4S -Serect SHIMAKO-


 散々迷った挙句、祐巳は志摩子さんを選んだ。
 小さい理由ならいくつかあるが、最も大きな理由は一つ。それは、彼女との約束の方が先だからだ。それを覆すのは、道義に反する気がしたから。
 けれど、本当はそんなこと、祐巳が言えたことじゃない。
 二人の信頼を弄ぶようなことをしてしまったのは、他ならぬ祐巳自身なのだから。
 由乃さんは怒るだろう。ひっぱたかれて、愛想をつかされても不思議じゃない。祐巳とは比べ物にならないほど、感情の起伏が激しい人なのだ。
 それでも祐巳には謝ることしか出来ない。
 例え許してもらえなくとも、絶対に謝罪の心を忘れてはならないのだ。

 志摩子さんを選び、由乃さんを見捨てる。
 自身の選び出した選択は、温室へと駆ける祐巳の両の足を、まるで石のように重くしていた。

 温室への扉を開く。
 ここまで来てこまねいていても仕方がない。覚悟を決めて、出来るだけ不自然にならないよう温室の中に入った。
 そこにいたのは見慣れた二人。
 けれど、見慣れた表情ではなかった。
「ごきげんよう祐巳さん。遅かったわね、何かあった?」
「いや、ない……けど」
 拍子抜けするほどに、いつもと変わりない声。けれど、けれど、思う。彼女の瞳は、祐巳の心の奥の奥、どこまでも見通して、射抜かんばかりの鋭さを秘めていると。
「……」
 対して志摩子さんは、無言。もともと感情の起伏をあらわにする人ではないし、他人を責めることを良しとしない性格なのは、自他供に認めるところだ。
 しかし──
「ごめん由乃さん、志摩子さんとお話があるから、少し温室の外へ出ていて欲しい」
 ……瞬間、凍てついたような空気が、祐巳の身体を突き抜けていった。
「そう、判ったわ」
 そっけなく、由乃さんは温室を出て行った。そのそっけなさは、耳に残らない。
 残っているのは、あの、一瞬の空気。刃物のような、どころではない。それをも遥かに上回る、致死性の何かだった。

 由乃さんの後姿が温室の外へと消えて、見えなくなったところで祐巳は、無意識に息を吐いた。
「大丈夫?」 心配げな志摩子さんの声。「顔、真っ青だったから。今にも、倒れそう」
 そんな親友の優しい気遣いに──今の祐巳は、甘えるわけにはいかないのだ。
「祐巳さん……?」
「ごめんなさい志摩子さん。今回のことは全部、全部私が悪いの。志摩子さんと先に約束してたのに、由乃さんとも……ん」
 祐巳の口元に、志摩子さんのすべすべとした手が、やんわりと添えられた。反射的に、口をつぐむ。
「自分を責めちゃだめ。誰もそんな事望んでないわ。私も、由乃さんも。それに、元々は朝から私が考え事なんてしてたから、祐巳さんに余計な心配をさせてしまったのだから」
 そういえば、と、すっかり忘れていた。志摩子さんの相談にのるために、祐巳はここまで来たのである。
 その前に──志摩子さんはそう言って、居住まいを直した。
 ふわりと髪の毛が揺れて、そして、彼女の表情から笑みが消え失せる。
 どこか、遠くに、目の前の少女を感じる。

「藤堂志摩子と、島津由乃。福沢祐巳さん、あなたはどちらが好きですか?」

 どちらが好き?
 まるでその言葉は、鼓膜を介さずに、直接脳の中へ飛び込んできたかのような、そんな神がかり的な響きがあった。
 
 そして、意外にも祐巳は悩まなかった。答えるまでに要した時間は、ほんの一瞬。
 なぜならば、その問への答え。
 それは今から百年考えたって、得られる答えではないからだ。
「……答えは、どちらも、だよ。私、福沢祐巳は、志摩子さんのことも、由乃さんのことも、等しく大好きなんだから」
 言葉は正直な気持ち。嘘偽りはない。目の前にいる、マリア様に誓って。
 すると目の前のマリア様──志摩子さんは、ふっと表情をくずした。よく見慣れた、柔和な微笑だ。
「よかった」
「え?」
「私のことも、由乃さんのことも、好きと言ってくれて。私の悩みも、由乃さんの悩みも、今この瞬間に、解決したのだから」

 志摩子さんの口から、事の起こり──昨日のことが語られた。
 二人、連れ立って帰路についた、志摩子さんと由乃さん。
 ひょんな事から二人は、「祐巳が二人のうち、どちらをより好ましく思っているか」 という話を始めてしまった。
 険悪というほどの雰囲気ではなかったが、結局結論など出ようはずもなく、二人は別れた。

「けれど、やっぱり気になってたのね、私も、由乃さんも。態度に出てしまっていた。由乃さんも、少し様子が変だったでしょう?」
 実際には変どころの騒ぎではなかったが、祐巳は頷いた。
「……ごめんなさい。さっきは、試すようなことを聞いてしまって。けれど、この場にいない由乃さんのためにも、どうしても聞かなければならなかった」
 志摩子さんは、祐巳が、「二人のことが好き」 と答えてくれることを、痛切に願っていた。
 そう答えてくれるのならば、それだけで。
 それだけで、祐巳のとった行動の全てを、受け入れることが出来るから──と、志摩子さんは語る。
「そっか……。うん、そう言ってくれるなら、私はとっても嬉しいよ」
「由乃さんも、きっとそう思ってるはずよ。私も由乃さんも、そんな風に思ってくれる祐巳さんのことが、大好きなのだから」
「ありがとう。ところで、さ」
 ハテナ顔の志摩子さん。祐巳はふと疑問に思ったことを口にした。
「もし私が、「志摩子さんのほうが好き」 とか、「由乃さんのほうが好き」 なんて言ってたら、どうなってたの、かな……?」
 一瞬志摩子さんはきょとんとした顔になり、それから目をぱちくりとさせた。そして、直後に祐巳は、激しくうろたえることになった。
「し、志摩子さんっ」
「え……なあに?」
 白い頬を流れる涙。
 あれ、どうして、と、濡れた頬に手をやりながら、志摩子さんは狼狽する。その、涙の意味は……。
「わからない……。ただ、そんなこと祐巳さんは絶対に言わない、言わない筈だって思ってて、けれど、そんな風に言われたら……どうしよう、って。そう思ったら、勝手に……」
「志摩子さん……」
「私も由乃さんも、祐巳さん、あなたにより好かれたかった。でもね、私たちが好きなのは、「二人とも好きだよ」 って言ってくれる祐巳さんなの。だから……」
 志摩子さんの顔は、涙でぐしゃぐしゃだった。けれどきっと、祐巳の顔だって似たようなものだろう。親友にこれほど想ってもらえる自分は、きっと世界一の幸せ者だ、なんて感無量に浸っていると──

「口八丁手八丁。おまけに泣き落とし? 結構結構。ウブなねんねの夢見る乙女の熱演、大変ご苦労様、志摩子さん」

 ──響き渡る、断罪めいた声。
 よく砥いだ日本刀のような、絶対零度の空気を纏った誰かが、志摩子さんを狙って、一歩一歩近付いてくる。




 epiloge

 私にとって福沢祐巳という少女は、山百合会の仲間だ。
 そして、それ以前に、大切な大切な、何度言っても足りないくらいに大切な、私の親友だ。
 さらに、親友の以前に、120%気の合う、最高の相棒(パートナー)であるのだ。

 私にとって藤堂志摩子という少女は、山百合会の仲間だ。
 そして、それ以前に、大切な大切な、百回言えば、まあ足りるかなというくらいの、私の親友だ。
 そして(ここ重要)、親友の以前に、絶対に譲り合うことの出来ない、最高の好敵手(ライバル)であるのだ!

「随分好き勝手言ってくれたわね志摩子さん。今日ほどあなたを腹黒いと思ったことはないわ。昨日あなたが吐いたセリフ、この場で洗いざらいぶちまけてあげましょうか?」
「……そ、それはっ」
「昨日志摩子さんは、私に向かってこう言った。「祐巳さんと同じクラスになれたぐらいで図に乗らないで」 って」
「そんなこと言ってないわ! ただ、今回のクラス替えを担当した教師は、解雇されてしかるべきだって言っただけで……あ」
「し、志摩子さん……?」
 祐巳さんが思い切り引いている。
 志摩子さんは、顔を真っ青にして狼狽している。叩くなら今だ。
「ふん、化けの皮剥がれたわね藤堂志摩子! いつもいつもいい子ぶってたあなたも、とうとう年貢の納め時ね。おとなしくお縄につくがいいわ。今なら罪は軽いわよ」
「そんなの……そんなの! だって、由乃さんが、祐巳さんと同じクラスだってこと、散々自慢するからっ」
「あらあら今度は私をダシにする気? だってしょうがないじゃない。クラス替えに関しては、私たちはどうすることも出来ない。私が祐巳さんと同じクラスになったのは、神の、いいえ、マリア様の素晴らしい采配だったってことかしら?」
「由乃さん……!」
 志摩子さんの歯軋りがここまで聞こえた。
 すでに祐巳さんのことは眼中にないようで、親の仇よろしく、私のことを睨みつけてくる。
 祐巳さんはといえば、毒気を抜かれたような顔で、口を半開きにしたまま立ち尽くしている。もともと毒なんかない人だけど。
 祐巳さんは、私と志摩子さんのことを交互に見やって、そして、
「ちょt、ちょっと私お手洗い!」
 逃げた。

「結局こうなったわね。ギャラリーと賞品を兼ねてた祐巳さんは逃げちゃうし」
「口火を切ったのは、由乃さんでしょう?」
 この藤堂志摩子という少女、どうも、私と話すときだけ、普段の奥ゆかしさや謙虚さが、ナリを潜めるらしい。
 まったくいい迷惑……と言いたいところだが、本音の部分をぶつけてくれるのは、例えそれがどういう形であれ嬉しいものだ。
「ま、祐巳さんが最初にあなたを選んだのは、動かしようのない事実だしね。今日のところは、痛み分けということで」
「……祐巳さんはきっと、由乃さんを選びたかったのよ。でも、最初に約束したのが私だったから」
「ストップ」
 つまらないことを言い出した志摩子さんを制する。
「それはマリア様にしか分からないことよ。祐巳さんだってきっと、テンパってたんでしょうから、どこら辺に判断基準を見出したのか知れたものじゃないわ。きっと答えは知らぬが仏、言わぬが華、よ」
「そう……ね、ええ」
 二人、様々な思惑を飛び越えて、微笑み合う。

 そろそろ祐巳さんが戻ってくる頃だ。
「どうする?」
「そうねえ……」
 三人仲良くお手手繋いで薔薇の館に行ったっていい。
 さっきみたいに、志摩子さんとやりあったっていい。
 何だっていい。この仲間たちとなら、何をやっても楽しいはず。
 薔薇の館で日々のお勤めに精を出すのも。
 子供じみたケンカを繰り広げるのも。
 お泊り会を開くのも。
 どんなことだって、諸手を挙げて歓迎しよう。
「ね、志摩子さん」
「ええ」
「???」
 おそるおそるやって来た祐巳さんだけが、ワケが分からないとばかりに、目をパチクリとさせていた。


 了






▲マリア様がみてる