■とある冬の日の出来事
「はぁ…」
「退屈同盟でも結成する?紅薔薇さま」
薔薇の館で小さな溜息を漏らしたのは、紅薔薇さまこと水野蓉子。
ストーブの焚かれた薔薇の館のとある部屋で、水野蓉子と、もう一人の薔薇さまであり、蓉子の親友でもある鳥居江利子は、なにをするということもなく暇を持て余していた。
「こうしてると、私たちってさ」
江利子が何を言い出すのかと、多少は興味を引かれたが、それに続いた言葉は、「縁側でお茶を飲んでる老夫婦のよう」だった。全く、惨めたらしい…と言ってしまえば、全国津々浦々に住まう老夫婦に失礼ではあるのだが。
蓉子は席を立った。
「どこいくの?」
「…お茶を入れるのよ」
わざわざ気にする江利子も、律儀にそれに答えてしまう図というのも、妙に自信の情けなさを煽った。
「あ、ついでに私のもお願い」
「だったらあなたが私の分も…ううん、やめておく。私が淹れるわ」
どちらがお茶を淹れるか、などと突っぱねあうのは、情けなさの極みだ、と、思ったから。
「それにしても、暇ね」
「しかもお互い妹に振られて…ね」
「振られたのは江利子だけでしょう。私とあなたでは、事情が違うわ」
似たようなもの…と、呟く江利子をじろりと一睨みして、つい先刻ばかり前の出来事を、思い浮かべる。
・事の発端
水野蓉子と、その妹の小笠原祥子は、今日の放課後、一緒に帰る約束をしていた。
目的は、駅前に最近出来た、結構評判のよい喫茶店。
少し前から、約束していたことであった。
・イレギュラーな事件
小笠原祥子の妹、福沢祐巳が、風邪で欠席したという。
祥子が見舞いに行きたげであったこと。
・蓉子の取った行動
祥子がいまいち元気がなかったことを見抜いてしまったこと。
その原因が、福沢祐巳にあることを聞き出してしまったこと。
福沢家に行こうか行くまいか悩む祥子を言葉巧みにたきつけて、祐巳の見舞いに向かわせてしまったこと。
・結果
蓉子と祥子の計画は流れた。
祥子と祐巳の姉妹の絆が、(多分)深まった。
「…ということなのよ。理解した?」
「わざわざご丁寧な説明、まことに痛み入るわ…」
呆れたように江利子は言う。
「大体、自分で祥子を祐巳ちゃん家に向かわせておいて、それで蓉子が落ち込んでちゃ、まるっきり本末転倒じゃない」
「…江利子、本末転倒の使い方が間違っているわ。この場合、祥子にとって、『福沢祐巳の見舞い』と、『水野蓉子のお供』は、等価値であるはずだから、本末転倒でも何でもなく、単なる二者択一よ。そして、私は単に、『選ばれなかった片一方』に過ぎないの」
「蓉子、自分で言ってて、虚しくない?」
はっきり言って虚しい。
「そもそも、[福沢祐巳の見舞い』と、『水野蓉子のお供』が等価値である]なんてのは、蓉子の主観に過ぎないわけでしょ。祥子にとっては、もしかして祐巳ちゃんの方にプライオリティが…ごめんなさい」
「何故、謝るの」
「だって、蓉子のお顔が、とっても怖かったんですもの。先回りして誤らせていただいたわ」
「別に…」
別に、どうということもない。
予定が流れたことも
江利子と虚しい言い合いをするのも
「それでも蓉子たち紅薔薇ファミリーは、私から見れば平和よ」
「『黄薔薇は一年から三年まで安泰』じゃなかったかしら?」
「蓉子、知ってて言ってるでしょ。それは世間の間違った認識よ。しかもかなり昔の」
江利子は、わざとずずずと音を立ててお茶を飲んだ。
いちいち目くじらをたてることもない。ファンが見たら悲しむかもしれないが。
「全く、祐巳ちゃんの優しい心を、あの跳ねっ返りにも少しは分けて欲しいわ」
「自分で頼めば?私は遠慮したいわね」
聞けば江利子、今日は令を誘って一緒に帰ろうとしたらしい。理由は知らないが、おおかた自分たちと同じようなものであろう。
そしていよいよ放課後、江利子が令にその主旨を伝えようとしたところ
「そこであの島津由乃の登場よ。由乃ちゃんたら、言うに事欠いて、「申し訳ありません。今日は私のほうが先約です。黄薔薇さまは、またの機会にどうぞ」ですって」
「別に、おかしくないじゃない」
「気に食わないのは態度よ。いかにも勝ち誇った顔されちゃ、頭にもくるわ。蓉子も自分に置き換えて想像してよ。祐巳ちゃんに祥子取られて、勝ち誇った顔されてみなさい。ほら、頭に来るでしょう?」
福沢祐巳の勝ち誇った顔。
それは、どうしても想像できないものだ。
特に、上級生である自分に対してのそれ、など。
福沢祐巳の場合、祥子を間に挟んで蓉子とそういう状況になったならば、仮に蓉子が身を引いたとしても、恐縮に恐縮を重ね、そしてそれを後にまで引きずるタイプだろう。
「…無理ね。祐巳ちゃんの勝ち誇った顔なんて、想像も創造すらもできないわ」
と、江利子が言った。
「そうね。そういった点じゃ、私は恵まれてるわね・でもまあ、令と由乃ちゃんがいっつもべったりなのは、もう見慣れた光景じゃない。好きにさせてやったら?また革命起こされたんじゃ、たまんないわ」
「は〜あ、退屈だわ」
溜め息に彩られて時間は過ぎてゆき
いつしか下校時刻にさしかかろうという時間になっていた。
教室に忘れ物をしたといい引き返した江利子。
それを校門前で待つ蓉子。
全く、今日は鳴かず飛ばずの一日だった。鳴かず飛ばずの使い方が、間違ってるような気も、しないこともないが。
『しっかり者の蓉子』の名が、泣くというものだ。
蓉子は、自分自身がしっかり者のタイプで、そして、それに多少なりとも周囲に頼られていることを知っている。
今日だって、気を回して祥子をけしかけたまではいい。
祥子と祐巳は、姉妹になってまだ間もない。多くの時間、多くの出来事を共有して、絆を確固たる物にするのが、最優先事項なのだ。そのための協力を、祥子の姉として、祐巳にとっても、頼れる先輩として、惜しまないつもりだ。
(その結果がこれか。約束が果たされなかったことを気にして。結局先輩面したところで、子供なのね、蓉子)
自分自身に言い聞かせるように。
そうやって、すこし顔をしかめるようにして、校門の先を見ると。
「お姉さま」
可愛い妹が、立っていた。
蓉子の妹、小笠原祥子が、冬の間の短い夕暮れの中で、こちらを見据えて、立っていた。
(ええと。何で祥子がここにいるのかしら)
考えが上手くまとまらない。
忘れ物だろうか。いや、祥子は小笠原家のご令嬢だ。その程度の用事ならば運転手付きの自家用車で現れるだろうし。けれどここには、長いリムジンなんて存在してないし。
数秒思案して、答えが導き出せないと理解した。
「どうしたの、祥子」
すると祥子は、はにかむように答えた。
「祐巳に言われました。『紅薔薇さまとの約束を、ちゃんと守ってください』って」
頭のどこかで、カチリと音を立てて、何かがぴたりと収まった気がした。鬱積としたものがあったはずなのに、それが幻だったと、誰かに分かりやすく論理的に、諭されたような。
ふと校舎を見上げると、何と廊下から江利子が手を振っていた。結局、今日の貧乏くじは江利子だったというわけだが、そんなものは紙一重だ。
たまたまの、気まぐれ。
マリア様の、気まぐれ。
「…じゃ、行きましょ、祥子。久しぶりに手でも繋ぐ?」
「え…と、あ。もう少し、日が落ちてからなら」
たどたどしく、答える祥子。その顔は赤い。
世界中で、自分だけなのだ。小笠原祥子の胸を、高鳴らせることが出来るのは。
(祐巳ちゃんに感謝かな…。ありがと、今日の勝利者さん)
了
|