■聞きたいこと


 先輩方を無事送り出した卒業式が終わり、少しだけ怠惰な春休みが終わると、リリアン女学園はうららかに新しい春を迎える。
 二学年から三学年に進級する際にクラス替えは無いために、二年藤組に在籍していた藤堂志摩子も、そのまま三年藤組の一員として高校生活を過ごしていくことになる。
 当たり前といえば当たり前のことだが、同じ山百合会の同輩の仲間たちは、今年の春から『薔薇さま』という新しい肩書きに挑戦していく。
 それを横目に見、去年と同じ白薔薇さまという変化のない立場で過ごしていく志摩子は、気持ちに少し焦燥の色が浮かぶ。
 変わらないことを恐れてはいけない。
 そのためのきっかけなんて、きっと少し手を伸ばせば届く場所に幾つもある。
 子供が三時のおやつを待つように、誰かが触れるのを今か今かと待っていたりするのだろう。
 そんな事をとりとめなく考えていた時のこと。
「ごきげんよう志摩子さん。今年も一緒だね」
「……ええ、ごきげんよう」
 朝のホームルームを控えた三年藤組の教室。
 教室と、そして椅子と机は変わったけれど、クラスメイトの顔ぶれは変わらない。
 彼女──桂さんもその一人だ。
 大きな瞳を好奇心旺盛そうにいつも輝かせ、快活で元気で、お喋りが大好きなクラスメイトの女の子。
 友達……と言えるほど距離が近いとは、残念ながら思えない。
 だが、教室内に構成される幾つかのグループ。そのいずれにも属しておらず、どちらかというと孤立しがちな志摩子を、いつも気遣ってくれている。
 誰の目にも留まらない程度に、当たり障りなく。ときに志摩子自身も、それに気付かないことがあるくらいだ。
「あっという間に三年生だね。志摩子さんは、進路とかはもう考えてたりする?」
「幾つか候補はあるのだけど、まだ絞り込めていないの」
 桂さんは、と水を向けてみる。進路の問題に関しては、志摩子がこれから本格的に考えねばならない事だった。
「私? 私は普通にリリアンの大学に進むつもりだよ」
 私の成績じゃほかに選り好みできないし、と桂さんは恥ずかしそうに鼻の頭をかいた。彼女は質問されることにはあまり慣れていないらしい。
「志摩子さんみたいに、もっと勉強しておけば良かったって。実は今ぷち後悔中」
「そんな」
 成績などそれほど問題ではなく、進むべき道を明確にしている桂さんの方が、きっと一歩先を歩いている。進路を決めかねている志摩子に比べれば、余程。
 そのとき、ホームルームの予鈴が鳴った。クラスメイトたちが、三々五々に自分の席へと戻っていく。
 朝の何気ない日常的な光景は、高等部で二年間を過ごした今も変わらないもののひとつだ。 だが、それを見られるのもあと一年の猶予。
 二学年時には漠然としていたのに、三学年となると途端に具体性を帯び始める感情。
 ──あと一年しか時間が残されていないということ。
 私は一年後の今、どこで何をしているのだろう。
「志摩子さん、今日は薔薇の館に行くの?」
「今日は活動は予定してないけど……」
「なら、今日いっしょに帰らない? 駅のそばだけど、寄りたいお店があるんだ」
 活動予定日でなくとも、薔薇の館にはたいていは誰かがおり、顔を出せばそのまま仕事に従事することになる。志摩子としてはそのパターンが多かった。
(寄り道……。当たり前のように言うけど、それは本来は)
 原則としてリリアン女学園の校則では、生徒の寄り道を禁止している。寄り道申請を提出すれば特別に許可をもらえるが、そういう諸々の手続きを、ざっくりと省略しそうな桂さんの口ぶりだ。
 だからって、学園からの帰宅途中に制服姿のまま。自宅の隣にある文具店に寄るのは寄り道なのか、駄目なのか。そんな風に問われれば、答えられる人なんていない。
「ええ、いいわよ」
 志摩子が快諾すると、桂さんはぱっと顔をほころばせる。やった、と小さくガッツポーズまでこしらえている。
 そんなに難攻不落に思われていたのかと、志摩子は内心で苦笑する。すると桂さんは、口元を志摩子の耳の辺りに寄せ、小声で何かつぶやいた。
「……実は、寄り道するなんて言ったら、怒られるんじゃないかって思ってた」
「ええ?」
 志摩子が何かを返す間もなく、桂さんは小唄でもうたうような足取りで、自分の席へと戻っていった。快活な女の子そのもの、といった雰囲気だ。
 それにしても、と志摩子は思う。
 難攻不落だけではなく、おまけに頭の固い頑固者。くわえて校則至上主義者とでも思われていたのかと、今度は苦笑ではなく落胆の顔色を隠せない。
 堅物だと思われているかも知れない、という自覚はあった。
 だが、ようやくそれを実感させられたのは、三度目の春だった。
 遅かったと悲しむべきか。それとも何とか間に合ったと喜ぶべきか。
(ともあれ、今日は山百合会どころではなくなったわね……)
 そんな風に、らしくない事を考えながら、志摩子は一時限目の準備に取り掛かった。


  ◇   


 薔薇の館での昼食の際に、今日はゆえあって来られない事を皆に伝えておいた。理由を追求されるかとも思ったが、特にそれらしきものもなく、拍子抜けといえば拍子抜けだった。追求されたところで、正直に話すのもどうかとは思ったが。
 つまり運が良かったのだ。そう思うことにした。
 平常どおりの六時限目までの授業を終え、志摩子は桂さんと伴って学園を出た。
 最寄りのバス亭で桂さんと並んでバスを待っていると、他の生徒たちから「ごきげんよう」という挨拶とともに、僅かな好奇の視線が寄せられるのを感じる。
 おや今日は隣にいる人間が違うぞ。そんな風に思われているのかも知れない。
「バス来たよ。行こう志摩子さん。急がないと座れなくなっちゃう」
「……ええ」
 少し後ろ髪が引かれる思いでバスに乗り込む。この時間帯に帰宅する機会は余りないため、良く言えば新鮮だった。バス亭には早くから並んでいたため、無難に後ろから二番目の席に並んで座ることができた。
 バスはほぼリリアン女学園の生徒の専用車両のようになっており、右を見ても左を見ても見慣れた制服姿の女子しか映らない。
 逆にそんな状況が、少し志摩子から落ち着きを奪っていた。
 活動予定日ではないが、今頃は薔薇の館で誰かが仕事をしているかも知れない。
 それは友人かも知れないし、妹かも知れない。
 だが、志摩子の気持ちをさざ波のようにざわめかせているのは、なにもそれだけが原因というわけではない。
「ふふ。志摩子さんには少し刺激が強かったかな?」
「別に……そんなことはないけど。ただ少し驚いただけで」
 隣の席で悪戯っぽく笑う桂さんは平然としている。少しだけそれがうらめしい。
 ──携帯電話。
 そう、志摩子から落ち着きを奪うのは、バスの中の生徒たちの半数に近い人間。彼女らがさも当たり前のように、携帯電話を持って操作していることなのだ。
(確か校則では、携帯電話を持ってくることを禁止しているはず……)
 自分の認識が誤っていたのだろうか、と不安にすらなる有様だ。
 そのとき、隣の席でかちっと音がした。通学途中の電車の中でなど、よく耳にする音。
 ただ、リリアン女学園という場所では、ごく例外的にそれが抑えられているだけなのだ。
「桂さんまで……」
「えへへ。現代人には必須のアイテムだよね。これがないと生きていけないかも」
 特に悪びれた様子もない桂さん。彼女の手には、きらきらと光る小さなシールのようなものが幾つか貼られた、桜色の携帯電話があった。
(あ、かわいい……)
 その携帯電話を見ての、第一印象がそれだった。
 てのひらに行儀良く収まっている様子が、まるでよく躾られた桜色のウサギのように思えたのだ。
 学園内では電源を切ってるから、と桂さんは言いつつ、幾つかの操作を行った。ものの二秒程度で用事は足りたらしく、彼女は桜色の携帯電話をぱたんと閉じた。
 電車内などで聞くその音を、これまで意識したことはなかった。だが、こうして間近で耳にしてみると、妙に心地よくて、小気味良い感じがした。
 桂さんは志摩子が携帯電話を注視していることに気付かなかったのか、用事を終えると鞄の中に仕舞った。桜色の携帯電話が視界から消えてしまうのが、少しだけ寂しかった。
「校則で禁止されてるのは知ってるけど……。部活で遅くなった時とか家の人間に迎えに来てもらったり。逆に帰りに家からお使いを頼まれたり。どうしても何が何でも必要とは言わないけど、あると凄く便利」
「ええ、わかるわ」
「本人が携帯を持ちたがらなくても、登下校の時だけ親御さんが持たせてることもあるのよ。今、色々ぶっそうだからね」
「そうね……」
 だから、ここで携帯をいじってる人達のこと、見逃してあげて欲しいな。桂さんとしては、そういう事が言いたかったらしい。
 学園の風紀を維持するのは山百合会のつとめの一つだが、今のところ学園内で生徒が携帯電話を使っている場面に遭遇したことはない。
 持ち込み禁止と明文化されているとはいえ、こっそりと生徒たちが鞄の中に忍ばせているのは予想されていたこと。
 だから、志摩子としては今更どうこう言うつもりは全くない。
「じゃあ、私の携帯も見逃してくれる?」
「ええ、もちろん」
「やったね!」
 桂さんは、今日二度目のガッツポーズを作る。
 そして、鞄から例の桜色の携帯電話を取り出した。改めて見直しても、かわいいデザインだなと思う。
 桂さんは再び携帯電話を開くと、今度は二秒に満たないくらいの時間、何かの操作をしていたと思うと、その携帯電話を志摩子に持たせてくれた。画面を見ろと、そういうことらしい。
 携帯電話を持ったことのない志摩子には、それが何を意味する画面なのか良く分からない。
 分かったのは、画面の上の方に見やすい文字で、『藤堂志摩子 携帯』と表示されていることくらいだった。
「……私の名前が書いてあるわ」
「うん。志摩子さんの携帯を登録しておいた」
 当たり前のように言われ、志摩子は狼狽した。
 不用意にどこかのボタンに指が触れて、壊してしまったりしたら申し訳が立たない。タンポポの綿毛を両手ですくうみたいにして、携帯電話を桂さんに返した。
「私、持ってないわ」
「でも、いつか志摩子さんも持つよね。そうしたら真っ先に教えて。登録するから」
「高校生でいるうちは、たぶん持たないと思うけど……」
「あ、いいのいいの。それならそれで。志摩子さんがコレ許してくれたのが嬉しかったから。だからその記念にね?」
 桂さんは、桜色の携帯電話を小さく揺らした。桜色のウサギが、嬉しそうにぴょこぴょこと動いているみたいだった。


  ◇   


 その日の夜。志摩子はなかなか寝付けなかった。
 眠気がないわけではない。だが、鮮烈な印象が頭から離れないうちは、眠れそうにない。
 枕もとの目覚まし時計を確認すると、時刻は午前の二時である。かれこれ二時間以上、布団の中で寝返りを打ったり、溜め息をついたりしていることになる。
 この調子では明日に悪影響を与えかねない。明日は山百合会の活動予定日なのだ。
(ふぅ……なんてことかしら)
 なかなか寝付けない原因は分かってる。
 桂さんが持っていた、あの桜色の携帯電話だ。
 かわいい、という第一印象を抱いてしまった時点で、少し厭な予感はしていた。しかし、こんなにもストレートに影響を受けてしまうとは思わなかった。
 目を閉じると、ぱたんぱたん、という携帯電話を閉じたり開いたりする音が聞こえてくる。
 いつの間にか、手がありもしない携帯電話を求めてさまよっている。
 そして、空想の中の携帯電話は、可愛い桜色をしていた。
「駄目だわ……」
 耳元まで被っていた布団をはいで、上半身だけを起こす格好になる。
 眠れない。
 眠れないことを認めないわけにはいかない。
 そして、志摩子が最も認めなければならない事は、”携帯電話を欲しがっている”という自分の欲求だろう。
 バスの中で桂さんは、しきりに校則を気にしていた。
 志摩子には生徒会長という立場があり、だから彼女はあんなにも気にかけたのだろう。
 だが正直なところ、彼女の持っていた携帯電話を一目見てからこっち、校則など頭の隅に追いやられていた。
 むしろ志摩子は、おおいに聞きたかったのだ。
 その桜色の携帯電話は、どこのお店に行けば購入できるのか。
 基本使用料はいくらくらいなのか。学生割引などの有無は。
 志摩子のような素人にも操作は容易なのか。
 そして、もし桂さんさえ良ければ、使い方を教えてもらえないかな──と。
 バスの中ではどこか遠慮があった。携帯が欲しい、という欲求が、まだ完全には育ちきっていなかった事も、あったかも知れない。
「でも、やっぱり駄目だわ」
 ここにきて現実的な問題に直面する。
 クラスメイトの生徒が学園内に携帯電話を持ち込んでいるくらいは、百歩譲って見て見ぬ振りをする程度なら問題ない。
 しかし、志摩子自身が率先して校則を侵すことは、志摩子自身が許さない。
(それなら学園に持ち込まなければいい……いいえ、それでは駄目)
 自室で一人さみしく携帯電話を操作していても、あまり楽しくはないだろう。
 帰宅途中のバスや電車の中。通話はもちろんしないが、メールをしたり、色々と操作したり。出来ることならば、桂さんが隣にいてくれれば心強い。誤った操作をして、携帯を壊したりする心配がなくなるからだ。
 どうにかして問題を解決できないかと悩み、そしてとある答えを得る。
 
 ──校則を改正する。

「……駄目よ。そんな個人的な理由で」
 わざわざ志摩子は声に出して否定する。
 リリアン女学園は伝統と格式を重んじる、いまどき古風すぎるくらいに古風な学風だが、それでも今は平成の世。国民の90%以上が所持している携帯電話を、いつまでも認めないわけにはいかない。仮に志摩子の代で動かずとも、いずれ校則が改正される日がくるだろう。
 けれど、”いずれ”では駄目。出来ることなら今すぐに。
(今日は……もう明日だけど……眠ろう。そして、明日になったら聞いてみよう)
 携帯電話にまつわる校則を改正する件を、山百合会の仲間たちに。
 そして、桜色の携帯電話に関しての仔細を、桂さんに。
 そんな事を考えながら、いつしか志摩子は眠りに落ちていた。
 聞きたいことを、たくさん胸に抱えながら。


 了


▲マリア様がみてる