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 『カナコ』


 ・回想(1)

 憧れている先輩がいた。
 バスケ部の先輩であるその人は、明るくておおらかで暖かくて、とても優しい人だった。
 けれど、バスケのことになると、とても厳しい人だった。
 毎日ハードな練習をこなしていたその人は言うまでもなくレギュラーで、私にとってはそんな先輩と一緒にバスケが出来ることが、何よりの誇りだった。
 私は補欠だったけれど、いつか先輩みたいに上手く、恰好良くなりたい。毎日そんな風に思っていた。
 私がずっと憧れていた人、夕子先輩。
 やがて夕子先輩は部活動を引退されて、今度は私たち二年生がメインとなって部を盛り立てていく番だ。夕子先輩は、受験で忙しいだろうに、ちょくちょく部のほうへ顔を出してくれた。
 私にとっては──レギュラーの座を得ることの出来た私には、それが何よりも嬉しかった。

 ”可南子ちゃんは、絶対レギュラーになれるよ。背も高いし、運動神経すごくいいもの。私なんて辛うじてレギュラーになれただけだから。正直言って、ちょっと可南子ちゃんが羨ましいの。背も低いし、体力もない私にとってはね。だから、頑張ろ? 来年の我が部のエースは、可南子ちゃん、あなたしかいないよっ”

 苦しい練習に耐え兼ねて、部活動を辞めようかと真剣に悩んでいた時に、夕子先輩が私に掛けてくれた言葉。私にとっては、一つの切っ掛けとなった言葉。
 だから、正式にレギュラーの座を掴み取る事が出来て、いろんな人に、『バスケ部の二年生エース』なんて呼ばれるようになった私が今存在するのは、全部夕子先輩のお陰。
 練習でも試合でも、先輩が見ていてくれれば、例えどんなに辛くたって頑張れる。
 そう、大好きな貴女が見ていてくれさえすれば、私は──。
 ただただ楽しかったあの頃。バスケが楽しくて、先輩と会えるのが、何よりも嬉しくて。

 そんな夕子先輩も、やがて卒業してしまわれた。
 私は中学三年生になり、最後の半年間、悔いの無いよう精一杯頑張ろうと決意を固めていた時。
 ふと、おかしな噂を耳にした。
 ウチの中学を卒業した人で、とんでもない問題を起こした人がいるらしい。
 その人は、自分の父親ほどに歳の離れた男と関係を持って、妊娠したとか、しないとか──。


 気分が悪い。
「カナコちゃん」
 だから気分が悪いって言ってるのに、どうしてこの人はいつまでも私に構うのだろう。
 近寄らないで欲しい。私の傍に寄らないで欲しい。
 頼むから私の名をその声で呼ぶな。気分が悪い。

 
 父親の周りに存在するようになった女性の気配を、私は以前から漠然と感付いてはいた。
 私の父親と母親は、一年ほど前から別居状態にある。
 父親はかつてバスケットの全日本選書としてその名を一部に轟かせており、自分が引退した後も大学や高校のバスケ絡みのツテを辿り、後進の育成と称してバスケットに関わり続けていた。
 母は結婚する以前にはとある業界最大手とも言われる一部上場企業、俗に言うエリート企業に勤めており、その職場では非常に高い評価を得ている人間だったらしい。
 そんな二人が何処で出会ったのか私は知らないが、父は結婚とともにバスケからは遠ざかり、母は退職して主婦となった。
 程なくして私がこの世に生を受け、以降十数年大事なく育ててもらったのだが、徐々に家庭に軋轢が生じ始めたのは私が小学校の高学年になった頃のことだった。
 私がそろそろものの分別のつく年頃になりそれなりに手がかからなくなると、父は忘れていたバスケットへの情熱、そして母は会社組織の一員となって働く事での自己表現意欲をくすぶらせ始めていた。
 そんな二人の意識が家庭から一度でも逸れてしまうと、実にあっけないものだった。
 実質的な実入りのないボランティアのような、父のバスケットのコーチという傍目に道楽とも取れる生業と、家事のややおろそかになり始めた、仕事に再び情熱を燃やし始めた母。
 その後の経緯は言うまでもない。まるで通俗的なドラマのような展開が細川家を待っていた。
 噛みあわない父と母の話し合いは、重ねれば重ねるほど両者のすれ違いと家庭のほころびを生む。仲睦まじかった父と母がろくに顔も合わせなくなるのに一年とかからなかった。
 元々母方の持っていた土地に建てたこの家から父は出て(半ば追い出されたようなものだ)、夫婦は別居状態となった。
 ぶっちゃけた話、私は父も母も好いていた。バスケに燃える父親は格好良かったし、私とて女は家を守るべき生き物だ、などという古臭い伝統に縛られるつもりは毛頭ない。仕事に生きいつまでも若々しい母親もまた、同じように格好良かったのだから。
 二人は仲をたがえてしまったが、私との距離は変わることは無かった。
 その当時の私には何処に消えたのかようとして知れない父の跡を追う勇気など持ち合わせていなかったし、一人で家事に仕事にと駆け回る母のそばを離れようとも思わなかった。
 しかし、父親の行方は気になった。
 母にそれを思い切って聞きただすと、実にあっさりとその場所を教えてくれた。現実主義でクールな母親は、私に父親と住み暮らしても良いと促してくれたりもしたが私はそれをきっぱりと断った。
 正直、私には選べなかった。だとしたら同じ女の性を持つ母親に無意識に肩入れしたのだろうか……。
 二人とも人の親として私にとっては不満はなかったのだから、だとしたらこの家に留まるのが筋というものだろう、と、その当時のなけなしの社会常識を振り絞って結論を出した記憶がある。
 結局私は母親と暮らす事になった。けれど父親とは週に一回は会っていたし、とある大学でバスケのコーチをしていた父親が、何の因果か私の中学の部活に、臨時コーチとして呼ばれる機会もあった。やはり血筋なのか、私もバスケに夢中だったのである。
 だから私にとっては生活が大きく変わったわけではない。
 結局現実はドラマのようにドメスティックではなくて、例え両親が別居しようが、その子供にとっては日常はあくまでも日常で、平凡な積み重ねで成り立っているのだと、妙に拍子抜けしたりもした。
 そうして幾ばくかの月日が流れた。

 中学三年生、そろそろ受験シーズンの到来となり、そのとき母親が私をリリアン女学園に通うよう強く勧めたのは、あるいは父親への、かつての自分の夫への意地もあったのだろうか。名門のお嬢様学校であるリリアン女学園の出身とあらば、大学を出てその後働くにしろ何にしろ、とにかく社会において一種のステータスになるものらしい。つまりはちょっとした親心なのだろう。
 しかし私には、その気持ちを簡単に受け取るわけには行かないのだ。
 母親の気持ちは充分に理解できたが、そもそも公立高校と私立高校では費用の面で雲泥の差がある。
 ただでさえ母親への金銭的、そして肉体的精神的にも負担が大きくなっているというのに、私がそんな大それた所へ進学しようものなら、母親へ皺寄せが行くことは火を見るより明らかだ。
 何よりリリアン女学園へ通う理由が見つからない。
 名門の女子高であることは重々知っている。幼稚舎から大学までの一貫教育と、穏やかな校風、質の高い教師陣を謳い文句にしているリリアン女学園と云うところは、兎角閉塞的な場所と称されることが少なくない。
 外部受験で中等部からリリアンに入るのは、それなりの、いや相当の学力が必要となる。
 或いはリリアンの内部にコネクションでも持っていれば、そこは私立の学校機関だ。ある程度の融通は利くのであろう。
 決して勉強に熱心に励んだ記憶はなかったが、私の成績は決して悪いものではなかった。
 が、飛び抜けて良い訳でも勿論ない。少なくとも今のままリリアンを受験して合格出来る程の学力ではないと、客観的に判断した。
 どう断ったものかと悩んでいたのが、中学三年生の秋頃のことである。
 部活動も引退して、私はごくごく普通の一生徒として、残り少なくなった中学生活を気ままに過ごしていた。
 受験勉強は勿論日々こなしていたが、元々レベルぎりぎりの高校を目指していたわけではないから、内心至って気楽なものだった。
 学力ギリギリのところに入ろうものなら、日々勉学に追われねばならない。それでは一寸困るのだ。
 これ以上母親だけに負担をかけるわけにはいかない。
 仕事に家事にと毎日忙しなく走り回っている母親を少しでも助けたい。そのためには、私の方に余裕があって有り過ぎるということはないだろう。
 だが母親の気持ちを無下にするのも、どこか躊躇われた。
 こういうときは父親に相談するに限る。いざというときイマイチ頼りにならない人だが、少なくとも私の倍以上は人生を歩んでいるのだ。意見を伺ってマイナスになるということはない筈だ。

 夕方頃に軽い気持ちで父親の住む家を訪れて、勝手知ったる何とやらで玄関を開けたところで、私の足は、いいや私の思考はピタリと停止した。
 ──女物の履物。
 以前から漠然と感付いていたことではあった。父親の周りの女性の気配を。
 父親の今のの住処であるアパートに私は何度も入ったことはあるが、ある時を境に違和感を抱くようになった。
 元々父親は几帳面な人だったから、部屋はいつ訪れても綺麗に片付けられていた。
 だが、ある時からそこかしこに父親のセンスではないものを感じるようになった。それは食器の重ね方や調度品の置き方一つとってみても明白である。
 そこにあったのはそっけなくて飾りっ気のない男所帯ではなく、柔らかな女性的なセンスだった。つまり、父親にはそういう相手がいるということになる。
 別にショックなどない。むしろ父の前妻の娘としては嬉しいのである。やけばち気味に人生を過ごされるよりは、第二の伴侶でも得たほうが余程健全だろう。
 結局その日は私は何も言わず引き上げた。そろそろ夕飯時。それを済ませば、つまりは夜である。邪魔するのも野暮だろう。
 相手がどこの物好きかは知るすべもないが、娘としては、あんな父親ですがヨロシク、といった気持ちである。
 そうだ、明日の朝あたり突然押しかけて驚かせるのも悪くない。そんな風に軽く考えた。
 父親は朝に弱いから、出てくるのはきっとその相手だろう。果たしてどんな女性だろうか。
 30代? それとも40代のおばさん? 流石に20代というのは有り得ないとは思うが、ハタチ過ぎたばかりの見目麗しいお姉さんが出てきたらどうしよう。
 そんな風に、気楽に私は考えていた。そう、まだその時は。


 明けて翌日、私は父親の住む安アパートの前にいた。
 果たして築何十年経過しているのか。木造建築のそれはあちこちに綻びが生じており、それこそ私が全力で体当たりでもしようものなら、バラバラに砕け散ってしまいそうに貧弱な佇まいを見せていた。
 少なくとも、震度7の地震には到底耐えられそうにもない。
 錆び朽ち果てる寸前のぎしぎしと軋む階段を一歩一歩慎重に上って行く。言うまでもなく父親は貧乏なのだ。
 程なくして父の住むアパートの一室の前にたどり着く。
 柄にもなく少々緊張しているようだった。あの父親がそうそうイカレた女性を傍に置くとも思えないが、




 十数年を生きてきた中で、お腹が痛くなるほどに笑ったことも有るし、涙零れるほどに悲しい出来事に遭遇したことも勿論有る。
 自分はそう感受性が鋭い方ではなかったと思っていたが、だとしたら今私が感じている、この体中を得体の知れない撫で回されているかのような嫌悪感は一体何だろう。
 こんな感覚は生まれて初めてだ。
 沸騰しそうなほどに怒りが込み上げてきそうで、けれど心は凍り付くほどに底冷えていて、眩暈がして倒れそうなのに、五感は酷くクリアだ。
 遥か遠くに聞こえる車の排気音は鮮明なのに、目の前に居るこの人が恐らくは喋っているであろうことが、一向に耳に入ってこない。

 これは一体何だ。
 目の前に久しく遭っていなかった先輩が居る。世界で一番尊敬している、私の大好きな人が。
 そう、こんな場所には一番不釣合いな人だ。こんなところに居てはいけない。居てはいけない。絶対に居てはいけないのだ。

「カナコ……ちゃん。これは、あのね」

 目の前に夕子先輩が居る。私が朝早くに父親の家を尋ねて、勿論玄関には鍵が掛かっていたからインターホンを押して。
 ゆっくりと開いていく扉の向こうに現れたのは、私にとってとても良く知る人だった。
 私は只見つめることしか出来ない。上手く思考が纏まらない。こんなにも脳に負担を掛けたことがかつて有っただろうか。

 そもそも始まりは何だ。私は昨日の夕方、進学についての相談をしに父親の住む家を訪れた。
 しかし父親の家には、私の良く知る人物、つまりは父親と、そしてもう一人知らない人物が居たようだった。
 その人は恐らく女性であり、平たく言えば父親の女だ。
 二人がいい仲なのは構わない。かつては家族だった人が新しい家族を持つ、それもまたいいだろう。
 そんな感慨を抱いて、昨日私は結局父親に会うことなく引き上げた。
 そうして今日、父親の相手の物好きを一目見ようと、こうして朝早くから押しかけてきたのだ。

 だが父親の家から出てきたのは私の知らない女性ではなくて、とてもよく知る人物だった。
 私とたった一つしか違わない人。私が子供だというなら、この人だってまだまだ子供だろう。
 勿論私にとっては尊敬と憧れの念を抱かせてくれるほどに大きな存在だが、果たして父親にとってこの人と私の差異はあるのか。
 それは実の娘と娘の先輩だとか上っ面だけのものではない。
 父親にとって、果たして女としてこの人──夕子先輩と私に差異はあるのだろうか。

「カナコちゃん」

───ぁ。

 とてもとても──車酔いなんて生易しいものじゃない。壷の中に毒虫をありったけに詰め込んで最後に一匹生き残った其れは毒そのものである。
 体中をくまなく毒素で覆われたかのようにそれが浸透して、けれど私は毒虫などでは断じてないから毒を喰らえば死に絶える。
 耐えることなど出来ない。耐えることなど出来ない。

「カナコちゃん、話を聞いて。おねがいだから……」

 硬直したままの私の二の腕に夕子先輩が触れる。
 世界中の誰よりも大好きな人に触れられているのに、心も身体も温かみを感じることは皆無。私が実感したのはただ、全身に浮かび上がった鳥肌だけ。ただそれだけ。

「──触らないで、気持ち悪いッ!」

 私は夕子先輩の手を力いっぱいに、無我夢中で振り払った。
 それでも鳥肌は消えてくれない。触られた感触の名残だけでも、この人を視界に収めているということだけでも、身の毛のよだつようなおぞましさは消えてくれない。
 夕子先輩は、かつて目にしたことがない程に悲しげな表情を浮かべていた。だが罪悪感などない。そんなものを感じられるほどに今の私の心は余裕を持ち合わせてはいない。
 私は遠ざかった。あの二人の住処から。
 私は逃げ出した。あのオゾマシイモノたちから。
 父親は一体先輩に何をした。そんなものは言うまでもなく決まっている。男と女が一つ屋根の下に居ればやることは一つだろう。
 そう、以前に聞いたことがある。私たちの先輩で、自分の父親ほどに歳の離れた男と関係を持ったという少女の噂話を。

「──ぅ」

 あの二人がベッドの上で裸になり重なってるのを想像して、私は胃の中のモノを全て吐いた。




 ・松平瞳子


「……ふぅん。やっぱり貴女、とっても手癖が悪いのね」
 一年松組と廊下を繋ぐ扉、それを後ろ手に閉めて私は、教室内に一人残っていたクラスメイトに声を掛けた。
 その生徒──松平瞳子は私の声を聞くと、一瞬だけ身体を大きく震わせたが、直ぐに居住まいを直して挑戦的で生意気な瞳をこちらに向けてくる。挑戦的と言うよりむしろ、敵対的か。
「ごきげんよう、細川可南子さん。こんな時分に教室にお越しになって、何かお忘れ物?」
「ええ、貴女が今さっきまで漁っていた、私の鞄をね」
「随分と心外なことを仰いますのね。貴女の鞄になど指一本触れてはいませんわ」
「そうね。私の鞄に大した物が入ってるわけでもないしね」
「……」
 瞳子さんは唇を噛んでこちらを睨みつけてくる。半年ほど前に彼女は、ごく一部の生徒の間で泥棒と陰口を叩かれていた事がある。ただそれだけだ。

 ああ、面倒くさい。

 この松平瞳子というクラスメイトとはどうも馬が合わない。かれこれ半年ほどクラスを同じくして机を並べているクラスメイトであるはずだが、口を利いたことは数えるほどしかない。
 さらに、その数少ないやり取りは、概ねこうした皮肉めいたようなものだ。
 春先に瞳子さんは、白薔薇さまの妹候補とまことしやかに囁かれていたクラスメイト、二条乃梨子さんの回りをうろちょろとしていた事があった。
 どちらかといえば当の乃梨子さん本人もその当時、鬱陶はしく感じていたらしいが、彼女が白薔薇さまの妹におさまった今では二人、仲の良い友人関係を築き上げているように見える。
 同じ高校受験組だからというわけではないが、どこかしら二条乃梨子さんには近しいものを感じていた。
 親しい間柄ではない。日常の事務的な会話をこなす程度の関係だが。
 あの頃の乃梨子さんは、瞳子さんだけでなく、世界の全てを鬱陶しく払いのけるような雰囲気を纏っていた。
 白薔薇さまとの逢引はさぞかし満たされるものだったのだろうが、それでも学園生活の一部分に過ぎない。乃梨子さんにどんな事情があったのか知る術もないが、何かしら世界と彼女を隔てる壁が存在していたのだろう。
 それでも彼女は世界と折り合いをつけて真っ当な学園生活を享受している。
 私はこうして今も、そしてこれからもきっと燻っていることしか出来ない。

 なんだ、結局は嫉妬か。

「気になるなら、読んでみれば」
 私は自分の鞄から一冊のノートを取り出して、それを瞳子さんに渡した。嫌われていると思っていた筈であろう私からのアプローチに、瞳子さんはやや狼狽しているように見える。
「これ、何のノートですの?」
「只の日記帳よ」
 それだけ言い残して、鞄を引っ掴んで私は教室を出ようとするが、瞳子さんに二の腕を掴まれ阻まれる。癪に障る。
「何よ」
「こんなもの……いきなり渡されたって、どう扱っていいのか困りますもの。瞳子は貴女に嫌われてることが、ずっと気になってて、それで」
「結構じゃない。嫌い合ってる者同士は、そういう風にお互い振舞えばいいのよ」
「嫌ってなんか!ただ、瞳子は……」
 ああ、どうしてこうも五月蝿いんだろう。瞳子瞳子と、一々耳障りだ。
 貴女は私じゃなくて乃梨子さんを選んだ。温室育ちでお人好しばかりのクラスメイトの中で、私と乃梨子さんはあの頃正しく浮いていた。
 それでも貴女は乃梨子さんにばかり付き纏い私には近づいて来ようとさえしなかった。
 所詮、業の深さか。乃梨子さんのそれよりも私のそれの方が、明らかに根が深かったのだろう。
 何にでも首を突っ込みたがる貴女は、乃梨子さんに関わりそして山百合会に自分の居場所を作ろうとした。
 私に関わらなかったのは親しくなったところで得るものが何も無いと判断したのか、それともこの私の中に巣食った業の深さを恐れたのか。

 温室からふらふらと帰ってきてみれば私の鞄を意味深げに見つめている瞳子さんが居た。
 嫌われているであろう相手の鞄に何を見出したのか知らないが、手癖の悪い彼女の事だ。私の鞄の中に何か状況を打開出切る何かが入っていたとして、それに手をつける事に躊躇いはないだろうし罪悪感も恐らくはほぼ皆無なのだろう。
 自分の行動が誰かを救えると思って事実救えたのなら。そう、乃梨子さんの時のような結末を迎える事が出来たのなら彼女の良心は彼女を責めたりしない。
 所詮彼女にとって結果が全てなのだとしたら、だとしたらそうそう上手い結果など転がってはいないという事だ。それをこの機会に教え込んでおく必要は有る。
 私がこの世界の法律ではないという事など百も承知だが、ものを知らない少女にきちんと現実を教えてやることくらいは誰の許可も必要あるまい。

「暇だったら読んでみれば。そのノートは貴女に差し上げるから」

 まだ何か言いたげな瞳子さんに背を向けて私は教室を去ろうとする。正直、今日は誰とも話したくなかった。ひどく神経が磨耗しているようだ。誰も居ない家で泥のように眠りたい。


 翌日以降。
 瞳子さんは私と目を合わせることをしなくなった。
 彼女にとって中途半端だった私との関係はようやく、今日をもって明確なものになったらしい。
 気持ち悪い。近寄りたくない。いやらしい。
 ほら、耳を澄ませば彼女の心の声が聞こえて来そうだ。
 あの日記帳は私にとっては世間一般的な日記帳と何ら変わることが無い。その日起きた出来事、それに対して何を思ったのか。そんなことをありのままに綴ったに過ぎない。毎日几帳面に日記をつけているわけではないから、あの日記帳には中学時代のことも残らず記載されている。
 昨日はあんなことがあったから幾分私は自棄になっていて、だから瞳子さんに自分の日記など押し付けてしまったのだが後悔などしていない。
 そう、いつまでも過去にうじうじと拘泥し日記など持ち歩いていた私は、昨日あの紅薔薇さまに否定されたのだから。
 だから日記帳を捨てた。そして中途半端な関係だった瞳子さんと私を決定的にするためにそれは再利用されたのだ。全く合理的で効率のいい話じゃないか。
 状況は打開された。
 私じゃない。彼女が率先して打開したのだ。
 今も乃梨子さんと楽しげに話してる彼女自身の手によって。



 ・回想(2)

 父とあの人の間に子供が出来たらしい。
 自分の父親ほどに歳の離れた男との間に子を成したあの人は、そうそうに高校を中退し今では半ば駆け落ち同然に父親のアパートに身を寄せているとか。

 母親の様子はそれ以来何処かおかしかった。
 かつての夫が自分の娘と同年代の女を孕ませたことが母に何を思わせたのか知らないが、少なくとも私をリリアンに通わせようという熱意だけは倍増したように見える。
 それは歓迎すべきことだ。私も今ではリリアン女学園に通いたいと強く思うようになっていた。
 部活動に明け暮れた夏が終わりクラスメイト達も粗方進路に関しては決定している。言うまでもなく私もとある公立高校を受験する旨は担任に伝えてあり、それに合わせて準備などは進めていた。
 だからこそ突然に変更すると言い出した私に対して担任は面食らったようだった。無論リリアン女学園に高等部から編入できるほどの学力は持ち合わせていなかった私だが、そもそも全国規模でみたとしても高等部からリリアンに入学しようと考える人間はごく一握りだ。
 狭き門に比例してそこを目指す者も決して多くは無い。しかも受験者の多くは親や親族を通してリリアンに何らかのコネを持つ者ばかりだ。
 幸か不幸か私の母親も、そういった『何らかのコネ』を持つ者の一人だった。
 部活動に精を出し、やや過分な評価ではあるがバスケ部の事実上エースとまで言われた。学業に対してはそれ程率先した覚えは無いが、私の成績はそれほど悪いものでもなく、むしろ友人同士でテストの成績など比べれば、大概は私が勝っているものだった。
 あとは今後残されている中間、期末テストとその後に控えているリリアンの受験に備え学力を高めればいい。素行とて特別はみ出した覚えは無い。問題は何も無い。
 父親とあの人のことを一時でも忘れられる受験勉強は、私にとっては実に気楽な作業だった。

 父親はあれ以来何度も私に会いたがったようだったが、どうやら母親が頑なに拒否していたらしい。
 私と一つしか違わないあの人を女にした父親が、今度は我が娘すらも手篭めにするのではないかと母親が被害妄想に囚われたのかどうかは定かではない。
 運動神経に自信はあったから父親にそう簡単に組み伏せられる危惧などしていなかったが、それでも私の身が父親に狙われていたなどという思いに耽ると言うまでもなく気分はどぶ川のように澱む。
 無論父はそこまで恥知らずではないだろうが、どちらにしろ男など下半身でしかものを考えられない低俗な生き物だと私は悟った。
 あの人の胎の中の新たなる生命はその象徴だ。


「……どうだった、可南子」
 迎えに来てくれていた母の車に乗り込むやいなや、母は待ちかねたように言った。
「ん、悪くないよ。手ごたえはあった」
 余り答える気もしなかったが、わざわざ迎えに来てくれた母親をないがしろにも出来まい。当り障り無く平静を装って私は答えた。当然だが母からは明らかに肩の力が抜けたようだった。
「そっかそっか。手ごたえはあったか。うん、今日はご馳走にしなきゃね」
「普通でいいよ」
 任せておきなさい、などと言って母は嬉しそうに車のギアをローに入れる。その後カラカラと音を立て母の愛車、十二年落ちの小豆色のスプリンターマリノが発進する。いい加減クラッチ周りにガタがきてるようである。母のハンドル捌きは普段の5割増で軽やかだったが、朽ちる寸前の愛車の方は心もとない走りをまざまざと見せつけてくれる。言うまでもなくうちは裕福な環境には置かれていないのだ。

 今日はリリアン女学園高等部の入試、筆記試験の行われる日だった。
 昨日の夜から試験が始まるまで自分でも不思議なくらいに心は落ち着いていた。自信が無いわけではなかったし、体調も万全だった。或いは私は本番に強いタイプだったか。
 迎えなど要らないと母の好意を始めは断ったのだが、しかし母は頑として自分の主張を譲らなかった。
 物心ついてからこっち、どちらかといえば放任主義の人なのかなと私は母親を評価していたが、ここ最近の面倒事を経由した今では、むしろ過保護ではないかと思えるほどの態度を見せる。
 その変化を受験を控えた娘を慮ったのかと捉えれば自然に思えなくも無いが、自然と形容するにはいささか急過ぎる嫌いがある。
 計らずしも十代そこそこの女子供に夫を掠め取られた形になり、後には自分と自分の一人娘が残された。
 母は何を思う?

「可南子は何が食べたい?」
「別に何でも……ううん、豪華な食材」
「食材?」
「うん。豪華な食材を使ったお母さんの料理が食べたい」
「あはは……そうね。うん、そうしましょう。二人でゆっくりご飯食べるほうがいいよね」
「うんうん」

 例え母が私に拘ろうとあの人に女としての嫉妬心を抱こうと、それが一体何だというのだ。こうして私が母の期待に答えてリリアンへの編入を目指し、母を慮って会話に答えてやるのは純粋な親孝行じゃないのか。
 しかしだとしたら、半年前に考えていたリリアンへの母の薦めを蹴って公立高校を目指し、母親を助けてやりたいというあの思いは何処に行った。この矛盾は一体何だ。
 ──ならばこれは親孝行でも何でもない。最後に残された可南子という一人娘が自分に反発し手の届かないところに行ってしまえば、最早親孝行どころの話ではない。母親に残された最後の砦がこの私なのだとしたら、それを失った母は間違いなく自棄の念を抱くだろう。母にとって私はきっと人形と同じなのだ。住む場所も着る服も全てを思うがままにできる予め肯定が義務付けられている存在。それを母は、自覚していない──。

 私は、私が心配だった。
 しかしそれ以上に、今は母親の事が心配だった。

 私がリリアンを目指したのは母の所為ばかりではない。男という生き物に心底嫌気が差した私の気持ちは嘘ではない。だからリリアン女学園を目指したのだ。少なくとも三年間男と関わる必要がないと初めから判っていればこれほど気が休まることもない。
 時折カラカラと嫌な音を立て車は母と私を乗せて走る。
 よく晴れた日の午後、運転席に座る母はすこぶる上機嫌だった。取り留めの無い雑談の交わされるさなか、まるで当たり前のことのように母は言った。
「母さんね、お父さんと離婚したから」
「……そっか」
 母の事が心配だった。


 父のアパートに行く事にした。夕子と話がしたかったからだ。
 土曜日、授業は午前中で終わり、父親が休日出勤で家を空けているであろうと見越してアパートに行くと、予想通り夕子が一人で──正確には二人か。ふたりぼっちで留守番をしていた。二人ぼっちで、泣きながら。
 夕子の性格からして父の前では泣かないだろう。あの鈍感が夕子の気持ちに気付くとも考えに難しいものがある。
 所詮まだ17の娘だぞ?
「まさか、離婚するだなんて……思ってなかったの」
 無意識にだろう。夕子は自分の腹部に両手をそっと添えて、搾り出すように言った。私も半ば無意識に、その部分を見つめてしまう。
 まだ、外見上の変化は見受けられなかった。
 夕子の服装が腹部を圧迫しないようなものであるということ以外は。
 今更ながらに夕子は自分が一組の夫婦を壊してしまった存在だと自覚したのだろう。夕子が何を思って父親に抱かれたのか知らないが、世間一般ではそれを浮気と呼ぶのだ。
 夕子は妻子ある男に惹かれ愛し合った。
 しかし繰り返すが所詮17の世間知らずの娘だ。惚れた相手に家庭がある、という本当の意味を十分理解していたのかどうか疑わしい。
 好き合っていれば何もかも許されるのは、子供同士のママゴトのような恋愛のみだ。夕子には、愛した男の社会的立場や家庭のことなど、考えもつかなかったのかもしれない。 
「可南子ちゃんにもきっと、たくさん迷惑かけてるよね……。私、なんにもわかってなかった」
 それはもっともだと思ったが、今の夕子に辛らつな言葉をぶつけるのは、何故か躊躇われた。
 夕子の中に夕子でない別の生命が居るからか? 父と夕子の間に存在する命はきっと、私にとっては快いものではないはずだ。
 しかし、今の夕子に精神的負荷をかけて、例えばお腹の中の子に悪影響があってはただの不幸の上塗りになってしまう。
「私としては、先輩があのロクデナシのどこに惹かれたのかが気になるな」
 夕子は大きな目を更に大きくした。私にもう一度先輩と呼ばれるとは思ってなかったか、そもそも私にきつい言葉でもぶつけられるとでも思っていたか。

 懐かしむように夕子は語った。
 中学を卒業して高校へと進学して、まだバスケットを続けていた事。上背はなかったが、スピードとパステクニックではチーム1との定評のあった夕子は中学時代に文句無しのスタメンだったが、高校バスケに舞台は移り必然的に周囲のレベルは底上げされ、夕子のそういった特徴は薄らいでしまった。
 自分より上背があり、尚且つ自慢のスピードでも太刀打ちできないチームメイトもいた。努力だけではどうしても覆せない差を、夕子はまざまざと見せ付けられることになった。
 集中力と熱意が一瞬でも途切れたのか、夕子は部活中に怪我を負った。決して軽くない怪我。日常生活に支障はないが、今後激しい運動に耐える事は出来ない。医師の診断はそのようなものであった。
 努力の人だった夕子のそれはしかし報われる事なく、夕子はバスケットコートから去らねばならなくなった。が、その人望をきっと皆が惜しんだのだろう。夕子はマネージャーとして部に留まりつづける事になった。
 しかしそれは、苦痛だろう。本来ならコートで縦横無尽に動き回っていたはずの自分は、今では離れたところでチームメイトのプレイを見ていることしか出来ない。もし私があそこに立っていれば。素早いパス回し、ディフェンスを掻い潜りゴールリングを目指す。自分で決めるか、それとも最後のパスを出すか。
 夕子はそう思うだけで、実際に動くことは出来ないのだ。すでにバスケプレイヤーでない夕子は。
 そのときに出会ったのだ。夕子と父は。

「……あとは、可南子ちゃんの予想通りだと思うよ」
 照れたように夕子は言った。すでに母となった今でさえやはり、17の娘にとってはその後の経緯は恥ずかしいものなのか。


 夕子を残して私はアパートの一室を出た。話したい事はまだあったが、じきに父が帰宅するだろう。それは困るのだ。
 あの二人が仲良く並んでいる姿は見たくない。辛らつな言葉をぶつけてしまうかもしれない。
 私にとって夕子はやはり先輩で、そしてきっと私はあの二人を許してはいない。二人と個別に会うことは抵抗はないが、二人と同時には会いたくない。
 きっと夕子は離婚の事で心を痛めているだろうと踏んで、久しぶりにこの部屋にやって来た。ひどいことを言いに来たわけじゃない。妊娠中の女性にとっての一番の毒は、煙草と精神的なストレスなのだから。
 それでも、ここまで許せているのに、どうしてもあの二人の関係そのものは許す事は出来ないでいる。
 気持ち悪い。吐き気がする。おぞましい。
 その感情は私の中に根を下ろすのだろう。父のしたこと。夕子のされたこと。
 それは、私の中に、深く深く根を下ろすのだろう。


 
 
夕子先輩の事。あこがれていた先輩。卒業する。妙なうわさ。
家の問題。仕事に出たい母親。父親は家でごろごろして働かない。バスケの後進の育成だとか。
両親は喧嘩ばかりで上手くいかない。父親はやがて出て行く。母が追い出したような形。
バスケをする父親は格好良かったが母親のほうが正しいのだろう。
中学ではバスケをしていた私。父が臨時コーチでやってくることもあった。
半ば両親は別居状態だったが私はあまり辛くは感じてなかった。少なくとも私は。
父のアパートに感じる女性の気配。
母はリリアンに通うよう私に強く勧める。
しかし私は普通の公立でいい。母をできれば助けたい。
父のアパートで夕子先輩に出会う。

瞳子と可南子のこと。
涼風の時期。

父と母が離婚した。母は妙にさっぱりとしていた。より一層リリアンに通うよう進める。
妙に母が過保護になった。
リリアンを受験。
夕子先輩の身体には父の子が宿っている。
母は表向き平静だが裏では崩れ乱れている。訳のわからない男からの電話がある。
母が心配だった。
夕子に会いに行く。夕子は泣いていた。
まさか離婚するなんて。
馬鹿じゃないの貴女は。父の子を宿した貴女の存在がそうさせたのに。
父の浮気相手という自覚もないのか。
夕子のこと。バスケのこと。
貴女は貴女でやればいい。私は私で生きていく。もう関わらないで欲しい。
もう住む世界が違うのだ。もう手一杯だ。
誰も私に関わるな。
リリアンに入る。春。バスケ部に入る。
レベルが低い。こんなものか。つまらない。
誰ともつるむ気がしない。つまらない。
母は私の雰囲気を敏感に察知する。私の所為だと自分を攻める。
徐々に母は壊れている。疲れる。
バスケの練習中にあの人、祐巳様に出会う。
夕子に似ている。忘れていた。だからこんなにがむしゃらに練習してたんだ。
夕子と父の間に子供が生まれた。
それはきしくも母の日の事だった。

レディゴの時期。
祐巳とのこと。涼風でのつまらないこと。
あの人を守りたい。あの人をみていると心が温まる。だからあの人を守らねばならない。
しかし失われた。もう要らない。
母はあまり家にいない。
もうやめてしまおうか。バスケもリリアンも。
家に帰ると父と夕子がいた。母は居ない。
母との事を話す。母は今留置所にいるらしい。
私をリリアンに入れたことで緩んだ母の緊張はそのとき知り合った男によって崩れた。
薬をやっていた母の男とともにその手のパーティーに出席したところに警察のがさ入れがあった。
幸い母からは薬物反応は出なかったが、それは最後に残された私とのためなのか。
だから可南子、おまえががんばれ。お金のことは父が何とかするらしい。
私は突っぱねた。もうあんたたちとは世界が違うんだ。私を捨てた貴方たちは貴方たちでかってにやればいい。
父と夕子を追い出す。
母はげっそりとやつれて帰ってきた。罪悪感だろうか。
うわさは広まった。私におかしな視線をむけてくる生徒が居る。
瞳子さんの目だけが何かを訴えていた。
私は率先して体育祭の練習に取り掛かった。誰にも負けたくないから。
祐巳さまとの約束もある。もう私は来年はリリアンにいないだろう。その決心はある。
これが最後だから。祐巳さまとの約束の×ゲーム、私は、素直にこの人との思い出が欲しいと思った。
二人で写った写真が欲しいと思った。
体育祭が終わる。祐巳さまの笑顔は私のくたびれたこころをほんの一瞬だけ暖かにした。

学園祭の時期。
母はすっかり様変わりしていた。穏やかに死を待つ病人のようにも見えた。
仕事にも行かず家のことを過不足なくこなし、そして私の帰りを待つ。
奇妙にルーチンワーク的だった。
だが私は、母が家に居てくれた事で安心していた。来年はリリアンに居ないだろう。
どこかの夜学に通いながら働いて母と二人で暮らすのも悪くなかろう。
母はもう充分に悩み苦しんだ。だから私が助けてあげよう。
母はただ笑顔だった。
何か、胸騒ぎがした。
馬鹿みたいに騒々しい学園祭だった。
夕子に追いかけられて父はリリアンにまでやってくる。
馬鹿だ、と思った。なんて馬鹿なんだ。赤ん坊まで抱えて。
娘の名は次子だった。
いろいろ叫んだような記憶がある。父には来て欲しくなかった。こんな場所に似合う分けなかろう。
だから馬鹿だ。馬鹿だから、いとおしい。
いつしかあの人たちへのわだかまりは私の中からなくなっていた。
なんだか平和だった。

ナイフで母に刺される夢をみた。
目が醒めると真夜中。母が包丁を持っていた。
夜食を作ってあげようと思って。
私は総毛だった。
父と夕子のところに逃げ込む。
父と夕子は次子を挟んでこんなに幸せそうなのに。自分だけが。自分と母親だけが。
自分自身が憎らしい。なにもできなかった私が憎らしい。私が母を追い詰めていたんだ。
一度父の知り合いのカウンセラーに母を診てもらうことにした。

母は田舎の療養所に住む事になった。
家の中が空虚だった。
最近瞳子とよく話すきがする。
乃梨子さんもいる。なんでだろう。
母が療養所に入った。それは一般には精神病院とおもわれてもしかたない施設だった。
うわさは広まった。だれも私に話し掛けてこない。
ただ瞳子はよく目にする。
瞳子と会話。妹オーディションなんてものがあるらしい。
祐巳と話す。この人は私を暖かくする。だから私はそばに居ないほうがいい。
どんなうわさが立つか判らない。あのときはうわさを捻じ曲げねじ伏せたがいまはもうそんな気力もない。
疲れていた。

瞳子がゆみにロザリオを貰ったらしい。うわさはまたたくまに広まった。
私は辛くなって早退した。もう何もみたくない。
いい姉妹になるだろう。わたしなんかよりもずっと祐巳さまにおにあいだ。祝福しよう。
父と夕子と次子は平和な家族だ。わたしなんかいないほうがいい。
私だけが誰も居ない。母はもういない。私の所為だ。
わたしなんかいないほうがいい。
誰にとっても。
無理やり瞳子に連れ出された。もしかしたら由乃さまの妹が決まるかもしれない決定的瞬間がみれるかもしれないなどと口八丁上手く丸め込まれて。
瞳子は多弁だった。なんだか私も少しだけ笑った気がする。
ふと見下ろすと、令様が一本勝ちしていた。

さっきまでいた夕子を帰らせた。父が心配するだろうからだ。
みんな守るべき愛でるべき誰かが居る。
私だけ誰も居ない。母はもういない。
みんな卑怯だ。
そしたら瞳子が来た。
祐巳のロザリオの授受を蹴ったらしい。
あなたのいないうちに姉妹の契りを結ぶなんて卑怯ですから。
祐巳さまも一度祥子さまのロザリオ授受を蹴ったらしいから、これくらいで丁度いいんです。
あの人も頑張って悩んで苦しめばいいんです。
私はそう簡単にあの人の妹にはなってやりませんから。


未完

解説
 後半はプロットですが、そのまま掲載。ひたすら暗いです。ラストだけ『明日に向かって〜』の一部と同じになるようだけど、ちょっとバランスが悪いですね。だから没にしたのかも知れない。


 




▲マリア様がみてる