■巻き毛揺らしの笑顔
そこは、とある部屋である。
六畳間の和室であるそこには、大きな姿見の鏡が置いてある。
その姿見の前に、一人の美しい少女が立っていた。
色素の薄い抜けるように白い肌。
若干茶色がかった柔らかな巻き髪。
そして、肌や髪と同様に、色素の薄い青みがかった瞳。
リリアン女学園三年生の、藤堂志摩子である。
彼女は先ほどから、大きな姿見に自分の姿を映しこんで、しきりに何か考え事をしているようだ。
一体彼女は、深刻そうに何を考えているのだろうか──。
くるっ
ふわっ
にこっ
考え事をしていたかと思うと、やおら姿見に背を向けた彼女はくるりと振り返り、柔和な笑顔を浮かべる。
柔らかな巻き毛をふんわりと揺らしながら。
振り返った彼女の姿が再び姿見に映し出されるが、柔和な笑顔はすぐに鳴りを潜め、その面差しはどこか不服そうであり、浮かないものに変わる。
「……ちょっと髪をふんわりし過ぎかしら。故意にそれをしていると思われてはうまくないわ」
なにやらぶつぶつと独り言をつぶやいている。
年頃の少女が姿見に自分の姿を映すのはごくごく当たり前のことであるが、彼女にとっては何かが不満足らしい。
「もう一度……」
再び姿見に背を向け、小さく深呼吸したのちに彼女は振り返る。
くるっ
ふわっ
にこっ
……いうまでもなく、柔らかな巻き髪を揺らし、柔和な笑顔を浮かべながら。
再度、姿見に彼女の姿が映し出される。
今度も柔和な笑みはすぐに消え、また不服そうな表情を浮かべる。
「難しいわね……。これでは髪を揺らしていることに誰も気付いてくれないかも知れない。そんなの嫌だわ。意味がないわ」
独り言はさらに続く。
視線を姿見から足元に落とした彼女は、そこにも不満点を見つけてしまったようだ。
先ほどはきちんと揃っていた両足であるが、今回は若干開き、少しはしたない格好となってしまっている。
「……変に意識するから足の動きもおかしくなってしまうのね」
髪を揺らす動作に気をとられすぎたせいで、振り向く動作に支障をきたしてしまった、という事だろう。
志摩子は小さく溜め息をこぼす。
なかなか狙ったとおりの成果が得られなくて、自分に失望しているのだろう。
「今度は足の動きもちゃんと意識して……」
くるっ
ふわっ……どさ
出来はともかくとして、保たれてきた三拍子がここにきて初めて崩れてしまう。
全身で振り返り、巻き髪を揺らしたところで変に足の動きを意識してしまい、足をもつれさせて転んでしまったのだ。
畳敷きの部屋だったから無事で済んだものの、アスファルトの上でこの失態を演じていたなら、手足を擦り剥いて痛い目を見ていたはずだ。
同時に、振り向いただけでずっこける女、という擦り傷以上に痛々しい汚名を頂戴する羽目になっていただろう。
「なんてこと……」
床に転んだ状態で、志摩子は悔しげに握りこぶしを震わせる。
その表情は、苦虫をダース単位で噛み潰したかのような、非常に厳しく険しいものになっている。
無様、としか言いようのない彼女の姿であった。
──この春に三年生となった藤堂志摩子には、悩みがあった。
誰にも言えない。妹や友人たちにも言えないひそかな悩みである。
当時三年生だった白薔薇さま、佐藤聖の妹となった志摩子は、そのとき一年生であった。
学年が二つはなれた姉妹というのは珍しいが、認められていないわけではない。
ただ、白薔薇さまの妹になるということは、白薔薇のつぼみになるということである。
結果として一年生で白薔薇のつぼみとなった志摩子は、当然の流れとして二年生時に白薔薇さまの肩書きを得ることとなった。
まあ、そこまではいいのだが、問題はそこからである。
白薔薇さまの上の肩書きとして何かあればよかったのだが、残念ながらそれ以上はない。
よって三年生となった志摩子は、継続して白薔薇さまを続けていくのだが、志摩子の悩みの種は何を隠そうそこにある。
つまり、変化がないのだ。
同輩である福沢祐巳と島津由乃は、三年生となると同時に、それまでのつぼみから、それぞれ紅薔薇さまと黄薔薇さまという肩書きを得た。
それは変化であり、迎え入れるべき進化であるが、自分にはそれが無い。
それこそが志摩子の悩みだった。
変化や進化がなければ、いずれ周囲に飽きられてしまい、求心力を失ってしまう。
加えて自分以外は進化しているのだから、相対的に見劣りするのは明らかである。
だがそれはやむを得ないことだ。無いものねだりをしても始まらない。
だからこそ、別のところで挽回する必要がある。
新しいものはどんどん取り入れていく必要があるし、それとは別として、学業における成績を維持することや、苦手ではないが特に力を入れていなかった体育系にも重きを置いていく必要がある。
さらにそれらとは別として、自分の得意なことを磨いていく作業が必要になるとも志摩子は考えた。
その”得意なこと”の一つが、これである。
志摩子は考える。
(こんなことに心血を注いでも、何にもならないかも知れないけど……)
だが、何もしないわけにはいかない。
何もしていない瞬間は、何も変わらない。つまりそれは、今の志摩子が最も恐れるべき停滞である。
虚しさはは冬に振る雪のようにしんしんと積もり、募る。
だがしかし、何かを成すためにはその虚しさを無視することが大切なのだと、志摩子は自分に言い聞かす。
床に倒れ付していた志摩子は、力をこめて立ち上がった。
彼女の目の前には、大きな姿見が、彼女をあざ笑うかのごとく立ちふさがっている。
負けじと、志摩子は再び練習を再開する。
くるっ
ふわっ
にこっ
「駄目だわ」
くるっ
ふわっ
にこっ
「納得いかないわ」
くるっ
ふわっ
にこっ
「こんなものではないはずなの」
くるくると回り続けるだけでも、それなりに体力を要するらしい。
彼女の額にはうっすらと汗も滲んでいるほどだったが、それでも彼女は止めようとしない。
回転から巻き髪揺らしまでが上手く出来ても、最後の笑顔が納得いかないものだったり、ふわりと髪を揺らして良い笑顔を浮かべられても、体勢に納得できなかったり。
あちらを立てればこちらが立たず、という感じである。
以前までは無意識に行っていたのだから、これまでの出来がどうだったのかは分からない。
だが、こうして姿見に映してみると、意外にアラが見えるものである。
自分の容姿がそれほど悪いものではないという自覚こそあるものの、それでも、出来れば”一番良い自分”を見せていられる時間を長くしたい。
そのための無駄をそぎ落として、精度を高めていくのが、この練習である。
くるっ
ふわっ
にこっ
くるっ
ふわっ
にこっ
くるっ
ふわっ
にこっ
「まだよ。まだ、まだ……」
彼女はひたすら練習する。自分自身の明るい未来ために。
◇
翌日。
同じ三年松組のクラスメイトである福沢祐巳と島津由乃が、放課後となり一緒に薔薇の館へと向かう道中のことだ。
彼女たちの前を歩く生徒が一人。友人であり山百合会の同輩でもある、藤堂志摩子その人である。
自分たちに気付かず前を行く志摩子に、祐巳が声をかける。
「志摩子さーん」
そして、自分が呼ばれたことに気付いた志摩子の戦いは、ここから始まる。
くるっ
ふわっ
にこっ……
藤堂志摩子はふわふわの綿毛のような髪を揺らしながらゆっくりと振り返り、そして柔和な笑顔を浮かべた──。
「わー……」
祐巳の感嘆にも似た溜め息である。
付き合いの長い間柄であるのだから、祐巳は志摩子のその一連の挙動を何度も目にしているはずであるが、志摩子がそうであったように、祐巳にとっても特に意識すべきものではなかった。
つまり無意識のうちに目にし、そして無意識のうちに忘れていたのだ。
しかし、今回のその挙動には、無意識から意識が引っ張り出されるほどに洗練され美しく、かつ印象に残るものであった。
祐巳としては、志摩子さん相変わらずきれいだなー、という羨望の思いを改めて抱かずにはいられない。
「ごきげんよう。祐巳さん、由乃さん」
楚々として挨拶を交わしてくる志摩子に不自然なところは何一つない。
だがしかし、相変わらず惚けたままの祐巳の隣にいる由乃の中には、湧き上がってくるひとつの疑念があった。
(なんか……この子、やけに上手くなってない?)
確信がない上に、だからどうしたという話であるため、由乃はその疑念をあえて口に出したりはしない。
だが、祐巳とは少し違う意味を持って、志摩子のその挙動は由乃の中に鮮烈な印象を残したのである。
彼女たちはめいめいに挨拶を交わし、そして肩を並べて薔薇の館を目指す。
いつものようになんでもない雑談に興じながら歩いていくさなか、祐巳は思う。
(志摩子さん今年も綺麗だなぁ。私もあんな風になりたいなぁ。なれないかもだけど、いつかなれるといいなぁ)
同じように話しながら、由乃は考える。
(ふーん。何があったか知らないけど、今年の志摩子さんは本気ってことね。うかうかしてると、おいしいとこ全部もってかれちゃうぞ、と)
そして志摩子は、練習の成果を発揮できたことにひそかに満足感を覚えながらも、こんなことを考える。
(……由乃さんには通じなかったみたい。通用しても困るのだけど。ともあれ、今後も練習あるのみね)
三人三様にいろいろなことを考えながらも、楽しげに雑談しつつ薔薇の館を目指して歩いていく。
そんな感じで、彼女たちのいつもの日常は、三年生となっても変わらずに続いていくのである。
了
※2009年7月28日掲載
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