■風にのって


 佐藤聖という、先輩がいる。
 リリアン女学園山百合会において、ロサ・ギガンティアの称号をその身に背負うその方は、他ならぬ私のお姉さまである。
 ロザリオの授受をしていただいたきっかけは、何だったか。そう、きっかけはきっと私自身だ。佐藤聖という人は、孤独で孤高で、そしてどこまでも美しかった。
 初めて会話を交わしたのは、私が一年生の頃。季節は秋、コートを着込み始めた頃だから、かなり寒い時期だったはずだ。
 そう、あの人は図書館にいた──


「何か、お探しの本はございますか?」
 その第一声は、私にとっては相当に勇気の必要なものだった。憧れの人が一人、図書館で椅子にもたれていた。図書館には私たちのほかに人影はない。だから私は声をかけた。近付きたく思っている人に近づけなかったもどかしさに私は、我慢が出来なかったから。
 言葉尻が震えていたのに、あなたは気付いただろうか。悟られるのは恥ずかしいけど、それがあなたならば、私の中で全てが容認される。
 けれど、
「……別に。本を読むのは、もう飽きた」
 彼の人は、私の顔を見ることもなく……いいや、そもそも私という存在を認識していないようなそっけなさで、私の心に答えた。それだけで、私の寒さに震えていたような心は挫けてしまった。
 泣きたい気持ちを何とか奮い立たせて、私はさらにあなたへ踏み込もうとして、声をかけた。
「……どなたか、お待ちになってらっしゃるのですか?」
 ちらり、と私のことを見やる視線は、何色でもなく、ただ無味乾燥としていた。私に対しては何色も見出していない。話したこともない図書委員の下級生のことなど、あなたは会話を交わす価値さえ見出してはくれなかった。
 あなたは無言のまま。私もそのまま、言葉を忘れた。
 長い、とても長い時間が経ったかのようで、けれど時計を見ればまだ一分も過ぎてはいない。どうしようもなく立ち尽くしていた私の耳に飛び込んできたのは、多少急いだように図書館の扉を開く音だった。
「聖、待たせてしまって御免なさい。部活動が長引いてしまって……」
 その瞬間の──その瞬間の絶望を、私は永劫忘れないだろう。
 あなたの表情は、扉を開けて入ってきた生徒を見つけただけで、まるで花が開くように輝いた。私の姿を映さなかったその瞳は、突如図書館に来訪したその生徒だけを今、映し出していた。
 あなたは、その生徒を、最大限の気持ちを持って迎えたのだ。私とは対照に。
「別に。大して待ってないよ。それじゃあ行こうか、シオリ」
「ええ……聖はまだコートを着ないのね。寒かったら私のを貸してあげましょうか?」
「それじゃあシオリが寒いじゃないか」
 もはや名も知らぬ図書委員のことなど眼中にはなかった。私はただ呆然と、仲睦まじく図書館を後にする二人を眺めることしか出来なかった。
 ──こうなることは承知の上だった。
 佐藤聖が一人の下級生と親睦を深めていて、それは誰も入り込めないほどに深い絆だと。それを知っていたにも関わらず声をかけたのは、それでも私はあなたのことが好きだから。
 妹なんて大それたことは望まない。ただ顔見知りのお知り合いという立場だってきっと、私は甘んじて受け入れただろう。
 けれどあなたは、それすら私に許さなかった。可能性すら残してはくれなかった。
「佐藤……聖、さま……」
 呟いた言葉は、十月の冷たい空気に散った。


 やがて秋は過ぎ冬になり、変わり映えのしない毎日を私は送っていた。
 図書館での一件以来、私は聖さまを見かけても話し掛けることはしなかった。自分以外の他人とすら認めてくれないあなたに話し掛けることは、私の心には辛すぎた。
 けれど何もせずに悶々と過ごすことは何よりも辛いこと。必然的に部活動に打ち込むことになった私に、再び留学の話が持ちかけられたのはこの頃のことだ。
 中等部の頃に私は一度、その話を蹴っている。選択権は私にあったし、親兄弟や顧問の先生、学園長までどうやら見栄や功名心とは遠く離れた人間だったらしく、いまだ決めかねていたその話に関しては、肩透かしを食ったような気分だった。
 実際私は、留学に関してまだ決めかねている。
 けれど、あなたの傍に居られないのならば、いっそ──。


 その噂が広まったのは、年も明けて新学期が始まってすぐのことだった。
 久保栞という一年生が転校した。『とある事情』によりリリアン女学園から姿を消すことになったその生徒は、白薔薇さま、佐藤聖と親睦を深めていたらしい、あの生徒だと。
 そんな噂話を、私は陰鬱な思いを持って受け止めていた。
 大多数の生徒の、安手のゴシップのような受け取り方に嫌気が差したのも原因ではあるが、私の心を占めていたのはやはり、佐藤聖さまのことだった。
 あの方のことを思うと胸が痛くなる。
 いろいろな事が、いろいろな意味で限界を迎えているのかもしれない。想い続けて一年も経てばいい加減慣れも生まれるだろうとは思うのだが、それは一向に叶わずに、すげなく扱われたことで一層、想い慕う気持ちは私の中で日々大きくなっていった。


 だから、それはマリア様の計らいだったのだろうか。
 薔薇の館と校舎を繋ぐ舗装された道の真ん中で、あなたと真正面から鉢合わせしてしまったのは。
 薔薇の館から歩いてくるあなたを見かけたとき、私は呼吸をするのさえ忘れていた。
 辺りには人が居なかったのが幸いして──例え誰が歩いてようと、私の態度は変わらなかっただろうけど。
 ばっさりと切られた髪と。
 まるで別人になってしまったかのような瞳。
 あなたは、その魂の在り方さえ、変わってしまったのではないかと。
 あまりの衝撃に、わたしはあなたの顔をまじまじと覗き込んでしまった。その頃のあの人は、とても他人に気を回せるような精神状態ではなかったはずだけど、
「……なに、何か私に御用?」
 自分を見つめて呆然と立ち尽くす下級生に声をかけるくらいの余裕は、あったらしかった。
 あなたにとってはきっと、何でもないこと。
 ただ目の前で立ち尽くす生徒がいて通れないから、注意を促しただけだったのかもしれない。
 けれど私にとっては、初めての、あなたからの言葉。
 例えそれが苦言であろうと、私を罵倒する言葉だろうと、それはきっと、今と同じように私の琴線に触れてきたはず。
「ちょ、ちょっと何なのさキミは。私の顔見ていきなり泣き出すってのは、あんまりじゃない?」
「え、え? あ……あれ。すいません、その、私は……」
 想い人との邂逅は私に軽いショックをもたらしたようだった。何だか視界が曇るなとぼんやりと思っていただけだったそれは、どうやら私の目から溢れたもののせいであったらしい。
 私に向けられたのは、単なる戸惑いの感情だった。それは当然だろう。目の前でいきなり泣き出されては堪ったものではない。しかも私は、十に満たない子供ではないのだ。学校で泣くなんて、馬鹿げてる。
 それでも。
 どうしたって、我慢することなんて、出来なかった。
 ずっとずっと慕っていた人が、今、私のことだけを見てくれている。ほんの少しでも、あの人の心の中を、私という存在が占めているのだとしたら。
 我慢することなんて、出来はしない。
「あのさ、私が何か気に障るようなことしたのなら、謝るから。その……とりあえず泣き止んでよ。これじゃあ、目立ってしょうがない」
 困り果てたような聖さまの声を聞きながら、私はただ、自己満足にも近い幸せを噛み締めていた。


「静」
 名を呼ばれるだけでも嬉しい。そばに置いてもらえるだけで嬉しい。それはあの時から何一つ変わることのない正直な気持ち。
 けれど、何よりも嬉しいのは──。
「聞いてるの? 静。おーいしずかちゃーん」
 ちなみに、『しずかちゃん』 と呼ばれるのは、あまり嬉しくない。誰もが別の人を、言うまでもなく私自身でさえ、違う誰かを連想してしまうから。
「はい、お姉さま」
 胸に在る小さくて大きな重みを確かめながら。
 頂いたロザリオの心地良い重みを確かめながら、私は答える。


 あの日、私は本当の意味で佐藤聖さまと出遭った。以前に図書館で話したときの時間は、ただ単に届かない思いを再確認させられただけの切ない時間だった。出逢いなどとは到底呼べない代物だったはず。
 それから少しの時間を経て、私は再び、あの人に近づける機会を得た。
 結局それは、感極まって泣き出してしまった下級生と、それに対して戸惑う上級生と言うなんとも形容しがたいものだったけれど、それが全ての始まりだった。
 あの日から私とあの人は、たびたび顔をあわせることとなった。聖さまにしても私という存在は、色々な意味でインパクトが強かったらしく、すぐに名前と顔を覚えてもらった。
 始めは、他愛も無い関係で。顔を合わせれば挨拶を交わして、少し話す。その程度の関係だったけれど。勿論私は、徐々にその程度では満足できなくなり。
 クラブ活動の用事にかこつけて、薔薇の館に足繁く通ってみたり、あの人が通りそうな所を意識して通るようにしてみたり。
 そんな、子供じみたことを繰り返したりした。
「──私には、好きな人がいる。その人とは離れてしまったけれど、今でも私は愛している。だから私にとって静は」
 聖さまは、正直にそう言った。後に続いた言葉はあまり覚えてないけれど、聖さまにとっても私にとっても、苦しい言葉だったのを覚えている。
 けれど私は迷わなかった。
 続いた言葉が何であれ、聖さまにとって私は、一番親しい後輩であるはずだった。ならば、何を悩む必要があっただろうか。
「はい、それでも構いません」
 お受けします──私は、ひとかけらの悩みもなく、そう答えた。
「ありがとう」
 蟹名静が、佐藤聖の妹となった瞬間であった。


 それが、二ヶ月前のこと。三月の始めの頃の出来事だった。
 一ヶ月と少し経った今、聖さまは三年生、私は二年生へと進級した。こういう言い方はよくないと理解しているけど、山百合会の一員としての雑務全般など、私にとってはおまけのようなものであった。
 クラブ活動との両立は並大抵の苦労ではなかったが、それも始めの頃だけの話。一ヶ月も経てば、誰でも慣れるものである。
「静はさ、妹とか作らないの?」
「妹……ですか」
 正直なところ、私自身聖さまの妹となったばかりである。考えも及ばなかった、というのが素直な感想ではあるのだけれど。
「感謝してるんだよ、静には」
 唐突で脈絡の無い言葉だったから、私は意味を図りかねて答えに窮することになった。
「私にはきっと、静みたいに素直に気持ちをぶつけてくれる相手のほうが、もしかすると性に合っているのかもしれない。でもさ、人間って、難しい生き物なんだよ」
 またしても、答えに窮する。気の利いた言葉の一つも、思い浮かばないなんて。
 聖さまの様子は、年の明けたばかりの頃と比べて、随分と健康的になっていた。もちろん精神的な部分のことを意味するのだけれど、それは、私と姉妹の契りを結んだから、と自意識を過剰にしても良いものだろうか。
「気になる一年生がいるのなら、気が向いたら連れてきなよ、薔薇の館に。静のことも気になるけど、静がどんな子を選ぶのか、ってのも結構気になるものさ」


 白薔薇のつぼみとして、妹を持たないわけにはいかない。
 あたかも確定事項のような響きを孕むその言葉は、事実確定事項なのだ。自分の妹のことなど、今の今までついぞ考えたことはなかったが、いつまでも棚上げしたままではいられない。いずれ考えることになるのなら、その機会を得た今が最適だ。
 ──例えばあの人なら、どんな子を妹に迎え入れようとするだろう。
 私は、自分が半ば押し掛けのような形で聖さまの妹になったことを自覚している。他人と距離を置いていたあの頃の聖さまに纏わりついて、無理矢理に居場所を確保してしまったと言うにふさわしい。
 だから、あの人が私を妹として迎え入れたことに対して、何らかの意志はあったのだろうか。たまたま親しい下級生が私しか居なかったから、という理由なのだとしたら、それは悲しいことだけど、私という存在が、少しでも聖さまの受けた辛さを紛らわすことが出来たのなら……いや、出来た、と、思いたい。
「うーん」
 自分の妹のことを考えていたハズなのに、気がつけばあの人のことを考えてる。
 妹を作れと言われても、やっぱり私にとっての一番は佐藤聖という人だけで、そんな私が妹を作るなんて矛盾は、あまり好ましいものではないのかもしれないけれど。
「まあ、気になる子、っていうだけなら、ね」


 ──翌日。
 私は、一人の下級生を伴って、薔薇の館へと赴いていた。
 会議室にはすでにフルメンバー集合されており、先ごろ紅薔薇さまとなられた、水野蓉子さまと、妹である小笠原祥子さん。同じく黄薔薇さまである鳥居江利子さま。それと、江利子さまの妹である支倉令さん。そのまた妹である島津由乃ちゃんが、見知らぬ下級生を連れている私と、その子を交互に、「?」 という視線で眺めていた。
「静、その子は?」
 勿論聖さまもすでにいらっしゃって。私は、その問いに笑みを伴って答える。
「連れてまいりました」
 気になる下級生、という箇所は端折っておく。私にとってこの子が、気になる下級生で終わるのか、それともロザリオを授受すべき相手となるのかは、まだ解らないのだから。
「は、早いね」
 何だか聖さまは面食らっているようであった。早ければ早いほうが良いという理解の元に、この子を連れてきたのだけれど。
 まあ、今更なかったことになんて出来ないし。
「さ、皆さんに挨拶なさい」
 私は、少し居心地悪そうにしていたその子を促す。
 意を決したように一歩踏み出して、そしてその子の柔らかそうな巻き髪が、ほんの少し私の肩に触れる。さわり心地が良さそうな髪だ。後で触らせてもらおう。
「はじめまして、皆さま」
 ややか細く、微かに緊張に震えた声で、その子は言葉を紡ぐ。
 一年桃組の、藤堂志摩子と申します──。


 月日は流れて。
 新しい関係が始まった春と、それほど暑くもなかった夏、不思議と穏やかだった夏が過ぎて、そしていよいよ、学園の行事が目白押しな秋がやってくる。
 この頃は山百合会は加速度的に忙しさを増していて、まさに目が回るようなといった形容が相応しい日常を、私は変わりなく過ごしていた。
 そんな、とある日の出来事。
「静っ」
「お姉さまっ」
 薔薇の館の会議室に一歩足を踏み入れた私は、言い回しは違うが、同じく私を呼ぶ二つの声の二重奏を同時に聞いた。幾分それは、焦っているような響きを孕んでいる。
 私が佐藤聖さまと姉妹の契りを結んだのが今年の二月で、そして私が藤堂志摩子を妹として迎え入れたのが、五月。
 たった半年の間で誕生した、ふた組の白薔薇姉妹。その所為なのかは定かではないが、私を含めてこの三人の距離が妙に近い。
 山百合会のメンバーに限らず、二年生を挟んでの一年生と三年生の関係というのは往々にして微妙になるもので。まあ、ある意味三角関係に近いものがあるのだから、当然と言えば当然の話なのだが。
「……」
「……」
 聖さまと志摩子は、お互いに顔を見合わせた。何故か、タイミングまで計ったようにピッタリだ。
 元来二人とも、あまり他人に近付かないし、尚且つ近づけさせない性質を持っていた。どこか一線を引いているというか、他者の侵犯を無意識に拒むようなところがあったのだが……。
「……白薔薇さま、お姉さまに御用があるのでしたら、お先にどうぞ?」
「いや、キミの方が切羽詰まってそうだし。譲るよ」
「いえ、私に遠慮などなさらずに」
「頑固だねキミ。先輩の好意を、後輩は素直に受け取るものだよ」
「……」
 どうして、この二人は張り合っているのだろう。
 聖さまはともかく、半年前までは他人と張り合うなどということとはかけ離れた存在だった、藤堂志摩子。それが微妙に変わり始めたのはやはり、私と姉妹の契りを結んでからのように思える。
 化けの皮が剥がれて地が出たのか。もちろん、人間は金メッキじゃないのだから、メッキが剥がれて価値が下がる、なんてことは有り得ない。むしろ志摩子にとってはその逆だろう。
 とまあ、そんなことはともかく。
「お姉さまが……」
「静が留学の話を蹴ったって聞いたからさ」
 志摩子の言葉を遮るようにして聖さまは言う。何だかんだで結局出鼻をくじかれてしまう志摩子に、してやったりの聖さま。
 私の留学話は、もう随分と前から言われていたことだ。はじめにその話を持ちかけられたのは中等部の頃。一度は蹴ったその話を、正式に辞退したのがつい昨日のことだったのだけれど。
「どうしてですか」
 多少、責めるように志摩子が言う。
「ま、無理強いするつもりは全く無かったけどさ。せめて理由ぐらいは聞きたいところだね。静の姉としては」
 二人にしてみれば、せっかくの機会を……というところなのだろうが、せっかくの機会だろうが何だろうが、今の私にとってはすでに過ぎ去った過去のこと。
 その理由など、考えるまでもない。


   ◇


「……あなたたちが居るからに、決まってるじゃない」
 リリアン女学園の屋上に、一人の少女が居た。潔く髪を顎のラインで切りそろえた、涼しげな顔の少女。
 その少女は、唄い手だった。
 紡がれるメロディは美しく、けれどどこか哀しげだった。
 季節は師走を間近に控えた頃で、吹き付ける風は冷たい。
 寒空の下少女が想っていたのは、在り得たかもしれない出来事である。その距離は紙一重だったのか、あるいは彼方だったのか。どちらにしろ、少女──蟹名静には知りえないことである。
 所詮は取るに足らない夢想。どんなに願っても届くことは無い。
 白い吐息が、サヨナラという言葉を描く。それは誰に向けられた言葉なのだろう。
 やがて少女は、足早に屋上から去っていった。鉄製のドアが閉じる無機質な音が、誰も居なくなった屋上に響き渡る。
 歌も想いも、すべてはこの風の中に融けて、儚くも消え去る。


 了






▲マリア様がみてる