明日に向かって走れ!
0/
猫がじいっと此方を見ていた。
毛並みはみずほらしくほつれ、瑞々しさは見受けられない。長期間放置されくすんだスプーンや、フォークのにびいろを連想させる色合い。
所々黒み掛かりまた、同じような割合で所々灰色掛かっている。
どうやら首輪は填められていないらしく、傍目にいかにも野良猫という雰囲気を充分に醸し出していた。
街灯に仄かに照らし出された自宅の庭に野良猫が一匹。窓ガラス越しにこちらをじいっと、微動だにせず私を見つめている。
細川可南子はそれに気付き、思わず食事の箸を止めた。ありふれた一軒屋の居間で一人夕飯を食べていた可南子だったが、一寸可笑しな珍入者によりそれは中断される。
丁度、鮭の切り身を一欠片砕いて箸でそれを挟んだ所だった。
父も母も兄弟も祖父母も居ない一人きりの食事だったが、私にとっては慣れ親しんだ食事風景である。稀に母親が居ることもあるが、それは一週間に一度でも有れば僥倖と言える程の割合だ。
兄弟はなく一人っ子だったし父親は居ない。
両親は私が中学の頃に既に離婚していた。
ところでその野良猫は、未だに飽きもせずこちらを見詰めていた。
どこの馬の骨とも知らぬ野良の事なぞ無視して、味気ない食事を続けても良かったのだが、何故か先程ほぐした鮭の切り身を、口に運ぶ気分になれない。
例えば発展途上国にて腹を空かした子供たちの前で一人食事なぞ取るのは、さぞかし食欲の湧かない光景であろう。要するにその様な状況である。
箸を置いて、私は一人きりの食卓を後にする。
目指したのは台所の戸棚。そこを開くと香ばしい薫りが私の鼻腔をつく。
そこにあるのは袋詰にされた煮干である。二つばかりそれを抜き出して今度は庭を目指す。猫と言えば煮干。そんな思い込み。
サンダルを突っ掛けて庭に急ぐと、果たして猫は相変わらずその場に鎮座していた。体勢は変わらずに、今度は首から上だけがこちらを向いている。まるで置き物の様だと私は思った。
ゆっくりと私は近づいていくが、猫は逃げる素振りも見せない。
どうやら相当に達者な年齢に達しているようだが、畜生も十年近く生きると、ある種の達観の境地に辿り着くのであろうか。
”おや人間が寄って来たぞ。お主若い身空で随分と苦労しておるようじゃのう。顔に出ているワイ”、とでも思ってたら面白過ぎる。
老猫の前に煮干を一つ置くと、しばらく猫はそれをじいっと眺めていた。猫の癖に随分と深い目をしているなあと思う。
ひとしきり前足で煮干を弄んだ後に、それをひょいと咥えて猫は可南子に背(?)を向けた。食べるのだろうか捨てるのだろうか。もしかしたら顎にガタが来ていて、あんな堅いものは奴の趣向には合わないのかもしれない。
”ふむ煮干かのもう歳じゃから堅い物は喰えんのじゃよ。しかし折角の人間殿の好意じゃ無下にも出来まいて。ひとつ頂いておくかのう”、とでも思ってたら興味深い。
そのまま老猫はひょこひょこと歩いて行く。意外なほどに足取りはしっかりしていた。十歩ほど行った所で猫は尻尾を一振り、そしてこちらを振り向いて、にゃあと一つ鳴いた。
──お主、名を何と云う。
そう問われた気がした。
「可南子。細川可南子と云います」
なんで敬語?
ともあれ猫はそれを受けて、又一つにゃあと鳴いた。
流石に何と言ってるかサッパリ判らない。私は残念ながら猫の名になど精通していなかった。
老猫は何事もなかったかのように、庭の茂みへと消えていった。
「──へえ、バルログって云うんですか。変わったお名前ですね」
仕方なく私は勝手に命名した。
街灯に薄く照らされた庭には、煮干を一つ握り締めた少女一人が残される。老猫の姿は既に何処にも見えない。
「……こんなもの、美味しいのかしら」
手の中の煮干を転がしながら私は一人呟く。その時私は、居間に残してきた食べかけの鮭の切り身のことを、思い浮かべていた。
『明日に向かって走れ!』
1/
「乃梨子さん乃梨子さん。ちょっと、よろしいかしら?」
今日の日直当番であった二条乃梨子は、日誌を付けていた手を止めて、掛けられた声の聞こえた方に目をやった。
微かに揺れる縦ロール、全体的に小さなつくりの顔、そしてそれに見合うようなこれまた小さ目の体躯。乃梨子の友人である松平瞳子がそこに居た。
「瞳子」
その名を呟いた口は、自身が思うよりずっと重く乾いていた。理由は良く判らない。このところ乃梨子は、この友人の顔をマトモに見られないのである。
(まあ、理由が判らない訳じゃない。判りたくないだけ、なのかな)
勤めて平静を装って乃梨子は続ける。
「どうしたの。今日は部活じゃなかったっけ?」
「部活が控えてると、乃梨子さんに話し掛けてはいけませんの?」
「そんなこと、言ってないけどさ」
ここ最近、妙に瞳子とは噛み合わない。お互いに理由はある程度弁えていて、そして、その理由を気にする必要は、少なくとも二人で居る時には気にする必要はないものだ。
しかし、どうしてか妙に内に蟠る。
気にする必要は無いのに、お互いに気にしてしまう辺りが、噛み合わない歯車を生み出しているのではないかと乃梨子は考える。
「で、何か用? 私、これ書いたら直ぐに薔薇の館に行かないとだから」
「お時間は取らせませんわ」
そう言って瞳子は、ちらと視線を逸らす。その先には一つの空席が有った。
主無き机と椅子は、ぽつんと所在なげにそこにひっそりと佇んでいる。
「……居ないね。ここのところ、山百合会のお手伝いが終わってからってもの、彼女直ぐに帰っちゃうね。私たちとも、あんまり話そうとしないし」
瞳子は微かに頷く。
あの頃──無意味に熱くて慌しかったあの頃。学園行事が寄せては返す波のように繰り広げられていたあの頃。
瞳子と机の主の彼女が、何だかよく判らないうちに山百合会の手伝いに狩り出されることになり。しかし瞳子と彼女は犬猿の仲で、乃梨子も含めて誰もが頭を抱えていたあの頃。
今となっては、妙に懐かしく、そして心躍る日々であったあの頃。
机の主──細川可南子さんと瞳子と、そして私。すったもんだを繰り返しながらも、何故だか充実していたあの頃には、細川可南子という一人のクラスメイトとは、もっと距離が近かったように感じる。
今よりも、ずっと。
瞳子も可南子も、互いが敵意を剥き出しで、そんな子供じみたやり取りに乃梨子は呆れつつも、しかし、何処か安心していたのもまた事実だった。
やっぱりこの二人には、私が必要なんだな、と。
それこそ子供じみた自意識過剰ではあるのだが、自分という存在が判り易く必要とされている状況というのは、一種の安心と安息をもたらすものだ。
留まらないハズの人生の中で、しかし留まっていたある種の停滞。いずれ次なるステージに移行するはずだった人間関係から、きっと誰もが都合よく目を逸らしていた。だからきっと、誰も気付かなかった。
停滞ではなくそれは、ただ単に時の歩みが遅く感じられていただけだったのだ。
やがて時は移ろい、可南子は一つの答えを見つけ出しそして、瞳子もまた、一つの答えを得ようとしている。
そこに私が介入できる余地は無い。
きっと瞳子も可南子も、どちらかと言えば二人に巻き込まれる形だった私も、その停滞に弄ばれていた。可南子が何らかの事情を抱えているのは知っていたが、そこに必要以上に拘泥する必要は皆無だったのだ。
良識の範囲内で弁えて憎まれ口を叩き合ったり、わざと相手に呆れて見せたり。そんな混沌から生まれる空気感が酷く居心地が良かったのだ。
しかし今では、もう──。
答えを見つけた細川可南子と、そして答えを見つけることを世界にせっつかれている松平瞳子。
二人は違う人間だけど、答えは二者択一の同一問題だった。可南子がどちらか片方を先んじて選んだのなら、瞳子はもう一方を選ぶ事を義務付けられる。
しかし未だ、瞳子はそれを選んでいない。
そこに生まれた偶発的な緊張感がきっと、今の私たちを苛んでいるんだと乃梨子は思う。
「最近可南子さんと話をした?」
思考が進退窮まってきたからか、乃梨子は一時の開放を求め瞳子に聞く。しかし瞳子は、どちらかといえば暗いと言えるだろう曖昧な表情を浮かべる。
「……実のあることは、あまり。可南子さん、最近妙にふわふわしてて、何処かに飛んでいきそうですわ。どうしても気になったので、この間強引に、例の剣道の試合にお付き合いしていただいたんですけど……その、可南子さんは、殆どお母様……夕子さまと話してばかりでしたし」
「何にも話さなかった、ってことはなかったでしょ?」
「可南子さん、猫がどうとか。猫が最近、自宅の敷地に住み着いたとか」
「猫……ねえ」
まあ、猫なんて、ぶっちゃけた話どうでもいい。つまり二人は、単なる世間話しかしなかった、という訳だ。
一つの決意の元に、乃梨子は席を立った。
「乃梨子さん?」
「今から可南子さんに会ってくる。後は頼んだわ」
散らかしてあった筆記用具をかき集めて鞄の中に突っ込んで、乃梨子は教室を飛び出す。
「ちょ、ちょっと乃梨子さん! 日誌は!? 今日は薔薇の館に行かれるのでしょう!?」
悲鳴のような瞳子の声を背に受けつつも、振り返らずに乃梨子は走る。
「日誌は適当につけといて! 薔薇の館は……誰かに適当に理由でっち上げておいて! 体調不良でも、サボりでも、何でもいいからさ!」
「そ、そんなの適当過ぎますわッ!」
猛スピードで突き進む白薔薇のつぼみに、廊下を歩いていた生徒たちは目を丸くするも、今の乃梨子には体裁など気にしてられる余裕などない。
ひた走る乃梨子は、一つの言葉をまるで呪文のように繰り返していた。
”……駄目だって可南子さん……! そりゃあ夕子さんと仲直りできたのは嬉しいだろうけどさ……。私たちの事忘れないでよ! 貴女の居る場所はそこじゃない。リリアン女学園の、私たちの居る、『ここ』、なんだからさッ……!”
切れ切れの息をどうにか繋ぎ、そろそろ生徒玄関に差し掛かる所になり、そこで乃梨子は二つの見知った人影を見つけて、弾かれたように身を隠した。
右手の方の、二階への階段手前の踊り場。曲がり角に身を潜めて、じっと彼女たちを伺う。
あの上背のある目立つ後姿と長い黒髪。あれは間違いなく可南子さんだ。表情は僅かしか見ることは出来ないが、ひどく柔和な笑みを浮かべているらしい。
その向こう側に見える人影はおおよそ半分ほどしか見えないが、可南子さんの後姿の肩口あたりから覗く髪房はきっと、間違いなくあの人だ。
紅薔薇のつぼみ、福沢祐巳。
彼女の穏やかな笑顔──見慣れた笑顔の後には、何故か瞳子の顔が浮かんだ。
気に食わない。
どうやら二人は、和やかな雰囲気で会話を交わしているようだ。内容までは、距離が遠すぎて聞き取れないが、可南子さんも祐巳さまも、終始浮かべる表情は穏やかで和やかで……祐巳さまはそれでいい。
だが、可南子さんはどうだ。彼女までまるで、祐巳さまの笑顔が伝染したかのように、まるで向日葵のような笑顔を浮かべている。
”そんなの知った事ではないわ。勝手にやりなさい”
”私には関係ない。貴女たち二人でどうぞ、ご自由に”
”なによそれ。バカじゃない──?”
ほんの一ヶ月前までの可南子さんはまるで、飼い馴らされる事を嫌う野生動物みたいだった。調和を考えない発言の度に瞳子は食って掛かり、その都度周囲の人間たちは呆れたものだ。私も呆れ半分ではあったが、むしろ浮き立つ気持ちのほうが強かったような気がする。
──ここできっと、私が止めるんだ。私がつかつかと二人に歩み寄っていって、くっだらない言い争いをしてる二人の首根っこ引っ掴んで、ずるずる引っ張っていく。そうして言い放つ。
「馬鹿なことしてないで、お前らも仕事しろッ」、って。
二人はしぶしぶ席について、いつものように、いつものように、山百合会の仕事を──
「ちくしょう……」
乃梨子は知らず、壁に背をつけたままずるずると崩れ落ち座り込んでいた。
そんな未来は、もしかしたら有り得たかもしれない一つの可能性だが、しかし、そこに至る道のりは、絶望的なまでに閉ざされてしまった。
祐巳さまは瞳子を妹に迎えるのだろう。由乃さまは、あの剣道大会の時に出会ったとうわさされる、中等部の子を妹にするのだろう。
それで詰みだ。ある一つの未来が閉ざされてしまうに至るチェック・メイト。回避不可能の100%の可能性だ。
誰が誰の妹になるのか判らないあの頃に存在していた未知数の可能性。未来。希望。
心躍らせていた。心震わせていた。
そんな未来も、何かに飢えていた可南子さんも、我侭な瞳子も、みんなまとめて終いえてしまった──!
可南子さんと祐巳さまは、さきほどと同じように和やかに話している。漣のように穏やかで、あの頃のようなスリリングなやり取りは見る影も無い。
”祐巳さま、貴女は何も判っていない。可南子さんの本当の気持ちを、何一つわかっていない。今の可南子さんのあの優しげな表情と立ち振る舞いは、貴女のそれとは違う。
可南子さんのそれは、『諦め』、だ。
全てを諦めて取り戻した夕子さんとの絆に寄りかかって、この世界の果てから遠くから私たちを見ているようなものだ。ぜんぶ、全部遠い話だ。
例え祐巳さまが瞳子を妹にしようが、自分が山百合会という一つの小世界から消えうせてしまおうが、それは遠い話だから優しく、穏やかに見ることが出来るんだ。そんな事実を置き去りにして可南子さんと友達だなんて聞いて呆れる。
貴女は何にも判ってない。あなたなんかに可南子さんも瞳子も渡さない。
瞳子も可南子も二人とも、二人とも私がまとめて面倒みてやるッ──!!”
「乃梨子……さん? ど、どうしたのこんな所で。座り込んだりして、気分でも悪いの?」
現実感の喪失は一瞬だったハズだが、その一瞬が命取りになったらしい。ハッと顔を上げると、そこに見えたのは重力に引かれ垂れ下がる長い黒髪。その中心にある、心配げな面持ちを浮かべた顔。
可南子さんが、立ち膝の姿勢でこちらを覗き込んでいた。
なんでもない、と首を横に振って乃梨子は立ち上がる。
まだ自分の感情が振れているのがよく判る。つとめて平静を装い、乃梨子はさりげなく辺りに気を配る。どうやら祐巳さまとは、あれから直ぐに別れたらしい。
「……本当に、なんでもないったら」
「そう? あんまり無理しないようにね」
可南子さんの表情はあくまでも穏やかで、こうして本人を前にすると、本当にあの細川可南子かとも一抹に思う。
まるで別人だ。
まるで……心穏やかに死を待つ、末期患者のようだ。
「──可南子さん」
知らず、彼女の手を掴んでいた。この変貌振りを目の当たりにした者にしか判るまい。瞳子と同じように思った。まるで可南子さんがこのまま、ふわふわと飛んでいって、彼方へと見失ってしまうかのような……そんな焦燥に駆られる。
「な、何?」
明らかに可南子さんは狼狽していた。それでも私は伝えたい。
「可南子さん、私はね」
しかし、何と言って伝えればいい? 言葉では上手く言い表せる自信がまるで無い。虚言症のうわごとのように成り果ててしまうかもしれない。
しかも乃梨子のやり場の無い思いなど、殆ど一方的なものだ。私は可南子さんの事をロクに知らない。彼女が自分の事を話したがらない人だから、という所為もあるが、それを差っ引いても、知らないことが多すぎる。
そもそも、祐巳さまの妹になりたかったのかどうか──それすらも、正直なところ乃梨子には自信がないのだ。
頑ななまでに強固な防壁を築き上げていたあの頃とは打って変わり、今の彼女には壁らしい壁が見当たらない。つまり、何も読み取れないのだ。
「その……最近、瞳子と仲いいみたいじゃない。一体ぜんたい、どうしちゃったのさ」
掴んでいた手を離し、そして口をついて出たのは、当り障りの無い言葉だった。
「ああ、一緒に剣道の試合を見に行っただけよ。そんな、大して深い意味はないのよ」
「そ、そっか」
「でも、猫が……ごめんなさい。もう帰らないと。ちょっと人を待たせているの。ごめんなさい、話の途中なのに」
乃梨子の返事も待たずに、可南子さんは身を翻して生徒玄関を目指す。待ち人とはきっと、夕子さんのことなのだろう。出来る事ならばそれを留めたい。例え彼女に鬱陶しいと思われようと。
しかし、今の乃梨子には、彼女の背に投げかけるべき言葉は見つけられなかった。
さよなら。ごきげんよう。
呆けたような乃梨子の脳裏に、最後の可南子さんの言葉が力なく反響する。
まるでそれは、彼女の時世の句のように思えてしまった。
「……それにしても猫って一体、何のことだろう」
いつの間にか人気の無くなった廊下で一人、乃梨子は誰に聞かせるでもなく呟いた。
結局可南子と何一つ実のあることを話せなかった乃梨子。薔薇の館へ行くつもりなど更々無かったが、さりとてそのまま帰路に付く事には、一抹の寂しさを禁じ得なかった。
教室へ戻ると、例の日誌は見当たらずに、代わりに瞳子の書置きが、机の引出しの縁にぽつんと置いてあった。
”また明日。ごきげんよう”
無茶を押し付けた乃梨子に対する恨み言の一つでも綴られているかと思ったが、反して当り障りのなさ過ぎる一文に、乃梨子はいささか拍子抜けしてしまった。
(……やれやれ。私は一体、瞳子にも可南子さんにも、何を期待しているんだろう)
空回りしている自分を実感する。結局こうして、誰も居ない教室に一人佇んでいるこの状況がひどく暗示的で、やりきれなさが乃梨子の胸のうちにわだかまった。
ぐだぐだと、しかしたっぷりと教室で時間を潰して、今日の授業の復習から予習まで終わらせてしまった乃梨子は一人、薔薇の館へ向かった。
もしかしたら志摩子さんが未だ居るかも……と、一抹の思いを託して薔薇の館を目指すが、いい加減閉校時間にも近い。今日の集まりをすっぽかしてしまった後ろめたさが、乃梨子に時間を読み違えさせてしまったのだろうか。それは判らない。
誰も居なければそれでもいい。しかしもし、志摩子さんが居てくれたなら──それだけで、散々な結果だった今日、しかし最後の最後に暖かく締めくくる事が出来る。居なければ、それはそれで、今日はきっと仏滅だったのだろうとすっぱりと諦めもつく。
言わばこれは、当たれば儲け物の世界。だめもとのリスクなしの、至って気楽な掛けである。
しかしそれでも、微かな希望にすがりたいものである。
トランプのカードの山の中からハートのエースを選び出すような気持ちで、乃梨子は薔薇の館への道を急ぐ。
しかし。
「……悪かったわね、お目当ての志摩子さんじゃなくて」
だがしかし、狙いすまし過ぎた所為で、勢いあまってジョーカーを引いてしまった。そんな気分だ。
「べ、別にそんな事思ってません!」
「顔に書いてあるっ」
嗚呼何と、薔薇の館に居たのは志摩子さんではなく、いわば正反対のお人。島津由乃さまその人であった。
(……くはあ、なんてこった)
ノーリスクどころの話ではない。これではハイリスクノーリターンに他ならないではないか。
しかし、薔薇の館に残っていたのが目当ての人でなくとも、それじゃあはいさようなら、では流石に失礼が過ぎる。
しぶしぶ乃梨子は、自分の分とそして由乃の分の紅茶を淹れるべく、流しに向かうのだった。
乃梨子と由乃という、珍しい組み合わせのみの存在するここ、薔薇の館の会議室。お世辞にも親しい間柄ではないがしかし、それにしても二人とも沈黙が過ぎた。
言うまでもなく乃梨子は、今日という一日を忸怩たる思いで反芻していたからであり、そして由乃は──恐らくは、自身の妹に関することで、思いに耽っているのだろうか。
「……何か、悩んでる顔ね」
沈黙に耐えかねて、という風でも無さそうだが、由乃は乃梨子に話し掛ける。別に何でも、と答える乃梨子だったが、果たして乃梨子の表情は、何でもないというそれではない事ぐらい明白だった。
「せっかくの機会だし。話して御覧なさい。ま、無理強いはしないけど」
そう言うと、さも興味なさそうな素振りで由乃は紅茶に口をつける。乃梨子のことを慮ったからか、それとも本当に興味が無いのか。それは判らない。
「……友達関係で、少し」
別に突っぱねてもよかったのだが、折角だ。彼女にとっては世間話以上の価値はないのだろうが、乃梨子は正直に答えた。少なくとも嘘は言っていない。
「友達関係……ねぇ」
由乃はティーカップに口をつけたまま乃梨子をちらと一瞥、その後、虚空の一箇所をじっと睨むように見つめたまま黙り込む。
「あの、由乃さま?」
由乃は乃梨子を見ない。何処も見ない。自分の中の何かをじっと、目を凝らして見つめている。
ティーカップを静かに置き、そして由乃はちょいちょいと指で乃梨子を呼び寄せる。テーブルを回り込んで乃梨子は由乃の傍らに立つと、由乃は乃梨子の耳に口元を寄せ、何かを呟く。
「……由乃さま。貴女って人は」
「何か文句ある? 悩んでる友達を救いたいのなら、全力でぶつかってやりなさい。私にアドバイスできることは、それぐらいよ。貴女よりちょっとばかり長く生きてる私には、ね」
幸か不幸か、明日は土曜日。授業は半日で終わり、後はめでたく暇人である。だとしたら──どたばたと慌しい週末がやってくるのだろうか。
2/
表札に『細川』と明記されていることを確認して、二人──二条乃梨子と松平瞳子は顔を見合わせた。
「アポなしで来るなんて、どうかしてるよ。これで留守だったらどうするのよ」
「可南子さんを驚かせたいって言ってたのは乃梨子さん、貴女の方でしょう? ……まあ、幸いどなたかいらっしゃるようですし。おそらくは可南子さんご本人でしょう」
「何で、そう言い切れるの?」
「以前ちらっと本人に聞いたのですが、何でも可南子さんのお母様は、あまり家にはいらっしゃらないらしいので」
「ふうん」
母子家庭だと色々大変、と端的に言うのは容易いが、実際その苦労を知らない身である乃梨子にとっては、計り知れない事実である。
土曜日の放課後。良心的なことに、山百合会は土曜日には活動しないことに決まっており(余程切羽詰った状況なら別だろうが)、直ぐに帰宅した乃梨子は、部活動を終えて準備を整えた瞳子と、夕方頃に駅で待ち合わせた。
首尾よく合流しその後、細川邸へ。何故か瞳子は可南子さんの自宅の場所を知っていたので、ここまでの道のりは瞳子に任せきりだった。
何故知っているのか、という問いに対して瞳子は口篭もったが、敢えて深く追及もしなかった。
「知ってはいましたけど、実際に来るのは初めてですわ。誤解なきよう」
何の誤解かは知らないが、瞳子はそれ以上その件に関しては語ろうとしなかった。
「取り合えず、呼ぼうか」
瞳子が小さく頷くのを確認して、乃梨子はインターホンに手を伸ばす。ピンポンとチャイムが鳴り、一瞬の間。可南子さんが急ぎ玄関先に出てくるのを想定していた二人はしかし、その予想が裏切られる事になる。
「どちらさまですかー?」
インターホンのスピーカーから聞こえてきたのは、明らかに女性の声だったが、可南子さんのそれではないことは明白だった。当たり前だが、夕子さんの声でもなさそうだった。もっと大人の女性の声だ。
乃梨子と瞳子は顔を見合わせる。もしや、可南子さんのお母様だろうか?
「どちらさまー?」
二度目、若干苛立ちを含んだような声色のそれに、乃梨子は慌てて返す。
「あ、あの。私、二条乃梨子という者です。その、リリアン女学園の可南子さんのクラスメイトです」
しばしの空白の後、誰かがとんとんとんと玄関先に出てくる気配を感じる。可南子さんではなく、恐らくは母親であろうその人が現れるのを、二人は緊張とともに待つ。
そして、扉は開かれた。
「可南子なら今は居ないよ。上がって待つかい?」
出てきたのは、可南子さんほどに上背は無いがやはり、女性にしては長身の人。化粧っ気がなくて、長い薄茶色の髪の毛を、簡素に馬の尾結びに後ろに流している。
顔立ちはやはり、どこかしら可南子さんを思わせるつくりだが(可南子さんが似たのだろうが)、垢抜けない女学生ではなく明らかに女性のそれで、つまりは美人さんだった。
というか、若い。高校一年生の娘が居るとは、傍目に誰も思うまい。姉でも通りそうな──というか、実際可南子さんのお姉さんなのではなかろうか。
そんな乃梨子の考えを見透かしたのだろうか、目の前の女性は、「可南子の母親です。いつも娘がお世話になってるね」、と言った。
しかし、乃梨子と瞳子がそれ以上に注目せざるを得なかったのは、その服装だった。
「ああ、気にしないで。楽なんだよね、この格好」
和服──と呼ぶにはいささか露出が多いし、かっちりもしていない。志摩子さんのお母様も和服を着ていたがつまり、そういった上品さは皆無だった。いわゆる襦袢というものだろうか。
胸元も足元も、よく言えば開放的。そう、あくまで良く言えば。
「取り合えず上がりな。可南子ももうじき帰ってくるだろうからさ。それまであの子の話でも聞かせてくれ」
完全に飲まれてしまった二人は、進まれるままにすごすごと家の中へと。
「やっぱ気になるかい? この格好」
ばか正直にも二人は揃って頷いてしまう。
「安心しな。ちゃんと下着はつけてる」
どうやら可南子さんのお母様は、娘に輪を掛けて変わり者さんのようだった。
「散らかってるけど、ま、適当にくつろいでくれ」
リビングに通された二人は絶句した。
テーブル、ソファー、テレビ、その他調度品が飾られた何の変哲も無いリビングルームは、しかし今ある種の混沌渦巻く異界と化していた。
「な、な、なっ……」
隣の瞳子がまどろみの剣のような左右の縦ロールを揺らしてわなわなと震えている。元来いいとこのお嬢さんである瞳子にとっては、目の前の光景はいささか刺激が強すぎたのかもしれない。
「悪いね。ちょっと取り込んでてさ。修羅場ってやつ」
「いやあ、しかし、これは」
乃梨子も乃梨子で、上手く気の利いた言葉の一つも出てこない。
テーブルの上にはコンビニの弁当の空ケースが幾つか散乱し、その倍以上の数のビールの缶が所狭しと並べられている。灰皿が二つ置いてあるが、両方とも飽和寸前で、見てるだけで灰が舞いそうだ。
なるほど煙草の副流煙が原因か。リビング全体が、まるで朝もやが掛かったように白ばんでいるのは。そして、それらのゴミを押しのけるようにして、矢鱈と性能の良さそうなノートパソコンが、電源が入れられたまま置かれている。
フローリングの上に敷かれた絨毯は、今はなにやら紙切れが散乱している。その紙は、いずれも細かい文字で埋め尽くされているようで、どうやらテーブル脇に置いてあるプリンターで打ち出されたものらしい。もしかして可南子さんのお母様は、物書きさんか何かの職業だろうか。
乃梨子が意を決してそのカオスに足を踏み入れると、途端、呼吸が苦しくなる。立ち込めた副流煙と二酸化炭素の所為で酸素が薄いのだ。しかし、苦悶の表情など浮かべては可南子さんのお母様に失礼に当たる。何事も慣れだ。住めば都だ。
「げほっ」
しかし、咽た。ことさら意識の外に追い出していた煙はしかし、無慈悲に鼻腔と口腔に張り付き、ちくちくと粘膜を刺激された結果、乃梨子は酷く咽てしまった。
「だ、大丈夫? もしかして君ら、煙草とか吸わないんだ?」
当たり前です。
げほげほと咽る乃梨子をじっと見ていた瞳子は、未だリビングの入り口付近に立ち止まったままだったが、やがて意を決したように言った。
「……初対面でこんなこと言うのも、失礼だとは重々承知しているのですが」
「なにかな。言ってごらん」
「お願いです。先ずは私たちに、この部屋の掃除などさせて頂けないでしょうか?」
私もいつの間にか含まってる?
可南子さんのお母様は、たっぷり数秒間は瞳子をまじまじと見つめた後に、いきなり笑い出した。声高らかに。そして、やがてさも可笑しそうに言う。
「ははは……面白いなあ君ら。そうだな。流石にこんな有り様は折角の可南子の客人に失礼か。そうだね。先ずは掃除してこの部屋を清めようか。しかし、客人に掃除させるってのももっと失礼か……こりゃ面白い。うん、本当に面白い」
笑いながらお母様はリビングを出る。そして戻ってきたときには、その手に何かを持っていた。
「じゃ、先ずは穢れた空気を祓おうか。くっくっく、本当に面白くなってきた」
そう言ってお母様は、盛大にファブリーズを部屋中に拭きつけ始めた。
ゴミを可燃と不燃に分別し、缶は缶でこれまた分別する。可南子さんを訪ねてきたハズなのに何故掃除に精を出しているのか、という不条理にさえ目を瞑れば、徐々にきれいになっていくリビングの光景は、見てて非常に胸のすく思いだった。
「もしかして、お仕事中でしたか?」
てきぱきと片づけを進めながら瞳子は、お母様に聞く。今ではノートパソコンの電源は切られている。
「ああ、気にするな。どうせ昼も夜も、盆も正月もないような仕事だからな。君らが尋ねてきてくれて、丁度いい息抜きになったよ」
可南子さんのお母様は、とある雑誌社の専属ライターさんらしく、何の雑誌なのか聞いてみたが、「マイナーで低俗だから」、という理由から教えてもらえなかった。
慢性的に人手不足らしく、ライターと編集を兼ねていて、時期によりは営業にも赴く可南子さんのお母様は、ここのところ自宅に帰ってきてなかったらしい。
普段は殆ど会社に泊まりこんでいるような勢いらしいのだが、今日に限り、『なんとなく』、自宅で記事の執筆に赴いていたらしい。正確に言えば昨日の夜中からずっと、ノートパソコンと向き合っていたらしく、これらのゴミはその過程で生み出されたものらしい。
「このゴミは何処に置けば?」
「ああ、そこの窓から庭にでも出しておいてくれ。明日ゴミに出すから」
どうせならと掃除機も掛けていたお母様は、ゴミ袋を持った瞳子を見ずに指示を出す。瞳子はそれを受けて窓のほうを見やる。つられて私も。
そしてぎょっとした。
「か、可南子さん」
制服姿のままの細川可南子さんその人が、なぜか半べその表情で、窓越しにこちらを見つめている。
瞳子はゴミ袋を置くと、急ぎ鍵の掛かっていた窓を開ける。
「可南子さん! どうしてそんなところに」
「……貴方達が騒がしくしたから、バルログが逃げちゃったんだわ、きっと」
「ばるろぐ?」
「猫のことよ。折角懐いてたのに」
お母様が掃除の手を止めて、つかつかと窓のほうに歩み寄る。反射的に乃梨子と瞳子は、一歩を引く。
「お帰り可南子。今日は早かったじゃない」
「な、何知った風な事言ってるのよ!お母さんが帰ってきたのだって、そもそも一週間ぶりくらいじゃない!」
「ああ、そうかもね」
「ああそうかもね、じゃないでしょ!娘ほったらかして母親としての自覚はあるの!? ……って、そんなこと今更よね。お母さん、猫知らない?」
「猫は人につかないよ。家につくっていうからな。猫がお前の前から去ったのはきっと、それなりの理由があるのさ」
「また、知った風なことを……!何でお母さんは、母親らしく出来ないのよっ。少しは娘の気持ちも慮った事言ってくれてもいいんじゃない!?」
可南子さんのお母様は、それを受けて逡巡。やがて、
「猫にバルログって名前つけるお前のネーミングセンスは最高だ」
「〜〜〜〜っ!!もう知らない!お母さんなんか、一生一人で生きていけばいいんだわ!」
怒った可南子さんは、肩を怒らせて庭を出てそのまま何処かに行こうとする。おいおいおーい、ちょっと待ってくれ。可南子さんが居なくなったら、折角掃除に精を出した意味がまるでなくなってしまう。
呆、とした表情のまま煙草に火をつけたお母様に一礼して、乃梨子と瞳子は可南子さんの後を追った。
「……全く、この二人に部屋の掃除をさせるなんて」
「だって可南子、最近掃除してくれないし」
「お母さんの汚した部屋を片付けてると、変な虚無感に襲われるから。コンビニのお弁当のカラと缶ビールと、煙草ばっかり。もう、嫌になっちゃう」
「はっはっは」
「笑い事じゃないよう、もう」
檄昂した可南子さんをどうにかなだめて連れ戻して、そしてその頃には既に夕食時だった。「夕飯食べていけ」「どうせ作るのは私だしね」「家事一切興味なし」というお母様と可南子さんの間でまたしても一悶着あったが、そのほかは概ね平和だった。
すっかり元来の落ち着きを取り戻したリビングで夕食をご馳走になり、そして。
「どうだったかな。我が娘の手料理は」
食後の煙草を吹かしながら、可南子さんのお母様は言った。ちなみに可南子さんのお母様は、細川冴子さん、というらしい。可南子さんが流しで片付けをしていて、リビングには三人だけだった。
可南子さんの料理は、作りなれてる安心さがあった。手堅く、突飛ではない味。まるで自分の家で出されるような料理だなあ、と思った。
「ははは。そうだろう、あいつは料理とか、家事一切得意なんだ。それこそ十数年来家事に携わった主婦のようにな」
「家事一切娘に任せきりのお母さんのお陰でね」
「おっと、聞こえていたか」
お母様──冴子さんは肩をすくめて見せる。娘の期待通りのリアクションに満足を得ているようだ。
「でも、本当に美味しかったです。ご馳走様でした」
「いやいや礼には及ばん。掃除を手伝ってもらったささやかなお返しとして、受けとってくれ。ところで……」
冴子さんは声を潜める。
「リリアンでの可南子は、どんな感じなのかな」
どんな感じと言われても……乃梨子と瞳子は顔を見合わせる。
祐巳さまに夕子さんを重ね若干のストーキング行為を繰り返し、かと思えば、クラスの人間たちを率先して率いて体育祭に臨みそして、学園祭ではその心情を吐露した。そして今は──。
「この乃梨子さんも、リリアンに来た頃はそうだったんですが、目の前の現実に上手く馴染めない、という悩みを抱えていたようです」
っておい瞳子、何私を引き合いに出してるんだ。打ち合わせに無いじゃないか。
「ほう、君もか……」
冴子さんは乃梨子を、若干細められた目で見やる。
「私はまあ……どうでしょう。そんなことを考えた事も、ないわけではなかったのですけど」
「煮え切らない言い方ですわねえ」、絶妙に瞳子の茶々が入る。そこで私は、子供じみた意趣返しを思いつく。
「へえ。瞳子は私たちの事、しょっぱなから意識してたんだ。だから可南子さんと喧嘩してたんだね。私には色々世話焼いてくれたのにねえ」
「の、乃梨子さん!?」
瞳子は明らかに狼狽する。冴子さんは、「ほう」、と意味深げにつぶやいて、瞳子の方に擦り寄っていく。反射的に瞳子は、逆にずずずと引いていく。
「可南子の喧嘩友達か。そりゃあ君、いいよ。とっても、いいことだ」
「そ、そうでございますですか」、瞳子の表情は微妙に引きつっている。そんな瞳子の心情を知ってか知らずか、冴子さんは一人ごちたように続ける。
「可南子が最近、友達連れてきたことなんか無かったからな。いや、私自身家に余り居ないから、男を連れ込んでも判らんのだがね。そういう雰囲気はなかったからな。うん、そうだ、君ら今日は泊まっていけ。折角友達三人集まったんだ。積もる話もあるだろうて」
「友達……」
「なのかな?」
乃梨子と瞳子は顔を見合わせる。可南子さんに友達と思われているかどうか、甚だ疑問ではある。
「おーい可南子、ちょっと来い」
「……なによ」
洗い物で濡れた手を拭きつつ、エプロンを外す可南子さんは、さも嫌そうな顔しながらリビングにやってくる。
「こちらの瞳子さんがな、お前と乃梨子さんが似てると言っててな、それで」
「全部、聞こえてた」
「ああそうか。なら話は早い。お前にとって友達ってのは……おい可南子ちょっと待てまあ落ち着けよ、母さんの話を最後まで聞け」
長い髪を翻して、可南子さんはリビングを出ようとする。
「部屋、片付けてくる」
「?」
可南子さんは、背を向けたままに言う。
「泊まっていくんでしょう、貴女たち。床で寝るあなたたちのために、少し部屋を片付けないと」
そのまま振り向きもせずにリビングを出る可南子さんの表情は、最後まで覗えなかった。
「気難しい子だけどな、仲良くしてやってくれ。可南子はな、身内──心を許してる相手には、必要以上にそっけなくするんだ。だから、あの子が笑ってようと怒ってようと、がんがんぶつかってやれ。君らなら大丈夫。単に可南子は人見知りで頑固で思い込みが激しくて──」
「お母さん、聞こえてるわよ!」
耳のいい可南子さんの怒鳴り声に、冴子さんはまたしても、肩をすくめて見せるのだった。
「へえ……ステキなお部屋じゃない」
「らしくないほどに普遍的なお部屋ですわね」
通された可南子さんの部屋は、十代の女の子の部屋にしてはシックで、落ち着きのある部屋だった。祐巳さまの写真が部屋中に飾られている光景を期待(?)してた乃梨子にとっては、素直に意外だった。しかし今となっては、冗談ですらそんな事を言うのは憚られる。
「はい、これ。お古なんか着せる事になって申し訳ないけど」
そう言いながら可南子さんが投げてよこしたのは、紺色の学校指定の体操服だった。泊まりの準備など一つもしてこなかった乃梨子と瞳子のために用意してもらった、寝間着の代わりである。
下着の類いは……冴子さんが用意してくれた。「最近のコンビにはほんと、品揃えがいいよな」、と、恐らくはビールやらツマミやらが詰まった、重そうなビニール袋をぶらさげながら冴子さんは言っていた。
「まあ、偶には母親らしいことをさせてくれ」、という冴子さんの、的を射ているのか外してるのか良く判らない言葉に、乃梨子と瞳子は素直に甘える事にした。
可南子さんは、ビニール袋の中身を毛虫を見るような瞳で見つめていたが、特に何も言わなかった。
「ねえ、可南子さんのお母さんって……」
面白い人だね、と続けようとして、乃梨子は声を失った。可南子さんは、窓越しにどうやら庭をじっと見下ろしているらしい。
「もしかして猫を探してるの? 居なくなったって言っても、結局野良なんでしょ。そのうちまた、忘れた頃に戻ってくるよ」
「それならいいんだけど……」
「また、猫の話」
唐突に、瞳子が吐き捨てるように呟く。露骨に嫌悪感を露にしたその面持ちに、一瞬乃梨子も可南子さんも目を奪われてしまう。
「ステキな方ですわよね、可南子さんのお母様。いつまでもお若そうで」
って、ちょっと待て瞳子。いきなり会話を冴子さんのことに戻すなよ。
「そう? ま、確かに若いわね。母親としては失格だけど」
っておいおいおーい可南子さん。猫の話題はスルーですか?
二人の間の会話はそれっきり他所々々しくて、オマケに棘々しくて。まあそれがこの二人の当たり前と受け止めれば、不自然さはない。
学園での可南子さんは、どこか達観の境地にその身を置いていて、乃梨子も、そして瞳子もやきもきして、こうしてわざわざ細川邸まで押しかけてしまったわけだが。
どうやら可南子さんは、家ではお母様に手を焼いているらしく非常にその態度は、「細川可南子」、らしくて、瞳子と二人、ほっと胸を撫で下ろしたりもした。
瞳子とのやり取りも相変わらず犬猿じみていて、瞳子とはまた別の感覚で胸を撫で下ろしたりもしたがしかし、人は欲深い生き物なのだ。
犬猿の仲である、松平瞳子と細川可南子。そんな二人を、もっと仲良くさせてやりたいなあって、そう思わない?
「ねえ、猫って一体、何のことなのさ」
再び乃梨子は、猫の話題を蒸し返す。瞳子はまた嫌悪感を剥き出しにするし、可南子さんも、そんな瞳子の様子に眉をひそめる。
二人は、明らかに嫌がっていたが、これは一つのチャンスなのではないかと乃梨子は直感する。乃梨子とて件のバルログなる猫に興味はないのだが、何かしら二人の仲を進展させる要素を孕んでいると、不思議なくらいに予感させる。
先に口を開いたのは、可南子さんだった。
「一体、って言われてもね。瞳子さん、私が猫の話を振ったら、まるっきり無視するんだもの。嫌になっちゃう」
なるほど。例え興味のない話題だろうと、ある程度は相手に合わせてやるのが礼儀ではある。だとしたら瞳子側に、余程のっぴきらない事情があるというのだろうか。
自然、二人の視線は瞳子に注がれる。その視線を受けてしばらく瞳子はじっと押し黙ったままであったが、やがて焦れたような視線に根負けしたか、ゆっくりと瞳子は口を開く。
「……結局人の感情というのは、おしなべて相対的なものなのです。例え猫がどれほど可愛かろうが、猫そのものに対する印象によって、その感情は大きく異なるんです」
お、お、おお?
何を偉そうな能書きをたれているんだお前は。
「私と可南子さんでは、猫に対する印象がそれこそ、鶴と亀の如き差異があったのですわ。つまり前提の差。可南子さんが猫に執着するのも、私が猫という畜生に素っ気無いのも、むしろ在るべき必然だと思いますわ」
鶴と亀という比喩は、近いんだか遠いんだかよく判らなくて、印象をはっきりとさせる筈の比喩なのに、むしろ印象が曖昧になってしまった。精進しろ瞳子。
「……つまり、私が猫に対して興味ゼロなのは、そういう理由があるのです。判っていただけましたか?」
「サッパリわからねえよ!」
「ぜんっぜん、これっぽっちも理由になってないわ!」
「ひっ!?」
二人同時の突っ込みに、一人自分の弁明に酔っていた瞳子は、明らかに狼狽した。
「だからその、『前提の差』、とやらを詳しく説明しろっ! そんな一般論はどうでもいい。瞳子自身のことを教えてよ!」
「まったく……瞳子さんには失望したわ。そんな風に上っ面ばかり取り繕う人だったなんて」
すると瞳子は、顔を真っ赤にして反論する。
「こ、こんなのジョークに決まってますわ! どうしてそう真剣に突っ込まれるのですか二人とも!?」
「いや、何となく突っ込みに飢えてた」
「私もそんな感じ」
というか私ら三人だと、ボケる人が居ない気がする。だから、偶に訪れる突っ込みの機会はまさしく、値千金のチャンスである。
(二年生のお三方だと、逆に突っ込む人が居ない気もするけどね……)
由乃さまあたり、突っ込みの名手というイメージもあるのだが、あまりそういったシーンにはお目にかかったことがない。
(ううむ、何でだろう)
志摩子さんと祐巳さまの、上滑りしまくる終わらないボケの応酬。そこに延々突っ込みを入れつづける由乃さま。
(由乃さま、疲れそうだなあ……)
それを薄々予想してるからこそ、由乃さまは突っ込み役に敢えて徹してないのかもしれない。まあ、どうでもいいことだけどね……。
「……猫アレルギー?」
しぶしぶといった風に瞳子は頷く。
結局瞳子はあの後直ぐに口を割ったが、そこから飛び出した、曰く、『前提の差異』、とは、予想外のものであった。
「本当にあるんだ、そういうの。噂に聞いた事はあるけれど」
物珍しげに可南子さんは、じろじろと瞳子を無遠慮に見回す。そんな可南子さんの態度に、瞳子は明らかに不満そうだった。
「……二人とも舐めてますわね、猫アレルギーを」
「い、いや全然」
「舐めてない舐めてない」
「私はもう一度猫に出会ったら、その時が死ぬときなんですわ。ご存知ですか? スズメバチは、二度目に刺されたときの方が危険だ、ということを」
「アナフィラキシーショック? アレルギーでもそういうのあるのかしら? 確かに同じ免疫機能の問題だけど」
しかし瞳子は首を横に振る。
「猫のアレルギーでの前例はない、とお医者様は仰ってましたけど。だからって進んで前例になるような真似はしたくないんです。それに、それでなくとも辛いんです。猫に近づくと目の上が酷く腫れて、涙は止まらないし頭は痛くなるし熱は出るし。それで子供の頃、一週間寝込みましたわ」
それ以来、猫には一度たりとも近づいていない、と瞳子は続けた。
「……ふうん。大変なんだね、瞳子」
「同情するなら、猫アレルギーの特効薬でも発明してください」
相当根が深いらしい。
「大丈夫よ。バルログはもう居ないから。何処かに、行っちゃった」
庭を見やり、可南子さんは寂しげに呟く。まずい、しんみりモードの発現を許してしまった。
乃梨子は、こっそりと瞳子を肘で軽く突付く。
(ほら、今がチャンスだぞ)
(何のチャンスですの)
(バルログが居なくなっちゃって、可南子さんはブルー入ってる。ここで一発慰めてやれ。ぴんぴろぴろりーんで好感度アップだ)
(一体何のネタですか……)
(そんなことはどうでもいい。ほら、こういうときに言うセリフがあるだろ? 「私じゃバルログの代わりになりませんか?」 って)
(そんな奇麗事……何でそんなクサイセリフを吐かなければ)
(いーからっ。ここで瞳子の人情を見せてやれって。その縦ロールは飾りか?)
(か、髪型は関係ありませんっ)
ひそひそと打ち合わせをする二人を、可南子さんが生暖かい視線で見つめているのは百も承知だったが、気付かれているとかいないとか、好きとか嫌いとか最初に言い出したのが誰かなんて興味ないし、そういうのはこの際どうでもいい。
(ほら、早くっ!)
(お、押さないで下さいっ……!?)
ぐずる瞳子を、可南子さんの方へ押しやる。ああ見えて瞳子は押しに弱い子だから、ここまで焚き付ければ何かしら言ってくれるだろう。
「か、可南子さん。私、わ、わたしはですね……」
「なにかしら?」
何だかんだで可南子さんは付き合ってくれる。「可南子さん」「瞳子」、的な見詰め合う二人そして──という展開を期待しないわけでもないが、瞳子は大真面目で、それを可南子さんが善意で茶化す、というのがベターかな。
果たして瞳子は、意を決したように叫ぶ。
「わ、ワタクシの操るバルログに勝てると思って!?」
いや、それ全然意味違うし。
浮き立つような楽しさだけがここにはあった。乃梨子と瞳子は体操服で、本来制服姿で会う機会の圧倒的に多い自分たちが、しかし体操服に身を包み夜更かしをしている。何処かで見たような光景だなあと可南子さんと頭を悩ませた結果、それが修学旅行の夜であることに気付く。公立中学出身の二人ならではの発想だった。瞳子はそれに対して疎外感に頬を膨らませ、腹いせに、「可南子さんも体操服を着なさい」、と強要し、より一層修学旅行の夜っぽくなった。
女三人で格闘ゲームに興じたり(瞳子のバルログは本当に極悪だった)、らしくもなくお喋りに花を咲かせた。過去の事、今の事、そして未来──将来のこと。不思議と山百合会のことは話題には上らずに、それはきっと誰もが意識した結果だったのだろうと思うのだが、それはそれで十全。
結局、喋り疲れて床に入ったのは既に夜中もいい所で、頭も身体も程ほどに疲労していた所為か、眠気は直ぐにやって来た。
これでお終い。
心地よい睡魔に身を任せ、翌日目が醒めて、名残惜しげに三人は別れる。乃梨子と瞳子は細川家を暇し、あとは個々に気だるい日曜日を過ごすのだろうか。また明けた月曜日から始まる、ルーチンワーク的な日常を憂いて、そして今日この日のような非日常に思いを馳せて。
そう、それでお終いの筈だったのに。結局それは、儚き望みでしかなかったことを知る。
有り得ない筈の可能性が形となった、不確定で、曖昧で、不安な夢。見てしまった夢が、見せられてしまった光景が、何かを予感させる。
騒がしくて、賑やかで、ただただ楽しかったこの夜が明ければ、そこにぽっかり口を開けて私たちを待ち受けているのは、混迷の極み。
そんな予感が、ひとしずく零れ落ちる。
3/
猫が死んだ。
彼女が可愛がっていた猫が、朝目を覚ますと冷たくなっていた。
自身の死姿を晒さぬよう、猫は自らの死期を悟ると、ぱったりと姿を消してしまうものらしい。
きっと、誇り高い生き物なのだろう。我々ヒトの子よりも、ずっと。
庭に物言わぬ姿で横たわっていたバルログは、果たして何を思い逝ったのだろうか。
猫は人には懐かないと言うけれど、だとしたら今際の際にバルログは、彼女に何かを伝えたかったのではないか、と。
そして今、庭にこしらえた猫の墓標の前に佇む彼女──可南子さんは、果たして何を思い馳せているのだろうか。
猫の亡骸を見つけ、それを静かに胸に抱きそして、一人淡々と埋葬をしていた可南子さんに、乃梨子も瞳子も、掛ける言葉は見つからなかった。彼女が一人執り行っていた埋葬の作業にも、手を貸す事は何処か躊躇われた。
泣き崩れはしなかった。取り乱しもしなかった。ただ、そこに横たわる現実を受け入れようとした。彼女の後姿は、そんな意思を纏わっていた。
私たちは、ただ彼女を見ていることしか出来なかった。
週明けて、月曜日──。
「……可南子さん、どうしちゃったんだろ。瞳子、何か話聞いてない?」
「全然ですわ。昨日の猫の時から、特に何も」
「そっか……」
乃梨子は、教室の自分の席に座りながら、腕組みをして一人ごちる。傍らに立ちそんな乃梨子を見下ろす瞳子は、不安げな面持ちを湛えていた。
猫の死で締めくくられてしまった、乃梨子と瞳子の細川家訪問。あれ以来可南子さんは、何を話していても上の空で、一種独特の達観の境地。学園で見せたような様子を、ずっと纏いつづけていた。
結局冴子さんの取り計らいにより、二人は細川家を暇して、「ま、後は私に任せておけ。これでもあの子の母親だ」、という冴子さんの言葉を信じて、帰路に付いた。
人は月曜日に生まれ変わるのだという。一週間という一つの道程を終えて、休日に一息をつく。疲労も悲しみも、一度リセットをかけられ、まっさらな初期状態へといざなわれる補正力が働く。だがしかし、彼女は──。
「遅刻……じゃないですわね。きっと欠席。風邪、でしょうか……」
瞳子は、主の不在の可南子さんの席を見やり、力なく呟く。風邪なら風邪で構わないのだが、あんなことがあった翌日だ。感受性の強い可南子さんのことだから、尚の事、乃梨子も瞳子も、不安を押し隠すことは出来なかった。
昼休みに、生徒玄関に備え付けてある電話から、可南子さんの家に電話をした。誰も出ない事を予想していたのだが、反して電話口に出たのは、可南子さんのお母様その人であった。
「ああ……君か。すまないな、心配を掛けてしまって」
冴子さんの声色は、若干疲れたようなそれだった。
「いえ、そんなことは。それで、可南子さんは」
「ちょっと、面倒なことになってしまってね。私の力が及ばなかっただけなのだが……」
冴子さんの話を要約すると、つまりこういうことだった。
日曜日、乃梨子たちが細川家を後にしてからの可南子さんは、拍子抜けするほどに、『いつもの可南子さん』、のようであったらしい。冴子さんも、肩透かしというか釈然としない思いを抱えながらも、それほど過分には気を遣わなかった。
結局例の仕事の原稿を落としてしまった冴子さんは、日曜日は丸一日家に居たらしいのだが、可南子さんの様子に、何処にもおかしい部分は見受けられなかったという話だ。だが、しかし。
「朝起きると、既に可南子の姿は無かった。私も7時には起きていたんだが、あの子の制服も鞄も無かったから、てっきり一人で登校したんだろうと思い込んでいたんだがね……」
10時頃に、冴子さんの会社に電話があり、それは可南子さんのお父様、つまりは冴子さんの元旦那さんからのものだった。
どうやら朝から可南子さんは、お父様のアパートに身を寄せていたらしく、そこでお父様は可南子さんの、”とある決意”を聞かされて、急ぎ冴子さんに連絡を取ったとのことだった。
「……すまないが乃梨子さん。もしかして、そこに瞳子さんも居るのかな? 二人とも、差し支えなければ今日、授業が終わった後に、ウチに顔を出してもらえないだろうか? 今可南子は部屋に居るんだがね、私の話なんて聞こうとしない。身内の恥を晒すようで恐縮なのだが、恥を忍んで頼みたい」
私が傍で耳を傾けていた瞳子に確認を取ろうとすると、瞳子は受話器をひったくって言う。
「了解しました。乃梨子さんと二人で、今日の夕方にそちらに伺います。それまで可南子さんを、よろしくお願いします」
「……ありがとう。本当に感謝する。可南子はいい友達を持ったな。それなのにあの子ときたら、一体何を考えているんだか……」
可南子さんの決意。
それは、今学期いっぱいで、リリアン女学園を退学する、という事らしい──。
月曜日の放課後といえば、山百合会は通常業務に勤しむのが常であるが、今日ばかりはそんなことを気にしていられる余裕は無かった(先週の金曜日も同じ事を考えた記憶が在るが)。
志摩子さんに掻い摘んで事情を説明し、そちらの方は話をつけてもらうことになった。「頑張って、乃梨子」、という志摩子さんの応援が、これほど嬉しく、そして心強いことはかつてなかった。ああ、姉妹って矢張り良いものだと、今更ながらに実感する。
後続の憂いを絶って、瞳子と二人、一昨日に引き続き再度細川邸を目指す。
しかし、一昨日のように浮き立つような気持ちは湧いてこなかった。足取りは決して軽いものではなく、比例して交わされる言葉も少なくなる。
「リリアンを辞めるって……可南子さん、本気なのかな」
「判りませんわ。その辺りは、本人に聞いてみない事には」
「瞳子には、何か心当たりはある? 可南子さんのその、決意に関して」
「……」
瞳子はそのまま、黙して何も答えなかった。
「……よく来てくれたね。ありがとう」
玄関先に出てきた冴子さんの服装は、今日はいつぞやとは異なり、シックなスーツ姿だった。会社から帰宅して、そのままの姿なのだろうか。
「正直、君らに頼るしか道はないって思ったよ。母親失格とは可南子にさんざ言われたがね。今更それを痛感してしまう」
それを受けて瞳子が、静かに首を横に振る。
「そんなこと、ありませんわ。お二人のご関係は、仲の良い友達みたいにフランクで、素敵だと思いました。可南子さんだって、憎まれ口を叩くのは、信頼の裏返しみたいなものですし」
「よく理解してくれてるんだね、可南子のことを」
友達ですから。
乃梨子も瞳子も、きっと考えた事は同じだった。
可南子さんの部屋の中からは、人の動く気配がなにも伝わってこなかった。眠っているのか、思い耽っているのか、それとも。
何度かドア越しに冴子さんが呼びかけたが、対してレスポンスは皆無だった。
「すいません、その、冴子さん」
「……ああ。私は下で待っているよ。久しぶりに料理でもしながらね。今日は私に任せておけと可南子に伝えてくれ」
それじゃあ頼むよ、と冴子さんは、階下へと降りていった。
後に残されたのは私たち二人と、扉の向こうの可南子さん。相変わらず部屋の中はしんと静まり返っており、それが不安を一層助長する。
「……可南子さん?」
意を決して、乃梨子はノックと共にそう呼びかける。よもや私たちが来ているとは想像もしなかったか、部屋内の空気が僅かに乱れる気配が伝わってくる。
だが、それっきりだった。可南子さんを此方に呼び戻すまでには至らない。
「可南子さん、少しだけお話ししませんか? 乃梨子さんも折角山百合会をさぼって来てくださいましたことですし」
「いや、こういうのはさぼりじゃないって……」
しかし、返る言葉はない。どうやら痺れを切らしたらしい瞳子は、「不本意ではありますが、最後の手段を」、と呟きそして、やや大きな声で部屋の中の可南子さんに呼びかける。
「可南子さんは、私に負けたことが、そんなに悔しいのですか?」
「ッ……! 瞳子、それって」
それはきっと、あの人──福沢祐巳さまと微妙な三角関係を築いていた瞳子と、そして可南子さんの間でのみ効力を発揮する、強い強制力のある言葉だ。ともすれば全てを破壊してしまいかねない諸刃の一言。
果たして可南子さんが何を感じたかまでは想像だに出来ないが、しかし、強固に閉ざされた扉をこじ開ける事には成功したらしい。乱暴に開かれたドアの向こうに、一日ぶりにその姿を見せてくれた可南子さんが居た。
「……いらっしゃい、二人とも。お母さんが無茶言ったみたいで、すまなかったわ」
「いいえ。全然構いません。可南子さんに会いに来たのは、私たちの意思ですわ」
二人が睨み合っていたのは、ほんの一瞬のことだった。罵詈雑言のぶつけ合いに発展するかと乃梨子は肝を冷やしたが、どうやらそれは杞憂に終わったらしい。
意外なほどに底知れない。二人の友を眺めつつも、乃梨子はそんなことをぼんやりと思った。
世間話に興じる余裕なんて、あいにく今は持ち合わせていなかった。当人にとっては不愉快だろうが、単刀直入に本題を切り出すことにする。
「可南子さんのお母様から聞いた事なんだけど……その、リリアンを辞めるって、本当?」
迷いか、悩みか。何かしらの悲しみか。或いははぐらかすような反応を予想していたのだが──可南子さんはそれこそ、昨日の夕食の献立でも挙げるかのように自然に答えた。
「ええ、そうよ」
さも当たり前のことのように、答えた。
そりゃあ確かに可南子さんにとっては、リリアンの高等部で過ごした半年間は、あまり実りのあるものではなかったかもしれない。私にとってさえリリアンという異世界は、はじめの頃はそれこそ居場所を間違えた、進むべき道を誤ったと強烈に痛感させられたが、あの桜の木の下であの人と出会い、そして瞳子のお節介などによりどうにか自分を繋ぎ止める事が出来た。ああ、こういう道も、こういう世界もそれほど悪くないなあ。そう思わされるのに、さして時間はかからなかった。
対して可南子さんはどうだったのだ。自分自身の面倒事を抱えたままにリリアンへとやって来て。その原因は、動悸は、その面倒事に密接に関わるものだったのだろう。私にとってリリアンの平和な子羊たちは異世界の住人だったが、可南子さんにとっては異次元に住まうそれだった。強烈な違和感、疎外感。彼女が感じたものは想像に難しくない。
しかし、しかしそれが一体何だというのだ。こうして今の私と、恐らくは瞳子も、可南子さんのことを得がたい友人だと思っている。山百合会の仲間としての関係は、もしかしたら途切れてしまったのかもしれないが。
だが、それが一体どうした。一体何の問題がある。
一体、何の問題があるってんだよ可南子さんッ──!!
「じゃあ可南子さんは、私たちのことを裏切るんだね」
「……」
私はきっと、怒っていた。怒っているからこそこんなにもおかしな事ばかり考える。おかしなことを考えている人間は、おかしな事を言うものだ。だから私は間違ってない。瞳子が諌めるように私の名を呼ぶのが聞こえたが、今はそんなもの単なるノイズにも等しい。
「私はね、最初に貴女と出会った時、また偉い変わり者とめぐり合ったなあって思ったよ。なんだコイツ頭おかしいんじゃないかって正直思ったよ。でもそんなのどうでもいいことなんだよ。山百合会の人たちだって、どっかおかしい人ばっかりだからね。私だって、こんなおかしいこと言う私だっておかしいし、私にばっかしつこく纏わり付いて来た瞳子だっておかしいし。でも!」
私は一度息を付く。ああ息するのさえもどかしい。
瞳子が私を羽交い絞めにして黙らせようとしているようだが、そんなものは今はガラクタだ。
「そんなおかしい連中と山百合会背負っていく夢を、アンタは私に見させたんだよ! 最初はなんじゃこりゃって思ったよ! でも、それが大事なんだよ! 馬鹿やれる仲間と死ぬ気で走っていくのが最高で最強なんだよ! だから今更逃げ出すなんて卑怯なんだよ! ズルいんだよ! 敵前逃亡なんだよ! 敵って誰だよ!? 敵は明日の私たちなんだよ! 明日の私たちをぶっ倒すために走るんだよぉぉッ……!!」
私は知らぬ間に可南子さんに掴みかかっていたようだ。頭一つ分上にある可南子さんの顔は、苦しさに多少歪んでいるようだったが、それが私の苦しみだ。そしてアンタの苦しみだ。
「……乃梨子さん、少し黙ってくださいまし」
背中から誰かの呼ぶ声が聞こえてくる。ああそういえば瞳子に羽交い絞めにされていたんだああ苦しいだからとっとと離せ。
「瞳子! お前は平気なのかよ!? 可南子さんといがみ合って喧嘩して、そんな最高な関係を簡単に手放しちまって満足なのかよ!?」
「お願いだから、少しだけ、黙って」
「だから」
「黙れぇぇッ!!!」
……瞳子の絶叫に、びくんと身体が震えた。不意に現実に引き戻される。気が付けば今度は瞳子に掴みかかっていて、しかし瞳子の叫びに気圧された私は、その手をぱっと離す。
「……少しは落ち着きましたか、バカ乃梨子」
「バカって……」
しかも呼び捨てだった。
「そんな子供じみたことばかり言わないで下さい。貴女は可南子さんのことを何一つ判ってない」
カチン。
「……ああ子供だよ。私は全然子供だよ! バカだよ! でも、それでも私はねえッ!」
瞳子が、私の事を射るように睨む。そして。
「私わたしって、だから貴女はバカなんですよ! 自分のことばっかり考えて、自分の夢ばかり押し付けて! 可南子さんのことを何も理解してらっしゃらない! カケラも理解してらっしゃらない!! 乃梨子さんのことなんて、今はどうだっていいんですよぶっちゃけた話ッ!!」
「何だと!? もう一回言ってみろ!!」
私は再び瞳子に掴みかかった。しかし瞳子は、臆したような素振りなど少しも見せずに叫ぶ。
「何度だって言って差し上げますわ。貴女のミジンコ程度の脳味噌でも理解出来ますようにね。乃梨子さんのことなんて、今はどうだっていいんです! いいですかもう一度言いますよ頭に擦り込んでおきなさい。『二条乃梨子のことなんて、今はどうでもいい。』 そんなのは缶ジュースのプルタブくらいにどうでもいいんです! 今、重要なのは、可南子さんと祐巳さまのことでしょう!?」
「ッ……! それは」
それは、私が故意に目を背けていたことだった。
逆に今度は、瞳子に掴みかかられる。
「ほら御覧なさい。貴女は何も理解してない。私は絶対にこんなことは言いたくなかった。言わずに済ませられたらどんなに良かった事か。でも貴女の度し難いバカさ加減がこうさせたのですよ覚悟しなさい」
瞳子は明らかに怒っている。私は対して何も答えられない。
すうっと息を吸い込んで、そして瞳子は叫ぶ。
「……火星だの地球だの、そんな比喩に意味なんてないんですよ。そんなもので人が納得できると本当に思っている人間はどうかしてますわ。可南子さんは祐巳さまと、友達という関係に甘んじる事にした。憧れていた祐巳さまは火星に行ってしまったと。でも、でもね、だからどうしたって言うんです! 祐巳さまは今でも現実に可南子さんの傍に居るんですよ!? それなのにどうして納得出来るんです!? 身を引く事が出来るんです!! あ、乃梨子さん。今貴女、それをお前が言うなって考えましたね。え、考えてないですって? それは嘘です目がそう言っています確実です。だから言いたくなかったんです。でもね、言わせたのは貴女なんです!!」
瞳子の手が、容赦なく私の制服のカラーを締め付けてくる。ぎりぎり、ギリギリ、と。
それは紛れも無く、瞳子の怒りそのものだった。
「可南子さんだって誰だって、そんな比喩には納得していない。でも可南子さんは、私たちを慮って納得してくれたんです! 命を賭して納得してくれたんです! 乃梨子さん貴女、自分が可南子さんの立場だったら納得してますか!? 出来ないでしょう。え、出来るって? だとしたら貴女の感性には重大な欠損が見受けられますとっとと病院逝きなさいこのバカ。だから貴女は可南子さんがリリアンを去ろうとした理由に気が付かないんです!! 目を背けていたんです!!」
「瞳子……もう、やめろって……ッ」
締め付けられて声が上手く出てこない。瞳子は止まらない。
「けれどやっぱり、可南子さんは納得出来なかった! 自分に嘘を吐けなかった! そんなの当たり前です当たり前です! だから可南子さんは去ろうとした! リリアンを!! 人は火星になんて行けない! 憧れていた人と近くなれなくて! その人の傍にいることが苦痛で! 堪らなくて! 手が届かなくなってしまった人の傍にいることが凄くしんどくて! だからリリアンを去ろうとした! 祐巳さまから離れようとして!! 諦めようとして!! 終わらせようとして!!! それは私の所為なんですよッ!! 私が祐巳さまに近付き過ぎた所為とハッキリ言いなさい乃梨子さんッ……!!」
この小さな体躯の一体何処にそんな力が隠されていたのかと思わされる程に、強烈に肩を掴まれ、締め付けられる。両腕がまるでうっ血してしまったかのように痺れて、殆ど感覚がない。
「落ち着けって瞳子! そんなこと言われたって可南子さん戸惑うだけだぞっ」
そして、自分でそう言っておいて、今更ながらに気付いた。乃梨子も瞳子も、熱くなり過ぎてきっと、失念してしまっていた。
この部屋は、その当人たる可南子さんの部屋だということに。
純然たる部外者の乃梨子と瞳子が熱くなっている直ぐ傍に、当の可南子さんが居るということに……。
「……っく」
殆ど同時、弾かれたように傍らに振り向いた乃梨子と瞳子。
その先にはベッドが置いてありその上で──可南子さんが膝を抱え顔をそこに埋めたままに、声を殺して、泣いていた。
「「可南子さんっ!?」」
綺麗に声が重なり、急ぎ可南子さんの方に駆け寄る。その長い黒髪に覆い隠されて、彼女の表情は全く覗えない。
きっと私たちは、やりすぎてしまった。熱くなってしまった原因は可南子さんだったけど、それでも私たちは、他人にあからさまに暴かれたくないことを、本人の前で洗いざらい暴いてしまった。可南子さんの気持ちを、不当に辱めてしまった──。
最早乃梨子と瞳子には、平謝りするより他なかった。感受性の強い可南子さんを、無闇に追い詰めてしまった事を、ひたすらに詫びるしか出来なかった。
「ちがう……違うの。これは、ちがうのよ……」
しかし、涙の嗚咽の隙間から零れだした切れ切れの言葉は、それを否定するものだった。
ゆっくりと、ゆっくりと。可南子さんはその本心を打ち明けてくれた。
「……馬鹿だったな、私。あなた達にここまで言われて、やっと気付いたの。どれだけ私は……馬鹿なことを考えていたんだろう、って……」
そこで可南子さんは俯いたままだった顔を上げる。泣き笑いのような表情が、そこにはあった。
「乃梨子さん」
「は、はい」
「貴女の見た夢、私も見たわ。今も夢見てる。ずっとずっと、夢見てたこと。私と瞳子さんと、そして貴女が薔薇さまになってて、一緒に山百合会の仕事してて。乃梨子さんはリーダーで、私と瞳子さんを、ぐいぐいと引っ張って行ってくれて、馬鹿みたいに賑やかで、楽しくて、みんなで考えて、悩んで。たまに頭空っぽにして騒いで……そんな、在り得ない世界の夢を」
在り得ない世界。もしかしたら、在り得たかも知れない世界。その可能性が遮断されてしまったこの現実。
「瞳子さん」
「……はい」
可南子さんは、今度は瞳子の方を見やる。その表情は──形容し難い。私ごときには、推し量る事は、出来ない。
「私は貴女に負けたの。それが真実なの。何だかんだ言っても、私は祐巳さまの妹になりたかった。受け入れてもらいたかった。あの方に。でもそれは叶わなくて、私は逃げたの。火星なんて比喩は、単なる自分に対しての言い訳で……。ほんとの私は、何処にも行けなくて。祐巳さまっていう大切な人はやっぱり、私のすぐ傍に居て、忘れる事なんて出来なくて……」
瞳子も可南子さんも、寂しげで、切なげで、きっと苦しくて。それは恐らくは、この二人にしか通じ合う事の出来ない感情。しかし、違えてしまう現実。
そのまま……誰もが無言だった。変哲のない六畳間が酷く広く感じられて、空虚で、誰もが間違っていないのに、誰もが辛くて。
在り得ない現実にいくら思いを馳せようと、それはどうしようもなく空想の範疇を超えなくて。瞳子と可南子さんの確執は例え千年経ってもきっと消えなくて。
やがて可南子さんは、ことさら平静を装ってこんなことを言った。
「……私ね、一つの賭けをしてたんだ」
「賭け……?」
「そう。くだらない一人遊び。一昨日、猫が居なくなっちゃったじゃない。だからね、翌日までに帰ってきたら、勝ち。いつまでも帰ってこなかったら、負け。何が勝ちなのか負けなのか、私にも判らないんだけどね。ははは……。だからね、賭けに勝ったら、もうちょっとリリアンで頑張ってみようかなあ、って。あと少しだけ、少しだけ頑張って、今からでも祐巳さまの妹狙おうかな、って思って」
そして、賭けに負けたら、リリアンを去る──。
そんな、ことが。
「……主体性のないことだとは重々承知の上で、ね。結局決断を下すのが怖くて、なら運命に任せてみようかな、って。でも結局バルログはあんなことになっちゃって……ああ、ここで終わりなんだな。私はここで終わりなんだな、って思っちゃって。でも、」
そこで可南子さんは言葉を区切り、私たち二人をじっと、均等に見つめ、
「でも、でもあなた達が今日、わざわざ来てくれて、馬鹿な私の目を覚まさしてくれた。バルログはきっと、こう言いたかったのかもしれない。『とりあえず、友達に相談してみたらどうかな?』 って。だからさ……」
すっくと立ち上がった可南子さんは、とても、晴れやかな表情を浮かべていた。
「だから、取り合えず夕飯にしようよ」
「……はあ?」
「だって、お母さんが料理するなんて、滅多にないのよ? というか、私が物心ついた頃には既に、あんな感じだったわ……あの母親失格め。だからまあ、取り合えずご飯食べながら……ね。ほら、お母さんもあなた達のこと気に入ってるし、折角のお母さんの手料理だもの。お母さんと二人きりじゃあ、つまんないわよ」
妙な矛盾のあることを言う可南子さんは、とても楽しそうで、けれどやっぱり、一寸儚くて。
冴子さんの料理は妙に大味で、何だか非常に男性的な料理だったが、可南子さんはとても嬉しそうだった。知らず口も軽くなり、少なくとも冴子さんと私たちでは倍以上の歳の差があるはずなのだが、それを全く感じさせないほどに、くだけた会話に終始したように思う。
楽しかった。
賑やかではなくて、ただ、穏やかだった。
束の間の平和、そんな言葉を喚起する。
しかし。
しかし。
しかし──。
現実はやっぱり、いつだって残酷で。私たちがどれだけ足掻こうと、それは結局、1プラス1イコール2を崩しに掛かるような無謀な行為でしかなくて。
それから少し経った或る日の放課後に、瞳子が祐巳さまに呼び出され何処かに消えた、という話を聞き、或る予感を抱かずにはいられなかった。
無論可南子さんもその噂は聞き及んでおり、「しょうがないことなのよ、きっと……」、そう呟く可南子さんの表情を、乃梨子は直視に耐えられなくて。
何かが音を立ててがらがらと崩れた。何かが終わりを迎えた。可南子さんに掛ける言葉も見つけられないまま、乃梨子は一人、瞳子と祐巳さまに関する噂で持ちきりの教室に、ぼんやりと立ち尽くしたままだった。
4/
薄暗い部屋に一人きり。一週間ほど前にこの部屋を満たしていた混沌とした喧騒は、嘘のように消え果てて、今ではうらぶれた無人駅のように静まり返っている。
しょうがないこと。きっとそう、しょうがないこと。
私は夕子先輩と違えていた仲を修復することが出来て、祐巳さまは瞳子さんを妹として迎え入れる。
私は祐巳さまと晴れて友人となり、そして祐巳さまは瞳子さんを妹として迎え入れる。
憧れていたあの人は火星に行ってしまった、として納得するのは不可能じゃないと思っていた。一番近しい存在になれなくとも、時折会話を交わせるだけでも私にとってはなにより嬉しい事。例え姉妹になれなくとも、私は大丈夫。そう思い込んでいた。事実それは間違いじゃなかった。
でも、実際はそれだけじゃなかった。私が見るべきは、決して祐巳さまだけじゃなかったのだ。
夢にまで見せられたあの世界で、私は山百合会の一人として、乃梨子さんや瞳子さんと同じ目線で語らいながら生きていた。やっぱり薔薇の館はおかしなところで、私たちの後に館に出入りするようになった人間も、例に漏れず変わり者ばかりで。今も昔も、そしてきっとこれからもトラブル続きで。難題に頭を悩ましつつもしかし、仲間を見やれば同じように悩んでいて、それは一種の共感だった。仲間意識だった。友達だった。
私は、そんな世界を渇望していた。
しかし、心の何処かで望んでいたその世界への道は閉ざされてしまい、そして、それに気付いてしまえば空虚さだけが私の中には横たわっていた。
気付かせてくれた二人は、山百合会という手の届かなくなった世界の住人となってしまった。遥か遠く、目を凝らしても見えないほどの場所に立つ二人と私の距離は、どこまでも遠い。
それでもいつか、もしかしたら高等部という長いようで短い三年間では足りないかもしれないけど、気付かせてくれたあの二人に、馬鹿なことを考えていた私の目を醒ましてくれたあの二人に、追いつけたなら。
いつか、肩を並べて一緒に歩けたなら。
「……でもやっぱり、ちょっとツライなあ……」
もうリリアンを去ろうとは思わないけど、きっと乃梨子さんは、私よりも瞳子さんのことが好きで、きっと瞳子さんも乃梨子さんのことが好きで。私だけちょっとお邪魔虫かもしれないし……。
祐巳さまとも、上手くやっていける自信は全然ないし……。
妹を作れる自信なんて全くないし……。
やっぱり自分だけ山百合会の人間じゃないって、カッコつかないし……。
「全然だめだめだなあ、私。自信ないな……」
くよくよ思いなやんだって何も解決しないのに、それでもやっぱり。
その時、全く唐突に部屋のドアが開いた。
「かーなーこーさーん」
幽鬼のように自分を呼ぶ声に慌て振り向くと、そこにはよく見知った、個性的な髪型を持つ友人が居た。
「とっ、瞳子さん!? 一体いつ来たのよ!?」
同じく幽鬼の如く足取りで近づいてくる瞳子さんは、私の問いには答えずに、さながら千鳥足のようによたよたと迫ってくる。
……千鳥足???
「瞳子さん、貴女まさか」
「先ほどまで、貴女のお母様に、ちょっとばかり付き合って差し上げてましてえへへえ」
そう言いつつ、瞳子さんは床に座り込んでいた私に、どさりと身体を預けてくる。
(……酒くさい……)
薄暗い部屋の中でも見て取れるほどに瞳子さんの顔は赤く、言葉は不明瞭で、足取りはおぼつかなくて、なによりハッキリ酒くさい。高校生のくせして、夕飯前から酒を煽るなんて。
「だってえ……冴子さん仰るんですもの。『まるで失恋でもしたような顔しているな。こういうときは飲むしかないぞ』、って。ふん、ちょっとばかり人生経験が豊富だからって。何を偉そうにい」
どうやら瞳子さん、あの母親失格と相当に意気投合したらしい。瞳子さんは制服姿のままでウチに来てそして、制服のままで酒を煽っていたらしい。
「……なにやってるのよ、アンタは」
「『なにやってるのよ、アンタは』、ですってえ? ふん、聞いビックリ見てドッキリなご報告に参りましただけでございますわぁ……ああしんど。ちょっと背中借りますわよ」
瞳子さんは、座り込んでる私の背に背中を預けるようにして寄り掛かり、「ふぅー」、と、長い息を吐き出した。
……酒くさい。
「なんで、こんな格好」
「んふふ……背中合わせですわ、背中合わせ。私と貴女の背中合わせの未来、ってやつぅ?」
酔っ払い相手に話が通じないのは理解している(あの母親失格相手に何度も痛感した)。したいなら、満足するまでさせてやるに限る。もうどうにでもなれ、だ。
「可南子さん。貴女、祐巳さまの妹になりたいんですわよねえ」
「……ええ、そうだけど。それが何?」
「あ・あ・い・に・く・さま。今日私、松平瞳子は、祐巳さまから晴れて正式にプロポーズされちゃいました〜」
「……そう、それはよかったわね」
そんなことは百も承知だ。今日瞳子さんが祐巳さまに呼び出され、そしてそれは姉妹の契りに関するものだという事は、既に相当に噂が広まっている。
「素敵でしたわよ〜祐巳さま。普段へらへらしてるクセに、すっごく真面目な顔してて。「瞳子、私の妹になりなさい」、って。無理して私の事呼び捨てにしてる辺りが、と〜っても可愛かったですわあ」
「……ふーん」
酔っ払いの繰り言だ。本気で腹を立てても虚しいだけだ。そう自分に言い聞かせてもやはり、抑えがたい怒りが込みあがってくるのを実感する。コイツはそんなことを自慢するような奴だったか。
「差し出されたロザリオ……あれは祥子さまが祐巳さまに渡したものですわ。やっぱロザリオは、代々受け継ぐに限りますわねえ。うっふっふ」
「……貴女、私に喧嘩売りに来たの?」
「だ・か・ら、ご報告と、見せたいものがあると言ったじゃないですかあ。あんまり焦らないでくださいまし、もう〜」
ぼこぼこにしたい。
「……では、まずはこれを見ていただきましょうかしら。祐巳さまから正式に頂いた、このロザリオを!」
私は振り返る。振り返って、瞳子さんがその首にかけているであろうロザリオを引きちぎって、一発頬を張って部屋からたたき出そうとした。
「……?」
しかし、振り返った先に自身万々の面持ちを浮かべていた瞳子さんの胸元には、貴金属らしきものは見えなかった。手に何かが握られている、という感じでもない。
「な〜にじろじろ見回してるんでございますか〜? 何かお探しで・す・か?」
「いやだから、ロザリオを……」
「ふん。そんなものありませんわ。何本気で怒ってるんですか。酔っ払いの繰り言くらい大目にみてやりなさいな」
背中合わせ、背中合わせ、と呟きながら、瞳子さんはまたしても元の体勢に戻るように強要する。何かの拘りだろうか。
そして、やがて瞳子さんは、ぽつりと呟く。
「……断ってきましたわ」
「は、はあ!?」
「だから、祐巳さまに妹になれと言われて、それを断ったと言ってるんです」
「なんでよ!? 祐巳さまの妹になりたいんじゃなかったの!?」
「妹になりたいとか、なりたくないとか……。姉妹になるのに理由が必要ですか? だったら、姉妹となるのを断るのにも、理由は必要ないと思いません? それなのに、祐巳さまも私が断ったら、理由理由って、ああ馬鹿らしい。だから私は言ってやったんです。貴女の妹になるべき理由が見つかりません、って。断ったのは私の中で答えが出てないからです、って」
「……答えって、一体何の答えよ」
「祐巳さまの妹になるべき理由、その答えですわ」
……呆れた。それじゃあまるで、堂々巡りの禅問答だ。
「……バカね、貴女。折角のチャンスを」
「バカは可南子さんですわ」
こん
後ろ頭、正確には首筋に近い辺りに何かが軽く当たった。恐らくは背中合わせ状態の瞳子さんの頭だろう。
「貴女にもチャンスなんてたくさんあったんですよ。体育祭の時の賭けでロザリオください、って言うのも良し。そもそも狙い済ましたように祐巳さまが妹問題を意識し始めたときに近づいてきて、何を今さら、って感じですわ」
「あの人に近づいたのは、そんなんじゃないわよ、バカ」
こん
今度は私が瞳子さんの後ろ頭、正確には頭頂部あたりに自分の頭を軽く当てる。
「あの時は、祐巳さまを守りたいと純粋に思ったのよ。そうしたら、ヤケに祐巳さまにたてつく生意気な子がいて、なんだコイツ祐巳さまが好きなら好きって、素直に言えばいいじゃないって思ったわ」
「私も貴女も乃梨子さんも、みんなバカですわねえ。ま、それがいいんですけれど」
ごちん
「痛ッ……!」
やたらと強く頭をぶつけられた。
「……もう少しだけ、貴女と、乃梨子さんと、一緒にバカやってみたくなったんです、正直な話。祐巳さまの妹になりたい、って不覚にも思ったのも正直な話。でも、それがどうしたんです。可南子さんだって祐巳さまの妹になりたかったんでしょう 面倒なごたごたが片付いて、これからって感じでしょ? これから、真・細川可南子が始まるんですわ。ようやくスタートラインです。スタートラインに立ったばかりなのにもう結果が見えている、そんな出来レースには興味ゼロですわ。一緒にスタートしましょう。走りましょう。舵取りは……乃梨子さんにでも押し付けて、ね」
知らず、涙が溢れてきた。何だか最近、泣いてばかりだ。
「……やっぱり貴女、バカよ」
「お生憎様。バカやれる友達っていいもんだって、昔誰かが言ってましたわよ?」
背中合わせの二人。
背中合わせの未来。
交じる事の出来ない未来。
それでも、その未来を目指して、一緒に走る事くらいは出来る。
そう、きっと。
エピローグ
人は月曜日に生まれ変わり、苦しみも悲しみも……って、そんなことは、新車のシートを覆っているビニール程度にどうでもいいことか。
再び週明けて今日は月曜日。あれほど学園全体を騒がせた、『福沢祐巳、松平瞳子を呼び出す事件』は、結局瞳子がゴメンナサイしたお陰でうやむやとなり、全校生徒の意思は、「ああ、やはり歴史は繰り返す」、というところに落ち着いたようだった。
聞けば、一度祐巳さまも、祥子さまに差し出されたロザリオを御免なさいしたことがあるらしく、それを聞いた乃梨子は、「やるなあ瞳子。綺麗に落ちがついたじゃん」、と、一人ほくそ笑んだものだった。
何があったのかは知るべくも無いしあえて聞いてはいないのだが、何だか週明けてからの瞳子と可南子さんは、相変わらず時折険悪になりつつも、その根底では確固とした信頼の絆が、二人を強く結び付けているように思える。
二人の共通の友人である乃梨子としては、それは一寸だけ悔しいのだが、まあ、これはこれで?
終りよければ全て良し。なべて世は事もなし。
そんな達観の境地に一人、乃梨子は居た。
「何ニヤニヤしてるのよ乃梨子さん。薄気味悪いわね」
「一人高いところから見下ろしているようなその態度……いやらしい」
「……」
相変わらず二人の毒舌も冴え渡り、けれどその後に二人、顔を見合わせて笑う辺りはやはり、二人とも変わったなあ、と素直に思わされる。
平和だ。
これ以上ないくらいの無上の平和を、心の底から実感する。
しかし、そんな心地よい朝の平和を切り裂く、空気の読めていない人がいた。
「瞳子ちゃん!」
並んで歩いていた乃梨子たち三人の後ろから、瞳子を呼ぶ切羽詰ったような声が飛び込んでくる。すわ何事かと振り向くとそこには、早朝の荘厳で清浄な空気には相応しくないほどに、取り乱した表情を浮かべた福沢祐巳さまが居た。
「げ……祐巳さま……」
瞳子は悪巧みを母親に見つかったような顔をして、対して可南子さんは──祐巳さまの姿を認めそして、嬉しいような悲しいような──そんな、微妙な顔をする。
可南子さんは一体、何に思い馳せるのだろうか……。
「どうして私のロザリオ受け取ってくれなかったの!? 答えが出てないから受け取れないなんて、奇麗事もいいとこだよっ」
「出てないものは出てないんですっ。もう、しつこいんですよ貴女はっ! 少しはこう、落ち着いて自分の事でも考えたらどうですかっ」
「そんなっ! 落ち着いてなんていられないよっ。だからっ、答えは姉妹になってから、ゆっくりと二人で探そうよって言ったのにっ」
「そ、それこそ奇麗事もいいところですわっ。祐巳さま、貴女は何も判ってらっしゃらない!」
「判ってないよっ。じゃあ瞳子ちゃんは、判ってるのっ!?」
「判ってません! 判ってないから、答えは出てないんですよっ!!」
「そんなぁ……無茶苦茶だよ、そんなのっ!!」
逃げる瞳子。追う祐巳さま。往来でギャグコントを始める二人に、いつの間にやら集まってきた一般ピープルたちが、生暖かくも微笑ましいような視線を、二人に注いでいる。
瞳子につられるようにして走ろうとした乃梨子だったが、しかし可南子さんだけはそこに棒立ちのままだった。焦って前後不覚に陥っていた祐巳さまは、立ち尽くしていた可南子さんにまともに正面衝突してしまう。
「ふぎゃ!?」
「だ、大丈夫ですか、祐巳さま……」
体格の差で吹き飛びそうになった祐巳さまは、しかし可南子さんに抱きとめられて九死に一生を得る。
「あ……」
「え……?」
抱きしめた可南子さん。抱きしめられた祐巳さま。二人、そのまま幾星霜──。
「えーとね、可南子ちゃん。なんだか、こう、久しぶりだよね」
「……はい」
「何だかちょっと、可愛くなったよ、可南子ちゃん。可愛くなったというか……うん、格好よくなった」
「そうですか? 有り難うございます。祐巳さまは、いつもお可愛いらしくてもう」
「可南子ちゃん……」
「……祐巳さま」
おや何だろうこの雰囲気は。祐巳さまは一体何を狙ってらっしゃる?
「あはは……ねえ可南子ちゃん、私、失恋しちゃったみたい。ロザリオ、蹴られちゃったよ」
「おいたわしい……心中、お察しいたします」
「でね、でね、そのね……失恋中の女の子に優しくすると、その、何かいい事があるかもだよ!」
「は、はぁ」
「それでね、その……可南子ちゃん、姉の入り用はありませんかっ!?」
「……は」
硬直する可南子さん。対して乃梨子と瞳子は、同時にずっこけていた。
アンタ誰でもよかったのかよ!?
やがて硬直から解かれた可南子さんは、ゆっくりと優しく言う。
「……祐巳さま」
「は、はい」
「いくら貴女さまといえど、それは、調子が良すぎるというものです」
満面の微笑み、清々しいまでの微笑みを浮かべ、そう言った。
──そして、走る。
身を翻して可南子さんは走り出す。乃梨子はそんな可南子さんに手を引かれて、みるみるうちに祐巳さまとは距離が離れていく。それを見て、再び瞳子も走り出す。「待ってよ〜置いてかないで〜」、という悲鳴のような声が後ろから聞こえた気がしたが、可南子さんは振り向く素振りすら見せずに、走る。
その姿は、純粋に格好良かった。
走る。走る。走る。
既に祐巳さまは追いかける事を諦めたようだが、それでも私たちは駆ける事を止めなかった。早朝の空気は冷たくて新鮮で澄んでいて。風のようにその世界を駆け抜けていくことは、なによりも気持ちよかった。
「……所でさあ、瞳子」
「なんですか?」
「答え答えって、さっき言ってたじゃん。あれってさ、本当に瞳子の中で答えが出てないってことなの?」
「ふふふ……もう、乃梨子さんまでそんなことを仰って。だから、姉妹になるのに理由はいらないって、この間言ったじゃないですか。だから、答えなんてそもそもないんですわ」
「うわ、それ、イジワルだ」
「違うわよ。答えは、きっとある」
可南子さんは、走りながら自信満々に言う。流石に、少しも彼女は息を切らしていない。
「へー、そりゃ凄い。答え、あるんだ」
「何処にあるんですの?」
可南子さんは、無言に指を指し示す。私たちが駆けている道の遥か先。目を凝らしても見えないその彼方の世界を指し示す。
──答えは明日にある。
「あははっ! そうだね! 答えは明日にあるんだよねっ!」
「それじゃあ、まだ見ぬ明日に向かって、答えを求めて三人で走りましょう!」
「おーっ!」
例え未来が背中合わせだろうと、その未来を目指して共に走る事は出来る。
夢は夢のままで、きっとどれだけ走っても、いつか夢に見た世界には辿り着く事は出来ないけれど。
それでも。それでも、私たちは。
──明日に向かって走るんだ……!!
〜to be continude forever……happy
ending for "Kanako"〜
▲マリア様がみてる
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