朝、目覚めた瞬間、直ぐに瞼を開く事が出来ない。開いた瞼の先、その光景が見知らぬ天井だったなら、そんな恐怖に、何時も苛まれる。
 自身の瞼に閉ざされし闇の世界。漆黒の闇の中で膝を抱え蹲り、そして身体を震わせている私が居る。正体の知れぬ恐怖に怯え、恐れ、一人きり。
 だから私は、毎日の覚醒の瞬間が、堪らなく怖い。
 以前それを、とある部活動の先輩に相談した事がある。

「それは、感受性が鋭いってことじゃないかな、可南子ちゃんが。私なんか難しいこと考えない人だから、朝起きたらそうだねえ、『朝だー』、とか、そんな頭の悪い事しか考えないよ。あはは」
「そう……なんですか? 私やっぱり、何処かおかしいんでしょうか」
「もー、可南子ちゃんは繊細過ぎるの。その繊細さ、私にもちょっとくらい分けて欲しいなあ、なんてねっ」
「はぁ……」

 その部活動の先輩──夕子さんと云う、二つ学年が上の先輩だが、彼女に憧れていた私は、その都度、それこそ世迷いのように煮えきらず曖昧な相談を何度も持ちかけた。
 彼女は飽きもせず相談に乗ってくれたが、やはり私の真意は伝わらなかったように思う。元々私自身の中でさえ酷く曖昧で、上手く形を成さぬものだ。自分ではない誰かに理解してもらえる事を、本心から望んでいたわけではない。
 ただ、安心したかっただけなのだろう。人は、例えば大怪我をしたときに酷い苦痛に苛まれたとして、しかしそこに誰かが居てくれたなら、大丈夫だよと励ましてくれたなら、その苦痛は半減するという。
 その気持ちは理解できる。私が夕子先輩に相談を持ちかけた事、つまりその行為が、全くの同質のものである筈だからだ。
 私は夕子先輩を好いていたし、彼女も私の事を気に掛けてくれていたように思う。
 夕子という一人の先輩が、私の中では、先輩ではなく、同性として気心の知れた相手でもなく、もっと特別な何かとして存在が確立するのに、それほどの時間は掛からなかった。

 その後、紆余曲折あり──。

 私は、リリアン女学園という、名門のお嬢様学校と名の知れた教育機関に身を置く事になった。
 高等部からの編入は、リリアンでは極めて異質であり異端だ。そんな疎外感や、あの夕子先輩と仲を違えてしまった事、そして、相も変わらず私を苛み続けていた、覚醒への恐怖。
 様々な要因が積み重なり交じり合い、私は正しく浮いていた。
 リリアン女学園高等部の独自のシステムである、姉妹制度。真っ当な教育機関であれば、俗に言う生徒会に当たる、山百合会という存在。
 それらの、ある種のリリカルな要素に翻弄され、熱に浮かされたようにお喋りに興じるクラスメイトたちは、自分とは別の人種のように感じられた。
 一人だけ──そう、たった一人だけ、自分と同じように、目の前の現実に上手く馴染めずに、戸惑い、そして悩むクラスメイトが居た。
 二条乃梨子というその少女が、どこまで自分のことを意識して、そして同質の存在である私を意識していたのか、それは判らない。
 時折、二条乃梨子と目が合う事が何度かあった。しかし、どうやら元来のポーカーフェイスの持ち主であるらしい彼女の真意は、『単なるクラスメイト』、という距離感に支配されていた私には、どうしても窺い知る事は出来なかった。
 二条乃梨子に対する興味は、私にとっては、単なるクラスメイトの領域を若干逸脱していたように思えるが、しかし、その興味が綺麗さっぱり失せてしまうのもまた、事の外早かった。

「乃梨子さん乃梨子さん、部活動はお決めになりましたの? よろしければ、今日の放課後に、私たちと一緒に部活動の見学でもなさりません?」
「あー、うん。部活ね……まだ考え中だから。取り合えず今日は、遠慮しときます」
「そうですの……乃梨子さん、なんだか万能選手、というイメージですから。どの部活に入っても、素晴らしい活躍が出来ると思いますわ」
「ははは、そりゃ、どーも」
 
 松平瞳子、という個性的な髪型をした少女が、足繁く二条乃梨子のところに通いつめ、そして親しくなっていくのを見るにつれ、私は、私自身の二条乃梨子に対する興味が醒めていくのを実感する。
 ああ、やがてあの二人は、今よりもずっと親しくなり、そして良き友人関係を築き上げるのだろう。
 けれど、こうして私は、彼女たちを遠くから眺めたままに、両の足を地面に縫い付けられている。
 私は、結局──彼女たちに背を向けて、未だ放課後の喧騒に包まれる教室を後にした。

 そして──
 私は、仲を違えてしまったあの人を、あの夕子先輩と、『同じ人』、を見つけた。その人の一挙一動、全てが夕子先輩を私に連想させた。
 その人に近づきたいと思い、守りたいと思い。切っ掛けを得て、そして人並みには親しくなり、そして──。


 そこから先の記憶が、ひどく、曖昧だった。
 断片的な記憶のイメージは、いずれも現実感に著しく乏しい。当たり前に私が関わっていた事の全ては、思い浮かべる度に、記憶と、現在の意識の剥離を意識させる。
 私自身の行動、考えの筈なのに、『それ』、に対する自信がまるで湧いてこない。記憶に主観性が皆無なのだ。
 そう、既製の事実を、暗示に掛けられ信じ込まされているかのように。

 古ぼけた温室で、紅薔薇のつぼみと。
 体育祭前に、クラスの皆を率先して率いて。
 些細な約束で、山百合会の手伝いに赴く事になり。
 学園祭の時に、保健室で。



 そして、手元にある一枚の写真。



「ごきげんよう、紅薔薇さま、黄薔薇さま。お仕事頑張ってくださいね」
「……ごきげんよう。ええ、ありがとう」
 廊下を歩いている時などに、何気なく声を掛けられる事がある。それは、よくよく考えれば至極当たり前の事。何故なら私は、リリアン女学園の高等部における生徒会長、薔薇さまの一人なのだから。
 ”黄薔薇さま”
 周囲の人間たち。一年生や二年生、そして私の他の二人の薔薇たち──紅薔薇さまと白薔薇さまも、私の事を、黄薔薇さまと呼ぶ。

 しかし私は、一体どういう経緯を経て、そんな肩書きを得たのだろうか。
 今の私が黄薔薇さまならば、去年の私は、黄薔薇のつぼみであった筈だが、その頃の記憶は、この学園であの人に出会って親しくさせてもらい、そして、様様な事があったあの頃の記憶よりも、更に曖昧であやふやだった。
 その当時の黄薔薇のつぼみを、島津由乃さまといい、勝ち気で負けず嫌いな性格で、所謂山百合会においても比較的目立つ存在だった。今の私が黄薔薇さまであるから、だとしたら島津由乃さまの妹であった時期、つまりは黄薔薇のつぼみの妹、であった時期があるのが、『必然』、である。

「……ねえ、瞳子さん」
「なにかしら、黄薔薇……じゃなくて、可南子さん」
 隣を並んで歩いていた、同じ薔薇の名を冠する少女、紅薔薇さまである松平瞳子に私は話し掛ける。普段はお互いにその肩書きで呼び合っているからか、唐突に名前で呼ばれたことに戸惑ったようだ。
 瞳子とは、一年生時に子供じみた小競り合いを幾度となく繰り返したものだが、今ではお互いにそれにも飽きたのか、はたまたそういった関係を超えたのか、今では良き仲間、良き理解者として、山百合会のために日々励ましあう掛け替えのない友人である。

「私、ほんとに由乃さまの妹だったのかな……。判らない。あの人の妹である自分が、全然想像できないのよ」
「……また、可南子さんはそういうことを言う。何か悩みでもありますの? 何でも、仰ってください。悩み事の一つも相談できなくて、何が友達ですか」
「悩みとか、そういうのじゃないわよ。ただ、判らないだけ。どうして私が、黄薔薇さまなんて呼ばれてるのか」

 因果の流れが繋がらない。噛み合わない。今の私、黄薔薇さまという称号を得た私が一つの流れの結果なのだとしたら、いわばそこに至るまでの過程が、まるでミッシングリンクのように、すっぽりと抜け落ちている。
「それは……確かに、可南子さんと由乃さまが姉妹の契りを結ぶなんて、私も乃梨子さんも、誰もが予想外でしたけど。あんなに仲が良かったじゃないですか。それが、想像できないだなんて……」
「ヘン……かな?」
「はっきり言わせてください。ヘンですわ」
 もう幾度となく瞳子さんに、そして乃梨子さんにも問い掛けたものだ。本当に私は、由乃さまの妹だったのか、と。
 彼女たちの答えは、いつだって、「何をそんな、今更当たり前の事を」、という趣旨のものだった。友人たちにそう言い切られてしまえば、それ以上しつこく追及する事は躊躇われる。私とて、彼女たちの自信満々な答えを聞くにつれ、「本当に妹だったんだな」、と思い込み自分を安心させる事が、出来ないわけでもない。
「でも……」
「デモもストライキもございませんわ。私は松平瞳子。貴女は細川可南子。こうして薔薇さまやってることは、紛れもない現実で、真実ですわ」
「と、瞳子さん、ちょっと……」
 往来である廊下にて、突然に向き合いそして、私の手をわしっと握り締め、熱っぽく語る瞳子さん。学園ドラマのワンシーンのような光景に、道行く生徒たちは遠巻きに、ひそひそと噂し合う。
 かつての険悪な関係を乗り越えて、麗しくも美しい信頼関係を築き上げた二人として、下級生たちに支持されていることを、私は密かに知っている。そんな私たちを、一歩引いてクールに見守る白薔薇さま──乃梨子さんもまた、同じく支持されている、ということも。
 今も昔も、この現実でも、私の曖昧な記憶の中でも、リリアンにおける薔薇さまの人気は絶大なものがある。

 それは兎も角──
 いつも自信なさげに俯きがちで、いつも何かに怯えている。おおよそ指導者としては相応しくない私が、こうして薔薇さまとしてやっていけるのも、この瞳子さんと乃梨子さんの気遣いのお陰に他ならない。
 彼女たちと交わす事により、私はひと時の安らぎを得ることが出来るのだから。


「遅い」
 薔薇の館の会議室。廊下とを繋ぐ扉を開けた瞬間に、そんな声が聞こえてきた。
 出会ってから二年の時を経た今となっても、その仏頂面は変わらない。冷静で、切れ者で、そして内に熱い思いを秘めた、もう一人の薔薇。
 実質的な現山百合会のリーダーでもある二条乃梨子さんが、私たちよりも一足先に来ており、既に仕事の準備を始めていた。
 かつて、私たちが一年生の頃に、その当時の紅薔薇さまに向かって、乃梨子さんがぶつけた暴言、「年功序列反対!」、というものがある。今でもそれに意識されているわけではなかろうが、兎に角乃梨子さんは、上下関係や先輩後輩、そういったしがらみに囚われない山百合会を目指している節がある。
 妹は姉に絶対服従、姉は妹を導いて然るべき存在、という風潮に満たされているリリアンにおいては、かなり異端ではあるのだが、彼女は元公立中学出身ということを鑑みれば、なるほど納得と言えなくもない。
 かつての山百合会では、こうして放課後に集まるときなどは、妹たちは率先して、姉たちに先んじて薔薇の館に赴きそして、掃除やこまごまとした雑務に勤しんだものである。
 だが、それはおかしい。何か間違ってる。というのが乃梨子さんの考えなのだろう。だからこそこうして、私たち最上級生である私たちが率先して、そういったこまごまとした雑務も進んでこなそう、という風潮に今の山百合会はある。
 私も、そして恐らくは瞳子さんも、人を顎で使うような真似は、どこか抵抗がある。だからこそそういった風潮は、むしろ歓迎すべきものではあった。
 もっとも、そういった風潮は、既に先代の薔薇さま方の頃から見え隠れし始めていたのだが。それをより強く推し進めたのが乃梨子さん、という訳だ。

 遅い、という乃梨子さんの厳しい言葉に、瞳子は軽く手を合わせながら、
「御免なさい。ちょっと、ホームルームが長引いて……」
 しかし、私は気の利いた嘘で誤魔化そうとしてくれる瞳子の気遣いを、遮る。そう、いつまでも自分を誤魔化し続ける事は、出来ないのだから。
「ごめん。私がぐずぐずしていた所為だから」
「可南子さん……」
 脇で瞳子さんがきっと、驚いたような表情で私を見上げているだろうが、私は目の前の乃梨子さんから、視線を逸らす事をしなかった。
 乃梨子さんは何も言葉を発しない。ただじっと、私の視線を正面から受け止めて、そして見つめ返してくる。相変わらず、誰にも物怖じしない瞳を持つ人間だと思う。

「お願い。教えてよ、乃梨子さん。何か私に隠してる事があるんでしょう? 私は、知らなければいけない筈のことを知らない。そして、それを貴女は、あなたたちは隠してる。違う?」
「違うよ。別に私たちは何も……」
「違わないよ!」
 彼女の言葉を振り払い、私は気が付けば叫んでいた。

 ひどく曖昧であやふやで、噛み合わない記憶と馴染めない現実。この世界で、松平瞳子と二条乃梨子だけが、私にとっては確かな実感として受け入れられるものだった。
 私の妹のことも、彼女たちの妹のことも。そして、さらにその妹たちのことも。全く現実感がなかった。彼女たちの姉のこと──藤堂志摩子さまや福沢祐巳さまのことは、辛うじてその実感を、あの人たちの姿かたち、交わしたやり取りを、必死に記憶を掘り起こせば、辛うじて感じる事は出来るのに。
 とある境界線を境に、唐突に記憶の認識があやふやになる。そして更に、また別の境界線を境に、記憶は全く現実感を伴わなくなる。
 前者はおそらく、あの人──松平瞳子の姉である人に出会った頃、そして後者はきっと、そう、”あの写真”、を撮った頃。
 その中でもこの二人、得難い友人だと心から実感している二人のことだけは、私にとっては確かな実感、確かな現実なのだが、時折二人の得体の知れない意識を、気配を、視線を感じる事がある。まるで哀れみのような、同情のような、そんな視線を。
 それが私にとっては、堪らなく怖かった。しかし、その正体を深く追求してしまえば、この二人ですら私にとって曖昧であやふやな虚像に成り果ててしまう、そんな気がして。

 束の間の安らぎを与えてくれる二人はしかし、同時に背筋の凍るような恐怖を私に植え付ける。
 そんな二律背反は私の存在すら不確定にする。
 1=1は証明が不要な定理。私が私であるという定理も、証明不要の自同律である筈なのに、それが、ゆらぐ。
 もしかしたら、本来私が居てはいけない世界である此処。やがて私というイレギュラーは、何かしらの補正力により掻き消され、喪われる。
 喪われる、幻想。

「……可南子さん。いくら貴女でも、そんなことばっかり言ってると、怒るよ」
 乃梨子さんの声色は、微かに震えていた。
「私はね、こうして可南子さんと一緒に、この場所で、薔薇さまとして過ごす事が出来て、本当に嬉しいと思ってるんだよ。だから、曖昧だのあやふやだの、そんなことは……思って欲しくない」
「そうですわっ」
 隣に控えていた瞳子さんに、今度は腕をわしっと掴まれる。
「虚像だろうが実像だろうが、そんなの関係ありませんっ。貴女を消し去ってしまう力が、仮に、もし仮に、そんな馬鹿げたものがもし仮に、存在して、可南子さんを脅かそうとしてるなら、私と乃梨子さんで、それに抗って見せますっ」
 ぎゅっ、と腕を握られる力が強まる。
「こうして私たちの所に繋ぎ止めて、どこにも飛んでいかないように……飛んで、行かないように……飛んで、っく……」
「瞳子さん……」
 いつしか瞳子さんは、私の腕に縋り付くようにして泣いていた。

 ああ、きっと乃梨子さんの怒りも、瞳子さんの涙も、本当に私を慮ってのものなのだろう。しかし、無情にも、彼女たちの同情の視線もきっと、本当のもの。確かなものなのだ。
 何故、どうして私は──。

 ふと気が付けば私は、左の手の中の写真を、力いっぱいに握り締めていた。


 帰宅して、そのまま着替えもせずに自室のベッドに身を委ね、ずっとぼんやりと天井を見上げていた。
 薔薇の館での一件の所為で、くしゃくしゃになってしまった例の写真は、未練がましくも皺を伸ばしそして、今も私の手元にある。
 それを拾い上げて、力なくかざす。

 ”写真の中には二人の少女が居る。一人は背が高く長い髪、何かの答えを見出したかのように、実に晴れ晴れとした表情を浮かべた自分。細川可南子。
 もう一人の少女は、平均的な背丈をした、一つ上の先輩。向日葵のような笑顔を浮かべた魅力的な少女、福沢祐巳。”

 何度も何度も見直して、常に持ち歩いているような状態だからか、既に写真としての手触りは失われている。乃梨子さんと瞳子さんの他にも、確かな実感を得ることの出来るキーアイテム。
 この写真が、私と祐巳さまが出会った頃の事、先代の薔薇さま方の事、その記憶が何かの間違いではない事を証明するものだ。
 しかし、同時に決定的な矛盾を私に突きつける物でもある。
 この写真は、私なりの祐巳さまとの決別の証であった筈だ。夕子先輩との違えていた仲が修繕され、父親とも和解できて。その上での私なりの一つのケジメ、一つの答えなのだ。
 だから、その答えを出した筈の私が、それ以降山百合会に関わる可能性は、絶対に有り得ない。でなければこのような写真を撮られる事は、断固として拒否した筈だ。

「っ……」
 頭が痛い。説明のつかない矛盾に、記憶と意識とこの写真の存在の不合理性に、私の脳味噌は軋み、悲鳴を上げる。
 私は思考を強引に打ち切って、ほんの僅かな睡魔を捕まえようと躍起になる。眠ってしまえば忘れられる。眠りは全てを遮断してくれる。

 しかし、私は心の何処かで諦めている。
 また明日の朝になれば、直ぐに瞼を明ける事の出来ない恐怖に苛まれる事になるのだから。

 


 1/
 
 猫がじいっと此方を見ていた。
 毛並みはみずほらしくほつれ瑞々しさは見受けられない。長期間放置されくすんだスプーンやフォークのにびいろを連想させる色合い。
 所々黒み掛かりまた、同じような割合で所々灰色掛かっている。
 どうやら首輪は填められていないらしく、傍目に如何にも野良猫という雰囲気を充分に醸し出していた。
 街灯に仄かに照らし出された自宅の庭に野良猫が一匹。窓ガラス越しに此方をじいっと、微動だにせず私を見つめている。
 可南子はそれに気付き、思わず食事の箸を止めた。ありふれた一軒屋の居間で一人夕飯を食べていた可南子だったが、一寸可笑しな珍入者によりそれは中断される。
 余談だが可南子は丁度、鮭の切り身を一欠片砕いて箸でそれを挟んだ所だった。
 父も母も兄弟も祖父母も居ない一人きりの食事だったが、可南子にとっては慣れ親しんだ食事風景である。稀に母親が居ることもあるが、それは一週間に一度でも有れば僥倖と言える程の割合だ。
 兄弟はなく一人っ子だったし父親は居ない。
 両親は可南子が中学の頃に既に離婚していた。

 ところでその野良猫は未だに飽きもせず此方を見詰めていた。
 何処の馬の骨とも知らぬ野良の事なぞ無視して味気ない食事を続けても良かったのだが、何故か先程ほぐした鮭の切り身を口に運ぶ気分になれない。
 例えば発展途上国にて腹を空かした子供たちの前で一人食事なぞ取るのは、さぞかし食欲の湧かない光景であろう。要するにその様な状況である。
 箸を置いて可南子は一人きりの食卓を後にする。
 目指したのは台所の戸棚。そこを開くと香ばしい薫りが可南子の鼻腔に届く。
 そこに有ったのは袋詰にされた煮干である。二つばかり煮干を抜き出して今度は庭を目指す。猫と言えば煮干。そんな彼女の思い込み。
 サンダルを突っ掛けて庭に急ぐと、果たして猫は相変わらずその場に鎮座していた。体勢は変わらずに首から上だけが今度は此方を向いている。まるで置き物の様だと可南子は思う。
 ゆっくりと彼女は近づいていくが猫は逃げる素振りも見せない。
 どうやら相当に達者な年齢に達しているようだが、畜生も十年近く生きると、ある種の達観の境地に辿り着くのであろうか。
 おや人間が寄って来たぞ。お主若い身空で随分と苦労しておるようじゃのう。顔に出ているワイ、とでも思ってたら面白過ぎる。
 老猫の前に煮干を一つ置くと、暫く猫はそれをじいっと眺めていた。猫の癖に随分と深い目をしているなあと可南子は思う。
 ひとしきり前足で煮干を弄んだ後に、それをひょいと咥えて猫は可南子に背(?)を向けた。食べるのだろうか捨てるのだろうか。もしかしたら顎にガタが来ていて、あんな堅いものは奴の趣向には合わないのかもしれない。
 ふむ煮干かのもう歳じゃから堅い物は喰えんのじゃよ。しかし折角の人間殿の好意じゃ無下にも出来まいて。ひとつ頂いておくかのう、とでも思ってたら興味深い。
 そのまま老猫はひょこひょこと歩いて行く。意外なほどに足取りはしっかりしていた。十歩ほど行った所で猫は尻尾を一振り、そして此方を振り向いて、にゃあと一つ鳴いた。
 ──お主、名を何と云う。
 そう問われた気がした。
「可南子。細川可南子と云います」
 なんで敬語?
 ともあれ猫はそれを受けて又一つにゃあと鳴いた。
 流石に何と言ってるかサッパリ判らない。可南子は残念ながら猫の名になど精通していなかった。
 老猫は何事もなかったかのように庭の茂みへと消えていった。
「──へえ、バルログって云うんですか。変わったお名前ですね」
 仕方なく可南子は勝手に命名した。
 街灯に薄く照らされた庭には、煮干を一つ握り締めた少女一人が残される。老猫の姿は既に何処にも見えない。
「……こんなもの、美味しいのかしら」
 手の中の煮干を転がしながら可南子は一人呟く。その時彼女は、居間に残してきた食べかけの鮭の切り身を思い浮かべていた。


 細川可南子の両親は、彼女が中学生の頃に離婚していた。
 如何なる理由で彼らが離婚したのか、一人娘である可南子はほぼ正確に把握していたが、かといってそれを他人事のように客観視し、あるがままに受け入れることが出来るほど、彼女は達観していなかった。
 両親の離婚。その理由が、彼女の人格形成に多大なる影響を与えているといっても過言ではない。
 結局可南子は母方に引き取られる形となったが、それはむしろ必然である。
 俗っぽい言い方をすれば、両親の離婚は父親の浮気に原因が有る。
 価値観の相違、性格の不一致など、普遍的な離婚の原因はこの世に掃いて捨てるほど転がっているが、その中でも原因の大多数を占めるであろう浮気、不倫。愛人の存在。
 しかし、細川家の場合は一寸特殊であり、父親の浮気相手は、娘が慕っていた部活動の先輩なのである。
 果たしてその事実が可南子にどんな影響を与えたのか、誰もが気になるところではあるのだろうが、この際今回はそういった下りをばっさりと端折ろうかと思う。
 人により見解の差は大きいだろうし、実際今現在の細川可南子は、一人の高校一年生、細川可南子として生きているのだから、今の彼女を在りの侭に受け入れるべき……ではないだろうかと、僭越ながらここに宣言しておきたい。

 父親は心から慕っていた先輩と手を取り合って家を出た。残されたのは彼女と、彼女の母親のみ。
 母親は日々飲んだ暮れて、可南子にとっては決して世界は過ごしやすい場所ではないらしい。
 リリアン女学園内でも、何だかんだで苦労したらしいし、タイミング良く可南子は、リリアンにおいての細川夕子という存在を踏まえた、偶像崇拝に近い存在、福沢祐巳と、『友達宣言』を交わしたばかりである。
 それが、『姉妹宣言』ならどんなにか良かったことだろう、と思う人は決して少なくはないだろう。
 しかしまた、姉妹宣言でなくて良かった、と思う人も居る筈である。
 どちらにも属さない人も、勿論居るだろう。

 しかし、誰もが一様に気にしているであろう事実、”細川可南子は一体、この先どうなってしまうのだろうか”、と。
 彼女は彼女なりに答えを見つけたらしいが、果たして彼女に近しい人物たち、そして私たち読者は、納得しているのだろうか。
 彼女はこのまま──このままでいいのだろうか。
 世界に味方されなかった細川可南子は、どちらかといえば俯きがちな、決して明るくない青春を強いられ今日に至る。
 そんな彼女がこの先俯かず、日の光をいっぱいに浴びて生きていけるのだろうか。
 生きて欲しい、と誰もが思う。誰もが希望する。
 細川可南子は俯かない。
 そこに至る言わばこれは、希望的物語である。

 物語は、彼女のクラスメイト、二条乃梨子の視点を借り受けて語られる。



未完

解説
 冒頭だけ『明日に向かって〜』と一緒です。ここから向こうに持っていったと言うべきか。ミステリーっぽい導入だけど、トリックを完全に忘れてます。何か考えていたはずなんだけど……。






▲マリア様がみてる