梨子に続き、瞳子ちゃんと祐巳さん、由乃さんと菜々ちゃんも励ましてくれた。
 志摩子は考えた。
 藤組の議事録が発端とされているが、それが発端となるように働きかけたのは他ならぬ志摩子だ。
 今回のことで皆があらゆる知恵を絞り、さまざまな人に協力を仰ぎ、そしてシステム上の問題点のしわ寄せを、有希子さんや他にも反省文を書かせてしまった生徒たちに肩代わりしてもらった。
 それらの全ては、志摩子が発端となることだ。
 ならば、今回のことの幕引きは、自分が行うべきではないのだろうか。
 自分が撒いた種をきちんと刈り取ることは、自分自身の手で行わなければならないのではないだろうか。
 そんな風に、志摩子は考えた。

「……わかった。私がやります。リリアン女学園の高等部の全ての人に今回のことを伝える役目、私が山百合会を代表して勤めさせて頂きます」

 志摩子が頭をぺこりと下げると、みんなが拍手で受け入れてくれた。



 ──そんなことがあったのが、つい三日前のことだ。
 それから大慌てで原稿を準備し、乃梨子に伴ってもらい練習を重ね、皆を相手にリハーサルをして、ようやく仕上げられた。
 講堂の壇上では今、上村先生の講話が続いているのだが、志摩子の頭にはあまり入ってこない。
 生徒の列から抜けだして、壇上に上がること。
 そして原稿を読み、壇上から降りて再び生徒の列に戻ること。
 ただそれだけを延々と頭の中でイメージしていた。

「……それでは、私の話は終わります。このあと、恐らく生徒のみなさんが一番聞きたかったことについて、山百合会の方からお話があります。では山百合会の代表者の方、どうぞ」

 上村先生が講話をそのように締めくくると、少しだけ生徒たちがざわついた。
 なぜなら本来の全校集会とは少し異なる流れだからだ。
 志摩子が意を決して椅子から立ち上がると、会場中の注目が自分の一身に集まるのをひしひしと感じた。
 全校集会では各クラスごとに整列して席に着くため、最も志摩子の近くにいた三年藤組の生徒たちが、志摩子にぎりぎり聞こえるほどの小声で、激励をしてくれた。
 それが誰の声なのか志摩子にはもはや分からないが、答えるように小さく頷き、志摩子は壇上を目指した。
 壇上で一礼をし、志摩子は原稿を開く。
 実はこの時はまだ、全校生徒の方をしっかりとは見ていなかった。
 緊張して頭が真っ白になってしまうことを恐れたからだ。



「……全校のみなさん、ごきげんよう。山百合会を代表して、携帯電話にまつわる校則改正についてのお知らせをさせて頂きます、藤堂志摩子です。よろしくおねがいします」

 志摩子はここで一度、頭を下げる。
 まだ、”リハーサルの延長”という心持ちで志摩子は話している。
 本番もリハーサルも同じだよ、と乃梨子のアドバイスがあったからだ。

「今回は、全校集会という場をお借りして、皆さんに携帯電話についての改正した校則の内容の報告を行います。携帯電話を持っている方には、使用等についての再確認として、そして携帯電話を持っていない方には、いずれ所有するかも知れない時のためとして、少しだけお時間をいただければと思います。最初に、改正後の校則についてですが──」

 学園側に提出し、そして承認された最終調整案を志摩子は読み上げる。
 設定と使用、そして罰則について項目別に記載された現在の校則を読み上げるにつれ、志摩子にはこれまでの一ヶ月のことが思い出された。
 この最終調整案を、それこそ暗記するほどに皆で吟味したからだろう。 
「校則には明記してありませんが、山百合会が指定する着信メロディとして、”マリア様のこころ”のピアノ伴奏のみを再現してものを、着信メロディと指定します。リリアン女学園の皆さんに馴染みの深いもの、そして、リリアン女学園らしさ、という二点から、この曲を選びました。この着信メロディについては、年度初めに見直すことと予定しています」

 携帯電話を鳴らしてしまう、という問題。
 この問題に直面したとき、ようやく志摩子は、そして山百合会の皆は、真剣に今回の校則改正について向きあったのだと思う。
 ……ふと志摩子は、有希子さんのことが気になった。

(みんな……)

 志摩子が本来並ぶ場所の周囲に、藤組の皆の姿があった。
 みんな、こちらをじっと見ている。
 一文一句を聞き逃さぬよう、そして、少し誇らしげに。
 これだけの大人数を前に、不思議と緊張は解けていた。
 原稿には無いことなのだが、どうしても志摩子には、話さずには、伝えずにはいられない事が沸き上がってきた。

「──今回学園の方に提出させていただいた改正校則の前に、試用導入した改正案がありました。私たちなりに生徒の皆さんのこと、そして学園のことを考えて作成したものでしたが、これに大きな問題点がありました。”携帯電話を鳴らすつもりなどないのに、携帯電話を鳴らしてしまう”という問題です。携帯電話はその機能上、所有者に呼びかけるため、気付かせるために必ず何かしらの動作を行います。電源を切ること、マナーモードにすることでそれを防止しようと私たちはきっと、軽く考えてしまっていました」

 決して不真面目に取り組んでいたわけではない。
 誰もが真面目だった。
 しかし、”真剣”ではなかったかも知れないと、今では思う。

「しかし、それでは駄目だったのです。ちょっとした不注意や、うっかり何かを忘れただけで、携帯電話は鳴ってしまう。これは私たちの作成した改正案の致命的な欠陥でした。そんな気は無いのに、悪意などかけらもないのに、真面目に学園生活を送る生徒の皆さんに校則を違反させてしまう。それを誘発させてしまう落とし穴に、私達山百合会はあまりにも遅い段階で気付かされました。このとき、形式的ながら反省文を書かせてしまった生徒の皆さんには、山百合会を代表として、深くお詫びさせていただきます。本当に、すいませんでした」

 志摩子はここで再び、深く頭を下げた。
 リハーサルで行わなかった流れであるが、構わなかった。
 どうしても今ここで志摩子は、謝りたかったからだ。
 志摩子が顔を上げると、そのとき、有希子さんと目が合った──。
 携帯電話を鳴らしてしまい、薔薇の館で泣き崩れた有希子さん。
 あんな想いを二度と有希子さんに、そして生徒たちにさせてなるものかと、志摩子はそのとき決意したのだ。

「私たち山百合会は、それから必死に考えました。どうして携帯電話は鳴ってしまうのか。どうしてマナーモード設定を忘れてしまうのか。そもそも、どうして携帯電話を鳴らしてはいけないのか……と。あらゆる可能性を考慮し、出された意見を検証し、私達がたどり着いた結果は、”携帯電話を鳴らさないことは不可能だ”ということでした」

 正しい事実認識。
 自分の立ち位置を見極めることを、ようやくこのとき志摩子たちは成すことが出来たのだ。
 本来これは最初に行わなければならないことなのだ。
 有希子さんたちが、それに気付かせてくれた。

「しかしそれは、道が閉ざされわけではなく、新しい別の道を模索するチャンスを得たという意味でもあります。”どのような状態を作れば携帯電話を鳴らすことを許されるのか”という風に考え方を切り替えることで、道を模索することを諦めませんでした」

 志摩子はすでに、手元の原稿を見ていなかった。
 原稿と同じ事を話している部分もあるし、違うことを話している部分もある。
 祐巳さんならばもっと和やかに、由乃さんならばもっと鋭くスピーチを行ったことだろう。
 だから、志摩子は自分が今、皆に伝えたいことを言えばいい。
 きっとそういう事なんだ。

「……私たち生徒は、携帯電話を学園に持ち込む、という権利を得ました。しかしそれは携帯電話を持つことを強要するものではありません。”携帯電話を自由に持ち込む”という、新しい選択肢を手に入れた、という意味です。携帯電話を以前から変わらず持ち込まない、あるいは携帯電話を持たない、という選択肢も等しい価値を持って私たちの前に提示されています。だから、”自由”とは、選ぶべき選択肢をより広げ、深めていくという意味なのです」

 自然と志摩子は気持ちが高ぶってくるのを感じた。
 自分が言いたいこと、伝えたいことを、完全に自分の気持ちに委ねていた。

「改正前の校則に窮屈さを感じていた生徒さんは沢山いたと思うのですが、とるべき手段、選ぶべき選択肢を狭い範囲で定義していた改正前の校則は、”何かを選びとること”に長けていない幼い子供に向けたもの──いわば、親が子に与える愛情に似たものだったと思います。道を踏み外さないよう、失敗させないようにと最大限の配慮を込められた、慈しみにあふれた校則だったのです」

 まるで、自分が自分じゃないみたいだった。
 改正前の校則の本当の姿にさえ、志摩子はたった今気付いたのだ。 
 私はそれを、こんな大舞台で大勢を前に話している──。

「しかし校則は変わりました。私達が自分自身の進路を自分で考えるように、沢山の選択肢を持つものへと”成長”したのです。これと真剣に向き合うために、私たち生徒も成長しなければなりません。自分で考え、そして選びとること。そう、それが本当の意味での”自由”なのです」

 自分の気持ちが抑えられない。
 私はこんなにも、感情的な人間だったのか。

「今、私たちの前には、無数の道が存在します。中には正しくない道、進んではいけない道も、それと悟らせないように私たちにたくみに誘いかけてきます。しかし私達には、”道を選びとる自由”があります。自分で自分自身のことを考え、そして道を選ぶことが出来れば、誤った道を進んでしまうことは決してありません。ですから生徒の皆さん、考えてください。真剣に考えてください。それにより選んだ道は、きっと私たちに後悔をさせないことでしょう。私はそう信じています」

 自分の話す声すら、まるで自分のものではないみたいだ──と思ったら、志摩子の声は上ずっていた。
 みんなの顔もよく見えないな、と思ったら、志摩子の目からは涙があふれていた。

「私たち生徒が、私たち自身の手で改正した校則が、より自分らしく、そして正しい道を選びとるための力強い一歩となることを願って、終わりの言葉とさせていただきたいと思います。ご清聴、ありがとうございました……!」

 最後に志摩子は、深々と頭を下げる。
 講堂に響く温かい拍手に包まれるように、志摩子は壇上を後にしたのだった──。




 ケータイ革命 完







 ◇エピローグ5


「……でね、この時に左側のボタンが”イエス”の意味になるから、ここを押すの。そうすると、電話番号とメルアドの登録が完了だよ」
「む、無理。とても覚え切れないわ」
「あはは。だいじょーぶだいじょーぶ! 志摩子さんならすぐに覚えられるから」

 その日は、山百合会の活動を行わない日だった。
 通常は山百合会活動の後、乃梨子たちと一緒にバスで駅まで向かうのだが、今日、志摩子の隣にいるのはいつもと違う人──同じ三年藤組のクラスメイトである、桂さんだった。

「でもまさか、志摩子さんが箱ごとケータイ持ってきてくれるとは思わなかった。しかも未開封。志摩子さんってときどき、すごく面白いよね」
「……だって桂さんと約束したもの。最初に桂さんの携帯電話を登録するって」
「あは。ごめんごめん。うん、すっごく嬉しいよ!」

 そう、三ヶ月ほど遡るが、今日のように桂さんと一緒に帰る機会を得たときのこと。
 桂さんが自分の携帯電話を操作していて──そのときまだ携帯電話を学園に持ち込むには申請が必要だったのだが──それを見て志摩子は、「自分も携帯電話を持ちたい」と思ったのだ。
 そのとき、”校則を改正する”という手段を思いついたのだが、当時はなんて自分勝手なのだろうと悩んだものだ。
 しかし今では、校則を改正して良かった、と思っている。
 同じリリアン女学園の生徒といえど、よく知らない生徒と電話番号やメールアドレスを交換することは志摩子にはちょっと荷が重い。
 しかし、こうして桂さんと繋がることが出来、藤組の有希子さんや他の皆とも繋がることが出来る。
 山百合会の仲間たちや──そして乃梨子とも。
 ただ携帯電話を持ちたいという一心で始めた携帯電話自由化の運動だった。
 その過程で様々なことに志摩子は気付かされたが、こうして実際に携帯電話を手にして初めて気付くこともある。
 大切な人たちと繋がること、その大事さ。
 ”大事である”と実感できることの、なんと幸せなことだろうか。
 

「さてさて、この調子でどんどん進めていこうね。私の番号は登録してもらったから、次は着メロの設定だよ!」
「あ、あの、その、自分たちで決めておいてあれなのだけど、私その、着信メロディの設定がぜんぜん分からなくて……」
「うんうん、ああいうのは難しいよね。分かる。でも、しなければいけない事だから。先ずはマリア様のこころをダウンロードしなくちゃね」
「ダウンロード……」

 志摩子が名前だけ知っている単語が桂さんの口から飛び出して、志摩子は目眩に似た感覚を覚えた。
 いつか覚悟を決めねばならないと自覚はしていたが、こんなにもあっさりと、当たり前のように自分がダウンロードと呼ばれるものに関わることになるとは……。
 暑い時期だが、バスの中はそれほど不快ではない。
 しかし、志摩子が汗を──この場合主に冷や汗なのだが──浮かべているのを見て、桂さんは少し手心を加えてくれたみたいだった。

「……うん。いきなりは難しいよね。じゃあその前に、ストラップをつけてみようか。こういうの」
「どれ?」

 桂さんの持つ薄桃色の携帯電話には、キラキラ光る宝石のおもちゃのようなものや、小さな人形が取り付けられていた。

「これがストラップ。ストラップは付属品としてついてくるんだけど、あんまり可愛くないからなあ。何か志摩子さんに似合うのはあったかな」

 そう言って自分の鞄の中をごそごそと漁る桂さんだったが、志摩子はそのとき一ヶ月前のことを思い出していた。
 妹に貰ったものなのだが、鞄の中に仕舞ったまま忘れてしまい、そのままにしておいたあるものを志摩子は思い出した。
 鞄の中からそれを取り出して、桂さんに見てもらう。

「もしかして……これはストラップ?」
「うん? うんそう。狐の尻尾かあ。ふさふさで可愛いね。うん、和風なところが志摩子さんに似合ってる。これどうしたの?」
「実は、一ヶ月前に妹に貰ったものなの。その、色々あってつい忘れてそのままにしてあったのだけど」
「一ヶ月前って、まだケータイが自由になるより前だね」
「そうだけど……」

 桂さんはしばし考えこむ素振りを見せた。
 そして、感心したようにつぶやいた。

「白薔薇のつぼみ……やりおる。多分彼女は、志摩子さんがケータイ欲しがっていたことを知ってたんじゃないかな」
「乃梨子が?」
「うん」

 全校集会でのあのスピーチのあと、「志摩子さんの妹でよかった」と嬉しそうに言ってくれた乃梨子。
 しかし不思議と、携帯電話についてあれこれと志摩子に働きかけてくることはなかった。
 だというのに、全て分かっていて、山百合会として携帯電話自由化のための活動を熱心に行なってくれていたというのだろうか……。

「この糸をここに通して、そしたら尻尾全体を、この糸の輪っかの中に通せば……」
「こうして、こう」
「そう!」

 ついこの間、父に無理を言って買ってもらった、志摩子の薄桃色の携帯電話。
 桂さんの持つ携帯電話が可愛いデザインだったので、同じ物を欲しかったのだ。
 志摩子は、自分が携帯電話を欲しがっていたことを、山百合会の誰にも打ち明けていない。
 それは山百合会の私物化に近いものであり、本来許されることではない。
 だからこそ、志摩子は決めたのだ。
 友を欺き、仲間を欺き、そして妹をも欺くことを。
 あくまでも組織として、山百合会の一員として携帯電話の校則改正運動を行うことで、それを山百合会としての活動の一巻とする。
 私物化や立場の濫用ではなく、それは正しくあるべき姿なのだと。
 様々な経緯があり、やがて志摩子は「本当に校則を改正したい。より良い校則に変えたい」と強く考えるようになったが、最初はただ純粋に、携帯電話が欲しいと思っただけなのだ。
 しかし、乃梨子は恐らく、全てを分かっていた。
 分かっていてなお、山百合会の一人として邁進してくれたのだ。
 志摩子の薄桃色の携帯電話につけた狐の尻尾が、ふさふさと揺れた。

「乃梨子ちゃん、いい子だよね」
「……ええ。私の自慢の妹よ」
「私も、藤組の子たちもみんな、きっと他のクラスの子も、志摩子さんたちにすごく感謝してる。だから志摩子さんは、正しいことをしたんだよ」
「そうなの、かしら。そうだったなら嬉しいわ」
「うん、もちろん。だから記念に写メ撮ろうよ!」
「しゃ、しゃめ?」

 桂さんは、何故か志摩子の方に密着すると、自分の携帯電話を志摩子たちの方を向けて構えた。
 こちらを向いている桂さんの携帯電話の画面には、何故か桂さんと志摩子の姿が写っている。
 いったいどういう仕組みなのだろうと考えたところで、志摩子は桂さんの意図を理解した。

「も、もしかして写真を撮るの?」
「そうだよ。はい、撮るよー撮るよー」
「ちょっと待って、まだ心の準備が……」
「そんなの要らないの。えーでは、祝、リリアンの携帯電話自由化と、志摩子さんのケータイデビューということで!」

 かしゃ、という小気味良い音。
 画面の中の志摩子の顔はかなり間抜けなものだったが、何だかとても楽しかった。



<終>



※2012年3月20日 掲載






▲マリア様がみてる