■妹オーディション前夜
-発端-
◇01
薇の館からの道すがら、島津由乃はふと足を止めた。
別に足を止めたかったわけじゃない。好き好んで足を止めたわけじゃない。
目の前に突然の闖入者が現れたからこそ、嫌が応にも由乃の歩みは止められてしまったのである。
「ごきげんよう、黄薔薇のつぼみ……島津由乃さま」
そいつの登場は、余りにも唐突だった。唐突過ぎたからこそ、由乃の思考は完璧にせき止められてしまった。
長くてまっすぐな、クセの無さ過ぎる髪をお下げにしている由乃とは異なり、そいつはクセの無い髪をやや短めに切り揃えていた。
由乃よりも頭半分ほど上背があるように見える。
自分のことをさま付けで呼ぶと言うことは、由乃にとっての下級生、つまりは一年生ということになるのだろうが、どうしてか見下ろされてるような気分に襲われるのは、単に背丈の差だけではないらしい。
こちらを見据える視線は自信に溢れたものであり、少なくとも由乃背負う山百合会幹部の一人、という肩書きに気圧されている様子はうかがえない。
はっきり言って、そいつに隙はなかった。
「……ごきげんよう」
慎重に由乃は言葉を返す。
何を考えているのかさっぱり読めない割に、こちらに叩きつけてくる敵意……と呼ぶのは語弊があるかもしれないが、なにやら含みを持たせたような威圧じみたものはビシバシと叩きつけてくる。
付け入る隙は見つからない。
一目見たときから解り切っていた事だが──そう、あえてこの目の前の少女を、由乃にとっての、『敵』 と認識するならば、これは相当に難攻不落の強敵である。
一瞬の油断もままならないと、由乃は自分に言い聞かせる。
「はじめまして。一年の良妻詩乃、と申します」
「詩乃さん……ね。私のことは知ってるみたいだから、自己紹介の必要はないわよね」
詩乃と名乗ったその少女は、薄い笑みを浮かべて微かに頷いてみせる。
その仕草すら洗練され過ぎていて、ひどく癇に障る。
癇に障ると言うことは、自分自身が気にしていると言うこと。気にしていると言うことは、それはつまり、『とても印象的だった』 ということに他ならない。
それもまた、由乃にとっては不快感を煽る動かしようの無い事実。
それとは別に、由乃に神経を逆撫でる事実が、いまのところ、おおよそ二つばかり。
一つは多少イライラする程度の事実。
そしてもう一つは、どうしても許しがたい程にイライラする事実。
だが、現段階でそれらを指摘し排除するのは、まだ早い。
つとめて平静を装って、由乃は少女に問い掛けた。
ある程度見知った相手に限らずとも、自分が相手をしている人間の真意など、注意深く観察すればあくまで大まかに把握することなど容易いと、由乃は常々思っていたのだが──。
「実は、私──」
その少女の口から放たれた言葉は、由乃にとってはとてもじゃないが予測しきれるものではなかった。
「──ぜひ、由乃さまの、妹にして頂きたいと思いまして」
◆01
「由乃さん」
「……」
「おーい、由乃ちゃーん」
「……」
「おいこら聞いてんのかナイムネの由乃っ!」
「聞いてるわよこのバカーー!!」
聞き捨てるに値するほど下らないが、しかし聞き捨てならない言葉を聞いて、由乃はつい大人げなく怒鳴ってしまった。
怒鳴られた相手はというと、由乃のいきなりの剣幕に驚いたのか、完全に硬直してしまっている。
まあ、硬直させたって構わない相手だから別段問題はないんだけれど。
「問題大有りよっ。何いきなり怒鳴ってんのよ、ああびっくりした。馬鹿は由乃さんの方よふん、ばーかばーか」
硬直させても構わない相手──田沼ちさとさんは、やけっぱち気味に言いたい放題罵詈雑言をぶつけてくる。
ここは剣道部の部室。
剣道着に身を包むのも重苦しい防具を身に纏うのも、由乃の細腕には手に余る竹刀の扱いも、ようやくそれらしくなってきたここ最近。
今日も今日とて部活動に汗を流し、現在部室で着替えている最中である。
だがその着替えも、しつこく由乃に絡んでくる誰かさんのせいで中断してしまっているわけなのだが……。
「……はぁ。いいわよいいわよ。どうせ由乃さんにとって私なんて、目障りな恋敵の一人よね。『由乃さんの令ちゃん』 を狙う不届きな輩の一人に過ぎないのよね」
「いや、そこまで言ってないけど」
「胸が重い、じゃなくて気が重いわ……ふぅ」
「……むむっ」
確かにちさとさんは、カップサイズにして由乃の二回りはあろうかという、非常に女性らしい身体の持ち主ではあるのだが。
「ごめんなさい、ちさとさん。私、言いすぎたかもしれない。ごめんなさい。許して。そんなに落ち込まないで」
「由乃さん……」
「大丈夫よ、胸なんて飾りだもの。結局は脂肪のカタマリなんだから」
「……」
そうして騒がしい着替えをやりすごして、由乃とちさとさんは、肩を並べてリリアンの銀杏並木の立ち並ぶ道を歩いていた。
あんなことがあった昨日、そして今日。部活動中に塞ぎこむことの多かった由乃を見て、おそらくは何か思うことがあったのか、ちさとさんは今日に限って(というか、彼女と時間を共有しているときは、いつものような気もするけど)妙に絡んでくる。
さっきだって根掘り葉掘り聞きだそうとしてるのが見え見えだったから、故意にシカトさせてもらってたのだが……んん? シカトってのはすべからく恣意的なものであるはずだから、故意にシカトという日本語はおかしいかな、なんて由乃がどうでもいいことを考えてると、
「ほら、またそうやって考え込む。今日の由乃さん、ちょっとオカシイよ。いつも程々にはオカシイけれど、やっぱり今日は際立ってオカシイよ」
「オカシイって連呼するな」
まるで由乃が頭のオカシイ人みたいではないか。
右も左もわからない剣道部において、初めに由乃に手を差し伸べてくれたのが、他でもないちさとさんだった。
あの頃は丁度、令ちゃんとは気まずい状態で、尚且ついきなりしゃしゃり出てきた黄薔薇のつぼみに、部員全員が距離を置きたがって、割と孤立無援真っ盛りだったのだ。
令ちゃんのことはともかくとして、もしかりにちさとさんが剣道部に籍を置いていなかったら、早々に由乃は剣道部から逃げ出していたかもしれない。
それ以来影に日向に支えてもらって、どうにか由乃は剣道部において身の置き場所を確保することが出来た。
別に孤独を恐れたわけではない。人恋しさなど結局は一時の気の迷いと切って捨てることは辞さないつもりだし、由乃は充分に一人でやっていく自信はあった。令ちゃんは部長兼エースという立場もあり、一人だけを贔屓することは出来ない。
なにもかも承知で剣道部に飛び込んだつもりだったが、やはり部活動というモノは、たった一人でいきまいたところでそれは部活動としては成り立たない。
足並みを揃える意味でも、やはり一人ではちょっと上手くないのだ。
そういった点で、田沼ちさとという少女はやはり、由乃にとっては得難い人物だったのだが……。
「さあ、私の胸に飛び込んできなさい。青い性の悩みから恋の悩みまでどんとこい。まとめてこの私が引き受けてあげる」
とまあ、こんな感じで、なにかとちさとさんは由乃に絡んでくる。
それがまだ見当違いのことばかりのたまうようならば、早々に縁を切っているはずなのだが、こう見えてちさとさんは、一見ふざけているように見えて中々に鋭い。
お道化てるように見えてその実、的確にツボをついてくるものだからたまらない。
(ま、話のタネにはなるかな……)
極力ちさとさんの知的好奇心を刺激しない方向で、昨日の放課後に遭遇した少女のことをかいつまんで説明してやったのだが……。
「由乃さんの妹に立候補!? これはリリアン女学園始まって以来の、未曾有の……大事件だわ!!」
「……」
どうやら、説明をしくじったらしい。
「やばいわよ由乃さん。うかうかしてると、またしても鞄漁られちゃうわよっ」
「いや、少なくともそういうコトするような人には見えなかったから……」
ていうか私の鞄いじったのはアンタんとこの妹だろうが。
時は数ヶ月ほど遡る。
あれは、由乃が剣道部に出入りするようになって直ぐに起きた出来事だ。
ある日、部室のロッカーに置いておいた由乃のスポーツバッグが、何者かの手によりイタズラされたことがあった。
一見すると解りやすい事件。剣道部にとって島津由乃という人間は絶対的にイレギュラーだったから、そういった人間関係の軋轢を要因とする事件が起こるのは、ある程度は予測済みではあったのだが……。
あの事件は、『二面構造』 だったのだ。
それが、ちさとさんと、今では彼女の妹に収まっている一年の子の関係を問い質すものになった。
由乃の鞄云々は、まあ端的に言ってオマケみたいなもんだ。
「……ところで、その後葉子ちゃんとは、どう?」
話を逸らそうと思った。
「ん、そうね、客観的に見て悪くないと思う。あの子も今じゃ、そんなに私にべったりっていう感じじゃないし。少なくとも、ロザリオ叩きつけられるような状況じゃあないわ」
「ふうん、それは重畳。上手くやってるなら何よりよ」
八つ裂きにされた由乃の鞄も、浮かばれることだろう。
「でもね、今は私のことはどうでもいいのよ。問題はあなたの方でしょう」
「そうね……。いきなりあんなふざけたのが接触を図ってくるとはね」
そう言うと、ちさとさんはらしくもなく真面目ぶった表情を浮かべ、小さく首を横に振った。
「違う違う。由乃さん、一体どうするの」
「何が?」
「……あなた、本当に妹を作る気があるの?」
◆02
我が家に辿り着き、家の人間たちへの挨拶もそこそこに、由乃は自室に引っ込んだ。
色々と詰め込まれたスポーツバッグを床に投げ出して、同じように自分の身体もベッドの上に投げ出す。制服がしわになるとか、そういうことを考えるのさえ億劫だった。
「妹作れない病、か」
先ごろちさとさんに言われたことを、由乃は反芻する。
妹を作る気があるのか。
突然現れた気に食わない奴、良妻詩乃を抜きにしても、果たして由乃自身、能動的に妹を作りたいと思っているのか。
「あいつに、せっつかれたから」
あいつとは言うまでも無く、先代黄薔薇さま、鳥居江利子だ。
いつだって由乃にとって気に食わない立場に居たあの人は、あろうことか由乃の妹問題にさえ首を突っ込み始めた。
それはまあ、百歩譲って大目に見てやるとして、だ。
”妹が欲しいのか” と問われてしまえば、由乃としては、『NO』 と言わざるを得ない。
だって必要ないじゃない。
姉が妹を導くだとか、そういうのにはほとほと興味を持てないというのが、由乃の正直偽らざる思いだった。
紅薔薇の姉妹──小笠原祥子さまと福沢祐巳さん。これは正統派だ。祐巳さんが祥子さまに抱く想いは、一言で表して『憧れ』。
あんな風になりたい、あんな風に振る舞えたらと、彼女は祥子さまの妹になる前からずっとずっと思っていたという。
そしてそれは、姉妹となったいまでも変わることは無い。祐巳さんは祥子さまをお手本とし、そうして見て聞いて話したことを自分の中で昇華させ、一歩また一歩と自身を高めている。彼女と親しくなったのが一年生の二学期も終わりに近付いた頃。それ以来時間を共有することのとても多い仲だから、そういった彼女の成長ははっきりと見て取れるのだ。
対して祥子さまも、そういった祐巳さんの期待と憧れに答えるべく、自身を戒め、姉として毅然として振る舞う。まったく、良く出来た理想的な姉妹だ。
もう一つのケーススタディ、白薔薇姉妹の場合は──。
こちらはまるっきり異端である。これほど姉が妹を導くという構造に当てはまらない姉妹も、ある意味では珍しい。
彼女たちはきっと、お互いがお互いに等身大なのだ。姉>妹という典型的な力関係に基づいたものではなく、あくまでも姉=妹なのだ。というよりも、姉と妹と言う形式的なくくりさえナンセンス。
姉妹という関係は、恋人ではなくましてや親友でもなく、しかし家族的でもない。けれど志摩子さんと乃梨子ちゃんの関係は、姉妹という関係すら陵駕している……というよりも、『逸脱』 と形容するに相応しいかもしれない。
志摩子さんは様々な葛藤があったらしいが、結局姉になることを選んだ。その選択が間違っていたのか否か、それは今の彼女を見れば一目瞭然である。
祐巳さんは今、重大な岐路に立っている。それはもしや、彼女の一生すら左右してしまいかねない選択である。
そんな同い年の仲間を横目に、一体私は何をしている?
姉としてのスタートを切って、順調に走りつづけている志摩子さん。
ようやくスタートラインに立ち、何処に向かって走ろうかと前向きに考えている祐巳さん。
なのに私は、何処にも居ない。
スタートラインにすら立っていない。
あえて無理矢理に当てはめるならば、私のいる位置はそう、観客席だ。
それぞれに自分の走るべき道に思い馳せている二人を、ただ遠くから眺めてるだけ。
最低。
下の下じゃん。
だってしょうがないじゃない。私には志摩子さんのように下級生と運命的な出会いを果たすことは叶わなかった。かといって祐巳さんのように、その人望で妹候補たる下級生と親しくなることは出来なかった。
結局私だけ、いつまでたっても中途半端。
どことなく浮き世離れした彼女たちに比べて自分は、現実的だと思う。そうそう運命なんて転がってはいないから探したりしないし、誰とでも打ち解けることの出来るなんてスキルは、ほんの一握りの人間だけが持つ魔法のようなものだ。
私には運命を引き寄せる力は無かったし、他人と気安く打ち解けるなんて特技も持っていない。
以前誰かに、労働力の為に妹を持つの? なんて驚かれた覚えがある。
しかし、労働力の為に妹を持って、何が悪いんだろう。これといって導きたい下級生も居ないし、ましてやそういうのを抜きにして、お気に入りの下級生だっていなしない。
妹にしたい下級生なんていないのに、やれ妹を作れとせっつかれるならばいっそ……。
「……いっそ、オーディションでも開いちまうか」
自分の思いつきについ、苦笑いがこぼれる。
新聞部に根回しして記事を作らせる。いざと言う時の味方が欲しいから、祐巳さんと志摩子さんには概要を教えて、こっちサイドに引き込んでおく。二人の驚く顔が目に浮かぶようだ。
勿論頭の固い三年生諸氏には教えてやらない。オーディション開始五分前くらいになら、教えてもいいかな。
そうしてオーディション当日──。
果たしてどれだけの一年生が、薔薇の館に集まるだろうか。
押すな押すなの大繁盛になったらこれは面白い。何人か従順そうなのを見繕って一人一人差し向かいで面談する。趣味と気の合いそうなのを選びたいところだがやはり、山百合会幹部ともなれば、それなりのルックスも必要である。そのあたりを考慮して……。
或いは誰一人として集まらなかったなら、それはそれで笑える。そうなれば由乃は、令ちゃんが卒業した後はスールなしの三年生として真っ当に黄薔薇さまとしての責務を果たし、そして妹を作らないで好き勝手にやった稀代の薔薇さまとして、長きに渡る山百合会の歴史に、新たな1ページを刻み込むのだ。
「まあ、そんな戯れ言は置いといて」
くだらない妄想にピリオドを打って、さてどうしようかと、というか何をどうすればよいのかと思ったところで携帯が鳴った。ベッドに腹ばいになったまま床に投げ出したままの鞄を漁り、携帯を引っ掴んでまた、ベッドに身体を沈める。
仰向けになって携帯のディスプレイを見ると、そこには三文字の平仮名が表示されていた。
『ちさと』
「う〜ん」
このまま鞄に仕舞っちゃおっか。
志摩子さんと祐巳さんは携帯を持ってなかったから、彼女たちとはあまり電話で話さない。本当に、連絡用に留まっている。というかそもそも彼女たちは、あまり携帯に掛けてこない。
対してちさとさんは、携帯を所持している。したがって、ばりばり掛けてくる。どうせ親御さんに料金支払ってもらってるんだろうから少しは遠慮しろと問い詰めたい。
「鳴り止まないなあ」
騒がしい着メロが流れつづけている。とあるドマイナーなバンドの大昔のシングル曲。そういえばこのバンドは近々解散するらしい。十年間お疲れ様。
と、くだらないことを考えていたが鳴り止まないので、結局電話に出ることにする。
「はい」
「いよいよ薔薇十字探偵島津由乃再始動ね!」
……は?
携帯を耳に当てたまま硬直していると、電話の相手はさも当然のように言う。
「だって由乃さん、その自称妹候補の一年生のことを調べるんでしょ? だったら私に任せてよ。葉子を使えば答えは直ぐよ。ああ見えてあの子、フィールドワークが得意だから」
「いや、つーか」
それ以前に、薔薇十字探偵とか言われるのは、物凄く不本意だ。
「だって由乃さんは黄薔薇のつぼみでしょう。尚且つロザリオも所持している。ほら、薔薇にロザリオで、薔薇十字」
「……祐巳さんも乃梨子ちゃんも、ロザリオは持ってるんだけど」
「ああ祐巳さんね。でもよく考えてみて。彼女って、探偵ってガラかしら?」
「うーん、むしろ被害者役がぴったりはまる。で、乃梨子ちゃんはどうするの? 彼女は探偵役にはまりそうだけど」
「私、彼女のこと全然知らないもの」
さいですか。
「一年生のことは、一年生に調べさせるのが一番。でも由乃さん、今の山百合会がらみの一年生に、頼みごとなんてしたくないでしょう?」
「……」
相変わらず、歯に衣着せぬものの言い方をする子だ。
「あのね、ちさとさん。あらかじめ断っておくけど」
「なあに?」
「……これは、断じて事件なんかじゃないから。それだけは断言できるの」
数秒、ちさとさんは黙り込んだ。やがてゆっくりと言葉を紡ぐ。
「……何で、わざわざそんなに強調するのかしら」
「別に。あまり期待させるのも悪いから。それでも構わないのなら、関わってくれてもいいわ」
「よくわからないけど……とりあえず、葉子に調べてもらうよう頼んでおく。ええと、詩乃さんだっけ?」
「そう。良妻詩乃さん。葉子ちゃんに伝えておいて。調べるのなんて程ほどでいいから、って」
「ん、了解」
由乃の態度に何か感じるものがあったのか、ちさとさんは結局、煮え切らないような言葉を残して電話を切った。
「ふぅ」
ほんとのほんとに、事件なんかじゃないんだからね。
携帯を放り出して、由乃は一人またしても思考に埋没していく。
鳥居江利子。
期日。
妹。
立候補。
詩乃──良妻詩乃。
「どれもこれも、下らな過ぎて」
ふああ、と由乃は一つ大きな欠伸をして、そのまま睡魔に身を任せる。階下から母親の夕飯を知らせる声が届いた気がしたが、どうしようもなくかったるい。
目を閉じる。
瞼の裏の暗闇に、自身が妹と手を取って歩んでいく姿を想像したが、それは結局何かの形を成す前に、儚くも霧散した。
-調査-
◇02
「──ぜひ、由乃さまの、妹にして頂きたいと思いまして」
唐突な登場に付け加えての、唐突な妹宣言。
何故目の前の少女──良妻詩乃が、由乃の妹になりたいなどとのたまうのかが、理解できない。
自分でも解っていることなのだが、島津由乃という一人の人間に、『姉』としての魅力などほぼ皆無だと思う。
同じ二年生で比べるなら、例えば志摩子さんに対する、一年生たちの想い──清楚、可憐、おしとやか、思慮深い、人形のように整った美貌の持ち主──ほら、ぱっと思いつくだけで姉として、上級生として先輩として、申し分のない人間だ思う。
もう一人、今度は祐巳さん──人当たりがいい、素直、飾らない、優しい、誰にでも分け隔てなく接する。そう、彼女はまるで、ヒマワリのような暖かな魅力に溢れてる。
彼女らに対して、島津由乃という人間はどうだろう。
負けず嫌い、意地っ張り、(某当代紅薔薇さまほどではないが)高慢ちき、計算高い、内弁慶、姉を姉とも思わない発言の数々、無茶ばかり言う、すぐキレる、等々……。
ほら、一分の隙もない程に、面倒くさい要素しか思い浮かばない。これじゃ人望もへったくれもありゃしない。さあ笑え、笑わば笑え、笑うがいい。
……笑えねぇ。
「私の妹に? そりゃまた、随分と趣味のいいことで。最近の若い子も、まだまだ捨てたものじゃあないわね」
「まあ、恐縮ですわ。ふふふ……」
あまりに優等生じみたその受け答えも、はっきり言って気に食わない。いちいち洗練され過ぎているのだ。そう、まるで自分に見せつけるかの如く。
「ただ一つだけ、心配事がありますの」
良妻詩乃は表情を曇らせる。はたしてその表情の移り変わりは、真実なのかそれとも……駄目。全然、読めない。
「へえ、何かしら」
「……果たして由乃さまは、本当に、妹が欲しいと考えてらっしゃるのか……時期的にそろそろ、だとは思いますの。山百合会の幹部ともなれば、周囲の注目も相当のものでしょう? この頃では、『妹を作れ』 などと、有形無形のプレッシャーがあると思うのですが」
「そうね……ま、当たらずといえど遠からず、ってとこね。そういう圧力は、ないわけじゃないわ。まったく困ったものよねえ」
「でしょう? でも、大事なのは由乃さまの気持ちだと思うんです。由乃さまが妹なんて欲しくない、と考えてらっしゃるなら、回りの方のお節介も、この私の存在も、全部が無駄になってしまうわけですから」
その通り。詩乃の言うコトはいちいち正論だ。正論だからこそ反論の余地はないし、正論だからこそ、気に食わない。
「だからこそ今、はっきりと答えてください」
真撃な瞳が私に突き刺さりそして、刺し貫いていく。
けれど、『刺し貫いていく』 という形容は、あくまでもイメージだ。それだけ良妻詩乃が私に穿った視線が鋭いものだったということに他ならない。
知らず、私は気圧されていた。認めたくない。こんな奴に負けたくなんてないのに。
「島津由乃さま。あなたは本当に、妹を作りたいと、心の底から思ってらっしゃるのですか──?」
その言葉が、耳の中に残響する。
私は答えられなかった。答える言葉が見つからなかった。
言葉は見つからないが、答えはたった一つだけ。
『NO』
ただそれだけ。
「……その沈黙が、答えと受け取っても、よろしいのでしょうか?」
それでも言葉を返せないのは、由乃のちっぽけなプライドのためだ。
足掛け二年も山百合会やっていて、妹の一人も作る事が出来ない。二人の友は妹という存在を得た、或いは得ようと前向きに考えている。
なのに自分は──。
「今日は、このあたりで失礼させていただきます」
踵を返し、詩乃は背を向ける。
「また、いずれ」
最後にごきげんようと呟いて、微かにセーラーカラーを翻して、良妻詩乃は遠ざかっていく。
あんな奴を妹にしたいなどとは欠片も思ってはいないが、それでも彼女の言葉は、いつまでも由乃の胸の中にわだかまり続けた。
◆03
いつも通りのつまらない授業に、チャイムと共に終止符が打たれる。
ずっとシャーペンを操っていた右手の指を、(はしたないけど)ぽきりと鳴らす。そうやって授業中に溜め込んだストレスを小出しにしていると、
「……?」
不意に、向けられる視線を感じた。
反射的に廊下の方を見やると、そこには見覚えのある一年生が、何故か由乃に、動物園の檻の中にいるエイリアンを見るような視線を向けていた。
「わざわざありがとうね、葉子ちゃん」
つとめて柔らかく話し掛けたつもりだ。だがしかし目の前の少女が、獰猛な肉食動物を前にしたウサギのように体震わせるのは、何故。
「あ、あ、あの……私、ちさとお姉さまに」
「うーん」
本来このウサギちゃん──藤原葉子ちゃんは、相当に勝ち気な性格のはずだ。だが、あんなことがあってから、由乃のことを『天敵』と認識しているらしく、とにかく怯えてしまう。闇にまぎれて狩られるとでも思っているのだろうか。
由乃はもうあの事件を気にしてはいないし、何だかんだ言っても、あの事件を境に、一層ちさとさんと親しくなれた。クセの強い子だが、ちさとさんのことは好きだ。あの二人とは違い、妙に世間擦れしてるところも、ちょっとしたプラスポイント。
でまあ、そのきっかけを作ってくれた葉子ちゃんなのだが。
(何か、こういう子見てると、何処かに拉致ってイロイロと……)
こうも怯えてくれる友人の妹を見てると、このところ妙な加虐心が湧いてくるのが由乃であった。
ま、それは理性で抑えて、と。
「で、首尾はどう?」
「は、はい……あの、実は」
──つまり、『良妻詩乃の調査』 は、上手く果たせなかった──という報告である 『ハズ』 だ。
「現在のリリアンの一学年には、良妻詩乃、という女性徒は、存在しませんでした」
ま、当然ね。
「ふうん」
「お、驚かれないんですか? だって、つまり黄薔薇のつぼみが会っていた生徒は、このリリアン女学園の高等部には存在しない、ということになるんですよ?」
「それならそれで、仕方ないんじゃない? 葉子ちゃんは、きっちりと調べてくれたんでしょう? 赤の他人の、この私の為に」
「そ、それは、ちさとお姉さまにどうしても、って頼まれたから」
「経緯はどうでもいいの。もしかして、手抜き調査したとか?」
イタズラっぽく言うと、葉子ちゃんはぷるぷると首を横に振った。うーむ、小動物的で実に可愛い。理性が飛びそうだ。
「だったら、自分の出した結果を信じなさい。つまり良妻詩乃は一学年には存在しなかった。もしかしたら、高等部にはいないのかもしれない。これでいいじゃない。ね?」
葉子ちゃんの肩に軽く触れる。
だがしかしその肩は思いっきりビクリと震え、由乃の手から離れてしまう。うーん、残念。
葉子ちゃんは、こくりと頷く。それでも彼女の瞳は、怯えの色を湛えたままだった。
「じゃね。ありがと」
所詮、『いい上級生』 を演じて見せたところで、それは安っぽいメッキでしかない。結局脆くも剥がれ落ちて。無残な地金を晒すだけである。
葉子ちゃんがこうして怯えてしまうのも、由乃の日頃の行いが招いた結果という訳だ。
これまでの生き様を後悔する気はサラサラないが、それでも一抹の寂しさがこみ上げてくるのを抑えることは出来なかった。
◆04
(今更、あがいたって……)
親しい下級生などいない。むしろ、親しくなくとも構わない。ちょっとした顔見知り程度の仲の下級生にも、由乃は全く心当たりが無い。
現段階で山百合会に関わっている一年生三人の他には、それこそさっきの葉子ちゃんくらいしか知り合いは居ないのだ。
(居ないなら、探すしかない)
だが、由乃が妹問題に頭を悩ませているという事実は、高等部において、すでにかなりの浸透率を誇っている。
今更のこのこと一年生を捜し歩いたって、「あ、いよいよ焦って手ごろな一年生を漁り始めたな」 と、穿った見方をされてしまうのがオチだ。しかもその見解が、あながち間違っていないというのもいただけない。
「まったくもう……」
祐巳さんが一年生だったらいいのにな、なんていう幻覚じみた幻想に溺れてしまいそうになるのも、この頃ではしばしばだ。
従順な志摩子さんも捨てがたいが、やはり妹とくれば祐巳さんだろう。彼女に、「お姉さま」 なんて呼ばれるのを想像するだけで、なんかこう、得も云わぬ快感が……。
「ほんと、祐巳さんが一年生だったらよかったのにねぇ」
「!!?」
反射的に振り向くと、そこには何やら含みを持たせたような表情でこちらを見やる、ちさとさんの姿が。
まずい。こんな一言で、動揺してるのを悟られたら、まずい。
「い、いきなり話し掛けないでよ、もう。私の後ろに立つと、問答無用で斬り伏せちゃうんだから」
「いつの時代の人よ。だからさ、祐巳さんが妹ならきっと、素敵な姉妹になれたんじゃないかなって思うのよ。だって気が合うじゃない由乃さん、彼女と」
「……バカ言ってんじゃないわ。あの高慢ちきの妹こなせるのは、祐巳さんぐらいよ。水野蓉子さまもいない、祐巳さんもいない。そんな祥子さまと一緒に仕事するなんて、ぞっとしないわ。想像しただけで肩凝りそう」
「ま、気持ちは理解出来るけど」
今日の授業は全て滞りなく終了した。今日は部活動はナシ。あとは薔薇の館に顔を出して、お決まりの仕事をこなして帰るだけなのだが。
「ところでちさとさん、何か用事?」
「うーん、ま、由乃さんにとっては余計なお世話だって解っちゃいるんだけどねえ……」
「……だから、良妻詩乃を妹にする気は、これっぽっちもないんだってば」
「なんで? 千載一遇のチャンスじゃない。そりゃ確かに、由乃さんの話を聞く分には、お高くとまったちょっといけすかない子、って感じの印象だけど、そんなの些細なことよ。姉妹として触れ合っていくうちに、きっとあなたたちの心は通い合うわ。ええ、うん、きっと。だからもう一度言わせてもらう──」
ちさとさんは熱っぽく一気にまくし立て、そして。
「──こんなチャンスは二度と由乃さんの前には転がり込んでこない。そう、絶対に。それだけは断言できるの」
「……」
「……」
「なんで、私の真似すんの……?」
だがしかし、由乃の呟きは彼女の耳には届かないようだ。ちさとさんの勢いは一向に衰えない。
「だからさ、ちゃちゃっとロザリオ授受しちゃってさ。さっさと姉妹になっちゃいなさいよ。案ずるより産むが易し、って言葉もあるし」
ちさとさんはどうやら勘違いをしている。由乃が、「彼女を妹にしたくない」 と云っているのを、由乃が土壇場で一歩を踏み出す勇気を躊躇っているとでも認識しているらしい。
はっきり云って、その認識は盛大に間違っている。
”島津由乃は、良妻詩乃を妹にしたくない”
これは絶対である。
彼女に出会ったのが一昨日の放課後のこと。それからこっち、都合48時間。丸々二日である。だが、たかが二日、されど二日。
この二日間で随分と悩ませてもらった。やはり今の島津由乃と妹問題に関しては、切っても切れない間柄らしい。
だが、たっぷりと悩んだ結果、ある程度は事態を解決する目処をつけることが出来た。ま、それだけでも僥倖といったところだろう。良妻詩乃に感謝してやったっていいくらいだ。
だがしかし、妹作りに関して悩むのは、もう飽きた。
「そろそろ解決するわ」
「おっ」
何故かちさとさんは嬉しそうだ。事件事件とうるさかった彼女だから、ようやく由乃が、謎の自称妹候補の正体を、本腰入れて調査を始めるとでも思ったのだろう。
だがしかし、今回の一件を、事件などと称するのは間違ってる。
『事件』 というものは、すべからく深刻で、重大で、もっと厳かであるべきなのだ。
こんなクダラナイことを、事件だなんて──。
由乃は鞄をごそごそと漁った。昨日のうちに用意して鞄に忍ばせておいた、ちょっとした小道具である。
『それ』 を人差し指に引っ掛けて、くるくると回す。
「ヘアバンド……?」
「そ。こいつが、今回の一件を解決する、キーアイテムかしら」
-結末-
◇3
「ごきげんよう、黄薔薇のつぼみ、由乃さま」
ちさとさんと別れた後。何か予感めいたものを感じていた由乃は、薔薇の館には向かわずに、あてもなくぶらぶらと歩いていた。
それは勿論、彼女──良妻詩乃の接触を待つためだ。
だがしかし、ほとんど待つこともなくソイツは現れた。いつぞやのように、余りにも唐突に。
涼しげに佇み、表情には迷いも無い。
冷たい金属のような少女だ。
「詩乃……さん。ごきげんよう。また、会ったわね」
「私もあなたも、お互いに、『会いたい』 と思ってるのですから。こうして会えるのはきっと、必然ですわ」
「理由はお互い違えど、ね」
憮然として由乃がそう言うと、詩乃は微かな含み笑いをもらした。まったく、一年生らしくない。
この少女と友好的に言葉を交わす理由を、由乃は今のところ持ち得ないし、これからもそのつもりだ。ことさら嫌悪感むき出して話しているつもりなのだが、しかし目の前の少女は欠片も気にした素振りはない。
もう充分だろう。
もう充分に、『義理は果たした』。
「それで、由乃さま。以前にお話したこと、お答えを聞かせていただきたく、本日は参りました」
「ああ、あれね……」
”──ぜひ、由乃さまの、妹にして頂きたいと思いまして”
詩乃があの時紡いだ言葉を、由乃は反芻する。
これが、或いは詩乃ではない他の誰かの言葉だったら、果たして自分は何を思ったのだろう。
私を慕ってくれる一年生がいる。妹になりたいと思ってくれる一年生がいる。
それは、掛け値ナシに素直に嬉しい事だ。結局姉妹関係など、相性に左右されてしかるべきものだ。お互いに好きあっていようと、相性が合わなければ、いつまでたっても他人のままである。
だがしかし、自分の妹になりたいと、そう云ってくれる子がいるならば。
せめて由乃は、その子のために身を砕こう。大切にしよう。誠心誠意、その子と向き合おう。それは姉妹関係でもなんでもなく、一人の人間と人間との関係だと、由乃は思う。
妹にしたい子などいない。妹など欲しくない。
だが、とある一年生の子と親しくなり、その延長線上に姉妹関係があるのなら。
それは、素直に喜ばしいことだ。
(そういうものじゃない? 姉妹って)
答えなど無い。そもそも、身近の紅薔薇と白薔薇の姉妹でさえ、あれほどの差異があるのだ。彼女らと立場を同じくしている自分が、最大公約数的な答えを求めるなど、ナンセンスも甚だしい。
姉妹関係に平均など無い。
私は私で、自分と自分を慕ってくれる、まだ見ぬ誰かのための最良の関係を見い出そう。
(……ま、今のところ、そういう子にはめぐり合えていないけどね)
だから、そんなものは今の由乃にとっては戯れ言だ。
「お断りさせていただくわ」
「……理由を、お聞かせいただいても宜しいでしょうか?」
「理由? そうねぇ……色々あるけど、ま、一つだけ」
つかつかと由乃は彼女の方へと歩み寄る。
「少しだけ、目を閉じていてもらえるかしら」
「まあ、ではもしや、目を開けたら私の首には、手ずから由乃さまにより掛けられたロザリオが……」
だから、妹にしないって言ってるのに。
良妻詩乃は静かに目を閉じる。
それを見届けて、由乃は懐から、『解決のためのキーアイテム』 ヘアバンドを取り出した。
軽く、彼女の髪に触れる。サラサラとしていて、触り心地は良かった。
しかし彼女は驚いた風もなく、初めから触れられることが解っていたみたいに動じない。
彼女の前髪を手の平で軽くあげて、
ゆっくりと、ヘアバンドをかける。
若干乱れた髪を直してやり、
そして由乃は彼女から一歩離れた。
「……なにやってるんですか、あなたは」
「あら、怒った?」
「……呆れてるんです」
呆れるほどにクダラナイ。
初めから、『良妻詩乃』なんて少女は存在しない。一年生らしくなくて、クールで、落ち着いた物腰の涼しげな少女など、初めからこの世に存在しない。
唐突に現れそして、唐突の姉妹宣言。わざわざ髪型まで大昔のスタイルに戻して由乃の目の前に現れたのは──。
先代ロサ・フェティダ……鳥居、江利子。
「だって由乃ちゃんの妹問題って、あれから全然進んでなさそうだったんだもの」
軽く前髪を払い、江利子さまはことさら楽しそうに言った。昔も今も、この方は由乃のことを怒らせて楽しんでいたのだ。
「……だからって、わざわざ制服着て高等部に不法侵入まですること、ないでしょう」
つとめて平静を装い由乃は答えた。大丈夫、まだ理性は保てている。
「気にしないで。私の勝手なお節介なんだから」
気にしたくなくとも、気になるのだ。こうもしゃしゃり出てこられては、堪ったものではない。
「少しは妹を作ろう、って気になれたかしら? 自分の妹に関して悩んだり迷ったりしたのは、決してマイナスじゃあなかったでしょう。聖も蓉子も、祥子も、話を聞く分には志摩子も、随分と悩んで妹問題に決着をつけたのよ。だから由乃ちゃん、あなたももっと、考えなきゃ」
「……そのための、良妻詩乃ですか」
「ふふふ……素敵な名前でしょう?」
「ええ、とっても」
まずい、だんだん胸がもやもやとしてきた。多分、私今めちゃくちゃ怒ってる。
「なんだか雲行きが怪しいみたいだから、そろそろ私はおいとまするわね。」
「……姉に、会っていかないんですか」
「会おうと思えばいつだって会えるしね。今回は由乃ちゃん、あなたに用があったんですもの」
そう言うと、江利子さまは踵を返した。先代黄薔薇さまの麗しい制服姿はこれで見納めになるわけだが、由乃にとってはむしろ、早く見納めたいところである。ていうか、早く。
「それじゃ、ごきげんよう由乃ちゃん。妹決め、頑張ってね。影ながら応援させていただくわ」
ほんと、マジで、『影ながら』 にして欲しいものである。
「ううう……」
由乃は苛立っていた。この数日中で溜め込んだストレスを早々に解放させてやらなければ、どうにかなってしまいそうである。
「ゆ、祐巳さん……どこにいるの祐巳さん」
彼女にこのやり場の無い怒りを受け止めてもらおう。そう思い、優しくて温厚な友の顔を思い浮かべた由乃だったが……。
「ぐ」
思い浮かべたその表情は、あまりに平和的でのほほんとしていて天然っぽくて、平時ならば心穏やかにさせられるその笑顔はしかし、ささくれだった今の由乃にとっては正視に堪えないモニュメントであった。
ダメだ、余計にストレスが上乗せされる……。
だとすれば。
「志摩子さん、何処にいるの。私の話を聞いてお願いだから……」
再度、由乃は友とのやりとりをシュミレーションする。
ちょっと聞いてよ志摩子さん。あの忌々しい先代黄薔薇さまが……。
あら、江利子さまがどうかしたの?(にこにこ)
奴が現れたのよ、奴が。いったいいつまであいつは私に干渉するの。
うーん、それは困ったわねえ……(にこにこ)
ちょっと志摩子さん、私の話、ちゃんと聞いてるの?
聞いてるわよもう、由乃さんったら。少しは落ち着いて。(にこにこ)
「だ、ダメ。祐巳さんよりもっとダメ。今志摩子さんに会ったらきっと、問答無用でひっぱたく自信ある……」
いよいよやばくなってきた。自慢じゃないが、ストレスを溜め込むことに慣れてないのだ。
「そうだ、令ちゃん!」
あまりに身近すぎて失念していた。令ちゃんに八つ当たりしよう!(自分で八つ当たりって言うかね)
「……だ、駄目。令ちゃんに江利子さまのこと愚痴るわけにはいかないじゃない……。逆に説教されるのがオチだわ……」
は、早くしないと……。目の前に葉子ちゃんがいたら、きっと人気のない暗いとこに拉致ってイロイロやっちゃいそうだわ……。
早く。
早く。
誰でもいいから私の話を聞いて……。
エピローグ
「ああもう、むかつくむかつく超ムカツク〜ッ! あの馬鹿あの馬鹿あのばかぁーッ!!」
「あの、埃が立つんで、あんまりドタバタやんないで欲しいんすけど……」
「そんなの気にしてられないわッ」
「いや、私が気にする……」
自室でくつろいでいた田沼ちさとの携帯が鳴ったのが、つい三十分ほど前のことだ。ディスプレイには、『よしのん』 と表示されており、珍しいなと思いつつも電話に出ると、いきなりの由乃の罵声、というか怒声である。「今から行くから!」の一言だけの叫びを残して、電話は切れた。
はて何か彼女の気に触ることをしでかしたかなと、ちさとは一瞬不安に思ったが、さりとて心当たりなど皆無だった。
由乃は割とすぐ傍にいたらしく、電話から十分ほどで我が家へと到着した。彼女を迎え入れ、部屋へと連れてくる間は不思議と彼女は穏やかで、妙だなあとちさとは思っていたのだが……。
「何なのよ、アイツはっ。アイツはぁッ……!」
ちさとの部屋に入るやいなや、手近のクッションを鷲掴むと、ベッドへと飛び込んだ。
あとは訳のわからない言葉を吐き出しながら、ベッドの上でのたうち回りながらクッションを掻き毟ってる、という状況である。
「……ま、八つ当たりの相手に私を選んでくれたのは、素直に嬉しいけどさ……」
「なんの話よッ」
「……いや、こっちの話」
田沼ちさとと島津由乃が親しくなったのは、割とここ最近のこと。
まだ完全にお互いを把握しているわけではなく、幾分手探りで近付くのもやむをえないところがあるのだが。
(いきなり部屋に押しかけてきてジタバタじゃ、手探りもへったくれもないわね)
それにしてもと、ちさとは思う。
ジタバタしている由乃から断片的に聞き出したのだが、どうやらココ最近の渦中たる人物の良妻詩乃、彼女の正体が実はあの先代黄薔薇さま、鳥居江利子さまであるという。
何故それをわざわざ隠していたのかが最大の疑問なのだが、結局由乃はその胸中を明かそうとはしない。
(ま、予想は出来るけど)
きっと由乃は、一矢報いたかったのだろう。よくワカラナイ近付き方をしてきた江利子さまに対して、だったらこっちは、妹問題に関して、何か江利子さまに対する切り札を切りたかった、とか。
だがしかし、由乃の持つ妹に関するカードなどあまりに少ない。それでも対抗せずにはいられなかったのは、やはり彼女の負けず嫌いの性質によるものだろうか。
「だいたい良妻詩乃っていう人を食ったような名前が気に食わないのよ!」
「うーん、まあ、ね」
島津由乃
良妻詩乃
しまづよしの
よしづましの
上手いと言えば上手い。クダラナイと言えば、クダラナイ。
ちさとは言われるまで解らなかったのだが、由乃はすぐに気づいたようだ。よくその場で切れなかったあと、ちさとは妙なところで感心する。
「……やっぱもう、オーディション開くしかないわね」
「それって冗談じゃなかったの?」
「昨日まではね。全部江利子さまの所為よ。令ちゃんは嘆くし祥子さまはヒステリー起こすでしょうけど、おあいにく様。全部、江利子さまの所為だから。ああ、ちさとさん、止めても無駄だから」
「別に止めないわよ。協力できることがあれば、協力するわ」
「……随分と暇人ねぇ、あなたも、江利子さまも」
確かに暇人と言えば暇人である。
(でもさ、由乃さん)
世間じゃ福沢祐巳さんが、『ミス・見てて飽きない人』みたいに認知されてるフシがあるけど。
──あなたも割と、見てて飽きないのよね。
了
|