■君に逢いたくて


 第一話

 色褪せて煤けたような鉄筋コンクリート造りの建物にぐるりと囲まれた中庭から、ふと、頭上を見上げれば、長方形に切り取られた青過ぎる空が顔を覗かせていた。
 若干傾き始めた太陽は、鮮烈なほどにくっきりと、光と、そして影を中庭に落とす。
 丁度影の位置に在る木製のベンチに腰掛けていた白衣姿の女性は、その有り様をぼんやりと眺めていたが、やがて思い出したように左の手首に巻かれた腕時計を見やる。
 時計の針は、そろそろ午後の二時半を指そうとしていた。

 遅めの昼休みを取っていた佐藤聖は、午前中に引きも切らさず押し寄せた、外来患者の診察に拠る疲労の抜け切らぬ身体を、座り込んでいたベンチからゆっくりと起こした。
 直後、日の光が視界いっぱいに広がる。
 八月の午後の日差しは強く鋭い。聖は一瞬の立ち眩みを覚えたが、医者が夏の暑さに倒れては格好もつかない。どうにかそれをやり過ごし、聖は軽く伸びをする。
 こういう時、歳を取ったなと実感する。学生だった頃はそれこそ、長距離走の後や、煮詰まった試験勉強のさなかにしか、疲労など覚えなかったものである。

 ここ中庭は風通しが悪く、真夏の昼を過ごすには快適とは言い難いのだが、休憩室以外、病棟内は全面的に禁煙なので、聖は昼休みを主にこのスペースで過ごしていた。
 休憩室で同僚と顔を合わせるのは煩わしかった。同年代のナース達は、どこそこの科の時期教授が誰だとか、或いは、目の回るように忙しい日々を縫うように開かれる、合コンの話ばかりだった。
 よく飽きないな、と聖は思う。
 無論、看護学校を出たばかりの新米看護士たちと、仮にもこの病院の院長を勤める聖とでは、歳こそ大差無くとも、話が合うはずもないのだが。


 とある大学付属であるこの病院は、医療業界では相当に名が知れ渡っており、官僚や財界の大物、いわゆるVIPと呼ばれる人間たち御用達の病院でもあった。
 教授や助教授連中は、そういった人種とのコネクションを独自に形成し、退任後の天下り先の確保に余念が無い。
 聖の父親──前任の院長、佐藤慎一も、そういった人種の人間だった。
 しかし、その慎一は五十台半ばにして病に倒れ、病気自体は決して重いものではなかったが、運悪く肺炎を併発してこの世を去った。聖が未だ21歳の時だった。

 その頃聖は大学の医学部に在籍しており、聖本人には父親の後を継ぐ気は毛頭なかったが、慎一の急死により、白羽の矢が立つことになった。
 もともと医学部に進むつもりはなかったが、半ば強制的な父親の進めに聖が折れたのである。そんな聖の研究や学業成績などは押して知るべしの有り様だったが、しかし、あの佐藤慎一の忘れ形見である聖の立場は、一部の人間たちにとっては非常に魅力的に映ったのだ。
 何も知らない聖を院長の座において、自分が実権を握る。金と地位に目の眩んだ人間たちなら、誰もが思いつきそうなことである。
 無論未だ二十歳そこそこの聖に、院長として一つの病院を取り仕切る力も、器量もあるはずがなかった。だからこその、後見人という立場を利用しようとした者たちが、引きも切らさず聖にコンタクトを取り始めたのである。
 
 だが、聖にとっては、至極どうでもいい話だった。
 わざわざ自分を院長に据えなくとも、貴方が院長になればいい。聖は幾度となく自分にコンタクトを取る人間たちにそう伝えたが、それでは彼らにとって世間的な風当たりが悪いらしい。
 あくまでも聖に当面の院長の座を譲り、しかし実権を握る。それに嫌気が差した聖が自ら身を引き、その後釜に座る、というストーリーを思い描く者が大多数を占めていた。
 聖を年端の行かぬ子供だと舐めたのか、馬鹿正直にそれを包み隠さず話した上で、敢えて院長の座に誘ってくる者も居た。

 どいつもこいつも、豚だった。薄汚れた犬畜生だった。
 何もかも放り出して、いっそ外国にでも逃げてしまおうかと、聖が本気で考え始めた頃に、とある人物が聖にコンタクトを取ったのである。
 その人物とは、上村佐織と名乗る女性だった。傍目には父親と同年代だろうか。ともあれそれまでの連中とは異なり、薄汚れたような雰囲気は皆無で、またしても豚かと追い返そうとした聖にとっては、いささか拍子抜けするほどの、好人物だったのである。
 佐藤慎一の旧友だと云う上村佐織は、控えめに、しかしはっきりと聖に院長の座につく事を薦めてきた。はじめ聖は取り付く島もなかったが、頻繁に自分にコンタクトを取り続ける上村の中には、下世話な欲望がないことに気付く。
 無論上村は上村なりに、何かしらの意図をもって聖に接触を図ったのだろう。聖とてそれに気付かぬはずはなかったが、この人が自分の事を推してくれるなら。そう聖が思い始めるのに、さして時間は掛からなかった。


 そうして聖がこの大病院の院長に異例の若さで就任し、もう何年経ったのだろう。
 当時は物珍しさにマスメディアの連中が彼女と、彼女の周囲に群れたものである。若さと、加えて聖は、日本人離れした整った容姿の持ち主であったから、こぞってテレビ、雑誌その他、あらゆるメディアが聖を取り上げ、一躍時の人に祭り上げられてしまった。

 それから数年。今でこそ狂想的なムーブメントは去ったものの、俗物ではあったが天才的な執刀技術を誇った父親、佐藤慎一を彷彿とさせるメス捌きと、数年経った今も衰える事の無い美貌が、若き天才医師、佐藤聖の名を業界に轟かせているのである。



「佐藤先生」
 中庭から病棟内へと足を踏み入れたところで、聖は私服の中年女性に話し掛けられた。恐らくは聖がベンチで呆けていた時から待っていたのだろうが、わざわざ気を遣ってくれたらしい。
 その中年女性の顔に、聖は見覚えがあった。午前中に診察した外来患者の少女の母親だった。
「はい、何か?」
「あの……桂の、娘のことなんですが……その、本当に手術をしなければ、駄目なのでしょうか?」
 不安げな面持ちで母親は言う。
 悪性の腫瘍を切除するために必要な手術とはいえ、やはり母親としては、娘の身体が切られる、ということに抵抗があるのだろう。先ほどの診察のときに充分に説明した筈だったが、それでも割り切れない感情がわだかまるのは仕方の無い事だと思う。

 患者にとって医師とは、ある種の信仰に近いものがある。
 愛娘の体調が思わしくなく医者に診て貰い、そして一言、「風邪ですね」、と診断されることを、世の母親は望むのである。それは確かに信仰に近い。
 だが、その純粋な信仰心に、ごく稀に答えてやれない事もある。

「娘さんのケースは、ごくごく早期のものです。従って、手術もそれほど大規模なものにはなりません。術後の経過さえ良好なら、週末は入院を強いてしまうでしょうが、週明けには退院出来るでしょう。眠っている間に手術は終わり、目が醒めた頃には退院ですよ」
 ことさら安心感のある笑顔を浮かべて、聖は言った。すると母親は、
「はい……判りました。よろしくお願いします、聖さま」
 そう言って、幾ばくか軽い足取りで去っていった。


 数年前。佐藤聖という存在が、にわかにメディアを賑わし始めた頃。
 丁度その頃日本では、空前の韓国俳優ブームであり、メディアはこぞって彼ら韓国出身の男性俳優を、『さま』付けで呼んでいた。
 それにあやかったのか、時を同じくして一躍有名人となった聖を、声を揃えて、『聖さま』、と呼んだのである。
 当時の聖にとっては、煩わしい事この上ない呼び名だった。
 同僚たちはまるで当てつけたように、せいさませいさまと連呼するし、道を歩けば何処からとも無くひそひそと、「あの人って、もしかして聖さま?」、と聴こえてきたものである。
 
 だがそれも、今となっては昔の話なのだが。
 先ほどの母親の場合は、その当時がオーバーラップして、ついそう呼んでしまったのだろう。
 数年経った今では、嫌悪感も苛立ちも感じない。


  ◇


 午前中に比べて、午後は比較的病院内はゆったりとした空気に包まれる。
 平日の午前中は主に、会社を半休して病院に訪れる外来患者が大半を占める。午後とて決して外来の数は少なくは無いが、それでも診察に追われ息つく暇も無い午前中に比べれば、幾ばくかの余裕は生まれる。

 十名ほどの外来患者の診察を終えた聖は、入院患者の往診に赴こうと診察室を出たところで、「院長先生」、という声に呼び止められた。白衣を僅かにひるがえし振り向くと、そこには一人のナースの、薄い笑みを浮かべてこちらをじっと見つめる姿があった。
 高校の頃のクラスメイトで、聖が院長としてこの病院に赴いた時に再会した友人、水野蓉子である。如何にも優等生然とした面構えと、人の上に立つべき者としてのリーダーシップは、あの頃からいささかも衰えていない。
 聖と同じく若輩ながらも、この界隈の科のナース達の、実質的なリーダーである。

「聖さま、って、何だか久しぶりに聞いたわね」
「覗き見か。相変わらず趣味がいいな」
 恐らくは、先ほどの母親とのやり取りを見ていたのだろう。皮肉ったつもりだったが、対して蓉子は悪びれる風も無い。
「聖も随分院長らしくなったわね。患者の不安感を煽るような事ばかり言っていたあの頃とは、見違えるようだわ」
「慣れただけさ。院長としての雑務なんて、殆ど全部先生に任せ切りだしね。蓉子だってそうじゃない。方々の科の婦長に喧嘩売ってた頃が懐かしいよ」
 周囲に人の姿が殆ど見えないのをいい事に、二人は雑談に興じる。同じ病棟に勤めていても、お互い忙しい身であるから、顔をあわせる機会など殆ど無い。
「若かったのよ。ナース同士のつまんない垣根を壊してやろうと思って。そのためには、各勢力のボスを叩くのが手っ取り早かったのよね」
「先生もいつも言ってるよ。蓉子がいてくれて本当、助かってるって。だから蓉子が院長になればよかったんだよ。私には外科手術くらいしか出来ないし」
 そう言うと、蓉子はかすかに肩をすくめて見せる。
「お生憎様。私にはその外科手術が出来ないわ。院長は聖さま。これ以上があって?」
「だから聖さまって呼ぶなって」

 悪態の突き合いのようにも見えるが、それはこの二人に限ってはいつもの光景だった。ここまで苦楽を共にしてきた仲である。その信頼は深い。
 ちなみに聖が先生と呼んだのは、上村佐織のことである。この界隈の病院の院長たちや、有名な開業医たちとの付き合い等を、面倒がる聖に代わって一手に引き受けている。
 そろそろ歳は六十台に指しかかろうかという上村だったが、歳を感じさせない仕事振りを見せる彼女に対しては、聖も蓉子も頭が上がらない。

 ひとしきり話し込んだ二人は、やがてどちらからともなく仕事に戻ろうとするが、別れ際に蓉子は、
「そういえば、聖のことを探してる人が居たわ」
 思い出したように、そんなことを言った。
「え、誰?」
「フリーのジャーナリストとか言ってたわ。貴女のことを取材させて欲しいって」
 ひところテレビや雑誌の取材が聖の下に殺到したものだが、それは数年前の話である。今更聖のことをネタにしたところで数字は取れない。聖は首を傾げるばかりだったが、蓉子はなにやら含みを持たせたような笑みを浮かべるのみである。
 こういうときの蓉子は、絶対何かを隠してる、と、蓉子と十年以上の付き合いである聖の直感は告げていた。
「……まあ、時間が取れれば、答えてやるさ」
「今更貴女のことをネタにしたいだなんて、相当の物好きも居たものね。ええもう、ほんとに」

 どうせ蓉子は口を割るまい。果たしてどんなカラクリが仕掛けてあるのかと、幾分浮き立つ心を抑えつつも、聖は白衣をひるがえして、入院患者たちの往診へと向かった。



 外来の患者やナースたちで賑わう病棟を抜け、入院患者たちの居る病棟に向かうにつれ、辺りはまるで潮が引くように急激に静まり返ってゆく。
 一部屋ずつ、自分の担当である患者を往診していく聖だったが、とある病室の前でぱたりとその足は止まった。聖は逡巡するがやがて、その扉を開けようと手を伸ばす。しかし、
「なにをしている?」
 突如、耳に飛び込んできたハスキーな声に、聖の手は止まる。聖は反射的に声の聴こえた方を見やるとそこには、数人のナースを引き連れた、白衣姿の長身の男が、自信に満ちた表情を浮かべて、聖をじっと見つめていた。
「これはこれは佐藤院長。こんな所で奇遇ですね。その病室には確か、僕の担当の患者がいた筈ですが、さて一体どのようなご用件でしょうか?」
「……柏木、か」

 慇懃無礼に聖に接するこの青年の名を、柏木優と云う。
 この病院には第一外科と第二外科、二つの外科が存在し、第一外科は臨床、そして第二外科は、主に病理から臨床に移籍した医師たちで構成されている。
 院長である聖は、第二外科の教授も勤めており、そしてこの柏木優は、第一外科の教授を勤めている。伝統的に第一外科と第二外科の人間は仲が悪く、互いに縄張り意識が強い。しかし、そんな険悪な人間関係は、聖と柏木の二人が、ほぼ同時にそれぞれの科の教授の座についた事で、劇的に変化していったのだが──。

「何か用か、柏木。私はただ、以前に私が診た患者の容態が気になって、往診しようとしただけだ」
「以前は、でしょう? 先ごろその病室の患者──二条乃梨子さんは、僕が担当をすることに決まった筈でしたが」
「ふん。オペのスピードばかりを自慢するような奴に、彼女を任せておけるか」
「おやおや、スピードでこの僕に敵わないからって、そんな不当な中傷は控えていただきたい」
「なんだと……!?」
 柏木が連れていたナースたちは、彼の背に隠れるようにして聖を睨んでいる。彼女たちは柏木の信奉者だった。

 第一外科の柏木優と、第二外科の佐藤聖。彼ら二人の仲の悪さはこの病院内では有名であり、それに比例して、それぞれの科の医師たちも険悪な関係に──あると思われがちだが、実際はそうではなかった。
 聖と柏木のあからさまな対立が如何にも子供じみていて、部下たちにとっては逆に、それが反面教師として作用しているらしい。互いの上司を慮って仲の悪い振りをしている第一外科と第二外科だが、仲が悪いのは実は、当の教授同士だけなのである。

 柏木優という青年は、聖や蓉子と同い年であり、病に倒れ伏す直前の佐藤慎一が、何処からか引っ張ってきた医師だった。
 その当時、柏木に関しては様々な憶測が乱れ飛んだが、一説によれば何処かの病院で問題を起こし、その病院に居られなくなったところを、慎一が拾った、と言われている。或いは、実際に問題を起こしたのは柏木ではなく別の誰かで、柏木はそれを庇ったため、とも言われている。
 結局事情を知っていたであろう慎一はこの世を去り、柏木本人も自身の過去の事を黙して語らなかったため、真相は今でも闇から闇である。

 ただ、矢鱈と腕は立つ。
 外科手術では右に出るもの無し、という佐藤聖を脅かすほどの実力の持ち主であり、佐藤聖よりも技術は上だ、と評する人間も、決して少なくは無い。
 柏木か、聖か──。
 どちらにしろ、彼ら二人が健在であるうちは、少なくとも技術的な面では何処にも引けはとらないだろう、という関係者たちの見解であった。

「だいたいお前は、オペにスピードを意識しすぎている。そのうち患者の腹の中にメスを置き忘れるんじゃないか?」
「随分低レベルなことを仰る。患者を切る事しか能の無い佐藤聖とはよく言ったものだ。貴女こそ患者の右足と左足を切り間違わんようせいぜい気をつけることだな」

 自分達の他にはナースしか居ない事をいいことに、二人の子供じみた諍いは止まらない。いい加減ナースたちも、二人を止めねば面倒な事になりかねない、と危惧し始めた頃だった。
 小競り合う二人の脇、さきほど聖が触れようとした扉が、苛立ったように乱暴に開かれた。

「いい加減にしてください」
 開け放たれた扉のその先には、寝間着姿の少女が一人。おかっぱ頭と歳の割に醒めたような瞳が印象的な、この病院の入院患者の一人、二条乃梨子が憮然とした面持ちで立っていた。
「……乃梨子ちゃん。これはね、あの」
「いや、失敬。二条さんには、とんだ失態をお見せしてしまったようだ」
「……」
 言い訳の言葉も出てこない二人を、乃梨子は一層醒めた目で睨みつけて、
「一週間後に手術を控えた人間に聞かせるセリフがそれですか。お二人とも、医者としての自覚が足りないんじゃないんですか?」
 一介の中学生が大の大人に言えるようなセリフではないのだが、聖も柏木も、明らかに自分たちがおろかだったと自覚しているのか、ただ平謝りするのみである。


 生前の佐藤慎一は恐らく、柏木優を佐藤家の婿養子として迎え入れるつもりではなかったのだろうかと聖は推測する。父親亡き今、それを確認する事は叶わないが、その可能性は高い。
 父親の取り計らいにより聖と柏木は知り合ったわけだが、初見からして聖は、この気障ったらしい青年の事は好かなかった。聖の立場や容姿に惹かれて言い寄ってくる男性は、それまでにも少なくなかったから、だからこそ聖は、また厄介な面倒事が増えたのか、と当時思ったものだが、柏木の態度は聖の予想の範疇を越えたものであった。
 それは恐らく、当時の父親にとってもそうだったのではないかと思う。

 慎一の前でありながら、聖に対して敵愾心を露にする柏木。売り言葉に買い言葉で、柏木に対して罵詈雑言をぶつける聖。
 その時の父慎一の表情が、あからさまに疲れきったものだったのを、聖は今でも忘れない。
 俗物ではあったが、慎一の手術により奇跡的に死の淵から生還した患者は、決して少なくは無かった。

 父親として尊敬に値する人間ではなかった。だが、柏木と聖を引き合わせた直後に病に伏せた事に関しては、やはり聖はその責任の一端を担ってしまったのかもしれない。
 後悔は先に立たぬものだが、それでも一抹の罪悪感は今でも拭い去る事は出来ない。


 だからといって、今更柏木に対する評価を改めたりはしない。
 慇懃無礼で尊大で、自分以外の誰も彼もを見下したようなその態度、その言動は、どこを切り取ってみても、『気に食わない』、という言葉しか浮かんでこない。

 歳の割にませた感のある入院患者の女子中学生、二条乃梨子。怒り覚めやらぬ彼女ををなだめつつも、聖はそんなことを考えていた。


  ◇


 外来の患者の最後の一人を診終えた聖が、今しがた書き終えたカルテを眺めていたときに、一人の若いナースが診察室に入ってきた。彼女は、「院長先生に面会を求めてる方が……」、と言った。
「急患かい?」
 聖はカルテかに目をやりながら答える。
「いえ、そういうわけではないんです。フリーのジャーナリストを名乗る女性が」
「ああ……」
 先ほど蓉子が言っていた人物かと合点がいく。
 あれから数時間経過しているが未だに病院に残っていたとは。これは益々、相当の物好きだと推測する。
 普段なら忙しさにかまけて断るところだが、あのときの蓉子の思わせぶりな態度が気になる。
 ロビーで待っててもらうよう言伝をナースに頼み、聖は診察室を後にした。


 診療時間外のロビーは、ひとけが無く、耳鳴りがしそうなほどに静まり返っていた。既に面会時間も過ぎている。人で賑わう道理は無いが、聖はこの、しんと静まり返った病院は嫌いではなかった。
 窓際の椅子に腰をおろし、聖はハンドバッグの中から煙草のケースを取り出す。その中から一本を抜き出して、半ば無意識的動作で口に咥えそして、火を点ける。
 煙草を美味いと思ったことは一度も無いが、この病院に赴任して日々、当たり前のように執刀するようになった聖は、自然に煙草を吸うようになっていた。
 
 件のフリーのジャーナリストとやらは、今のところ姿を見せる気配は無い。もう帰ってしまったのだろうか。
 聖が煙草を一本吸い終えたところで、さてどうしたものかと悩み始めた頃に、彼女に声をかける者があった。
「ハーイ」
「……はじめまして。貴女が、私を探していたというジャーナリストの方ですか?」
 ひょっこりと姿をあらわしたのは、色の濃いサングラスをつけ、派手目の衣装に身を包んだ、聖と同じ歳の頃の女性だった。実にくだけた感じで聖に話し掛けてきたが、こんな派手な女性──下着が見えそうなほど短いスカートを履くような人間に知り合いは居ない。
「……なによなによ、随分固いじゃない。私の事、忘れちゃったの?」
「人をお間違えでは?」
「ああ、これつけてるから判らなかったのか」
 短いスカートの女性は、聖の方につかつかと歩み寄っていくと、おもむろに身に付けていたサングラスを外す。
 そこにあった顔は──。

「江利子!? 鳥居江利子! 本当にあの江利子!?」
「ハイ。久しぶりね、聖。何だかしばらく見ない内に、随分老け込んだわね貴女」


 鳥居江利子。
 聖と蓉子と共通の、高校時代の友人である。
 その当時は毎日のように顔を合わせていた仲であったが、大学進学と同時に離れ離れとなり、三人とも疎遠になっていた。
 聖と蓉子はこの病院で再会したが、江利子の行方だけはようとして知れなくて、一時期聖と蓉子は、彼女の家族を尋ね、行方を掴もうとしていたこともあったが、結局彼女の両親も、娘がどこでどうしていたのか、よく知らされていなかったらしい。

 江利子は高校時代に歳の離れた男と付き合っていた事があった。相手の男を紹介されたことはなかったが、そういった色事というのは、雰囲気で何となく掴める物である。
 だから聖も蓉子も、きっと何処かでその男と同棲でもしてるのか、或いは両親に反対されて駆け落ちでもしたのかと、いくぶんずれた所のあった友人のことを思っていたものである。


「今まで、どこで何してたのさ」
「ちょっとね、アメリカの方に。実はね、帰国したのは今日の朝でね。だからこんな格好なのよ」
 仕事で海外に居たのかと聖が聞くと、江利子はやや歯切れ悪そうに、「それがメインだけど、それだけじゃない」、と答えた。あまり詮索されたくないことなのだろうと、聖は推測する。

 幼稚園の頃からの腐れ縁である聖と江利子。かれこれ十年くらい離れていたという感慨が二人の舌を滑らかにして、取りとめも無い思い出話は尽きなかったが、ここはいささか場所が悪すぎる。

「どうする? 江利子さえよければ、後で飲みにでも出ようか? 蓉子も今週は早番だから、誘えば来てくれると思うよ」
「んー、それも悪くないんだけどね……半日のフライトの後だから、流石の江利子さまもお疲れよ。だからさ、蓉子の部屋にでも押しかけない?」
「ああ、それもいいね」
 しかし、ナースである蓉子は女子寮住まいで、酒を持ち込んで騒いだりや、男を連れ込んだりは表向き禁止されている。
「でも、今日はこの際、問題なし」
「なんで問題なしなの?」

「院長権限だ」




 江利子の運転する車で近場のコンビニまで足を伸ばし、食料やらを買い込み、そしてまた病院までとんぼ返りをする。そういえば蓉子に連絡を入れてなかったと聖は気になったが、今も昔も勘の鋭い彼女の事だ。こうして私たちが彼女の部屋に向かおうとしている事など予測済みだろうと、聖はえらく車高の低い車の助手席に座りながら、ぼんやりと思った。

「……江利子ってさ、結構儲けてるんだね」
 そう言うと江利子は、「なんで?」、と不思議そうな顔をする。
「だって、この車普通じゃないでしょ。車詳しくないけど、多分これ一台で家が建つくらいじゃない?」
 聖が座っているのは、前席の右側。つまりこの車は左ハンドルだ。えらく車体が大きく、そして低い。後方視野など無いに等しい。
 随分と金と手間が掛かってそうな割に内装はいたってシンプルで、余計なものが何一つ無い。エアコンとオーディオはあったが、それらを含めても最低限だ。
 やたらとエンジン音、排気音が五月蝿く、隣の江利子の声も辛うじて聞こえてくるほどにノイジーで、おちおち会話も出来はしない。

「多分、聖ほど儲けてはいないと思うけど」
「いや、私は儲けてない」
 院長という立場を最大限に利用すれば、合法スレスレで荒稼ぎすることは可能だし、事実父親はそうやって私腹を肥やしていた。聖がそうしないのは、金や名誉にまるで執着が無い事と、ただ単に面倒くさいから、という理由があった。
「そうなんだ。この車は別に私が買ったわけじゃなくて、兄貴たちがね」
「ああ……あの人たちか」

 やたらと江利子を溺愛していた、彼女の兄弟たちのことを思い出す。江利子に男が出来た事を何処からとも無く聞きつけて、高校にまでやって来て騒動になったことを、聖は昨日のことのように思い出していたが、あれからもう、ざっと十年は経っているのである。


 江利子の派手な車を、病院の関係者用の駐車スペースに止めて、今度は徒歩で蓉子の住む女子寮を目指す。すでに日は暮れかけていたが、こんな季節だ。のんびりと歩いているだけで、身体中が汗ばんでくる。

「ふー、判っちゃいるけど、日本はあっついわねー。もう二ヶ月くらい向こうに居ればよかったかな」
 江利子はこれまでアメリカに居たという。仕事で渡米していたというのは本当だろうが、だとすれば仕事じゃない理由とやらに、どうしても聖の知的好奇心の矛先は向いてしまう。
「……でも、その理由を聞かないあたりが聖らしいわね」
「そうかな?」
 そう聞き返すと、江利子はもっともらしく頷いてみせる。確かに、深入りはするのもされるのも聖の趣味ではない。だが。
「大丈夫だよ」
「なにが大丈夫なの?」
「後で蓉子と二人で尋問するから」
「……」

 これでも江利子のことは随分心配していたのである。自殺するようなタマではないが、しかし江利子の相手である男のことまでは知り得ない。もしや無理心中でも、とよくない想像をしたことだってあるのだ。
 この機会を逃してしまえば、またいつこの風来坊に出会えるとも知れない。聖も、そしておそらくは蓉子も、今日は耳を揃えてこれまで行方をくらましていた理由を江利子から聞き出さなければ、明日を迎えられまい。そう思っていた。

「……帰ってこなきゃよかったかも」

 やれやれといった風に、一人天を仰ぎ呟く江利子。それでも彼女の表情は、どこか嬉しそうだった。


  ◇


 女子寮の蓉子の部屋に辿り着くき、随分とくつろいだ服装に着替えた蓉子に迎えられた。
 江利子の派手な服とのギャップが著しいが、それがそのまま彼女たちの歩んできた道を表しているようで、聖はちょっとした感慨に囚われた。

「……でも、中身がまるっきり変わらないところがなぁ」
「何か言った、聖」
 蓉子に訝しがられ、聖は曖昧にお茶を濁す。
「どうせ、私と江利子の服装を見比べてたんでしょ。悪うございました、色気のない女でして」
「誰もそこまで言ってないけど……」
「私はむしろ、蓉子の服が欲しいな」
 そう言う江利子に対して、「なんでこんな服が」、と疑問の蓉子。すると江利子は、
「一度でいいから、白衣の天使って呼ばれてみたいのよねー」
 なんてことを言った。

 聖と蓉子は顔を見合わせる。確かに江利子は高校の頃、妙なもの、珍しいもの、レアリティの高いものに惹かれる傾向に在った。だからこそ、十も年上の男と付き合ってるらしいと判った時も、それほど驚かなかったものである。
 そんな江利子はどんな事情があったか知らないが、アメリカに高飛びし、派手な服装に身を包み、やかましいスポーツカーを手足のように乗りこなしている。
 趣味趣向が誰かと被る事を極端に嫌っていた江利子だったからこそ、こうして自由の象徴のような有り様を見せられると、なるほど納得と思わされる。

 蓉子は正反対に、昔も今も堅実だった。
 高校の頃蓉子は、法律を学びたいと言っていた。法律という事は、ゆくゆくは弁護士か。そのとき聖は、いかにも真面目な蓉子らしいな、と漠然と思っただけだったが、しかし蓉子にとっての現実は、幾ばくか厳しいものだったらしい。
 弁護士を目指していたであろう蓉子は、今では大病院の一つの歯車、ナースとして毎日、独楽鼠のように忙しく動き回っている。
 若輩ながらもナースたちのリーダーのである今の彼女は、ああやっぱり蓉子はどこにいても蓉子だ、と聖に思わせるのだが、それでも、彼女に相応しい職というのは、どこか別の場所にあるような気がしないわけでもない。

「聖はどっちの服装がお好み? ナース服? それとも超ミニ?」
 同じ制服を着て高校に通っていたあの頃と、見てくれは随分と変わってしまった二人だがやはり、こうしてばかげた質問をしてくる江利子も、それを聞いて、いかにも、「馬鹿いってんじゃないわよ」、という表情を浮かべる蓉子も、中身は何一つ変わっていない。

「……どっちもヤダ。もっと若い子がいいな。それだったら、ミニでもナースでも、どっちでもいいよ」
「バーカ」



「ところで、江利子」
「……あ、お酒なくなりそう。ちょっくら買ってくるわね」
 そう言って立ち上がりかけた江利子のミニスカートのすそを掴んで、蓉子がくいくいと顎で部屋の隅を指し示す。
 そこには、コンビニの袋に入れられたまま手付かずの、ビールやら何やらがどっさりと置かれていた。
「むぅ、ちょっと買い込みすぎたかしら」
「ちょっと、ね」
 
 無論江利子とてそれに気付いていなかったわけではない。蓉子の切り出し方に何か不自然なものを感じ取ったからこそ逃げ出そうとしたのだろう。

「だって江利子は、今日の”主賓”だもの。買出しに行かせるなんて、そんな恐れ多い」
 ”主賓”という部分をことさら強調して言った蓉子は、つまんだままだったミニスカートの裾を引っ張って、江利子を無理やり座らせる。
 そしてそのまま、つつつと擦り寄っていく。対して江利子は、そんな蓉子から離れようとするが、スカートの裾をつまむ蓉子の力は、予想以上に強いものだったらしい。


 蓉子の部屋でささやかな宴を開き、既に二時間ほどが経過した。高校の頃の思い出話や、聖と蓉子の勤める病院のことなど、話題は尽きる事も無かった。三人とも程よく酒も回り、聖も、「そろそろ切り出そうかな」、と密かに考えていたのであった。

「せーい、今日のお題はなんだったっけ?」
 わざとらしくもにこやかに聞いてくる蓉子。彼女が一番飲んでいるかもしれない。
「今日のお題ね。ああそうそう、忘れるところだった。今日のお題、それは……」


 ──鳥居江利子、十年の軌跡。


「……いやそんな、軌跡だなんて。この十年、当り障り無く生きてきただけですから。むしろ聖が院長の座につくまでのサクセスストーリーでもお題にした方が、ねえ? 私の話なんて、酒のつまにもなりゃしないから」
「いや、なる」
「なるね、絶対」
「だ、断言されたッ!?」
 及び腰になる江利子だったが、肝心要の、「それ」、を聞かれたくないならば、今更二人の前に姿をあらわすまい。高校の頃は、必要以上に干渉しあわないことを暗黙の了承としていた聖たち三人であったが、時と場合によっては、知的好奇心がそのルールを上回ることだってあるのだ。

「──それではこれより、査問を始めます」
「査問!?」
「貴女に黙秘権はありません」
「ないならわざわざ言うなっ!」
「今後貴女の発言は、全て記録させていただきます。後日裁判において証拠となるものなので、嘘偽り無く、誠実に質問に答えてください」
「嘘偽り無くわけ判かんねえよ!」

 蓉子も、そして江利子も、程よく回っているらしい。やりとりが完全に高校生かそれ以下になっている。

「……ええと、発言の前に一つ、確認事項などよろしいでしょうか、内部監査室長どの」
「許可します」
「その、そもそも私という個人が査問されるべき理由に、皆目見当がつきません。納得いく理由を提示していただきたい」
 聖と蓉子は顔を見合わせる。私が言ってもいいが、ここは蓉子に任せようか。聖はそう思い頷くと、蓉子は、
「親友に不必要に心配を掛けたという嫌疑が、貴女には掛けられています。すみやかな弁明を、私も聖も望んでいます」
 そんな風に、言った。
「……」
「納得した?」
 江利子は一瞬、虚を突かれたように押し黙ったが、やがて、酒の所為で紅くなった顔を、「うん」、と頷かせた。



 江利子は空になったビールの缶を弄びながら、ゆっくりと語り始めた。
 高校三年生の頃に、十歳年上の男性と付き合っていた事。やがて高校を卒業し大学に進学しても、変わらずに付き合っていた、と。

「……男ってもしかして、髭もじゃの熊みたいな中年男?」
「そうね。中年って言っても、あの頃は彼は未だ30歳だったけどね。何だ蓉子、知ってたんだ」
「あの頃、ちらっと見た覚えがあるわ」
「そう、その髭男。大学に進学しても付き合ってて、世間一般のカップルとは多少のずれがあったかもしれないけど、私たちは上手く行っていた。少なくとも、私はそう思っていた」

 江利子が大学二年生、二十歳になったときに、髭男が切り出した。
 娘に会ってやってくれないか、と。

「それって」
「ええ。彼には奥さんがいて……奥さんは私が高校の頃には既に亡くなってらっしゃって、ね。そのとき娘さんは三歳で。だから娘がいるって言われたときには、その子は六歳だったわけだけど」
「……小さいお子さんがいて、よく貴女と付き合ってる時間があったわね」
「付き合ってるっていっても、殆ど私が纏わりついていただけに近かったから。それほど迷惑がっている様子でもなかったわ。それぐらいは判る」
「もしかして……」
「なあに、聖」
「いや、なんでもない」
 髭男にとって江利子は、恋人ではなく、娘のように思われていただけではないのだろうか。そう聖は思ったが、敢えて聖は言わなかった。おそらくはその当時の江利子とて、薄々は気付いていた筈だろうから。

 娘に会ってやってくれ、と切り出されて、江利子は狼狽した。相手に妻子があるかもしれないと、意識した事ぐらいは勿論あった。だがそれは、実感を伴わない、いわば空想のようなものだったのだ。
 娘が一人いて、妻とは既に死別している。
 それを知らされたとき、江利子は怯えた。
 彼には、妻が居るかもしれない。子供だって一人や二人、居てもおかしくはない。そう意識した事はあるが、その先を考える事をしなかった。いや、敢えて意識的に、考える事を恐れていたのかもしれない。
 相手の男が妻のある身ならば、自分は男にとっては不倫相手だ。相手の男に子供がいて、もしその男と結婚するならば、その子が、自分の子供になるのだ、ということを。

「……それで、その後どうしたの?」
「うん。結婚した」
「!?」
 聖はテーブルの上に置かれていたあたりめに手を伸ばしていたが、手元が狂って、あたりめがテーブル一面に散らばった。
 蓉子は丁度ビールを口に含んだ瞬間だったために、実に悲惨な事態を迎えるハメになってしまった。
「ちょ、ちょっと、汚いわね蓉子。勘弁してよ」
「江利子の言い方が唐突すぎるんだよ。もっとこう、それを言うまでのプロセスがあってもいいと思うよ」
 噴霧器と化したのち、げほげほと堰込む蓉子の背をさすりながら、聖はあきれたように言う。
「そうかしら? 言われてみれば確かに、そんな気も」
「そ、それで……どう、なった、の」

 結局、『娘が一人居る』、という男の告白を聞かされたときに怯み尻込みしてしまった江利子は、既にその瞬間に負けていたのかもしれない。涼しい顔して何でもこなしてしまう、というスタイルが、聖にとっての高校時代の江利子像だったが、それだけで渡っていけるほど、人生は業の浅いものでもないのだ。
 江利子は髭男の家や、彼の子供とも馴染む事は出来たが、果たしてそれは真実だったのだろうか。江利子にとってもそれは、今では判らないという。
 しかし、髭男──彼女の夫たる男が、おおよそ一年ほどの結婚生活を経て出した結論はこうだった。
 「これ以上一緒に居るのは、お互いの為に良くない」、という。

「……結婚したのも、別れたのも、大学に在籍してた頃ね。親の反対押し切って結婚したから引け目があって、家の人間とはあまり関わりたくなかった。大学出た後は、大学にいた頃からバイトしてた雑誌社に流れるように入社して、機会があれば率先して海外の方へ取材に行ってたりしたから。兎に角、親の目の届かないところで生きたかったのね」
「結構苦労してたんだね、江利子」
「聖に比べたら大したものでもないわ。私の場合は、ただ単に母親になれなくて逃げ出しただけだもの」

 聖も、そして蓉子も未だ独身である。名の知れすぎた聖に言い寄ってくるような男性は、あいにくと聖の周りには居なかった。いや、居ないわけではなかったが、直ぐに男の方が離れていくのである。
 年上といわず年下といわず、男性全般に対してはつれない態度を取るのが聖であった。
 対して、蓉子などは一抹の近寄りがたさは感じさせるものの、性格、容姿ともに完璧に近い。その完璧さが男性を尻込みさせるのだろうか、などと思いつつも聖は蓉子を見やるが、
「……」
 何故か蓉子はむっすりと黙り込み、じと目で江利子を睨んでいる。
「な、なに、蓉子。バツイチが珍しい?」
 狼狽したように江利子。高校の頃から自分にも他人にも厳しい蓉子であったが、よもや離婚した事で怒られるなんて、と、どちらかというと高校時代にはだらだらと過ごしていた江利子と聖は、「もっとしゃっきりしなさい」「えー、面倒くさいー」、などという高校の頃の蓉子とのやり取りを思い出していた。

「……私、聞いてない」
「へ?」
「江利子がそんなに大変だったなんて私、全然知らなかった」
「よ、蓉子?」
「いや、私も聞いてなかった……けど?」
 よもや蓉子が勘違いしてるのではないかと、聖はフォローを入れたが、どうやら蓉子の考えは全く別のところにあったらしい。
「すっごく心配したんだから。もしかしたら、何処かでのたれ死んでるんじゃないかって、ほんとに心配したんだから! 何で連絡の一つも寄越さないの江利子は!」
「い、いやね、子供の一人でも連れてって、貴女たちをビックリさせてやろうかな……なんてこっそり画策してましてあの頃」
 それもまた、呆れるほどに江利子らしい、などと聖は妙な納得をしてしまったのだが、酔いの回った蓉子にとっては、ただ激情を煽るだけの結果に終わったようだ。
「バカッ!」
「は、ハイ。私、馬鹿でした……」
 萎縮する江利子に、半泣半怒の蓉子。いい加減に止めてやった方がいいかなと、聖は江利子にか、それとも蓉子にか、よく判らないが、助け舟を出してやった。
「まあま、二人とも。今夜は私に免じて」
「何でアンタに免じなけりゃならんのよっ」
 聖の差し出したなけなしの助け舟は、しかし蓉子の一喝により、あえなく沈没した。
 もう知らない、と蓉子は、残りのビールを一気に煽ると、「注ぎなさい」、と空になった缶ビールの缶を差し出してきた。ジョークなのか本気なのか聖は図りかね、一瞬答えに窮する。
「だいたいアンタたちは、いつもいつも……」
 そんな聖を尻目に、くだを巻き始める蓉子。

 ──ああ、この感覚は……。

 聖も、そしてきっと江利子も、同じ事を考えていた。まさしくこれは自分たちの高校時代の再現のようであり、しかしあれから十年も経過している。その時間は決して巻き戻る事はなく、こうして郷愁にも似た感覚に身を委ねるくらいしか、今の自分たちには許されない。
 いつ終わるとも知れない蓉子の説教に、半ば苦笑いのままに、はい、はい、と頷いている江利子。彼女が帰国したのは、言うまでもなく聖と蓉子に会いに来ただけが理由ではないのだろう。
 けれど、江利子は、こんな感覚を懐かしく思い、自分たちの前に再び現れたのではないかと。
 そう思うことが、そう思えることが、聖にとっては、なによりも嬉しかった。



「……蓉子、はしゃいでたね」
 あちこちに散乱した缶ビールの空やら、食べ終えた摘みの空を聖がかき集めていると、江利子がぽつりと呟いた。
「うん」
 対して聖は、作業の手を休めずにそれに答える。勝手知ったる蓉子の部屋だ。何をどう片付ければよいのか、聖は熟知していた。
 江利子は蓉子を──ベッドの上で気持ち良さそうに寝息を立てている蓉子を、じっと見つめていた。

「蓉子ってお酒弱い?」
「んなことはない。でも、昔よりは弱くなってるかな……」
「蓉子とお酒飲んだりすることって、結構あるんだ」
「昔はちょくちょく。今はほんと、偶にかな」
「……なんだか蓉子、寂しそうだった。もっと構ってあげた方がいいんじゃないの?」
「疲れてるのさ。ナースなんて、この世で最も疲れる仕事の一つだと思うよ」
「蓉子のこと、重い?」
「……あのさ、さっきから何が言いたいのさ江利子は。言いたいことがあるならハッキリ言ってよ」
 片付けの手を止めて聖は江利子を見て言う。その江利子の表情は、聖が想像していた以上に、真剣なものだった。

「蓉子、貴女のことを追いかけて、あの病院に来たんでしょ。報われてないわよ、今の蓉子は」
「報われてないのは江利子も一緒じゃない。結婚に失敗だなんて」
「私の事はどうでもいいのよ。適当に生きていける人間だから。でもね、私や貴女みたいに、適当に生きていけない人間も世の中には──」
「……そういうの、今日は、止めとこう」

 エアコンの稼動する音と、蓉子の微かな寝息と、そして聖の持つゴミ袋が、かさかさと音を立てる。

「……」
「……」
「……そうね」

 江利子の瞳はその件に関して諦めたものではなかったが、どうやらこの場は引いてくれたらしい。昔の江利子だったら、絶対に引かなかっただろうと思うとやはり、十年という歳月を意識せざるを得ない聖であった。

「今日、泊まってってもいいでしょう? 聖も泊まって──ってそうだ。ここは蓉子の部屋だったっけ。あんまり聖が自然だったから失念してた」
 それは別に、他意のある物言いではなかった。純粋に、そう思っただけなのだろう。
「いいんじゃない? 私も泊まってく。明日も私らは仕事だから、江利子が起きたら私たちいないかもしれないけど」
「ええ、昼まで寝かせてもらうわ。さすがに飛行機の中じゃ良く眠れなかったし」
「たまには私も、昼まで思う存分寝てみたいよ。いいねえ、フリーター様は」
「フリーター言うなっ。今の私は、フリーのジャーナリストっ」




 第一話 エピローグ


 小鳥のさえずる音──ではなく、蝉が五月蝿く鳴く声で、聖は目を醒ました。フローリングの床に毛布を敷いての雑魚寝だったから体のふしぶしが痛んだが、対して頭は澄み切っていた。
 酒を飲むと翌朝しゃっきりと目を醒ます体質の聖であった。
 さて、と聖がゆるりと身体を起こすと、
「ッ──!」
 何の前触れもなく開かれたカーテンから、一面日の光が差し込んできて、聖はそのかがっぽしさに目を瞑る。瞳孔が開ききっていないときに日の光は厳しい。じんわりと湧いてきた涙を軽く拭い微かに目を開けると、そこには既に身支度を整え、カーテンの裾を摘んだまま、にっこりと微笑む蓉子の姿があった。

「お目覚めですか、佐藤院長」
「……ああ、おはよう、蓉子」

 一夜明けてみれば、一分の隙も無い相変わらずの蓉子と、そして聖の脇で未だ、だらしない寝相のままに惰眠を貪る江利子。髪の毛はばさばさで、口の端に涎の跡なぞ覗かせる江利子の有り様は、聖も蓉子も苦笑するより他にない、空前のだらしなさであった。



 午前中の病院は、相変わらず外来の患者が引きも切らずにやって来て、相変わらず息つく間もない忙しさだった。
 今しがた診察を終えたばかりの患者のカルテに必要事項を書き込み、それをファイルに閉じたところで、聖に声を掛けるナースがいた。
「どうした?」
「あの、今日の昼頃に、小笠原病院からこっちに移って来る入院患者さんが一人います。第二外科の担当になるので、午後から往診の方をお願いします」
「ん、わかった。その患者のカルテを後でこっちに回してくれ。名前は、なんていうんだ?」

「──はい。高校生の子で、藤堂志摩子さん、という女の子です」



 色褪せて煤けたような鉄筋コンクリート造りの建物にぐるりと囲まれた中庭から、ふと、頭上を見上げれば、長方形に切り取られた青過ぎる空が顔を覗かせていた。
 若干傾き始めた太陽は、鮮烈なほどにくっきりと、光と、そして影を中庭に落とす。
 丁度影の位置に在る木製のベンチに腰掛けていた白衣姿の女性は、その有り様をぼんやりと眺めていたが、やがて思い出したように左の手首に巻かれた腕時計を見やる。
 時計の針は、そろそろ午後の一時を過ぎようかという頃だった。

「さて、そろそろ行くか」
 ベンチに腰を掛けていた白衣の女性──佐藤聖は、真っ白い白衣を翻して中庭を後にする。

 あの江利子が十年ぶりに帰ってきた。
 その江利子の所為なのかどうかは知らないが、蓉子の仕事姿は、いつにも増してしゃっきりと、優等生然としたものだった。
 そろそろ彼女は目を醒ました頃だろうか。あの様子から察するに、江利子はしばらくは日本に居るのだろう。目を離せば、またいつ風来坊に戻るか知れない。しばらくは蓉子に、きっちりと監視を──もとい、大和撫子としてのたしなみと奥ゆかしさを仕込んでもらう必要がありそうだ。
「って、そういえば、江利子の取材とやらを未だ受けてないな……ま、暇なときでいいか」
 聖も蓉子のことを言えた義理ではない。自然、廊下を行く足取りは軽やかなものになり、着慣れた白衣の裾は、あたかも白い翼のように翻り、それだけで一際に彼女の存在感を際立たせる。

 人いきれの中を縫うようにして歩く聖は、やがて誰に聞かせるでもなく、微かな声で呟いた。

「……しばらくは、楽しい日が続きそうだよ。シオリ──」


 第一話  完 
 





▲マリア様がみてる