4S -Serect YOSHINO-


 祐巳は大急ぎで温室へと向かう。
 散々迷った挙句、結局由乃さんを選んだのには、それなりの理由がある。
 明らかに、今日一日様子のおかしかった彼女。それは、祐巳でなくとも、誰の目にもそう映ったことであろう。もしかすると、とんでもない悩みに苛まれているのかもしれない。今日の態度から察するに、放って置ける状況では、ないと思う。
 だから祐巳は、由乃さんを選んだ。

 だが、そんなものは志摩子さんにとって理由にも何にもなりはしない。こうして祐巳が由乃さんを選んだことは、彼女にとってはいかなる理由があろうと、完璧に裏切りである。
 それは、彼女の立場になってみれば、一目瞭然なことである。
 仮に祐巳が志摩子さんだとしたら、今後しばらく、釈然としない思いを抱えながら、生活していくことになるだろう。

(ごめん志摩子さん……。本当に、ごめん……!)

 これから由乃さんに会おうというのに、そのために温室へ向かって走っているというのに。何故か、頭に浮かぶのは志摩子さんのことばかりで、こうして何度も何度もバカみたいにただ心の中で謝ってる。
 そんな矛盾に、祐巳は押し潰されそうだった。

 
 温室にたどり着き、祐巳は乱れていた呼吸を整える。かけるべき言葉を選び出して、祐巳は温室への扉を、ゆっくりと開いた。
「あ……」
「……」
 温室の中には、二つの人影。見慣れた二つのシルエットは、祐巳にとってはかけがえのない親友たちである。
 その二人の表情は、お世辞にも機嫌の良いものには見えなかった。針の筵にも似たこの状況は、他ならぬ祐巳自身が招いたものだ。
 だから、甘んじて、この身を投じよう。
「由乃さん、温室の外、行こう」
「……ええ、わかったわ」
 その言葉は冷たい。あくまでもいつもの表情、いつもの口調のままであるが、その根底に流れるものは、どこまでも冷たい。
「ごめん志摩子さん、しばらく温室の中で待ってて欲しい」
「……」
「本当、ごめん……」
「ええ……。私のことは、気にしないで」
 たまらなくなって祐巳は目を逸らした。志摩子さんの態度は、傍目にはあまり変化がないように見える。だからこそ余計に、いつもの柔和な笑顔が、とても痛ましいものに見えてしまって。
 祐巳は、由乃さんと二人、無言で温室の外へと出た。


 温室の外へ出て、開口一番由乃さんは、
「ばか」
「ごめん、由乃さん……」
「私に謝ってどうするのよ。あなたが謝るべき人は、温室の中よ」
 それでも。
 それでも、祐巳は二人に謝らなければならない。
 うなだれて地面ばかり見ていた祐巳に、由乃さんは、「顔上げて。別に私は、怒ってないから」、と、つとめて明るい声で、「祐巳さんは、ここに何しに来てくれたんだっけ?」
「由乃さんと、志摩子さんの悩み事、聞くために……」
「そうね。まあ私も、温室に来たらあなたじゃなくて志摩子さんがいたのには、さすがに面食らったわ。アンタなにしに来てんの邪魔よ、って感じ? でもね、話してみてさらにビックリしたわ。私と全く同じ理由で、温室に来てたんだからね。出前がかち合うのは判るけど、相談事がかち合うってのも、結構レアよね。んでもう、気まずいのなんのって。別に申し合わせて話したわけじゃないけど、やっぱり祐巳さんがどちらを選ぶか、すごく気にしてるわけよ二人とも。まあ、先に約束したのは志摩子さんらしいから、祐巳さんはきっと、彼女の方を選ぶんだろうなって思ってたけど」
 落ち込んでる祐巳の気を紛らわそうとしてか、由乃さんはことさら饒舌に、機関銃のように喋り続けた。
「しかも、極めつけなのは、相談事の内容が、私も志摩子さんも同じ、ってことよね。ああもう、こんにゃろーって感じだけど」
「え? そ、それってどういう意味!?」
「意味も何も、言葉通りの意味よ。私と志摩子さんは、同じ事で悩んでいたってわけ」


 由乃さんが語る真相はこうだった。
 昨日彼女ら二人──志摩子さんと由乃さんだが、二人、一緒に帰ったらしい。勿論薔薇の館からバス停を経由して、駅まで。
 そして、その間に交わされた何気ない雑談こそが、火種だった。
 どこをどう間違ったか判らない。
 とにかく、間違ってしまった二人は、「祐巳が、志摩子さんと由乃さん、どちらをより好ましく思っているか、どちらにより無二の親友的なものを抱いているのか」 という言い合い(言い争い?)を、始めてしまった。
 その話題の原因は、今となってはさっぱり判らないという。しかし、その話題を始めてしまったということはきっと、自分たちの心の奥底に、それを知りたいという願望があったのだろうと、由乃さんは分析する。
 若干険悪にはなったものの、結局その話題はほどほどで流したらしい。永劫言い合っても平行線で泥沼だと考えたらしい。
 そうして危機は去った。
 が、家に帰って着替えてご飯食べてお風呂入って寝間着になって髪の毛乾かしてベッドの中に入って目を瞑ると──

「──気になって仕方なかった、というわけよ。少なくとも私はね。そのお陰で今日は寝不足よ。志摩子さんも大方似たようなものでしょう。目、少し赤かったもの」
「な、な、」
 なんということだ。
「あ! じゃ、じゃあこうして私が由乃さんと先にお話したことを……」
「当然、志摩子さんはそのように受け止めたでしょうね。何たって、本人の行動が直結だからね、今回の場合」
「そんなつもりはなかったのに……」
「そんなつもりはなかった? じゃあ祐巳さん、あなたはどうして私と先に話をすることを選んだのかしら? あみだくじで選んだなんて言ったらひっぱたくからね」
 決して軽い気持ちで選んだわけでは、断じてない。しかし……。
「ま、それはいいわ。答えは保留にしてくれて構わない。相応の理由があるんでしょう? だったら私は、構わない」
 由乃さんは続ける。
「こうして温室にわざわざ来てもらって──別に何を話すわけでもなかった。なんでもない雑談を交わして、祐巳さんが私のことを好ましく思ってくれてるのが確認できれば、それでよかった。話してれば、そういうのは判るから」
「じゃあ今日、ずっと態度がヘンだったのは……?」
「んー、別に自分ではそれほどヘンだとは思わないんだけどね。それはね、祐巳さんの顔見てると、何だか余計なこと考えちゃいそうだったから。親友が本当に自分のことを好きなのか? なんてことで悩むのは、はっきり言って脳細胞の無駄遣いだと思うのよ。それでも、どうしても祐巳さんの顔を見てしまえば、そういうことを考えてしまう。だから、教室から消えてたの」
 昨日の志摩子さんとのやり取りがあったから、どうしても祐巳の感情を深読みしてしまったのだろうか? 気持ちは、理解できなくはない。
 だとすれば、今、一人の志摩子さんはきっと、祐巳と一緒にいる由乃さんよりも、きっと……。
「そうね、志摩子さんのこと……。どうするの、祐巳さん。何か切り札があるのなら使うのは今よ。祥子さまのためじゃなく、志摩子さんのために使いなさい。例えそれが、リリアン女学園高等部の福沢祐巳にとって、たった一回きりのことだとしても、ね」
 判っている。祐巳は無言で頷いた。ただ、志摩子さんのことを想いながら──。



 epiloge

 結局彼女たちを待たずに、温室から逃げるように立ち去った。
 薔薇の館にも寄らず、ロサ・ギガンティアとしての私に挨拶をしてくれてきた人も、半ば無視するような形で、逃げるように校門へ向かっていた。
 やりきれなくて、切なかった。
 胸のおくが、ズキズキと痛む。身体の最も柔らかい部分を、刃物で少しずつ削ぎ取られていくような、そんな感覚だった。
 けれど、どこか諦観してる自分がいるのもまた、事実だった。
 所詮私は、校内でもナイス・コンビと名高い彼女たち──祐巳さんと由乃さんの二人の仲には踏み込めない。
 どこまでも、二人との距離は、遠い。
 そんな現実が、たまらなく嫌で、
 そんな自分が、たまらなく嫌だった。

 そうしえ俯いて、重苦しく息を吐いた、そのときだった。
「ひッ……!?」
 私の右手が、僅かに遅れて左手がすごい力で引っ張られて、危うく私は転びそうになった。前につんのめって、あわてて持ち直す。
「なーに一人でこそこそ帰ろうとしてるのよ。真面目一筋、藤堂志摩子ともあろうお方がさぼりですかー?」
 私の右手を掴んだままの由乃さんが言う。正直言って、今一番顔を見たくない相手だ。ほっといて欲しい。そう言おうとした時だった。
「志摩子さん」
 左手が、突然柔らかいものにぎゅっと押し付けられて、私は思わず固まった。腕の先を見ると、なんと祐巳さんが、私の左手を、自分の、ちょっと薄めな胸に押し当てていた。左腕が、彼女の胸のなかに抱かれているような形である。予想外の事態に、体温が急上昇するのを感じる。
 祐巳さんの瞳は、どこまでも真摯だった。
 言葉はない。深く澄んだその瞳に、私は思わず見入ってしまう。何か言おうと思うが、思考が言葉にならない。
 そんなさなか、彼女が言った。
「遊び、行こ」
 その言い方が余りに純粋で、一切の余計な意図がなくて、そして余りに真っ直ぐだったから、思考が全停止して、彼女の顔をまじまじと覗き込んでしまった。
 祐巳さんもそれっきり無言で、ただ私を見つめてくるのみ。
 そのまま数秒、あるいは幾星霜──。
「……アンタたち、キスでもする気? こんな往来で、よくも、まあ」
 脇からのあきれ果てたような声に、私と祐巳さんは我に帰る。祐巳さんは、湯気でも発しそうなほどに赤くなっている。きっと私も、似たようなものなのだろうけど。

 親友二人に両脇から腕を取られて、連れて行かれる。
 たったさっきまで一人、漂うように歩いていた私には、それが、とても心地良くて。
 いつまでもぐずぐずとしてる私を、二人の親友が、なかば強引に引っ張ってくれる。そんな彼女らも、自分も、それほど嫌いではない──が。
「ふふっ」
「? どうしたの、志摩子さん」
 こと、この状況でそう思わされるのは、すこしだけ、癪だった。
 だから私は、走り出した。二人に手を掴まれながらも、精一杯に。二人を引っ張って。
「ちょ、ちょっと志摩子さん!」
「んな、競走馬じゃないんだから、ちょっと落ち着けって……!」
 せっかく二人が誘ってくれたんだ。お言葉に甘えて今日は、山百合会のお仕事は、お休みさせていただこう。せめて今日くらい、彼女たちに全面的に甘えてしまっても、バチは当たるまい。
 祥子さまは怒るだろう。令さまは苦笑して、乃梨子は呆れ顔をあらわにするかもしれない。
 けれど、平気。
 頼もしい仲間が、二人も、私の傍にはいてくれるのだから。


 了






▲マリア様がみてる