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■クラスメイトと小さな祈り それは、ある日の薔薇の館での何気ない話。 山百合会の二年生、福沢祐巳と島津由乃、そして藤堂志摩子の三人が、親しい人たちに貰ったバレンタインデーのチョコレートのお返し──詳しく説明すると、お返しチョコのラッピングに関して相談していた時のことである。 福沢祐巳は、ふと考えた。 私たち三人は、こうして殆ど毎日顔を合わせているからこそ、気兼ねなく何でも話すことの出来る仲になった。 が、何だかんだで未だに『さん付け』で呼び合っているように、出会ってそれほど長い時間が経過したわけではない。 しかしそれは、あくまで福沢祐巳という個人からの視点での話である。 島津由乃と藤堂志摩子。この二人はたしか、中等部時代に一度、同じ教室で、クラスメイトとして過ごしたことがある、という話を聞いたことがある。 だとすると、この二人の間には、何か自分の知らないエピソードがあるのでは……? そんなことを、不意に考えてしまった。 「あ、祐巳さんが何か考えてる」 と、目ざとく気付いたのが、島津由乃である。まさかあなたたち二人のことを考えてたと臆面なく言えるはずもないので、祐巳は、 「別にそんなことないけど?」 と、はぐらかしてしまった。 気にならないこともないが、余計な詮索をして鬱陶しい思いをされたら困る。ここは胸に秘めておくのが賢いやり方だろう。 「えー、ほんと? 祐巳さんも昔に比べて分かりにくくなったからなぁ。祥子さまのことではなさそうだし、瞳子ちゃんのことも違う気がする」 「もう、由乃さんったら。そういう邪推は失礼よ」 藤堂志摩子は、苦笑しながら由乃のことをたしなめる。といいつつも、志摩子も志摩子で楽しそうである。 言い出すべきか、それとも言わざるべきか。 彼女たちは、それが必要なことだと判断すれば、祐巳が促さなくても何だって教えてくれる。 しかし、必要でないと判断したなら、教えてくれない。 むしろ当然のことではあるのだが、だとするとこの場合、聞かなければ永遠に知ることは出来ないだろう。 ここは、思い切って聞いてしまおうか? 祐巳の気持ちが、自分の好奇心に傾きかけはじめた。 「そういえばさ、こないだ新聞部が……」 「ええ」 そんな風に祐巳が迷ってるうちに、二人は別の話を始めてしまい、祐巳は慌てて自分に急ブレーキをかけた。 やれやれ、聞きそびれた。 今更むしかえすのも上手くない。優柔不断な自分が悪いのだ。 まあ、こういう機会がこれきりというはずはないし、ふと湧き上がった小さな好奇心は、またいつかの機会にとっておこう。 私たちは、単なるクラスメイトというわけではない。いつだって会えるし、いつだって楽しくお話することが出来るのだから。 ◆ 子供の頃から、学校で『頼まれ事』をされることが多かった。ちょっと消しゴムを、鉛筆を貸して欲しいという小さな事から、大きなことでは、誰も率先してやりたがらない委員会活動に推薦されるなど、そういう類のことだ。 また、それは生徒たちからばかりではない。担任の教師からも、教材を運んで欲しいなど、そういう事を頼まれることも少なくなかった。 クラスのために働くことはそれほど嫌いではなかったから、頼まれ事に関しては、文句も言わずに引き受けてきた。 が、『頼めば何でも引き受けてくれる人』という印象を恐らくは周囲に持たれているのだろうな、という事を考えると、少し複雑な心境はある──と、リリアン女学園中等部二年生に在籍する、藤堂志摩子はふと考える。 ひとえに、頼み事を断るのを苦手とする自分が、この場合は悪いのだ。 何も臆面なくノーと言う必要はない。曖昧な言い回しで結果的に断ることは出来るのだが、あまり気持ちの良いものではないし、何より、困っている相手に差し出せる救いの手をあえて引っ込めることは、志摩子の信じているものに反する。 優先すべきは自分なのか、それとも他人なのか? 大袈裟でも何でもなく、志摩子が抱えている命題のひとつである。 「藤堂さん。少しだけいいかしら?」 「はい」 一日の授業を全て終え、志摩子が学習道具一式を、通学鞄に詰めているときのことだ。30代の半ばという頃の担任の教師が、志摩子に話しかけてきた。 作業の手を止めて、志摩子は担任教師のほうに視線を向ける。 リリアン女学園のOGであるという、未だ20代の中頃であろうか、という担任教師は、生徒たちと歳が近いことと、真面目で曲がったことを嫌う性格から、生徒たちの間での評価は高い。 もちろん志摩子としても嫌いな相手ではなかった。 「実はね、藤堂さんに、一つ頼みごとをしたいのだけど」 担任の教師にそう切り出されたとき、志摩子の中に逡巡があった。が、それをおくびに出すことは無い。自分は、そういう人間なのだ。 「はい、なんでしょう?」 志摩子は薄く微笑んでそう答えた。 ──担任教師の頼みごととは、こういうものだ。 志摩子の所属するクラスに、病気の療養として、ここのところ半月ほど入院をしている生徒が一人いる。 今は六月の初旬。今年度が始まって二ヶ月ほどが経過しているが、その生徒は四月にも一度、病気を理由に一週間ほど入院をしていた、という経歴がある。 もともとの持病があり、あまり身体が丈夫ではないということで、前年度や、少等部の頃にも、入退院を繰り返していたらしい、との事だ。 そして、担任教師の頼みごとというのは、その生徒のところにプリントを届けて欲しい、という、そういうものであった。 「……今日の朝、ホームルームで配ったものね。選択教科に関するものなのだけど。本当はね、担任である私が手ずから持っていくのが、この場合は筋なの」 「はあ」 実際は志摩子もそう思わない事もないのだが、まさか正直に「はい」と言えるはずもない。 担任教師は少しだけ申し訳なさそうな顔を浮かべ、さらに続ける。 「でも、彼女はあまり学校に来られない身体だから、クラスにも馴染みづらいかな……って思う。だから、クラスの事とか学校の事とか、色々と彼女に教えてきてあげて欲しいの」 「あの、選択教科のプリントは?」 志摩子がそう聞くと担任は、「プリントなんてついででいいの」と言って笑った。 正直で正義感があって、という生徒たちの評判は、実に的を射たものだったらしい。 「はい、承りました。私でよろしければ」 「ごめんなさいね。藤堂さんも、委員会活動で忙しいのに」 はじめから断るつもりは無かったから、志摩子は快諾した。 それに、忙しいといえば、クラスを一つ受け持っている担任教師のほうが、はるかに忙しいはずなのだ。その担任の頼みごとを、無下にしたくはなかった。 『ついで』という件のプリントを受け取り、そして彼女の入院している病院の場所を教えてもらう。 プリントは、丁寧なことにクリアファイルに収められた状態で渡された。ワンポイントに、カエルを模したキャラクターがあしらわれたクリアファイルだ。素敵な女性だな、と志摩子は率直に思った。 病院の場所に関しては、メモ書きをもらった。 病院の住所と電話番号、そして簡単な地図が書かれているその下の方に、 『403号室 島津由乃さん』 丁寧な文字で、そう綴られていた。 ◇ 通学によく利用するJRのM駅から、バスで十分ほど揺られたところに、島津由乃さんが入院している病院はあった。 大きな外科手術も手がける大病院であるらしく、病院の入り口はとても広く、沢山の人がひっきりなしに行き来していた。 志摩子が少し緊張の面持ちで入り口をくぐると、大きな受付カウンターの中に座る眼鏡をかけた受付係の人と、偶然に目が合った。 もともと制服は人目を引くが、リリアン女学園の制服は非常に古風で、誰の目にも留まるデザインである。 周囲からの視線を感じながら、志摩子は受付カウンターの方へ向かった。 「すいません。403号室の島津由乃さんに、お見舞いに来たのですが」 「ご苦労様です。それでは、身分証を見せていただけますか?」 「はい」 志摩子は鞄の中から学生証を取り出して、眼鏡の受付員の人に手渡した。 受付員の人は、書類に幾つかの項目を書き出して、学生証を返してきた。 「学校のお友達?」 「はい。同じクラスの」 自分と彼女は、おそらく友達といえる間柄ではないのだが、ここはそれを否定するところでもない。 眼鏡の受付員の人は、にこりと笑うと、カウンターの奥の方にいるナースキャップを被った女性に、病室までの案内を促してくれた。 「島津さんの病状は、ご存知?」 403号室までの道すがら、唐突に案内役看護士さんはそう聞いてきた。先ほどの眼鏡の受付員の「お友達?」という質問とは違う。志摩子は正直に、首を横に振った。 一瞬、訝しがられるだろうかと不安になったが、割りとそういうことは良くあるらしい。看護士さんは特に気にすることもなかったようだ。 「ここの病気なの」 そう言って案内役の看護士さんが指したのは、自分の左胸の辺り、ネームプレートが付けられている部分だった。 医学に疎い志摩子でも、その部分の病が簡単に解決するものではないという事くらいは理解している。 「心臓……ですか」 眉をひそめて言う志摩子が、よほど事態を重く捉えたと思い込んだのか、看護士さんは少し相貌を柔和に崩し、志摩子を安心させるように話しはじめた。 「心臓とは言っても、命の危険が脅かされるほどではないの。進行性ではないし、調子が良ければ軽い運動もできるくらい」 「しかし、彼女は」 幼い頃から入退院を繰り返しているという話であるし、彼女が運動しているのを見たことがない。 看護士さんの話を疑うわけではないが、どう考えても一日二日で完治するような病気には思えないのだ。 志摩子の言いたいことが伝わったのか、「ご家族以外には余り話してはいけないのだけど」と前置いて、事情を教えてくれた。 「おそらく手術をすれば、根治は出来るはず」 「それなら、悪化してしまう前に」 「けれど、そう簡単にいかない事情もあるの」 「……」 これ以上は深入りになる。 もしかすると、聞けばこの看護士さんは教えてくれるのかも知れないが、そもそも志摩子は、島津由乃という人間のことを殆ど何も知らないに等しい。 なのに、こうして裏でこそこそと嗅ぎまわるようなことは、あまり推奨されるべきことではない。 知りたい、と思う気持ちはある。 しかし私には、それを知る資格があるのだろうか? そんなことを考えながら廊下を歩いていると、やがて『403号室』というプレートが見えてきた。 「くれぐれも。心臓の病気なのだから、患者を興奮させるような発言は、厳禁ね」 「はい」 まあ、あなたなら大丈夫でしょうけど。看護士さんは、そう付け加える。 しかし、その時である。 島津由乃さんが居る部屋であるという403号室の中から、何か柔らかい物が当たるような、「ぼふん」という音が聞こえてきた。 志摩子と看護士さんは、思わず顔を見合わせてしまう。 もしや、何か不測の事態が……。 志摩子が胸をざわめかせた時、件の403号室の扉が開き、中から一人の長身の女性が、少し慌てたように部屋から出てきた。 ──いや、男性か? 「あら、あなたは」 「あ、どうも。こんにちは」 403号室から出てきた方と看護士さんは、どうやら顔見知りの仲らしい。その方は礼儀正しく、ぺこりと頭を下げた。 紺のジーンズに淡い色のポロシャツといういでたちと、短く自然に下ろしている髪形。今は爽やかな笑顔を浮かべているが、その顔立ちはとても凛々しい。 島津さんの、お兄さんだろうか? 「こちら、島津さんにお見舞いに来られたの」 「はじめまして。同じクラスの、藤堂志摩子です」 志摩子が自己紹介をして頭を下げると、その長身の方は、とても嬉しそうな顔を浮かべ、何かを言おうとしたが、またしても403号室の中から聞こえてきた「ぼふん」という音に遮られた。 「ふふふ。今日も島津さん、元気いっぱいね」 「ははは、今日はちょっと嫌われてしまったみたいで」 そう言って長身の方は、軽く頭をかいた。まったくしょうがないな、という風に苦笑を浮かべる。 「折角だから、今日は君にお任せするよ。また会えたら、今度はゆっくりとお話したいな」 それじゃ、と小さく手を振って、その長身の方は、志摩子たちがやってきた方へと去っていった。 「……よくお見舞いに来られる方なの。なんでも、とても古い付き合いだとかで」 「なるほど」 「じゃあ、私たちも行きましょうか」 「はい」 403号室の前まで行き、看護士さんが扉をコンコンと小さくノックする。中からは、「はい」というやけに険のある返事が聞こえてきた。 「島津さん、お友達がお見舞いに来られたわよ」 「……嘘。どうせ令ちゃんでしょ」 「クラスメイトの藤堂志摩子さんよ。お通ししてもいいわよね?」 「あ、え、ええ?」 「どうぞ、入って」 「……あの、未だ良いとも駄目とも」 「いいに決まってるじゃない。ほらほら」 看護士さんに背中を押されるようにして403号室へ入ると、ベッドの上で目を丸くしている島津由乃さんと、たっぷり五秒くらい目が合った。 「それじゃ、ごゆっくりどうぞ」 看護士さんは嬉しそうにそう言い残すと、扉を閉めてさっさと行ってしまった。 志摩子の足元には、少し埃で汚れた枕が落ちている。 病室のベッドの上には、島津さんが言葉もなく自分のことを凝視している。 そして志摩子は、病室の入り口で立ち尽くしている。 ──私、何をしに来たのだったかしら? 志摩子は一瞬、本気で忘れかけていた。 ◇ 病室に雰囲気を求めるのも贅沢な話なのかも知れないが、十代の女の子が一人で寝泊りする部屋としては、この403号室はどちらかというと殺風景な印象を受ける。 ベッド脇の小棚、小さな花瓶に薄紫色の紫陽花が活けられているが、少し居心地が悪そうに見えるのは気のせいか。 志摩子の視線に気付いたのか、島津さんは弁解するように言った。 「私の趣味じゃないのよ。今しがた、令ちゃんが活けていったの」 「……さきほどの方?」 「そう。どうせ直ぐ退院するんだから、お見舞いなんていいって言ったのに」 人を外見で判断するつもりは無かったのだが、志摩子が抱いていた『島津由乃』という人間のイメージとは、多少なり齟齬があるようだった。 「あっ、ごめんなさい。藤堂さんが来てくれたことは、嬉しいわ。クラスの人が来てくれた事って、あんまりなかったし」 「そうなの?」 「うん。学校来たり来なかったりで、体育も全部見学だから。そんなつもりはないけど、割りと浮いてるんだと思う。関わりたくない、って思われてるかも」 「……そんな事はないわ。みんな、早く良くなって、来て欲しいって思ってる」 志摩子がそう言うと、島津さんはニコリと笑った。 しかし、これからどうしたものだろうか。 担任の先生には、「クラスでの事を教えてきてあげて欲しい」と言われたが、取り立てて特別なことは起きていない。まだ二年生としては2ヶ月程度しか過ごしていないのだから当然といえば当然なのかも知れないが、それでも話題に出来そうなことは、きっと有るはずなのだ。 そして、それを島津さんに伝えられない事、突き詰めて見つけられない事は、ひとえに自分の性格によるものだと思う。級友たちと密なやりとりをすることが不得手な、志摩子が原因なのだ。 数秒か、それとも数十秒か。互いに無言の時が過ぎ、しかしどうしてよいのか分からずに途方に暮れていた志摩子であったが、救いの手は当の島津さんの方から差し伸べられた。 「ねえ、教科書とかノートとか、持ってきてる?」 「? あるけれど……」 寄り道届けを提出して、学校から直接ここへ寄ったために、勉強道具などは鞄の中にそのまま仕舞われている。 「時間あるなら、良かったら数学教えてもらえないかな? 他の教科は誤魔化しが効くけど、数学はそうはいかなくって」 「ええ、私でよければ。もうじき中間テストもあるし」 「……そうなのよね。こっちは殆ど授業知らないってのに。もう暫く入院してようかな」 「ふふふ、ずる休みは駄目よ」 学校の勉強は苦手ではないし、四月から六月までの範囲内──そのまま中間テストの範囲内であるのだが、的を絞って島津さんに教えれば、そのまま志摩子にとっては、早めのテスト勉強にもなる。 選択教科のプリントもすでに渡してしまったし、クラスでの出来事を教えてきて欲しいと頼まれはしたが、知っている話題が乏しく、それは出来そうにない。 おそらく島津さんは、そういう事を見越して提案してくれたのだろう。 「それじゃ、一時間くらい数学をがんばりましょうか」 「はい、先生」 志摩子も、そして島津さんも笑った。 病室に来て30分ほどが経過している。仮初めではあるが、二人の気持ちの向きが、ようやく一致したという感覚があった。 鞄から数学の教科書とノート、そして筆記用具を取り出すと、島津さんも、ベッド脇の小棚から、同じように数学の教科書と筆記用具、そしてルーズリーフを何枚か持ち出した。 よく考えてみれば、勉強道具が用意してあるのは当たり前の事なのかも知れないが、少しだけ志摩子にとっては意外だった。 「勉強、自分でもちゃんと進めてるのね」 「ん? うん、まあね。してるような、してないような。一人でやっててもだらけちゃうから、あんまり進んでないけど」 「そうなの」 この病室は個人部屋ではあるが、残念ながらテーブルらしきものは見当たらない。 仕方ないので、島津さんのいるベッドの傍らに教科書を置いて、勉強を進めることにした。 「式の展開は大体出来ると思うから、因数分解から教えて」 「素因数分解は?」 「うーん」 「じゃあ、そこからね」 「藤堂さん、厳しいなぁ」 と言いつつも、島津さんは基礎から応用まで一通り理解して、公式なども使いこなせているように見えた。細かい計算ミスや、符号の付け間違いなどあったものの、教科書に載っている練習問題程度なら、スムーズに解き進められるようだ。 志摩子にとっては二か月分の総復習を終える頃には、ちょうど一時間程度が経過していた。 日は未だ落ちていないが、あまり長居するのは迷惑になる。 「そろそろ、お暇させていただこうかしら」 「あ、ごめんね。今日はありがと。いい気分転換になったわ」 「どういたしまして」 率先して勉強をしたがる人間は少数派なのだろうが、島津さんの表情を見るに、一時間ほどの勉強が良い息抜きになったのは、本当のようであった。 「……中間テストには間に合いそう?」 早く復帰して欲しいと言うのは重荷にされかねない、という危惧があったため、やや遠回しにそう伝えた。 「わかんない。このまま体調が良ければ。でも今回は行きたいな。せっかく教えてもらったんだもの」 「これぐらいなら、いつでも。それじゃ、ごきげんよう」 「お見舞い、どうもありがとう。ごきげんよう」 そのようにして、お見舞いは締めくくられた。 ◇ 403号室の扉を静かに閉め廊下に出ると、一時間半前にここまでの道案内をしてくれた看護士さんと、ばったりと出くわした。よもやあれからずっとこの廊下に居た、というわけではないだろうが。 「あ、先ほどはお世話さまでした」 志摩子がそう言って頭を下げると、その看護士さんは、いかにも興味深々といった風にして質問をかけてきた。 「ねえねえ、島津さんとはどんなお話をしてきたの?」 「どんな、と言われても……」 正直に言って、それほど密に会話を重ねたという印象はない。級友との教室内でのやり取りに近かったと思う。 「一緒に数学の勉強をしていました」 「数学……」 看護士さんは難しい顔でそう呟くと、まあ、そういうのも大切かも知れないわよね、と自分を励ますように言った。 ある程度の予想はついていたのだが、どうやら志摩子は、この好奇心旺盛そうな看護士さんの期待には、残念ながら答えられなかったらしい。 むろん、答えられるものなら答えたかった。 「数学もいいけど、出来ればあなたに、島津さんの事情を何とかしてもらいたいなぁ」 小声で冗談を歌い上げるような看護士さんの言い方だったが、おそらくそれは冗談でも何でもないのだ。 「……」 しかし、理解はしていても、今の志摩子には何も言うことは出来なかった。 そもそも事情を知らないのに「できます」とか「がんばります」などと軽率に引き受けることは出来ないしまた、したくもない。 もしかすると看護士さんは、それくらいの覇気が見たかったのかも知れないが、それも含めて志摩子にとっては荷が重い『頼まれ事』だった。 志摩子はぺこりと頭を下げる。 「……今日はお世話になりました」 「また来てねー。待ってるからねー」 ひらひらと楽しそうに手を振る看護士さんに見送られながら、志摩子は病院を後にした。 自宅への帰路を辿る中、電車の中で、志摩子はさまざまな事を考えた。 選択教科のプリントなどどうでもいいから、学校のことを色々と話してきて欲しいと、正直に話してくれた担任の先生。 折角だから今日は君にお任せしようかなと、爽やかに笑っていた男性。 出来ればあなたに何とかして欲しい、と冗談めかして言っていた、あの看護士さん。 おそらく志摩子は今日、誰のどんな期待にもなにひとつ答えることは出来なかった。 島津さんと親しい間柄というわけではないのに何度も見舞うのは非常識だし、なにより彼女自身が戸惑うばかりだろう。 今にして思えば、今日という機会に、聞いてみたいことや話してみたいことは沢山あった。 お見舞いだからとか、親しくないとか、そういうことは些細なことなのだ。床に落ちていた枕の件のことなど、遠慮せずに聞いてみたって良かった。 今年の担任の先生のことや、あの看護士さんのこと。 頻繁にお見舞いに来訪するというあの素敵な男性とは、どういうご関係なのかしら、とか。ぶしつけな質問だと思われるかも知れないが、同い年なのだから少しぐらい踏み込んでも良かったはずなのだ。 後悔はいつも、先に立たない。 結局、今日という一日が終わろうとしている今でも、藤堂志摩子と島津由乃は単なるクラスメイトという関係だった。 聞きたいこと、話したいことがあっても、それを話す機会にはなかなか恵まれない。 同じ教室にいるのに。同じ年なのに。 単なるクラスメイトという間柄は、とても遠い。 「島津……由乃さん」 せめて彼女の病状が、一日でも早く良くなって欲しいと、志摩子はマリア様に祈った。 了 ※2009年8月4日 掲載
▲マリア様がみてる