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■黄薔薇包囲網


 まったくもう、令ちゃんったら。人の気持ちってものを全然判ってないんだから。
 島津由乃は一人、自室の机に向かいながら一人考えていた。
 椅子の背もたれに寄り掛かり、軽く音を鳴らす。ぎしり、と。繰り返しリズムに乗って音を立てつつ、ぼんやりと部屋の白い天井を見上げる。
 多少の染みや汚れや蜘蛛の巣などは無くも無いが、ほどほどに真っ白いそのキャンバスに、由乃は姉である支倉令の顔を空想の絵筆で描いてみた。
 空想だから、絵心など無くともデッサンから彩色までがまるでプロ顔負けの上手さを誇る。あれよあれよという間に見慣れた顔が浮かび上がってきて、その顔に向かって早速由乃は問い詰めてみることにする。
「どーして教えてくれなかったのよ。お見合いだなんて重要なことをー」
 姉のお見合いというのは、言うまでも無くあの小生意気なガキ……じゃなくてお子様との一件のことである。由乃はその事実を当日まで知らなかった所為で気もそぞろになり、(実際の話、前日に令ちゃんは私に言ったらしのだが、私は残念ながら聞いていなかった。だから、私にとっては相対的に”知らなかった”ことなのである、うん)、翌日──今日の日中のことであるが、あの有馬菜々とのお出かけの時には、彼女に引っ張り回されて何とも情けない思いを味わったのである。
 初デート(?)でイニシアティブを握られてしまったのは大きな誤算だった。何事も初めが肝要という意気で由乃は常日頃先手必勝を心がけているのだが、今回に至っては後の先すら取れなかった気分。
 とまあ、それは置いといて。空想の令ちゃんが答える。というか、答えさせる。
『面と向かって言ったんだけどなー。伝わってなかったのなら謝るよ。ごめん』
 はにかみつつも申し訳なさそうな面持ちで令ちゃんが軽く頭を下げる。空想だから一枚絵から動画に(というかむしろフラッシュに近い)早代わりだ。
「いや、謝って貰いたくて言ってるんじゃないってばさ。ていうか、いきなり謝るのは卑怯ー」
 空想の中で由乃は令ちゃんに寄っか掛ってぽかぽかと叩く。言うまでも無く空想だから、由乃の目の前には無機質な机が佇むのみで、実際に叩いてもただ自分が色々な意味で痛いだけである。
『じゃあどうしろって言うのさ』
 苦笑いを浮かべて令ちゃんが答える。対して由乃は──
「……つ、疲れた。空想とは意外にもMPの消耗が激しいものだわ……」
 由乃はぐったりと机の上に上半身を預けた。元来病弱だった由乃は、最大HPも最大MPも人並み以下の数字しか持っていない。それでなくとも今日は菜々とのデートで消耗が著しかったから、いまや由乃のHPはメラ一発分にも劣る気がする。MPもまたしかりで、もうニフラムすら唱えられそうに無い。
 まあ、それは兎も角。そろそろ階下から夕飯に呼ばれるかな、と思ったところでタイミング良く母上殿の声が響いてくる。
 早速令ちゃんに今日の事に関する弁明でもしてもらおうかなと、携帯で、『夕飯食べに来ない? むしろ来なさい』、とメールを送ったところ、数秒後に、『いや、既に居るからw』、というメールが返って来た。何だかなあと由乃は苦笑しつつも、階下へと向かった。
 令ちゃんはきっと、由乃が不機嫌になることも知らずに、あのお見合いの男の子との事を話してくれるのだろう。ええもう、それはそれは嬉々として。
 でも、不機嫌上等。お見合いどんと来い。例え嬉しくなろうとも不機嫌になろうとも、令ちゃんのことなら何だって知りたいのだ。いや、むしろ知っておかなくては島津由乃失格である。
 ──ねえ、そう思わない?


   ◇  


「……でも、結局令さまは話してくれなかった。だから由乃さんはツンツンしてる、ってこと?」
「別にツンツンしてるって訳じゃないわ。ただね、こう、胸のうちにもどかしさが蟠るわけよ。こんな気持ち、祐巳さんだって経験の一つくらいあるでしょう?」
「うん、まあ、無くはないけど……」
 薔薇の館への道すがら、由乃と並んで歩いていた祐巳さんは、何だかいつもより元気が足りないように見えた。平常通りに6時間目の授業をつつがなく終えて、教室を出てからこっち、ずっと由乃が令ちゃんの話ばかりしていたから、げんなりさせてしまったのかもしれない。
 またやっちゃったかと、由乃は少し反省する。
 でもほら、祐巳さんって懐の広い子だから、それに甘えてつい愚痴をこぼしちゃうのよね……。
 昨日の夕飯では、結局令ちゃんはお見合いの事に関しては何も語らず終いで、由乃的には、立ち合いでいきなり相手にかわされた力士のような気分だった。
 無論こっちからお見合いに関して水を向けてみれば令ちゃんは話してくれたのだろう。
 しかし、それではまるっきり意味が無い。こっちから聞いたんじゃ欠片も意味がないのだ。令ちゃんから話してくれなくちゃ。ああもう、うまく説明出来ないなぁこの気持ち。
「ねえ、ところで今日志摩子さんはどうしたの?」
 話題転換を兼ねて、由乃は何気なく疑問を口にした。すると祐巳さんは、「環境整備委員会」、と一言素っ気無く答えた。
 少しだけ由乃は不安に襲われる。自分の所為で友人を不機嫌にさせてしまっただろうかと。
「大変だよね、志摩子さんも、由乃さんも」
「え、なんで私?」
 不安はすぐさま疑問へと変わった。志摩子さんが委員会活動で大変なのは周知の事実だが、由乃は別に、取り立てて(菜々のこと以外は)大変ではない。むしろ祐巳さんだって、妹に関する問題で難しい状況に立たされている筈だが。
 アンニュイな雰囲気を漂わす友人を、由乃はついじっと見つめてしまう。祐巳さんはそれに気付いているのかいないのか、足取りはそのままに、じっと前を見据えてぼそりと言う。
「私だけ、何もしてないもの」
「???」
「だって、由乃さんは剣道部で頑張ってるじゃない。志摩子さんは委員会で、でも、私はなんにもしてないの」
 ちょっと拍子抜け。委員会活動とか部活動とか、確かに帰宅部に比べれば個々人の持つ時間が嫌が応にも圧迫されてしまうわけだが、例えば由乃は、令ちゃんが柔道部に入っていたならそれに習って柔道部で今ごろ汗を流していたわけだし。
 志摩子さんに至っては、これは想像の範疇を越えないのだが、たまさか環境整備委員会という役職に就くなり手が居なかったからこそ立候補したのではないだろうか。
 或いは学園内の秩序を維持したいという崇高な思いも彼女にあったのかもしれない。だとすれば藤堂志摩子という人間は中々に達者な人間だが、少なくとも由乃にとって剣道部とは、自己的な問題、自己的な理由の領域に留まっているのである。
 だからこそ、祐巳さんに、「頑張っているじゃない」、なんて言わせてしまう程のものでは、断じてないんだけど……。
「もしかして、祥子さまに何か言われたとか?」
 あの方は、人と比べてどうこうという低俗な事を言う人ではない。私たちと祐巳さんを比べたりなど絶対にしない筈だが、それ以上の意味を含めて由乃は聞いてみた。
 もしかして、祥子さまと何かあった? という意味を。
 しかし祐巳さんは首を横に振る。左右に飛び出した二つの髪房が頼りなげに揺れる。
「特に何も。喧嘩とかしてないから、大丈夫だよ。由乃さんこそ、令さまと喧嘩したりしないでね」
「いや、私たちは喧嘩とかは、さ」
 ぶっちゃけ、喧嘩なんて令ちゃんとは数え切れないほどしたし。
 それでも由乃と令ちゃんのこんにちがあるのは、それは姉妹とか友達とか言う以前に、既に家族みたいなものだから。だからきっと、どれだけ喧嘩しようと、どこかお互いに対する甘えがある。
 でも祐巳さんと祥子さまの喧嘩って、割とシャレにならない感じだから。
「がんばってね。令さまからお見合いのお話、聞けるといいね」
 今はただ頷くしか出来なかった。頑張ってって、それはこっちのセリフって言ってやりたかったけど、今の祐巳さんに、軽々しく頑張ってね、と励ますのは何か違うと無意識が警鐘を鳴らす。
 煮え切らない態度は好きじゃないけど、今はまだ、ただ頷くだけで精一杯だった。


   ◇ 


 山百合会の仕事を大事無く終えて帰路に付き、着替えて夕飯を食べて、早めのお風呂を浴びて部屋に戻ると、令ちゃんが当たり前のようにそこに居た。
 そこ、とは由乃の部屋のベッドの上だ。令ちゃんは今、ベッドの上に寝そべって少女漫画らしきものを読んでいる。彼女の傍らに本屋さんのロゴの入った紙袋が無造作に置かれている事から、どうやら今日買ってきたものらしいと伺える。
 しかしまあ、なんと言ってよいものやら。
「……最近、よくこっちに来てるね」
「ん、もしかして由乃、シャンプー変えたとか?」
「変えたけどさ。まずは人の話を聞こうよ」
 なんだか苦笑するしかない。令ちゃんは漫画に夢中で、由乃の問いかけがあまり耳に入っていない様子である。少女漫画ってあんまり趣味に合わないから、薦められても丁重にお断りすると思うけど。
 とまあ、それは兎も角として。忘れないうちに聞いておかねばならない事が一つある。
 ねえ、と声をかけると、令ちゃんは丁度漫画を読み終えたのか、それをぱたんと閉じて表紙を2秒くらい見つめた後に、顔を上げた。
「最近の祥子さまって、どう?」
 由乃の口から祥子さまという単語が飛び出した事が予想外だったのか、令ちゃんは幾ばくか驚いたようであった。
「どうって言われてもなあ。普通だよ。今日だってついさっき顔合わせただろ。ていうか、何で祥子のことなのさ」
「……? う、うん。実はね、祐巳さんが今日微妙にへこんでたから。祥子さまと何かあったのかなって思ったの」
 何が気に触ったのか知らないが、令ちゃんの口調は若干きつい印象だった。漫画があまり面白くなかったとか?
 由乃がそう言うと、令ちゃんは寝っ転がっていた体を起こして、ベッドの縁に腰をかけた。やはり心持か眼差しが固い、というか鋭い気がする。
「仮に祥子と祐巳ちゃんに何かあったとしても、祥子の側に原因があるとは限らないじゃない。祐巳ちゃんに原因があるかもしれないって考えないんだ?」
「ん……。そりゃ、そうかも知れないけどさ」
 こういった場合、統計的に見て祥子さまの側に原因があるのは明らかだが、ここでそんな事を持ち出して言い負かしても何の意味も無い。
 やれやれ、と由乃は内心溜め息をつく。どうも最近令ちゃんとは上手く回らない。最近とはいっても、昨日の夜からの実質丸一日の間でしかないのだが、殆ど四六時中顔を合わせているから、ちょっとした変化に敏感に反応してしまうのだ。いい加減慣れろと自分に言いたいところだけど。
 しょっぱなから、素直に昨日のお見合いのことを聞けばよかったのだろうか。
(ううん、だめだめ。令ちゃんの事だもの。私から聞けば答えてくれるのは当たり前だし)
 それに何より、まるでこっちが折れたようで──負けたようで、それはちょっと悔しいのだ。
 負けず嫌いと言わば言え。何故なら私は、生粋の負けず嫌いなのだから。(ひらきなおり)
 ともあれ、こうして由乃たちが紅薔薇姉妹のことで喧嘩したって何の意味も発展性もない。
 こっちはこっち、あちらはあちら、だ。
「んーーー、ねむいから寝るー」
 つい今しがたまで令ちゃんが寝転がっていたところに、由乃は身体を投げ出した。ぼふん、とベッドが音を立てて軽く揺れる。本来冷え切っていた筈のベッドは、人肌で程よく温まっていて非常に気持ちがいい。これからどんどん寒くなるし、毎日令ちゃんにベッドを暖めておいて貰おうかしら。
 視線を上げると背中が見えた。女の子にしてはしっかりとした骨格を持つ、令ちゃんの背中だ。
 その背中がゆっくりと動く。くいっと振り返った令ちゃんの表情は、「もう寝るのか」、という驚きとも呆れともつかぬ物だった。厳しい顔よりはずっと心地よい表情だ、と思った。
「ねえ令ちゃん」
「なにさ」
「どうやら私は、眠れないらしいわ」
 そりゃまだ九時過ぎだからね、と令ちゃんが呆れたように言う。そりゃ確かに当たり前の正論だ。由乃だってそう思う。
「ねえ令ちゃん」
「なにさ」
「王女さまは、王子様のキスで眠るものらしいわ」
 起きるんじゃなかったっけ? と令ちゃんが呟く。確かに一般的には起きるものである。でも、それはそれ、これはこれ。今はそんな感じ。今の黄薔薇姉妹はそんな感じなのだ。誰にも文句は言わせない。
 というわけで由乃は再び目を閉じた。やることはやったから、後はただ待てばいい。
 一秒二秒と時間が過ぎていき、やがて由乃が本気(?)だと知ったか、令ちゃんが身じろきする気配が伝わってくる。ここで唇を軽く突き出すようにすると果たしてどうなるのかなあ、などと初めて考えたのは今からもう何年も昔の事である。
 その時は当たり前のようにスルーされたんだけど、「唇は本当に好きな人のために云々云々」、とか説かれそうな悪寒がしたから理由は聞かなかった。
 こうして目を瞑っている時間は本当にあっという間で短い時間であるはずだけれど、意外にも沢山の事を考えてしまうものだ。緊張などするはずもないけれど、身体中の血の巡りでも良くなり、必然的に脳にも沢山血が行くようになるから、その所為で頭の回転が速くなるのだろうか。
 そういえば今日も結局お見合いの話は聞けず終いになりそうだ。
 まさかこっちから聞かれるのを待っているとか? 大抵由乃は、令ちゃんのことに関して気になった事は直ぐさま遠慮なく聞いていたから、今回も令ちゃんは聞かれる事を待っているのかもしれない。
 けれまるっきりそういう素振りを見せないから苛立っているとか? 
 先入観というか前提というか、由乃が祐巳さんの味方をするのが当たり前のように、令ちゃんにとっては祥子さまの味方をするのが当たり前なのだと思うけど、さっきの態度はそれを差っ引いても幾分きっついなあと思えてしまったし。
 そんな部分に令ちゃんの苛立ちが露呈してしまっているのかもしれない。
 うん、筋は通るし自然な流れだ。
 けれど、自然過ぎて逆に不自然な気がする。世の中意外にも不自然な要素はそこかしこに散りばめられていて、自然過ぎると逆に違和感を覚えてしまうものなのだ。
 例えば他人につかれた嘘が自然すぎると、逆に疑いたくなってしまうように。
 とまあ、そんな感じで。
「おやすみ、王女さま」
 額に掛かっていた前髪が軽く払われて、そこに微かに湿った感触が当てられる。
 はい、ごくごく普通に額でした。
 というわけでおやすみなさい、私の王子さま。


  ◇ 


「……なるほど。だから今日は由乃さん、そんなにデレっとしてるのね」
「別にデレっとなんてしてるつもりはないわよ。それが普通で当たり前の私たち姉妹なんだから。平和すぎて爆笑するよりは余程健全だわ」
「爆笑? 何のことかしら?」
「うわ、志摩子さん貴女、恥ずかしい過去を無理矢理揉み消そうと目論んでるわね」
 翌日の放課後。由乃は昨日と同じように薔薇の館への道のりを友人と肩を並べて歩いていた。唯一違うのは、今日は祐巳さんではなく隣に居るのが志摩子さんだということだ。
 綿毛のようにふわふわとした彼女の髪の毛が風に揺れ梳かれていく。じっと見ていると何だか鼻がむずむずとしてくる。
「……だからって私の髪の毛を勝手にポニーテールにしようとしないで頂戴」
「いや、何かこの綿毛が鼻に入ったら、絶対くしゃみしそうなんだもん」
「だもん、って言われてもねえ」
 志摩子さんの髪の毛を勝手に弄ったら呆れられた。まあ当たり前か。
「でも結局、令さまはお見合いのことを話してくださらなかったのね」
「うん、まあ昨日はちょっち険悪になっちゃったから半ば諦めてたんだけどね。多分私から聞かれるのを待ってるんだと思うけど、全くもって意地っ張りなことで」
「意地っ張りねえ」
 意地っ張りが服着て歩いているようなお前が何を言う、って顔された。ちくしょう。
 と思ったら、何故か志摩子さん、ぽんと手を打つ。何か閃いたのだろうか。
「なるほど。だから由乃さんのような女の子を、ツンデレっていうのね」
「……は?」
「祐巳さんから少し聞いたのだけれど、昨日の由乃さんはツンツンしてて。けれど今日はうって変わってデレっとしてる。その差異なのね。ええ、だとしたらツンデレというのは上手い言い回しね」
「し、志摩子さん?」
 勝手に自己完結している志摩子さんに対して、由乃は若干混乱していた。そもそもツンデレとは何だろう、という率直な疑問である。
 うろ覚えだが地理の授業で聞いた事があるような無いような?
「そりゃツンドラやねん」
 率直に突っ込まれた。ちょっとショックだった。
 とまあ、それは兎も角という感じで志摩子さんは一つ咳払いすると、何だかニコニコと──というかニヤニヤとしながら言う。
「似たもの姉妹ってよく言うけど、紅薔薇も黄薔薇も、そしてきっと私たちも同じなのね。やっぱり姉妹って、何処かで似るものだわ」
「……何よ。なんか気付いたの?」
「だって……うふふふっ」
「また笑い出したな!?」
 すわ爆笑病の再来かと由乃は身構える。いや、別に何の脅威でもないんだけれど、こんな往来で麗しの白薔薇さまに腹抱えて爆笑されたら山百合会の信用と信頼、ひいては威厳の失墜に関わる。
 ここは黄薔薇のつぼみである自分が身体を張って止めねばならん、と妙な使命感に突き動かされる由乃であった。
「うふふふ……ほんと、令さまも大変だわ……ふふっ、あははは」
「これ以上笑うなぁ」
 身体を折って笑い始めた志摩子さんに問答無用で由乃は覆い被さった。彼女の笑い声とみっともない有り様が少しでも外に漏れないようにするための措置だ。
「や、やめてってば由乃さん。笑いは心の潤滑油って言うじゃない。あははっ」
「そりゃそうだけど、爆笑はただ傍目にイタイだけよっ。しかも潤滑油って誰の言葉よ!?」
「ふふっ」
 力任せに覆い被さったはいいが、体力差で結局いとも簡単に振り払われてしまう。私より胸が大きいくせに私より体力があるなんて理不尽だ。(単なるひがみ)
 二歩三歩と志摩子さんは由乃から遠ざかると、セーラーカラーとふわふわ髪の毛を翻して振り返った。
「それは、私の言葉よ」
 輝く春の陽光のような笑顔を浮かべ、志摩子さんはさも楽しそうにそう言った。
 そうして由乃の返事も待たずに志摩子さんは、今度はセーラーカラーとか髪の毛とかスカートとか、色々なものを翻して走って行ってしまった。
 呆気に取られる由乃を尻目に、友の背はどんどんと遠ざかる。
「……おーい、はしたないぞ」
 呟いた言葉は、届かない。
 なんだかなあ、と由乃は苦笑を禁じ得ない。らしくないっつーか、しょうもない事でうじうじと悩む藤堂志摩子は一体何処に行ったのかと問い詰めたい気がしないでもないが。
 ともあれ、極まった平和ボケは何を生み出すのか判らないものである。何だかここ数日は祐巳さんと志摩子さんが入れ替わったみたいだなあと思いつつも、由乃は友の背中を追った。


  ◇ 


「……もうね、私の負けでいいわ。令ちゃんの勝ちよ。うん、島津由乃、降参っす」
 今日も今日とて令ちゃんがこっちに──由乃の部屋に来ていて、それ自体は全く構わないのだが、漫画を読んだり重用さの欠片もない雑談ばかりで、いい加減由乃としてはもうお手上げ、という気持ちだった。
 まさか忘れているとも思えない。由乃がお見合いの話を聞きたがっていると、長年の経験から令ちゃんが思い当たらない筈はないのだ。
 それでも令ちゃんがその件に関して貝のように口を閉ざしているのには、余程のっぴきらない事情があるに違いない、と推測される。
 そこでお手上げだった。もう、聞かれる事を待っているとしか思い当たらなかった。
 あんまり話題を先延ばしにしたって白けるだけである。面白い話題というのはいわゆる生ものであり、時期を過ぎてしまえば面白いものも面白くなくなってしまうのだから。
 その辺りを鑑みると、今日あたりがギリギリのボーダーラインだ。
 それに、これ以上由乃の詰まらない拘りで令ちゃんを不機嫌にさせてしまうのは、なにより令ちゃんに対して失礼で不誠実だから。
 ぶっちゃけた話今の由乃には、令ちゃんの方から口火を切って欲しい、という拘りはかなり薄れている。
 だからこその、妹からのポツダム宣言。無条件降伏という奴である。
「何が降参なんだ? はっきり言って意味不明もいいとこだぞ」
「えっとねー、それはね」
 別に深くも広くもない理由を説明するのは興ざめもいいとこだったが、由乃は掻い摘んで事情を説明した。突然の降伏宣言と、それに至る変遷の軌跡を。
 そんでもって一件落着。「なんだそんなことかよこいつー」、「へへへーお騒がせしました」。そんな一種またりとした大団円を想定していたのだけれど。
「……判ってないよ、由乃は」
「へ?」
「全然判ってない。由乃は、私の気持ちを全然判ってない」
 令ちゃんは恐いくらいに真剣だった。自室の机に備え付けの椅子に腰掛けていた由乃のところまでつかつかと歩いてきた令ちゃんは、由乃の両の頬を大きな手ではさみ込む。
 令ちゃんは全く力を込めている素振りは見せないけど、ずっと剣道に明け暮れていた令ちゃんの力は、元病弱少女の由乃ごときが簡単に引き剥がせる程度のものではない。
「むー。はにゃせったらー」
「離さない。由乃が気付いてくれるまで私は話さないから」
 それはひょっとしてギャグで言ってるのかーと突っ込みたいがそれどころではない。
 おお、ヒトの頬の筋肉がこれほどの伸縮性を持っていようとは一体誰が想像しただろうか。由乃の頬を伸ばしたり戻したり、真剣極まりない表情の割にやってることは妙にほのぼのとしている。
「ほんとに気付かないの? ほんとのほんとに由乃は、私の気持ちに気付かないの?」
 気付かないからこその降伏宣言じゃないかと言いたいけど、上手く言葉を発する事の出来る状況じゃなかった。仕方ないから、まるで痙攣するように由乃は何度も頷いたのだった。
 ここに至ってようやく由乃が本当に判っていないことに気付いたか、令ちゃんは力なくその両手を下ろした。そのままふらふらとベッドに歩み寄って行きどさりと腰を下ろす。
 その格好は……そうだなあ。さしずめ真っ白に燃え尽きた時のジョーみたいな感じだろうか。しかし表情は一片の満足感も無くむしろ悲壮と呼ぶに相応しいものだったが。
「れ、令ちゃん?」
「ショックだよ私は。私たち姉妹はこの程度だったんだなあ」
「ね、ねえ。でもさ、どの程度なのか知らないけどさ、話さなきゃ始まらないよ。人と人は、お互いを想っているだけじゃ上手く行かないんだってさ。だから、ちゃんと話し合ってお互い理解する努力をしなくちゃ!」
「そんなの詭弁だ」
 それだけ素っ気無く言い捨てて黙り込む姉。
「もう令ちゃーーん。勘弁してよぅ」
 サイレントブルーに陥ってしまった姉の前で由乃は成す術もなく嘆く。
 もうほんと、無条件降伏どころではなくて、せめて武士の情けで真実を教えて欲しい。貴女が一体今何を考えているのか、私にはサッパリ理解出来ません。
 余程進退窮まっていると思われたか、令ちゃんはやがてぽつりとこんな事を言った。
「……由乃はさ、私のことをどんな人間だと思ってるの?」
「え? そ、そりゃあ、ねえ」
 武芸をたしなむ人間としての威厳と誇りを持ち、けれど誰にだって分け隔てない優しさを与える事が出来て、けれど誰にでも優しすぎて格好良く振舞っちゃうから私はたまにむっとくる事もあって。けれど時折優柔不断だったりもするけどそれもまた味があってよろし。そんなこんなでやっぱり私にとって令ちゃんは一人の令ちゃんで、例え太陽が西から昇ったって世界で一番好きってことは変わらなくて。
 というような事を、出来るだけ整然と筋道立てて伝えてみた。すると。
「一つ忘れてるよ」
「え?」
「私だって、人並みに嫉妬深いんだよ。だから、由乃と一緒にいたあの女の子に嫉妬したりする」
「そ、それって……」
「判ってくれた? 私の気持ち」
 由乃としてはもう頷くしかなかった。
 こういうとき人は深く深く反省するのだろう。ああ、自分のことしか考えてなかった、って。
 今なら志摩子さんにどうして、”似たもの姉妹”って言われたのかよく判る。言いたい事が伝わらなくて行き違うのは祐巳さんたち紅薔薇姉妹の専売特許だと信じて疑わなかっただけにショックもでかい。
(ていうか志摩子さん。私に先駆けて気付いたなら教えよ……)
 そんないじわるな志摩子さんは明日、くすぐり三回転恥ずかしい写真の刑に処す必要がありそうだ。どんな刑なのか由乃にもよく判んないけど。
 ともあれ、今は志摩子さんのことなんてどうでもいいの。
「ね、ねえ令ちゃん」
 当たり前だが令ちゃんは深く沈んでいた。由乃の問いかけに返事も無く、目は屍のように濁っていた。少なくとも、へんじがない、ただのしかばねのようだ、とか言ってる場合ではなさそうだ。
「よく考えてみようよ。これってさ、”どっちもどっち”って奴じゃないかな? どっちも正しくて、けれどどっちも間違ってたんだよ。だからさ、ここは一つ、とんとんという事でいいんじゃないかな、と思うよ?」
「……随分と口が上手くなったね、由乃」
「も、もう令ちゃんったら〜」
 もう言葉でも伝わらないらしい。だとすれば残された道は実力行使しかない。
 ベッドの縁に座り込んでる令ちゃんの両膝を無理矢理に開いて、空いたスペースに自分の身体を押し込む。
 確かに私は口だけは達者かもしれないけど。自分のことばかり考えてて令ちゃんのことを何一つ判ってなかったかもしれないけど。んでもってきっと、これからも令ちゃんの気持ちが判らなくて苛立たせちゃうこともあるかもしれないけれど。
 それでも。
 雨の日も風の日も。病める時も健やかなる時も。
「──世界で一番、令ちゃんのことが大好きよ」
 昨日のアレに習って、というわけでもないのだけれど、令ちゃんの額に掛かっている短めの髪の毛を軽く払って、そこに口づけた。
 元気出してとか、ごめんなさいとか、これからも宜しくねとか、そんな気持ちを込めて。最愛の姉へ。




 エピローグ

 翌日、薔薇の館にて。
 昨日はアレから復活した令ちゃんと夜遅くまで話し込んでしまって、今日は若干寝不足だ。本当は直ぐにでも家に帰り眠りたいところであるが、そうもいかないのが山百合会の一員としては辛いところである。
 令ちゃんからあの子とのお見合いの顛末をひとしきり聞き、そして由乃も、あの有馬菜々との一件を話し、そんなこんなで気付けば草木も眠る時間を過ぎていた。
 睡眠不足で今日は黄薔薇姉妹は割とへべれけ状態であったが、まあたまにはこんな日もある。仕事はあまり手につかないけど、笑って許して欲しい。
 今日に至っては祐巳さんの表情も明るく、昨日今日でどうやら彼女の中で何かが吹っ切れたようである。言うまでも無く、祥子さまの表情もいつも通り、麗しの紅薔薇さまそのものだ。
 白薔薇姉妹に関しては何も言う事は無い。姉が平和ボケして狂笑するほどなのだから、その関係が良好であることは推して知るべし。

 
 少しだけ、自分達のことを。
 由乃のここ最近の令ちゃんにまつわる推理は、半分は当たっていたというところだったが、むしろもう半分の外していた部分が重要だったらしい。
 令ちゃんが菜々に嫉妬。つまりあちらはあちらで、由乃と菜々のデートの顛末を聞きたかったらしいのである。
 よくよく考えてみれば、「なあんだそっか」、と思えてしまうことなのだが、そこに思い当たらなかったのはやはり、由乃の油断というか、一種の甘えだったのだろう。
 特に令ちゃんは、有馬菜々という、由乃の一応の”妹候補”の存在を全く知らなかったのだから、この場合はやはり由乃の側に非があったのだろうと思う。
 一応、菜々の要望どおりに、”令ちゃんと手合わせしたがっている”というところを伝えたが、今のところ彼女が何処のどういう人間なのか、というところしか教えていない。
 今は未だ、彼女を妹として迎え入れるかもしれない、とは伝えない方がいいような気がしたのだ。
 まあ、”手合わせしたがってる”という部分を聞いて驚き、そして由乃と菜々の関係そのものに突っ込んでこなかった令ちゃんの迂闊さをちょっとだけ利用したに過ぎない。
 由乃だって、結局令ちゃんがあの男の子をどう思っているか、という部分までは突っ込んで聞かなかったのだから、おあいこというところである。(どうも思ってないのだろうけどね。惚れた、とか言われても困る)
 そのあたりはまあ、そのうち、ね?
 一生懸命外堀ばかり埋めるような推理をしていたけど、肝心要の部分がすっぽりと抜け落ちていた。お互いに厳密な包囲網を敷いていたのに、結局互いに相手が網にかかるのを待ってることしかしなかったわけだ。
 やっぱり待つのは性に合わない。特に令ちゃんが待ちの一手であるときには、がんがん突っ込むに限る。
 それこそ、令ちゃんの敷いた包囲網をぶち破っちゃうくらいの勢いで。
「そうだよね、令ちゃん」
「うん?」
 隣に座る、なんだか良く判っていない姉に対して、由乃はにやっと微笑みかけて見せるのだった。


 了






▲マリア様がみてる