4S -Serect ESCAPE-


 祐巳は逃げ出した。目の前の、自身にとって余りにも辛辣な現実から。
 一時凌ぎだと分かっている。
 後で必ずしっぺ返しをくらう。
 そして、失ってはならないものを失う……かもしれない。
 何物にも替え難い親友を、同時に失うかもしれない。
 けれど、我が身可愛さのために、交わした約束を反故にして、しっぽを巻いて逃げ出したのだ。
 由乃さんも、志摩子さんも選ばずに。ただ、逃げることを選んだ。

 祐巳はひたすら走った。走った分だけ、目を背けたくなる現実から逃げ出せそうになる、そんな気がして。
 薔薇の館に背を向けて、中庭を突っ切り、マリア像の前をスルーして。約束の地、中庭から少しでも距離を取ろうと、校門目指して全力疾走していたその時。
「あれー、祐巳さんだー」
 なんとも呑気な声が、祐巳の耳に飛び込んできた。
「かっ、桂さん!」
「かっ、じゃないよ。そんなに急いでどこ行くの?」
「……」
 本当のことなぞ、言えようはずもない。
「あれ、こんなとこで油売ってるってことは、もしかして今日はお仕事お休み?」
 反射的に頷いてしまう。ロボットの如く、カクカクと。
「じゃあさじゃあさ、たまには私に付き合ってよ。いいお店見つけたんだ。さっきから、誰誘おうか悩みながら、ずっとその辺り徘徊してたんだ」
 ミーハーな桂さんのその辺りは、呆れを通り越してある意味尊敬である。久しくあっていなかった友人は、去年と変わらぬ佇まいをかもし出していた。

 結局今日の放課後は、桂さんオススメのお店へ行くことになった。
 勿論寄り道のための届出など出してはいない。そんなことも手伝って、ずっと祐巳の心を、罪悪感と背徳感が、ぎりぎりと締め付けていた。
 意識してか知らずか、桂さんの口から、『由乃さん』 とか、『志摩子さん』 なんて単語が飛び出さなかったのには、内心ほっと胸を撫で下ろしていた祐巳だったが……。

「うう……眠れないよぅ……」
 桂さんと別れ、帰路について帰宅して着替えてご飯食べてお風呂入って髪の毛乾かしてベッドに入ったところで、再び罪悪感が津波のように襲い掛かってきた。
 かれこれ二時間くらいは、ベッドの中で身悶えていただろうか。すでに深夜もいいところである。
 もともと気の大きい方ではない。
 志摩子さんと約束を交わし、そして由乃さんとも約束した。二人は同じ場所で祐巳を待とうとし、そして図らずとも出会うのだ。
 あれ、志摩子さん、こんなところでどうしたの? ええちょっと。人と待ち合わせを。 奇遇ねえ、実は私もなのよ。 ……。 ……。 由乃さん、誰と待ち合わせを? そういう志摩子さんは?
「あああああ」
 祐巳はシーツを掴んで掻き乱しながら身悶えた。見慣れたはずの二人の姿が、祐巳の心を苛む。
 毛布の中にもぐりこんで、祐巳はひたすらに祈った。理由はなんでも構いません。どうか明日、リリアン女学園を臨時休校にしてください、と。

 果たして祐巳の祈りは、マリア様に届くのか?
 親友二人は、今、何を思う?
 明日祐巳は一体、どうなってしまうのか?

 鉛のように重たく冷たい感情にその心と身体を支配され、福沢祐巳の夜は、ゆっくりと更けていく。



 epiloge

 私は今日、一つ理解したことがある。
 絶対に、逃げちゃダメだ、ということを。

 一晩がっつりと悩み続けたせいだろうか、寝不足で痛む目と頭をどうにかなだめすかして、ベッドを抜け出していつものように朝の準備を始める頃には、意外にも心は軽くなっていた。
 開き直ったとも言う。
「うわ、祐巳、目が真っ赤だぞ」
 一足先に準備を済ませていた弟、祐麒は、天然記念物を見るような視線を、投げよこしてくる。それを私は、ぼんやりとした頭のままで、適当に頷いてみせる。
「おい、一体何があったんだ?」
「……池から突然女神様が出てきて、「金の斧と銀の斧、欲しいのはどちら?」 なんて聞かれたら祐麒、あんたならどうする?」
「いや、つーか意味不明だし。その話って結局、金でも銀でもなく、自分の落とした鉄の斧を選ぶのが正解なんだろ」
「そうだねぇ。どちらも選ばないのが、正解なんだよねぇ」
「違うって。どちらも選ばないんじゃなくて、鉄の斧を選ぶんだよ。ただどちらも選ばないんじゃあ、それは単なる逃げだろ」
「……そうだねぇ。逃げだねぇ」
 私が二人とも選ばなかったのは、第三の選択肢を選んだから。
 由乃さんと志摩子さん、二人と分け隔てなく平等に付き合いたいから。だからこそ私は、涙を飲んで二人とも選ばなかった。
「うわ、めっちゃ言い訳がましい」
 頭を抱えた私を見やる祐麒のまなざしは、相変わらず形容しがたいものであった。


 そしてついに、リリアン女学園にたどり着いてしまう。
 もし二人に会ったら、言い訳せずに誤ろう。自分の選択が過ちだったと認め、あとの判断を親友たちに委ねよう。そう、心に決めていた。
 そしてその機会が、早くも目の前に現れた。

「あっ、志摩子さん、由乃さんっ」
 見慣れた後姿を二つ見つけた。その背を目指して駆け寄りつつ、出来るだけ平静を装って私は声をかけた。
「あら、ごきげんよう、紅薔薇のつぼみ。朝から奇遇ね」
「紅薔薇のつぼみ、ごきげんよう」
「…………ぇ?」
「さ、早く行きましょう由乃。もう少しで予鈴が鳴ってしまうわ」
「分かったわ志摩子。ほら、紅薔薇のつぼみも、急いで」

 待て。
 待て待て待て待て待て待て。

 今の一連の会話は、どこかおかしい。
 意味的におかしいわけじゃない。日本語としての文法的にも、これといって問題はないように見受けられる。
 意識せずとも、私の思考は、今さっき感じた違和感ただ一点に注がれる。

「ね、ねえ二人とも」
 小走りに追いかけながら私は問い掛ける。振り向いた二人の表情は、いつも通りで。いつも以上にいつも通りで、私は空恐ろしさに背筋を震わせる。
「えっと、一体いつから二人は、名前の呼び捨てで呼び合ってたっけ……?」
「いやだ紅薔薇のつぼみったら。一年の頃、山百合会に入ったばかりの頃からこうだったわよ、ねえ由乃」
「そう。まだ紅薔薇のつぼみが、祥子さまの妹になる前からね。あれからもう一年もたったか。懐かしいね志摩子」
 二人、たおやかな笑みを浮かべて、顔と身体を寄せ合う。私の意識過剰でなければ、その距離は、親友と呼ぶには近すぎる。恋人か、スールの距離だ。
「あ、あれ、そうだったけ。それじゃあ、私は、二人になんて呼ばれてたっけ……?」
 動機を抑えて、おそるおそる聞く。
 すると二人は顔を見合わせ、
「紅薔薇のつぼみは紅薔薇のつぼみでしょう。私にとっては、それ以上でもそれ以下でもないわ」
「紅薔薇のつぼみのことは、今も昔も、そしてこれからずっと、三年生になるまで紅薔薇のつぼみって呼ぶつもりだけど?」
 うわあ、ここにいじめっ子が二人もいますよマリア様。

「ちょ、ちょっと待ってよ二人とも!」
 手すら組みかねないほどに二人の距離は近く、肩を寄せ合い、仲睦まじく二人は歩いていく。私ひとりを置いて。

 ──ふん、いくらのっぴきらない事態に直面したからって、私たち二人を敵に回すような真似をしたからこうなるのよ、

 ──おイタが過ぎたのよ祐巳さん。でも、こういう構図も結構、新鮮で楽しいわ。癖になってしまいそう。

 小悪魔のような表情を浮かべる親友二人の、心の声を聞いた気がした。


 結局、向こう一ヶ月きっかり、私が、二人の親友から名前を呼ばれることはなかった。
 私のことを紅薔薇のつぼみ、紅薔薇のつぼみと連呼する二人を見て、令さまと乃梨子ちゃんは、とてもとても不思議そうな顔をしていたが、説明する気にはどうにもならなかった。
 あまつさえ祥子さまに至っては、「どうせ祐巳が悪いのでしょう」 なんて、どこかで聞いたようなセリフを、さもつまらなげに言っていた。

 そうして私は痛感した。
 親友との約束を破ってはいけないということ。
 何事に対しても、逃げてはダメだということ。


 ──そんな福沢祐巳の決意が、今後の山百合会の一員としての学園生活にどれほどの影響をもたらしたのか、それはマリア様しか知らないこと。


 了






▲マリア様がみてる